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こんにちは、カズです。今日は、〈言葉の意味にとらわれすぎない〉〈言葉は二元性のツール〉、〈二元世界のツールである〉というね、このタイトルでやっていきたいと思います。
言葉ってものですね。これについて深く掘り下げるような配信にしていきたいと思ってます。
よろしくお願いします。というのはですね、この音声を録ろうと思った理由なんですけど、やっぱりね、スピリチュアルを探求するときに、言葉の意味にとらわれてこんがらがってしまっている人が結構いるんじゃないのかなと思うからなんですよ。
僕もなかなかこの問題はあったし、だから掘り下げてきたっていうのもあるんですけど、
なので、言葉っていうものについて掘り下げてちょっと考えていこうかなと思います。
そもそも、スピリチュアルを探求するにあたってっていう話ですけど、言葉では心理、スピリチュアルを絶対にね、描写できないっていうのがまず知っておいてほしいことかなと思ってます。
過去の音声配信で何度も言ってるように、究極的な真実は非・二元・ワンネスなんですよ。
なんですけど、そういった非・二元とかワンネスとか、そういった絶対心理みたいなものを言葉というツールでもって完璧に表現することっていうのは絶対にこれは無理なんですよね。無理ゲーなんですよね。
なんでかって言うと、原理的に無理だからっていう話なんですよね。
どういうことかっていうと、そういうものっていうのは言葉のエリアのものじゃないからなんですよ。
ちょっと説明をしていきたいんですけど、まず言葉っていうのはイコール思考と言ってもいいと思います。言葉イコール思考ですね。
なぜなら、思考の材料が言葉だからなんですよ。言語。
そうじゃないですかね。あなたの頭の中の声、つまり思考は全部言葉だと思うんですよ。
思考の材料は言葉。そういう意味で思考イコール言葉。言葉イコール思考って言ってもいいと思います。
非二元とかノンデュアリティのスピーカーたち、エッグハルトトールとか有名なところだと、
あとラマナ・マハルシ、ニサルガタッタ・マハラジ、ラメシ・バルセカール、トニーパーソンズなどなど、などなどって失礼ですね。
いろいろな方いますけど、彼らが伝えたいことっていうのは、言語で指し示したその先にあるものなんですよ。
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言葉で表現できる、言葉によって特定できるあれとかこれとか、このテーブルとか、あの鉛筆とか、そういったものじゃないですよね。
彼らの本当に伝えたい非二元とかワンネスとかそういう真実っていうのは、言葉のエリアの中にあるものを指し示そうとしてるわけじゃないんですよ。
言葉の限界を超えたその先にある領域のそういうものを指し示そうと、それを伝えようとしてるんですよ。
でもそのためのツール手段が言葉しかないんで、だから言葉で特定できない、これだよって特定することのできないものを言葉によって何とか伝えようとしてるんですよね。
ノンデュアリティとか非二元のスピーカーたちがやってることってそういうことになってるんですよ。
だからこれとかあれとか直接的に言葉で特定はできないんですよ。
ただこういったものとかこういうようなものとか、言葉のニュアンスによって指し示すことしかできない、示唆することしかできないっていう感じですね。
だからその非二元ワンネス、そういう真理っていうのは言葉の領域から、言葉の守備範囲から外れた場所に存在してるんだっていう、そういうことです。
これをまず知っておいてほしいことですね。
こういうわけなんで、仏教の伝統にも禅宗がありますよね。
禅っていうのはだから言葉とか、言葉を頼りにしないんですよ。
禅と言えば座禅がありますけど、座禅っていうのは言葉を使わずにごちゃごちゃ理論とかを理屈とかをこねないで、とにかくただとりあえず座れっていう、これ只管打坐って言うんですけど、ということをやったりとか、
あと公安ですね。公安っていうのは禅問答の語源というか、そういうやつなんですけど、一番有名な禅の公安が隻手の声とかっていうものが言われたりするんですけど、これはどういうものかっていうと、
両手で拍手したらパチパチパチって音が鳴ると思うんですけど、じゃあ片手で拍手したらどんな音が鳴りますかっていう、そういう謎々みたいなもんなんですよね。これが公安です。禅の公安。
こういう公安を通して悟りに至ろうとするんですけど、隻手の声ですね。片手で拍手したらそれどんな音が出るのかって聞かれてるんですよ。
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意味わかんないじゃないですか。だから公安っていうのは論理的には絶対に解決不可能なんですよ。そもそも絶対に答えの出せない問題が公安なんですよね。論理では。
思考イコール言語って言ったんですけど、言語イコール論理なのでと言ってもいいと思うので、つまり思考、言語、論理が絶対にできないことをその無理ゲーを思考にとっては無理ゲーなるものをそれでも思考によって一生懸命やり続けてると最終的には絶対に無理なので、最終的には思考が根を挙げて、
剥がれ落ちて悟りに至るっていう、そういうことを狙っているのが公安なんですね。全問答って言葉はその意味のない不毛なやりとりっていうか、なんかね、やりとりしてもしょうもないやりとりのことを全問答だねって言うと思うんですけど、それはだからこういうところから来てるってことですね。
論理的には絶対無理なんですよね。だけどそれをあえて、無理ゲーをあえてやり続けることが公安の意義なんですけど、仏教の禅ではそういうことをやって悟りに至るのを狙っていると言っていいと思います。つまりだから、禅では言葉に頼らない、思考に頼らないっていうことですね。
こういうことであるから、有名なエックハルトトールさんや、あと最近人気のネドジュンさんたちも、みんな言ってるように、やっぱり無思考なんですよね。思考をやめてくださいっていうことを結構ね、大勢の人が言うと思うんですよね。思考をやめることが無思考状態、それが悟りへの道なんですよっていうことですね。
で、タイトルの言葉は二元性世界のツールであるっていうね、これをもうちょっと深掘りしていきたいかなと思うんですけど、つまり言葉の本質ですね、これは何なのかっていう話をしていきたいと思います。
言葉の本質っていうものを考えるときに紹介したい人が、言語学者のソシュールって人がいます。
近代言語学の祖と呼ばれてる人なんですけど、このソシュールさんが言った言葉が、言葉とは差異のシステムであるって言ってるんですよね。
言葉とは差異のシステムである。差異っていうのは違いのことですよね、区別のこと。
だから、格差の差と異なるっていう、そういう感じの差異ですね。言葉とは差異のシステムである。
これをどういうことかっていうのをちょっと言っていきたいんですけど、例えば外の砂利道に普通に転がってる石、石ですよね、だから普通の、いくらでもあるじゃないですか。
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全部同じ、僕らは同じ石ってそれを呼ぶんだけど、一個一個手に取って、手に取っても一個一個どれも全部同じ石じゃないですか、同じ石と呼ぶんですけど、
でも一個一個実際手に取ってよく見てみると、一つ一つ形も違うし、大きさも違うし、多分重さも違うし、触った感じも違うだろうし、
ということで、全部一個一個ユニークなんですよね。同じものは実は何一つないってことが発見できると思うんですよ。
なんだけど、僕らそれ一個一個本当は違うもの、違う存在、全然違うものなのにそれを同じように石っていう呼び名、その名前で一括りにして呼んじゃってるじゃないですか。
本当は違うものなのに、なんで名前分けないんだっていうことなんですけど、これは名前を呼び分けるのはそこに区別をつける必要性があるかどうかっていう、そういうことなんですよ。
これがソシュールの言った、言葉とは差異のシステムであるっていう言葉の意味なんですよね。
そこに名前をつけて呼び分ける、区別をつける必要性があるかどうか、それによって名前があるかどうかって変わってくるんですよね。
例えば、日本では姉と妹、兄と弟って区別しますけど、英語圏だとシスターとブラザーじゃないですか。
上と下だから区別しないんですよね。
名前を呼び分けていない。で、区別しないのは区別する必要がそこにないからなんですよ。区別しないのは区別する必要性がそこにないから。少なくともアメリカ人は
お兄さんと弟を明確な名前で呼び分ける必要性が生じなかったんですよね。
だから同じブラザーっていう言葉で片付けてるっていうことなんですけど、だけどそれに対して日本では儒教の流れのね、そういう文化があるから年長者を
敬わなければいけないっていうね、そういう文化的背景がおそらくあって、だから兄と弟の区別をきっちりつけるということの重要性が英語圏よりも高い。
だから名前を呼び分けている、それぞれ違う兄っていう
単語、名前と弟っていう名前と別に存在するっていう、そういうことなんですよね。これが名前を呼び分けるには、名前を呼び分けるのはそこに区別をつける必要性があるかどうか
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っていうことなんですよ。他のブラザーシスターの例を出しましたけど、他の例では
日本ではチョウチョとガと明確に区別していると思うんですけど、これをフランスでは両方ともパピヨンっていう
一括りにしちゃって区別をつけないんですよね、チョウとガの。 だからこれはフランス人から見たらチョウもガも、別に呼び分けるほど
の必要はないよねっていう、そういう感覚だからパピヨンの一言で片付けられていると、そう言っていいと思います。
こういう例って実は探せばいくらでも出てきて、 フランスでは犬と狸の区別をしないらしいんですよ。どっちも同じ名前で呼んでるらしくて、
あと英語圏の人は白ウサギと茶色ウサギを明確に別の名前をつけて区別しているらしいです。 これ逆パターンですね。だから日本では別に白いウサギと茶色いウサギ
ダネっていうどっちもウサギじゃないですか。 なんですけど英語圏の人はそれを
なんか区別してるらしいんですよ。名前をそれぞれ呼び分けてね。 っていうパターンもありますね。
あと 虹の色、日本では7色虹の色といえば7色じゃないですか。
なんですけどこの虹の色っていうのも世界では7色じゃなくて様々なんですよね。 虹の色が7色っていうのは世界共通じゃないんですよ。
アメリカイギリスでは6色、ドイツフランス中国メキシコでは5色、 ロシアインドネシアでは4色らしいです。
虹の色が何色ありますかっていう問いをした時にそれぞれの国の人が何て答えるか っていうとこんだけばらつきがあるんですね。
日本人は7色って言うんだけどロシア人は4色って言うらしいですね。 だからそれは4色に見えてるんですよね。
あともっと極端なところへ行くと3色とか2色っていうところもなんかねあるらしいです。 ちょっと調べたらね。
これは何でそういうことが起こるのかっていうと色というものを表現する言葉の数の違いとか そういったことで虹の色が7色だったり4色3色だったりに変わったりするってことです。
実際にその虹自体が虹という現象自体が変わるわけじゃないんですけど、 その見てるこちら側がどんな区別をつける必要性を持っているかによって変わってくるってことですね。
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あとこの流れでね、これも雑学ネタでたまに言うかもしれないんですけど、エスキモは雪を100種類の名前に呼び分けているっていうね、こういう雑学ネタみたいなのがあって、これもこの流れで紹介しようかなと思ったんですけど、ちょっと調べてみたらね、これはどうやらデマっぽいですね。
これはどうでもいい話なんですけど、とにかく言いたいことは、こちらの主体となる人間がいて、その人間が区別する必要性をそういう価値観を持っているから、物体、ものに名前を貼り付けてそれを区別しているっていう、そういうことなんですよ。これが本質なんですよ。
あとこの話に関連して、場所を指し示したいとき、これも結構、なんだろうな、話しておきたいんですけど、地球上にはすごく広い土地がありますよね、大陸でかいし、そんなでかい大陸の中でここだよっていう、このポイントだよっていうところを示したいとき、
場所を指し示したいとき、こういうときどうするかっていうと、僕たちは住所っていうそういうものを使ってますよね。住所っていうシステムを使ってますよね。
何県何市何町の何番地みたいな、こういう住所っていうものがあるから、これがあるおかげで届けたいポイントに荷物をして配送できたりできてるわけなんですよ。
この住所がなかったら、お荷物をあそこら辺の半島にいるあの人に届けてほしいって郵便の人に言っても、絶対届けられないじゃないですか。
だけど住所っていうシステムがあることで、平たくてだだっぴろい地平のこのポイントっていうのは特定できて、そこにお荷物を届けるっていうことが実現できてるんですよね。
これって何やってるかっていうと、要するにさっき言ったことなんですよね。地形っていうものを恣意的に、恣意的っていうのは都合よくっていう意味ですけど、大地を恣意的にこちらの都合のいいように切り分けているってことですね。
これが名前をつけるっていうことの意味、本質だったりします。
名前をつければ他と区別ができるんですよね。
あ、それねーとか、あれねーって特定できるんですよ、名前をつければ。
でも名前をつけてない状態だとわかんないんですよね。
たくさん砂利道に転がってる石の中の、あなたが決めたその1個を他人に伝えるときって、名前が石っていうのはついてないから、実はすごく難しいんですよね。
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だけどその名前をつければ区別ができる。
だからたくさんそういう集合の中から切り分けるっていう感覚ですね。
このためのツールが言葉なんだっていう。
これが言語というものの本質なんだっていうことです。
切り分ける、区別するっていうことですね。
これがソシュールの言った言語とは差異のシステムであるっていうことの意味でした。
この話聞いたとき、僕は結構な衝撃を受けて、すごい話だなって思ってテンション上がったんですけど、どうでしょうかね。
今回はちょっと二部構成にしたいと思っているので、ここで一旦音声を切らせていただきます。
次は後編の方に譲っていきたいかなと思います。
ではまずここまでお聞きくださりどうもありがとうございました。