1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #689 一人称代名詞的な「人」..
2024-09-24 09:59

#689 一人称代名詞的な「人」の用法 from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/267213

鈴木孝夫 (1996)『教養としての言語学』東京: 岩波書店.
鈴木孝夫 (1973)『ことばと文化』東京: 岩波書店.

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育

サマリー

このエピソードでは、日本語の一人称代名詞としての「人」の使い方について考察されています。鈴木孝夫先生の理論に基づき、「人」が実質的に自分自身を指すことや、心理的状況によって表現が変わることについて語られています。

一人称代名詞としての「人」
人の気も知らないで、といったような表現があります。 あるいは
人が話しているのになんだその態度は、とか言ったりすることもあります。 実際に言うかどうかは別にして、そういった表現があります。
ここで共通して出てきている人というのは、実質的には私を指しています。
俺の気も知らないで、とかね。 俺が話しているのに、とか。
そういうふうに言い換えることができます。 ということは、この人というのは
実質的には一人称代名詞として機能しているということもできるのではないかと。
そういったお話をしていきます。 BGM、かかれい。
始まりました志賀十五のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。 鋼の錬金術師です。
冒頭お話ししたように、人というのが一人称代名詞、つまり私として機能するのは
他にも例があって、人のことばかにしやがってと言ったら、俺のことばかにしやがってだし、
あるいは勝手に人のものを使うなと言った場合は、俺のものを使うなと。 そういうふうになっているわけです。
いつでもこの人というのが私と同じ意味で使えるわけではありません。
今回ちょっと参考にしているのは、鈴木孝夫先生の「教養としての言語学」という本です。
これ、いわなみ新書から出ております。鈴木孝夫先生は、同じいわなみ新書から「言葉と文化」というものが出てたりして、
この番組でも取り上げたことあるんですけど、非常に読みやすい本となっております。
この人というのが私と同じ意味で使えるのは、端的に言うと、鈴木孝夫先生がまとめているのは、
話者が相手に対して自分の権利や尊厳が侵害されたことに対する不満、焦燥、怒り、拒否といった
心理的対立の状態にある場合に限られる。 そうです。要は不機嫌な時に使うということですね。
人の気も知らないでとか言うのも、不機嫌な時にしか多分出てこないと思います。
人のもの勝手に食うなとかもそうですよね。 逆に、常期限というか、ポジティブな心理状態の時は使えないんじゃないでしょうか。
よくも人のことを騙してくれたなっていう、こういう言い方はできますが、 だからポジティブなので、
人のことを褒めてくれてありがとうとかは言えないんですよね。 まあそもそもこの人というのが本当に一人称代名詞として使われているかどうかっていうのは
結構難しいっちゃ難しいと思うんですよね。 人の気も知らないでっていうのは
人っていうのが私を指しているとも言えますけど、 それ全体で一種の慣用句になっているとも言えるし、
人のもの勝手に食うなといった場合も、 この人っていうのが
一般論っていうかね、 誰というわけではなく一般論としてこの人というのが使われているという見方もできると思うんですよね。
人が話している時にとか言った場合も一緒ですけど、 その状況では私が話している時にということで一人称代名詞としても分析できますが、
まあこれもやっぱり一般論といえば一般論な感じもするんですよね。 一旦ここではね、人というのが一人称代名詞、
つまり私と同じように使われているというふうに考えようと思います。
鈴木孝夫先生もそういうふうに考えていて、 自分の権利や尊厳が侵害されたことに対する不満、焦燥、怒り拒否とかこういった感情がある場合に使われると結論付けていらっしゃいます。
まあそもそも人っていうのはさっきも言ったように 一般論というかね
誰というわけではない 人間を指すのが
ある意味普通なので そういう誰というわけではない人間を指す人というのが
私というのを表すっていうのは なんか真逆を言っているような感じがしますよね
誰というわけではないの真逆の他ならぬ私自身を人というのが指しているわけですよね。
これは何でかというと 自分自身を人と
指し示すことで あなたと私は無関係ですよっていうことを
表しているというのが鈴木先生の説明です。 そもそも日本語において私を指す言葉っていうのは
日本語における呼称の柔軟性
結構相手に依存しているようなところがあります。 相手が子供だったら
お父さんはねとかお母さんはねっていうふうに自分のことをお父さんお母さんって 呼ぶんですよね
あるいは相手が弟や妹だったらお兄ちゃんはねとかお姉ちゃんはねっていうことができます そういうふうに下のものに合わせて
自分の呼び方を変えることができて 逆に言うと上のものに合わせては
自分の呼び方変えないので 弟ちゃんはねとか妹ちゃんはねみたいな言い方は日本語ではできません
いずれにせよ日本語において相手に合わせて自分の呼び方を変える もっと言うと相手と自分を含めたその共通の枠組み
家族だったら家族 親子関係なら親子関係兄弟関係なら兄妹関係
そういう枠組みに基づいて 呼び方っていうのを変えてるんですよね
それに対して自分のことを人と呼ぶということはそういう共通の枠組みから飛び出す ということを意味します
あなたとは何の関係もない赤の他人ですよっていうことを自分を人と表現することで 表すんですよね
不機嫌な時にしか自分のことを人と言えないっていうのがまさにそういうことで よくも人のこと騙したなとか言った場合は
まあ自分のことを人と呼ぶことで 相手との関係を立ち切ってるというか
突き放すような効果があるんですね
こういうふうに考えていくと日本語で人を指す言葉っていうのは
それを代名詞と呼ぶかどうかは難しいもんないですが いずれにせよ人を指す言葉っていうのは
かなり柔軟というか まあ結構ね偏見自在みたいなとこがあります
例えば一般的にね一人称代名詞と考えられている僕っていうのは
二人称代名詞的に使われることもあります 僕どうしたのとかねそういう言い方ができます
これについてはね関連エピソードがございますので 概要欄にリンク貼っておきますのでぜひ聞いていただけたらと思います
あるいは三人称代名詞と考えられている彼女っていうのも 二人称代名詞的に使われて
彼女をお茶しないとか言えるんですよね っていうふうに考えると
本当にさっきも言ったように この人を指す言葉っていうのは日本語の中でかなり柔軟なものっていう感じがしますよね
あるいはさっきお話ししたように 親族名称っていうのが
代名詞的に使われる こともよくあって
自分のことをお父さんはねということができたりとか 自分の父親であっても
子供がいる場合はおじいちゃんに聞いてごらんとかね言えるわけですよね 自分の父親ですけどおじいちゃんと呼べると
これはやっぱり一番下のもののその目線に合わせたね 呼び方になっております
その辺の話はね ぜひ鈴木孝先生の 「言葉と文化」という本に書いてありますんで
興味のある方は読んでみてください
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう 番組フォローも忘れずよろしくお願い致します
お相手はしが十五でした またねー
09:59

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