1. ものづくりnoラジオ-しぶちょー技術研究所
  2. #74 ものづくりの変人、みんな..
2024-02-10 41:38

#74 ものづくりの変人、みんな大好き本田宗一郎【科学系ポッドキャストの日】

科学系ポッドキャストの日

共通テーマ『変人』


ものづくりの変人といえば・・・

そう、本田宗一郎です!!


私が尊敬してやまない憧れの技術者

本田宗一郎の魅力と変人エピソードを紹介します!!


本田宗一郎ものづくり伝承館→https://honda-densyokan.com/

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サマリー

ものづくりの変人、みんな大好きな本田宗一郎について語られています。彼は戦後使われなくなった無線機用の発電機を自転車に取り付けて移動できる乗り物として製品化し、大ヒットを飛ばしています。本田宗一郎のものづくりの哲学や人間性が愛され、引退後も従業員と握手を交わすなど、彼の魅力を伝えるエピソードが語られています。技術者としての魅力や人生のエピソードが紹介されており、彼が作り出したさまざまなものや信念についても紹介されています。支部長技術研究所の技術ブログやxmの情報発信、ボイシーでの音声配信なども彼に関する話題として紹介されています。

00:08
どうも、しぶちょーです。今回も、ものづくりのラジオをやっていきたいと思います。 このラジオは、産業機械の技術者である私、しぶちょーが、ものづくりに関するトピックを主観を交えながら、ザックバラに紹介するラジオです。
小難しい技術の話はしないので、何か作業しながら聞いていただければ幸いです。 今回は、科学系ポッドキャストの日という企画に参加させてもらっています。
この企画は、科学系のポッドキャスターが集まって、毎月10日あたりに共通のテーマについて、それぞれの専門分野の視点で語るという取り組みです。
毎月、この企画には共通のテーマを決めるホスト番組があるんですけど、今月は私、しぶちょーがホストでございます。
私が決めさせていただいたテーマは、変人となっています。
異人、知人、あたまた自分自身、誰でもOK。 科学が好きすぎて変な人。
好奇心が故に変な実験エピソードを持ってたり、変なことをしたね。 愛すべき変人。
そういう人たちを自由に語ってくださいねと、そういうテーマを出しました。 実はこのテーマを決めた時、私の中では誰のことを話そうかというのは心に決めてました。
今日はいよいよ話しますよ。 私が尊敬してやまない、大大大好きな人です。
ホンダ総一郎の人生と魅力
ものづくりの変人ですね。 今日紹介するのはホンダ総一郎です。
というわけで今日のタイトルはこちらですね。 ものづくりの変人、みんな大好き、ホンダ総一郎。
ということでねお話ししていきたいとおもいます。 まず皆さん、ホンダ総一郎と聞いて何をした人があってわかりますかね。
ものづくりに携わっている人であれば、ホンダ総一郎知らないって人はまずいないと言って過言ではないと思うんですけど、念のため説明しますけど。
ホンダ総一郎っていうのはホンダ技研工業の創業者です。 あのね自動車とかバイクを作っている世界のホンダ、あれをね一台で作り上げた男ですね。
もうね亡くなられてますけども、今もなお多くの技術者を引きつけてやまないものづくりのカリスマですよ。
各優私もね本当にホンダ総一郎大好きなんですね。 情熱的で奇想天外とホンダイズムと呼ばれるね本当独自のものづくり哲学で多くの技術者たちを魅了して
ホンダ総一郎自身もね様々な発明を続けて人の役に立つものを作り続けた そんな人ですよ
私の座右の銘が 何かにチャレンジして失敗することより何もしないことを恐れよっていうね言葉なんですけど
これはねホンダ総一郎の言葉の一つなんですよ 中学校の頃からずっとこれをね私の座右の銘として使ってます
ホンダ総一郎の本ってね色々出てるんですけど 私はねホンダ総一郎の本だけは紙の本と電子書籍ねこれ両方買ってあってね
いつ何時でもホンダ総一郎の言葉に触れられる体制をね整えてあるんですよ これね誇張してるわけじゃなくて本当にそうなんですね
マジで大好きなんですよ 今までねこのものづくりのラジオの中であんまりホンダ総一郎の話してこなかったんですけど
それはねあのあえてというかもう好きすぎて うまくまとめれる自信がなかったですよ話を
ホンダ総一郎の話するんだったら ホンダ総一郎の話をするためだけのポッドキャスト番組立ち上げないと
釣り合わないぐらいのボリュームと情熱あるんですよ ホンダ総一郎のラジオをやんなきゃいけない
まぁそんぐらいの勢いなんですけど今回はねまぁちょっとその思い越しを上げて ホンダ総一郎を知らない人にですね
いかにこのホンダ総一郎が魅力的な変人であるか これをね少しでも知っていただければなぁと思います
ホンダ総一郎の遠隔からちょっと説明していきますけど ホンダ総一郎が誕生したのは1906年11月17日です
静岡県の天竜市で生まれました ホンダ総一郎の実家は鍛冶屋をしてたんですね
父親のホンダ義兵は非常に腕がいい鍛冶師ということで有名だったんです 母親も旗織りの名手で両親ともね
ものづくりに関わっているというそういう環境でホンダ総一郎はね育ちます 鍛冶屋独特のねカンカンというね鉄を打つ音ね
これを子守唄代わりにして本当に物心つかない頃からね 鉄屑そこら辺にある鉄屑を組み合わせてよくわからないものを大量に作ってたと
いう逸話もあります とにかくその時点でもものづくりの変人が垣間見えるわけですよ
それはねまぁホンダ総一郎の幼少期のエピソードからも垣間見えて やっぱね小さい頃から非常に手先が器用なのと
機械に対するね異常だまでの探求心とか好奇心をホンダ総一郎持ってたんですね である意味で一つの人生の転機となるのがホンダ総一郎が7歳の時です
住んでる街に初めて自動車というものがやってきたんですね その時点で1914年なんで自動車なんてねもう滅多にお目にかかることができない
走ってないんですよ そんな自動車が街にやってくるとなってねもちろんホンダ総一郎見に行ったわけです
この時のエピソードについてはね本人の手記があるのでそれを読み上げますけど 私はガソリンの匂いを嗅いだ時気が遠くなるような気がした
普通の人のように気持ちが悪くなったのではない 胸がスーッとしたのである
そのたまらない香りは幼い私の鼻を捕らえ 私はその日から全く自動車の亡霊みたいに走るその後を追っかけました
金魚のフーナと笑われながら自転車が擦り切れるほどペダルを踏み 自動車の後を追ってガソリンの方向を嗅ぎえつに浸った
道に油がこぼれているとそれに鼻をくっつけ 匂いを存分に嗅ぎ時間が経つのを忘れた
そしてその日の晩飯のなんとうまかったことか その頃から私が抱いた最大の望みは自分の手で自動車をいじり運転しそして
思いっきり吸っ飛ばしてみたいということであった その念願が達成できるのはいつ何時か
しかし必ず来ると私は信じて止まなかったのであると 7歳ですよ
道にこぼれた自動車の油を置かずにご飯食えちゃうわけですからね これはもう変人でしょ
こうやってね本田総一郎がね初めて自動車というものに出会ってですねこれに引き つけられていきます
そしてね幼少期ねもう一つエピソードあるんですけどそれが飛行機との出会いです これで本田総一郎が10歳の時
浜松にですね米国の超人と呼ばれた飛行家 飛行機乗りですね
アートスミスって人がやってきたんです浜松市の練兵場でアートスミスの曲芸飛行 大会が開催されるっていうのを聞いたんですね
でもこれを聞いた本田総一郎はねもう10歳ですけどいてもたってもいられなくなっ てですね
学校もサボって 親の目も盗んでねその飛行大会をね見に行こうと決意します
でね本田装置の家からその会場までね片道20キロ以上あったんですけどそれでも構わ ないと親の目を盗んでね親の自転車を借りてそれを漕いで飛行大会までね
実際行ったんですねでもねやっぱたどり着いたのはいいものの当然といえば当然なんです けどチケットがないと大会入れないですね長に
もうそれを知った本田総一郎でどうしたかというとどうしても諦めきれなくてですね 近くにあった木によじ登ってなんとか飛行機を見てやろうと奮闘するわけです
結果としては猫飛行機をちゃんと見ることができてそこででも強い衝撃を受けます お自動車に続いてですねこう飛行機への開発意欲っていうのも
本田装置の中でここで高まっていくんですね この好奇心たるやすごいですよね10歳ですよ
往復40キロ飛行機満たさにねここまで駆け回ることができると やはりもうすでに猫ものづくりの変人
本田総一郎がねもう10歳で完成されてますね でねまあ本田総一郎は小学校を卒業した後にですね
幼少期からのものづくりへの情熱
でっちぼうこうっていうね今だとあまり聞かないけど 弟子入りみたいな感じかなそんな感じでね自動車修理工場で働き始めます
そこでも猫を持ち前の手先の器用さとものづくりの好奇心 まあこれによってですね
メキメキと成果を上げて技術を身につけていきます そしてですね21歳の頃には
乗れんわけをしてね自分の集自動車修理工場を立ち上げます それに飽きたらですね自動車部品の製造にも乗り出します
ピストンリングって呼ばれるねエンジンの中にあるピストンにつけるねリング です密閉性を保つためにですねつけるリングを開発するわけです
でこれをね今でいうまあトヨタ自動車に収めながら自分自身もいつかね自分の自動車を 作ってみたいという野望を胸にフツフツと燃やしているわけですね
そんな中訪れたのが 1945年の終戦です
日本が猫敗戦して戦争が終わったんですね 日本全体がね
敗戦の虚無感に包まれていた非常に暗い時代でもあります そんな時代本田総一郎は何をしたかといったですね
なんとね自分の会社を売って とんでもないことを始めたんです
本田総一郎は戦争が終わったのだから今度は自分の個性を伸ばした好き勝手なことを やりたいと言って全てを投げ捨てて
まず何をしたかって言ったら1年間 何もしないをしたんですよ
本田総一郎はね人間休業宣言っていうのをしたんですね その時点でまあ本田総一郎ね自分の会社も立ち上げてたし
自動車部品のね工場もやってたんだけど全てを投げ打って 本田総一郎38歳
子供もいますでも妻にこう言うんです俺は1年間何もしないと 遊んで暮らすから食べさせてくれと言って本当に1年間何もしなかったです人間を休んだん
ですね 何もしないとでもね一応何かをしてて何をしたかってたらお酒を飲んでたんです
ドラム缶入りのね医療用アルコールを買って 自家用のね合成酒を作ってそれを友人と飲み明かしてやることがなくなったら
軒下で座ってこうぼーっとしてたんですね さすがに見兼ねたね奥さんが暇だったら草くらい抜いてくださいよと言ったらですね
入ってって1本だけ抜いて ボーッとするみたいな
そんな感じのことをね1年間やったんですねこれを変人と言わずして何と言いますか 本当にね宣言通り1年間で人間を休業したわけです
まあとんでもない行いに思えるってまぁ実際とんでもない行いなんですけど これ実はねすごく重要な意味がある行いだったんですね
この1年間の休みの間本田総理長はボーッとはしてたんですけど 本当にボーッとしてたわけじゃなくてねずーっと考えてたんですね
何を考えてたかって言ったらこの先の日本の未来を考えてたんです 終戦とともにねこれから変わるであろう日本の情勢を一旦客観的に見て
今後の在り方を探るために1回ねその社会の中から抜け出したんです 本田総理長曰く世間がわからないのに仕事をするというのは
地盤の柔らかいところに物を建てるみたいなことだからやめた方がいいと そういう考えがあって1年間日本を見続けるという時間を取ったんですね
こういうね振り切ったことをできるっていうのもねすげーなって思いますよね ちゃんとですね1年きっかり休んだ後その人間休業宣言っていうのを解消してね
本田総理長が最初にしたことそれは1946年 本田技術研究所の設立ですこれね今の
本田の元となる会社ですよこれをね1年間の休みの後にポーンと作るわけです そしてこの数ヶ月後にねすぐに日本を変えるような大きな発明をしてきます
それがねバタバタと呼ばれる機械ですね そういうとねなんか全然聞き馴染みがないと思うんですけど
こう言えばね馴染み深いと思います原動機付き自転車です 原付きです戦後の時代はですねやっぱ交通事情っていうのは戦前よりもやっぱ悪くなってたんですね
交通の音メインの手段というのはもっぱら自転車だったわけですよ 大きな荷物を背負ってねみんながこう自転車を頑張って漕いでると
本田宗一郎のものづくり哲学
本田総一郎はそれを見ながらここにもしもね補助の動力でもつけようものならどんなに楽かと これができたらみんな喜ぶだろうなという思いからですね
本田総一郎は戦後使わなくなった 無線機用の発電機っていうのがねいっぱい世の中に転がったんですけどそれに目を付け
たんです それを自転車にポン付けして動力として使えばいいじゃないかと
ひらめくわけですね 本田総一郎はそこまでね自動車の修理ずっとやってきてますから
エンジンをいじるってお手のものなんですよ まずはねこう妻の自転車を実験台にしてね家にあった油担保にガソリンを入れて
エンジンをつなげてこう疑似的なね もう本当に自転車に原動機をつけた原動機付き自転車を作って
それでね妻を走りますわけですね 奥さんもまあそれに乗ってなかなかこれは便利だよとかここがこういうふうにね
主婦としてはいけてないと思うよというアドバイスをしてまあそれを素直に取り入れてですね 製品にしていきます
それがねもう本当に爆発的な大ヒットで飛ぶように売れていくんですね みんなね自転車漕ぐの大変だったし燃料がもうそもそも高いっていう時代においてね
非常に燃費が良くて エンジンで移動できる乗り物っていうのはめちゃくちゃ重宝されてたんです
そこにねバシッとハマってもう大ヒットです ヒットしすぎてもともとは猫軍から無線機用の発電機をね
買い受けてそれを改造して使ってたんですけどそれがね日本中からなくなってしまうほどに ヒットしたんです
でも需要あるからじゃあとうとうですね エンジン自体を自分たちで作ろうということになってきます
そこで開発されたのが a 型エンジンというもので50 cc で0.5馬力っていうですね まあ当時としてはね非常に優れた性能のエンジンを開発してこれがまたよく売れたんです
でここがまさにね本田のスタートだったわけですね この時点で本田総一郎って
40歳なんですよ わかりますかこの凄さが
40歳の時に初めてのバタバタっていうですね原付っていう製品自分の製品を世の中に出して ここから1台であの世界のホンダを作り上げるんですからね
もうここからがねすごいんですが これを喋ってるとですねやっぱり1本ポッドキャスト番組作らなきゃいけなくなっちゃうね
だいぶここからちょっと端折って話すんですけど とにかくね挑戦を止めないしものづくりの哲学
本田イズムでね人を引きつけ続けるんですね 夢に向かってね突き進む姿勢と勢い
これがね本田装置のストーリーの中で魅力的なんですよ まあここから超駆け足でちょっと説明しちゃうんだけどね
ここからまあやっぱ様々なねこう哲学と持ち前の技術を使ってですね 役立つものづくりをひたすら行って本田をねどんどん大きくしてきます
本田装置郎がよく言った言葉の一つに 世界一でなければ日本一でないという言葉があります
これはねなかなか面白い言葉だなと思って 本田装置郎のねこの日本のものづくりへの誇りみたいなものを感じますよね
日本一になるために世界一を本田装置郎は目指すんです この言葉をね会社が大きくなる前から
みかん箱の上に乗って喋るわけですよ 数十人の社員の前でこう唾を飛ばしながらね
おじさんなんでめっちゃ唾飛ぶらしいんですけど唾飛ばしながらでも叫ぶわけです 別にねそれは社員に葉っぱをかけているわけでもなくて
かっこつけているわけでもなくてね本田装置郎の本気の言葉なんですよね それが社員に伝わるんでみんなもこう奮い立たせられるし
本田装置郎に惹きつけられていくんです 熱いんですねこれでも最初はこう本田装置郎は二輪ですねこうバタバタって原付を
開発したんでバイクの世界を極めていきます そこで一気にね本田というものを大きくしていくんですけど
1963年にですねとうとう自動車の生産に漕ぎつけます あの自動車のね油の似合う貝で飯食ってた7歳から50年経っていよいよね
夢を実現させているわけです そしてね今の本田にそれが続いているわけですね
ちょっとねここをね語りたいんだけども発明品が多すぎて本当に語れないんで またちょっとねちぎってねいろいろエピソードを語っていきたいなと思いますけど
遠隔としてはねこんな感じなんですよ 今日は変人っていうテーマなんで
ザクバラーにもっと変人のエピソードをね語っていきます 本田装置のやっぱりものづくり哲学が魅力的なんでこだわりが強いんですね
特にこだわってたのが作業着です本田装置論はね会社の作業着を白色にすると 創業以来ねそうやって決めてもうその文化がね引き継がれています
だからね白いつなぎ白い作業着って言ったらまあやっぱ本田って感じしますよね 普通に考えればものづくりの現場で作業着着ると油で汚れるから
白ってね一番不向きなんですよ でも本田装置論はわざわざ汚れが目立つ白を選んでます
それはね汚れが目立つ白い作業着だと汚さないように気をつけるだろうと そうなれば作業着を汚さないってことは同業に機械本体も汚さないように気をつけるようになると
こういう考え方が根底にあるんですね 言いは安しなんですけどこれをねちゃんと実行して企業の文化にしてしまうっていうのはね
本田宗一郎の引退とエピソード
すごいですよね あとね作業着繋がりで一つエピソードがあって本田装置論非常に功績を残したんで
蘭寿豊将っていうですね非常に名誉な勲章を皇居で授与されることになりました 当然ですねこう天皇陛下からね授与されるわけなんで
タキシードというかモーニングみたいなね エンビックみたいな製装で臨まなきゃいけないんです
でまぁ当然ね本田さん製装でお願いしますと言われるんですけど 本田装置論はね偏屈なんで技術者の製装っていうのはな
白い作業着なんだって言い放って作業着でその授与式に出席しようとするんですね 最終的にねいやそれちょっともう本当に勘弁してくださいって言って結局塩ビー
服は素直に着るんだけど本人はね実はそこにはそんなにこだわりなくて ちょっとごねてみたかっただけというねことを後のインタビューで語ってますけど
まあそういうねなんか可愛げのあるねわがままを言ったりする お茶目な一面もあるんですね
まあね本田装置論って言ったらねこう成人君主じゃなくて結構感情的だったりとか キテレツな部分があるんです
とんでもない荒くれ者の一面もあったあるんですね 基本的にはこうすごくね熱が高いというか情熱的なんでめちゃくちゃ起こるんです
従業員からねやっぱ親しみを込めて親父なんて言われてますけど 一方でやっぱ仕事を一緒にした人に対してはね
親父さんは怖かったねーとみんながで口を揃えて言うと もう作業中に中途半端な仕事をしようもんなら容赦なく
あの今じゃねちょっと考えられないけど工具で殴りつけてきたりとか 灰皿を投げてきたりとかね
荒くれ者なんですねしかもねこう 怒られた人よりもまず怒った本田装一郎本人が泣いてるっていう場合もね多かったみたい
です 怒る際は
よくお前が可愛いから怒るというが俺はお前が本当に憎くて怒ってるんだと言って ですね
怒鳴りつけるわけです まあ今だったらね大問題なんですけど
まあこれもねやっぱ考え方があってですね 本田装一郎っていうのはねものづくり
特に人の命を運ぶ猫を乗り物っていうものを作ってる会社なわけですから そこの技術者がやっぱ半端なし考えとかで半端な仕事をするっていうことが許せなかったん
ですね 人の命を乗せるものにお前はなんでそんなに半端なことができるんだと
そうやっても徹底的にねやっぱ激しく怒ったんです ただね怒った後もちゃんとね反省してね謝りに来るんですね
本田装一郎がそういうね人間臭いところもあって非常にこう 親しまれていたというのもあります
やっぱり本田装一郎とね喧嘩してこう会社を出てってやめちゃうみたいな 技術者もいたんですけどちゃんとね戻ってきたらしいですね
本田装一郎もまるでそんなことなかったかのようにその瞬間からその技術者を受け入れて 辞めたことなかったりするみたいな
でもまた喧嘩してねまたその人が辞めて出てちゃうんだけどまた戻ってくるみたいな 四五回そういうのを繰り返した技術者もいたみたいです
やっぱね人間臭くてね愛があるってとこがねいいですよね あとね他にも好きなエピソードがあって
引退のねエピソードとかすごくいいんですよ 本田装一郎ってね引き際が美しいと言われてます
本田議研を立ち上げてこう大きくしてですね 66歳で
パッと社長職をしりどいさんですね その後会長職にもつかずにですねもう完全に仕事から一線を引いてしまったんです
その後何したかっていうと 日本全国にある本田の事業所とか販売店
約ね700箇所を回って本田に関わるね全ての従業員と握手をするということをやったん ですね
んでねまぁ当然こう整備工場とかもあるわけだけど 本田装一郎が来たってなったらねみんな喜んでこう会いに行くんですけど
やっぱり中にはね作業の途中の人もいて 手とかがね油で汚れてるわけですよ
でこう握手する時にねやっぱ手がね油でベタベタとさ悪いからこう 手をね洗いに行こうとするんだけど本田装一郎はそこでね
その油まみれの手がいいんだと言ってそのままこう熱くね握手をするんです それでね目を向いてねありがとうと言われるわけですから
そんな見たねみんな感動しますよねやっぱり本田装置の見るこういう人間力ですよ ね
あとでもう一つ好きな話があって さっきも言ったけどね世間ではやっぱり本田装一郎ね
パッと社長職を知りどいて引き際が非常に美しいと言われてるんですけど 実際のところでめちゃくちゃ葛藤があったらしいんですよ
葛藤というかね引退するのは本当にねパッとねスパッと引退したんですけど その後の日から
どうしてもね朝起きたら会社に行こうとしてしまうんですね ダメとわかってます自分の中でダメとわかってても会社行きたい
働きたいっていうその気持ちがこう出てきてしまってそれをね我慢するのに苦労した というエピソードがね
あの本に書いてありましたやっぱり我慢しきれなくてどうしても我慢できないってこと時は 車に乗ってですね
いつもの出勤ルートを走ってとりあえず会社の前まで行って そのままUターンして帰ってくるとそれでギリギリを保ってたんですね
そこまでして我慢してたんですよ でもやっぱ本田装一郎としては若い人たちにですね後をついたんでその後には絶対口を
出さないとね決めたんですね ただやっぱ自分がもしも行ってしまったら今頑張ってる人たちがやっぱ自分に気を使ってね
いろいろしてくれるんで影響を与えてしまうというのがね本田装置はわかってたんで 頑張って我慢したんですね
これもねやっぱねすごくものづくりが好きですごく人間臭いというか どれだけ猫ものづくりとか仕事を愛してたかっていうのがね
すごいわかるエピソードね好きなんですよ あと一つねあのお葬式の話もねこれすごく素敵なエピソードで
本田装一郎ね1991年8月5日 84歳で亡くなってしまいます
その時にね遺言として書いてあったのが葬式はしないでくれっていう遺言なんですね 理由はね俺の葬式は多くの人が集まってしまうと
本田装一郎の魅力と人生のエピソード
そうするとたくさんの車が集まるから周囲に渋滞が起きてしまう 移動車会社の創業者が自分のせいで周辺の人たちの交通を不便にすると
こういうことねあってはならないと こういう思いがあったんでやっぱね自分の葬儀ってのはしないでくれと
ユイゴに書いたんですね だから実際に本田装一郎のその葬儀
葬儀というか車葬っていうのはね行われなかったんですよ やっぱね死に際までねここまで徹底してねこう自分の価値観を貫いて生きることができる
っていうのがグッとくるものがありますよね 他にもねいろんなエピソード本当にあるんですよ名言ももうこう
もうねすごいいっぱいあるんだけど 語りきれないですねやっぱね
とにかく人の役に立つものを作るとそういうものづくりの本質的な部分を徹底的に 突き詰めて技術を研究してさらにね
人間そのものをすごく見て研究してひたすら価値を生み出したと 自由奔放で破天荒ながらですね
様々なものを発明して世界を変えた技術者それが本田装一郎なんですね すごい長いすごい長い回になってるし
もううまくまとまってないんですけどね とにかく本田装一郎技術者だったらねみんな大好きなんです
やっぱねいろんな人の本の中に本田装一郎の話で出てくるんですよ 例えば本田ジェットっていうね小型の飛行機あるんですけど
この開発者の藤野さんという方の本があるんですけど その方の本の中にも本田装一郎って出てきます
これちょびっと出てくるというかねなんか厄介者として出てくるんだけど 本田で飛行機を開発するにあたって絶対にやっちゃいけないことってのがあって
それは何かっていうと本田装一郎に本田で今飛行機を開発していると いうことを言っちゃダメってことです
なぜかというともうそれを本田装一郎が聞いてしまったら 歯止めが効かなくなってしまうからですね
その時点でねさっきも言ったけど本田装一郎引退して一戦をしりどいてたんだけど 本田装一郎の夢の一つがやっぱり幼少期の頃に見た飛行機ね
あれを作ることだったんですよ 車っていうのは実現したんだけど実はね飛行機っていうのはその技術者の人生の中に
おいて実現してなかったんですね ただねやっぱね本田技研やっぱり技術の会社ですから
本田装一郎がね一戦をしりどいた後に飛行機の開発っていうものもね始まったんです ただそれは本田装一郎には秘密にされていました
いくら一戦をしりどいたとはいえね 飛行機をやってるとでも聞いてしまったら確実に戻ってくると
もう本田装一郎歯止めが効かなくなるってことで 本田の社員は誰しもそれが分かってて秘密にしてたんですね
ただねある日この藤野さんがこの本田ジェットの開発者の藤野さんがトイレでね 用を足してるとそこにね
本田装一郎と飛行機開発の秘密
とことこと横に杖をついたねじいちゃんが並んできたんですね ふと見たらそれね本田装一郎だったんですね
その時やっぱ藤野さんをね伝えたくてしょうがなかったらしいです まあ飛行機をね今開発してるんですよあなたの会社でと言ったらどれだけ本田装一郎
が喜ぶかと分かってたんですね もうやっぱ本田装一郎は誰もが憧れる技術者でとてみなそのね経歴を知って尊敬して
ますから 飛行機の絵の思いっていうのも知ってるわけですね
それでもやっぱね言ったらとんでもないことになるがわかるからそれをねグッと我慢 して心の中で伝えたというエピソードがあるんですよ
個人的にこのねエピソードですごい好きなんです あとね違う技術者の話でも本田装一郎出てくるんですけど
これもねまた本田の自動車の開発で ホンダビートっていう軽自動車がね昔あったんだけどその開発エピソードの中にも
本田装一郎出てきます 既にその時点で引退してますよ引退してますけど
ホンダビートっていうね2シーター2人乗りのオープンカーですね これね本田装一郎がなくなる前に最後に見届けた車なんですよ
晩年の本田装一郎ですね一応本田の新製品発表会みたいなのも来るんです そこで最後にこのホンダビートっていう車を見るんですけど
ここでこういろいろね車いじりながらねチェックしてこうなってるのかって 楽しんだという話があります
でその立ち会いにですねその車の開発者もねいてドキドキしながらこう立ち会ってたんです なぜかと言ったらね当然その技術者も本田装一郎好きっていうのもあるし
ビートっていう車ね 後ろのテールランプが
s 800っていう本田装一郎自身が開発に携わった車のオマージュをしてるんですね 形が似てるっていうかねそのリスペクトしてその時代のデザインに結構寄せてあるんですよ
それがやっぱビートの開発者の一つのこだわりであってそれを実際の ホンダ装一郎に見てもらえるとであこのリスペクト
オマージュ気づいてくれるかなーってねワクワクして立ち会ってたんですけど 結局気づいてもらえないというエピソードがね本に書いてありました
このね設計と伝わるかなこれ気づいてくれるかなーっていうねワクワクする気持ちって 私もね設計者なんでねよくわかります
ちなみに猫のホンダビートって車ね私の愛車でもあるんですね 販売っていうのはね1991年の車なんでもう33年前の
本田装一郎の本とその影響力
車ですけど 特にね故障もなく元気に走ってますよ
さすがホンダですね 私が猫のホンダビート買ったのは2014年なんでまぁ彼これもね10年ぐらい乗って
ますね 車のスタイルが好きっていうのもあるんだけどもちろん買った理由の一つにはですね
ホンダ装一郎が最後に見届けた車だからっていうことも大きいです やっぱねそれだけホンダ装一郎好きなんですよねー
いろんなエピソードがねやっぱあって魅力的なんですよ全部 ホンダ装一郎もね私が知るきっかけになったのが中学2年生の時なんですけど
これ担任の先生がね本をくれたんですよ ちょうどね担任の先生女性の先生だったんだけど3級に入るというタイミングで
そのクラスの全員にねそれぞれに読んでほしい本っていうのを自腹で買ってこう 全員に渡したんですよ違う本を
国語の先生だったんでねみなさん本読んでくださいねっていう意味があったんです けど素晴らしい先生だと思いませんか
でね僕はあの車が好きっていうこともあってね先生いわく 渋長くんと車といえばね
ホンダ装一郎なんだよということでホンダ装一郎の本をねその時くれたんですよ これが私とホンダ装一郎の初めての出会いだったんです
せっかくね普段僕その時本なんて読まなかったんですけど 結構ねこうお世話になって好きな先生だったんで
ちょっと本読んでみようかなと思ってそのホンダ装一郎の本読んだんですけど もうね衝撃ですよね
なんだこいつはとこういう人たちなんだけどなんだこれはとこんなすごい人がいたのかと やっぱねものづくりで世界を変えた技術者ってかっこいいなって思いましたね
そっからねやっぱホンダ装一郎の本を買い漁っていろいろとね読み尽くしてきました だからね本当にあの
本当にもうずーっと好きなんですよずっと好きだしまぁことあるごとにホンダ装一郎の本を 読み直してるから
話まとまんないんですよねどうしても今日も長くなってるし腰も重かったんですけど 今日もね話もあまり正直満足にできてないですもっとねうまく伝えたいんだけど
やっぱ私だけではね私の力でホンドスイッチの魅力っていうのを伝えきるのは難しいです だからそのそういうね変な人がいるんだよということをフックにしてね
ホンダ装一郎を知ってもらえればなというところですね ただねちょっとまだ続くんですけどホンダ装一郎を語る上で
ホンダ装一郎だけ知っていればいいってわけじゃないんですよ ホンダ装一郎の女房役としてですね
ホンダの経営を支えたね藤沢武雄氏とか あとホンダ装一郎の親友でソニーの創設者でもある
いぶかまさる氏とかねこのあたりの本も読んでほしいんですよ 特にね
いぶかさんの我が友ホンダ装一郎っていう本があるんだけど これがねほんとめっちゃ泣けるんですよ
これはねホンダ装一郎が亡くなった後に 親友のいぶかさんがホンダ装一郎への思いを綴った本なんですけど
本当にグッと来るんでぜひとも読んでほしいですね でもね一番読んでほしいのは私がね人生のバイブルとしている
ザックバランっていうねホンダ装一郎の本です これ本人が書いた本なんですけど
私がねホンダ装一郎本の中で最もおすすめしている本です 結構癖強めでね読みやすくはないんですけど面白い本ですよ
私はねこう人生の節目とか大きな仕事の前とかね 仕事のモチベーション下がった時は
このザックバランって本を手に取ってですねパッと適当なところ 開いたところから読み始めます
ザックバランなんでどっから読んでも別に読めるんですよ でもやっぱね読むとね不思議なことにねすごく元気になるんです
この本が執筆されたのが1960年なんで ホンダ装一郎がね本当現役バリバリでね働いている時の本なんですよ
でねこの1960年っていうのは非常に重要で 何の年でもないんですけど何の年でもないっていうのは
ホンダ装一郎が二輪のバイクの生産で成功を収めてたんですけど まだ自動車は作ってないよって時期の本なんです
だからねこれからね四輪の分野で世界を新観させるほどね 大成功を収めるホンダ装一郎が成功する前に書いた本なんですね
成功者が書く自己啓発本とかってあるけどさ 成功する前の人が書いた本ってなかなかないでしょ
だからすごい面白いんですよ これから成功する人が書いたものづくりの哲学の本なんです
そこに書いてあることの説得力ってもう次元が桁違いですよね その本の中ではこう四輪の開発に対する熱意
これからこんなことをやっていきたいんだと 今の車こうじゃダメだみたいなねことがすごくいっぱい書いてあって
とてつもないエネルギーなんです だからねもう本当に大好きなんですよこの本が
この本に書かれているのはやっぱものづくりにおいていつの時代も欠かせない 普遍的なものづくり哲学なんですね
それがもうほんととんでもない量 ホンダエネルギーとして詰まった一冊だと思います
もはやね読むエナジードリンクと言っても過言ではないです あの私はね結構ザックバランっていうね言葉よく使うんですけど
これはねホンダ総一郎の本のタイトルのザックバランから結構取ってきてます そんだけホンダ総一郎ってやっぱり僕にとってねこのものづくりの思いとか
哲学的な部分ね多大な影響を受けてます もう勝手にリスペクトしまくってるという感じですね
ただねー 本当に僕ずっと行きたいと思ってるね
ホンダ総一郎の聖地があるんですけどそれはまだ行けてないんですよ 静岡県浜松市にホンダ総一郎のものづくり伝承館っていうですね施設があって
言うならばねホンダ総一郎ミュージアムがあるんですよ そこで実はまだ行けてないんです
そこでしか買えないホンダ総一郎グッズねあるんだけど ちょっとね場所とリッチがねあんま良くなくてなかなかね
休みのタイミングとか合わないんで行けないんですけど 今年こそですねそこに行って
こんなもの買ってきたよっていうのをポッドキャストで報告したいなと思います なんとかね休みを見つけて行ってきます
というですね まあホンダ総一郎がただただ好きな男のお話でした
ちょっとなんかかなり長めになっちゃったしちょっと日本に分けるのもあれだから一本 にまとめちゃうけどさ
支部長技術研究所の技術ブログとxmの情報発信
ここまで聞いてくださって本当にありがとうございました 私は支部長技術研究所という技術ブログを運営しています
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10分ぐらいで聞けるものづくりの話ですぜひともそちらも聞いてください あとねものづくりのラジオこれねいいと思っていただけたらぜひとも各
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