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うちあわせCast第1回ということで、
今回はたくさんのゲストにお迎えして、アウトラインとかについて話したらいいなと思います。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
とりあえず今たくさん、何か本を執筆されていると思うのですけれども、
仮のタイトルみたいなのが出来上がってるんですかね。
仮のタイトルね。いろいろ迷ってるんですけど、
一番最初に考えてた仮タイトルが、「アウトラインプロセッシング長文」。
長文。長文というのは漢字で言うと?
長い文章。
長文。
もうね、表紙の色まで考えてた。
今度青にしようかなとか。
このタイトルからどんな本の方向性をイメージされてたんですかね。
もう文字通りというか、長い文章をアウトライナーでどうやって書くかという話を考えてて。
なるほど。
もちろんこのタイトルにはならないでしょ、たぶん。
はいはい、わかりました。
文章執筆法としてのアウトラインプロセッシングがメインテーマってことですか。
そうですね。だから最初の入門の中で、入門の一部がスピンアウトするみたいな感じで、
アウトラインプロセッシングライフという本になったんですけど。
生活のアウトラインって最初言ってたものを広げて、去年新しい本を出したんですけど、
それと同じ感じで、あの中の文章を書くっていうところを思いっきり広げて、
それも長めの文章を書くという話を書きたいなと。
そこで想定されている長めの文章というのは、結構広いフォーマットなんですかね。
広いフォーマットですね。そこでソースも悩みが発生したんですけど。
いろいろあるじゃないですか、文章としても。
そうですね。
結局論文の書き方と本の書き方、いわゆる普通の読み物の書き方は違うし、
本であっても実用書と創作は違うというところがあるんで、
そこをどうしようかなというところで結構悩んだりして。
あんまりそこは決めずに、数万字以上の制御された出来上がったアウトプットとしての長文を書くと。
その後の論文なら論文に必要な形式、実用書なら実用書に必要な形式っていうことには触れないと。
ちょっとだけ抽象の階段は上がっておくと。
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っていうことで書き始めた感じですね。
なるほど。
たとえば論文と実用書の書き方も全然…。
てか論文が特別なんですよね。あれカリカリにフォーマットが決まってるんで。
まあ論文といってもその文の中でもいろんな分野によって全然書き方が違うはずなんで。
分野ごとにフォーマットが決まってるという点では、
逆に言うと論文の書き方みたいな本は書きやすいでしょうね。
たとえば実用書の書き方に比べると。
論文ってたぶん一番書き方のノウハウが、
一般に、本にも書かれてるし教えられてるものだと思うんですよね。
そうですね。定式化しやすいものがあるんですね。
そうなんですよね。
逆にそれ以外のものってあんまり…。
そうですね。これでも難しいんですよね、実際。
これまで僕が書いてきたどの本も、
書き方っていうのが一冊一冊、
微妙に異なるレベルからかなり異なるレベルまで違ってるんでね。
そうなんですよ。
なおかつ、いわゆる文章特本的なものを自分が書くというおこがましさというか、
そんなことできるわけがないので。
だからあくまでもメインはアウトラインプロセッシングというところにおいて、
アウトラインプロセッシングの目的のひとつとしての文章を書くっていうことを考えてたの、最初は。
ただ結局それをやろうとすると、
例えば発想みたいなところに触れざるを得なくて、
だから単に文章を書くっていうことじゃなくて、
じゃあ発想ってなんだろうと。
そうすると発想法発想法でまたひとつの巨大な蓄積があるわけですよね。
ありますね。
ここも同じ話で、企画案を考えるときに必ず出てくる問題ですよね。
僕はまたおこがましさハードルがすごい上がるわけですよ、この文章読本と同じくらい。
これは触れちゃいけないやつなんだろうな。
でも衝撃するわけにもいかないっていう難しさはありますよね。
そうなんですね。
どの程度の深さで触れるかっていう選別はあるんですよ。
だからアウトラインプロセッシング自体が発想法であるという言い方をすれば包括的ではあるんですけども。
そうですね。
結局今考えているのは、まさに今黒下さんが言ったみたいに、
アウトラインプロセッシング自体が発想法だし、文章を書くことだし、
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そもそも最初の本でアウトラインプロセッシングというのは、
文章を書いて考えることだと定義してしまったので、
それって結局その言葉の中に発想も文章も両方入ってるんですよね。
入ってますね。入ってます。
だからもう完全にアウトラインプロセッシングの義を絞っちゃって、
この中で発想をする。それを通じて発想をするっていうことを考える。
それを通じて文章を書くっていうことを考えるというアプローチになりつつ、ある感じのことになる。
まあなんかそのほうが自然というか。
自然というか、自分に行かれきればもうその形しかないのね。
例えばアウトラインプロセッシングほにゃらら、仮に長文っていうタイトルをやったとしたときに、
やっぱりリーチの狭さというか、
手に取る人はもうアウトラインにはじめから興味がある人に借りたいですよね。
例えば今パッと思いついた、考える技術としてのアウトラインプロセッシングっていうタイトルにすると、
その前半のほうで食いつく人が結構いるじゃないですか。
そうなんですよ。
まさにそのとおりの思考プロセスをたどって、
最初に仮にタイトルとしてアウトラインプロセッシング長文、
要するに前の本との連続性っていうタイトルにしたんですけど、
そのあとだんだん、書くためのアウトラインプロセッシングとか、
そういういろいろいくつか案があるわけですよね。
そもそもアウトラインプロセッシングって言葉を使うかどうかもわからないし。
そんなアウトラインプロセッシングのリーチの狭さというところにここ数年つきまとわれている。
最初の一冊やったとしたらあれですけど、
すでにアウトラインプロセッシングの名を関するほうが出てるんで、
僕の意見だとここはちょっと一回遊んでもいいかなっていう。
遊ぶというかちょっと有利してもいいかなっていう感じはしますね。
そういう考え方もありますね。
っていう感じですね。
なるほどね、なるほど。
今進捗のプロセスというとどんなあたりですかね。
文字量的にはもう、多分20万字ぐらい書いたんで。
一応完成の目標みたいな。
6万字、6万字です。
それで、おとといか、6万ちょっとあってだいぶできたなっていうのをぐっちゃぐちゃに入れ替えちゃったら、
6万字のうちの1万8千字が使えなくなって、今4万2千字ぐらいになってる感じですよね。
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なるほどね、なるほど。
という、まだ砂のように流動している段階ですね。
まだまだ軸は見えてないと。
ちょっとね、今見えてるかな。ちょっと見えてきたかなっていう感じですね。
はいはいはいはいはい。
なるほど。
っていうこんな私の本の話ばっかりでいいんでしょうか。
いやもちろん、別に僕の本の話してもいいんですけど。
ちなみにその本、執筆開始されてからどのくらい期間経ってます?
ちゃんと始めてたのが去年の10月。
あーじゃあ結構経ってますね、もう。
結構経ってますね。
目標は3ヶ月で書くことでした。ちなみに。
まあ難しいですよね。
難しかったですね。
3ヶ月で書くならそういう内容にしなきゃいけなかった。
これは要するに理想と目標と現実の噛み合いみたいな話になってくるんですけど。
なんで毎回同じことをやるっちゃうのかっていうことですよね。
まあでもそれはそれ自身が書かれる本の一つの大きなテーマでもありますよね。
そうなんですよ。まさにそうなんですよ。
おそらく世の中には3ヶ月で書こうって決めて3ヶ月で書ける人もいるんですよね、きっと。
いるでしょ。いると思うんですよ。
たぶんそれをプロと言うんだと思う。
なるほどね。
まあ確かにあんまり違って、契約に縛られてないからこそ時間をかけられるっていうのはありますからね。
もし3ヶ月で締め切りが決まってて、契約があってっていう話だったら、
また3ヶ月でたぶん何かしら書いたとは思うんですけど。
まあそうでしょうね、おそらく。
その一回直前に崩されたアウトラインはなぜ崩したんでしょうかっていう質問でいいかな。
どう聞いたらいいかな。
崩そうと思い立った何か動機みたいな質問もちょっと違うかもしれないけど。
まあ、アウトライナーに当然入ってるわけじゃないですか。
この段階でも今はもうワードのアウトラインに入ってるんですけど。
アウトライナーって崩すっていうことのハードルが低いので、
一般的に普通に本なり何かしらを書いてて、構成をガラガラポンしちゃったっていう時の、
そういうインパクトでもないっていうところがあって。
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アウトライン的に、本文も入ってるんですけど、メジャーバージョンが9になったんですよ。
メジャーバージョンって言われてるけど、アウトラインをガラッと変えると、
バージョン番号の一桁目が1個上がるという感じ。
だから9回目なんですね。思いっきり崩して変えちゃったのが。
なんで変えたかというのはもうつまらなかったかなとしか言うことがないんですよね。
1から8までは納得いかなかったってことですよね。
納得いかなかった。8でいけるなと思ってやってて、
それで名古屋で2週間前にゴリゴさんに寄って行ってセミナーをやらせてもらったんですけど、
そのときにもうすぐこの本できますよみたいな感じで見せたんですよね。
そのときはいいと思ってたらしいんですけど、
ダメっていうか、
何がっていうんじゃないんですけど、見たときに良くないときは良くないと思うんですよね。
あれ不思議ですよね。
たぶん同じだと思うんですけど、
何を良くないと思ってるのかわからないんだけど、明らかに良くないってのあるじゃないですか。
良くないことだけはわかるんですね。
何が良くないかわからない。
ただ、アウトラインを組み替えて最終的に、たとえばここの詰めのバージョンができるわけじゃない。
ここの詰めのバージョンをこうしようって決めたときには何かしら良くなったと思ったから、こうしようと思うわけですよね。
やっぱりわちこち変えながらいじっているうちに、良くなかったと思っていたものがこれならいいかなっていうふうに変わってくるわけですよね。
たぶん段階にもよるんですけど、今回これは少し良くなったのかなと思ったのはたぶん二つあって、
見出しというか、たとえば第一章、第二章、その小レベルの見出しのタイトル、見出しの表現が揃ってきた。
これはたぶん流度というか、内容が揃ってきたということを示しているわけですよね。
よく似た見出しになってきたのが一つと、それぞれの見出しの下にある分量が均一化してきたというか、そこですよね。
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そのアウトラインの見た目の形に納得感があったというか。
そういうことですよね、今回。
その視点は、仮に言うとしたら一応トップダウンで俯瞰したときの全体のバランスの良さっていうことだと思うんですけども、
一方で、初めからそのバランスの良い形で流度を揃えて、項目数も整えて書いていくということができないわけですよね。
できないわけですよ。
ここに大きな問題があるんですね。
そうなんですよ。
だから、たぶんこれも、たぶん倉下さんもそうだと思うんですけど、
出来上がってみたらあまりにも当たり前というか、あまりにも当然のように流れていくこの形が、なぜか出来上がる前に思いつけない。
思いつかないですね。あれは思いつかないですね。
これがなぜかっていうのが、そもそもこのアウトライナーの話を考えるときにずっと考えてること。
というか、アウトラインプロセッシングを考えるってことは、たぶんそれを考えることだと思うんですよね。
ある時点で、例えば最終的に本を完成させた自分があまりにもナチュラルに思える構造っていうのが、
本を書き始めて目次矢を作った自分に、自分が思いつけなかったのはどういう点だろう。
無知とか盲目とか。
思いつける能力があったにもかかわらず、それを発見できなかったということではないと思うんですよね。
ないですね。
おそらくは。
あるかもしれないけど、メインじゃない。
結局その構造を変えていく中で、私の認識みたいなものを変えていき、
やがてそれを発見できる能力に至るっていうプロセスをたぶん踏んでるんですよね。
たぶん。振り返ってみればたぶんそういう。
この工程は絶対にすっ飛ばせないんですよね、基本的には。
そうなんですよ。
すっ飛ばしたいんですよ、すごく。
いやでも、気持ち的にはすっ飛ばしたいんですけど。
ビジネス的な観点から言うとすごくすっ飛ばしたい。でもそうなんですよね。
だから自分のレベルアップが、つまり書いた本、アウトライン通りに書けたとしたら、
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レベル1の書いた本になっちゃうんですよね。
アウトラインを変えるとレベル3ぐらいの自分の本になるんですよね。
3も上がるかどうかわからないですけど。
そうですね。
関係の変化が絶対に発生してるんでね。
だから、そうでないと、そうであったならこうした方、この方法の方がいいって言えるじゃないですか。
そうですね。
そう言いたいんですよね、僕。
ただ手間かかるだけやね、質が変わってないっていう話されると困るというか、
それはたぶん事実ではないと思うんで。
そうですね。
あれですよね、今レベルが上がるっていうのは、自分の認識のレベルが上がるということですね。
すみません。レベルって言うと階層とは話が別になる。
いやいやいや。
そうじゃなくて、レベルアップする、経験値が溜まるというか。
経験値、自分の認識の認識というか理解のレベルが上がるっていうことですね。
が変わってくるっていうことですね、おそらくは。
なんでそうなのかっていうのを考える。
一つ具体的に考えられるのは、何が最初の段階と、最初に僕事案作ったときと違うのかっていうのを考えると、
当然ながら本文を書いてること。
まあもうそれは一番大きいでしょうね、きっと。
本文を書くときに、書き方が最初から組み直す前提で書いてるので。
これが結局シェイクの話になるんですけど、
一応その目次案があって、それに合わせて書き始めるんだけれども、
逸脱、脱線することを避けないというか、
ウェルカムな感じっていうのを最初から保って書くので、
途中からどんどん変わってくるわけですよね。
まあ脱線防ごうとしてもするんですけど、防ごうとさえしないというか。
逸脱して変わっていっちゃった、そのアウトラインから外れちゃったところを、
またアウトラインの中にうまく戻すという作業を繰り返しながら本文を膨らませていくと。
名古屋のときもこの話したんですけど、
結局脱線というところにたぶん鍵というかキーがあって、
これ脱線って言っちゃうとなんか悪いことみたいだけれども、
この脱線ってつまり発想のことですよね。
まあそうですね。
ニファンスレードの連想を抑制しないってことですからね。
最初の段階では思ってなかったものが出てきちゃったってことじゃないか。
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そうですね、たしかに。
それは発想なんですよね。
たしかに。
さっきの発想法の話になるんですけど、
発想法ってもちろんいろいろあって、それぞれに適したKJ法もあれば、
ハイファインのマップもあれば、いろいろものがある中で、
結局アウトライナーに適した発想法って何かっていうと、
文章を書くことじゃないかっていうことを思うようになったんですよね。
文章を書くこと自体が発想法なんだろうと。
まあそうですね。
発想法の定義を広げれば、たぶんそれはそう言えると思います。
実際、最初に好きなだけ書いて後でまとめるっていう、
なんか哲学者の名前が今出てこないんですけど、
そういう手法を取ってる人もいますし。
そうなんですよ。
それは誰だっけ。デビー・ストロース。
そうそうそうそう。よくわかりましたね。その通りです。
そうなんです。
ただし普通、アウトライナーがない状態でそれやっちゃうと、
しっちゃかめっちゃかになっちゃうんだけれども、
アウトラインの中で制御できるという前提の中で、
脱線をあえてウェルカムな状態で文章を書くということ自体が、
発想法というのはちょっと違うかもしれないけども、
アウトライナーに適した発想の仕方って、
もうそれなんじゃないかっていうことになったんですね。
確かに、例えばアウトライナーに箇条書きで項目を並べて、
KJ法的なっていうのは実は結構めんどくさいんですよね。
めんどくさいです。めんどくさいわりにあんまりうまくいかない。
平面範囲じゃないからなんですけど、きっと。
それをやることを比べれば確かに文章化して促されるもの。
そこはちょっと今、僕も書けそうな話だったな、今のは。
確かにそうやな。
たぶん倉瀬さんもそういうことを普段言ってるような気がする。
確かにそうですね。
発想法は何してるかっていうことをちょっと原理的に考えてみて、
そこが脱線する文章との相和性があるっていうことを言えばいいっていうことで、
これは言えますね。確かにその通りですね。
結局言っているときの脱線を抑制する。
抑制する。
抑制できればできるほど締め切りに間に合うんですよね。
そうです。そうなんですよ。
このコントロールなんですよ、結局のところ。
僕、仕事のタイプ2つあって、毎週締め切りがある。
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シロサノとかスタディウォーカーみたいな機構原稿と、
プロジェクトとして扱う本があるんですけど、
本は締め切り通りに完成したことが一度もないんですけど、
週の締め切りは絶対に遅れたことないんですよね。
なぜかっていうとそこなんですよね。
週の連載は極力逸脱というか遊びを抑制してるんですよね。
だから当初書こうと思ったものが大体出てきて、
それでOKになってるっていうところなんですよね。
割り切ってるって言い方でもいいんですけど。
本の場合はそうじゃなくて、むしろ連想を生かそう、発想を生かそうとしてるから、
間違いなく間に合わないんですよね、これ。
そうですね。そういうことなんですよね。
なんで連想を生かすようにすると間に合わないかというと、
連想を発想と言うとして、発想が出てきちゃうことによってアウトラインが変わるからなんですよね。
アウトラインが変わるというのは完成しないということなので。
いびつなアウトラインを今日寄せかけたらそうなりますけど。
でも逸脱を抑制しないで書くっていう行為は、
逸脱を抑制しながら書くよりは多分楽に書けると思うんですよ。
精神的にはそうかもしれない。
精神的に、メンタル的に。
逆にすごく連想を抑制して書くとしんどいんですよね、あれ。
言葉を選ぶようになってくるんで。
次の段落が流れで出てこないんですよね。
同じ2000字でも結構辛いんですよね。
そうだと思います。
その辛さの量って実は変わらないと思うんですよ。
つまりスパンが長くなっているから薄まっているだけであって、
あるいは別の場所にしんどさが移っているだけであって。
なるほど。
だからアウトラインプロセッシング的に書くと、
一行一行のしんどさは低いんですけど、
アウトラインをまとめていくときにしんどさがめぐりめぐっていってるっていう感じが。
なるほど。それは面白いというか、確かにそうかもしれないですね。
しんどさの総量は一定であるみたいな。
これはたぶんある程度言えると思いますよ。
執筆におけるしんどさの総量は一定であるとか。
本人の逸脱発生値が変わらない限りにおいてっていう前提ですけどね。
そうですね。それは確かにその通りかもしれない。
この辺はもちろん人によっては少ない人もいるでしょうから、
そういう人は書きやすいでしょうけどね、短い間で。
ただ面白いのはたぶん人によってはアウトラインが変わり続けることのほうが
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ずっとしんどいと思う人もいると思いますよ。
あるでしょうね、きっとね。
見通しのない感じに耐えられないというタイプの人もたぶんいるだろうなと思いますね。
でも仮の全くの用途ではなくて、一応仮の仮決めというか仮固定みたいなのが発生してるわけですが、
それすらないのがスクラップボックスなんで、
スクラップボックスは不安定な状況しかないので、
あれに馴染まないのは僕はわかりますけどね。
私のことですね、それは。
特にツリー構造に慣れてる人間から一足飛びであそこに行くと、
たぶん非常に落ち着かない感じがするかもしれないですよね。
かもしれないですね。
で、逸脱がいつでも許されてるんで書くほうがすごく楽なんですね。
で、アウトラインにまとめることもしないから、さっき言ったあれが全くどこにも発生しないんですよね。
そうですね。ひたすら広がっていくと。
思いつくままに書いていくだけっていう。
ただし読み手に対する軸は与えられないっていうので、やっぱり本当は違うんですけど。
うん。軸。
逆にそうそう、スクラップボックスを退避したときに、
じゃあなぜアウトラインを作らなければいけないのかっていう命題にも立ち向かう必要がありますよね。
全フラットに並んでるだけの本。
そうですね。
それを本と言えるのかっていう話ですね。
言えるのかどうかっていうことですね。
小文っていうのが入ってて、当然アウトラインプロセッシングの効果が、援助が役立つのは長い文章なんですけど、
それは書き手が扱わなければならない構造が大きいからっていうのはもちろんあるんですけど、
読み手にとってっていうのもあるんでしょうね、これ結局は。
アウトライン作ることの意義って、アウトライン的なものは書き手にも有効であり、読み手にも有効であると。
そうですね。
だから読み手のためのアウトラインのことを一般には目次というわけですね。
そうですね。
今まで地面やったから考えたことがなかったんですけど、
スクラップボックスが登場してきて、ようやく目次ってなんやろっていうことを結構考えるようになったんですけどね。
聞けなくてもコンテンツって探せるんですよね、スクラップボックスでも。
でも探しだからって、読めるのかっていうのはまた別の問題なんですよね。
結局本、本じゃなくてもいいんだけど仮に従来のような意味での本って、
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ひとつのまとまりパッケージになっていて、始めがあって終わりがあるっていうことなわけですよね。
はい。
スクラップボックスだと、始めも終わりもない。
読み手が勝手に作るということですね。
そこが読み手にとって居心地がいいのか悪いのかっていう話はたぶんあると思うんですけど。
たぶんそれは好みかもしれないですけど。
居心地って楽さは絶対楽ですよね、スクラップボックスのほうが。
読み手が?
読み手が。気が楽というか。
膨大な量に押しつぶされるしんどさはあるにしても、肩苦しさがないというか。
肩苦しさはないよね、間違いなく。
いつでもつまみ食いOKみたいな感じがあるんですよね。
ひとつ読み手として見たときに居心地悪く感じるのは、
まだ読んでないことがあるんじゃないかっていう感覚があるんですよね。
進捗ゲージみたいなのがゼロですからね、基本的に。
このあるひとつのスクラップボックスのまとまりが非常に自分にとって興味深いものだったときに、
興味に任せてリンクをたどったり、この下に表示されるところをたどって読んでいくわけじゃないですか。
なんだけど、この中にある自分が読みたいものを全て自分は読んだだろうかっていう感覚に苛まれるんですよ。
読んでる瞬間はコンテンツの摂取としては楽なんですけど、ある程度のまとまりとして見たときに網羅感はないんですよね。
網羅感がないですね。
本にあるようなひとつの何かを読んだというか、
自分がそれに取り組んで完了したっていう体験としてのまとまりみたいなものがないわけですよね。
そうですね、全くないですね。
それがいい場合もあるし、よくないというか、従来の本と比較したときに足りないと感じる場合もおそらくあるかもしれない。
あるでしょうね。
そういうことですよね、たぶん。
そこから逆に言うと、本っていうのはひとまとまり感がないと本とは言えないっていう話になりますよね。
なりますね。
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ちなみにこれ音声大丈夫ですか?聞こえてます?
はい、大丈夫です。
その話も実はちょっと長文本の中に関連の話が出てくるんですね。
最初そこが予定がなかったんですよ。
本を読むという体験みたいなものって単にパッケージとしてまとまってるだけなのかっていうことは、
アウトラインで並べていけばいいわけじゃないですか。
そうですね。
それこそツリー構造で情報を整理していけば本になるはずなんだけど、ならないじゃないですか。
まあ本のジャンルによってはなるかもしれないけどね。
前もどっかで倉下さんと話した気がするんですけど、
アウトラインの中にきれいに分類してできたような気がしたんだけど読んでみると全然面白くないっていう話。
何回も同じ失敗をするんですけど。
それはなんで起きるのかっていう話なんですよね。
なんで分類しただけじゃつまんないのかっていうのをずっと考えてて、
なんとなく感覚としてはわかるんですけど。
はいはいはいはい。
そのときに、本っていうか一まとまりになっているだけ、整理されているだけじゃなくて、
最初から読んで終わりまで行くっていう体験がないといけないんだろうなと。
その体験って何かっていうと、リニアな並びなんですよね。流れなんですよね。
流れですね、たしかに。
単にツリー構造に情報が整理されているというだけではそうはならなくて、
並ばなきゃいけない。
それ前にピース・シェイク・ラブという世界でおそらく80人ぐらいしか買って買わなかった本があるんですけど、
それを作るときにそのことを痛感した気がしていて。
並べるっていうのは実はフラットな話なんですよね。
そうですね。
だから並べる順番を考えなきゃいけないっていう当たり前のことに気がついて。
なるほど。
それでそこを意識するようになったっていう。
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それが階層を浅くしなきゃいけないっていうところにつながるわけですね。
おおー。
そうなんですよね。
階層が浅いほうがいいっていう側面に注目する前に、
アウトライナー的なものを使うとつい階層を深く作っちゃいますよね、あれ。
作っちゃいますね。
ほっとくと階層って深くなりますよね、あれ。
部屋が散らかっていくのと同じ原理がどっかに働いてるんでしょうけど。
だから深くするほうが楽なんですよね。
ともいえるし、部屋が散らかるというより逆に階層が深くなるってどんどん部屋を整理してる感じ。
階層を深くするっていう感じだと、物が増えた時に新しく置き場所を作るような感じなんですよね。
捨てるとか既存の収納に収めるというよりは、
新しく棚買ってきて、物が増えたから棚買ってきましたみたいな感じがするんですよね。
で、とりあえず入れてしまった気になってしまう。
そこの場所だけ見ると、それは確かに機能してるんですけど、新しい箱と物だけはない。
でも全体で見ると、そこにいなくてもいいよねっていう感じがある。
深くなりますよね、階層って。
深くなりますよね、あれね。
僕たちのツリー的な考え方がそれを促してるのか、再編成するよりもそっちのほうが楽なのか、僕にはわからないですけど。
深くしちゃいけないっていうことを意識したきっかけのひとつが、プレゼンをするじゃないですか。スライドを作る。
アウトライナーを使う人って当たり前ですけど、プレゼン用のスライドを作るとアウトライナーで構成考えちゃうんですよ、絶対。
最初からスライドを作らない。アウトライナーで構成考える。
すごい気持ちよくアウトラインができて、もうほとんどできたようなもんだなと思って。
それをスライドにしようとするとうまくスライドにならないっていう現象がしばしば発生して。
なんでこんなに整理されてるのにスライドできないんだろうなといつも思うんですよね。
はいはいはい。
あるとき気づいたのは、キーノートでもパワーポイントでもそうですけど、あれは一応アウトラインっていう機能ついてるじゃないですか。
そうですね、ついてますね。
でもあれって改装化できないんですよね。2回装しかない。
そうですね、確かに。
スライドのタイトルがトピックというか項目になって、あとはスライドの中身しか作れない。
はいはいはいはい。
だからアウトライナーとしては物足りないなと思ってたんですけど、よく考えてみるとスライドってそういう構造になってる。
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そうですよね、基本的には。
スライドの構造がそうなってるってことは、実は語りの構造ってそうなんだと。
まあそうですね、まさにそのとおりですね。
語りというのはフラットに平面を動いていくような構造。
っていうことは本も最初から始まって終わるまでの語りだとすると、実はそれと同じじゃないかと。
なるほど。
だから改装が深すぎるアウトラインは本になりにくいと。じゃないかなと。
直すときに面倒にはなりますね、フラットになって。
プレゼンテーションの話からいくと、普通プレゼンテーションはまっすぐに一列にずっと並んでいくと。
で、表示されるスライドAとその次のスライドのBは見てる人からするとその深さがわからないですよね、当然。
それが大項目の話をしているのか、それが続いている中項目の話なのかはそのスライドを見ただけではわからないですね。
スライドに障害が貼ってあったらわかりますけど、スライドの表現自体ではわからないですよね。
わからない。
だからこれがたとえば1、2回数ぐらいであれば聞いてる人が翻訳できるんですけど、3ぐらいの深さになってくると、
自分が今どこの話を聞いてるのかわからないからね。
それと同じことが文章でも言えるっていうことなんですよね、要するに。
そういう感覚を抱いたんですよ、なんか。
これはたぶん論文でも1、2、3ぐらいまででしょうね、きっとね。
まあ目的にもよると思いますけど。
そうなんですよね。
だから結局アウトラインが最初は深い階層になっていて、もう完成に近づいていくにつれてだんだん浅くなっていく。
浅くしていくことを意識しないと多分流れを作れないっていう感じですかね。
ちなみに今執筆されてる本の一番最初の作業はアウトラインを書くことだったと思うんですけど、
どのような、たとえば将来を並べたようなアウトラインですね。
それともキーワードだけが並んでるようなアウトラインですね。
今回は商題を並べましたね。全然使い物にならないんだけど商題を並べました。
その中にそこに入りそうな項目を入れていくみたいな。
正確に言うと、商題をなんとなく思いついて書いて、その商題を見ながらフリーライティングをした。
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フリーライティングをした後、出来上がったらそのフリーライティングをバラバラにして商題の中に組み込んでいくっていうところから始めた感じですね。
なるほど。これまで書いた本で、いわゆる経済法的に商題をまず立てずに、
全ての項目をまずフラットに並べてから少しずつ階層を上がっていくみたいな書き方されたことってありますか。
ありますけれども、あるけれどもうまくいかなかった。
それって要するに純粋なボトムアップってことじゃないですか。
そういうことです。
純粋なボトムアップからスタートするとうまくいかない。
ボトムアップはものすごく大事なんだけれども、ボトムアップからまとめていこうとするとうまくいかない。
そのいかない具合はどこで発露するんですかね。
小レベルになったときに、そもそも小レベルにまとまらない。
例えば書きたいことを、箇条書きでフラットに。
それを内容ごとにまとめていって、まとまりができてきたらこれを並べ替えて作っていくみたいなやり方をする。
そういうやり方があると思うんですよね。
そういうふうにやって実際に並べ替えるところまでいくことが何度もあったんですけど、
結果的にそれがうまく機能しなかったというか、そのままボトムアップを整理して並べ替えるという方法で、
一定以上の長文が完成までいったっていうことがたぶん一度もなくて。
だからうまくいかないというか、自分がそれができないっていう。
はいはいはいはいはいはい。
だからといって、アウトライン、書立てを作ってその間を埋めていってももちろんできないと。
商題を並べてからフリーライティングするっていうのは両方やってるんですよね。
そうですね、確かに。
だからフリーライティングだけをやってそこからまとめようとすると、たぶん一つの流れにならないというか。
フリーライティングと過剰書きのラレーズはまたちょっと違うんですよね。
45:02
過剰書きのラレーズをまとめていくとうまくいかないんだけれども、
ある程度文章の形で書き出したものをまとめていくということはできるというか。
そういう違いですね。
話が前後しましたけど。
今思い出したように、過剰書きというのは流れがないんですよね。
そうですね。
流れがないものをまとめていってもどこまでいっても整理にしかならなくて、自分の場合は。
それをどうするかっていうと、フリーライティング、過剰書きじゃなくて文章の形で書き出したときに、
その文章の中にすでに断片的に流れができてるんですよね。
はいはいはいはいはい。
で、その流れをいくつか取り出していって、流れを並べ替えるというか。
はいはいはいはい。わかりますわかります。
そこから始まると比較的オートラインの中に流れを組み込みやすいというか、
ただの項目を整理したものにはならず、すでに流れがその中に組み込まれている状態からスタートできるということが比較的多いっていうことに
気がつきつつある感じ。
なるほど。僕は今、僕らの製造戦略っていう本を木字案レベルで考えてて、
もともとあった木字案を逆化したんですけど、
新しく立てようって思ったときに、逆に小レベルをまず考えないようにしようと思ったんですよね。
今、項目が並んでるだけなんですけど、
この流れがうまくいくのかなってふわやかに聞いたんですけど、
話を聞いて思ったのは、僕の場合は過剰書きじゃないんですよね。
文章を切り取ってるだけなんですよ。
あれメルマガに書いてたやつじゃなくて。
メルマガに連載してた文章からできているわけではない。
もともとバージョン1の木字案はメルマガで書いてたものを、
あれそれがちゃんと小レベルで書いてたんで、僕は。
で、そのままいこうと思ったんですけど、
結構1年ぐらいかな。あれ書き終わったのが2年ぐらいかな。
結構前で。
とりあえず頭から読み返そうと思って、読み返してたら全然ダメで。
全然ダメで。びっくりするぐらいダメで。
初めはもともとの構造を残したまま、6章の正立を残したままで、
なんとか手術して読めるようにしようと思ってたんですよ。
でも、それはいつまでだっても進まなかったんですね。
48:00
その作業そのものが。
だからもう1回パージしようと思って。
で、書いてたものは当然頭にはある程度入ってるんで、
今、だからそれを見ながら書くんじゃなくて、
今の僕が書きたい、それに関することで言いたいことを、
2段階レベル、タイトルとその下に項目っていうものを、
一列に並べていくっていうことをマスクラフォークス上でしてるんですよね。
これはね、やや語り、半語りみたいなもんなんですね。
で、言われるように流れがあるんです。
この話題はこっちに向かっていくみたいなのをベクトルを持ってるんですね。
多分それに合わせて並べ替えたらいけると思うんですよ。
逆にこれを例えば同じキーワードを含んでるからというようなまとめ方をすると、
それはダメなんですよね。
だからその箇条書きからボトムアップしていくときのまとめ方が、
たぶん鍵なんでしょうねっていうのをちょっと今思ったわけですね。
そうかもしれない。
でもそうなんですよね。
でも変な話、倉下さんはもう何十冊も本を書いてるし、
アウトプットの量ってたぶん僕の50倍ぐらい。
量は多いですね。
それでも、僕以前自分がこういうふうにしか書けないのって、
経験が足りなかったりとか、
言ってしまえば技術的な問題だったり能力的な問題だと思ってて。
もちろんそれもあると思うんですけど。
センターの倉下さんであっても、同じようなというか、多少性質は違うにしても、
分類しただけでは書けないとか、そういうことが発生するわけじゃないですか。
発生しますね。
なんでこんなにできないんだ、できないというかこんなに難しいんだろうなと思って。
2種類あって、1種類すぐ思いつくのは結局本は毎回違う構造なので、
そのメッセージに合わせた構造を必要とするという点があって、
もしこのアウトプットが毎回同じ構造のものであれば、
僕が書いてくる半分ぐらいは多分なくなると思うんですよ。
もう半分はさっき言った、書きながら考えながらアウトラインを変えざるを得ない点があって、
これがどんだけレベルが上がっても避けて通らないですよね。
僕がレベルの最上限にたどり着かない限りは絶対に起こると思うんですけど。
もちろんあれですよね。レベルが上がったら上がったで、
結局上のレベルが見えてきてしまうために包まれたっても、
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ダクラフトができるようにはならないってことですよね。
僕がある種の自己コピー、セルフコピーで仕事を良しとする人間であれば、
迷うことはもっともっと減るとは思うんですけど。
そうですね。
書いててつまらなくなるんですよね、構造をなぞることが。
はい。
なので、ある意味楽しく仕事をしていくために、
この苦悩は避けて通れないというか。
そういうことなんですね、きっと。
おそらくは。
未踏。
作ってみた書立がただの分類でしかなかったみたいなことは、
徐々に避けられてると思うんですよ。
初めからそういうミスが起こることは知ってるんで。
でも作った構造がメッセージにそぐわないっていうことは普通にあるでしょうね。
結局そのメッセージって、考えるプロセスの中で生まれに
ファインドアウトするものなので。
だから絶対1回以上変わるでしょうね、おそらく。
でしょうね。きっとなるんでしょうね、きっとね。
おそらくは。
コアにメッセージは変わらないとしても、
あるいはこういう読者に伝えたいみたいなのが変わらないにしても、
その中で何が一番大切なのかみたいなとこは多分変わってくるんでしょうね、きっと。
そうですよね。書きながら変わっちゃいますよね、多分。
書きながら変わってきますし、
例えば本を書いてる期間中に読んだ本の話とか、見た映画の話とか、
こうやって喋ってることによっても変わってしまうんで。
そうですよね。
だから部屋に閉じこもって、誰とも会話せずに3ヶ月、
その本だけに当たってる場合は変化は小さいかもしれないけど、
人間は多分そういうものではないので。
だからこそ変化を受け入れるアウトライナーっていいよねっていう話になるんですよね。
いいところに行け。
人間そのものが変わらざるを得ない以上、
それを受け止めるツールも変化を共有してくれないので困るということですね。
そういうことですね。
だからアウトライナーに限らず、
知的生産と言っちゃっていいのかわからないけれども、
それを受け入れてくれないと良くないということですよね。
知的負荷はかなり上がるでしょうね。
おそらく同じ作業をするにしても。