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2023-04-20 1:13:38

第百二十五回:Tak.さんと二冊の本について

2 Comments
ポッドキャストの新しいサービス
はい、うちあわせCast第125回ということで今回もゲストにTak.さんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ナンバリングすっかり忘れております。125回と。
簡単なライフハックニュースなんですけども、
リッスンって多分読むと思うんですけど、日本初のサービスがありまして、ポッドキャストをアグリゲーションするっていう感じかな、いうサービスなんですけど、
自分のブロック、運営しているポッドキャストっていうのは、たいていRSSを発信してるわけなんですけども、
そのRSSをこのリッスンに登録すると最新情報が出てくる。
かつ、その放送内の音声をAIが勝手に文字起こししてくれるという、結構アンビリーバーなサービスでして、
一応その概要に、このウッチャスキャストも登録して、登録しただけで、
時系列でいうと、新しい方から古い方に文字起こしが進んでいくらしく、最近のはたぶんきっちり文字起こしされてて、
当然、このポッドキャストは2人で喋っておりますので、どっちがどっちかわかりませんが、
ちょいちょいおかしいところもありつつも、でも例えば、ノーションっていうのが綺麗にアロベットで表現されていたりとか、
マイクロソフトとかそういう固有名詞もきちんと拾ってくれますし、
おかしな日本語のところはだいぶ少ないんで、
キーワードを検索して、どこでこれ喋ってたかを見つけたりとか、その部分から再生することができるんで、
15分のところ、02とかやったら15分とかで再生できるんで、結構これは便利だと思います。
Macのショートカット機能とアプリ連携の可能性
なるほど、よくできてますね。
打合せキャストがYouJustキャストになってるところがなかなか楽しい。
あまりよく使われないこともないからでしょうけど、AIの認識低いんでしょうけど。
これ僕何もしてなくてただRSSを登録しただけでこうなってくれてるんで。
すごいですね。
ポッドキャストはコメントを書きづらいっていう問題があるんですけど、
ちゃんとそのリストの下にディスカッションっていうのがあって、
アカウントが持ってる人はその回の放送についてコメントを書くこともできるので、
配信プラットフォームとは別の形のプラットフォームを作ろうとしているのかなという印象があります。
結構すごいですね、この文字起こし。
大変ありがたい。
このままでは全然使い物にはならないんですけど、
あの時何喋ったかなを確認するぐらいであれば、かなり使えると思います。
なんかデイブ・ワイナーさんがちゃんとカタカナでデイブ・中黒ワイナーになってる。
なってますね。
すごいですね。
よく使われる言葉とかは非常に、エヴァーノートが微妙にカタカナなのが気になりますが、
でもまあまあ大体は使えるかなと思います。
これちなみに作ってる会社って、
はてな創業者の近藤さんが経営されている会社ですね。
バイクでアウトライナーがアップデートしたっていうのを見かけてアップデートしたんですけど、
ショートカット機能が痛めたのが、ショートカット機能が今からあったんやと思ったんですけど、
Mac OSのshortcut.appに使えるようになったということで、
これ結構すごいことで、最近のツール全然あれ対応してないんですね。ショートカットapp。
なぜ対応していないかっていうと、ネイティブアプリじゃないかなんですね。
だいたいそのウェブブラウザーをパッケージングして、
結局そのページの情報を読み込んでいるだけということで、Macの機能そのものを使ってないんですね。
ウェブブラウザー経由で全てのことをやってるものが多い中、
バイクはネイティブアプリ、Macのアプリとしてちゃんと作られてるので、
ショートカットappとも接続ができると。
接続ができたから何が嬉しいか僕にはまだイメージはできないですけど、
古き良きMacの文化とかそこにあるなどはちょっと感じます。
まあ他のものといろいろ連結できるっていうところはあるんでしょうけど、
今、そうですよね。だから今それをやりたい人がどれだけいるかっていう。
連結っていうかショートカット。
ショートカット機を使うことである程度自動処理ができるとは思うんですけど、
アウトライナーに対しての自動処理はどんなものが求められてるのかっていうのが若干イメージしづらいところはあって。
そうですね。
だからそこにいろいろ組み合わせて機能的なものを作ったりっていうことなのか。
昔からのMacユーザーでいうと非常に嬉しく感じるし、
僕もEvanoteは昔のAppleスクリプトをよく使ってたんですけど、
アウトライナーは新しいLINEを追加するとか、グループでまとめるみたいなことは多分できるんでしょうけども。
簡易のメモっていうかクイックメモみたいなことは多分やりやすいでしょうね。
バイクを立ち上げなくてもどこかに追記できるみたいなことは多分できるはずで、
バイクやアウトライナーといった便利なツールについて
まあそれくらい。
だからでも難しいところですね。
だからさっき言ったネイティブアプリじゃないウェブツールアプリっていうのは、
MacのショートカットのAPPは使えないんですけど、
基本APIっていうのがあって、
別のパソコンとか別の環境からでそれらのノートを操作できるんですよね。
だからどっちが閉じてないかって言って、APIの方が閉じてないんですけど。
そういうことですよね。
でもちょっと難しすぎるところはあるんで、
ショートカットAPPも結構難しいんですよね。
あれショートカットってあれでしたっけ?
昔で言うアップルスクリプトをもっと簡易化したじゃないですか。
コードを書くんじゃなくて、命令のブロックの組み合わせでできるってことで、
例えばエヴァーノットのノートをメモアプリに移動するとか、
アプリ同士の連携を簡単な操作だけですることができるというのもあるんで、
いわゆる本当にライフハック的なことをするのにぴったりではあるんですが、
あんまり僕のタイムラインでもニュースは上がってなかったので、
注目度は低いかなと思うんですけど、
今後もじわじわとこういうふうに昔ながらのMacの文化で、
バイクというアプリケーション作られていくんだろうなというような感じは受けました。
それはそれとして、バイクはMacで使う限りは素晴らしいアウトライナーなんですよね。
最近僕もたまに使うんですけど、たまに使うとすごいいいですね。
使い心地の感じがちょうどワークフローイズと主にアウトライナーの中間的な、いいとこどりした感じがするんですよね。
アウトラインツールの比較
うん。余計なものがとりあえずほとんど全くなくて、
あとはファイルが分かれてるのが好きなのか好みかどうかぐらいのところはありますけど。
そうそう。だからアウトラインのファイル形式にプレーンなテキストファイルを選べるんですよね。
だからアウトライナーでアウトラインとして操作してるんだけど、テキストファイルとして保存されてる。
OPMLでさえない。
だから逆にそれを普通のテキストエディターで開くと、
普通に単にタブの数でインデントの深さが表現されたテキストファイルになってるんですけど。
あれは素晴らしいですね。
そうですね。原理的に考えたら全然作れる話で。
そもそもOPMLにこだわってるアウトライナーって昨今は少ない。
エクスポートはOPML選べるけど、
多分ファイルの保存の形式は大型OPMLになってないでしょうからね。
多分主にアウトライナーとか使うときに、
グレッド的なもので外から検索するためだけに保存のファイル形式をOPMLにしてたんですけど、
わざわざそんなことをする必要もなくなるし、
OPML、検索はできてるとしても、開いてすぐに使える形じゃないので、
そういう意味ではすごいね。
もしかすると割にバイクがメインになってっちゃう可能性もあるなと。
そうですね。
ここが、一応LOGSEQもマークダウンファイルで、
タブ+ハイフンかの形がマークダウンとして扱われるという形で、
どちらも選択肢としてはあるんですけど、
LOGSEQはアップデートがはぎすぎるというものがありまして、
総合的なノートアプリとしては全然LOGSEQの上だとは思うんですけど、
ちょこっとリストを作りたいだけの時にはやや大げさがないという気もするので、
大掛かりすぎるところがありますよね。
だから総合ノートファイルとしてのLOGSEQとアウトライナーとしてのバイクは
ちょっと別物として使い分けた方がいいかもしれませんね。
そうだと思います。
今までだったらテキストエディターでちょこちょことメモ帳代わりに作っていたものを
バイクで作るようになっちゃいましたね。
要するにアウトラインとしてじゃなくて、
ただのテキストをメモを作るときにバイクを使うようになりつつあります。
やっぱりこういうシンプルなツールは見てても気持ちいいですね。
村上博氏の新作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の感想
この前新しいツール見つけてアカウント作って試し書きしようと思ったんですけど、
いざ書くっていうところにたどり着くまでに、
3つぐらい深い階層から適切なボタンを選ばなければならないという状況になって、
もうなえましたね。
10年前はそれの状況にワクワクしたのかもしれないですけど、
今はもうそこまで、
そういう機能が10あってもたぶん0.5ぐらいしか使わないことがわかってるんで。
そうですよね。難しいところですよね。
だからスクリブナー的、
莫大な機能があるタイプのものが流行らなくなってはきてるんですけど、
でも一方でそれが必要な人がいるっていうのがわかるんで、
難しいところですよね。
高機能と複雑さ。
高機能であることはもちろんいいんですけど、
日本のテレビのチャンネルみたいな、
テレビの主チャンネルボタンみたいなことは、
たぶん考える道具としてのデザインとしては間違っていると思うので。
だからそうなんですね。
だからスクリブナーは考えるためのツールにはなり得ないんですよね。
あれはどうしても一番最後のところのまとめるところで活躍する傾向が高いのは、
やっぱり認知的にちょっとリソースを食いすぎているというところがあるでしょうね。
だけど開発者側の意図としては、
考えることに使ってほしそうな機能もたくさんついてる。
そこが難しいところなんですよね。
シンプルなボタンとかほとんど消えるビューとかモードみたいなのがあったら話は別なんでしょうけど、
結局あらゆるボタンが見えている状況で話が進んでいくっていうのは、
無視すりゃいいじゃんっていうことができないのが人間の認知なので。
段階とかプロセスごとに合わせたツールの見え方っていうのは開発をする人も意識してくれると嬉しいかなという気はしますね。
そうですね。
前回言いましたけども、
村上博さんの新作が出るという話で、
出た当日に僕が買ってその日に読み終えたんですけども、
タイムラインを見る限りではたくさんも読み終えられたと思うんですけど、
僕はそもそも面白くない本は読み終えないので、
読み終えた段階で一定面白かったっていう評価は下っているわけですけど、
どうでしたかって先に聞くのはあれなんですけど、
僕としては村上博さんが書いた村上博作品だなという感じがすごくして、
懐かしいって言うとちょっと大げさですけど、
いわゆる村上博作品を読んだなという感じでいっぱいでしたね。
まあそうですよね。
たぶん良くも悪くもというところはあると思うんですけど、
新しい世界観を切り開いたというよりは、
初代から中期ぐらいの村上博風な感じがしてましたね。
ちょっと海辺のカフカンも連想しましたけど、
やっぱり中心となるのは世界の終わり側。
世界の終わり側は、前3部立てのパート1の方でリメイクというんですかね。
これはなんというのかわかりませんが。
リメイク、リライト。
で、確かに一つの、春樹さん風に書き直されてて面白かったのは、
パート1のセクションが短いんですね。
軽やかに読めるように仕上げていて、
で、あの読み方の感覚のまま、
一応新しいシチュエーションに仕立てられてるんですけど、
そのシチュエーションそのものが、いわゆる春樹作品なんですよね。
つまり、青年と女性、なんていうか少女がいて、
その距離感の感じが、いかにも村上博作品なんですよ。
そこらへんは、なんかある種の踏襲してるなと思いつつ、
まあ2部になると結構ドンと変わるんですよね、そのパートが。
どこまでネタまで言っていいか知らんけど、
まあ図書館に勤めることになると思うんで、
結構唐突な感じしませんでした?
まあでも、一部に出てきてますからね。
そうそうそう。
で、まあ、勤めることになって、
まあたぶんおそらく図書館の描写ができたのは、
村上ハルキ作品の特徴
春樹さんが村上博書店ライブラリーっていうのをちょっと前に作られた頃と、
たぶん影響してるのかなと思いながらも読みましたが、
そこがちょっと、作風としては同じだけど、
なんかつもがれるメッセージがちょっと新しかったというか、
今までよりももう一歩先に行ってたかなという印象を覚えまして、
やっぱりあの、ネタバレやふせくと、小康さんか。
小康さんやったかな。
小康さんの存在が今までの作品とちょっと違う位置づけかなという感じがあって、
で、それがさらにもう一人出てくるTシャツの男の子。
名前忘れたから名前はないんか。
名前はないです。
Tシャツの男の子、だから主人公の僕を中心として、
小康さんとTシャツの男の子の関係性、
あと僕自身と過去の、若かった頃の僕の関係性っていうのが、
多分並行で語られてるかなとは思ったんですが。
継承の物語という意味では、
カフカ君もカフカと、名前忘れましたけど、
老人の方が、
カフカさん。
そうそうそう。
が出てきたんですけど、
あそこは直接的な男人っていうのはあんまり描かれてなかったんですけども、
この作品では結構僕と小康さんか、
名字が読みにくいから覚えにくいですね。
小康さんが結構密に対話するというのがあって、
ハルキ作品って結構それがなかった気がするんですよね。
つまり年上の人に教えをこうっていうような関係性っていうのが、
今までなかったと思うんですよ。
ある種の導きとか掲示みたいなのがあったんですけど、
あそこまでダイレクトの対話っていうのがなくて、
そこがこの作品の一番新しい、
ハルキさんが今まで描いてきた作品より一歩進むとこういうことになるのかなー
というのはちょっと言われながら思ってました。
その関係性は今までなかったものですよね。
今までの村上ハルキ作品を広く読んでいる人とそうじゃない人では全く印象が変わる作品ですよね。
そうやと思います。
今まで書籍化されていなかった、かなり初期に描かれた
「街とその二重な壁」という、
村上ハルキさん自身が失敗作だと意思づけている作品のリメイク+アルファ弾ですけど、
たぶん失敗作なんだけど、
おそらくものすごく重要な作品だったわけですね。
本人の中では。
それがおそらくノルウェイの森とか、
世界の割とハードボイルドランドとか、
もうちょっと後になると梅雨のカフカとか、
ああいうところに分岐していく、その一番根っこの部分の作品だったと思うんだけど、
あまりにも重要すぎて、たぶんその頃のハルキさんの力では描ききれなかったという認識を持ってたわけですよね。
で、たぶんかなり村上ハルキさんも年齢が上がってきて、
やっぱりあといくつ上辺が描けるかっていうことも、少し前から考えられていると思うんで、
その中でやっぱり重要なはずだった、
自分のある意味では、自分の作品に世界の根幹となるものを、
ちゃんと描ききりたかったというところだと思うんですよね。
それは村上ハルキさん自身がそう書いてるんで、
それをそのまま信じるか信じないかという、
100%そう受け取るかどうかっていうのはまた別の話ですけど。
だから、っていう予備知識を持って読んじゃっていること、
そうじゃなく読んじゃってるのが全く違って見えるんですけど。
ただその小道具がものすごく、今までの村上ハルキ的なものを、
ほとんど多分意図的にどんどんぶち込んでいる感じがする一方で、
結構読語感は違うので、ちょっとまだ一回読んだだけなんで、
いろいろネタバレもあるし、書くことができないですけど。
ただやっぱり今までの特に中期以降の村上ハルキ作品が、
あんまり完結させないで開いていくという印象を残して、
それが批判されたりもするんでしょうけど、
そういう印象だったのに対してものすごく閉じてるように思ったというのと、
好きか嫌いかといえば好きだと思うんですけど、
ずいぶん違うというか、これはやっぱり年をとった文章自体が、
もっと言っちゃうと、多いった感じ。
必ずしもネガティブな意味じゃないんですけど、
圧倒的な体力を感じなくなったというか、
「枯れてきた」っていう言い方が一番よくされる言い方だと思うんですけど、
その枯れた感じ、特に第2部以降ですよね。
ただそこに出てくる人物自体が、
なんというか生命力を奪われちゃったような人たちばかりが出てくるし。
そうですね、確かに。
やっぱりかなり不気味な話ですよね。
そうですね。なんかライトに書かれてるんですけど、不気味な話ですね、これは。
ネタバレをせずに話すのが難しいんですけど。
これかなり難しいものか。
2部はほぼ、ネタバレした方がどうってことはないんですけど、
ちょっと読書の面白さを減らしかねないので、ちょっと言いかねるんですけども。
まあでも、結構明確なテーマとしては「生」と「死」っていうものの、
連続性と断絶っていうものが出てきて、
やっぱり結構「死」の感じが近いですね。
今までの作品よりももっとクリアに近い感じがしますね、この作品は。
そうですね。
「死」というか「生」というものの匂いがあんまりないというか、
逆に全部死んでるように見えますね。
まあそう、舞台設定が。
街の中はともかくとして、選ばれた第2部の舞台も都会の喧騒ではない場所で、
特に街の中も描写されるわけでもなく、最初て。
もともと画期のない街としては描かれてますけども、
だから生活みたいなものはほぼないですよね。
そうですね。
まあそこだな。
でもまあそういう世界を提示したが、
まあでも、それはハラキ作品は全般的に、いやでもそうでもないか。
「死」と「生」をテーマにした作品
難しいところだな。
まああと、あれですよね。
これはどうなんだろう、これネタバレになっちゃうのかな。
これはまあやめときましょう。
これまでの長編史上初めて主人公があることをしてないですよね。
ああ、あることね。
これもかなり画期的なことですよね。
そうですね。
まあどういう意図というか、
物語の流れ的にそうだったのか、それこそ年齢の話なのか、わかりません。
そういう部分に今まで金融館を持ってこられた方も多分いらっしゃると思うので、
まあそういう意味ではちょっとまぐて広いかもしれないけど、
これはでもやっぱり今までの村上ハラキ作品を呼んできた人のための作品という感じは強くするので、
別に新しく呼んでもいいと思うんですが、
骨の隅まで味わう場合はいくらかの作品をチェックした後に呼んだ方がいいやもしれないですね。
そうですね。
だからこれやっぱり、例えば初めて村上ハラキの長編としてこれを読んだ時にどんな印象を受けるのかが、
正直もう自分は測れなくなっちゃってる。
そういうふうにはもう読めなくなっちゃってるんですよね。
それだけ自己言及が多いし、
自己引用というか、特に言っていいじゃないな、
自己引用、セルフパロディみたいなものが多いし、
そうまとめなのかもしれない。
そんな感じかもしれないですね、確かに。
まあ元々彼は自分でもプロットを作って作り上げていくタイプではなくて、
自分の井戸から掘り出してくるとおっしゃってるので、
それは同じものが出てきますわな、当然。
あえて変えない限りはそうなるでしょうし、
そうすることに意味がある。
もう一回あの話を語り直すことに意味があるんでしょう、きっとね。
ただ単にそれだけじゃない、
ある種不気味な特語感が残ったのがなんなのかがまだよくわからない。
僕は結構思ったより、きれいなというか、良い話だったなと思ってますね。
やっぱり、ハードボルトワンダーランドは興奮はするんですけど、
一番最後にどこにも行けない感じっていうのが残ったんですが、
どこにも行かないことを選択したからなんですけど。
どこにも行かない選択をしたはずなのに、どこかに行ってしまったとこから大義務が始まってるってことが、
僕はある種の意志と意志を超えたものに身を任せたっていうことが、
呼んでて気持ちよい感じは、心地よいというか、
良い話だったなという感じがありましたね。
そうですね。だから本当にそれがその外に出たのかどうかがわからないんですよね。
「セカンドブレイン 時間に追われない知的生産術」の書評
まあこういう話だったんで、
森上博之さんが好きだったら、
「よしあしは関係なく」を一回読んでみたらいいかなと思います。
楽しめることは間違いないですね。
そうですね。それは間違いなく。
でも結構考え込む作品ですね。
で、同じ読んだ本関連の話で、
もう一個、
「セカンドブレイン 時間に追われない知的生産術」という本を読みまして、
最近僕が、結構最近出まして、
2023年の4月発売で、
著者がティアゴ・フォーテさんという方で、
この界隈では結構有名な方ですらしいです。
この界隈は知的生産とか仕事術界隈ということで、
僕が書店の本棚を作るんやったら、
GTリボの横に置くようなタイプの本やと思っていただければ、
おもりに間違いないと思うんですけども、
全てのノートをデジタル化すると素晴らしいよということで、
セカンドブレインと第2のノートというコンセプトで、
このコンセプト自身はすごく古いわけですよね。
セカンドブレインというのを述べて、
その概念を構築した方が著者なんですけども、
結局、全てはノートから始まると書いたようなことが
まず書かれていると、記録するといいよということが書かれているので、
どうやって情報を集めていくかというので、
CODEという4つのステップが紹介されてまして、
CはCaptureですね、OがOrganize、
DがDistillって言って抽出という意味ですね、
EがExpress表現と、
知識生産の工程ですね、
要するに収集して整理して抽出して表現しましょうと、
こういうのがまずコードメソッドと。
で、そういう大きなワークフローの中で情報をどう整理するかという話で、
PARAというメソッドがあると、
これもインターネット、アメリカ系のこの手の話題好きな人は有名なんですけど、
ProjectのP、EreaのA、ResourceのR、ArchiveのAと、
この4つの頭文字で情報を整理分類しましょうと。
で、一応経営願というか、
よい着想点やなと思うのは、
そのProjectとEreaというのを分けている考え方で、
Projectというのは言われるGTのプロジェクトですよね。
要するに複数のダスクの集合体であり、かつ明確な終わりがあるものをProjectと。
で、Ereaというのはそういうのがないもの、終わりがないもの。
例えば、家を綺麗に保つというのはProjectじゃなくてEreaだよというような話で整理しましょうと。
あと自分が使う情報はResourceとしてまとめて、使い終わったものをArchiveにしましょうと。
このコードとPARAのメソッドを使って、
自分の情報を整理していき、セカンドブレインを作りましょうという話なんですけど、
書いてあることは極端極まっとうなんで、ちょっと古いなとは思うんですけど、
別に間違ったこと書かれてないんですけど、
読んでてすごい空虚な感じがしたんですね。
読んでも何もワクワクしないというか、
思ったより自分の中に湧き上がるインサイトが何もないみたいな、
ずっと風雲で進んでいく感じがあって、
別に先ほど言った内容値が間違ってるわけではないんですよ。
もちろん僕がやってることもこれに近いことがあって、
空虚さは何が原因なのかっていうのを考えてたんですよ、読みながら。
何かがあるから空虚なのか、何かがないから空虚なのかは分からないですけど、
何か自分が欲しているノウハウと、この本が提示しているものが違うんですね。
この帰りがあるところで、なんだろうなって思ったときに、非常にシステマティックなんですね。
まとまってて整理されてると。
で、その、なんて言うのかな。
割り切れないものなどないみたいな感じ?
で、全編統一されてるんですね。
こうすればもう全てうまくいきますっていう。
で、割り切れないものがないっていうスタイルが、
どんな感じで書くとどうなかっていうと、
著者が経験してきたはずであろう戸惑いとか試行錯誤みたいなのも、きれいさっぱりないんですね。
ノウハウと試行錯誤の関係
完成品がドンと制御されてて、さあこの通りやりましょうみたいなテイストなんですよね。
で、やっぱりそれは、映画の張り端を見てるような感じ?
全くもってきれいに見えるけども、ノウハウの内術ってそうじゃないよなって思うんですよ。
で、たくさんとかマリエさんのノウハウの面白いところって、
そういう自分の葛藤とか試行錯誤を隠さないというか、むしろ素直に出していくところがあって、
そこがノウハウを読む人の心に響くような感じがするんですね。
で、結局、うまくやろうとしてもやれない自分っていうのが絶対にいるわけじゃないですか。
でも、セカンドフレインという本を読んでると、そういうものが入り込む余地がないんですね。
うまくできない人っていうもの、うまくできない状況とかシチュエーションではなくて、
割り切った形、この通りにすればうまくいくというテイストになってて、
そこが僕はやっぱりノウハウの決定的な弱点というか、
人を助けようと思ってるけど助けられてないところがこういうところにあるんじゃないかなというのを、
この本を読みながらずっと考えてたんですよ。
方法を教える人も人間であって、その方法にたどり着くまでにいろんな苦労があったと。
つまり歴史があったと。
むしろ人を勇気づけるのはそっちの歴史の方じゃないかなと思うんですよ。
最終的に提出された方法を使ってうまくいかないはもちろんありますけど、
それ以前に人は苦労してノウハウを作るんだっていうことを伝えるということが、
それよりも1000倍も2000倍も重要じゃないのかなと。
そうですよね。で、あと完成されたノウハウの根拠というかベースになってるのは、
実はうまくいかなかった時の試行錯誤だということが見えるっていうことですね。
そうですね。そこの部分の有無って、伝えたい情報の優先順位で言うと、
結構下の方に位置づけられてしまうかもしれませんけど、
実際は逆なんじゃないかなと思うんですよね。
最近のノウハウ本が一番最初に切り捨ててるものが実は一番重要じゃないかなと。
自分が読んでて面白いのって、野口先生も整理がうまくいかなかった期間のことを書かれてて、
今こうやってたどり着いたっていうことがありますし、
梅沢先生もフィールドに行って自作でノートを作ってペリペリやってた苦労をそのままカードにしたらうまくいったっていう歴史が書かれてるんですよね。
で、そういう歴史に励まされる何かみたいなのが多分あって、
そこを抜きにして語ると、知識としてのノウハウは増えるかもしれへんけど、
何か経験的なもののプラスになってないし、
なんかそれがないと結局挫折するような気がするんですよね。
はい。
だから挫折することは避けがたくて、挫折してもいいんだと思えるってことかな、要するに。
そこが完成されたメソッドやと、失敗なんかしませんよみたいな顔をしてるので、
なんか失敗してしまうとあたかも自分がおかしいような感じになってくる。
でも、著者も失敗してこうやってやってきたんですっていうものがあれば、
自分の失敗も相対化できるんじゃないかなと思うんですよ。
だから、こうやってカッコいいメソッドって、
カッコいいだけになりがちだなというのは、ちょっと呼んでて思いましたね。
でも本当それは僕自身が最近の、
最近のというか今のノウハウ本を読むときにいつも感じることなんですけど、
でも多分そうじゃない人の方が多いんだろうなっていうふうに感じさせられることも多いですよ。
だから倉下さんは、例えばさっき僕の本とかマリエさんの本って言っていただきましたけど、
一方でレビューを見ると、本題じゃない余談ばっかり書いてあるみたいなことを思われる人もいるわけですよね。
だからそれはどっちが正しいというものではもちろんないんですけど、
ただ自分はそういうプロセスというか、試行錯誤の過程から書かれているものが僕自身は好きだし、
倉下さんもおそらく好きなんだと思うんですけど、
好きだし昔からそういうものにいろんなものをもらってきた、受け取ってきた自覚があるんですけど、
明らかに減ってますよね。
いわゆるファストな情報を好む人たちにとったら余計でしかないのは間違いないんですけども。
情報が好まれる好まれないというのはもちろん好みの問題としてあると思うんですけど、
例えば有用度という観点に立ったときに、
やっぱりそういう好まれる情報は好まれるかもしれないけどもという感じがするんですよね。
だからダメだとは言わないですけど、
自分が書くものについては、直接的に試行錯誤を書けばいいかどうかわからないですけど、
そういうことを否定しない、
むしろ失敗というのがあるっていうことを肯定しながら書きたいとは思いますね。
そういうものが読みたいと僕も思いますね。
結局、前メルマガガが書いたんですけど、GTDとかって情報整理して、
モヤモヤと向き合うことの重要性
ネガティブ・ケイパビリティーみたいなのがないみたいな話を書いたんですけど、
モヤモヤっていうのが保持されない。
モヤモヤしたものはとりあえずその段階で何かし位置付けて先に進もうみたいな感じなんですけど、
このコードメソッドもパラーに落とし込めば、モヤモヤしたものっていうのはどこかに位置付けられるんですけど、
例えばあるノウハウを自分でやってみるじゃないですか。
何でもいいんですけど、
最初からうまくはいかないんですよ、絶対に。
その時にモヤモヤするじゃないですか。
ここが問題で、モヤモヤしたときに、
じゃあ別のツールに行こうってやってしまうと、やっぱりダメだと思うんですよ。
そのモヤモヤとちょっと付き合う必要があると思うんですね。
で、うまく使えないのはなぜだろうとか、
ここが変えたらどうなんだろうっていうモヤモヤと、
モヤモヤ見つけ付きみたいなのを過ごすことで、
自分の道具をどう使うかみたいな認識が初めて変わってくると思うんです。
そこを経ないでモヤモヤゼロにするために、
ノウハウとその使用法について
どんどん新しいツールとか用語に飛びつくっていうと、
時間の消耗以上に深まっていかない。
理解とか知識みたいな深まっていかないっていうところがあって、
そこはやっぱりそのノウハウをその役に立てたいと思ってる人にとったら、
読み手がそうなってしまうのは好ましいことではないと思うんですよね。
だからやっぱりノウハウ書をどう書くべきかっていう思想というか、
哲学みたいなんてあんま見かけたことはないんですけど、
ノウハウ書のノウハウみたいなことですが、
それは誰かが研究した方が、僕自身そこは一つのテーマとして考えたいなっていうのがあって、
疑問文で言うと、ノウハウを教える本とノウハウの実践に乖離がある。
その乖離は何から生まれてるのだろうかっていうのが、
一つ自分の中でクエスチョンとして結構明確に立ち上がってきた感じがありますね。
すごいよくわかる気がしますけど。
なんか不思議なんですけど、例えば料理の本ってあるじゃないですか。レシピの本とか。
あれはこの手の本と同じような困りごとというか、
自己否定に陥るほどの困難って多分怒らないと思うんですよ。
料理の本って。うまくできなかったらまあうまくできなかったし、
作ってみてあんまり美味しくなかったらまあこんなもんかで済ますと思うんですけど。
古い本に対する価値観の変化
でもタスク管理とか情報整理って、もっとラディカルに自己否定が生まれる気がするんですよ。
料理ってのはやっぱり料理の中だけのことですよね。
うまくいかなかったらしいけども。
タスク管理とかっていうと、人生全体みたいな感覚をいらっしゃるかもしれないですよね。
まあ扱う情報がそのものが自分の行動に関することですし、
目標とかの設定も自分がどう生きるかに関わってくるので、
それがうまくいかないということが、
手痛いダメージを生みやすいというのはあるでしょうけど。
だから結構これ、ノウハウといっても、ちょっと別の領域にあるノウハウな気がしますね。
自分の情報を扱うノウハウっていうのは。
あと今関連で思い出したんですけど、
昔のノウハウ本をどんどん買い集めてるんですよ。
自分が20代ぐらいの頃に読んだ、でもそんなにメジャーなものじゃなく、
たまたま自分がその時に買って読んで、もういらないと思って売っちゃったんですけど、
一つには図書館にあるからいいやと思ったんですよ。
そしたら某横浜市の図書館がどんどんなくなってっちゃうんですよね。
本に対する偏見と対話性
もちろん新しいものが入ってくるんで、全てを書庫に入れておくわけにはいかないのはあるんですけど、
かなり価値があると個人的に思っていたものもなくなっちゃうっていうことがあって、
それを批判するのが目的じゃないんですけど。
なのでAmazonで見つけたら買い直してるんですよ。
昔何度も読んだものをもう一回今の目で改めて読むと、
驚くほど偏ってるんですよね、それぐらい。
でもその偏りが重要なんじゃないかと思って、
結構今ってあんまり悪口って書かないですね。
例えば、ある昔、松っていう名前のワーカープロがあったんですね。
90年代初めぐらいまで。
一時は市太郎と寄っこするような。
MSドス時代には市太郎が松かっていうようなメジャーなワープロだったんですけど、
松のファンブックみたいなものがあって、
やっぱり松が好きっていう本があるんですけど。
松と松を作っていた管理工学研究所っていう会社なんです。
その会社は今でもあるんですけど。
そのファンが集まって褒めたり文句を言ったりするっていう、
実に今ならなさそうな本なんですけど。
松って今でいうテキストエディター的な、重たくて多機能反対の軽くて早い、
ちょっとマニアックなカスタマイズができたりするっていうタイプのワープロなんですよね。
どっちかっていうとマニアックなユーザーが多いんですけど。
そういう人たちの常として、アウトライナー嫌いな人が多いんです。
堂々と「これからの松はどうあるべきか」っていう話を書いているときに、
「わー、アウトラインプロセッサー機能なんかついたら嫌だな」とか書いてあるじゃないですか。
そういうことって今書かないと思うんですよね。
自分は嫌だなと思ったとしても、
やっついてほしいと思ってる人もいるかもしれないから、
そういうことは書かずにいこうって今思うと思うんですよ。
でもそういうことが堂々と書いてあって、
総裁にもそういう感じの「こんなこと書いちゃうんだ」っていうのが結構いっぱいあるんですよね。
その本に関係なず。
でも、だからそっちのアウトライナーなんかついたら嫌だなっていう立場の人と、
全てのエディターはアウトライナーであるべきだみたいな、
そういう本がもう一方である。
で、そのアウトライン機能がついてないわ、
今時そんなそれがついてないわ、
これなんてクソだぜって書いてるのは、
まあそれは実際にはないと思うんですけど、あるとするじゃないですか。
そういうのが並んで売られてる。
そういう状況というか環境が僕はすごく懐かしく感じますよね。
そうですね。今はもうフランマイをどっちも減らしていって、
できれば中立みたいな感じのが多いですね、基本的には。
だから読んでると、僕はアウトライナーの価値を信じているので、
それを読むと腹が立つ。
いやいやお前がわかってないだろって思うんですけど。
思うんだけど、それでいい気がするんですよね。
そうですね。
なんかそういう、なんていうかひっかかりというか、
広い意味での著者との対話性というか、
そういうものを感じなくなった気がするんですよね。
確かに。そうですね。
なんとなく僕自身も、もうちょっと若い頃は、
偏った本の書き方はいかんとか思ってたんですけど、
でも先ほど言われたように、自分が読んできた本はかなり固いってたんですよね。
で、例えば野口先生はカード法なぞ、無意味だみたいなことをだいぶはっきり書かれてて、
僕は初期の頃それを結構鵜呑みにしてたんですけど、
でも後々KJ法を知ると、
それはちょっと野口先生の勘違いじゃないかなと思うことがあったんですが、
でも、だからといって、そういう意見を持ってる人が書かない方がいいのかっていうと、
そうじゃないんですよね。
この前ちょっと思ったんですけど、
自分一冊の本で全ての問題を解決しようとしたら、
プラマイゼロに近づいていくわけですよ、結局。
そうじゃなくて、本っていう生体系の中に読者を投げ込めば、
自分の方やった意見と別の方やった意見が中和して、
むしろその人が初めてAかBかを選べるようになるみたいなこと。
読書における作者のスタンス
そのAかBを中和して、AもBでもないみたいにすると、
AもBも選べない人になってしまうので。
だから極端、てかその人の個人の考えが素直に出ている方が、
読み手にとってはむしろ選択肢が増えるという意味で、
その著者の本しか読まない人っていうのは極端にいるかもしれないですけど、
そういうのを一旦例外として置けば、読者もそんなに馬鹿ではないというか、
広い読書の期間の中で考え方がもっと良い感じにフラットになっていくというイメージを最近持ってて、
だから僕自身もフラット重視やったのを変えた方がいいというか、
もっと素直に変えた方がいいんかなというふうには思ってますね。
そうなんですよね。
当たり障りがなさすぎると、頭に入ってこないというか、
ああ、そうですね、って通り過ぎていっちゃうというか。
そういう感じがしますね。
逆に、例えば信証の野口先生のもまさにそうですけど、
信証で言うと、橘高さんの知能ソフトウェア。
あれはなんだ、高談者権大信証ですかね。
有名な話で、KJ法は頭の悪い人が集まって考えるときの方法が書いてある。
言い方はさすがにないんじゃないかと思ったんですけど、
そこからすごくKJ法について考えたんですよね。
考えたっていうか、KJ法って僕なんとなくしか知らない。
会社でやらされるなんちゃってKJ法みたいなのしか知らなくて、
その状態で橘さんがそう書いているのを読んで、
それで改めて読んだ記憶があるんですよね、発想法のあれを。
だから直接ノウハウそのものが書かれていないんだけれども、
そういうある種偏ったものを受け取ることによってトリガーされるものがある。
結局相手の感情の動きにつれてこっちも動くようなところがあるので。
最初の瞬間は動かされた感情に同化してるかもしれないですけど、
その本を読めばその本を読んで、その本を書いてる著者の頃の時に結局感化されるので、
だからベクトルとしてはそこで中和されたりとか、
あるいは別の角度のベクトルが生まれたりするわけですから。
やっぱりそういうのって変な話。
そういうノウハウの、つまり偏ったノウハウの提示の仕方って、おそらくチャットGPGができないと思うんですよ。
結構人間の仕事じゃないかなという気はしますね。
言うと、むしろ偏っていくことがこれからは人間の仕事として。
あるベクトルを強烈に示すことのほうが、
中和的な答えを、だって彼らは統計的に中和的な答えを出すわけですから。
情報を扱うものによるノウハウの提示の仕方
むしろ彼らの素材になるような強烈なベクトルを出したほうが、人間の役割にはなる。
それは別に口汚く相手を呑むしれという話ではなく、
何かが良くないと思ったらそう書けばいいっていうだけの話であって。
結局、何か良くないと思ってるのに、
マイルドに書くほうが何かいやらしいですよね、結局。
うん、やだ。まあそうですね。
本当はそんなふうに思ってないだろうって思っちゃうところもあるんですよね。
なるほどね。
まあでもただ、この現代のポリコレの時代に。
そうですね。
じゃあ果たして昔みたいな書き方をしたら、たぶん問題になると思うんですよね。
じゃあどうやって書くかっていう、新たな課題があるわけですよね。
そうですね。まあ生まれてますけど。
やっぱり、僕自身ある時期から知的精査の技術とか仕事術みたいな、
情報を扱うものの、今ばらばらに散らばってるノウハウを統一的に記述できる体系みたいなのがあったら、
この分野はもっと進むかなと思ったんですけど、
そういう体系って、要するに中立の極みみたいなところじゃないですか、結局。
で、教科書としては素晴らしいものができるかもしれないけど、
ノウハウって、よしやってみようっていう心の動きを起こさない限り、
たぶんスタートランにすら立てえないんですね。
ノウハウがうまくいってるかどうかっていうのが。
そう考えたら、学術的に体系的にまとめる意義があるにしても、
僕がやりたいのはたぶんそこではないなっていうのを、こういう本を読みながら思いましたね。
綺麗にまとまってて素晴らしいけど、でもモチベートされないし、
それとも、たぶんやったらやったら苦労して、その後どうしたらいいのか分からなくなるっていう未来も見えますし。
だから、書き方っていうのはやっぱり、そういう体系だったものよりは、
もっとエッセイ風というか、個人の経緯とともに語られた方が、なんか魅力あるものになる。
もっと進んで、本当に小説にしてしまう、虚構化してしまうっていう手もあるとは思うんですけど、
エッセイは一歩手前ぐらいですね。3文でとどめておくっていうのは。
この辺ぐらいがたぶん会なんじゃないかな。取り売る会なんじゃないかなと思いますけどね。
そうですよね。
ちょっと30回ぐらい前にエッセイ的なノウハウみたいな話をした気がしますけど、
やっぱりそうなんですよね。
自分が読みたいのはそういうものだし、モチベートされてきたのもそういうものだし、
果たしてそれが自分だけなのか、そうじゃないのか。
でも昔、そういう本を読んでいた人たちは自分以外にもいるはずで、
ある時期からそれがなくなっていったのはなぜなのかとか、いろいろありますよね。
結局、情報が効率的に摂取されるようになって、
ノウハウの普及における問題点
その趣向錯誤みたいななんか、無駄の極みみたいに扱われて、
すぐできますよ答えっていうのが尊重されると、
エッセイ的なものっていうのは怒涛されていくというか、必然的に退場せざる、終えなくなるわけですけども。
じゃあその代わりに、じゃあここ10年、重要なノウハウが開業されて、
私たちの市民生活に根付いたかっていうと、これはかなり怪しいと思うんですよね。
怪しいですよね。
だから、そうじゃないんじゃないかなと。
だから例えばこう、たくさんがノウハウ風に書くことによって、
ターゲットというかマグチは多分狭まるんですね、当然。
一般化された方法論を問いするよりは。
でも刺さり方は深くなると思うんですよ。
で、深くなった方がノウハウとしてはいいと思うんですよね。
だからいろんな人が自分なりのノウハウを狭い領域に向けて打ち出すというのが好ましい関係で。
そう思います。
1億人に軽く刺さるフラットな方法論よりは、
500人ぐらいにぐっさり刺さるノウハウが100個も200個もあった方が、
ライフハックブームの過去と現在
有意義というかいい空間な気がしますけどね。
そうですよね。
むしろ今の、昔をするに90年代初めと違ってネットがある時代には、
本当はその方が幸せになるような気がするんですけど、
なんでそうならないかなーっていう。
ライフハックブームの霊面記あたりは、何か方があったと思うんですけどね。
なんとなく。
いやあったと思いますよ。
あの初期に、ライフハックブームのGTD本はそうだし、
デビートアレンのGTD本なんかはそういうものだし、
マーリン・マンさんのホップログとかもそうだったし、
でもそれはみんなあれですね、日本じゃないですね。
日本は最初は輸入から入りますからね。
日本初のっていうのは確かにその後生まれなさよね。
みんな右に習えで海外の手法をおまねして、
でその後宣伝点みたいなところはありますね。
確かに。
日本のその種の本でそういう雰囲気を感じた、最後に感じたのはどの辺だったかなって、
今思いながら本だろう見てるんですけど。
みんな昔の本ですね。
そうですね。
細かいテクニックの本は結構たくさんありますけど、
俺はこのやり方だみたいな大きい大見えきっていうようなものはあんまりないかな。
書かせてもらえなくなったんですかね。
それはあると思います。
企画案が通らなくなったというのはあると思いますね。
大きな方法論を提示するブログとサイトの問題点
それこそインターネットとかセルフパブリッシングでこそ花が咲く話で、
だからそういうのを言いたい人と、
その発信のメディアがまだ深く結びついてないのかもしれないですけどね。
僕らみたいなのをこうやってほっといても自分の本作っちゃうタイプだから、
別にいいんですけど。
でもあると思うんですよね。
そういうノウハウ持ってても、
外の出し方をまだ知らない人たちっていうのは多分いるとは思うんで。
本にはなってないんですけど、一連のポイクの。
あれはすごかったですね。
あれは…。
該当しますね。
あれは結構夢中で読んだ記憶がありますよ。
経緯あり、思想あり、一応体系的になってるというので、
ほぼ完璧な方法論ですね、一つの。
読み物として楽しんで読めたんですよね。
確かに。
しかもちょっとやってみたくなりますもんね。
やってみたくなる。
実際やりましたけども。
カードを買いに行きましたよ、やっぱり。
そういうのが総合的な意味で魅力的なノウハウという感じですよね。
最終的にポイクは続けなかったですけど、
ちょっとずつ自分のいろんな物事の考え方にちょっとずつ刺さってるんですよ。
それわかります。
だからそういうのってもっとあるといいですよね。
でもやっぱりポイクはWikiとして発表されたっていうところがありまして、
それ以降僕たちは常にブログで発表してきて、
やっぱりブログは流れていくものなので、
一つの大きな方法論を提示するというのに、
ひどく向いてないんですよね。
たとえさっき言ったPARAとかCodeとかも、
ちゃんとそのようなサイトがあるんですね、解説するようなサイトがあって、
読み物もその中に位置付けられてるという感じなので、
この前言ったブログとサイトの種類が、
サイトが上で日ごと記事が下になっている。
それで初めてそのサイトが情報を伝えるものになってるんですけど、
日常的にブログを更新していくと、
やっぱり大きな体系をまとめるということにはなりにくい。
僕も結局、例えばドマっていう方法論っていくつか断片的に書いてましたけど、
あれ結局方法論としてまとめきれてないんですよね。
で、まとめきれてないか、まとめるっていう動線がない。
そこは固定的なサイトを持ってないことによって、
動きそのものが起きない感じになってたというのがあるので、
そこは新しいサイトとかで上手いことやっていきたいなと思いますけど。
ブログから投げっぱなしジャーマンへ
逆に適切な場所があれば、
もしかしたら自然にまとまっていったかもしれない。
いったかもしれません。
例えば記事リストがアウトライナーになっていたら、
これドマを書いたやつやんのかって、
上くっつけとこうみたいな操作が起こったかもしれないですけど、
ワードプレスは次元線で並んでるだけなので、
結局うまく繋がらないんですね。
だからそういうメディア発信、
情報発信ツールでありながら自分の情報ツールでもあるので、
そこがだからちょっとあんまり。
本来はちゃんと書いた記事をアウトライナーとか操作できるツールに落とし込んでおいて、
書いたものをちゃんとしていくなりして、
まとめていくってことをすべきだったんですけど、
やっぱブログが書いたら終わりみたいなところがずっと頭の中にあったので。
その辺がノウハウの効果。
だからそれは僕だけじゃなくて、
ブログを書いてノウハウを発信してる人は、
みんな同じ状況になってるはずなので。
その人の方法論としてまとまっていかないっていう、
育っていかないっていうところが、
メディアの性質としてもあったから、
やっぱりちょっとそこが弱かったんじゃないですね、
ここ10年っていうのが。
ブログが、そうですよね。
ブログが個人の発信の、
SNS以前においては個人の発信の唯一の携帯みたいになってしまって、
そうです。
そうですよね。
ああいう個人サイトというか、
個人のホームページみたいなものが、
もっと気軽に作れる。
そしてその作った後に簡単に更新できるような形で残っていれば、
もうちょっと違かったと思いますね。
僕はそれは多分結構小さくないインパクトがあったと思いますね。
昔のホームページビルダーじゃないですけど、
あれね、出来上がる見た目があまりにもダサいみたいなのがあるんですけど。
そうですね。
自分の手の内でサイトの情報をマニュプレイドできる感覚っていうのが、
あるかないかでやっぱり違うんですね。
ワードプレイすると自分という境界の向こう側に情報がある感じがしてしまうので。
実際そうなんですけど。
だから投げっぱなしジャーマンになりやすいですよね。
がっしりホールドされない。
ブログの概念統合とノウハウ
されないから楽に書けるというところはあるんですけどもちろんね。
もちろんあるんですけど、
断片的に書くことをしつつ書いたものをなんとかまとめていく。
しかも、僕もR-Styleの記事から良いものを集めた
Self-publishingの本を作ったことがありますけど、
それは記事をまとめただけであって、概念を統合したわけではないので。
だから書いたものから概念を統合していくっていう
知的生産の2回目の部分、1回じゃなくて2回の部分がブログという形式で
極めて怒りにくかったんだなということを、今ようやく気がつき始めたなというところですね。
あとノウハウを、今ノウハウも書く人っていうのは、
ノウハウの権威じゃないけれども、
立場としては先生というか、教師というか、
そういう目線に立って書かなきゃいけないみたいな雰囲気があるような気がするんですけど。
例えば野良鉄さんが書いてるプログラミングの話、
あれを見て自分もやってみようと思う人っていると思うんですけど。
まあ決して野良鉄さんはその道の権威ではないけれども、
もしかしたらそこからその道に入っていく人っていると思うんですよね。
たぶん十数年前の自分があれを読んだらやってみるような気がするんですけどね。
今でもその気持ちがないわけじゃないんですけど、
今はちょっと状況的に考えてないですけど。
そういうものも、もっとたくさんあるといいなというのはありますよね。
そうなんですよ。
情報に信用感を与えるために書き手はエラをそぶる必要があるというのは確かにあるんですけども、
その構図になると、情報を与える人、受け取る人という構図が生まれてしまって、
受け取る人って日本でいう教室の生徒で晩所してる人ですよね。
それは結局何かを作る人じゃないんですよね。
与えられる人=作る人じゃないので、
そこの構図がノウハウを実践しにくくなってしまう。
代わりにノウハウに詳しい人が生まれるっていう、実践する人じゃなくて。
その時にやっぱり同じレベルで、ちょっと先を歩いてる先輩ぐらいの位置づけで語る人がいたら、
半年遅れでもちょっとやってみようかみたいな感じにはなりやすいでしょうね。
自分でもできる感覚っていうのが大切で、
ノウハウ本は誰でもできますよっていう訴え文句でそれをプロモートするわけですけど、
でも特定の個人が失敗しながらもやってきましたよっていうことでもプロモートできるはずなんですよね。
おそらく健全な業者やなと思うんですけど、
まあでも電車みたいなのも必要やったら思いますが、
時々ちょっと行き過ぎのレトリックになっていることがありますよね、結局。
誰でもできますよ、なぜなら私ができたからですっていうロジックがたまに出てくるんですけど、
これ破綻してますからね、基本的に。
それでも私はこうやりましたのほうがもっと素っ気にしてますよね。
結果的には私はできたんで、同じやり方でできる人もいるかもしれませんよっていうことならいいんですけど。
それで無理そうやと思ったら別にやらなきゃいいし、
できそうやと思ったらやればいいっていう選択肢が読者には与えられるので。
誰でもできますよって言われると、なんかやらなければならない考え。
ノウハウの実践と書き手の重力
生まれた上にできひんと、誰でもできますよカテゴリーに俺入らへんやみたいなことになってしまうので。
そこ難しいですよね。
でもそこを逆に誰でもできますよと書かないとして、
じゃあどういう書き方をすればいいかって考えたときに、
そこに気を使いすぎると、すごく迷いもその足でだと思うんで、
出ましたけど、すごく迫力がなくなっていくっていうね。
自信な下げになっていっちゃう。
自信を持っていうことと、あまりに権威化しないことのバランスの取り方っていうのが難しいんかな。
まあでもそうですね。
俺は誰でもできると思ってますよっていう主張は別にいいですよね。
そう思ってる人は。
その塩梅ですよね。でもできない人がいたって全然別に。
だって俺がそう思ってるだけだからっていう話ですからね。
もしくは、そこは呼び取ってもらえるかどうかですけど、
あえてやってみればわかりますって。
いやわかんないよって言われたらごめんなさいっていうしかないっていうことなんでしょうね。
そうですね。
だから、やっぱりノンリスクで書こうとするとさっきみたいに平べったいものになってしまうから、
著者がどこまでのリスクを取るかっていうのはもちろん選択としてはあるんですけど。
まあでもやっぱり無難なものを書くのは全体的につまらないですね。
まあそれはもう仕方がないとはいえ。
まあね、そのなんかで炎上した時のリスクの度合いが昔とは桁外れになっちゃってるっていうところはありますよね。
でもまあ注意したところでなくせるのかということもありますから、発信してる以上。
いちあものディクラでもつけられるんですからね、基本的には。
まあそうやな。
まあだからこの辺の、そう、結局そのセカンドブレインという本は何も問題はなくて、
ただ僕がその読んでた時に物足りないのをずっと感じてたという話で。
まあそこから、じゃあどういう本ならまあ面白くて役に立つのかっていうところを、
まあSFに書けばいいかなという話に流れたわけですが。
はい。
まあでもどっちが書くの難しいんでしょうね。
一人の書き手として見た時に、このフラットないわゆる方法論として定数のか、
個人の語りとして語るのがどっちが難しいんでしょうね。
わかんないですけど、僕は今のNOTEの連載、テイク報道マガジンの連載で、
「Life Outline実践」っていうタイトルでやってるものがあるんですけど、
あれ僕すごいマニュアルっぽくする意図で始めたんですよね。
なぜならエッセイっぽいのは、
「Outline Processing Life」という電子書籍で既にやってるんで、
それを逆にあえてマニュアルっぽくして、
出来上がったらマニュアルになるように書こうという意図があったんですけど、
あんまりマニュアルっぽくないですよね。
やっぱりエッセイでやってるっていう。
まあその人、書き手の重力みたいなのがあるんですかね。
あとやっぱりマニュアルっぽくすると面白くないけど面白くなくなっちゃうっていう。
リスクとマニュアル化の難しさ
そこ難しいところで、
ああいう風に書いて、もしかしたら最後にまとめるときには
もっとマニュアルっぽい意図にするのかもしれないし、
逆にそうじゃない感じになるのかもしれないですけど。
そうですね。マニュアルっぽくまとめるといかにもわかりやすい本にはなりそうな気がするんですよね。
それで役に立ったって言ってくれる人も多分いるでしょうから、
さすがに自分たちのこの考え方が絶対唯一無二だとは思いませんが、
でも書いてる方が楽しいか楽しくないかは、
よりラディカルに重要な問題ですよね。
そうですね。だからまあ、
マニュアルっぽいパートとエッセイパートみたいなのを組み合わせるっていうのがあるかもしれないですよね。
だったら自分、ライフアウトライナーは自分で作るのが一番いいんですよって言いながら
マニュアルっぽくするって事自体がもう自己矛盾みたいなところがあるんで。
そうですね。でもやっぱりそれじゃないですか。
やっぱり自己矛盾がないとおかしいんじゃないですかね。
そう、僕は思います。
そうだと思います。
だからやっぱりその綺麗な本って自己矛盾がないんですよ。
あたかも完結した世界がすごく広がってて、
だから人間味が感じられないんですよね、基本的に。
だって人間は自己矛盾の存在ですから。
だからそのマニュアルっぽく、あたかもそれが正解であるかのように書きつつ、
それを起点にどんどん変えてっちゃってくださいよっていうのがバランスとしていいのかなっていうのがありましたよね。
そうですね。なんかそんな感じがします。
僕はずっと読者に押し付けない方がいいとずっと思いながらこの手の活動してきましたけど、
やっぱり何を押し付けないと起点になるものが何もないなということに最近気がついたんで。
読者に対する信頼感
力を蓄えた読者は、俺が与えた構造なんて簡単に壊していくだろうという信頼感を持った方がもっといいんだろうなというふうには、
ちょっと最近思ってます。
でもそうですよね。読者に対する信頼感ってのはそういうことですよね。
そういうことだと思います、きっと。
そんなとこですかね、だいたい。
結構今日は前半後半とかなりディープな話でしたが。
ディープな話。
そうですね。さすがにずっとハルキさんの本の感想を伝えてもらうのはあれなので、
どんなノウハウ本が読みたいかっていうのを#うちわせCast、ひらがなでうちわせ、
@Castまでいただければ、今後の2人の著作活動の参考になるかと思います。
お知らせしたいことがございますかね。
大丈夫です。
はい、じゃあ今回はこれまでにしたいと思います。お疲れさまでした。
お疲れ様でした
01:13:38

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