ここはあの三枝さんがどういう印象を持っているかわかんないけれど、なんか私は赤い魚の夫婦紹介するときに、
いやめっちゃ読みやすい海外文学入門編ですみたいな、なんかそんなことをたくさん言ってたんですけど、その感じとはちょっと変わったなとは思ってますね。
どうだろうこの辺り、なんかまだちゃんと話す前だけど。
僕も赤い魚の夫婦の方が小説として読み応えであったり、あとなんか読みやすさっていうのはあったと思いますし、
今回の作品はかなり癖が強いタイプかなと思っているんですけど、個人的には結構好みでしたね。
すごい強烈な個性が出ている短編集なんですけども、個人的な満足感っていうのはあってですね、好き嫌いが分かれるのかなとは思いますね。
ただこのネッテルさんに対してちょっと思うのが、今回も癖強めの短編集なんですけど、こういう作品はやっぱり好き嫌い分かれがちかなと思いつつ、
ネッテルさんを嫌いになる人っていうのは実は少ないのではないかなとちょっと思ってですね、
なんか不思議と、優しさというか哀愁というか、そういうところを感じるというか、結構人間の素の部分を感じるというかですね。
ちょっとゾワゾワするようなタイプなんですけど、ちょっと嫌いにもなれないような。
あーそうだね、確かに。嫌いになる…そうだね。
なんかね、その、なんか読んで全然受け入れられないとか、そういうタイプではなかったですね。
うん、確かに。全然別に受け入れられないってわけじゃないんだけど。じゃあですね、えーと、全然シンプルに面白い短編集だったんで、私はすごい読めて良かったなと思いますね。
結構あの、自分の見たくない部分を見せられてるなと思ったりしたんですけど、
いやそうですね。
なんか村上春樹とかにもたまにこのパターンあるよね。
あーそうですよね。どうですかね、ネッテルさんの方が。なんかもっとマニアックな、そこなんだって思うようなところに、なんかね、フォーカスを当ててるような気が。
村上春樹好きからするとちょっと、もしかしたら違うよって思われるかもしれないけど、なんかね、ネッテルさんはね、なんか逃げてない気がある。
なんだろう。村上春樹ね、ちょっとオシャレにごまかすとこあるから。
まあでもそれぐらいがいいのかな、バランス的には。読みやすさみたいな、ここが読みにくさを生んでるわけじゃないと思うんだけど。
村上春樹の読みやすさみたいのは、まあそのちょっとなんだろう、あのオシャレなごまかし方みたいなのでちょっと出てるところはあると思うけど、ネッテルさんはちょっとぐっと追求しちゃってる感じはあるね。
そうですね、確かに。なんかね、読んでると自分にも痛みが跳ね返ってくるような、なんかね、そんなところは感じましたしね。
がんすいかけん。ほんのわずかなブラインドの隙間から通りをへざてた向こうに住む男性を覗きみては妄想に吹けることをやめられない女。
ブラインド越しに自分をサボテンに導火させた上に妻を吊る植物に見立て家庭崩壊に突き進む男。
ぼんさい。本物の孤独を探し求め離島で一夏を過ごす少女。
桟橋の向こう側。女性トイレに痕跡を発見しその主を探し求める男。花びら。
髪を抜く癖に取り憑かれ生活も精神も崩壊し出口の見えない状態で病院で療養している女の手記。
別はある石。作品の舞台はパリメキシコシティ東京ヨーロッパの架空都市。
他人には言えない習慣強烈なる思い込み。ひそやかな楽しみ。
奇妙な癖を手放さないあまりに個性的な人物が躍動します。
赤い魚の夫婦で一躍注目を集めたグアダルーペネッテル。
本作でも確かな筆地で読者を作品世界に引きずり込みます。
とありましてちょっと今説明した中でも相当個性強めな人たちが出てくる短編集であると。
女性通りに痕跡を発見しその主を探し求める男って。
そこが一番ヤバいなと思ったの。
ブラインドの隙間から通りを隔てた向こう側の男性を目覚めて妄想するっていう話とかも結構ストーカーチックなものが2つぐらい紛れてるんですよね。
そうだね。
その後にもちょっと話していきましょう。
今回はちょっと6編入ってるんですけど、具体的に紹介するのは2編にしようと思ってます。
その前にですね、前半でも少しずつ話しちゃってますけれども、我々2人がこの作品から感じた印象というものをちょっと話してみたいなと思っております。
じゃあちょっと私からになっちゃうんですけど。
まずですね、読んでこれすごいなって思ったのはやっぱり人がですね普段誰にも見せない部分に結構焦点を当てている作品ばかりで。
この短編集で多分描かれているのは人間の本性とか負の部分、あとなかなか人には言えない欲望の部分かな。
そういうものが結構強烈に描かれていて、誰にも何かしらそういうものって抱えてると思うので、
読み始めるとそういうのがリンクしてくるわけではないのかもしれないけど、自分にもあるのかもしれないみたいな感じがあるのと、
人の何かそういうヤバい部分を見てる感覚があって、読み始めると目が離さなかったですね。
やっぱり生きてるとどうしてもそういう部分抱えてしまうと思うんですよね。
自分ではコントロールできなくて、コントロールしてるのかもしれないけど、理性で何とかしようとしてるみたいな時。
そういうのって折のように多分溜まっていっちゃって、何か分かってんだけどどうしようもなく溜まるものって多分あると思うんですよ。
だから多分そういう部分に強く訴えかけてくる小説だと思いました。
なんか怖いよねこれね。
そうですね。結構多くの場合はコンプレックスとして認識されるものですもんね。
そうですね。このコンプレックスとかそういうコンプレックスということ以上に既に自分がこういう人間だと認識してる人たちが出てきたりするので、
多分この自分たちが持つ欲求とか性質が他人とは違うんだろうなっていうことを認識しながら溺れていく感覚っていうのがあって、
きっと共感したくなくても共感した部分が結構この短編集に多くて、なんかここが不穏さに繋がってくるなってちょっと読んでいながら思いました。
そうですよね。さっきコンプレックスとは言ったんですけども、特にコンプレックスとも思っていない境地の人とか出てきて、
そういう人が出てくるとちょっとね、なんか本当に不穏さみたいなものが感じられるというかですね。
そうなんですよ。なんかね、共感したくなくても共感してしまうってね、本当そう思いましたし、
なんか自分にもね、そういう一面ってあるのかもしれないなとかね、思いましたし。
なんか初めからもう開き直っちゃってる人とかいるじゃん。
そうそう。
開き直っちゃってるっていうか。
そう、なんかいろんな人いますよね。なんか途中で気づいてだんだん受け入れるようになってくる人もいれば、
最初からね、開き直ってる人もいればっていう。
まあでもね、それがそういうのが人間なのかなと思えたりもするんですけども、
結構ですね、大地さんがさっき言ってたようなことを、ネッテルさんがオビのコメントでもですね、
すごく上手いこと書いていて、それが全ての人間はモンスターであり、
人間を美しくしているのは私たちのモンスター性、他人の目から隠そうとしている部分なのです。
っていう文章があってですね、全ての人間モンスターだっていうのと、
人間を美しくしているのはモンスター性とか、他人の目から隠そうとしている部分っていうのがですね、
すごい良い言葉というかですね、すごいしっくりくる表現で、
確かこの本をね、読んだあとオビをこの言葉を読むと、本当に納得させられるところっていうのはすごい感じましたね。
うん、なるほど、そうですね。
そう、このオビの文章すごい良いなと思って、やっぱりこの他人から目を隠そうとしている部分なのですって言い切っちゃってる、ネッテルさんの言葉。
これ、うのかずみさん、翻訳されたうのかずみさんがネッテルさんにこの本を渡されたときに言われた言葉みたいで、
これをオビに持ってくるあたりが結構さすがだなと思いましたね。
じゃあちょっと私の印象の話で盛り上がっちゃってるけど、
みなさんどうでした?
僕もですね、やっぱり本当大地さんの話に関連することなんですけども、
自分の癖に登場人物っていうのは向き合っていくんですけども、それによって不穏になっていくっていうですね、
この話の展開っていうんですかね、そこはすごい印象的でしたね。
さっきの話の続きになるんですけど、どこかの段階でその登場人物は自分の癖というか、
モンスター性みたいなところを受け入れて、それに向き合わざるを得ない展開になるんですけども、
それが中途半端ではないんですよね。ちゃんとしっかり向き合っていて、
そのせいでですね、周りの目とか世間体とかですね、気にしなくなっていってですね、
読んでいると結構突っ込みどころがあってですね、いろんなシーンで、
例えばですね、眼鏡化粋という短編では、登場人物が人間のまぶたに魅了された人なんですけど、
感じのいいまぶたを求めて千歳歯眼を歩いている時っていうですね、描写がいきなり出てくるんですけど、
感じのいいまぶたを求めてって一体何なんだっていうですね、
本来不自然なことなんですけど、その人物にとってはですね、さも当然化のような、
そういうの面白かったりするんですけども。
そうだね、なるほど。
でもね、そういう人物の話なんで、どんどん話自体は不穏になっていって、
その人物が書ける問題というのか、緊張感とか切迫感とかっていうのも感じれて、
それが小説としての面白さが引き込まれていく部分というのも出てきてですね、
すごい入っていけるんですけど、そういう意味では基本的にあれですよね、
追い込まれていく状況を楽しむ小説なのかなとは思ってまして、
ただそこで面白くて終わりってわけじゃなくて、ネッテルさんもね、
全ての人間はモンスターでありって言ってるみたいに、
世の中のどんな人もこういう不穏になる瞬間っていうのはやっぱりあるのかなと、
自分もそうで、人って生きていく以上、
そういうもしかするとちょっと嫌かもって思う瞬間から逃れることはできないのではないかなと思ったりしてですね、
でもそれが作品の魅力でもあるのかなという、そんな印象はありましたね。
そうですね。ちょっとこの後、文体とか文章のことを話そうと思ったけど、
確かに急に何か当たり前のように入ってくるね。
そうそう。
彼らの感覚が。
それがあれかな。ちょっと読みにくさが。
ちょっと聞いてそう。
ちょっと後で。
追い込まれるっていう部分なんですけど、
追い込まれ。
この人たちでも追い込まれてるか。そうだよね。
そうですね。
もうなんか切羽詰まっている人たちかなという感じですね。
確かに。この人たち。
この短ページのここだけ切り取ると、何かがあってちょっと大変なことも経験するけれども、
彼らはこの後ずっと生きていくわけだから、その性質を抱えたまま。
おそらく誰もが生きにくさみたいなのは、
多分認識しながら自分がちょっと世界とはこの部分で相入れないみたいなのは感じながら生きている感はあるもんね。
確かにそれが不穏さとつながっているのかもしれない。
そうですね。
じゃあちょっと話を先に進めて、
このですね、文体と文章のことについてちょっと私が感じたことを話したいんですけど、
ちょっともしかしたら、なんか一般的な感じからずれたこと言うかもしれないですけど、
今回海外文学とかを読んでると、
特に南米とか、アフリカとかもそうかな。
ちょっとヨーロッパ圏じゃない文章とかを読んでるとたまに感じるんですけど、
文章が妙に飛躍するなって思う時があるんですよ。
日本の文章とかには結構ない感じがしていて、
日本人作家の小説を読んでいても、もちろん話が飛躍するなとか、文章がすごく急に飛躍したなみたいなのあるし、
それによって物語とか感情の表現が上手くなって思う作品って結構あるんですね。
川上英子さんとかそんな感じがするんですよね。
でもネッテルさんの作品とか、前回もそう思ったと思うんですけど、
あとおそらくガルシアマルケスとか、
前にラジオで紹介したイランのアザールのスモモの木の刑事とかを読んだ時も結構感じていて、
ガルシアマルケスとかスモモの木の刑事とかはマジックリアリズムのせいかなとかちょっと思っていたんですけど、
今回の作品ってマジックリアリズム性ってのは薄いというかあまりないので、
ちょっと盆栽感じたけどね。
作品によってちょっと感じる部分はあったけれども、あまりないなと思っていて、
一体これは何なんだろうってちょっと思ってしまいました。
さっき三枝さんの話を聞いてて、
当たり前のように出てくる彼らの主人公たちの異常な感覚、
ちょっと他の人とは違う感覚っていうのが一輪章で語られるので、
当たり前のように展示されるのにそこにちょっとこの飛躍を感じているのかもしれないなと思ったのと同時に、
日本人が持つ文章の書き方の丁寧さとは違う、いい意味で、
そういう丁寧さを気にしない粗暴さっていうのかな、
なんて言ったらいいのかわからないですけど、
独特の荒々しさのようなものを自分は多分感じているんですよね。
ガルシアマルケスとかもそうだと思うんですけど、
これが荒さとか粗暴さとかで表現していいのかどうかちょっとわかんないんですけど、
でもこういう作家を読むと自分を発動させられるんですよ。
なんだろうみたいな、この感覚が全然まだ原稿ができないんですけど、
でもこれはスモモの木の啓示を読んだ時にも感じていたし、
他の作品を読んで海外文学を読んでいる時にも感じるなと思うので、
なんだろうなと思っています。
おそらく今回は赤い魚の夫婦と比べてそういうものが多いかもなと思っていて、
赤い魚の夫婦はもしかしたらこの動物に絡めることで
イメージしやすさというか距離とかを持たせていたのかもしれないので、
今回は直でダイレクトに主人公たちが一人称で自分の性質を討論している感じがあるので、
そのダイレクトさによって自分はちょっと読みにくさを感じてしまったのかもしれない。
読みにくさというか、もしかしたら受け入れられないという感覚なのかもしれないけど、
どうですかね。なんかすげえ自分の全然原稿化できない部分ではあるんだけど。
そうですね。ネッテルさんの小説を読んでいると、
なんかヨーロッパの作家の作品を読んでいるような印象はあるんです。
すごく洗練されているような。
これはなんていうのかな。
南米や中南米のような、いかにもという漢字の書き方がちょっと違っているなと思っていて。
でもとはいえ、書いていることはすごく我が道を行く内容を書いていると思うので、
そこのバランスは面白いなとは思っていますね。
個人的には基本的には読みやすい文章だなと思ってまして、
すごく自然体で書いている気がしていて、
すごく丁寧に書いているなという。
なおかつ、これも確かに表現が難しいんですけど、
すごい癖のある内容を書いているんですけど、
それを作っている感じがしないというかですね。
自然と最初からそういうのを持っていましたというかのように書いているんですけど、
こんなに短編集で、赤い魚のフーモスもそうですけど、
バレエティ豊かな癖強めなものを一人で抱えているというのは多分ないと思うので、
これどうやって書いているのかなというのはすごく気になっていますね。
すごいマニアックな癖をたくさん書いているんですけど、
こういうのを練っていると自然と書けるのか、案外取材とかもしているのかという。
取材の小説の舞台も南米、ヨーロッパ、アジアと日本もありますけど、
世界幅広く舞台にしているので、
そういうのも経験値があるのかもしれないんですけども、
気になりましたね。感覚なのか、ちゃんと調べているのかとか。
どこで着想を得ているかというのはかなり気になりますね。
そうですね。読んでいるとすごく自然に書かれているので、
練っているさんがそういうのを最初から持っているんじゃないかと思わせるような書き方ですしね。
日本人の作家だとこういう異常性は報道事件とかから見つけている気がする。
報道されたものとか異常な事件が起きて、それをニュースか何かで見て、
一人称から語られる作品になっています。
彼はですね、毎週日曜日に一人で青山植物園を訪れます。
これはですね、妻の緑からの頼まれ事や家事から解放されるため、
一人の時間を作りたいというところですね。
特にこの妻の緑とは仲が悪いわけでもないし、
むしろめちゃめちゃ仲がいいと評判の夫婦です。
ただですね、青山植物園を自分の場所と決めて、
一人で過ごせる場所として使っています。
ある連休の雨の木曜日に植物園に散歩に行こうとすると、
緑がついてきました。
緑はですね、実は昔よくこの植物園に来ていたと話してきます。
そしてこの植物園の温室には変わった老園邸、
老園邸というのは園に園邸というものですけれども、
庭師のようなものですね。
老園邸がいて、この緑の友達の間では変靴で有名であったが、
緑は嫌いではなかったと語ります。
主人公はですね、そんな老園邸の存在を知らないので、
緑よりも自分が植物園のことを知らないということが気に入らなくなり、
なぜかですね、緑に黙って老園邸がいると言われている土曜日に植物園に通うことにします。
この老園邸と出会うと不思議なことにですね、
あちら側はですね、主人公のことを知っていました。
この老園邸なので、植物園のことは全て知っているよという話をしてきます。
それまでですね、主人公は植物に興味がなかった。
もともとここは一人過ごせるのに適していると思っているから通っていただけで、
植物には興味がなかった主人公なんですが、
この老園邸と会話したことによって植物にも少し興味が出てくるようになりました。
その中でですね、主人公は自分がサボテンであるということに気づきます。
サボテンは温室の中のよそ者であり、いつも防御の態勢をとっていると。
それがですね、職場でいつも緊張してビキビキしている自分に似ていると。
自分なんじゃないかと思うようになっていきます。
だが、自分がサボテンであるということを認めると、
同僚からよく思われるために愛想よくしていることがですね、しなくなってしまって、
自分らしくいられるようになってきました。
結果、同僚からも雰囲気が良くなったと言われるようになります。
その結果、家でも変化がありました。
緑と無言になってしまうと、その沈黙が気になるのかな?
何か話してしまうような部分があったんですけれども、
無言の時間が気にならなくなり、そういうことをしなくなったんですね。
するとですね、今度は緑側に変化がありました。
緑は植物だとすると鶴植物でした。
あらゆる隙間に入り込み、相手を支配しようとする鶴植物と主人公は考えるようになります。
緑から初めて子供を作りたいというニュアンスのことを言われて、
主人公はですね、翌日仕事に身が入らず、仕事を早退して園庭に会いに行きました。
鶴植物の繁殖時期とかのことを聞きます。
結構、それなりに繁殖時期があるみたいなんですが、
逆にですね、サボテンはですね、一生に1回ぐらいしか繁殖をしないということを聞かされます。
その時ですね、園庭が丁寧に大切に作ってきた盆栽を見せてくれました。
状況を意識したその作りはですね、主人公に不快感をもたらします。
盆栽というのは植物とか植物の世界の縮小版で植物の本性を奪っていると園庭は語ります。
ある日ですね、美容室から帰ってきた緑を見た時に違和感を感じます。
でも全く変わったところはないのになぜかこの緑を受け入れられない。
いつもの緑なのに受け入れられないということに気づきます。
その時ですね、主人公はこれは緑の盆栽なんじゃないかと感じるようになりました。
それからその緑のことが受け入れられず、やがて8年の結婚生活が続いた2人は別れてしまうという流れになっています。
という作品ですね。
ちょっとストーリーラインだけ話すとちょっと分かりにくいところがあるかもしれないけど、
でも要所要所不穏なところが伝わったんじゃないかなとは思います。
なんか読んでるとね、結構面白いお話だなと思うんですね。
ただね、ちょっと不穏なところがあるというか、主人公がサボテンに自分を重ねていくところ、
自分がサボテンだって気づくところから結構話が変わってきますもんね。
僕も読んでて、自分もそうかも、サボテンかもってちょっと思いましたね。
あ、そうだった。
サボテンか。
結構これは自分に重ねてしまうところがありましたね、主人公に。
そういう意味ではね、ちょっとこれ危険な小説じゃないかと。
特に男性が読むと、本来サボテンじゃない人も、自分サボテンかもってちょっと勘違いしてしまうような、
それくらいちょっとね、これ危ない小説かもって思いましたね。
みえさんだってサボテン感全くないじゃん。なんかトゲないじゃん。
いやいやいや。
うちに秘めたトゲがあるんですか。
なんか周囲に対して、なんか自分はこうなんじゃないかっていうですね。
なんかね、そこが、これがサボテンじゃなくても何であってもね、ついに自分に重ねてしまいそうっていう、
そういった意味ですかね。
確かにその他人を防御。他人から防御したいって気持ちはすごい分かりましたね。
あとどっちかっていうとなんだろうな、私も今日あれだな、自分サボテンだと思ってんな。
あのあれだな。
サボテン同士でもコミュニケーションが取れないみたいな、なんだっけ。
孤立し合ってるみたいな表現がありましたよね、どっかに。
それを読んだ時にすごい共感してしまった。
なんか同じ者同士でもずっと一緒にはやられないんだよなみたいな。
距離欲しいしみたいな。すごい共感してしまった。
あとはやっぱり小説、すごい書き方上手いなって思うところが、
自分の中でお気に入りな表現の部分っていうのが何箇所かあってですね。
その一つが35ページなんですけど、
この主人公が最初はやっぱり一人の時間を作るために植物園に通ってたんですけど、
その奥さんとのみどりと植物園の話題になって、
一回一緒に行きましょうかってなった時に、
自分だけの一種の避難場所としていたものが、
これから日曜日ごとにみどりはついてくるつもりだろうかと不安めいたものがよぎったのは否定できないとかですね。
これもなんかすごい共感できてですね。
こういう心理描写がめちゃめちゃ上手いなっていう。
これも結構確かにいて思う人多いんじゃないかなって思いましたし。
そうだね。ほんとここも短い文章でこれだけ完熟させてくれるもんね。すごいよね。
男性の心理描写はすごい良いなって思いますし。
あとはあれですね。41ページなんですけど、
この園邸の人と主人公が喋ってて、植物とは何かみたいな話で。
植物って動物よりも立ちが悪いっていうのを園邸の人が言ってて、
かまってやらないと枯れていくと。言ってみればこちらは常に脅されているようなものですと。
かまってあげないと枯れていくから植物に人っていうのは脅されているんだっていうね。
そういう言い方もすごい面白いなと思ってですね。
こういう園邸の村上さんの語りっていうか話の深いことを言ってて、
この作品の魅力かなとは思いましたね。
これがちょっと盆栽を作るというのに繋がりますからね。
超怖いところですよね。
そうですね。この小説の中での盆栽って何を意味してるんだろうっていうのは、
結構読みながら考えてしまいましたね。
明らかに怖いものとして提示されるように。
そうですよね。
なんかその縮小版であって、あるんですけどその自然の本性を裏切っているものっていうような書き方をされていて、
今の人間社会もそうなのかもとかやっぱり思ってしまいましたね。
なるほど。
俺あれだ、この盆栽は確実にこの夫婦の子だと思った。
そうだと思いますし。
お互い植物の本性をぶつけ合わず、サボテンとツルの本性をぶつけ合わずやってたから、
8年間うまく付き合えたけれども、それが分かってしまって。
でも分かんないな。緑が盆栽に、盆栽の中で盆栽になっちゃったみたいな捉え方。
ちょっと訳分かんなくなるけど。
僕の印象ではそれはその夫婦もそうだし、
もっと膨らんでいって、人間社会全体が盆栽になってて、
形としてはちゃんとそれぞれ存在はしてるけども、
本当の本性みたいなものっていうのは出せずにいるしかないっていうような、
ちょっとそんな妄想みたいなことを読みながらちょっと思ったりしてます。
なるほど、それもあるかも。すごいスケールのでかい小説でしたね。
そうですね。盆栽はこの地球そのものであるみたいなんですよ。
めっちゃ飛躍して、読みそうな気もしましたね。
じゃあちょっとこんなとこにして、もう一本お話ししたい作品があります。
これがですね、眼見火垂という一番最初に入っている作品ですね。
自分が美しいと思っているものがどんどんどんどん奪われていくっていう。
そうですよね。だからね、その社会としてはやっぱり、
整形して変えたいって思う人がね、やっぱり多いっていうものですしね。
これ、途中でも描かれるけど、この医師に下界の手にかかると、
みんな同じような顔になるっていうか、
同じではないんだけど、この下界が手術したよねみたいな、
癖みたいなのがどうしても、それぞれの顔に残っちゃって。
で、ちょっと同じように見えるわけですよね。
で、なんかそれって、わからないですけど、
整形が流行って、この1個、多分どっか基準があって、
みんなこういう顔が美しいと思っているから、
みんなそういう顔にしちゃうじゃないですか。
ってなると、あれ、なんかみんな同じ顔してるなみたいなのを感じたりする。
テレビとか見てるとおりあるんだけど。
それと似てるなってすごい思いました。
それと、思うのは、主人公がカメラで同じもんばっか撮ってるから、
なんかそう思えてきたのか。
やっぱり世間一般の感覚からすると、
まあとは言っても、そんなに何もかも一緒には思えなかったりするのかなと。
やっぱりこの瞼専門の下界の手にかかれば、
瞼だけじゃなくて顔の表情全体の印象で見ると思うんで、
この主人公がもう瞼ばっかり毎日見てるから、
本当に取り憑かれていったっていうような、
そこの要素が強いかなと。
確かに肯定的なのか、前提的なのかちょっと分かんないね。
これもね、一般的な感覚はとかって言っちゃうと、
もうね、全然話が合わなくなってくると思うんで。
まあでも瞼じゃないにしても、
まあ人それぞれやっぱりそういうのってあるだろうなと思いますね。
まさにそれがモンスター性みたいなものかもしれないですけど。
他人には理解できないところに執着したり、こだわりを持ったり。
動かれつく中でありそうだけどね。
そうですね。面白いのがね、
それが本当にこの主人公の行動を左右して、
運命を左右してるっていうところがまた面白いなって思うんですよ。
それを内に秘めてるだけじゃなくて、
女の子に対してそういうのを言っちゃうっていうところとか。
そうですよね。
じゃあ最後、どんな人に読んでもらいたいか、
感想を交えてお伝えしたいと思います。
個人的にはネッテルを最初に読むならば、
赤い魚の夫婦を読む方がいいんじゃないかなとは思っております。
でも赤い魚の夫婦に出てきた金類という短編があるんですけれども、
そういう作品が好きな人は、
この短編集はすごく楽しめて読めると思います。
すごくどれも明確でですね、
本当この短い文章の中で小説の世界に引きずり込んでくれるのは、
天才だなと思うので、本当におすすめな作品です。
あのちょっと気持ちがドワッとしたい時にはですね、
ドワッとしたい時ってどういうシチュエーションか全くわかんないけど、
読んでみたらいいんじゃないかなと思います。
確かに。
最初に読むなら赤い魚の夫婦の方が良さそうですよね。
確かに。