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はい、超実践的ヒモ理論〜。どんどん、パフパフ〜。
地球と宇宙をつなぐソーシャルシャーマンのミュウミュウと、物質と精神を調和する空クリエイターの輝きマンです。
中小学とヒプノセラピーで無意識の扉を開くストーと、テクノロジーと瞑想体験で人類のメタ認知を促すカワバタが、
スピリチュアルな実体験と現世での気づきからリスナーの意識を拡張しちゃう、そんな番組で〜す。
イエーイ、パフパフ〜。
はーい、じゃあ今日は、第5回目になりますけれども、今日のテーマはメメント・モリ、「死を忘れるな」ということでございま〜す。
いいことです〜。
メメント・モリとは?
メメント・モリとは、ラテン語みたいですね。
ラテン語。
死を思えとか、死を忘れるな。
死ぬべき運命を記憶しよう、みたいな。
そういう直訳だと、そんな意味らしくて。
人はいつか死ぬよね、っていうのをね、やっぱり現代人は忘れがちなんで。
死ぬこと、死が隣になさすぎるんでね、普段の生活に。
確かに。
っていう意味らしいですね、メメント・モリは。
今回、このテーマになったのも、てかこれ前回のテーマも確かそうだったんですけれども、
いつもこの収録をする直前に、今日のテーマはイカヨーニみたいなね、お話を輝きまとするんですけど、
だいたいなんか、シンクロによってもう決まってるんですよね、テーマが。
シンクロしちゃうよね、なんか。
これや、シンクロしてるや、みたいな感じで、今回はこの死ですね。
場合によっては、生きると死ぬ、みたいなものとか、ちょっとそういったものがね、なんかテーマとして出てきましたね。
そうですね。
これをね、このテーマを感じたきっかけが、ちょっと収録前にも話はしたんですけど、
とあるポーチングをしてる中で、プラットフォームを使ってるんですけど、その中でコーチの引き継ぎの依頼がありまして、
コーチの引き継ぎになった理由が、その前任のコーチが年末にお亡くなりになりましたと。
なので、代わりに河童コーチお願いしますっていう依頼がきまして、
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なかなかね、前任のコーチが亡くなって引き継ぐっていう経験が、珍しいというか、そういったこともね、ありえるけど、自分の身にそんなことが起こるとは思わないし、
亡くなった人の思いとか、いろんなものを想像してると、いろんな感情が出てくるっていうのと、
すごく死を身近に感じたんで、いつか死ぬようなっていう気持ちが、より感じる年末年始だったなっていうので、
そのテーマをみゅみゅとシェアしたら、似たようなことをみゅみゅも感じてたっていう。
そんな感じです。
そうなんです。
終わりを意識するみたいなキーワードが最近入ってきておりまして、
私、ヒプノセラピーっていうのをやってるんですけれども、
ヒプノセラピーの仲間たちの中でもそういう話題が出ていて、そこからインスピレーションを受け取っているんですけれども、
いろんなことに終わりを決めること、すごい大事だよねっていう話があって、
一つは、生きると死ぬっていうものではないんですけれども、
例えばパートナーシップとかにも、結婚制度っていうもので、
法律でも私たち夫婦だよってなったら、それが永遠に続くものだと錯覚する場合がある。
けれども、例えばどこかで終わりを決めておくだったりとか、
場合によっては、それを更新していくみたいな風になっていくと、
終わりみたいな、ピリオドまでのところがよりありがたいものになっていくし、
大切にしていくことができるよね、みたいな話が上がってたんですよね。
これは、生きると死ぬっていうことも、私そうだなと思っていて、
自分が命を終えるときを意識できるというか、それを受け入れていることって、
だからこそ、そこまでの生きている間っていうことが、一つ一つがありがたい体験になっていくし、
最近年末年始だから、時価変えられた方とかもいらっしゃるかもしれないんですけれども、
家族のこういう振る舞いが鬱陶しいとか、喧嘩をしちゃったとかって、
いつも嫌なこと言われるとかあるかもしれないけれども、
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でも、自分かもしくは、ご兄弟、ご両親、アナザーみたいな方々と、
そのやりとりって、永遠ではないわけですよ。
どこかでは死に別れとか、生き別れとか、また別のパターンとかで、
やがてそのやりとりって終わるっていうふうに思うと、
それすらも愛おしくなっていくみたいなこととかも考えたりして、
ちょうどタイミング的には、この1週間後ですね、
1月14日の夜のタイミングで、私がグループでの未来の可能性を見る、
グループヒップをやろうと思ったんですけれども、
それも未来のシーンの中で、自分の臨終のシーンっていう、
もうお亡くなりになって、さらにその次、
魂として肉体を離れていくところまで見てもらって、
その場面を受け入れた上で、今一瞬一瞬の、
生きるっていうことをより臨場感たっぷりに味わってこうぜ、
みたいなものをやろうと思ってたりするので、
めっちゃテーマがシンクロしてるやー、みたいなことを思って、
一通り興奮して、今この場に入ってきてる、みたいな感じですね。
そうですね。だいぶシンクロして、
でも本当にね、いつか死ぬ、いつか終わるっていうのを、
どんなに嫌な人だったとしても、それを想像すると、
かわいく見えてくるというか、逆にかわいい、逆に悲しい、
この感じも味わえなくなるのか、みたいな。
結構ね、自分はそのテクニックよく使いますね。
よく?もうベテランですか?
ベテランかどうかはわかんないですけど、
無意識に使ってました。
スマート会社経営してても、なんかこううまくいかないなって人がいたりしても、
でも一生いるわけじゃないし、
あと数年でもしかしたら亡くなるってことを考えると、
この期間は本当に愛おしいな。
この嫌な体験すらも、すごくありがたい体験だなっていう風に、
めっちゃ転換できるんですよね。終わりを見ると。
やっぱ不思議ですよね、人間の認知って。
あんなに苦しいものでも、そう捉えた瞬間に、
ちゃんと味わおうみたいな気持ちに変わるんで、
終わりを意識するのが超大事だなって思います。
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今のお話というか、今の輝き間のあり方って、
前回の愛の話にも結構通じてる気がしたんですけども、
愛もやっぱり捉えようによるっていうもので、
どんなことからも、どんなことにも愛があるっていう風に捉えたとしたら、
みたいな話にも通じていそうだなって思いました。
確かに通じてますね。愛に変換されますよね、すべてが。
いや本当に、最近私あれなんですよ、
数学でよく証明問題とかあったじゃないですか、
その流れで、私は世の中の出来事を最終的には、
全部愛に置き換えられる理論をやっているので、
もうどのようなテーマであったとしても、
最後イコール愛以外の証明からは逃げられないみたいな。
やってますね。
すごいそういうニュアンスも感じましたね。
でもなんか聞きながら、さらにちょっとこう、
私自身も気になっているところなんですけれど、
これ、何て言うんだろう、
終わりっていうものを意識しているからこそ、
ありがたいなとか、愛おしいなって思えるっていう、
これはなんか情報としては、わかったとしても、
いやでも、それができないことだってあるじゃん、みたいな話もあるような気がしていて、
これってなんか、何をもってできるようになっていくんだろうなとか、
逆に、できない相手、状況とか条件とか、
どういうのがあるんだろう、みたいなことは、
ちょっと気になったりはしましたね。
なかなかね、直接的にね、
目の前の人がナイフを持って、
殺しに来るみたいな状況を。
確かにね、目に見えなかったとしても、
言葉というナイフで殺しに来てることありますよね。
殺しに来てるとかもそうですし、
あからさまに自分の生死に関わるようなことをしてくる人に対しても、
この関係性がいつか、その前に俺終わっちゃうな、みたいな。
確かにね。
自分という肉体がなくなる方が早いと、
それが変換しづらくなるんじゃないかと、
そんなことを。
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確かにな。
なんかお話を聞きしながら、
そのタイミングでは愛おしいなとかっていうふうには、
ちょっと感じられないけれども、
時間差?
後々思い返してみると、みたいな、
反応が起きづらくなるタイミングのときだったら思えるとかはあるのかも。
知れないなとかちょっと思いましたね。
私、自分自身のことをちょっと振り返ったんですけれど、
私よく、なんか、
一人暮らしをしてから、実家に、
一人暮らしの自分の家から実家に行って、
で、実家からまた戻るみたいなプロセスのときに、
実家から戻るときって、私だいたいほろり涙いつもしてるんですよね。
なんかすごいこう、見送られている自分の姿とかを、
なんか、再生。
頭の中でして、
なんか、この光景をあと何回見れるんだろうとか、
今回で終わるかもしれないみたいなこととかを、
結構感じるんです。
なんか、このたぶん5年ぐらいが顕著なんですけど、
なんか、本当に親が突然死ぬんじゃないかみたいなものを、
結構いつも思っていて、
だから、なんかこう、実際に親とやりとりしていたりとかする中だと、
なかなかイラっとしたりとか、
こういうのやだなとか、そのときとかは愛おしいって思えないけれども、
その場を離れて、
一人の空間になったときに結構感じるなっていうのはちょっと思いましたね。
その三次元的な恐怖と恐れみたいなものとか、
不快な感覚っていうものが強すぎると、
なかなかそっちの死を思ったり、
メント盛り的なことができづらいんでしょうね。
確かに。
物質に寄りすぎちゃうと。
死よりも分かりやすい恐れとか、
だから、自我がそっちに引っ張られちゃうのかもしれないですね。
なんか、あと今のお話聞いて、
もう一つ思ったのは、
最近、人の死もそうですし、
どうなんだろう、私の体感的には、動物の死とかって、
あんまり見慣れたものではない感ある気がしていて、
隠されているもの?
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な感じがするので、
死っていうもののよくわからなさみたいなものって、
私たちの生活の中から、
死というものがそもそもめちゃめちゃ遠くなっているというか、
隠されている。
場合によっては、
多分最近の亡くなられている方の、
セレモニーみたいなものは、
だいたい、火葬場とか、
それこそお葬式の式場とかでやって、
火葬場で焼かれて、みたいな形の、
なんていうんだろう、
ちょっと、
なんていう日本語なんだ?
形式的?流れ的?って言うんですかね。
なんか、情緒っていうものも、もちろんあると思うんですけれども、
なんかちょっとこう、
なんか、
なんか儀式っぽさが薄いって言うんですかね。
なんか、ちょっと死っていうものに対する距離感とか、
色味みたいなものが、
遠かったり薄いのかしら?っていう感じがあるんですけれど、
これはどう感じますか?
そうですね。
儀式的な、
形式的すぎるっていう感じなんですかね。
それ自体が。
なんか、
埋もらってるというよりも、
なんかね、
害虫?なんか害虫しすぎている感?
って言うんですかね。
思い返してみると、
私の実家だと、
おじいちゃんが亡くなったとか、
私が小さかった頃って、
お家でお葬式をやっているみたいなことが結構多かった記憶があって、
うちのおじいちゃんが亡くなったときも、
家でお葬式を確かやってたんですよ。
で、お坊さんお家に呼んで、みたいな感じだったから、
なんか、
お葬式の準備がされている様子が、
家の中で起きているみたいな感じだったんですけど、
最近あんまりそもそもお葬式に行っていないっていうのもあるんですが、
なんか、
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親が、
それこそ、
お葬式に行くみたいなところに、
車で送ってあげるみたいなこともやるんですけど、
本当に、
早すぎるみたいな。
行ってから戻ってくるまでが。
あー、なるほどね。
うん。
で、親もなんか、
ちょっと挨拶だけして、
10分ぐらいで戻ってくるわ、みたいな感じで、
なんか、
そんな感じかい?みたいな。
なんかわかります?
なんか、味わいきれてない感じというか、
そう、なんかね、
味は、そうそうそう、
なんか、不思議だなってすごい、
なるんですよね。
なんかちょっとこの、
死っていうものに対する感じ方とかが、
人間としての経験値の差なのかもしれないんですけれど、
うんうん。
なんか、
そう、
タスク?
タスクというか、なんか、
なんか、
なんともちょっとこう、
表現しづらいんですけれど、
うん。
それはみゆみにとってその質感は、
嫌な質感なんですか?いい質感なんですか?
なんて言うんだろう?
いや、なんかね、
いい、
嫌とかの感覚とちょっと違うかもですね。
なんかね、
無機質な感じがするっていう感じですかね。
無機質な感じがすること自体は、
別に良い悪いとかは感じてはいないんですけれど、
でもなんか、
うーん、
人の死を、
仮に無機質なものとして捉えたりとか、
なんかこう、
その方を送ったりするっていうプロセスとかを、
無機質なものとして対応したりとかしていると、
自分自身の死もそういう風にするんじゃないかなって気がしていて、
うんうん。
なんかそれは、
そうでありたいかな?
それは嫌かな?みたいな問いは生まれますかね。
うんうん。
うん。
なるほど。
なんでこんな話を私はしたのか、
全く分かってないんですけど、
でもなんか、
そんなことを感じました。
うーん、
なるほどね。
うん。
確かにその死、難しいですね。
なんか死が、
うん。
近ければ近いほど、
多分サクッとそういうことをやる部族とかもいそうですよね。
確かに。
そこまで特別扱いしないというか、
例えばホモサピエンスだったとしたらもう、
崖から落ちて死ぬみたいなことは当たり前だったと思うんで、原始人。
うんうんうんうん。
いちいちね、
そむらっていられないというか。
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でも、
目の前に死があるということは常に感じてる、
っていう状況が多分昔の人間にはあったと思うんですよね。
うんうんうん。
なんで、
そういった時は、
まあ死はめっちゃ身近にあるし、
いつ死ぬか分かんないって感覚はあるけど、
まあその、
とむらうって意味ではすごくタスク的になっていくというか。
うん。
なんで、なんだろうな。
確かに。
だから必ずしも、
死を、
感じてるわけではないというか。
うんうんうん。
その、
人の捉え方として、
とむらい方が、
時間が長かったろうと短かったろうと、
短かったろうと、
そんな、
うーん、
なのかなとちょっと思ったり。
現代人は、
死が身近にないからこそ、
そういうセレモニーを開くことで、
こう、
おもんじるみたいな、
こともあるのかなと。
うんうんうん。
で、それを、
おもんじきれてない。
って感じてるのが、
今のみゅみゅなのかな。
うんうんうん。
なんかそんな風に、
思ったりしました。
なるほど。
うん。
確かに。
いやなんか、
今の、
話を聞いていて、
今って、
死をあんまり、
おもんじれてないのかなー、
という、
その、
思い込みにはまっている自分がいたな、
っていうことに気づいて、
うん。
私こそが、
たぶん、
死から遠い、
タイプの、
思い込みだった説あるな、
って一個、
ちょっと感じました。
その中で、
一つ思い起こされたエピソードが、
うち実家で、
ワンちゃんとか猫ちゃんを、
家族として過ごしていた時期あったんですけれど、
彼らも、
全員もう、
これまでの中で、
亡くなったんですけど、
私もすごい泣いたんです。
もう、
あー、
かわいそう、
みたいな感じだったんですけど、
うちのおかんがですね、
私から見ると、
あまりにもドライに見えたんです。
なんでお母さんは、
なんにも持ってないんだ、
みたいな。
生き物はいつか死ぬからね、
みたいな感じで、
すごい言ってて、
人の心はないのか、
みたいなことを、
思ってたんですけど、
今の話を聞いたら、
もしかしたら、
うちのおかん、
ずっと私よりも、
死と近い感覚を持ってるのかもしれないな、
っていう風にちょっと感じまして、
結構その説が濃厚だなって思いました。
うん、確かに。
死が近いほど、
そこら辺をたっかんしちゃいそうですよね。
うん、確かに。
そうなんですよね。
だからちょっと話、
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飛んじゃいますけど、
死っていうところで、
死って、
その人が死んだからと言って、
その人が生きてても死はあると思うんですよね。
だからこれって、
子育てしてるとそれめっちゃ感じてる。
うん。
例えば子育てしてると、
0歳のおむつを取り替えてる時期の自分の息子もいれば、
保育園小学校に行ってる息子もいて、
やっとしゃべれるようになる息子もいて、
全くしゃべれない息子もいてっていうことを、
今の6歳と8歳なんですけど、
っていうことを経験してると、
その0歳の息子には、
もう一生会えないんですよ。
うん。
今の息子とは会えるけど、
それ思うと、
人が死んだ時と同じ気持ちになるんですよ。
気持ちは全く一緒で、
あ、もう会えないんだ、
この写真のこの0歳の息子にはって思うと、
それは体感覚的には死と一緒なんですよ。
死んでるんですよね、このここの0歳の息子はもう。
うんうんうん。
そんな気持ちで子育てしてるんですけど。
8歳の息子とはもう、
今しか会えないし、
これはたぶん3年後になったら、
もう処死期になって、
全然違う質感の人物になっちゃうんで、
子供はそこがね、
分かりやすく、
違う人っていうのが見えるんで、
毎回死の体験できるんですけど、
そういう死の体験の仕方もあるな。
なるほど、それはもう、
世のお父様、お母様が、
お子さんの写真をたくさん撮りたがる理由が分かりますよ。
ああ、でもまさにそうです。
今しかないみたいな。
今しか本当にないです。
それ逃すともう死んじゃうんで。
それ、なんかそういう感覚を、
自分自身にも向け続けることって、
できそうですかね。
できるんじゃないですかね。
若い頃の時間は、
何百億払っても買いたいみたいな、
そういうタイプもいますけど、
そういうことですよね。
命を買ってるっていう意味では、
死を、死から遠ざかってるっていう見方があるんで、
同じですよね。
やってることはなんか。
なので、その意識を持てると、
できるっちゃできるのかもしれないですね。
なるほどな。
そう考えると、そういう見方を持つと、
過去の自分に対する、また解釈とかも変わってきそうですよね。
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なんであんなことをしたんや、とか、
なんて時間を無駄にしたんや、とか、
そういう悔える形で、振り返ることももちろんできますけれども、
あの時はもう、二度と帰ってこなくて、
その中で自分はこういうふうに精一杯生きてたんだ、
みたいなふうに捉えていくと、
またなんか、なんていうんだろう、
死ぬっていう終わりじゃなくて、
過去がもう、二度と帰ってこない、
終わったものっていうところから、
今をありありと生きていく、みたいな、
ふうにもつなげられそうだなって聞きながら思いました。
そうっすね。
ネメントモリ。
ネメントモリですよ、なので。
やっぱ、ネメントモリがあるとでも、感謝できるんですよ。
そういう嫌なめんどくさい子育てとかも、
そういうふうに捉えると、
めちゃくちゃ不毛な時間なんですけど、ここにいて。
そういうふうに捉えると、ネメントモリは大事なんですよね。
日々を感謝して生きるには。
なんか、やっぱりね、ここまで、
ちょっとメメントモリっていうキーワードで、
いろんなお話ししましたけれども、
私の感覚では、
私よりも輝きマンのほうが、
なんかね、死に対する解像度だったりとか、
臨場感みたいなものが高そうだなーって、まず思ってるんですよ。
なんかそんな感じがするぞって、直感。
もう、私のセンサーが直感してるんですけれど、
その直感はあってるかもしれない。
あってるかもしれないですか。なんかね、
だからこそ、日々、
メメントモリ的な感覚、それこそ、
これがずっと続くわけじゃないしなーとか、
いつか死ぬしなー、だからこそ愛おしいって思える。
多分そういう時間が、割りかし多いのかなっていう感じもしていて、
それがまあ、たっかんするとかとも言うのかもしれないですし、
前回のテーマを引用するんだったら、
5次元的な愛の感覚でいる時間が長いっていうふうにも言うのかもしれないんですけど、
なんか一個、私の目線で聞きながら感じるのは、
やっぱり死に対する快増の高さとか臨場感っていうところは、
ちょっと分岐点としてありそうだなーって思いますね。
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それは、こういうポッドキャストだから言いますけど、