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2024-08-16 32:20

#11 インタビュー対談「アビラティの物語」

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インドから届く声のお便り〜

『ShivaShakti』はインド在住のトーシャンが日々の気づきやタントラについてお伝えしているラジオ番組。

 

今回は、タントリックな死の講座に参加したアビラティの物語を聞かせてもらいました!

 

死を祝う!というテーマがビンゴだったという彼女との対談をぜひお楽しみにください♪

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インドからお届けする声のお便り、こんにちは、そしてこんばんは。
しばしゃくてぃんのトーシャンです。
今日もよかったらどうぞ、最後までお付き合いください。
今日は、このタントリックなしの講座をライブで受けてくれた、もう一人のタントリックアビラティをお招きしております。
今日は、アビラティからのお話も聞いてみたいと思います。こんにちは。
こんにちは、トーシャン。
お元気ですか?
はい、なんとか日本の夏やつを過ごしております。
何度ぐらいあんの?
今日はね、31度。
あ、わりと。
うん、でも湿度が高いから、すぐに汗をかきます。
わあ、インドはですね、今日は今、25度ぐらいかな。
いいね。
ちょっとね、半袖だと、やや涼しみ。
で、雨も今日は降ってなくて、いい感じです。
いい感じです。早くインドに行きたいです。
おいでおいで、おいでおいで、お待ちしております。
楽しみ、来年の楽しみにしております。
ね、来年ね、そうだよね。
じゃあ、早速お話を伺いたいと思います。
もう3年前なんだけど、タントリックなしのね、あのコースを開催したのは、
で、アビラティはそれ、ライブで参加してくれて、
たぶんそのときに、アビちゃんと初顔合わせだったと思うんだよね。
そっか、そうだ。
たぶん、そうじゃない?たぶんそのときに、アビちゃんがなんか、参加しますみたいな感じで、来てくれたと思うんだけど。
そうだと思う。その前に、ブミカからトーシャンとウッダムの男ことは聞いていて、
気になるなぁと思いながら、最初に参加したのは、そこだったんだと思う。
あ、そうなんだ。で、実際に、なんかほかにも、まあまあやっていたと思うし、ブミカからいろいろ聞いてくれてたと思うんだけど、
でも実際その、このタントリックなしの講座を、じゃあ出てみようかな、みたいに思った、なんかきっかけってのはありますか?
なんかね、私もともと父親が早く亡くなってるから、しってすごく身近だったんですよ。
で、ただその死に関してを、オープンに話す機会ってそんなになくて、
それをね、悲しいとかネガティブな方向ではなくて、お話をするとか、とらえ直す機会っていうのは、ずっと欲しかったものだったんですよね。
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だから、「はい、これです。私が欲しかったのは、これです。はい、ぽち。」みたいな。
そっかそっかそっか。ずっとそういう機会が欲しかったのっていうのは、もうお父さんが亡くなってから、わりとずっとそんなふうに思ってたの?
なんかね、亡くなってから10年とかは、どうしたらいいかわからないから、人に言えないっていう期間だったから、
そのときはそれが欲しいとは思ってなかったんです。
で、だんだん整理がされてきて、その世の中で死をとらえている姿勢と、自分が持っている姿勢って、どうもずいぶん違うな、
そういうことがわかり始めてから、話をしたいって思うようになりました。
一般的にというか、いわゆる死に対する、社会とか世間一般で思われてるとか、言われてることとはずいぶんほぼ真逆のタイトルだったし、
死を祝うんかい、みたいな、そういうタイトルだったし、
しかもサブタイトルが、偉大なる生の扉を開け放つっていう、長かったらしいんだけども、
そうなんですよっていう、こちらのが意図があってのことなんだけど、タイトルとか内容とかが、ビンゴっていうか、これだよっていう感じ。
そう、祝うっていうのがビンゴ。
だって、基本的に、普通はそれって悲しいこととか、避けたいとか、できれば触りたくない、というのがね、大半だから、
祝っていいんですか?
祝いたいです。
そっか、じゃあ、祝うっていう、セレブレーティングっていうのがキーワードだったのね。
実際に、3日間の中で、どうしてお祝いするのかとか、どうやってお祝いしていくのかって、
なぜお祝いしていくんだろう、みたいなことを、いろいろ話したり、瞑想したりしてたんだけど、
3日間、結構多岐にわたる内容で、いろいろやってったと思うんだけど、
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3日間やってみて、私、すごい今、思い出すんだけど、このアビラティがすごく深いところにタッチしてるっていうのを、すごい覚えてて、
それ、画面越しなんだけど、すごい感じてたんだよね。
うれしい。
アビラティのシェア、そのお父さんのこととか、今、すごい思い出して、
もう、ちょっと泣きそうな感じ。
私ね、たぶん、そのとき何をしゃべったか、さっぱり覚えてないんだけど、でも、泣きそうな感じは、一緒に来る。
アビラティが最後にシェアしてくれたこととかもね、すごい印象残ってて。
それはね、ビデオを見てくれる人はわかると思うんだけど。
私も見返して、そんなこと言ってたんだっていう感じになるはずです。
全然覚えてなくて。
いいのよ、覚えてなくて。
なんかね、3日間参加して、次の日、こんこんと寝た覚えだけあります。
あー、ほんと。ゴールデンウィークだったしね。
そう、肩の荷が降りたみたいな感じで。
あー、そうか。
お腹減ったから寝て、お腹減ったからちょっとだけ食べて、もう一回寝るみたいな。
全てを睡眠に費やした1日でした。
何かこう、プログラミング。
今、再起動っていう感じだったんだと思う。
リブート中。
お待ちくださいっていう感じだった。
そうかそうか、なんかそんなことが起きてたんだね。
私たちはやっぱりこのオンラインのコースだと、実際にその後どんなことが、リアルの会場でもそうなんだけど、
参加してくれた人たちが、実際にコース終わってみて、どんな日常に戻っているのかななんていうのは、意外と知らされないから、
そう聞いて、あ、1日中寝てたんだ、みたいな。
なんか、いや、そう、腹落ちしましたね。
いい、なんていうのかな、その、まあ、好転反応みたいなもんですよね。
で、なんか、その、まあ、次の日、そんな風にお休みして、こう、ゆったりして、体も心もマインドも全部こう、何か、ね。
その後何かこう、ふとした、また日常に戻っていくと思うんだけど、その祝う、死を祝うっていうこととか、
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お父さんのお墓に行ってみたりして、行くとかね、
行ってみたとか、なんかそんなとき、何かのきっかけで、なんか今までと全然こう、自分の知覚認識とかが違ってるなって感じた瞬間とかある?
そうですね、うん。
なんか、たぶんその年じゃなくて、次の年だと思うんですけど、
父親のね、デスセレブレーションも、うったむと当社にしてもらったと思うんです。
はい、しましたね。
ねえ、それもすごくありがたかったな。
やっぱりその、それまでって、私は父親が亡くなったことを、それまでのね、なんかこう、世間の偏見とかではなくて、
私だけはちゃんとそれを、人生を全うしたことって言って、何かその色をつけずにね、とらえてるって思ってたんだけど、
でもやっぱりその、自分だけってすごく心細かったんですよ。
だからその、周りがああだこうだ言ってくるのに対して、一人で戦ってるっていうような心持ちだったんだけど、
でも、その講座がね、あってから、私だけじゃないし、その死のとらえ方が、こっちが私にはしっくりくるし、
こっちのほうが、亡くなった人も、残された人も、すごく平和にいられるんだなっていうことがすごくこう、腹にね、落ちてたから、
外側に対して、すごくなんか、戦わなきゃとか、あんたたちが間違ってるんだ、私のほうが正しい、みたいな戦闘モードがなくなってきましたね。
それは、肩の荷が降りたというか、こうね、楽になったんじゃないかなと思うんだけど、
すごく楽になったですね。
だから、家族、父親が亡くなったあとも、家族はいるから、関係は続いているけど、そこに過度な期待をしなくなったかな。
その過度な期待って、例えばどんな期待なの?
なんかね、父親の亡くなったこととか、彼の送ってきた人生のこととかを、私は家族と共有したかったんです。
本当のことも、いいことも、悪いことも含めて。
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なんだけど、家族はみんな、良かったことしか言わない。
大変だったことは、なかったことにして、
お星さまになってるから、見守っててくれてるよ、みたいな、超薄っぺらなことしか言わないんですよ。
それが、私はすごいムッとしてた。
なんで、本当のことを言わないんだ、ってなってたんだけど、
それを家族に求めることは、止まりました。
それは大きいね。それはすごく大きいと思う。
たぶん、私はあったこととか、彼が生きてきた人生は、そのまま見たいって思うけど、
家族はそう思わないんだ。
そういうのも、彼女たちにとっては、ありだよねっていう、私とは違うけど、
そう言って、触れないように。
家族なんだけど、その人それぞれ、すごくインディビジュアルに近い人の、
この場合は父さんだけども、愛する人の死っていうことに対する向き合い方とか、
触れ合い方とか、プロセスの仕方が、人によって全然違うよねっていう。
子供のときに父親が亡くなっているから、何かを共有する。
何歳だっけ?
11歳。
もうすごい、感受性がすごく繊細なときだよね。
女の子から女性に変わる時期だったりして、すごく多感なときだよね。
だから、何かを共有する相手って、家族しかいないと思ってたんですよ。
そうだよね。
だから、そこに対して、なんでわかってくれないの?なんで私と一緒じゃないの?って思ってたけど、
それを家族に求めなくてもいいんだって。
今、アビラティの話を聞いてて、私も一緒に重荷が降りたような気がします。
だって、11歳とか12歳とか、小学校5年生、6年生、中学校、高校とかって、
何かそういう時期を経て、大人になって、
っていうのは、まさにほんとにセレブレーションだね。
父親のセレブレーションだったけど、私のセレブレーションでもあった。
そうだよね。
でも、それは、またそこに一緒にいた私たちも、もうぜんぜん同じだよね。
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アビラティのお父さんのデスセレブレーションっていう、
私をお祝いするっていうセレブレーションが、
ひとつのきっかけでなんだけども、
アビラティパパありがとう、みたいな。
お祝いする機会をくれて、
サンキュー、みたいな感じで。
デスセレブレーションって、ほんとに、
そういう意味で、
家族ではない、血縁ではない、集まった友達たちが、
みんな一緒にお祝いしてくれる。
それが、参加してくれた友達にも、何かのきっかけになったりするっていうのが、
家族感があって、すごい助けられたなって。
私たちも、そこにいたみんなも、それぞれにいろんな意味で、いろんな層のところで助かってたよね。
今、この話してて、
お嬢のトランスフォーメーションカロットに、
小さな家族を抜けるカードがあったじゃない。
Beyond Small Familyだっけ?
あのカードの感じ。
そうだね、ほんとに。
血縁だけが、ほんとに家族ではない、という。
お嬢という、お嬢ファミリーですね、ある意味。
お嬢の弟子である必要も、別にないんだけどね。
お祝いする、したい人は。
だから、プーンナとかで、たまにね。
たまにっていうか、これはほんとに、プランニングできないセレブレーションなんだけど。
やっぱり、弟子セレブレーションがあるときって、
ボディを焼き場まで歩きながら、みんな抱えて持ってくんだけど、
そのとき、通りにある商店街の人とか、
お水とか飲み物とか、ただてくれるんだよね。
配ってくれるんだよね。
だから、そこら辺にいる人たちみんな、
またこのオーションの人たちのデッセレなんだな、っていう。
参加の仕方っていうのは、いろいろあって。
でも、その人の中のすごい深いところに共鳴して、
こだまする、みたいな。
だから、アビラティナパパのデッセレの場合は、オンラインだったけど、
私もリアルでも参加したりしてるけど、
オンラインでも、その共鳴の感じっていうのは、ほんと全然同じだったね。
そう、なんか、この市のね、ワークショップだけじゃなくて、
トーシャンとウッタムのクラスを受けさせてもらっていて、
リアルとオンラインって、ほんとに変わりがないなって思うの。
もちろん、ボディがあって、その場所で一緒にいるっていうのは、
それはそれで素晴らしいことなんだけど、
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ネット上でも、場所を共有してるっていうことで、
すごくサポートされたりとか、
得るものって、私は何も変わらないなって、
この4年間、3年間、思ってる。
ほんと、ありがとう。
それは私たちも聞いて、すごい嬉しい。
そこが、受けてくれ、一緒に共有してる人たち。
私たちはね、全然そう感じてるんだけど、
みんなどうかなって、
でも、来てくれてるってことは、そう感じてくれてるんだよねって思ってたから、
今、それを言葉にして伝えてくれて、めちゃめちゃ嬉しいです。
より、マーケットプレイスに近い、自分の日常の中で、瞑想ができる。
そうだよね。自分の家だしね。
それが、いい時と悪い時とあるんだけどね。
周りにいつものものがあるから、
すぐディストラクトされちゃうんだけど、
でも、ほら、瞑想会に行ったら、そこはそこで、特別でしょ?
そうだね。
橋渡しじゃないけど、オンラインでもやってて、自分の家でもできて、
たまに瞑想会とか、リアルとか、行くとブーストされるし、分断しない。
今、この時代を生きてる私たちは、その両方を自由自在にアクセスしていくっていう感じかな。
中に固執するのって、すごくナンセンスだなって。
そうだね。
こんなおいしいことないよって。
ほんとだよね。
なんか、私も覚えてるんだけど、
あの時、ライブで受けてくれた人の中にも、
やっぱり家の事情とか仕事とかがあって、
あと、ときどき追っかけで見ながらみたいな、
追っかけ見逃し配信じゃないけど、
そんな感じで、お昼休憩は自分の家で台所でご飯作って食べて、
参加してる人が仕事行って帰ってきて、
日常の延長の中でやれたことが良かったって言ってくれた人がいたのを、
今、すごい思い出して、ああそうだよねって。
でも、アビアティが言ったみたいに、
ちょっと日常がそこらに散らばってるから。
それをなんとかして瞑想するのが、私の修行ですね、みたいな。
まさに、メディテーション・イン・マーケット・プレイスですね。
そうか、そうか、そうよね。
だから、どうだろう?
今、このコースってオンラインというか、ビデオの講座として、
一緒にね、ときどきライブで集まったりして、
やっていこうかなと思ってるんだけど、
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どんな人たちに、もしアビアティはおすすめできるとしたら、
おすすめしたいとかってあります?
そうですね。
なんか2つあるかな。
1つは、私と同じように、何かその、
死に対して、自分で抱えきれないものを持ってるなって思う人。
これはわかりやすい。
もう1つはね、周りに、自分の近くに高齢の方がいる人。
私です。
父ちゃんでした。私もなんですけどね。
父ちゃんでした。私もなんですけどね。
やっぱり、老いている人と一緒にいるっていうことは、
それだけ死が近くなってるでしょ?
で、仕事でも、自分のプライベートでも、見てて思うのは、
死に近づいていく人、その人本人だけではなくて、
その周りもすごく影響されるじゃない?
うん、そうだよね。
本人よりも、周りがすごくかき乱されちゃうんだよね。
そのときに、死をどういうふうにとらえるかが変わっているとね、
自分にとっても、自分の大切な年老いて、もうすぐ死に近づいていく人。
どっちにとっても、すごく優しいことだなって思う。
それなんか、すごい今、私の身近にいる高齢者を思い浮かべながら聞いていると、
まさにそうだなって。
そうなんですよ。
そうだよね。
自分もね、高齢者に、やがていつの日かなるんだけれども、
でも何か、あの人たちみたいにくくっちゃうっていうか、
そこに何か、怒りだったり、気取りだったり、不安だったり、
さまざまな感情が、もう爆裂し、爆裂しちゃうね。
しかもね、身内だとね、さらに爆裂するから。
過去の出来事とひも付けされたり。
その時、あんなこと言ってたあの人が、みたいな。
よくも、みたいな感じになるからね。
わかるわ。
その時にね、爆裂しながらも、絶対爆裂するんだけど、
でも、その人と一緒にいる時に、
それがね、自分にとっては、
一緒にいる時間が、たぶん、瞑想になる。
きちんとね、爆裂してるなっていうことと、
死が一体どういう意味を持っているのかっていうことがね、きちんとわかっていたら。
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そうだね。それはすごく思う。
今、例えば、私とかビラティは、その死についてのワークをやって、
その理解があったり、気づきがあったりして、
それを全然知らない身近な高齢者。
その人のいろんな振る舞いだとか、言動だとか、いろんなものを見ながら、
ここに何か、それについて働きかけをしているのとしていないの、気づきがあるとはないのではあって、
比較になっちゃうんだけど、それを見ることをさせてもらえているっていう感じが、私はしてて。
感謝すらあるわけね、母とかに。
ここで、これを、このまま、この中に。
宿題を積み残したまま、死に近づいていくと、けっこうカオスだなっていうね。
そう。反面教師としてね、何か、自分が逆にね、こぶされる。
瞑想しようってなる。
瞑想しようってね。
でも、おもしろいなって思うのはね、うちのおばあちゃんも、
ケオティックなのよ。もうね、お年だからね。
お年だからね。
お年、87です。
かわいくてしょうがないんですけど、ケオティックです。
なんだけどね、なんだけどね、ともちゃん聞いて。
でも、ケオティックなんですよ。
ケオティックなんだけど、私が爆発しないで、落ち着いて、彼女のそばにいるときって、ちゃんと彼女のいいところが出てくるの。
それはすごい。
お母さんといると、すごい、娘、母だと、爆発してんだけど、お互いに。
でも、私は、おばあちゃんとね、一緒にいて、本当によかったよって、よかったと今も思ってるし、
できないことがふえている。
今ですら、私はおばあちゃんと一緒にいれてうれしいっていうようなね、ことをね、言うとね、
本当に戻ってくるのよ、ケオスから。
なんか、孫と一世代、世代を一つ飛び越えていくが、すごくストレートに何か、ハートがすごくひらいてつながれるっていう感じ。
おばあちゃんもそこで、何か、我に帰るんだろうって。
死が近くなってきて、できないことが多くて、痛いとか、不安とか、心配のケオスの中にいるけど、
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ふっと戻ってきて、そういえばって、彼女と本当に美しいところがよく見える。
でも、なんかそれは、アビラティにとっても、祝福だよね。
おばあちゃんの、一瞬のブッダの側面が、チラ見できる。
そうなの、チラ見できるんですよ。
お母さんのチラ見ができる自信はないけど、たぶんね、それは無理と思ってるの。
それはわからないよ。それはオープンでいてください。
お母さんも、87歳になったら、アビちゃんも、何かそんなふうに、今のおばあちゃんと同じ感じになれる。
なれない。かもしれない。
かもしれない。いや、なれます、なれますと思う。
どっちでもいいことにします。
レッツコンティニュー瞑想っていう感じですよ。
でも、本当に役に立つと思う。お互いに。
そうだね、そうだね。
私、それで最後にアビちゃんに聞いてみたいのは、
自分が死ぬ時っていう、
たぶん、アビラティの年齢だと、まだ自分が死ぬっていうところの、ある意味リアリティ、現実っぽい扉っていうのは、まだたぶん見えてないと思うんだけど、
私はちょっと年齢的に、
ほんのちょっとだけチラ見。
ほんのちょっとだけ扉が見えちゃったな、みたいな感じがし始めてるんですが、
アビラティにとって、今、自分のお父さんの死とか、その身近な高齢のおばちゃんとか、
今、自分の死っていうことに対しては、何か思うところとか、今、伝えたいな、この構想を受けてありますか?
自分の死ね。
うん。
まだよくわかんないな。
うん。
ね、そうだよね。
もう、やること全部やったと思って、死にたいとは思っている。
やって、やって、やりきってください。
いや、ほんとにね、別のね、ご高齢の知り合いを見ているとね、
ほんとにね、鼻が開くように亡くなっていく人もいるんだなって、思うの。
うん。
そうだね。
それがいいなって思ってる。
ほんとだね、なんか、鼻が開くように死んでいく、もうこのまま、次のキャッチコピーに使わせていただきますっていうぐらい、すごいなんか、
そんなふうに死ねたらいいね、自分たちもね。
そう、死の瞬間が、鼻が開く瞬間だとしたら、
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つぼみがだんだん開いていく、
あのエクスタシーの時間が、亡くなるまでの時間だっていう、そういう感じ。
うん。
わあ、いや、なんか今、言葉を失ってしまいました。
うん。
なんか、その鼻が開くわずかな時間。
そう。
ね。
生の最後の瞬間が、そのエクスタシーであるように死にたい。
うーん、そのエクスタシーを、なんかこう、意識的にこう、一瞬一瞬を、こうプロセスしていく、ねえ、瞑想をやったの覚えてる?
覚えてない。
全部すとんでます。
全部すとんでます。
そういうのをやってたんですよ、毎晩毎晩。
もう一回。
よかったら、ぜひまた、その瞑想をやりますので、思い出しにいらしていただければと思います。
でも、なんかそのエクスタシーの中で死を迎えるっていうのは、まさにタントリックな死そのものだね。
ああ、いい話を聞かせてくださってありがとうございます。
ありがとうございます。
講座があっての今でございます。
はい、あの、皆さんがいてくれての今でもないですか。
ありがたいことでございます。
ありがとう。
ありがとう。
じゃあ、またぜひいらしてください。
また。
はい。
ぜひまた。
はい。
じゃあ、やって。
はい、ありがとうございます。
今日のトピックはいかがでしたでしょうか。
この番組では、リスナーの皆様からの質問や感想、大歓迎しています。
よかったら、メッセージを送ってください。
今日も最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
それでは、また次回。
皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
じゃあね。シーユー。
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