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こんにちは、ポイエティークRADIOです。この番組は、アンカオキーステーションに、私、柿内正午が一人でブツクザ喋っている様を、全国に配信しているポッドキャストになります。
前回は、オムラ寺でアオキさん、マスクさんが、僕のお便りに答えてくれたのに対して嬉しかったなという話を30分して終わりましたが、今日もその続きで話をしていきたいと思っていて、
もともとお便りを読んでもらった時のオムラ寺のタイトルが、「イリイチは男は辛いよが好き」というタイトルで、すごい秀逸なタイトルだなと思ったので、第四回の配信のタイトルは、「マルクスは男は辛いよが嫌い」というタイトルにしてお答えとさせていただいたのですが、
ちょうどそこで話題になっているイリイチのシャドーワークという本をついさっき読み終わって、すごく面白い本だったので、続きとしてオムラ寺への返事パート2およびイリイチシャドーワーク面白かったぞ話というところで、今回はお話をしていければと思っています。
このイバン・イリイチという人は、もう死んじゃったおじいちゃんなんですけど、民生まれで、もともと結構いいところの貴族でかつエンジニアみたいなお父さんの元に生まれて、進学者として発展途上国に学校を作ったりとか、そこでキリスト教のカトリックの教えを広めたりとかって活動している中で、
だんだんその制度化された教育というものだったり、制度化された宗教みたいなものに対して、いやなんかそれはおかしくないみたいなことに目覚めてしまって、今だと学校ないし病院ないし交通というものに対してめちゃくちゃ意を唱えるとんでもおじいちゃんとして有名な人です。
この人の脱学校社会とか脱病院社会みたいなものが基本的に有名なところでは作品としてあるんですけど、近年一番有名な本としてはこのシャドーワークという本がかなりいろんなところで引用されている本かなというところで、
なんでこの本がよく引用されているかというと、最近だとそれこそ逃げ恥、逃げるは恥だが役に立つというドラマが2年3年くらい前にありましたけれども、あそこで言われているような賃金の発生しないカジ労働みたいなものに対して目に見えない光の当たっていない労働というところでシャドーワークという言葉で名前をつけたおじいさんとしてイリーチというのは今だと有名なのかなというところで、
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あるんですけれども、このシャドーワークという本を読んでみて一番に思ったのは、シャドーワークというのはカジ労働のことであるみたいなことを正直あんまり書いていないなというところで、かといってこのシャドーワークって何なのというところを読めば読むほど結局わからなくなる本だなというのが面白かったところで、
もともとこのイリーチという人がこの本の前に書いている、1973年くらいに書いている本で、コンビビアリティのための道具という本があるんですけれども、ここで言われているコンビビアルってどういう意味かというと、
生き生きとした共生、仲良く楽しくわいわい、それぞれの能力をそのまま気持ちよく発達させていきながら、共にみんなで生きていく社会というものをどう作っていけるかというようなことを探求している本があって、
このコンビビアルという概念がイリーチの中ではすごい大きいんですけど、このコンビビアリティ、共にみんなで生きていく性みたいなものを阻害するものとして、このシャドーワークというものがあるんだぞというところが一番のイリーチの本の中で繰り返し主張されることで、
じゃあここで言われているシャドーワークって何なんだというと、基本的にイリーチが批判しているのは、産業社会、ないしは制度化された産業みたいなもの、お金が発生するやり取りそのものに対して割とそんなのつまらないなみたいなことをこのおじいちゃんは思っていて、
学校だったり病院だったりを批判するときにも、教育だったりとか健康維持みたいなもので、個々人がそれぞれに自分ないずされたやり方で本来工夫・創意・工夫をしていくもののはずなのに、いつの間にか専門家みたいな謎の人種が現れて、私が先生ですみたいなことを言いながら、
誰でもできるはずの教育であったりとか健康みたいなものを一つの権威づけられた特権的な会計の人だけが有料で下々の人々に配ることができますみたいな立場に立ってしまうことがすごい嫌っていうことを言っていて、
元々もう一つ家口のシャドーワークの中で重要な概念としてバナキュラーって言葉が出てくるんですけど、雑に日本語に訳すなら土着みたいな意味で、経済的な交換関係っていうものではない場所での文化だったりやり取りみたいなことをこのバナキュラーっていう言葉で家口は表現してるんですけど、
シャドーワークっていうのは賃金労働と一緒にセットになって、基本的に賃金なしにはないしお金なしには生きていくことができない商品にすべてを支配されてしまったというか、商品にすべてが包摂されてしまった社会みたいなものをどんどん強化していくものとして、賃金労働っていうものがこれまでマルクスの時代からずっと言われ続けているけれども、
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賃金労働を成り立たせるためには賃金の発生しない労働、シャドーワークっていうものが一緒にセットになってずっと動いてきているんだと。
そうなっていくとそこにはもう賃金労働とシャドーワークで仕事ばっかりになっていて、どこにもバナキュラーな土着の価値、お金だったり交換関係とは別のところで生み出される価値っていうものの居場所がどんどんなくなっていっちゃうと。
それがすごいリリージ的には嫌だなっていう話をしていて、なのでその一つの賃金労働とセットになっているシャドーワークの在り方として工場が発展していく中でどんどん力仕事だったりっていうのを男の人にだけどんどん偏っていって、賃金の発生する労働は男の人が外に出かけていきます。
家庭内でくたびれた賃労働者っていうものを一旦ご飯だとか洗濯みたいなことをしながらもう一回元気よく工場に送り出していくための労働力の再生産の場として家というものを守る人として無償の労働をしている女の人たちっていうようなその関係が作られていくっていうところで、
一つそのシャドーワークのやりとりっていうのが作られているんですけど、ここでその家事っていうものだけをシャドーワークだとしてしまうと結構イディーチの言いたいことと外れてきてしまうなっていうのが読んでいると思っていて、
イディーチっていうのはその賃金労働、シャドーワークとセットになっているものの対立概念として持っているのがそのコンビビアルっていう概念なんですけど、
自分たちにそれって自己中足的な生活というか、自分たちの欲しいものだったり自分たちの満足は自分たちの手で作ることができる。
わざわざ外からお金でアウトソーシングして外から何かを買ってくるってことなしに自分のお家の中だけで自分の満足を作っていけるっていうところを一つの価値として持っていると。
ある意味家事というものとシャドーワークというものをほとんど無批判にイコールでつないでしまうと、
例えば食事を作って楽しみのために食事を作って楽しかったねであるとか、趣味で壊れた家具を金継ぎして直しましたみたいな、
そういうものまで労働力の再生産みたいなところに賄賞化されてしまってそこにあったはずの自分の満足だったり自分の楽しみを自分で作り出すっていう側面が、
家事というものから無批判にどんどん寝こそぎにされてしまって、ただ単に無払いの労働みたいなところに回収されていってしまうような気がしていて、
だから家事、特に女性の家事というものをそのままシャドーワークというものとイコールにしてしまうみたいなことを結構いろんな本の中では雑に書かれがちなんですけど、
それはたぶんイリーチ読んでない人が書いてるんだろうなっていうのを読みながら感じました。
どちらかというと、ここで言われているシャドーワークって、
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資源労働、何かを生産するときにその生産というのは必ずどこかで無払いの労働によって保管されているからこそ資本家に利益が行くようになっているんだっていうことをイリーチは言っているので、
労働よりももっとわかりやすい例で言うと、今だとコンビニとかスーパーのレジがどんどんセルフレジになっていると思うんですけど、
あのセルフレジで会計をする、お金を入れて、自分たちで最近だと袋も有料になっているので自分たちのエコバッグに入れて買える、
ここのお買い物をしている人たちが何か支払いのために機械を操作して、
その自分たちでエコバッグの中に商品を詰めるというこの作業が多分シャドーワークとしては一番しっくりくるんじゃないのかなと思っていて、
本来はこれってレジの人たちが賃金の元にやっていた仕事だったはずなんですけど、
今その仕事というのがお客さんたちの自発的な行動としてなぜかアウトソーシングされていると。
消費者であるはずの我々の方にそういったレジ打ちから袋詰めという仕事が賃金の払われない形で顕在化している。
これってすごい賃金労働というものがどんどん最低賃金とかも上がってきて企業たちはどんどん苦しくなって、
この前アベノミクスは嘘だみたいな話がみんな知ってたよって思うだけのニュースが出てきましたけど、
そういう形でどんどん最低賃金だけは上がっていくけど、特に売上が上がっているわけではないという状況の中で、
じゃあどうすればいいかというと、そういう仕事を少しでも楽にするために、
セルフサービスという名のもとにお客さんの方にその仕事を負担してもらいましょうというところが増えていっている。
これがイリーチューの言うシャドーワークというのに一番しっくりくるところではないのかなと思っていて、
基本的にイリーチュは賃金労働というものはシャドーワークなしには成り立たないものなんだというようなことを言っているんですけど、
そういった形で不払いの労働というものをどこかに押し付けているからこそ、
わざわざ賃金が発生するような労働というのはできるようになっているんだというようなお話がシャドーワークの中ではあって、
そうではない、賃金だったりお金がないと暮らしていけないみたいなマークフィッシャーの資本主義リアリズムみたいなものに対して、
いやいやお金なんかなくたって自分たちの楽しさだったり自分たちが生き生きと生活をしていくってことは全然できちゃうよねみたいなお気楽さ、
土着の価値観みたいなものがそのシャドーワークに対立する概念なんだということを繰り返し繰り返しイリーチュは書いているんですけど、
具体的にこの生き生きと自分たちの生活を作っていく活動とシャドーワークとというところの区別の仕方というのが結構曖昧で、
イリーチュ自身もおそらく家事というものがシャドーワークなんだと多分言い切っちゃっている部分が微妙にあるのが、
それこそあんまりちゃんとイリーチュを読まない人たちにとって家事イコールシャドーワークってなっちゃってる原因なんだろうなとも思うんですけど、
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すごいこうイリーチュは家庭というものからシャドーワークというものを駆逐しないことにはいつまでたっても商品というものに包摂された社会の息苦しさから抜けられないんだということを言うんですけど、
そのために何をすればいいかというと、その家の中で自分たちで生き生きと生きていくための自信をつけることだということを言っていて、
この生き生きとする活動、家の中でする活動って結局家事の中に含まれてるんじゃないかなみたいなところがかなり分かりにくい本なので、
シャドーワークっていうのは家事、女性の家事労働の作種の構造を暴いた本であって、
だからこれを読めばそういうところに対して批判的な資産を持てるんだという期待でこの本を読む人は結構がっかりするんじゃないのかなというのが読んでいての感想だったんですけど、
そんなことよりもこのシャドーワークの本の中で一番面白かったのは、
そういう何かしらの産業構造であったり賃金労働みたいなものに全てが回収されていってしまう世界線っていうのがいつ頃からできたものなのかっていうのを歴史を遡って考察していく。
その考察の仕方に凄みがあるなと思っていて、
最初にこのシャドーワーク、賃金労働というのが結託して全てを商品化していく社会を作っていたり、
礎を作ったのは誰なのかっていう話をするときにイリーチは13世紀にまで飛ぶんですね。
そこでコロンブスの時代に同時期にイサベル女王に対して賃状をしたスペインの文法学者、
こいつのせいで賃金労働とシャドーワークというのが結託して全てが商品に書き換えられていってしまう。
お金がなければまるっきり生きていけないような気持ちにさせられてしまう社会というものが準備されたんだというようなことを言い出すわけです。
マルクスが賃労働者の発生というものを農場の囲い込みであったりとか、
農地を無理やり羊たちの牧草地に変えていくみたいなところで、
イリーチは分かりやすく労働というものと身近なところから考察したのに対して、
イリーチはいきなり文法学者まで飛んじゃうわけですね。
このぶっ飛んだ発想の転換みたいなものがイリーチの一番の深刻調なんじゃないのかなというふうに読んでいて、
この本の中で言われているのは先ほど最初の本にお話ししたバナキュラー、土着の文化みたいなものが
どんどん商品によって書き換えられていってしまったというところに問題があるというお話ししましたが、
この文法学者というものが何をしたかというと、それまで書き言葉というのは基本的にラテン語であったりとか、
もしくはその印刷文化というのができてからは、実は標準語みたいなものがそのまま印刷されていたわけではなくて、
それぞれの土地の言葉で円溜め小説みたいなものがどんどんルーフされていったというような時代が、
実は印刷文化ができてから最初の1世紀ぐらいはあったんですけれども、
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それを見て恐怖を覚えたというか、危険を察知した文法学者の名前を忘れちゃいましたが、
おじさんがその女王に対してこのままではいけませんと。
女王陛下の新民たちにこれからも植民地をどんどん増やしていって、
どんどんよくわけのわからない言葉をしゃべる人たちも一緒に統治していくんだから、
スペイン語というものをはっきりとこれぞスペイン語なんだというものをきちんと作ることで、
正しい言葉というものを作って、その言葉のもとに新民たちを統一させるべきですと。
なんでこんないろんなわけのわからないギャル語であったり関西弁みたいなもので書かれている小説みたいなものは脱記すべきです。
正しい標準のスペイン語で書かれた本だけが認められるような世界をちゃんと整備するべきですというようなことを文法学者のおじさんは言うわけです。
それに対してイサベラもそうだよねみたいなことを言いながら標準語というものができてくると。
この標準語というものができたときに何が起こるかというと、正しい言葉というのは家庭内でだったり自分たちの住んでいる村々の中でしゃべっている言葉ではなくなっちゃうわけですよ。
そうじゃなくてそれこそNHKのアナウンサーのような標準の正しい発音、正しい文法というのがあるんだという形で外部の先生から教えられるものになってしまったと。
このときにその土着の言語というものが一つ列位に置かれて、もっと先生から教えられる間違いのない言語というものが一番に来てしまったと。
ここで初めてそれまでは生徒と馴染んでいなかった自分たちがそれぞれ普段生きているだけで普通に覚えていた言葉というものを忘れ去って一つの正しい正解というものに寄せていく。
その寄せていくために教育というものを受けなければいけなくなる。教育というものを受けるためにわざわざ自分たちの税金であったりないしは自分たちの給料みたいなものを先生にお支払いをしてわざわざ教えを受けるという構造がこのとき初めて整備されたんだというようなことをイリーチは話していて。
ちょうどその語の時代の中ででも、例えば母語というラングマザーという言葉がありますけど、ここで言われている母という概念と言語という概念が一緒になったというのも、これもやっぱり修道院が由来のものであって、
これも農作地の工作技術がどんどん発展していく中で、自分たちには理解できないような方言を使っているところにまで自分たちの農耕地が拡大していったときに、そこにいる人たちに自分たちは偉いんだぞということをちゃんとわからせるために、
マリア様の母なる言葉というところで、君たちが喋っている犬がくさい言葉よりも、まずは我々のマリア様の言葉を覚えましょうというところで、修道院が村の人たちにする説教の中で言語教育というものがその場で生まれてきたと。
この母という概念と言葉という概念が結びついて、一つの正解というもの、そして教えられるもの、言語というのは教えられるものなんだというところを整備していったというところから、このバナキュラーな価値というものに対しての侵略というのが始まっていったんだということをイリーチは話していて、
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すごいこれは面白い話だなと思って、読んでいて一番思い出したのがギャル語なんですけど、ギャルの今だと多分すでにギャルの中では死語であろうアゲミザワみたいな言葉とか、もっと言うとサゲポヨとかヨキノキみたいな、ああいう言葉に対しておじさんたちというのはどんどん面白がって乗っかっていって、
乗っかっていった結果ダサくなってすぐにその言葉は廃れていくっていう、そのサイクルってずっと続いていると思うんですけど、ガラ系の時代の常人には読み取れない謎の文字、文字構造からすでに解体していくギャルのやりとりというのはあれだとかものすごいバナキュラーな価値、既存の商品経済の中には乗せようがない、本来は乗せようがない、
ギャル文化圏の中でだけ通用する土着の文化っていうところで、ある意味あれはイリーチはすごい大喜びすると思うんですよ、ギャル語に対して、これこそ商品・法制・社会に対してのオルタナティブであるっていうことをきっと言うと思うんですけど、とはいえそれもすぐに流行ってから2年3年もすると、酔っ払ったおじさんたちが面白おかしくふざけて言うぐらいの程度の低い言葉になってしまうっていうところで、
そのイタチごっこっていうのが結局あるんですけれども、自分たち独自の言葉を持つこと、自分たち独自の価値っていうものをきちんと持っていくことっていうことをすごくイリーチっていう人は考えていて、イリーチのことが好きな人っていうので、有名な人だと富山郷一っていう頭のいいファシストの方がいますけれども、
彼とかも高校自体は反学校、反管理教育っていうところで、ガチガチの拘束で固められた学校制度っていうものに対して意を唱えることによって九州中で名を馳せた方ですけれども、そういった形で何か一つの正解があって、それを先生から教えられれば、それでも全部万事億件なんだ。
ないしはその学校という制度の中できちんとその学校の正解みたいなのを内面化して立派な社会人になることでいい暮らしができるんだみたいなその価値観を批判に全て受け入れてしまうっていうことに対してイリーチはいやいや待てよと、富山郷一はいやいや待てよと言っているわけで、
何か一つの正解みたいなものをっていうのは自分たちの力でないしは自分たちの身近なところで具体的な生活実感の中から作り出していかなければいけない、編み出していかなければいけないもののはずであって、それをどこその馬の骨とも知れない、高々教育学部で2,3年適当にペラペラペーパーテスト受けただけの支配欲の塊のような教師どもに全てを任せて、
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例えばツーブロックはなんか不良らしいとか、スカートの丈が2,3センチ違うだけで反社会的勢力として扱われるような風潮に対してバカじゃねーのと言うために自分たちの言葉、自分たちの感性っていうのをきちんと磨いていかなければいけないっていうことをイリーチおじいちゃんは言っていて、
これはだからまさしく本当に先ほどのギャルもそうですし、例えば各家庭の中にも、各友達間の中でも独自の言葉って絶対出てくるはずなんですよ。
それこそさっきから話しているバカな教師に対しての、その教師自身だけが知らない笑える頭であるとか、そういったところをいかに編み出していくのかっていうところにこそ、
何か一つの正解があるかのように振る舞われなければいけない世界みたいなものに対してどう対抗していくのかってヒントはあるんじゃないのかなみたいなことを、このシャドーワークを読みながらすごい考えていたところで、
普段の言葉遣いであるとか、普段の自分がどんなことを考えていて、普段どんなふうに過ごしているのかっていうことがすごいそれ自体で一つなんだろうな、自分のスタンスの表明になり得るというか、
正しい言葉遣いみたいなものにすごい固執化するみたいなスタンスであったりとか、僕は前回の放送でも非願と故願って思願だろうみたいなことを言っちゃってましたけど、別にそんなの間違えたっていいんですよ、言葉なんて。
特に文字ベースでインプットした言葉なんて読み間違えて覚えるなんて当たり前なんだから、それは別にそのまま読み間違えてたっていいんですよ。それをわざわざこうが正解だよっていう形で正解だけを認めるかのようなスタンスでしゃべっているっていうのは、それこそ一つの生徒根性というか、教えられたことだけを正解とするような態度でしかなくて、
すごいそれは無批判に今の社会の生き苦しさであったりとか、自分自身が何かしらダメなのかもしれないっていう価値観を内面化するような態度にしかならないと思っていて、堂々と言い間違えること、堂々と間違った言葉遣いをすること、堂々と何か新しい言葉を作ってしまうことっていうものが、
一つ、今すぐにできるイディーチ的実践としてあり得るんじゃないのかなっていうところを今は考えています。
なのでこうやって言葉でしゃべっていると、声でしゃべっていると、文字でしゃべるときには適当に変換できなかったときに、この言葉間違ってたんだなっていうのはわかるんですけど、声でしゃべっているとそのあたりがかなりノフォーズな形で、
間違いっぱなしで発信してしまいかねないなと思って結構ビクビクしているんですけど、とはいえ間違えたとしてもイディーチ的にはオールオッケーでしょっていうところで、これからも自分なりの言葉遣いでこのポッドキャストを続けていけたらなみたいなことを思っています。
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ちょっと話は変わりますけど、このバナキュラーな価値っていう土着の価値、貨幣経済になじまない価値っていうものの体現者としては、やっぱりそれこそ小村寺でもお話があったようにトラさんっていうのはすごい重要だと思っていて、
男は辛いよのトラさんに対してのわからなさみたいな、ただのクズにしか見えない、妹のお見合いを下品な言葉でぶち壊しにして、なんだよ、それで親戚たちに怒られると、なんで俺がここに行っちゃいけないっていうのかよみたいな形で決して謝らずに、むしろ自分はここで阻害されちゃってるみたいな、被害者面をしていなおるみたいな、最低の親父じゃねえかっていうところで、
最近ツイッターでもまたトラさんの悪口がたくさん出ていましたけれども、それはおっしゃる通りだなって思うんですけれども、なんだろうな、そのトラさんっていうもののわからなさっていうものを、前回は白井佐藤氏が武器としての資本論の中で階級意識っていうものが希薄になってしまっているからこそトラさんわからないんだっていう書き方に対して、本当にそれってそうなのみたいなお話をしましたけれども、
今回はそれと別の軸で言うならば、さっきまでお話していたような、経済的に成功するため、ないしは食っていくためにはお金が絶対に必要で、お金を手に入れるためにはある程度の学歴であったり、ある程度の基礎知識であったり、ある程度の社会とのうまくやっていきが必要だっていうような考え方の中では、
必ず社会通念上の正しさであったりとか、先生に教えられた正しさっていうものを、少なくとも表面上はきちんと体現しなければいけないっていうプレッシャーがすごい強くなっているっていうのが、一つ資本主義社会、ないしは何でもかんでもお金で買わないとやっていけない社会構造の中ではどんどん強まっていくと思うんですけど、
トラさんの時代っていうのは、トラさんっていうのは基本的に学歴のある人たちっていうのは、さしずめインテリだねみたいなことを言いながらバカにしていくんですけれども、そういうインテリたち以外にも生きていく余地がまだたくさんあるように見えた時代っていう中でのトラさんっていうものと、
今、もう一度ただのクズなおじさんっていうところで見るのではなくて、なぜ今このおじさんのことをこんなにも生理的に嫌悪してしまうんだろうかっていうところで問い直すことっていうのは、バナキュラーな価値、土着の価値、自分たちの満足というものは自分たち自身で作り出していけるんだっていう考え方っていうのがどんどん弱まってしまっている。
なので、現在のっていうものを相対化しながら、ないしはもう今一度それをはっきりと言語化しながら見つめ直していくためのきっかけとして、トラさんを考え直す、ないしはトラさんがなぜこんなにも受け入れられないのかっていうことを自分なりに考え直してみるっていうのはすごい面白い試みというか、いい試みなのではないのかなっていうようなことを考えています。
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今現在だと2号まで出ているポイエティックという面白い雑誌のようなものがデジタルリトルプレスとして私書きない称号のノートから無料でPDFをダウンロードして読むことができるんですが、その中で連載でトラさんを見る生活っていうのを今やっていまして、
まさにそういうなぜトラさんが今わからないのか、ないしはトラさんをわかろうとすることで見えてくる今の社会って何か思っていたよりも勘弁全なものではないよねみたいな見直しみたいなところを模索する大変面白い連載をやっておりますので、よろしければ文字の方でもお付き合いいただければ幸いです。
今日はちょっと何の話をしていたかだんだんわからなくなっちゃいましたけど、要するに僕たちは正しい言葉遣いというものであったりとか、社会的な正しさであるとか、社会的な経済的な成功みたいなものとは別のあり方というか、
ただし今言われているような正しさ、ないしは成功みたいなものと関係ないところで楽しく生きていくっていう可能性は全然あるんじゃないのかなっていうことを今一度模索していくためのヒントをこのイリーチの本っていうのはすごいたくさん示してくれるようなものじゃないのかなみたいなことを思いながら読んでいました。
特にこのイリーチっていうのは開発というものに対して自分たちの、自分の選挙史時代の話を反省しながら、すごい開発っていう概念だったり経済的発展みたいなものが平和だったり良きものなんだっていうような価値観に対して嘘でしょみたいなことをずっと言っているおじいちゃんなんですけれども、
その経済的発展であったりとか、町が一つ開発されていくっていうことが本当にその土地の人たちにとって幸せなことだったのかどうかっていうのはその土地の人にしか本来わからないはずで、
渋谷の宮下公園が空中庭園みたいになって、そこにルイビトンであったりとか、いろんなブランドが入ってキラキラして良くなったねみたいな商業施設に対して、渋谷の再開発全般に対してジェントリフィケーションだっていう批判の声っていうのはずっとあるわけですけど、
特に宮下公園なんてそういった闘争の場としては最大のものであったはずで、宮下公園って誰のためにあったかってルイビトンを買えるような人のためにあったわけじゃなくて、むしろ住むところすらままならないような人たちの一つのアジールとして機能していたような場所っていうところに綺麗なブランドや綺麗なガラス張りの建物を作ることによって、
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そういった発展であったりとか、より良い未来を作ったねみたいな雰囲気を出してしまうっていうことに対してきちんと違和感を持てるかどうかというか、そこでそのキラキラとガラス張りになっている風景を見て嫌悪感を持てるかどうかみたいなところが、今すごい改めて先鋭化しているんじゃないのかなみたいなことをツイッター越しに渋谷の変わり良く様子を見ながら、
考えているんですが、渋谷にそんな思い入れないので、あまり渋谷の話は広がらないんですけど、そんな感じで、あ、急めた30分経ってたな。えー、今週はこんな感じです。ポイエティックラジオ、柿内聖吾でした。