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2021-04-16 1:16:51

BC010『世界は贈与でできている』

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今回は『世界は贈与でできている』について。

副題:資本主義の「すきま」を埋める倫理学

著者:近内悠太(ちかうち・ゆうた)

1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。

慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。

リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。

デビュー著作となる本書『世界は贈与でできている』(NewsPicksパブリッシング刊)で第29回山本七平賞・奨励賞を受賞。

倉下が見た本書のテーマ

資本主義に抗する倫理学

* 「お金では買えないもの」を語る言葉を求める。

贈与とは何か──現代的な意義の確認

* 贈与の原理を見出す。

ピックアップキーワード

* 贈与論 (マルセル・モース)

* 贈与

* “お金で買うことができないもの、およびその移動”

* エマニュエル・レヴィナス/内田樹

* 贈与の失敗としての『ペイ・フォワード』

* デリダの誤配(「行方不明の郵便物」)

* 贈与の象徴としてのサンタクロース

* レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』

* ウィトゲンシュタインの言語ゲーム

* 小松左京のSF

* 想像力

* 逸脱的思考と求心的思考

* アンサング・ヒーロー

概要

人間は社会的な動物として(他者の存在を前提として)進化してきた。しかし、資本主義=交換の理論は他者の存在を必要としない。その理論は、自分もまた他者から必要とされないことを意味する。

一方で、贈り物はそのような交換の理論には当てはまらない。経済学はこの贈与を語るための言葉を持たない。では、その言葉とは何なのか。「お金では買えないもの」という否定の表現ではない言葉を本書は探究する。

贈与は、非時間的な交換とは違い、時間的な要素を生み出す。それはつながりを生み出すということ。しかし、贈与であるかのように見える親から子への呪いもある。その呪い性は「これは贈与である」と告げられることで発生してしまう。つまり、贈与とは贈与としての名乗りを持たないものでなければならない。

贈与だとラベル付けされない贈与は、受け取った者が、その「意味」に後から気がつくことで成立する。そして、「意味」を扱う行為は、言語であり、コミュニケーションである。

哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、言語活動をゲームとして捉えた。言語の「意味」を、特定のゲームにおける機能として理解せよ、という主張である。そうしたゲームを念頭に置かず、ただ「意味」だけを議論しても詮無いことである、と。

私たちは言葉を扱うとき、何かしらのゲームに参加している。私たちの日常は、何かしらのゲームの内側で行われている。「意味」はそのゲーム内で規定される。

ここで、贈与という行為の「意味」に後からが気がつく、という話に返ってみる。

贈与は、名乗りを持たずに行われる。よって、私たちは通常であればその行為に気がつかない。しかし、自分が参加しているゲームにおいて、どうしても説明のつかない行為が目に入ったとしたら? そのような異物を本書ではアノマリーと呼び、その性質こそが「あれは贈与だった」と気がつける起点になると述べる。

資本主義=交換の理論が支配的な中で暮らしている私たちにとって、明らかに異質に見える行為はそれだけで「目を引く」。そこから想像力が働けば、「あの行為は贈与だったのだ」と気がつくことができる。名乗りを持たないものの価値を、見出すことができる。

価値とは見出されるものである

そのとき、私たちは「すでに受け取ってしまったもの」となり、負債を背負って生きていくことになる。その負債感は、資本主義=交換の理論ではどうしても説明のつかない行為を引き起こし、それがまだ別の誰かにとっての贈与となり、世界は贈与で埋め尽くされてく。

本書のポイントは、贈与とは「贈与として贈られたもの」を指すのではなく、後から振り返ったときに「あれは贈与だったのだ」と思えるものが贈与になる、という物の見方のシフトである。そのシフトを経験すれば、この世界そのものが、「あれは贈与だったのだ」と思えるもので満ちてくる。本書のタイトルが示すものは、おそらくそういういことだろう。

これはただ受動的に生きているだけでは、贈与は見つからないことも意味する。贈与を見つけるための、違和感に気がつくための、そこから行為について想像するための、ある知的な能力が必要である。

もし何かを教養と呼ぶならば、そうした能力こそがふさわしいと言えるだろう。

関連コンテンツ

* 映画『ペイ・フォワード』

* 『それをお金で買いますか?』

* 『火あぶりにされたサンタクロース』

* 『復活の日』

* 『存在論的、郵便的』

* 『ゲンロン戦記』



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面白かった本について語るブックカタリスト、第10回の本日は「世界は雑魚でできている」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回は僕のターンなんですけども、2020年の3月11日に出版された本で、
近内裕太さんという哲学者の方が書かれている本なんですけども、
出版元がニュースピックパブリッシングという版元さんで、
漢字で言うと早川書房さんとちょっと似た系統の本が割り返し多くてですね、
学術系科学的な話とビジネスの交差点を扱うような切り口の本が割り返し最近多いなという印象の出版者さんです。
ビジネス書全開ではなくて、ちょっと学術お勉強っぽいような要素もあってっていう感じですね。
だからビジネスで100パー個たつの意表が全部埋め尽くされているというよりは、
ちょっと知的好奇心を刺激して、より開かれた世界に導いてくれるようなテイストを持った本が割り返し多い。
僕が選んでいる本が特定の編集者さんに偏っているせいかもしれませんけど、わからないですが、
そういう本がちらいちら見られる、結構新しめの出版者さんですね、これは。
世の中全体が最近ってリベラルアーツっていう言葉が流行ろうとしていたりだとか、
役に立つことじゃなくて教養を身につけて、もっと本質的に役に立つことみたいなのをもっと追求しようぜみたいな風潮はちょっとあるような感じはしますよね。
風潮はありますけど、大抵ちょっと看板倒れというか。
経済効果が伴っていない、そこにはまだ。
そういう教養紛亂観音的なことの本、僕もちらちら新書とかでたまに見るんですけど、
それ自身はそれなりに面白いかもしれないけど、先が広がってないというか、その本を読んだらもっと別の本を読みたくなるというような、
そういう知的な広がりっていうのがちょっと薄いなというのは、僕の偏った印象ですけども。
俺の印象で言うと、若者が採用できなくなってきた大学が、特に文系大学が、なんとか学生を増やすためにリベラルアーツっていう言葉を生み出して、
そこに乗っかって、入学者を増やそうとしているっていう風に働きかけているイメージはありますね。
それがこけている中で、この本はちゃんとリベラルアーツと言ってよいと、僕は決めるものでもないですけど、僕のジャンルの中ではリベラルアーツに入れても全く問題ない、非常に面白い。
03:13
今年読んだ本の中でも、結構トップレベルにビビッドな印象に残った本でした。
ちなみに今年何冊ぐらい読んでいるんですか?
しかも今本書いてるから結構忙しいんですけど、10冊は最低読んでて、でも50冊は読んでないの、どっか。幅が広い。
俺からしたら10から50の振れ幅にはなり得ないんだけどな。
1ヶ月8冊読んでたとして24冊やから、その間やな。だから10冊から25冊の間ぐらい。
それを読んだ中でも、面白い面白くないって言うとまず面白いし、印象に残る度合いで言うとかなり高い。
星5の印象残り度合いって感じかな。
もうあれですね、単純に考えればブックカタリストの今までのやつでもトップクラスにいいぞっていう感じですね。
ちょっと読んでもらいたい感は結構強くて。
この本って去年2020年に出てて、僕も多分発売した当初あたりに書店でメンチンって言って、
カバー、書類を前向きに陳列した状態で並んでるのを見かけて買ったんですよね。
というのも、僕、雑用っていう話、このキーワード、漢字が結構気になってまして、
特にインターネット空間における雑用とは何かみたいなのを長年考え続けてるというと大げさなんですけど、
気になってまして、雑用っていうタイトルがつく本が目に入ると、我々チェックしてたんですよね。
この本も買うだけ買って、読んでなかったんですよね。
読んでなかったんですけど、いろいろあって、ここまでの僕カタリストを聞いてる人で分かると思うんですけど、
いろいろあって、この本を読むことにして読んでみたら実に面白かったと。
ちゃんと僕の気になっている雑用の感覚とも非常に合致してる本でしたね。
まずタイトルの印象からですね、哲学の本なんだっていうのが、へーっていう感じがまずいきなりして、
雑用という言葉だと、やっぱり経済っぽいイメージがあるんですよね。
確かに。どこから行こうかな。
もともとその著者の方が哲学研究者の方で、専門がウィトゲンシュタイン哲学なんですね。
ウィトゲンシュタインってご存知ですか。
名前だけは聞きます。
ウィトゲンシュタインを専攻されている方で、雑用っていうのは、雑用論というのがありまして、
マルセル・モースという方が、チクマ学園文庫で出てるのかな、
モースという方がその雑用という行為を、いわゆる近代の経済活動、近代の経済活動っていうと交換なんですね、交換。
06:10
私はこれを買いますと、そのためにそれに等しい料金、お金を支払いますと、
それをお金を出して商品を受け取るっていう、その交換っていうのとは違うものの、
やり取りの形?
要するに現代社会ではなくて、オーストラリアとかのいわゆる原住民的な人たちとかが行っていた、
あるいは行っている物の流れっていうのを分析して、そこに雑用っていうものがあると。
その雑用は物を買う等価交換とは違った原理性を持っているっていう話がありまして、
そこからいろんな人が雑用について、雑用論を語っているんですよね。
そういう一つ大きな流れの中に雑用っていうキーワード。
だからこの思想とか哲学で雑用っていう言葉を持ち出すと、それが引っかかるんですね。
キーワードとして。
そうか。経済学用語っぽくあるんだけど、哲学の一分野としてある程度多くの人が雑用について研究してるってことですね。
そうですね。この文脈で雑用っていうと、いわゆる経済学とか雑用勢とかの雑用ではなくて、
モースから発展したある種の等価交換ではない物のやり取りのニュアンスがその時点で込められているということですね。
ちなみにモースさんっていうのはいつぐらいの時代の人なんでしょうか。
1872年から1950年に生きておられた方なんで、造詣論が1924年なので、
だからいわゆる近代社会の経済基盤が少しずつ出てきてるぞみたいな感じの時ですよね、きっと。
だから市場経済っていうのが世界的にも圧倒的に多性を占めているような頃に、
いやそうじゃないものの流れもあるんだよっていう、しかもそれって結構強力なんだぜっていうような話だったんですね。
ってことは大体100年ぐらい歴史がある哲学の分野っていうイメージでいいんですね。
と思います。タイトルが副題が資本主義の隙間を埋める倫理学ということで、倫理について触れてる本なんですけど、
倫理学でイメージする内容とはちょっと違うかもしれないですね。
この本で語っていた公理主義が、良い人であるとか、良い社会を作るにはどうしたらいいかっていう話ばっかりだったけど、
そういうのとはちょっと違うってことですよね。
もちろん倫理の話は出てくるんですけど、人はいかに生きるべきかっていうのが論説されているような堅苦しい本ではないということですね。
09:06
この本のテーマを仮に二つ挙げるとしたら、一個はそもそも雑魚っていうことが何なのかっていうことなんですけど、
特に現代社会、この資本主義の真っ只中の中における、この現代における雑魚ってどんな意味があるんだろうっていうことと、
この資本主義が支配する原理性に対抗というとちょっと強いんですけど、
抗うというか保管し合うぐらいがいいかな、ための倫理学ってどんなもんだろうかっていうのを考える。
この雑魚が持つ意味と資本主義に足りないものを補う倫理を考察するっていうのがこの本の二大テーマやと、
僕は読みました。
資本主義が生まれた直後、というか資本主義が超発達した頃に生まれてきた概念で、
100年ぐらい経って、言ったら最近ってお金のために生きるのではないみたいなことは言われるようになってきてますよね。
そういうことを考える上でも何か役に立ちそうな感じは。
結局そういうことがお金だけで生きるのではないっていうことがわざわざ明言されるっていうことは、
逆に言うと社会の空気が前提として資本主義だよねっていうことなんですね。
資本主義って大切だよねっていうのが暗黙にあるから、そこに対するアンチテーゼとしてお金以外も大切だねってことがあえて言われるわけですね。
だから資本主義っていうのはいわゆるソ連がダメとしたおかげで、資本主義の太鼓塾やった共産主義とか社会主義ってやっぱり立ち行かないよねってことになってしまって、
もう資本主義以外はないんじゃないかっていう。
例えば今現代を生きている若者っていうのは10代とか20代、資本主義以外の社会のあれを想像できないですよね、きっと。
俺たちも生きてないから聞いた話しかないですしね。
でも少なくともある時期、資本主義と抗う別の主義があって、一つの主義の争いがあったことは一応知識としては知ってるじゃないですか。
リアルタイムに東西ドイツ統一とかソ連崩壊とかは体験はしてますね。
だから結果として生き残ったっていうのは知ってますけど、今の子は多分空気のようなもの。
資本主義っていうのが前提となってて、それ以外の可能性っていうのをほぼ考えつかないようなものになってて、それがどんどん強化、抜けがたくなっていくっていう話で、
それがもたらす絶望というかなものをだいぶ前に出てきましたけど、闇の自己啓発のところで出てきましたけど、
暗黒啓蒙っていうのはそういう資本主義の絶対的なものがもたらす、ある種のくだらなさみたいなものの絶望をある種表現してるんですね。
12:09
それを資本主義を打倒するという方向ではない形の一つの希望を提示するっていうのがこの本の仕事ですね。
とりあえずその段階でちょっとこれ読もうかなって俺も思いますね。
登場するこの本は面白いのは、例えば造業っていうキーワードがあるんですけど、造業だけで話が一本進むというよりは、結構いろんなジャンルを渡り歩くんですよ。
表紙にも、ウィトギー・エンシュタインから始まって、小本主義、サンタクロース、アノマリ、テルマイロマイ、コミュニケーション、世界像とかいろんなキーワードが列挙されてて、
分野影響的な書き方がされてるんですけど、その中で特に重要なものをいくつか挙げると、まず造業論は当然外せないんですけど。
あと、ペイ・フォワードって映画知ってます?
見たわけじゃないんですけど、表紙、見たかな、分かります一応概念と。
子どもが発案して、人に贈り物をしたら、受け取ったらまた贈り物しようみたいなことを、僕の中では造業の連鎖って認識してるんだけど、についてちょっと論じてると。
これもう1個前2個前3個前も忘れてたけど、デリダの誤配っていう話をしたじゃないですか。
あずまさんの話に出てきたやつですね。
手紙は届かないかもしれないっていう話も出てきます。これもキーワード一つの大きなキーワードです。
最初に郵便はちゃんと届くとか言って、何言ってんだって言ってたやつですよね。
もう1個はサンタクロースという概念が出てきて、概念というか知ってると思うんですけど、サンタクロースも出てきて、
サンタクロースが実は造業の象徴として扱われているんですけど、これは実はレビストロースっていう人が火炙りにされたサンタクロースっていう論考を書いてまして、それと関係がしてるんですけど。
当然、ウィトゲンシュタインっていう、この著者本人の専門分野でもある、彼が論じた言語ゲームというのがありまして、これは後期のウィトゲンシュタインに入るのかな。
ウィトゲンシュタインって前期と後期で分かれるんですけど、そのウィトゲンシュタインの言語ゲームっていうのが、結構、造業と直接関係はないはずなんですけど、この本の中では結びつけられて論じられてますね。
ここ結構面白かったです。
で、あとね、小松左京のSFの話が出てきます。
日本沈没。
とか、その程度。
あと、想像力っていうキーワードの中で、逸脱的思考と求心的思考っていうのがあって、求心的っていうのは求める心というかこうですね。
求心的思考っていうのが出てきます。
これは実は前回の妄想する頭とちょっと関連する話ですね。
最後にアンサングヒーローっていうのがあって。
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アンサングってシングの過去文字かな。
歌われないヒーロー、英雄ですね。
歌うっていうのは英雄を褒めたたえるということですね。
褒めたたえられない英雄っていう概念なんですけど。
この辺がピックアップしたいキーワードですね。
造業論というのは、造業という概念を発明した本。
で、ペイフォワードは映画有名なので、きっと知っている人は多い。
エリダの誤配というのは郵便は届く、でも郵便は届かないこともあるっていうのを哲学的に考えた話。
サンタクロースは誰が聞いてもきっとわかるだろうと。
ビットゲンシュタインの言語ゲームは、俺はちょっと全然わからないので説明できないんですが。
小松佐強のSFも、要するに小松佐強さんっていうSF作家の話とかが出てくるっていうイメージですかね。
で、想像力。これは妄想する頭となんとなく前回の話とつながるようなことをイメージしておいて。
アンサングヒーロー。
これ結構重要な歌われないヒーローっていうのが、この本の中では最後に出てくるんですけど、大変重要な造業というのを考える上で非常に重要なキーワードになっています。
まずこの辺、こういうことが今までレッキーしたことでかなりバラバラだと思うんですけど、こういうことが一つの連なりの中で語られて論じられている本です。
なんかすごいね。全然どうつながるのかわからないっていう。
わからないでしょ。
一個一個はそれなりにわかるんですよね。
これらの概念を使って造業とはどういうものかっていうものを説明してくれるみたいなイメージでいいんですかね。
造業の性質を明らかにした上で、それがなぜ資本主義社会と補完的になり得るのかというのが、最後の一番最後で結びで綺麗に着地しているというところでございます。
で、本題に入るわけですけども。
造業ってまずなぜ必要なのかという話になったときに、人間って他の動物に比べて非常に未熟な状態で生まれてくるじゃないですか。
しかもその期間がめっちゃ長いんですよね。
でも頭がでかいからなんですよね、それって。
本格的に成長して頭がでかくなりすぎると産道から抜けられないと。
だから頭がでかくなりすぎる前にさっさと産んで、それを育てて大きくしようと。
で、未熟な子供を育てるってことは母親がつきっきりになる必要があると。
つまり人手がいると。
だから人間っていうのは他者の助けがないと成長できない動物として進化してしまったという話がまずあるわけです。
そこはめっちゃわかる。
つまり社会的な協調っていうのと人間っていうのはもうはや切り離せないんですよね。
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だから人間が社会的な動物だってよく言われるんですけども、生物的に言ってももうそうなわけですね。
で、その中でゾウヨって何なのかという話なんですけど、このゾウヨ論でよく語られることなんですけど、
モースのゾウヨ論で面白いんですけど、例えば仏の中で力がある人がパーティーを開くんですよ。
で、パーティーに招待された人はいくらでも好きな分飲み食いできるんですよね。
で、招待された人は今度はまた自分がパーティーを開かなきゃいけないんですよ。
いけないんですよ。
そういう義務が発生するんですよ。
で、そこでまた、当然最初にパーティーを開かせても含めて行くわけですよね。
で、それが繰り返されるんですよ。
つまり、招待された人は招待しなければならないっていう、これ返礼なんですけど、返礼の義務があるんですよね。
これは、普通の商品を購入するというようなことでは絶対に起こらないですよね。こんなことは。
名文化されていないルールですよね。
で、基本的に買ったら終わりじゃないですか。買ったらその瞬間に、その二人の夫妻関係ってなくなるわけじゃないですか。買う人と売る人の。
でも、そういう返礼っていうのは時間的に持続するんですよね。
貸しができる。
そういうことですよ。自分が招待を受け取ってしまった、もうその瞬間からすでにマイナスなんですよね。状況が。
それを返し切るまでは、自分はその責務を負ってしまうという、時間的な持続性があるということが、造業についての一つの大きなキーワードなんですよね。
なんか、現代社会ではそういうのって嫌われがちで。
そういうことです。
ちょっと前まで中国でも同じような文化があって、今回は俺のおごりだって言ったら、次は誰かがおごらないといけないみたいなものがあったり。
そういうものは世の中の傾向としてはなくなってきているやつですよね。今で言ったら。
そうですね。なくなってきているのは、まるっきり資本主義が広がっているっていうこととイコールなんですよね。
資本主義ではそういうことは極力なくすというか、資本主義にするということはそういうことをなくすということと同化なんですよね。
面倒くさいから嫌だっていう気持ちはすっげーわかります。
僕も基本的に若い頃はそうやったんですけど、結局それは人間と人間の関係性を瞬間的なものにしていくっていうこととイコールなんですよね、結局は。
買い物が終わった瞬間に、その人とこの人の関係性が切断されるのが望ましいっていう理論なんですよね。資本主義の理論っていうのは。
多分あれですよね。めんどくささと引き換えに、そういうことを楽をしようっていう。違う?どっちもか。どっちもだな。
だからそれは非常に効率的なんですね。それは効率的やし、責務を負うなんていうのはやりたくないっていう気持ちも正しいんですけど、結局それは人が孤立しても生きていける。
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他者の助けとかを必要とせずに、お金を持ってたら適切なサービスをもらえるようにするっていう人間を一つの繋がりの中に置くんじゃなくて、投下交換をする一人のプレイヤーとして扱うっていうことなんですよね。
それはある側面では極めて効率的なんですけど、大きな問題を払ってるっていうのが、本省が倫理って名乗っていることの一つの要因なんですけど。一つの問題は先言ったように、交換の場合って終わった瞬間に切れてしまうっていう。
例えばですけど、僕が近所のローソンで牛乳を買うのと、少し遠くのファミリーマートで牛乳を買うことは等価じゃないですか。
実質等価ですね。
ということは別に、僕にとってローソン、近くのローソンは別に売れても構わないわけですよね。困りますけど。
不便になるかな、ちょっと。
私はあなたから買ってるっていう、あなた性っていうのがなくなるんですよね。つまり、買いがいくらでも利くっていうことになって、私じゃなくてもよいっていう、ある種のもの性にしてしまう、人をもの性にしてしまうっていうこともあるんですけど。
最大の一番の問題は、そういう交換の理論。これはギブアンドテイクとか本書ではウィンウィンっていうのも含めてるんですけど。っていうのは交換なんで、交換っていうことは差し出せないといけないんですよね。当たり前の話なんですけど。
金持ってないなら来るなですよね。
極力するとそういうことなんですよね。本書の中では、交換の理論では助けを乞うことができないって書かれてて、助けを乞うっていうのは、どうしようもならない人が周りの人に助けてっていうことじゃないですか。
どうしようもならない人ってどういう人かっていうと、こちらから差し出せるものが何もない人ってことですよね。
だから本来そういう人たちが一番助けを必要としているのに、交換の理論ではその人たちは何も助けてもらえないっていうことになるんですよ。
一応あれですよね、政府の役割としてそういう人を助けようっていう、助ける人すらも別の人にしてますよね、今の社会だと。
だからそういうのは当然本書でも論じられてますけど、政府の話ではあるにしても、交換の理論だけでは助けてほしい人は助けてもらえないっていうことはほぼ自明な話で。
ということは、市場理論だけで世界が成り立つと非常に困ったことになるっていう結論になりますよね、これは。
何よりも多様性が失われる。
だから交換できるものを持っている人だけが市場に参加できて、そうじゃない人はどんどんどんどん追い出されてしまうっていうことになると。
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だからここにも資本主義制度の絶対的な限界があるんですよね。ここが一つ、この本の倫理、倫理制というか倫理の論点の一つだと思います。
持ってない人というものがどうしようもなく、資本主義という仕組みでは持ってない人は何もできなくなってしまう。
しかもそれ超であって当然だという価値観も生んでしまいますよね。
そうですね。
何もかもお金で買うことの問題点っていうのは、これだいぶ前にも出ましたけど、幼稚園のお迎えを罰金制度にするとむしろ遅刻する人が増えたみたいな話もあって。
その話を聞くとめっちゃ刺さりますね。そういうふうに言われると何もかもお金にしたら意外と世の中うまくいかないんだってことですよね。
ある種、好感でうまくいく部分もたくさんあるんですけど、その行為そのものが、その人が感じる好強心と本書で言ってますけど、義務感とか、
人に迷惑をかけてはいけないからちゃんと早く迎えに行こうというような動機づけで抑えられていたものが、お金を払うことで解放されてしまうっていうことがあって。
幼稚園を迎えに行くならまだギリギリね。
うん。困りますね、すぐ話だってことだけど。
例えば警察とか消防とか、子どもを教育する人たちが同じ観点で物事を捉えるようになった時に、果たして全体がうまく回るのかっていうところはありますよね。
だから資本主義では多分そこは限界があるの。
限界があるというか、資本主義を持ち込むとより悪いことになってしまうっていうことはよくあり得ると思います。
単純に昔の社会で警察に賄賂を渡せば悪いことを見逃してもらえるだとか、本当かどうかわかんないけど政治家が金と権力で悪いことを握り潰すみたいなことは、資本主義の方がそういう動機になり得るんですかね。
それを抑えるための倫理観が資本主義のルールの中では発生しないんですよね。
抑えるメリットがないですもんね。お金もらった方がいいじゃんっていう。
ということになってしまうんで。ある種のお金にしてしまうことで失われる倫理観とか行動っていうものが絶対にあって。
だから資本主義の絶対性、それがどれだけ効率的であろうとも、全体の健全性を維持するためには実は足りないっていうところが指摘されてます。
分かってきました。
おだしょー ケンケツってあるじゃないですか。ケンケツ。最近の若者にとってケンケツってコスパが悪いらしいんですよ。
27:00
言ってることはすげえわかりますよ。
ゾウよのコスパが悪いという表現が出てきて面白いなと思ったんですけど、例えば災害時にボランティアに行くのは良いらしいんですよね。
それは実際に困ってる人が目の前にいて、その人が助けてありがとうって言ってもらえるかららしいですね。
ケンケツって当然、採血してくれる人はありがとうと言うかもしれませんけど、血で困ってる人に自分の血が行く現場を見れるわけじゃないですか。
行く動機づけがケンケツは起こりにくい。これってゾウよしてるように見えて実は交換してるんですよね。
お金じゃないものをもらおうと思ってケンケツに行っている。
ただ単に報酬がお金じゃなくて、ただ単にありがとうとか言ってもらいたいっていう、そのトレードフとしてケンケツに行ってる。
これはゾウよっぽいけど実は交換なんだと。
仮に交換の原理が強まっていけば行くほど、ケンケツってものがされなくなっていくと。
これがやっぱり資本主義イコール交換の理屈では補えないものがここにもあるっていう話なんですね。
ゾウよの概念というものは、どんどんなくなってきているぞってこの辺の人たちは言ってるんですかね。
資本主義の中ではゾウよは基本的に無視されるか弱まるかあってはならないものみたいな、いうような扱いになる。
つまり、どっかに書いてあったんですけど、資本主義を受け入れるということはどういうことかというと、
全てのものは商品になり得るべきだという考え方を受け入れるということなんですね。
確かに言われるとそうだな。
買えで買えないものはないっていう考え方じゃなくて、買えで買えないものはあってはならないっていう一つの価値観を持つことが資本主義だとおっしゃってて。
それは誰かが言っている、このゾウよの人たちが言っている。
この本の中で著者が論じていることですね、これは。
何か買えないものがあるって主張したときに、その考えがもう間違ってるんだよっていうことが資本主義だと言われてて。
結構過激ですけど、多分資本主義的な考え方って、特に堀江なんとかさんとかっていうのはまさにこういう考え方をされるんだろうなと思うんですけども。
今、日本で悪目立ちしている人たちはだいたいこういう方向ですよね。
わかりやすいですよね。
交換っていうのは、出せるものが大きければ返ってくるものが大きいっていう直感性もありますし、
交換は瞬時に起こられるんで、時間を待つ必要がないんで、速攻性があるというか。
だから非常にわかりやすいんですけど、さっき言ったように献血の効果をわからないしても献血って大切だよねっていうことは絶対にあるわけで。
だからそっちの即時の交換の理屈だけでいくと、だいぶ見逃されるものは多分あるでしょうね。
困っているときは渡せないんだから、後でいいよっていうふうにできない社会なんですよね。
そうですね。そういうのって困りますよね、多分。
多分困る。
30:00
こういうふうに雑用がいいと言いつつも、さっき言ったように、雑用が持つめんどくささっていうのは必ずあって、
それが呪いという形で現れてくるという場合もありまして、ここから論が少し難しくなるんですけども。
親子関係が一番よく出るんですけど、これは大切なことだからあなたのために言ってるのっていう教育の文句があるじゃないですか。
ダメな典型みたいなイメージはあるけど。
あなたのために言ってるのっていうのは一見何か物を送っている雑用のような見え方をしますけど、これは見せかけだと本書では指摘されてるんですよね。
結局それはそう言われてしまったときに受け取った人は困るわけなんですよね。
だって本当はそれって親がそうして欲しいから言ってるだけでもあるにかかわらず、あなたのためですよという形で送られてるので、うまく処理できなくなるんですよね。
親の期待だけのもの、これ私がそうなって欲しいんですよってただ言ったらそれは親の期待なんで、子供はそれに反発できますけど、
あなたのためですよっていうパッケージングがされてしまうと容易に破り取ることができなくなってしまう。
そういう中で子供がうまく処理できなくて混乱してしまうっていうような話が出てくるんですけど、
この見せかけの雑用っていうものと本当の雑用の違いって何かっていうと、本書から直接引用すると、
雑用はそれが雑用だと知られてはいけない。これはあなたに対しての雑用ですよって明言されて送られるものはそれはもはや雑用ではない。
というのがこの雑用論のキーワードですね。
じゃあ、最初に言っていた飲み会で全員誘って奢って返さないといけないというやつは、あれは雑用ではないんですよね。
いや、それは雑用なんですよ。なぜかというと返してくださいって何も明言しないんで。
それだったらいいんだ。
それだったら雑用性を持つっていうことなんですよ。
ああ、そういうことになるんだ。
パラフレーズなんですけど、雑用はいつかどこかで気づいてもらう。これがあれが雑用だったと気づいてもらう必要があると。
あれは雑用だったと過去時世によって把握される雑用こそ雑用の名にふさわしいっていうのがあって、
あなたのためですよとかこれが雑用ですよってポンと直接ダイレクトに差し出されるものっていうのは本書が名指す雑用ではないと。
良い雑用、悪い雑用みたいなイメージではなく、そうじゃないものは雑用じゃないっていう。
雑用とは呼びがたい。
あれは雑用の性質を全うできないと言ってるんですけど。
これが雑用だと知られない、誰からもわからないものが雑用であると。
その雑用っていうのは交換の理屈に乗っかってないんで、Aと差し出したときにAにふさわしいものを手にするっていう等価交換の性質に乗ってないんで、
33:01
雑用は合理的であってはいけないんですよね。合理性の外側にあるんですよ。
これは非常によくあるんですけど、さっき言ったあれが雑用だと過去時世によって把握される雑用という話なんですけど、
自分が受け取った雑用っていつも理不尽に思えるんですよ。
というのもインターネットの黎明期、初めてインターネットを使ってウェブを使えるようになったときって、ちょっとびっくりしたんですよね。
こんな情報がタダで手に入るっていうすげーことだと僕は思ったんですよ。
それコンピューターが生成してるわけじゃなくて、誰かが書いてるんですよね、現実的に。
20年ぐらい前の話ですよね。
僕がそれを読んだとき、こんなものを受け取ってしまったっていう感じがすごいしたんですよ。
だってもうそこにあるわけですから。
あなたのために書きましたよとか言うんじゃないんですよね。
もうページがそこにあるんですよ。
その人たちは給料をもらって書いてるわけでもないんですよね。
バナーとかが貼ってたりはしますけど、それでお金が得られるととても思えないページが、しかもめっちゃ面白かったりするんですよ。
昔のテキストサイトとかもだいたいそうでしたけど。
侍魂ですね。
今も全然合理的じゃないですか。合理的じゃないじゃないですか。その行動基準を今から逆算して考えたときに。
振り返ればあれはめっちゃ楽しかったんだろう。
多分やっている人が一番楽しかったんだろうなって思うけど、経済合理性は何もないですよね。
お金払ってますもんね、多分サーバー代を。
例えば自分を育てた親っていうものを思い馳せても、かなり不合理なことをしてるわけですよね。
子供を一人育てるっていうのは経済合理性に全く合わないことをしてるわけですよね。
てかそんなことを考えてすらいないっていうことですね。
その0歳から6歳までこう育ててね、思いますね。経済で言ったら1ミリも合理性はないと思う。
だからその不合理やからとかをもう考えないとこで行われるもんなんですよね。
つまり割合合うかを考えた時点でそれはもう好感になってしまうんですよ。
雑魚ではなくて。
だから後から振り返ったときに、
あ、これって僕に送られた雑魚なんだねって気づくことしかできないっていうこと。
はい、雑魚ですよ。ありがとうございますって受け取るっていうことは、
最初の話デリタで言うと手紙が受け取られてるわけですよ。
でも雑魚っていうのは雑魚として、
これは雑魚ですよって渡されたものではないものを後から振り返ったときに、
あ、これって雑魚だったんだって気づくっていうこと。
だから雑魚っていうのは行為そのものというよりはその行為の意味に後から気づくってことなんですよ。
ここでさっきの合排という話、デリタの話が絡み合ってくるんですけど、
36:03
雑魚はコミュニケーション論でもあるって本書が結んでるんですよね。
あれはそうだ、そういう意味だったのかって気づく。
意味に気づくっていうことって言ったら、ある種のコミュニケーション活動じゃないですか。
意味の理解するっていうのは行為の意味。
ここでさっき言ったウィドギンスタインの言語ゲームが出てくるんですね。
ここかなりトリッキーな論立てだと思います。
こんな論立て僕初めて見たんですけど。
雑魚の行為性そのものじゃなくて、
雑魚っていうのは後からその意味に気づくんだよという話になって、
じゃあその意味を扱うものって何だろうっていうところで、
言葉の扱う行為としての言語ゲームっていうのが出てくるんですよ。
これが見事だな。
簡単にまとめをするとめっちゃ難しいんですけど、
まずあれですよね。
雑魚勢っていう言葉からイメージする雑魚というのはそもそもまず違うんですよね。
ここでの雑魚は一旦忘れてください。
まずそれを忘れないっていうのが大事な前提としてあって、
雑魚はあげるもの、あげたもの、もらったもの、もらうものじゃなくて、
後になってからあれって雑魚だったんだなって思うものこそが雑魚だって言ってるんですよね。
だから初めから雑魚として渡されるものは全て雑魚に見せかけた成り損ないか、あるいは交換でしかない。
真に雑魚と言えるものは雑魚としてなお与えられていないけれども、
後から振り返った時にあれは雑魚だったと言えるものが雑魚だっていうところから、
後から気づくっていうその意味を理解するということで、
言語ゲーム、いとげんしゃいの言語ゲームに引き継がれていくんですね、話が。
おだしょー ああ、あれって雑魚だったんだねって。
その後から気づくっていうのって、コミュニケーションと一緒でってことなんですね。
コミュニケーション…
大平 行為の意味を理解するという、意味を理解するっていうのは言語…
おだしょー 言葉とは違うってことですよね。
大平 だから、どう言ったらいいんかな。
意味を理解するっていう、あの人があそこで怒ったのはなぜかを考えるっていうことを、
それが行為の意味を理解するってことじゃないですか。
おだしょー ああ、あの人はだからああいう理由できっと怒っていたんじゃないのかなっていうようなことが。
大平 そうですね。それはだからコミュニケーションじゃないですか、ある種の。
おだしょー 怒ったうんぬんではなくてってことなんですよね、それもまた。
大平 その怒りがどうこうじゃなくて、その人はなぜ怒ったのかっていうことを
汲み取るっていうことがコミュニケーションであり、結局意味を扱うってことなんですね。
行為の意味を扱うってことなんですね。
おだしょー うん。で、像よというものももらったものとかあげたものじゃなくて、
39:01
後からあああれってそうだったんだねっていう意味を考える。
大平 そうそうそう。その行為の意味を汲み取るっていう。
その行為、だからものとかその直接を分析するんじゃなくて、
ええという人が私にこれをくれたという意味を理解するという意味なんですね。
で、言語ゲームに話がスライドする。
おだしょー うん。ものをもらったではなくて、ものをもらったって思ったってことが像よだった。
大平 そこに像よを見出せるようになると。
おだしょー うんうん。
大平 逆に言うと、それができない限り像よは見つからないって話なんですけども。
で、ここで急に、急にというか、そのウィト・ゲンシュタインの言語ゲームはなんだかっていう話になるんですけど、
これがね、これ説明すると当然長くなるのですが、
僕たちは言語活動っていうのをどのように捉えてるかっていう新しい見方を提示したのが、
ウィト・ゲンシュタインの言語ゲームなんですけども。
おだしょー そのウィト・ゲンシュタインは、言語についての哲学的なことを言った人ってことですかね。
大平 後期はそうですね。言語そのもので言語活動かな、どっちかっていうと。
何が違うのかって話なんですけど。
例えば言葉をやり取りするときの一つのイメージとして、一つの言葉に何か絶対的な意味があって、
その意味を全人類が理解して、誰が理解しても同じ意味であって、それを使ってコミュニケーションを取るっていう、
こういうのを何と呼ぶかわかりませんけど、そういうふうに一つ一つがもう独立的にちゃんと意味を持っているという考え方があって、
それを人は辞書のように頭に入れて、言語をするときにそれを使うっていうイメージとは別の考え方をウィト・ゲンシュタインさんは提示したんですね。
言葉はそんな単純なもんじゃないってことですかね。
単純というよりはそんなふうには決まっていないということで、難しいんですけど。
いろんな言語ゲームって言い方からわかるように、いろんなゲームがあるんですね。
いろんなゲームがあって、僕たちはその言語ゲームに参加していると。
プログラマーにして言うと、言語空間って言った方がちょっと通りがいいかもしれませんね。
言語空間ってあるじゃないですか。ある単語がどこかに所属していると。
その空間の中で初めてその言葉の意味が定義されるということなんですけど。
例えば、窓を開けるって、窓を開けてくださいってゴリゴさんが言ったら、近くにある窓を開けてくれますよね。
それは窓というものについての僕とゴリゴさんの共通見解があるということなんですけども。
そういう現象から見ると、窓っていう一つの絶対的な言葉があって、それを僕とゴリゴさんが共有しているように思いますけど、
実は違うんだと。実は違うんだという話なんですね。
例えば、子供の頃に窓を開けてって誰かに言われて、
例えば、象を開けようとしたらいやそうじゃないと言われて窓を開けるっていうような行為を通して、
42:05
僕たちは窓っていうものの概念を理解するんですよね。
うん、そこはわかります。よくわかる。
だから言語って、言葉の表面とその中の意味を一通り覚えるような、辞書を丸暗記するようなものじゃなくて、
人間の生活の中にある一つ一つの活動と、実際の活動と言語コミュニケーションが結びついてるんですよね。
だからウィトゲンシュタインに言わせれば、言葉の意味単独で取り出すことはまずできない。
ある行為に置かれて、ある行為とか日常の動作の中に置かれて初めてそれは意味を獲得するんだと。
そういう意味の獲得が共通している人たちが同じ言語ゲームをやっているんだと。
だからある種の言葉を覚えるっていうのは、そのゲームに参加することだという話なんですね。
それをゲームで哲学業界を例えるわけなんですね。
彼は独独なんですけど、野球のファールという言葉があるじゃないですか。
ファールの意味を知っているっていうことは、どういうことかというと。
野球のルールがわからないとわからない。
プレイしたときにこれがファールである、こうしなければファールじゃないっていうことがわかるってことですよね。
それがファールって言葉を知ってるってことですね、おおむね。
おおむねそうだと思います。
ファールという言葉の辞書的な意味を暗記していることじゃないですよね。
ああ、そういうのはありますね。
何々について教えてくださいって言われて言えないけど、これはそうであってますか、あってませんかっていうのだったら言える。
ファールっていうのは野球の中の野球という言語空間でやってる言語ゲームなんですね、ファールという言葉を使うってことは。
その他の言葉もそれ以外も全部そうなんだと。
ただ共有している空間が野球よりはるかに広いから、僕たちはそれはものすごく一般的なものだと思っているけど、実は一つのゲームでしかないと。
それと異なるゲームはいくらでも存在し得るというようなことなんですね。
そうか、野球のファールというものをサッカーに持ち込んでもそれは全然通用しないし。
ということなんですね。
日本という国の中で日本語が通じるけれども、アメリカに行ったら通じないし。
同じ日本でも例えば関西圏と関東圏で違う言語ゲームが微妙に行われてたりとか。
大阪の人がお前アホかっていうのと東京の人がお前アホかっていうのは全然違うってことですよね。
そうそうそう、そういうこと。
だからお前アホかっていう言葉に絶対的な意味があるっていうのは解釈の違いっていう話になるんですけど、
そうじゃなくて行われているゲームが違うんだという人間主体を言ってるわけですね。
だいぶ概念はわかってきた感じがします。
45:02
で、ここの最後の言葉っていうのは単独の意味じゃなくて、ある言語ゲームの中で初めて意味を持つと。
その言語ゲームってさっき言ったように野球やったらプレイしてるゲームやし、日常生活やったら僕たちが送っている日々の生活の中で初めて意味を持つと。
ということは生活から切り離された言葉はないと彼は言うわけですね、水戸議員シュタインさんは。
逆に言うと生活っていうのはその言語ゲームと大体ピッタリフィットしてるっていうことなんですよ。
言葉使いっていう言葉を使うことと私たちが送る生活っていうのは大体切り離さない関係にあると。
それをもう一歩進めると僕たちはだから一つの言語ゲームの中に閉じ込められているとも言えると。
言語として表現できないことは行うこと考えることができない。
だから野球してるときは、サッカーをしてるときは手を使ってボールを受け取るということをキーパー以外は考えないですよね。
だからサッカーっていう言語ゲームの中に閉じ込められてるってことなんですよ。
それで別にいいんですけど、そういう行為が出てこない、発想が出てこないっていうことがある種言語ゲームの内側にあるということなんですね。
サッカーの場合はルールでそう決められているけど、日常生活というものもルールでそう決められてはいないんだけど、実はそのルールに縛られているんじゃないかみたいな。
ルールこの場合は前提ですね。覆してはいけないということになっている前提があって、その中でみんなは日常生活を送っているのではないかという話なんですけども。
例えばですけども、天秤、アナログな天秤を思い浮かべてください。
重さを測るやつ、両方で。
そうですね。手元に3g、5g、8gの天秤があったとします。
左の天秤に3gと5gの天秤を置きました。
右の天秤に8gの天秤を置きました。
仮にそれが釣り合わなかったとします。どっちが下がってもいいんですけど、釣り合わなかったとします。
この時にゴリゴさんは何を考えますか?
天秤は壊れていないはずなので、何かおかしいかな。3gか5gがおかしい。
3gのグラム数がおかしいかないか、天秤が故障しているか、どっちかをだいたい考えると思いますよね。
そのような天秤を数式で仮に表したら、3たす5は8になりますよね。
天秤が釣り合わなかったときに、3たす5イコール8が間違ってるって思わないですよね。
思わないですね。
48:05
天秤の方が合ってて、もしかしたら3たす5大なり8が本当ではないかみたいな。
そういうことは思わないですよね。3たす8が前提なんですよね、僕たちの世界にとって。
これがいわゆる言語ゲームの中にいるっていうことなんですよね。
ここはそこの3たす8はそもそも疑わないようにしようっていうこと。
サッカーで言うと手を使わないでおこうっていう一つの基盤となる、フレームとなるものがまずは絶対にあると。
どんな考えでも。そのようなものを水戸玄師さんも世界像と呼んだらしいんですけど、
いわゆるパラダイムシフトって言われるときのパラダイムにあたるものですね。
だからこの話を言うと、人間っていうのはそういう不自由な思考をしているんだというふうに思われるかもしれないですけど、
そういうフレームが全くないと何も考えられないですね、僕たちは基本的に。
だってそんなことがあるたびに3たす5は8イコールじゃないんじゃないかって疑いだしたら生きていけないですよね。
楽をするために考えることを減らしている。
だからその3たす8が仮に間違ってるとしたら、3たす5イコール8が間違ってるとしたら、
それが正しいとしているいろんな理屈を全部ひっくり返していく必要がありますよね。
でも今のところ3たす5イコール8っていうのが正しいっていうことでこの世界は大体いろんなものが成り立ってるわけじゃないですか。
だからそれをひっくり返すととてもめんどくさくなるようなものはとりあえず正しいとしておこう。
他と整合性があるものはとりあえず正しいとしておこうっていう生き方というか考え方が僕たちの生活スタイルなわけですね。
みんながそうしてますね。
そういう場合にあっても3たす5イコール8が正しいと疑わないからこそさっきゴルゴさんは天秤か文童がおかしいんじゃないかと思えたわけですよね。
そこで疑問を立てることができたわけですよ。
もし正しいもの、さっき言った数式すらも正しいと思えないのであれば、その疑問の立て方がもうむちゃくちゃなことになりますよね。
考える根拠がなくなる?
そういうことですよ。考える根拠のためにはどこか正しいと呼べる部分がないといけないんですね。
例えば、いろいろあるんですけど、科学のパラダイムシフトっていうのも、それまでの考えでは当てはまらない何か事象が出てきて、それをうまく説明するために新しい法則なりが見つけ出されて、やっぱりそっちの方が正しいっていうことになったっていうふうに繰り返してシフトしていくわけじゃないですか。
アインシュタインの例が一番有名ですけども、ニュートン力学からアインシュタイン力学の展開が一番多いんですけど、そういうシフトっていうのは、まず何かが不合理であると思える合理性、しっかりした合理性があり、その合理性から見たときに不合理と思えるものがあって、その不合理性を新しい合理性のもとに調和する中で新しい理論が出てくるってことなんですね。
51:13
そこはわかります。
ということは合理性も不合理性もないっていう話をしてしまうと、これができなくなるんですよね。まず合理性が、しっかりした合理性があって、不合理なものが出てきたときにそれを無視もせずに、勘違いだとかも知りづけずに、そこに何か新しいものがあるのではないかと目指すことで新しい理屈が生まれてくると。そういう不合理性を持ったものをアマノリと本書では呼んでるんですけども。
アマノリ、初めて聞いた言葉かもな。
逸脱とか不合理とかそういう意味ですね。既存のものにきちっとはまらないようなものですね。ここで先ほどの話が引き継がれるんですけど、アマノリというのは不合理なものですね。ゾウヨって合理的ではあってはいけないって話がしましたよね。つまりゾウヨというのはアマノリなんですね。
今までの話で理屈はわかる。
ここが一番重要なんですけど、ゾウヨっていうのは語られない。これがゾウヨですとは語られないじゃないですか。でもアマノリは多くを語るんですよね。
多くを語る。
さっきも言ったように、現実の事象に合わないものがアマノリは示すわけですね。
例えば天体の動きとかがそうやったらしいんですけど、既存の理屈では説明できない動きをすると。この動きは何だろうかという問いをアマノリを発生させるわけですね。
地球は動いている、回っているはそこからだっていうやつですよね。
だから合理性がピシッて揃ってる中で不合理なものがピコってあったら目立つじゃないですか。これはおかしいぞおかしいぞっていうサインを発するわけじゃないですか。
そこは実はゾウヨ。本来は決して名前がない、歌われないはずのゾウヨを見つける手がかりがそこにあるというわけですね。
なんかわかったけどむずいというか、そうですね。
本来はゾウヨは見えないけども、アマノリに注目することでゾウヨを後から見つけ出せるようになるというのがこの本の2つ目の。
その言い方ならわかるかも。本来見えないんだけど後から、あれなんでこの人こんな親切にしてくれたんだろうって考えて、あれそれってそうかこれはゾウヨなんだっていうことが理解できる。
なんでこの人こんな変なことしてたんだろうからわかるってことですね。
そうですそうです。だから言語ゲームの話で言うと僕たちは何かしらの言語ゲームをしていると。
54:03
その言語ゲームっていうのはある一定の当たり前の中にいると。
その当たり前の中であるからこそ当たり前でないものが初めてクッキーと見えてくるようになるという枠組みですね。
そこで言語ゲームが出てくるわけです。
なんかそれって言語ゲームの話はいるんですかね。
呼んでたら別に違和感はないですよ。
難しいからなんかあれか思うだけなのか。
ここでだから要するにそのような天乗りイコールゾウヨをいかに見つけるかっていう話に移行しまして。
逸脱的思考と求心的思考っていうのがあって、求心がさっきも言ったけど求める心で、
単求心っていうものの単を取っていただけたら漢字がぴったりなんですけど単求心の求心的思考って2つがありまして、
それぞれ解説されてるんですけど、求心的思考っていうのがホームズの推理、シャーロック・ホームズの推理を例に挙げられてて、
細かい違いに気がつくことっていうことでいいかな大体。
例えばホームズが最初に言って、シャーロック・ホームズって読んだことあります?
あのね、カツジでは読んだことないんじゃないかな。
じゃあシャーロックは見たことあります?
見てないですね。
あーそうか、シャーロックめっちゃおもろいわね、見てくださいね。
シャーロックが相方のワトソンと最初に会ったときに、ワトソンは自分の職業を明かさなかったんですけど、
ホームズが彼の外見を見たときにピタリと合ってたんですね。
で、医者っぽいけども日焼けしてる。
で、医者っぽいもので日焼けしてるのは、医者って普通屋内にいるから日焼けしないじゃないですか。
そこが何かおかしいと。
それが成功するのって何かっていうと、アフガニスタンに出兵した軍医だろうというような推理をしたんですよね。
そのように根本を疑うというよりは、細かい際からいろんなものを解き明かしていくというのが求心思考です。
逆にさっき言った3たす5って本当に8なのかって考えるのが逸脱的思考ですね。
だから3たす5は8として多分天秤が釣り合わないのはおそらく文童が8って書いてあるけどもそうじゃないんだろうで考えるのが求心的思考ですね。
だからこの両方が必要だという話なんですけども、その2つを合わせて本書では想像力と。
その2つの思考が想像力だと言ってて、その想像力が大切なんだよというのが本書の最後の1番3つ目のポイントか最後のポイントですね。
で、そこでSFが出てきます。
なんかあの像様の話はどこに行ったんだって思うんですけどそこら辺の話は。
はい大丈夫ですよ。
ちゃんと返ってくるんでしょうか。
ちゃんと返ってきますね。
で、SF的思考、SF作品っていうのが実はその逸脱的思考と。
で、特にさっき言った小松佐教さんが特にそうだと述べられてるんですけど。
57:04
SF作品って、科学技術的に今現在にはないものを描くわけですけども。
その中でも特に3たす5イコール8を疑うような、変えてしまうようなもの。
例えば地球の時点が止まるみたいな、いうようなことを想像するのっていうのが逸脱的思考だと。
で、逸脱的思考の最大のポイントっていうのは、僕らがこの世界と出会い直すためって書いてあるんですけど。
僕らが通常何も意識してない言語ゲームの前提が、そういう前提があったんだなって思い出させるんですよね。
なんかなんとなくわかります。
僕もさっき3たす5イコール8って疑わないですよねって言いましたけど、
それって疑う余地があるって気づかせるのがSF作品なんですよね。
小松佐教の話で言うなら、日本沈没っていう話を読んで、
日本って沈んでないんだなってことに気づくことができる。
そういうことです。
現状が現状であるってことは、実は一つの達成なんだということが気づけるんですよね。
安定の釣り合いと不安定の釣り合いっていう例があって、
お椀の中にボールが下にあったら普通じゃないですか。
普通なんですね。
で、そのお椀をひっくり返して球場の上に球がピタリと乗って動かなかったとしたら、
結構すごいことですよね。めっちゃバランス取ってるじゃないですか。
この後者が不安定の釣り合いなんですけど、
私たち日常って当たり前に繰り返していると、
お椀の中にある球のように思えるけど、実は違うんだと。
ひっくり返して、もう危うい均衡の上に成り立っているものだと気づけるっていうことなんですよね。
SFを読むことで、今の安定は簡単なことじゃないとわかる。
もう一つの例として、テルマエロマエっていうお風呂漫画が紹介されるんですけど、
古代ギリシャのお風呂設計師のルシウスっていう人が、
突然お風呂に入ってた現代にタイムトリップしてくるっていうトリッキーな作品なんですけども、
彼はね、例えばウォシュレットとかを見るとめっちゃ驚くんですよね。
私たちはそれを見て楽しむわけですけど、
あって当たり前のものじゃないってことなんですね、驚くっていうことは。
古代ギリシャにウォシュレットはないですよね、当然。
誰かが作ったってことなんですよね。
当たり前にあると、当たり前にあるような感じがするじゃないですか。
でもそうじゃないんですよね。
だからこの世界にあるものっていうのは、実は誰かが作ったりとか、
1:00:03
すごい苦労の上で成し遂げられたりとか、
プラスにはなってないけどマイナスにしないための努力が常に支払われてたりするっていうことを、
SFを読むことで、テルマエロマエもSFにカテゴリーされてるんですけど、
そういうものに改めて気づくことができる。
SFを通過することで僕たちの想像力がそっちの方向にちゃんと向くことができると。
そういうものに気づく想像力っていうのは、
世界に対して、これってすごいことなんだなって驚けることなんですよね。
驚けなくなってしまうって当たり前になるってことは。
驚けるとどうなるかっていうと、人に教えたくなるんですよね。
本とか読んでてもそうなんですけど、これってすげえじゃんって言いたくなるんですよね。
そういう気持ちはすげえわかります。
これが雑用に気づいた人はメッセンジャーとなると書かれてるんですけども、
確かにそういうとこあって、自分が今もう受け取ってしまってることって伝えたくなるんですよね。
これは色んなものに、特に僕はマーケティングによく言えると思うんですけど、
過剰なもの、明らかに合理性を書いた過剰なものってつい人に言いたくなるんですよ。
例えばKindleのセールとかって、半額とかってよくあるじゃないですか。
1冊28円とかってものすごく言いたくなりません?
うーん、これめっちゃ安かったよって大阪の人たちがみんな好きだっていう。
ある種合理的な中で、当事者がウィンウィンしてるようなもの、
交換してお互いに満足してるようなものっていうのは別に言及したいと思わないんですけど、
圧倒的に不合理なものって言いたくなるんですよね。
その一つ別の例として、自然の美しさっていうのが本職で挙げられてるんですけど、
ああいうのも見たら自己納得するというよりは、
誰か側にいる人とかにちょっとこれ見てよって言いたくなる力があると。
こういうメッセンジ性っていうのは、これは僕はビジネスの分野でも非常に重要だと思うんですけど、
ゾウヨってそういう伝える人にさせてしまうような、発信者にさせてしまうような力があると。
これ結構面白いエピソードなんですけど。
ゾウヨっていう概念が多分俺はここまでで小さく捉えすぎていたんだけど、
例えば現代社会にあるものっていうのは古代人からの、古代の人々からのゾウヨだっていうふうにも言える。
結局だからさっきも言ったように、ゾウヨって自分がもう受け取ってしまったと、
見出したものはもうすべてゾウヨになるんですよね。
そっか、今の日本の社会というものが、戦争とかの話で言うと、
あの頃戦ってきた人たちのおかげなんだぞっていうような言い方もあるし、
そもそも現代文明っていうのがそういうみんなが作ってくれて今あるものだっていうものだから、
1:03:02
もう言ったら何もかも全部ゾウヨだった。
そうですね。で、そういうところから何かを始める。
自分はもう受け取ってしまったから、それを何かしらの形で返していこうっていう形で行われる行為は、
必然的にそれ行為もゾウヨになるんですけど。
つまりもう当にはもう受け取ってしまって、別の人から与えられてるから、
目の前に挙げる人に対して交換を求めないんですよね。
でもその送り先の人からしたら、何でこんなものを送ってもらえるんだろうっていう感じになるんですね。
そうするとどうなるかっていうと、その人もまた別の人に送るようになるんですよね。
なんかあの、ペインフォワードに戻ってきた感じがする。
ただペインフォワードとの大きな違いっていう、ペインフォワードの話ちょっと触れ忘れたんですけど、
ペインフォワードってあれゾウヨの成功の話だと思ったんですよね。
エンディングも感動的な終わり方だった気がするんですけど、
本職ではあれはゾウヨの失敗の話だとしてるんですよね。
ダメなんだあれは。
あれは失敗の形だという話をしてて、そこの分析は本職を呼んでもらった方がいいんですけど、
その見方はなかったなっていうのが面白かったね。
だからゾウヨっていうのは、知らずに受け取ってしまった人が始めるものなんですね。
明確に親切にされたっていうのはダメなんだ。
彼そのもの、ホッキリの小さな子供がいるんですけど、
彼そのものが別に世界から何かを受け取った感じで始めたんじゃないんですよ。
むしろこの世界は絶望してるからっていうようなもので、
善意で始めてしまってるんですね。
だから失敗するっていう話なんですけど。
ゾウヨのスタートは。
ゾウヨのスタートが実は一番重要なんです、これ。
ゾウヨに気づいたことから、ゾウヨされていることに気づいたことから始まらないといけない。
そういうことなんです。そうでないと失敗するということなんです。
ペリフォワードは映画的には成功しているし、物語としても始まりからが失敗していると。
本書の物語論の分析でいうと、そもそも失敗が決まっているスタートだったっていうことなんですね。
だからこれね、まずゾウヨというのは後から気づくものであると。
気づいた瞬間に自分は受け取ってしまっているので、負債者であると。
だから、ただ与えること、誰かに送ることしかできない。
送られた人にとったら、それも突然送られてきたゾウヨなんで、その人も負債者になると。
そのようにして、誰にも送らないゾウヨが送り続けられていくっていう構図が続いていくってことなんですね。
なんかタイトルに変えてきましたね。
で、そこでさっき言った想像力、SFOを読むことで、
想像力、逸脱的と求心的を身につけるという話とともに、
一番最後に勉強っていうのがちょこっとだけ出てくるんですけど、
結局何かを学ばないと気づけないんですね。
1:06:01
さっき言った、例えば僕たちがこの今僕カタリストで、
いろんなことを発見して驚いて、これっていいよねって言ってますけど、
あれってこの世界のいかにゾウヨで成り立っているかっていうのを気づく楽しさでもあるんですよね。
だから僕たちは勉強をしてるわけなんですけど。
でもこういう勉強は非常に楽しいんですけど、
やっぱり小学校の勉強ってそれほど楽しくないじゃないですか。
うん、大体楽しくない。
でも実はそれが必要なんだっていう話なんですね。
2段階必要だと。
学校の勉強っていう最初の勉強っていうのは、
さっき言った言語ゲームの当たり前を見つける場所だと。
で、大人への勉強はその当たり前を、
当たり前って言われてるけど実はそうじゃないんだって気づく、
もう一段階深い勉強、深いというか発展した勉強っていうことなんですね。
だからゾウヨの価値っていうのは大人の勉強になって初めて気づけるっていうことなんですよね。
これは独学大全とかでもいろいろ語ってきた話で、
この僕自身がそれに近いことをしてますけども、
教養の価値っていうのは誤廃に気づけることだと。
本来僕に自分に届くはずのなかったものが、
なぜかしら届いてしまっているというようなことに気づくことだということに書かれてるんですけど、
まさにそれが一つ勉強することの面白さであり、
大荒なさでもあるんですけど、
いつまでも続いてしまうっていうのがあって。
だから一番最後で、この社会における倫理の大切さと、
交換を求めるようなゾウヨは失敗すると。
長売れ体からやるゾウヨは、あらゆる意味でゾウヨではないんですね。
目立ちたいために何かする行為はもうその時点で必然的に失敗している。
ゾウヨとして失敗しているという話と、
大人の勉強、勉強じゃなくて大人の勉強によって、
僕たちはこの世界がゾウヨで満ちていることに気が付くことができるっていう、
これも3つが本書の語られている大きな主題の3つだと思いますね。
なんかあれですね、聞いてやっぱりね、
まさに勉強になったっていうので、
考え方が変わったっていう感じがする話ですね。
だから非常に面白かったですね。
いろんな哲学の分野とかに触れられていて、
それ自身が協業的ではあるんですけど、
だから物の見方を結構ラディカルに揺さぶってくるところがあると思います、この本は。
言語ゲームの部分はクッソ難しかったけど、
世の中がゾウヨでできて、まさにタイトルが今の話を聞いて、
世界はゾウヨでできているっていう意味が、
この小一時間でだいぶ聞こえ方が変わった。
1:09:01
だからいいタイトルですね、これは。
すごいですね。
まさに何の役に立つのって言われたら分かんないと思うんだけど、
でもなんか世界の見え方が変わる。
だからやっぱり変な話、
ブログブームから現時点に至ってもちゃんとブログをやってる人っていうのは、
そういう感じがあるんですよね、ゾウヨ感。
ゾウヨされてしまったから自分もやっている感があるんですよね。
もちろんちゃんとやってるプロブロガーの方もいらっしゃいますけど、
そういうのとは別に、
どう言ったらいいんだろう、マットーというとあれかな。
どう言ったらいいんだろう。
好きだからやっているだし、やらないといられないからやっている人たちですよね。
そういうふうにやっている人たちは。
だから受け取ってしまった感なんですよね。
だから紹介したい商品とかもあるじゃないですか。
アフィリエイトで生活してるわけじゃないけど、
この商品紹介したいっていうものって、
先ほど言った通貨交換以上のものを受け取ってしまってる感じがあるんですよね。
この商品、この値段でいいんですか、みたいなそういう感じがあって、
それはある種、もうその時点で僕はメッセンジャーに、
発信者にならざるを得ないというか、
そういう感じがあるんですね。
そういうのが回っていくという中は、とても良いと思うんですが、
そうなってないので、
さっき言ったように合理があるから非合理が役立つとか、
対比があるからっていう話で言うと、
本書が雑魚っていいよって言いつつも、
雑魚だけで回ればいいって話にはなってないんですよね。
何も出てこなかったっすね、そんな話は。
雑魚であることに気が付けるのは、
後ろ、この世の中が資本主義の交換でたくさん満ち溢れてるからだと。
雑魚が当たり前の世界では、今度は雑魚が見つからなくなってしまうんで。
その、あ、雑魚ってすごいことなんだなと。
この不合理な交換はなぜ行われてるんだろうっていう疑問を持てるのは、
まさに逆に僕たちが資本主義の中で、
交換を主として生きているからだっていう話になって、
対、打倒資本主義とかでは全然ない。
そんなこと主張されても困るんですけども、
なってなくて一つの調和というか、
二つの考え方のうまい接合点ですね。
雑魚と交換経済が実は両方保管し合うんだっていう話を提示しているのが、
結構新しかった気がします。
哲学面白いですねっていう感じっすね、これは。
これはだから面白いですよ。
これはさっき言ったより結構一番ビビッドな感じ、響きました。
うん、すごい。
本当ね、ビジネスっていう人たちにね、
これは何の役に立つんだって言われてもね、
何の役にも立たないんですけどって思うし、
しかもやっぱ哲学の言語ゲームみたいなクソ難しい部分もありつつ、
1:12:01
でもきっとこれが分かったらもう一段階面白いんですよね。
ビートゲンシュタインは難解ですけども非常に面白いです。
前期の方は非常に有名な本があって、論理哲学論考っていう本があって、
読んだらさっぱりな本だと思うんですけど、
語り絵の言葉は沈黙しなければならないという言葉で有名なんですが、
それはまた別の回で出てきたり紹介しますけど、
でも全体的に非常にバランスの良い、
文章としても全然難しくなくて、
今説明した説明の方が多分難しかったんじゃないかと思うぐらい分かりやすく書かれてるんで、
実際読んでいただければと思います。
すごいな、しかも感想は出てこないんだけど、
何も否定もしてないですもんね、現代のことを。
そうそう、現代のことは何も否定しないけど、
現代で見過ごされているものがあって、
それが実は結構大切でお互いに補完し合うために、
教養とか勉強とかそういうものの力がいいよっていう。
それはこのレベル?
このレベルが教養って大切だよっていうことのレベルなので、
当然見事に合致してるわけですね、全体的に。
しかも読み終わったら何て言うんだろう、
良い気分になるもんですよね、これは。
それは間違いない。
こんなに世の中って素晴らしいんだって思えて、
誰も傷つけず世界の見え方が変わって、
良い気分で終えられるって最強じゃないかっていう。
だから非常に良い本だと、上から言ってますけど、
非常に良い本だと僕は思いますね。
こういうのを難しく書くことはできるかもしれませんけど、
ここまで分かりやすく書かれてるのは見事な仕事だと思います。
そうだね、一般的に哲学のイメージっていうのが難しいし、
今まで出てきた哲学者の人たちも、
言ってること意味わかんねえっていうか、
当たり前すぎて逆に意味がわかんねえみたいなことを
よく言ってるイメージですからね。
でもそんなことではなく、
しかもさっき言ったように、
各々の哲学者が考えてきたことをちゃんと武器、
概念的な武器として本書では使われてて、
だからやっぱりデリタの誤配とかもこれ、
しょっちゅういろんなとこ出てくるんで、
これを知っておくと、
頭の中で概念の構造を組み立てやすくなるんですよね。
入便は届く。
そうそう。
届かないかもしれないっていうところに価値があるっていうのが面白いんですけど、
本書から入って、
モースのゾイ論読んだりとか、
あとはデリタの誤配知ったりとか、
レビィ・ストロースも面白い人なんですよ。
レビィ・ストロースも外せないとまでは言わないけども、
知っておくといいかなという人なんですが、
そういうのと、
当然本人の主体の研究であるウィト・ゲンシュ単位は、
ちょっとお勧めはしませんか?
面白いのは面白いです。
そうですね。
その辺に興味を持つきっかけとしてもいいのかもしれないっていう。
1:15:01
そう思います。
まさに興味を広げてくれる本としても素晴らしいってことですね。
いい位置づけの、まさにリベラルアーツの入り口になるような本やと思います。
すごいですね。
しかもデビュー作で。
若い人なんですかね、この人は。
1985年とか。
年下なんだ。
すげえな。
それは素晴らしいですね。
今後も期待できるってことですよね、きっと。
これは多分別に時間がかかれたら、
多分タイトルによりますけども、結構長口で書いそうな気がしますね。
それはすごいですね。
そういう意味でも新しいすごい人が出てきて、それも面白く。
まとめるとまた長くなりすぎるから、あまりまとめないほうがいいのかな。
そうですね。
とりあえず結構だから、どれも僕紹介する本は読んでくださいっていう定義で言ってますけど、結構読んでくださいとは高いです。
思いました。
そういう感じで、一言で言うなら、話を聞く前と聞く後でタイトルの聞こえ方が変わった本でしたね。
なるほどね。
そういうことね。今ならまだ説明できないけど理解はできた感じはするっていうぐらいのところで、
今回は世界は雑魚でできているについてのお話でした。
番組への感想などがあれば、
Twitterでハッシュタグ、シャープ、カタカナ、ブックカタリストをつけて呟いていただけると全部見つけられるので、感想などよろしくお願いします。
それではこれでおしまいにしたいと思います。
お聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:16:51

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