今年読んだ本の中でも、結構トップレベルにビビッドな印象に残った本でした。
ちなみに今年何冊ぐらい読んでいるんですか?
しかも今本書いてるから結構忙しいんですけど、10冊は最低読んでて、でも50冊は読んでないの、どっか。幅が広い。
俺からしたら10から50の振れ幅にはなり得ないんだけどな。
1ヶ月8冊読んでたとして24冊やから、その間やな。だから10冊から25冊の間ぐらい。
それを読んだ中でも、面白い面白くないって言うとまず面白いし、印象に残る度合いで言うとかなり高い。
星5の印象残り度合いって感じかな。
もうあれですね、単純に考えればブックカタリストの今までのやつでもトップクラスにいいぞっていう感じですね。
ちょっと読んでもらいたい感は結構強くて。
この本って去年2020年に出てて、僕も多分発売した当初あたりに書店でメンチンって言って、
カバー、書類を前向きに陳列した状態で並んでるのを見かけて買ったんですよね。
というのも、僕、雑用っていう話、このキーワード、漢字が結構気になってまして、
特にインターネット空間における雑用とは何かみたいなのを長年考え続けてるというと大げさなんですけど、
気になってまして、雑用っていうタイトルがつく本が目に入ると、我々チェックしてたんですよね。
この本も買うだけ買って、読んでなかったんですよね。
読んでなかったんですけど、いろいろあって、ここまでの僕カタリストを聞いてる人で分かると思うんですけど、
いろいろあって、この本を読むことにして読んでみたら実に面白かったと。
ちゃんと僕の気になっている雑用の感覚とも非常に合致してる本でしたね。
まずタイトルの印象からですね、哲学の本なんだっていうのが、へーっていう感じがまずいきなりして、
雑用という言葉だと、やっぱり経済っぽいイメージがあるんですよね。
確かに。どこから行こうかな。
もともとその著者の方が哲学研究者の方で、専門がウィトゲンシュタイン哲学なんですね。
ウィトゲンシュタインってご存知ですか。
名前だけは聞きます。
ウィトゲンシュタインを専攻されている方で、雑用っていうのは、雑用論というのがありまして、
マルセル・モースという方が、チクマ学園文庫で出てるのかな、
モースという方がその雑用という行為を、いわゆる近代の経済活動、近代の経済活動っていうと交換なんですね、交換。
私はこれを買いますと、そのためにそれに等しい料金、お金を支払いますと、
それをお金を出して商品を受け取るっていう、その交換っていうのとは違うものの、
やり取りの形?
要するに現代社会ではなくて、オーストラリアとかのいわゆる原住民的な人たちとかが行っていた、
あるいは行っている物の流れっていうのを分析して、そこに雑用っていうものがあると。
その雑用は物を買う等価交換とは違った原理性を持っているっていう話がありまして、
そこからいろんな人が雑用について、雑用論を語っているんですよね。
そういう一つ大きな流れの中に雑用っていうキーワード。
だからこの思想とか哲学で雑用っていう言葉を持ち出すと、それが引っかかるんですね。
キーワードとして。
そうか。経済学用語っぽくあるんだけど、哲学の一分野としてある程度多くの人が雑用について研究してるってことですね。
そうですね。この文脈で雑用っていうと、いわゆる経済学とか雑用勢とかの雑用ではなくて、
モースから発展したある種の等価交換ではない物のやり取りのニュアンスがその時点で込められているということですね。
ちなみにモースさんっていうのはいつぐらいの時代の人なんでしょうか。
1872年から1950年に生きておられた方なんで、造詣論が1924年なので、
だからいわゆる近代社会の経済基盤が少しずつ出てきてるぞみたいな感じの時ですよね、きっと。
だから市場経済っていうのが世界的にも圧倒的に多性を占めているような頃に、
いやそうじゃないものの流れもあるんだよっていう、しかもそれって結構強力なんだぜっていうような話だったんですね。
ってことは大体100年ぐらい歴史がある哲学の分野っていうイメージでいいんですね。
と思います。タイトルが副題が資本主義の隙間を埋める倫理学ということで、倫理について触れてる本なんですけど、
倫理学でイメージする内容とはちょっと違うかもしれないですね。
この本で語っていた公理主義が、良い人であるとか、良い社会を作るにはどうしたらいいかっていう話ばっかりだったけど、
そういうのとはちょっと違うってことですよね。
もちろん倫理の話は出てくるんですけど、人はいかに生きるべきかっていうのが論説されているような堅苦しい本ではないということですね。
だから人間が社会的な動物だってよく言われるんですけども、生物的に言ってももうそうなわけですね。
で、その中でゾウヨって何なのかという話なんですけど、このゾウヨ論でよく語られることなんですけど、
モースのゾウヨ論で面白いんですけど、例えば仏の中で力がある人がパーティーを開くんですよ。
で、パーティーに招待された人はいくらでも好きな分飲み食いできるんですよね。
で、招待された人は今度はまた自分がパーティーを開かなきゃいけないんですよ。
いけないんですよ。
そういう義務が発生するんですよ。
で、そこでまた、当然最初にパーティーを開かせても含めて行くわけですよね。
で、それが繰り返されるんですよ。
つまり、招待された人は招待しなければならないっていう、これ返礼なんですけど、返礼の義務があるんですよね。
これは、普通の商品を購入するというようなことでは絶対に起こらないですよね。こんなことは。
名文化されていないルールですよね。
で、基本的に買ったら終わりじゃないですか。買ったらその瞬間に、その二人の夫妻関係ってなくなるわけじゃないですか。買う人と売る人の。
でも、そういう返礼っていうのは時間的に持続するんですよね。
貸しができる。
そういうことですよ。自分が招待を受け取ってしまった、もうその瞬間からすでにマイナスなんですよね。状況が。
それを返し切るまでは、自分はその責務を負ってしまうという、時間的な持続性があるということが、造業についての一つの大きなキーワードなんですよね。
なんか、現代社会ではそういうのって嫌われがちで。
そういうことです。
ちょっと前まで中国でも同じような文化があって、今回は俺のおごりだって言ったら、次は誰かがおごらないといけないみたいなものがあったり。
そういうものは世の中の傾向としてはなくなってきているやつですよね。今で言ったら。
そうですね。なくなってきているのは、まるっきり資本主義が広がっているっていうこととイコールなんですよね。
資本主義ではそういうことは極力なくすというか、資本主義にするということはそういうことをなくすということと同化なんですよね。
面倒くさいから嫌だっていう気持ちはすっげーわかります。
僕も基本的に若い頃はそうやったんですけど、結局それは人間と人間の関係性を瞬間的なものにしていくっていうこととイコールなんですよね、結局は。
買い物が終わった瞬間に、その人とこの人の関係性が切断されるのが望ましいっていう理論なんですよね。資本主義の理論っていうのは。
多分あれですよね。めんどくささと引き換えに、そういうことを楽をしようっていう。違う?どっちもか。どっちもだな。
だからそれは非常に効率的なんですね。それは効率的やし、責務を負うなんていうのはやりたくないっていう気持ちも正しいんですけど、結局それは人が孤立しても生きていける。
言ってることはすげえわかりますよ。
ゾウよのコスパが悪いという表現が出てきて面白いなと思ったんですけど、例えば災害時にボランティアに行くのは良いらしいんですよね。
それは実際に困ってる人が目の前にいて、その人が助けてありがとうって言ってもらえるかららしいですね。
ケンケツって当然、採血してくれる人はありがとうと言うかもしれませんけど、血で困ってる人に自分の血が行く現場を見れるわけじゃないですか。
行く動機づけがケンケツは起こりにくい。これってゾウよしてるように見えて実は交換してるんですよね。
お金じゃないものをもらおうと思ってケンケツに行っている。
ただ単に報酬がお金じゃなくて、ただ単にありがとうとか言ってもらいたいっていう、そのトレードフとしてケンケツに行ってる。
これはゾウよっぽいけど実は交換なんだと。
仮に交換の原理が強まっていけば行くほど、ケンケツってものがされなくなっていくと。
これがやっぱり資本主義イコール交換の理屈では補えないものがここにもあるっていう話なんですね。
ゾウよの概念というものは、どんどんなくなってきているぞってこの辺の人たちは言ってるんですかね。
資本主義の中ではゾウよは基本的に無視されるか弱まるかあってはならないものみたいな、いうような扱いになる。
つまり、どっかに書いてあったんですけど、資本主義を受け入れるということはどういうことかというと、
全てのものは商品になり得るべきだという考え方を受け入れるということなんですね。
確かに言われるとそうだな。
買えで買えないものはないっていう考え方じゃなくて、買えで買えないものはあってはならないっていう一つの価値観を持つことが資本主義だとおっしゃってて。
それは誰かが言っている、このゾウよの人たちが言っている。
この本の中で著者が論じていることですね、これは。
何か買えないものがあるって主張したときに、その考えがもう間違ってるんだよっていうことが資本主義だと言われてて。
結構過激ですけど、多分資本主義的な考え方って、特に堀江なんとかさんとかっていうのはまさにこういう考え方をされるんだろうなと思うんですけども。
今、日本で悪目立ちしている人たちはだいたいこういう方向ですよね。
わかりやすいですよね。
交換っていうのは、出せるものが大きければ返ってくるものが大きいっていう直感性もありますし、
交換は瞬時に起こられるんで、時間を待つ必要がないんで、速攻性があるというか。
だから非常にわかりやすいんですけど、さっき言ったように献血の効果をわからないしても献血って大切だよねっていうことは絶対にあるわけで。
だからそっちの即時の交換の理屈だけでいくと、だいぶ見逃されるものは多分あるでしょうね。
困っているときは渡せないんだから、後でいいよっていうふうにできない社会なんですよね。
そうですね。そういうのって困りますよね、多分。
多分困る。
こういうふうに雑用がいいと言いつつも、さっき言ったように、雑用が持つめんどくささっていうのは必ずあって、
それが呪いという形で現れてくるという場合もありまして、ここから論が少し難しくなるんですけども。
親子関係が一番よく出るんですけど、これは大切なことだからあなたのために言ってるのっていう教育の文句があるじゃないですか。
ダメな典型みたいなイメージはあるけど。
あなたのために言ってるのっていうのは一見何か物を送っている雑用のような見え方をしますけど、これは見せかけだと本書では指摘されてるんですよね。
結局それはそう言われてしまったときに受け取った人は困るわけなんですよね。
だって本当はそれって親がそうして欲しいから言ってるだけでもあるにかかわらず、あなたのためですよという形で送られてるので、うまく処理できなくなるんですよね。
親の期待だけのもの、これ私がそうなって欲しいんですよってただ言ったらそれは親の期待なんで、子供はそれに反発できますけど、
あなたのためですよっていうパッケージングがされてしまうと容易に破り取ることができなくなってしまう。
そういう中で子供がうまく処理できなくて混乱してしまうっていうような話が出てくるんですけど、
この見せかけの雑用っていうものと本当の雑用の違いって何かっていうと、本書から直接引用すると、
雑用はそれが雑用だと知られてはいけない。これはあなたに対しての雑用ですよって明言されて送られるものはそれはもはや雑用ではない。
というのがこの雑用論のキーワードですね。
じゃあ、最初に言っていた飲み会で全員誘って奢って返さないといけないというやつは、あれは雑用ではないんですよね。
いや、それは雑用なんですよ。なぜかというと返してくださいって何も明言しないんで。
それだったらいいんだ。
それだったら雑用性を持つっていうことなんですよ。
ああ、そういうことになるんだ。
パラフレーズなんですけど、雑用はいつかどこかで気づいてもらう。これがあれが雑用だったと気づいてもらう必要があると。
あれは雑用だったと過去時世によって把握される雑用こそ雑用の名にふさわしいっていうのがあって、
あなたのためですよとかこれが雑用ですよってポンと直接ダイレクトに差し出されるものっていうのは本書が名指す雑用ではないと。
良い雑用、悪い雑用みたいなイメージではなく、そうじゃないものは雑用じゃないっていう。
雑用とは呼びがたい。
あれは雑用の性質を全うできないと言ってるんですけど。
これが雑用だと知られない、誰からもわからないものが雑用であると。
その雑用っていうのは交換の理屈に乗っかってないんで、Aと差し出したときにAにふさわしいものを手にするっていう等価交換の性質に乗ってないんで、
雑用は合理的であってはいけないんですよね。合理性の外側にあるんですよ。
これは非常によくあるんですけど、さっき言ったあれが雑用だと過去時世によって把握される雑用という話なんですけど、
自分が受け取った雑用っていつも理不尽に思えるんですよ。
というのもインターネットの黎明期、初めてインターネットを使ってウェブを使えるようになったときって、ちょっとびっくりしたんですよね。
こんな情報がタダで手に入るっていうすげーことだと僕は思ったんですよ。
それコンピューターが生成してるわけじゃなくて、誰かが書いてるんですよね、現実的に。
20年ぐらい前の話ですよね。
僕がそれを読んだとき、こんなものを受け取ってしまったっていう感じがすごいしたんですよ。
だってもうそこにあるわけですから。
あなたのために書きましたよとか言うんじゃないんですよね。
もうページがそこにあるんですよ。
その人たちは給料をもらって書いてるわけでもないんですよね。
バナーとかが貼ってたりはしますけど、それでお金が得られるととても思えないページが、しかもめっちゃ面白かったりするんですよ。
昔のテキストサイトとかもだいたいそうでしたけど。
侍魂ですね。
今も全然合理的じゃないですか。合理的じゃないじゃないですか。その行動基準を今から逆算して考えたときに。
振り返ればあれはめっちゃ楽しかったんだろう。
多分やっている人が一番楽しかったんだろうなって思うけど、経済合理性は何もないですよね。
お金払ってますもんね、多分サーバー代を。
例えば自分を育てた親っていうものを思い馳せても、かなり不合理なことをしてるわけですよね。
子供を一人育てるっていうのは経済合理性に全く合わないことをしてるわけですよね。
てかそんなことを考えてすらいないっていうことですね。
その0歳から6歳までこう育ててね、思いますね。経済で言ったら1ミリも合理性はないと思う。
だからその不合理やからとかをもう考えないとこで行われるもんなんですよね。
つまり割合合うかを考えた時点でそれはもう好感になってしまうんですよ。
雑魚ではなくて。
だから後から振り返ったときに、
あ、これって僕に送られた雑魚なんだねって気づくことしかできないっていうこと。
はい、雑魚ですよ。ありがとうございますって受け取るっていうことは、
最初の話デリタで言うと手紙が受け取られてるわけですよ。
でも雑魚っていうのは雑魚として、
これは雑魚ですよって渡されたものではないものを後から振り返ったときに、
あ、これって雑魚だったんだって気づくっていうこと。
だから雑魚っていうのは行為そのものというよりはその行為の意味に後から気づくってことなんですよ。
ここでさっきの合排という話、デリタの話が絡み合ってくるんですけど、
雑魚はコミュニケーション論でもあるって本書が結んでるんですよね。
あれはそうだ、そういう意味だったのかって気づく。
意味に気づくっていうことって言ったら、ある種のコミュニケーション活動じゃないですか。
意味の理解するっていうのは行為の意味。
ここでさっき言ったウィドギンスタインの言語ゲームが出てくるんですね。
ここかなりトリッキーな論立てだと思います。
こんな論立て僕初めて見たんですけど。
雑魚の行為性そのものじゃなくて、
雑魚っていうのは後からその意味に気づくんだよという話になって、
じゃあその意味を扱うものって何だろうっていうところで、
言葉の扱う行為としての言語ゲームっていうのが出てくるんですよ。
これが見事だな。
簡単にまとめをするとめっちゃ難しいんですけど、
まずあれですよね。
雑魚勢っていう言葉からイメージする雑魚というのはそもそもまず違うんですよね。
ここでの雑魚は一旦忘れてください。
まずそれを忘れないっていうのが大事な前提としてあって、
雑魚はあげるもの、あげたもの、もらったもの、もらうものじゃなくて、
後になってからあれって雑魚だったんだなって思うものこそが雑魚だって言ってるんですよね。
だから初めから雑魚として渡されるものは全て雑魚に見せかけた成り損ないか、あるいは交換でしかない。
真に雑魚と言えるものは雑魚としてなお与えられていないけれども、
後から振り返った時にあれは雑魚だったと言えるものが雑魚だっていうところから、
後から気づくっていうその意味を理解するということで、
言語ゲーム、いとげんしゃいの言語ゲームに引き継がれていくんですね、話が。
おだしょー ああ、あれって雑魚だったんだねって。
その後から気づくっていうのって、コミュニケーションと一緒でってことなんですね。
コミュニケーション…
大平 行為の意味を理解するという、意味を理解するっていうのは言語…
おだしょー 言葉とは違うってことですよね。
大平 だから、どう言ったらいいんかな。
意味を理解するっていう、あの人があそこで怒ったのはなぜかを考えるっていうことを、
それが行為の意味を理解するってことじゃないですか。
おだしょー ああ、あの人はだからああいう理由できっと怒っていたんじゃないのかなっていうようなことが。
大平 そうですね。それはだからコミュニケーションじゃないですか、ある種の。
おだしょー 怒ったうんぬんではなくてってことなんですよね、それもまた。
大平 その怒りがどうこうじゃなくて、その人はなぜ怒ったのかっていうことを
汲み取るっていうことがコミュニケーションであり、結局意味を扱うってことなんですね。
行為の意味を扱うってことなんですね。
おだしょー うん。で、像よというものももらったものとかあげたものじゃなくて、
後からあああれってそうだったんだねっていう意味を考える。
大平 そうそうそう。その行為の意味を汲み取るっていう。
その行為、だからものとかその直接を分析するんじゃなくて、
ええという人が私にこれをくれたという意味を理解するという意味なんですね。
で、言語ゲームに話がスライドする。
おだしょー うん。ものをもらったではなくて、ものをもらったって思ったってことが像よだった。
大平 そこに像よを見出せるようになると。
おだしょー うんうん。
大平 逆に言うと、それができない限り像よは見つからないって話なんですけども。
で、ここで急に、急にというか、そのウィト・ゲンシュタインの言語ゲームはなんだかっていう話になるんですけど、
これがね、これ説明すると当然長くなるのですが、
僕たちは言語活動っていうのをどのように捉えてるかっていう新しい見方を提示したのが、
ウィト・ゲンシュタインの言語ゲームなんですけども。
おだしょー そのウィト・ゲンシュタインは、言語についての哲学的なことを言った人ってことですかね。
大平 後期はそうですね。言語そのもので言語活動かな、どっちかっていうと。
何が違うのかって話なんですけど。
例えば言葉をやり取りするときの一つのイメージとして、一つの言葉に何か絶対的な意味があって、
その意味を全人類が理解して、誰が理解しても同じ意味であって、それを使ってコミュニケーションを取るっていう、
こういうのを何と呼ぶかわかりませんけど、そういうふうに一つ一つがもう独立的にちゃんと意味を持っているという考え方があって、
それを人は辞書のように頭に入れて、言語をするときにそれを使うっていうイメージとは別の考え方をウィト・ゲンシュタインさんは提示したんですね。
言葉はそんな単純なもんじゃないってことですかね。
単純というよりはそんなふうには決まっていないということで、難しいんですけど。
いろんな言語ゲームって言い方からわかるように、いろんなゲームがあるんですね。
いろんなゲームがあって、僕たちはその言語ゲームに参加していると。
プログラマーにして言うと、言語空間って言った方がちょっと通りがいいかもしれませんね。
言語空間ってあるじゃないですか。ある単語がどこかに所属していると。
その空間の中で初めてその言葉の意味が定義されるということなんですけど。
例えば、窓を開けるって、窓を開けてくださいってゴリゴさんが言ったら、近くにある窓を開けてくれますよね。
それは窓というものについての僕とゴリゴさんの共通見解があるということなんですけども。
そういう現象から見ると、窓っていう一つの絶対的な言葉があって、それを僕とゴリゴさんが共有しているように思いますけど、
実は違うんだと。実は違うんだという話なんですね。
例えば、子供の頃に窓を開けてって誰かに言われて、
例えば、象を開けようとしたらいやそうじゃないと言われて窓を開けるっていうような行為を通して、
僕たちは窓っていうものの概念を理解するんですよね。
うん、そこはわかります。よくわかる。
だから言語って、言葉の表面とその中の意味を一通り覚えるような、辞書を丸暗記するようなものじゃなくて、
人間の生活の中にある一つ一つの活動と、実際の活動と言語コミュニケーションが結びついてるんですよね。
だからウィトゲンシュタインに言わせれば、言葉の意味単独で取り出すことはまずできない。
ある行為に置かれて、ある行為とか日常の動作の中に置かれて初めてそれは意味を獲得するんだと。
そういう意味の獲得が共通している人たちが同じ言語ゲームをやっているんだと。
だからある種の言葉を覚えるっていうのは、そのゲームに参加することだという話なんですね。
それをゲームで哲学業界を例えるわけなんですね。
彼は独独なんですけど、野球のファールという言葉があるじゃないですか。
ファールの意味を知っているっていうことは、どういうことかというと。
野球のルールがわからないとわからない。
プレイしたときにこれがファールである、こうしなければファールじゃないっていうことがわかるってことですよね。
それがファールって言葉を知ってるってことですね、おおむね。
おおむねそうだと思います。
ファールという言葉の辞書的な意味を暗記していることじゃないですよね。
ああ、そういうのはありますね。
何々について教えてくださいって言われて言えないけど、これはそうであってますか、あってませんかっていうのだったら言える。
ファールっていうのは野球の中の野球という言語空間でやってる言語ゲームなんですね、ファールという言葉を使うってことは。
その他の言葉もそれ以外も全部そうなんだと。
ただ共有している空間が野球よりはるかに広いから、僕たちはそれはものすごく一般的なものだと思っているけど、実は一つのゲームでしかないと。
それと異なるゲームはいくらでも存在し得るというようなことなんですね。
そうか、野球のファールというものをサッカーに持ち込んでもそれは全然通用しないし。
ということなんですね。
日本という国の中で日本語が通じるけれども、アメリカに行ったら通じないし。
同じ日本でも例えば関西圏と関東圏で違う言語ゲームが微妙に行われてたりとか。
大阪の人がお前アホかっていうのと東京の人がお前アホかっていうのは全然違うってことですよね。
そうそうそう、そういうこと。
だからお前アホかっていう言葉に絶対的な意味があるっていうのは解釈の違いっていう話になるんですけど、
そうじゃなくて行われているゲームが違うんだという人間主体を言ってるわけですね。
だいぶ概念はわかってきた感じがします。
天秤の方が合ってて、もしかしたら3たす5大なり8が本当ではないかみたいな。
そういうことは思わないですよね。3たす8が前提なんですよね、僕たちの世界にとって。
これがいわゆる言語ゲームの中にいるっていうことなんですよね。
ここはそこの3たす8はそもそも疑わないようにしようっていうこと。
サッカーで言うと手を使わないでおこうっていう一つの基盤となる、フレームとなるものがまずは絶対にあると。
どんな考えでも。そのようなものを水戸玄師さんも世界像と呼んだらしいんですけど、
いわゆるパラダイムシフトって言われるときのパラダイムにあたるものですね。
だからこの話を言うと、人間っていうのはそういう不自由な思考をしているんだというふうに思われるかもしれないですけど、
そういうフレームが全くないと何も考えられないですね、僕たちは基本的に。
だってそんなことがあるたびに3たす5は8イコールじゃないんじゃないかって疑いだしたら生きていけないですよね。
楽をするために考えることを減らしている。
だからその3たす8が仮に間違ってるとしたら、3たす5イコール8が間違ってるとしたら、
それが正しいとしているいろんな理屈を全部ひっくり返していく必要がありますよね。
でも今のところ3たす5イコール8っていうのが正しいっていうことでこの世界は大体いろんなものが成り立ってるわけじゃないですか。
だからそれをひっくり返すととてもめんどくさくなるようなものはとりあえず正しいとしておこう。
他と整合性があるものはとりあえず正しいとしておこうっていう生き方というか考え方が僕たちの生活スタイルなわけですね。
みんながそうしてますね。
そういう場合にあっても3たす5イコール8が正しいと疑わないからこそさっきゴルゴさんは天秤か文童がおかしいんじゃないかと思えたわけですよね。
そこで疑問を立てることができたわけですよ。
もし正しいもの、さっき言った数式すらも正しいと思えないのであれば、その疑問の立て方がもうむちゃくちゃなことになりますよね。
考える根拠がなくなる?
そういうことですよ。考える根拠のためにはどこか正しいと呼べる部分がないといけないんですね。
例えば、いろいろあるんですけど、科学のパラダイムシフトっていうのも、それまでの考えでは当てはまらない何か事象が出てきて、それをうまく説明するために新しい法則なりが見つけ出されて、やっぱりそっちの方が正しいっていうことになったっていうふうに繰り返してシフトしていくわけじゃないですか。
アインシュタインの例が一番有名ですけども、ニュートン力学からアインシュタイン力学の展開が一番多いんですけど、そういうシフトっていうのは、まず何かが不合理であると思える合理性、しっかりした合理性があり、その合理性から見たときに不合理と思えるものがあって、その不合理性を新しい合理性のもとに調和する中で新しい理論が出てくるってことなんですね。
その言語ゲームっていうのはある一定の当たり前の中にいると。
その当たり前の中であるからこそ当たり前でないものが初めてクッキーと見えてくるようになるという枠組みですね。
そこで言語ゲームが出てくるわけです。
なんかそれって言語ゲームの話はいるんですかね。
呼んでたら別に違和感はないですよ。
難しいからなんかあれか思うだけなのか。
ここでだから要するにそのような天乗りイコールゾウヨをいかに見つけるかっていう話に移行しまして。
逸脱的思考と求心的思考っていうのがあって、求心がさっきも言ったけど求める心で、
単求心っていうものの単を取っていただけたら漢字がぴったりなんですけど単求心の求心的思考って2つがありまして、
それぞれ解説されてるんですけど、求心的思考っていうのがホームズの推理、シャーロック・ホームズの推理を例に挙げられてて、
細かい違いに気がつくことっていうことでいいかな大体。
例えばホームズが最初に言って、シャーロック・ホームズって読んだことあります?
あのね、カツジでは読んだことないんじゃないかな。
じゃあシャーロックは見たことあります?
見てないですね。
あーそうか、シャーロックめっちゃおもろいわね、見てくださいね。
シャーロックが相方のワトソンと最初に会ったときに、ワトソンは自分の職業を明かさなかったんですけど、
ホームズが彼の外見を見たときにピタリと合ってたんですね。
で、医者っぽいけども日焼けしてる。
で、医者っぽいもので日焼けしてるのは、医者って普通屋内にいるから日焼けしないじゃないですか。
そこが何かおかしいと。
それが成功するのって何かっていうと、アフガニスタンに出兵した軍医だろうというような推理をしたんですよね。
そのように根本を疑うというよりは、細かい際からいろんなものを解き明かしていくというのが求心思考です。
逆にさっき言った3たす5って本当に8なのかって考えるのが逸脱的思考ですね。
だから3たす5は8として多分天秤が釣り合わないのはおそらく文童が8って書いてあるけどもそうじゃないんだろうで考えるのが求心的思考ですね。
だからこの両方が必要だという話なんですけども、その2つを合わせて本書では想像力と。
その2つの思考が想像力だと言ってて、その想像力が大切なんだよというのが本書の最後の1番3つ目のポイントか最後のポイントですね。
で、そこでSFが出てきます。
なんかあの像様の話はどこに行ったんだって思うんですけどそこら辺の話は。
はい大丈夫ですよ。
ちゃんと返ってくるんでしょうか。
ちゃんと返ってきますね。
で、SF的思考、SF作品っていうのが実はその逸脱的思考と。
で、特にさっき言った小松佐教さんが特にそうだと述べられてるんですけど。
SF作品って、科学技術的に今現在にはないものを描くわけですけども。
その中でも特に3たす5イコール8を疑うような、変えてしまうようなもの。
例えば地球の時点が止まるみたいな、いうようなことを想像するのっていうのが逸脱的思考だと。
で、逸脱的思考の最大のポイントっていうのは、僕らがこの世界と出会い直すためって書いてあるんですけど。
僕らが通常何も意識してない言語ゲームの前提が、そういう前提があったんだなって思い出させるんですよね。
なんかなんとなくわかります。
僕もさっき3たす5イコール8って疑わないですよねって言いましたけど、
それって疑う余地があるって気づかせるのがSF作品なんですよね。
小松佐教の話で言うなら、日本沈没っていう話を読んで、
日本って沈んでないんだなってことに気づくことができる。
そういうことです。
現状が現状であるってことは、実は一つの達成なんだということが気づけるんですよね。
安定の釣り合いと不安定の釣り合いっていう例があって、
お椀の中にボールが下にあったら普通じゃないですか。
普通なんですね。
で、そのお椀をひっくり返して球場の上に球がピタリと乗って動かなかったとしたら、
結構すごいことですよね。めっちゃバランス取ってるじゃないですか。
この後者が不安定の釣り合いなんですけど、
私たち日常って当たり前に繰り返していると、
お椀の中にある球のように思えるけど、実は違うんだと。
ひっくり返して、もう危うい均衡の上に成り立っているものだと気づけるっていうことなんですよね。
SFを読むことで、今の安定は簡単なことじゃないとわかる。
もう一つの例として、テルマエロマエっていうお風呂漫画が紹介されるんですけど、
古代ギリシャのお風呂設計師のルシウスっていう人が、
突然お風呂に入ってた現代にタイムトリップしてくるっていうトリッキーな作品なんですけども、
彼はね、例えばウォシュレットとかを見るとめっちゃ驚くんですよね。
私たちはそれを見て楽しむわけですけど、
あって当たり前のものじゃないってことなんですね、驚くっていうことは。
古代ギリシャにウォシュレットはないですよね、当然。
誰かが作ったってことなんですよね。
当たり前にあると、当たり前にあるような感じがするじゃないですか。
でもそうじゃないんですよね。
だからこの世界にあるものっていうのは、実は誰かが作ったりとか、
すごい苦労の上で成し遂げられたりとか、
プラスにはなってないけどマイナスにしないための努力が常に支払われてたりするっていうことを、
SFを読むことで、テルマエロマエもSFにカテゴリーされてるんですけど、
そういうものに改めて気づくことができる。
SFを通過することで僕たちの想像力がそっちの方向にちゃんと向くことができると。
そういうものに気づく想像力っていうのは、
世界に対して、これってすごいことなんだなって驚けることなんですよね。
驚けなくなってしまうって当たり前になるってことは。
驚けるとどうなるかっていうと、人に教えたくなるんですよね。
本とか読んでてもそうなんですけど、これってすげえじゃんって言いたくなるんですよね。
そういう気持ちはすげえわかります。
これが雑用に気づいた人はメッセンジャーとなると書かれてるんですけども、
確かにそういうとこあって、自分が今もう受け取ってしまってることって伝えたくなるんですよね。
これは色んなものに、特に僕はマーケティングによく言えると思うんですけど、
過剰なもの、明らかに合理性を書いた過剰なものってつい人に言いたくなるんですよ。
例えばKindleのセールとかって、半額とかってよくあるじゃないですか。
1冊28円とかってものすごく言いたくなりません?
うーん、これめっちゃ安かったよって大阪の人たちがみんな好きだっていう。
ある種合理的な中で、当事者がウィンウィンしてるようなもの、
交換してお互いに満足してるようなものっていうのは別に言及したいと思わないんですけど、
圧倒的に不合理なものって言いたくなるんですよね。
その一つ別の例として、自然の美しさっていうのが本職で挙げられてるんですけど、
ああいうのも見たら自己納得するというよりは、
誰か側にいる人とかにちょっとこれ見てよって言いたくなる力があると。
こういうメッセンジ性っていうのは、これは僕はビジネスの分野でも非常に重要だと思うんですけど、
ゾウヨってそういう伝える人にさせてしまうような、発信者にさせてしまうような力があると。
これ結構面白いエピソードなんですけど。
ゾウヨっていう概念が多分俺はここまでで小さく捉えすぎていたんだけど、
例えば現代社会にあるものっていうのは古代人からの、古代の人々からのゾウヨだっていうふうにも言える。
結局だからさっきも言ったように、ゾウヨって自分がもう受け取ってしまったと、
見出したものはもうすべてゾウヨになるんですよね。
そっか、今の日本の社会というものが、戦争とかの話で言うと、
あの頃戦ってきた人たちのおかげなんだぞっていうような言い方もあるし、
そもそも現代文明っていうのがそういうみんなが作ってくれて今あるものだっていうものだから、
もう言ったら何もかも全部ゾウヨだった。
そうですね。で、そういうところから何かを始める。
自分はもう受け取ってしまったから、それを何かしらの形で返していこうっていう形で行われる行為は、
必然的にそれ行為もゾウヨになるんですけど。
つまりもう当にはもう受け取ってしまって、別の人から与えられてるから、
目の前に挙げる人に対して交換を求めないんですよね。
でもその送り先の人からしたら、何でこんなものを送ってもらえるんだろうっていう感じになるんですね。
そうするとどうなるかっていうと、その人もまた別の人に送るようになるんですよね。
なんかあの、ペインフォワードに戻ってきた感じがする。
ただペインフォワードとの大きな違いっていう、ペインフォワードの話ちょっと触れ忘れたんですけど、
ペインフォワードってあれゾウヨの成功の話だと思ったんですよね。
エンディングも感動的な終わり方だった気がするんですけど、
本職ではあれはゾウヨの失敗の話だとしてるんですよね。
ダメなんだあれは。
あれは失敗の形だという話をしてて、そこの分析は本職を呼んでもらった方がいいんですけど、
その見方はなかったなっていうのが面白かったね。
だからゾウヨっていうのは、知らずに受け取ってしまった人が始めるものなんですね。
明確に親切にされたっていうのはダメなんだ。
彼そのもの、ホッキリの小さな子供がいるんですけど、
彼そのものが別に世界から何かを受け取った感じで始めたんじゃないんですよ。
むしろこの世界は絶望してるからっていうようなもので、
善意で始めてしまってるんですね。
だから失敗するっていう話なんですけど。
ゾウヨのスタートは。
ゾウヨのスタートが実は一番重要なんです、これ。
ゾウヨに気づいたことから、ゾウヨされていることに気づいたことから始まらないといけない。
そういうことなんです。そうでないと失敗するということなんです。
ペリフォワードは映画的には成功しているし、物語としても始まりからが失敗していると。
本書の物語論の分析でいうと、そもそも失敗が決まっているスタートだったっていうことなんですね。
だからこれね、まずゾウヨというのは後から気づくものであると。
気づいた瞬間に自分は受け取ってしまっているので、負債者であると。
だから、ただ与えること、誰かに送ることしかできない。
送られた人にとったら、それも突然送られてきたゾウヨなんで、その人も負債者になると。
そのようにして、誰にも送らないゾウヨが送り続けられていくっていう構図が続いていくってことなんですね。
なんかタイトルに変えてきましたね。
で、そこでさっき言った想像力、SFOを読むことで、
想像力、逸脱的と求心的を身につけるという話とともに、
一番最後に勉強っていうのがちょこっとだけ出てくるんですけど、
結局何かを学ばないと気づけないんですね。