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2020-08-03 31:54

第四回 マルクスは「男はつらいよ」が嫌い

人文知の拠点、ルチャ・リブロのポッドキャスト「オムライスラジオ」でお便りを読んでいただいたので、応答します。

声と文字というふたつの道具/白井聡『武器としての「資本論」』での寅さんへの異和/寅さんは境界の人である/寅さんは唯物論者である?/粋と野暮/共感不可能なモノとの共存をこそ考えていこう/「機能するということは、 時代遅れだということだ」

今週の本たち:白井聡『武器としての「資本論」』(東宝経済新報社)/池田剛介『失われたモノを求めて』(夕書房)/九鬼周造『「いき」の構造』(青空文庫ほか)

※ちなみに本編中で「ひがんとこがん」と言ってますが、此岸は「しがん」と読みます。ほんとはね。

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ポイエティーク
こんにちは、ポイエティークラジオです。
この番組は、私柿内正午が国に向かって一人ぶつ草と喋る様を、安価大きいステーションに全世界へ配信しているポッドキャストになります。
このラジオの他に、文字をベースとしたデジタルリトルプレスポイエティークが柿内正午のノートから無料でダウンロードすることができます。
声だけでなく、できれば文字でもお楽しみいただければ、僕が楽しいなと思います。
毎回こうやって、一人で国に向かってぶつ草と喋って、馬鹿らしいなぁとちょっと思いつつも、懲りずに続けているんですけれども、今回は少し、なんだろうな、これ誰に向かって喋ってんだろうなっていうのが、普段よりははっきりとするというか。
このポッドキャストを始めてみようかなと思った直接のきっかけの一つであるルチャリブロさんのオムライスラジオ、通称オムラジと呼ばれているポッドキャストに、エイヤーとお便りを送ってみたら、それを読んでいただいてですね、
先週の三村夫婦本壇、リリーチは男は辛いよが好きというタイトルの配信で、私の文字を使うときと声を使うときって、性別の難しさがあると思いますが、みたいな話をお便りしたのが読まれて、それについて語ってくださったというのがありましたので、
今回はそれに対してさらに声で応答してみようかなというところでお話をしてみれたらいいんじゃないのかなと思っております。
なので前回よりは、前回までと違って、ある意味はっきりとオムラジでお便りを読んでいただいたということに対しての応答というところでお話ができるので、前回までよりの宛先も不明のままぶつくさ喋るというのとはまた少し違った形で話し始めることができるなと思っております。
一論から言うと、オムラジの革命児さん、青木さんはどちらかというと、もともとは声の人なので、声を使って何かを、言葉を形取っていくということに対してはそんなに難しさを感じたことはなくて、むしろ文字の方が難しいなみたいなことを話していて、
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それに対して僕はおそらく文章の人だから文章の方が手っ取り早くて声の方が難しいんじゃないかみたいなところをお話をいただいて、その話自体は割とそうだよねみたいなところで。
面白かったのがその話の前に、そもそも僕が今雑誌の方でも書いているんですけれども、トラさんにすごいハマっていて、トラさんとマルクスというものの2つにすごいハマっていて、その話もちょっとタイルの中で書かせていただいたんですけれども、
そのマルクスだったりトラさんというものに引っ張られてのお話っていうところがすごい僕は面白かったなと思っていて、ちょっとその辺りでこんなことを話してみたいなみたいなことも出てきたので、それについてお話ができたらと思っています。
まず僕がお便りの中で書いたのって、白井里さんという人の今すごい売れているらしい武器としての資本論という本があって、その本の中でトラさんが出てくるんですけど、もともとはマルクスについての本なので、資本主義っていうのは本当に最変なものであって、なるべく早めに打倒せねばならないっていうところが、
気分の規定にある中でのお話なんですけれども、その中でトラさんというものを今の若者というものはトラさんがわからないと。なぜわからないのかというと、階級意識というものが希薄になって、
とはいえ階級意識というものがこの新自由主義の世界の中で、ある意味フラットな見せかけの中でむしろより可烈な競争社会みたいなものができてきたことによって、そのトラさんの頃にはあった階級意識であったりとか、その階級っていうものを上昇していくことに対する後ろめたさっていうものがすでに自分たちに実感できないものになってしまっている。
むしろそのフラットになってしまった、横並べになっている階級が無化されてしまった状況の中で隣の人を蹴落としてでも、自分が少しでも上に行かないとどんどんどんどん生活が苦しくなっていくっていうような、より一層な過酷な状況の中に置かれているからこそ、そのトラさんの頃の階級というものを前提としながらも、
人情であったりとか、義理みたいなものを優先したいような、その階級と義理人情みたいなところでの引き裂かれ、アンビバレンスがあるよみたいなところが、今の時代から見るとむしろ牧歌的に見えてしまって、そこにあった切実さみたいなものがわかりにくくなっているんじゃないかみたいなことが本の中では書かれていて、
なるほどなぁと僕は素直なので思いながら、だったらやっぱりちょっとこれはトラさんというものを実際に自分で見てみて、実際のところどうなのかっていうところを確かめてみないといけないなぁということを思いながら、ひたすらにトラさんを見続けるということをこの1,2ヶ月ぐらいしているんですけれども、
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その中で一緒にマルクスもやっぱり読まないといけないだろうと、原点に当たってみないといけないだろうということで、今、今月の頭ぐらいからマルクスの資本論も買って、今ちょっとずつそれも読んでいってというところで、
ちょっとこのマルクスとトラさんを並走させるような生活をしているんですけれども、それに関連してというところで、オメラジでも青木さんとマスクさんがいろいろとお答えを言っていただいて、面白かったのが青木さんは白井さとしさんのマルクスを経由してのトラさん論というものに対してはちょっとあんまりピンときてないんだよねっていうところでお話しされていて、
それはおそらくはその中で語られている階級というものに対するピンとこなさなんじゃないかということをお話しされていて、これはすごい僕としてもそうなんだよねっていうところで思うところもある話なんですけれども、
そもそもこの階級というもの自体がそもそもの現実なのか、それともある意味イデオローグ的な形で一つの政治の場を作っていくためのフィクションとしてもともとあったものなのかというところも正直今となってはわからないんだよねっていうことを青木さんが話されていて、それはすごい面白い視点だなと思ってですね。
そもそもマルクスの時代からかつてはあったその戸作人と漁師との人格的な所有関係みたいなものがなくなって、陳労働者、土地から追い出されて自分たちの労働力を売り返しなきゃいけないような陳労働者と資本家っていう関係ができてきたときに、より一層構造的な削除が始まっていったんだっていうことをマルクスは語っていくわけですけれども、
そこで、俺たちは資本家っていう妥当すべき存在がいて、下に我々プロレータリアという労働者という人たちがいて、その対立構造っていうのをいかにして解消していくかっていうことを考えなきゃいけないんだっていうことをもともと語っていたんですけれども、そもそもそこでその階級みたいなのを取り出していくのって一つのフィクションというか、
カール・シュミットの有敵理論じゃないですけど、どこかに他者との間に線を引いて、こっからこっち側は味方、こっから向こう側は敵みたいな形で、仮想敵を作ることで人々が団結しやすくなるみたいなところで作られている一つの、最初からそれって階級ってフィクションだったんじゃないかみたいなことが、一つもやもやとした岩としてその場で語られていたのかなというようなことを感じて、
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それはすごいそのなんだろうな、だからその階級っていうものをとっかかりにトラさんを語るっていうのは正直あまりピンとこないんだよねっていうようなことを青木さんがお話しされていて、
僕もなんていうのかな、階級っていうものを軸にして考えたときにトラさんっていうものはそんなにそぐわないんじゃないのかなっていうことを考えていて、どちらかというとさっきもちょっとちらっとお話ししたように、
どちらかというとその見せかけ上階級というものがなくなって、無再現にフラット化してしまっているからこそそのトラさんのわからなさっていうものが際立ってしまっているんじゃないのかっていうふうに思ってるんですけど、特にその理由としてマルクスってトラさんすごい嫌いだと思うんですよね。
マルクスを読むとトラさんがわかるっていう考え方はすごいありえないというか、マルクスは風転、マルクスの言葉で言うとルンペンのことをすごい嫌っているので、
労働者の味方ではあるけれども、まともな労働すらしないで、いろんなところをふらふらほっつき歩いているようなゴミども、クズどもみたいなことをルンペンに対して表現している箇所があるらしいんですけど、まだ僕はそこまでたどり着いていないので、
先週話したフリハラたちさんの文化の哲学の中で出てくる記述としてしかまだ知らないんですが、とにかくマルクスというのはルンペン、風転、トラさんというものをむしろ抱きすべき存在として、我々勤勉な労働者の敵として認識していただろうなというところがもともとあって、
なのでその階級意識というものを前提としてトラさんを見るという見方に関しては、僕もあまりそこまで面白い見方というか筋のいい見方ではないんじゃないのかなということを考えていて、
強いてトラさんと階級というものを関連づけてお話しするならば、むしろトラさんというのはその階級であったりとか、その社会的な構造の外側にいる人間なんだというところが一番のポイントなのかなというところを感じていて、
今まだ十二、三作ぐらいしか見ていないので、トラさんの全貌、全部の四十八作だかそのぐらいあるトラさんの三分の一にもまだ至っていないような状況で、なので僕がまだトラさんに対して分かったような口を聞くには早いんですけれども、
今のところ僕が好きなのって、三作目だか四作目の山田陽次が監督していない作品である風転のトラというシリーズがあって、この作品が一番僕の中で今トラさんを考える上で重要な作品なのではないかというようなことを考えているので、
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これがまさしくそのトラさんの風転性、ルンペン性というもの、階級構造、社会構造というもの、外にあるトラさんというものを描いた作品としてすごい重要なんじゃないのかなというようなことを考えていて、
この作品においてトラさんは普段はおじさんおばさんが営んでいる柴又のトラ屋っていうお団子屋さんにふらっと帰ってくるところから騒動が始まっていくんですけれども、風転のトラに関してはそのトラ屋のシーンっていうのがかなり少なくてですね、
どちらかというとその普段放浪している、なので桜たちが知らない側のトラさんを描く作品になっていて、その作品においてトラさんっていうのは徹底的にルンペン、放浪者として描かれていくわけです。
その中である意味、常人のという言い方はあまり良くないな、社会の側にいる私たちからするととてもとても共感できるような存在ではないものとしてトラさんっていうのが描かれていくっていうところがすごい重要なところだなと思っていて、
その中で四日市のトラさんっていうのは敵屋って気持ちのいい喋りによって物を売っていくっていうような仕事をしているんですけれども、その元敵屋の親父っていうのがその中で登場してですね、
その人は日頃の社会保障というものから落ちてしまった、抜け漏れてしまった中で日頃の不節制がたたって半信不通になってうまく満足に喋れないような状態っていうところで、四日市の工場のあばら屋のようなところで余生を過ごしているっていうような親父が出てくるんですけれども、
その親父に対して示すトラさんの仁義の切り方というか、道俗意識みたいなものっていうものを目の当たりにしたときに、そのあまりのわからなさというか、片木の私たちには想像の余地もないような関係性っていうものに対してすごい発動するっていうようなシーンがあって、
それを見たときに、トラさんっていうのは外側の人間、ないしは境界の人間、境目に、社会と外側との非眼と古眼との境目にいる人間なんだっていうところにハッと気づかされてですね、そのときに一番トラさんっていうのはこういう風にして見るべきものというか、
自分にとってはそういう何かの境にある存在としてトラさんっていうのを見ていくっていうのが良さそうだなっていうのを感じたんですけれども、なので、トラさんっていうものの重要さっていうのは、トラさんを見ることによって何かしらその当時の社会構造っていうものと、トラさんを需要できた社会構造っていうものと、
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トラさんを需要することができそうにない現在の社会構造っていうものを照らし合わせていくっていうような見方よりは、むしろそのどのような社会構造の中にこれまで馴染むことのなかった異物、ないしは外部としてのトラさんっていうものを考えることによって、
今のこの社会構造っていうものの内側からでは理解しようのないものに対して自分たちはどう付き合っていくべきなんだろうかっていうようなことを考えるヒントとして、トラさんっていうのはあり得るんじゃないのかっていうようなことをすごい考えています。
なので、トラさんを出しに階級を語るっていうのは結構すごい難しいことで、むしろそのトラさんというものを前にすると階級というものは無化されて、既存の社会構造、共感しやすい社会構造みたいなものの内側か外側かっていうところではっきりとそこに分断が明確に前傾化してしまうっていうところのほうがトラさんの面白さなんだと思います。
あとはオムラ地のお話で面白かったのは、トラさんっていうのをインテリ的な考え方だと理解できないんだっていうようなことを青木さんがおっしゃっていて、トラさんっていうのはある意味植物的で、抽象的なことは考えないなと、むしろそういったことをいちいち言葉にして理屈で考えるっていうのは水臭いっていうところがトラさんの価値観っていうものです。
ある意味それは生きと野望みたいな話で、これはその僕のお便りの中に、声と文字と言葉の使い方が変わってきますかっていう話をしたときに応答としてあったんですけど、フメロスであったりとか、ケルトの神話の中で基本的に文字にしたら大事なものが消えちゃうっていうような考え方についてのお話があったんですけれども、
これってなんでトラさん風に言うといちいち言葉にするっていうのは野望じゃないかっていう話だと僕は思ってですね。
失礼は鼻じゃないですけど、すべてをすべていちいち理屈だった言葉にするっていうことが必ずしも正しいことではないっていうようなことに対してすごいトラさんは敏感だと思ってですね。
あえてまたここでマルクスとトラさんを無理やり寄せていくならば、トラさんっていうのは徹底的な優位物論者なんですよね。
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抽象的なことって刑事上のものに対して何一つ興味を示さずに常に具体的なもの、具体についてだけを問題にしていく。
何か言葉で考えたりとか抽象的に考えるぐらいだったら先に動いちゃった方がいいじゃねえかっていうようなところがトラさんの行動原理であって、
だからこそトラ屋の面々であったりっていうところに迷惑がられたりだとか、何かしらの絡まれが発生してしまったりっていうのがあるわけですけれども、
基本的にそのトラさんというのは具体の人、行動の人だっていうところは、言ってしまえば優位物論者としてトラさんというものがいるんじゃないかっていうところがすごい考えたところで、
それこそ行きと野望っていう話で言うと、行きって何かっていうと、それこそその具体の中に宿るものだと思うんですよね。
それこそ本当に久喜修造さんの本にもありますけど、縦島か横島かどっちが行きなんだとか、そういうようなかなり植物的なところで現れてくるものとして行き、ないしは野望っていうものはあるわけで、
具体的な優位物論的な植物的なところに宿る好きであったりとか外しであったりとかっていう美学ですね、美学っていうもののことを行きであったり野望っていうふうに呼ぶわけですけれども、
その抽象的にそれをどうだっていうふうに語るよりは、具体的にトラさんの着こなしであったりとか、指にはまっているちょっとゴツめの指はかっこいいなであったりとか、
そういったところにこそトラさんたるゆえんっていうのが宿っているんだっていうところをもっと考えていくべきだろうなっていうふうに思っていて、
ちょうど小村寺の青木さんたちの悲願の図書館という本も出版されている石書坊さんからこの前本を買ってですね、その本が失われたものを求めてっていう池田豪介さんという美術家の方の本だったんですけれども、
これもまさに美術、アートっていうものは一つ関係性の美学であったりとか、ワークショップやフィールドワークっていうものに変調していって、どんどんどんどん物から事へっていうような意向がなされているけれども、
今こそ一度その物というもの、具体的、抽象的な関係性みたいなものじゃなくて、具体的なものっていうものに今一度ちょっと回帰していくべきなんじゃないかなみたいなことが書かれていく本で、これもすごい通じてくるところというか、ある意味なんていうのかな、
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物的であることっていうものの重要さっていうものが今すごい一つ考えるべきものになってきているのかなというようなことを考えていて、寅さんっていうのは基本的に共感できないんですよ。寅さんは分かんないんです。
今の関係から見るときついところばかりですし、寅さんの良さっていうもの、寅さんっていうものを全面的に肯定するっていうことは正直あんまりできそうにないなっていうのは僕は思ってるんですけど、
その全面的に肯定できないもの、ないしは必ず決して理解できそうにないものっていうものに対して、っていうものに対する体制というか、そういったものを受け入れるないしは受け流していくということがどんどんできなくなっていっている。
自分たちの受け取る側の人間、社会の内側にいる人たちっていうのは、分からなさに対するキャパシティがどんどん少なくなっているっていうところに気づける、ないしは分からないものに対して自分たちはどう向き合っていけばいいんだろうかっていうところを考えるヒントとして寅さんやその寅さんを需要していく寅屋というものの存在があるんじゃないのかなっていうところに僕はおそらく面白さを感じていて。
なので、割とどちらかというと僕はこの寅さんというものに対して抽象的な面白がり方を、やっぱりそれこそ文章的な面白がり方をどうしてもしてしまうんですけれども、
青木さんなんかは寅さんに対しての面白がり方っていうのが、オムライスなんかを聞いたりとかハブの冊子で連載されている山岳日誌なんかを読みながら感じるところとしてはどちらかというとかなり具体的に寅さんというものを見ているんじゃないのかなっていう気がしていて。
一番お話しされているのは多動、動きすぎてしまうという障害に対して寅さんの動きすぎてしまうという障害に対してどう需要していくのか、障害をどう需要するのかっていうところに寅さんと寅屋の関係っていうものを見ていくっていうようなことをお話しされているんですけれども、
僕にとってはなんとなくいろいろと聞いていて、ここは重要なんじゃないかと思ったのは、一番は消防団に青木さんが最近入られたっていう話をされていて、消防団の中では一年に一冊も本を読まなさそうな人たちとコミュニケーションを取らなきゃいけない。
そういう人たちのコミュニケーションの論理ってどういうものなんだろうっていうところを考えていくにあたって寅さんっていうのはすごい良いんだっていうようなことをお話しされていたなっていうのをぼんやりと記憶していて、何よりこれが一番寅さんを抽象的な階級意識であったりとか抽象的な社会性みたいなものとして都合よく使わずに具体的な寅さん像として受け入れていく。
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一つのスタンスとして重要な契機だったんじゃないのかなっていうふうに思っていて、青木さん自身の具体的な人間関係に対するお悩みであったりとか課題感みたいなものがあったからこそ、その具体的なシュミレーション、具体的な一つのモデルとして寅さんというものがあったんじゃないのかなみたいなところを聞いていながら思っていて。
おそらくその具体的な対人関係ベースで寅さんに入っていくのと、僕のように抽象的な文字ベースで寅さんに入っていくのとっていうところでは、最初からその寅さんに対するスタンスっていうのも大きく変わってくるだろうなっていうことを思っていて。
近々、おむらじでお話をできたらなみたいなことも今やり取りをしているので、実際にその出演が叶った際にはそのあたりのことをお話できたら楽しいんじゃないのかなみたいなことを思っているんですね。
そうですね。ちょっと実際に何か言葉が先にあって、声が先にあって、その声に対して声で応答していこうっていうふうになると、思った以上に自分が何か話したいっていうことはわかるんですけど、自分の話が何かちゃんとまとまっているのかとか、自分の話がきちんとその体系立っていたかっていうところはいつも以上に心もとないなというふうに思って。
ここまで今、だいたいもう30分喋っちゃいましたけど、喋りたかったことにきちんとたどり着けたかどうか、はだはだ心もとがないなと思うんですが。
マスクさん、言葉数が少ないわけじゃないのに確信になかなかたどり着けないから、すっと確信に入っていける文字のほうが自分は使いやすいみたいなことをお話しされていたかなと思うんですけれども、すごいそれが今よくわかるというか。
と同時にその場で、そのお話の流れでお話しされていた、声での喋りというのは目的以前の脱線であったりとか、本筋がなくても大丈夫というか、伝達しなくてもいいというか、無意味なつぶやきであったりとか、ソフィスケートされきっていないようなことから、
なんかよくわかんない、このもやもやをそのもやもやのままに何か伝えていく手段としてあるんじゃないのかというようなことがお話しされていて、すごいいいなと思ったのが、ただ伝達したいわけじゃなく、ただ一緒に楽しくしたいということを伝えるには声というのはすごいいいんだというようなことを村地の中でお二人はお話しされていたと思うんですけれども、
今まさにその、何を喋りたかったんだっけってあったりとか、喋りたいことをちゃんと喋れているだろうかということ以上に、一度受け取った声に対して声で返していくっていう作業は、文字にしたときにあんまり脈絡はなかったりとか、文字にしてみると結局その前後の一貫性であったりとか、
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喋っている内容が堂々巡りであったりとかっていうところも多そうな気はするんですけれども、今お二人の声を聞いて、自分の中で出てきたものはこういったものになるかなというところで、一旦わーっと喋りだしてみてしまいました。
もともと分かるという言葉も、分節の分けるという言葉が使われていますけれども、文字にする場合って基本的に何か物事に切れ目を入れるであるとか、物事を人工的に分節化するっていうところ、何か一旦バラバラの縁に分けていったものっていうものをもう一度自分なりに再構築して組み立て直していくっていう作業が文章にするっていうことだと思うんですけれども、
やっぱり今何かを理解しようであったりとか何かを分かろうっていうときには、そういった形で一度要素に分解をして、もう一度それを組み立て直すっていう作業がどうしたって必要になってくるだろう。
僕のプルーストを読む生活っていう日記の中で書いている、僕はお正月が嫌いだっていう話を元に、なんだかんだ言って人っていうのは社会的な何かを、社会的な行動をするためには切れ目っていうのを人工的に入れていかないといけないんだみたいな話もされていたと思うんですけれども、こういった声で喋る場合ってうまくその分節を入れていける、
もちろんそういう人もいますし、そういう人の方がある意味では仕事のパフォーマンスとしては評価されるのかもしれないですけれども、
声というのはむしろ分節化される以前のもの、分かられる以前のものっていうのを一つの塊としてゴロッと出していくってことができるツールなのかもしれないなと思ったときに、ちょっとその声っていうものの使い方に対して一つの可能性というか面白さみたいなものを改めて築けたかなというのを思っています。
いまだにまだ僕は声というものをうまく使えていないだろうなっていうような実感が、というかもどかしさがあるんですけれども、それはそれとして。
マクルーハンっていうメディアはマッサージであるっていう変てこな本を書いたおじさんがいるんですけれども、その人が言っている言葉で、機能するということは時代遅れだということであるっていう言葉があって、まさにこれだなと思うんですけれども。
僕の声というものが万人にわかりやすく、ないしは伝達のツールとして従前に機能してしまったとき、僕の声というものはもうすでに時代遅れというかもう無用のものになっているだろうな、いやむしろ有用なものになっているからこそ僕はもう興味がないなっていうようなことをすごいこう感じていて。
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トラさんのわからなさというのが重要なのはまさに同じことで、トラさんというのは今この社会の中で、ないしはこの現在の私たちが見たときにどう見ていいかわからない、どう共感していいかわからない、ある意味どう機能させていいかわからないものとしてトラさんというのがあるんですけれども、だからこそその長時代的な何かというか、ものがあるのではないかと。
マスカさんが展示のキャッチコピーの中で話されていたように、機能しないということ、無駄であるということ、無用であるということはある意味自由につながっているはずなので、今のこの社会の中でどう機能させていいかわからない者たちというところの内側にこそ、そういったどうしていいのかわからないものというものと向き合うことの中からこそ自由への突破口というものがあるんじゃないのかみたいなことを、
今は考えています。
今日はこの辺りにします。
ちょっと本当にいつも以上にまとまっているかどうか自信ないんですが、本集はこんな感じです。
ボイエティックラジオ、垣根翔吾でした。
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