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2023-08-19 37:30

YCAM ぐるぐるラジオ Season2 #7

前回(YCAMぐるぐるラジオ Season2 #6)に引き続き、2023年2月にYCAMで行ったイベント「私もアートがわからない vol.3 わからないの重さをはかる」で講師を務められた渡辺健一郎さん(俳優・批評家)をゲストにお招きし、「学びのヤバさ」「コンニャクという謎の存在」「本当に【美味しい】って何?」など、「学ぶ」ということがどんな影響を及ぼすか、色々な角度から考えるトークを展開しています。

※ 次回 8月26日(土) 公開予定


サマリー

前半では、食の絵のこだわりとインド・インドネシアの食文化について話されています。また、後半では、演劇や翻訳についての考えが述べられています。シェイクスピアの翻訳や本案という話題について、福田恒里の翻訳方法や戯曲の定義についても議論されています。さらに、翻訳と俳優の役の解釈にも共通点があることが話されています。また、カルティカさんがお米のおいしさを感じる体験を通じて、第二言語や言葉の解釈の重要性について考えるきっかけとなりました。勉強の哲学や演劇の研究、美味しい食べ物の味わい方についてもカルティカが話し、翻訳の難しさにも触れています。また、高校の演劇部の先輩たちとの思い出や、タバコの味わいについての話も展開されています。

食の絵のこだわりと食文化
YCAM 次の話題に行きましょうか。
さっき山岡さんの方から、Understandの語源を辿ったみたいな話もあったんだけど、
結構次は、そういう翻訳みたいな話も出てきていて、
まずは、最初の方は、前回、だから Season2のシャープ語、
ゲストの寺尾仏太さんから頂いた、「食の絵のこだわりってみんなありますか?」っていう質問というか、
問いかけがあったんですけど、ちょっとそれについて話しているのと、
あとその後は、放課後ぐるぐるラジオを撮ってみたって言っていた、さっきのやつの中で、
YCAMスタッフのインド出身のカルティカさんと、インドネシア出身のバルトさんと一緒に、
結構食とかをテーマに話したんですよ、放課後ぐるぐるラジオの中で。
日本もインドもインドネシアも食文化結構違いそうだよね。
結構違う。そこはそういう、プラス私の3人で喋ったので、
全員出身国が違う状態だったんですけど、
そこで食についていろいろ話したことのキーワードとかを引っ張りながら、
そういう話をしたり、あと技曲とか翻訳とか、
そういう話にもどんどん発展していったっていうところを聞いていただきたいなというふうに思います。
すごい発展するやん。
すごい発展するんですよね、毎回。
食べ物の話から技曲へってすごい。
何もかも繋がってくるんだよね、なんか面白いぐらい。
じゃあ早速聞いていただきたいと思います。
それではどうぞ。
食へのこだわりという意味でいう話題を聞いて、
そういえばどうしてるかなと思ったんだけど、
例えばお店に行くと、
飲み屋とかはまた別になっちゃうけど、
普通の飲食店に行くと、
私かなり頼むものは保守的だなと思って、
食べるものが保守的。
そんなにとっぴなものは頼まないというか、
まず春巻きが例えば好きと。
そうすると春中華料理屋に春巻きがあったら春巻き頼むとか、
結構同じものを頼むのだが、
それは同じ味を期待しているというわけでは必ずしもなくて、
なんか当然店によって春巻きの味全然違うと。
甘いとか野菜がどれだけ多いとか、
具が多いのか少ないのかとか、
めっちゃ平べったくてこれ皮だけじゃねえかみたいなこととか、
でもそれがうまいってあるのか、
さまざまにあると思うんですよ。
春巻きもいろいろあるんですね。
その場合、春巻きという単語がある意味では一つの議局だろうと。
春巻きという議局をさまざまに解釈してみました。
あるいは別に春巻きというところから発想してどうこうしてるってことともちょっと違うかもしれないけど、
それぞれに作ってるものがたまたま春巻きと呼ばれてますってことだけかもしれないけど、
でも一旦ね、春巻きという議局がさまざまに上演されてるあり方を試してみて、
私はやっぱりこの解釈好きだなみたいな。
なんかそういうものを結構楽しんでいる節があって。
面白い。
だから頼むタイトルは一緒だけど、
その際、期日みたいなものを相手取っているなというのが、
職へのこだわりって話を聞いて思ったことがあって。
面白い。
議局としての春巻き。
その場合演出家はシェフってことですか?
まあそうかな、俳優と言ってもいいかもしれないけど。
もちろんいろいろ試行錯誤があって、
あるいは演劇も同じ演目でも同じ劇団がいろんな会場でやる。
東京公演、大阪公演みたいな。
でも劇場の大きさとか、客層とか、あるいは気温とか、
無限の条件が織り重なって、
同じ場合にはやっぱりならないですよね。
キャパ1000人とキャパ20人じゃ全然違いそうじゃないですか。
それはもちろん違う。
そこまでダイナミックに違わなかったとしても、
全然違うっていうのもあるしね。
単純に一番最前列のお客さんとどれくらいの距離なのかとか、
そういうことでも全然違うし、
そういう意味で言うと、
例えば今物価上昇とかいろいろ言われてるけど、
この素材がちょっとさすがに値段的にきついみたいな場合もあって、
きっと少しずつ材料変えたりとか、
あるいはもちろん砂糖をもうちょっと多めにしてみようかなとか、
いろんな上演の状況に合わせて様々に変えていくだろうから、
さすがにそこまでのこだわりはできてない。
同じ店に行ってずっと同じ春巻き頼んで、
1年前と味変わりましたねみたいな。
そこまでやれたらなんかすごい人だなって思うけど。
実は皮が変わってねえとかって教えてくれたりとかしてね。
そういうのなんか対象変わりましたね。
なんか出汁変えた?みたいなのに憧れも覚えなくはないけど、
さすがにちょっといろんな店には行きたいなとは思うんだけどね。
とはいえ、なんかその上演のあり方の違いを楽しんでるってところが私はあるな。
それをだから自分でも春巻きを作るときに応用したりしなかったり、
なるほど片栗粉入れるのかとかね。
っていうのをそこで学んで自分たちに持ち帰るみたいなことは意識してますかね。
なんかこれまでの話を聞いていて、
分かることって自分の中の分かっていることをただ鏡で見てるだけっていう話もあったんですけど、
同じ春巻きということは言葉は分かるんだけども、
同じ春巻きを食べ続けることによっていきなり後ろ側が分かったりとか見えたりするわけじゃないんだけど、
一点見つめているところの周りがじわじわ広がってくるのか、
そういう分かっていくとかが広がっていくみたいなこともあるのかなって今聞いて思いました。
確かにそういう意味では春巻きという単語が共有されていることは結構重要で、
完全に別の料理だって思うと比較も難しいみたいな。
いや春巻きとカレーじゃ全然別だなとかね。
比較ができない。
カレーがややこしいかもしれないかもしれない。
直近で撮ったラジオが英語と日本語で割り切ってごちゃごちゃ話していいんじゃないかっていうラジオだったので、
そういうスタンスで英語を使っても日本語を使ってもいいよって話したときに出てきた話題として、
おいしいとデリシャスは多分違うっていう話をして。
それはめっちゃ面白いな。
インドから来たカルティカ。
インドネシアから来たバルトたちが2人ですごく盛り上がっていた話として、
日本の人は水をおいしいって言うけど、なんだって思ってた。
水おいしいってないのかな。
要は味がしないとか、水がおいしいとか、お米がお米単体でおいしいみたいなことが。
あ、お米もダメ。
お米もおいしくない。
お米おいしいもない。
ない。
基本味がないものって。
味がないもの認定だから、それに対しておいしいおいしくないとかは、
てかデリシャスで、彼らも母語が別に英語ってわけではないから、
これも性格じゃないんだけど、少なからずデリシャスとか言わない、
テイスティーとか言わないかも、水とかお米はみたいな話をしていて。
割とざっくり私たちは学校でおいしいイコールデリシャスって勉強してるから、
習った習った。
そこが結構疑うチャンスがないというか。
ちょっと待ってね。
これは大きな問題に入ってきましたな。
翻訳の問題
翻訳問題は俳優としてもすごく大きな問題で、
俳優ってある意味では翻訳をしている人だと思っているっていう話ってこれしたことありましたかね。
わからないの重さを測るの中でも、触れたかもだけどがっつりではないんじゃないかな。
俳優というのも翻訳をしている存在だとある意味では思っていて、
というのは書かれた言葉をしゃべり言葉に直すと。
この時には何らかのトランスレーションが起こっているだろうという意味で、
講義のトランスレーションだと思っている。
もしこれをイメージが分かりづらいと思ったら、
一応ね、ちょっとこれ手話も最近勉強し始めて、
すげー奥深いなと思ってるからあんまり経験には言えないんだけど、
一応手話の同時通訳みたいなのもあるじゃないですか。
あれを翻訳と呼ぶことは、たぶん納得いきやすいと思うので、
一旦例に出しちゃいますけど、
あれも読まれた言葉、書かれた言葉を、
書かれた言葉は読めばいいから通訳する必要ないのか、
しゃべった言葉を手話に直すっていうのも、
あれもトランスレーションの一種だと言えるだろう。
そういう意味で、俳優というのは翻訳者だと。
一旦そう置いてみるとどういうことが考えられるかなみたいなことで、
実は今ちょっと本を書いているところではあるんですが、
翻訳か。
普通にハローって言われたら、こんにちはって訳したりするっていうのが一般的なのか。
そうだけど、例えばだから演劇の場合なんかはすごく難しくて、
単純にね、これは普通に翻訳の話だけど、
ハローって言ってもオッスーとかっていう訳も全然あり得るわけだよね、関係性によっては。
でも英語だとそんなに立場の違いでとか仲良しの違いで挨拶が変わったりする。
もちろんスラングとか細かいものは色々あるだろうけど、
バリエーション的には多分日本の方が多いんじゃないかなとか。
そういう意味でいくと、翻訳って何だろうみたいな。
日本の明治期以降の文化って基本的には翻訳文化というかですね、
西洋のものを日本語に翻訳して、それこそ文学でも哲学でも演劇でもそうなんだけど、
海外のものを翻訳して自国に取り入れる。
例えば最初は演劇はね、日本にいわゆる現代的な意味での演劇ってのは存在しなかったので、
歌舞伎町で西洋の古典やるとか、そんな試みが色々行われていたわけなんだけど、
いずれにしても翻訳している。
翻訳はどうやってやるかっていうことがやっぱりすごい入念に考えられていた時代があって、
だんだん今AIの翻訳とかが可能になってきて、
シェイクスピアの翻訳と本案
あたかも翻訳って自動でできるものだというふうに思われがちだが、しかし全然そんなことはやはりなくて、
様々に言葉の機微みたいなものがあるはずなんですが、
今ちょっと勉強している福田恒里というシェイクスペアの翻訳者であり、非評価であるそういう人物がいるんですけど、
すごいシェイクスペアの翻訳をとっぴに見える仕方で訳してるんですよ。
日常語っぽくなくて、すごいリズミカルに例えば七五調を使ったりとか、
でもシェイクスペアのもともとの文章もかなりいわゆる詩的言語と言われるようにリズムがあるものだから、
いやいや私としては全然とっぴなことしてるつもりはありませんよと、
これこそがシェイクスペアの精神を体現しているものなんです。
私こそ正しい翻訳なんですよみたいな、そういう考え方をしているわけなんだけど、
でも一般的に見ると本案だなと、翻訳っていうかもうこれは福田恒里の作品だなみたいに思われることが大変多いですね。
本案っていうのかね。
そう、翻訳と本案っていう違いがあって、翻訳っていうのはイメージするように一言一句、畜語訳するみたいなこと、
意訳とかも含むかもしれないけれども、一応文字通り訳すというのが翻訳とされている。
本案というのはある意味ではそれこそ現代に合わせて言葉を変えるとか、
本案にもかなり広さがあって、
議局を現代風に上演するっていうのも本案だし、
例えば、二永幸男とかがね、シェイクスペアの現代版とか、
かなり本当に日本風にアレンジして、これはもう本案作品ですっていう感じで上演するとか。
ちょっとやそっとの言葉を訳したっていうよりかはもう土台とかフレームごと改めてちょっと作り直すじゃないけど、
見直してみるっていうようなことを本案って言うんですよね。
だけど、じゃあ翻訳と本案って質的に違うかっていうと、ちょっとよくわかんなくて、
翻訳ももう大部分本案なんじゃないかみたいな議論があり得るんですね。
ちょっとこれはシェイクスペア研究者の中谷森さんという方から聞いたことなんで、
私が考えたことじゃないけど、でも確かにって思ったんですが、
今まで喋ってきたことがね。
でもなんかまさに忠実にシェイクスペアを翻訳するって言った時に、
絶対ずれざるを得ないから、当人の意図とは。
だし、当時の舞台状況とかとも当然変わってきちゃうから、
たぶんね、ここがまさに中谷さんが言ってたことなんだけど、
福田の意識の中では、完璧に翻訳することが不可能だが、
それでもなおなるべく忠実であろうと翻訳をすることを、
翻訳と俳優の役
彼は試みていたのであって、
だからもうなんだろうな、翻訳と本案がどうあっても本案的でしかあらざるを得ないけれども、
しかし翻訳を目指すっていう、この態度を目指していたんじゃないかっていうのを。
よくわかるなあ、難しいなあ。
でもすごいしっくりくるなあと思いました。
結局じゃあ言語が違わなくても、本当に私たちは同じ視線のすり合わせができてるんだろうか。
仮置きじゃない?この言葉みたいな気持ちにはすごくなって。
仮置きか。
言葉を用いる以上、我々は多分仮置きするしかないんだとは思うんですよね。
でも仮に置くってことは、さっきの春巻みたいに多分重要なことで、
あくまでこれは仮ですよっていうことが前提にされながらの歩みだったら、
まあいいのではないかとは思うんですけど、
でもそれがなんか絶対視されてしまうっていうのはちょっと間違ってそうだなあとは思うけどね。
はい、聞いていただきました。
春巻という戯曲、翻訳本案問題。
完璧は無理だけどそれでもなお。みたいな感じでしたね。
ちょっと春巻という戯曲というのと続けて、
戯曲っていうのがあまり馴染みがない方もいらっしゃるのかなと思うので、
ちょっと軽く説明しておくと、
戯曲は、舞台で観客を前にして俳優が演じる劇的内容、話の筋とか展開を、
登場人物の対話、独白、セリフをおもとし、
演出演技舞台の指定、と書きって言ったりするんですけど、
そういう指定とかを補助的に書き加えて記したもののことを戯曲と呼ぶそうです。
だからそれがそのままイコールじゃないけど、
イメージしやすいのは演劇の台本とか、
なんかこうセリフがあって、それで吐ける。
その時に右側に吐けましょうみたいな、そういう指定も書いてあってっていうものですね。
ちょっと戯曲と台本が一緒かそうじゃないかって、
それはそれでまた大トピックになってしまうので。
なんかでもさ、面白いなって思ったのは、
この戯曲っていう話をチラッと聞いたうちの大学生のアルバイトの子がさ、
戯曲って音楽ですか?って言ってて、かわいいなって思いました。
地面とか、たわむれる戯曲と書いて。
確かに、俺も最初聞いた時音楽だと思ってた。
そっか、そうよな。
だって、これで読み物を想像させる感じじゃないよね。
実際にイベントの時には、戯曲のテキストをお客さんと一緒に見たりする時間もあったけど、
これか、みたいな時間があったりしましたね。
その時のイベントの時にも、舞台は上演、つまり俳優の解釈、
俳優が戯曲に対してしている解釈を見るものなのでは?っていう話とかもすごく出ていましたね。
なんか隠れた言葉って、けんけんさんも言ってたけど、
言わんとしてることを体を使いながらどう体現するかみたいなのを、
まさに翻訳してるのかなって聞いてて思った。
それと、だんだん役の話が続いていって、
第二言語と言葉の解釈
ちょっとその前に、おいしいとデリシャスはイコールではないみたいな話もあり、
イコールじゃないかもしれない。
俳優の役と翻訳の役は共通してるかも。
いやでも多分共通してることはすごくたくさんあって、
だから言語を飛び越えた翻訳であっても、
同じ言語の中での解釈の違いであっても、
多分その完全は無理。
完璧は無理だけど、どう歩み寄ろうとしているかとか、
自分が本当に必死に解釈して一旦出した答えだけど、
それをちゃんと一旦のもの。
収録の中だと仮置きとか言ってたけど、
仮置きということを、
仮置きということとして覚えてられるかというか、
何て言ったらいいんだろう。
それを絶対に自分が考えたこれがパーフェクトだとは思わずに、
仮置きってことを覚えてられるかみたいなことが大事なのかなと思って聞いてました。
さっきの1個目の録音もそうだったけど、
けんけんさんと話すときに、
仮置きって感じで喋るのは僕はすごい好きだなと思うんですよ。
仮置きって感じで喋る?
これで完璧です。ありがとうございました。
みたいな感じで喋るわけじゃなくて、
いつだって反論の余地みたいなのは、
こちらにもいつ提示してもらっても大丈夫だよっていう姿勢で話してくれるっていうか、
そういうところ好きだなって思ったんだよな。
なんか照れくさい話をしますね。
でもそれこそ1個前の音源の方で言ってくれていた、
まだまだ一緒にできることがあるかもしれないから、
物質的に聞こえちゃうかもしれないけど、
言ってくれるっていうのは共通してるよね。
ライブ感があるというか。
ライブ感?これもちょっと深い話になっちゃった。
まだまだ話せると思うんだけど、
もう一つあるので聞いていきたいと思っています。
翻訳とか仮置きとか学びの話が続くんですが、
だんだん話は婚約の話になっていったりします。
それでは早速聞いていただきたいと思います。
それではどうぞ。
お米おいしいが、多分最近わかったんだって。
カルティカさんはね。
それは感動的な事態だね。
自分の中では本当に感動的な、
もう普通の飲み屋だったらしいんだけど、
感動的で、もうファイナリーという気持ちだった。
だけど他の人からしたら、
確かにここのお米おいしいよね、ぐらいだったとは聞いてるんだけど、
それは本人が言うには、
日本語をまず勉強して、
日本に暮らして、
日本のいろんな文化を勉強してきたことが、
たまって蓄積して、経験としてなのかな。
最終的にこれがみんなの言う、
ご飯がおいしいというものなのかもというところには到達したと。
もちろんそれを誰かの体験と比較して、
完全に正しい体験とかっていうことはできない。
何が正しいかなんて分からないから言い切れないけど、
少なからず私は多分それだと思われるものに遭遇したって話を、
カルティカがしている横で、
バルトがずっと怪異的な顔をしてて。
カルティカが日本語でも英語でもバルトに、
私も絶対に分かる日来ないと思ってた。
でも来たから、
多分来ると思うよ。
いつか。
あっっていうタイミングが来ると思うよって言ってたけど、
もうなんか、
そうかなみたいな感じのリアクション。
それはすごいかっこいいなと思って話を聞いていたよ。
カルティカの。
英語とか他の言語もだけど、
勉強すると本当に第二言語でしかないなとか、
自分の解釈でしかないなみたいなことをすごく痛感する瞬間があって、
それでも続けていった先に、
何かしらそういう瞬間が来る。
食べ物の味覚に影響が出るような瞬間が来たりとか、
っていうことがありえるんだって思うと、
なんかすごい。
なんか希望も持てるし、
本当に。
勉強しようって。
そうそうね。
それこそ千葉雅也って哲学者が最近言ってることで、
なんかさっきの借り置きっていう単語も、
彼の使ってるワードに近いなと思うんだけど、
それはさておき、
勉強と演劇の哲学
勉強の哲学って本を書いてるんですが、
そこでまさに勉強とは、
自分をもう根本から組み替えてしまうような、
そういうやばい営みなのであって、
なんかそんな、
最近流行りの言葉だと、
自分をアップデートしていかなきゃいけないっていう言葉ってあると思うんだけど、
わかるのだが、
アップデートって多分そんな簡単に起こんないんですよね。
知識の蓄積とか、
その程度の話じゃなくて、
本当に自分が根本から覆ってしまうような、
それくらい恐ろしいことで、
その覚悟をあって言ってんのかみたいな気持ちになることは、
時々ある。
人生で多分数回あったらすごいなぐらいの、
多分そういうことだと思うんですよね。
でも俳優って、
まさに自分とは全く遠い世界の、
遠い国の話、
時代の話を、
しかし自分事としてやらなきゃいけないみたいなのは、
ある意味では、
そういう絶えざるアップデートみたいなことを、
自分の中に技術的に起こすみたいな、
そういう作業でもあるかもしれないので、
その大変さに付き合っていってるところではあるんですけど。
そんなカルティカが、
それでもまだわからないのが、
婚約ね。
婚約か。
だからやっぱり、
婚約を様々に翻訳していく必要があるわけですよね。
婚約、婚約って、
言い入れてみようだなと思いますが、
いい言葉を作りましたね。
富士講演の富士を。
やっぱりSFって、
そういうところがあるよな。
演劇を勉強していると、
よくよくその、
憑依型みたいな話が出る。
何を示すかというと、
いわゆるこう、
ざっくり言うとね、
考え導き出した先で、
お芝居をしている人というよりは、
憑依型が指すところは、
降りてきている。
役が降りてきている。
そういう人に。
聞いたことある。
単純に上演中に、
自我を失うじゃないけど、
本当にその人になっちゃってて、
記憶ありませんみたいな、
極端な場合は。
っていうことを良しとする、
演技論というのが存在する。
自分が真面目にお芝居をしてみようとか、
演劇をしてみようと思えば思うほど、
そんな状況ある、
みたいな気持ちになっていたんですよ。
高校の時。
その人が役を演じるというよりかは、
その人が役を演じさせられる。
まあそうね。
どっちかというと感覚はそれが近くて、
その人を通じて役が権限するみたいな。
権限。
そういう演劇だったり、
そういう演技プラン、
そういう演劇のスタイルだったり、
それを良しとするところに、
なんだかなというふうに思っていたんだが、
必ずそこで言われているような、
降りてくるだったり、
自我の喪失ではないまでも、
肩から見たらそれに近い、
共感とか、
要はその感覚までその、
技曲のものになるみたいなことが、
あり得るのかもとかも思ったんですよ。
これが今、
私があと5年くらいかけて、
ちょっと書いていきたいと思っている、
事柄なので、
そうなんですみたいなことは、
ちょっと言えないんだけど、
しかしそれに類する事象は、
儀礼的にはいっぱいあって、
例えばイタコとかも下ろすものだし、
お祭りのね、
シシマイとか、
何でもいいけど、
踊り狂う系のやつは、
単純に激しく踊っていると、
疲れてよく分からなくなってくる、
みたいなこととか、
いろんな理由があって、
本当に降りてきちゃう、
みたいなことって、
よくあるっていうか、
あり得ない話じゃないんですよね。
ただこれを降りてくると表現するか、
みたいなことはあると思うんだけど、
でもやっぱり降りてきやすい状態を、
作る技術はどうやらあるっぽくて、
それこそ単純に体を疲れさせるとか、
あるいは例えば瞑想とかも、
かなりそれに近くて、
じゃあまず目をつぶってください、
じゃあ次はこうして、こうして、
体をリラックスして、
あれもある意味では、
どっか飛んじゃう技術、
言葉によって少しずつ導かれていって、
そういうところに行き着く。
これもちろん危うさもあって、
つまり危うい集団。
何かにすごく没頭してる状態ですね。
危うい集団の洗脳にも使われかねないから、
演劇とそういうものって、
すごく表裏みたいなところがあって、
ゆえに危険だけど、
ゆえに考えることが面白いっていう。
カルティカの話にちょっと帰ってくるっていうね、
翻訳の重要性と難しさ
翻訳の話だよね、これ。
カルティカの話が翻訳の話かっていうと、
またちょっと、
いやでも、
コンニャクの美味しさをどういう風に、
コンニャク、コンニャク。
分かるというか、
どうやったら分かる、
もしカルちゃんが分かりたいって思うんだったら、
どうやったら分かるか、
そこに近づけるかっていうと、
まだそれは分からないけど、
さっきの話の表音の話とかは、
ちょっと面白かったなと思って、
多分俳優さんって、
自分の中にない感覚を、
演じなきゃいけない瞬間があって、
それは台本とか、
劇局って形で外側から、
それを下ろして演じ、
っていうことによって、
それがだんだん分かるようになっていったりするんですか?
これどうなんですか?
いや、これは。
例えばこれカルちゃんが、
コンニャクがすっごい美味しいと思っている人の
劇局がもし存在するとしたら、
それを招くというか、
それを演じよう演じようとしていくうちに、
そうなっていったりするんですか?
多分すごい本質的な問いで、
そもそも美味しいっていう言葉の感覚が、
多分共有できていない場合に、
美味しい美味しいってただ表面的に言うことが、
本当にコンニャクの美味しさに通ずるかというと、
いやどうなんだろうって今思いました。
なので全然分かんないけど、
一応はでもやっぱり型を反復することによって、
分かってくることがある。
繰り返してやっていけば、
何か分かってくることがあるっていうのは、
日常的にもすごいあると思うんだよね。
とりあえずもう理屈いいから、
まず繰り返してみたいな。
それを繰り返しているうちは、
なんでこんなめんどくさいことをやらせるんだよって思うけど、
繰り返した後に、
ああ確かに分かるようになるみたいな、
分かんない感じの練習とか何なのか分かんないけど、
なんか最初にビールの話をしてたじゃないですか、
全然それこそ飲めるようになった直後とか、
全然分からなかったと。
ただなんかその身近に飲んでいる人がいたりとか、
なんか憧れたりとかっていう気持ちがあって、
それをその振る舞いを真似しているうちに、
これがのど越しっぽいっていうところまで来たみたいな感じも。
それはもしかしたら反復と呼べたり、
真似をするって、
演技をするみたいなことに近かったりするのかなとか。
真似とか学ぶの元だったりとか。
まあそうね。
ある種の感染みたいなね。
感染。感染ってゾンビとかの。
ゾンビ?
ウイルスとかの感染。
に近いことがあるのかもしれないけど、
そうね、隣の人の身振りがそのまま自分にも。
でも、やっぱ体の動かし方とかだったら、
真似るとか感染っていうのがすごい分かるけど、
味覚とかまで本当にそうか?みたいな気持ちも、
なくはないんだけど。
美味しさと感染
でもビールとかはね、実際そういうことがあるから。
あるいは僕はやらないけどタバコとかもそういうのがあるかもしれないし。
僕多分タバコ吸うしビールも飲むんですけど、
でも言われて思ったんですけど、
僕もしかしたら他の人が美味しいと言ってるタバコを
美味しそうに吸っている、真似をしているだけなのかもしれないと思ったり。
今?
今。
ビールも本当に美味しいって思ってるかって言われると、
ちょっと怪しいかもって今思い出してきた。
私も、というのはこんにゃくが、
私は例えばおでんとかだと一番好きなんだけど、
しかし、本当かと。
だからね、分からなくなってると言うというか。
はい、聞いていただきました。
学びのヤバさ。こんにゃくと、そもそも美味しいって何?
こんな感じかな?
学びがヤバい営みなのかもしれないです。
こんにゃくの話になったのは、放課後グルグルラジオの中で、
お米の美味しさは分かったと思ったカルティカさんが、
それでもまだなお不思議に思っている対象がこんにゃくで、
美味しい食べ方とか考え方を教えてくださいって言ってた。
こんにゃくはね、作るプロセスとかをカルティカ本人も調べて、
調べた結果、すごい手間暇かけてるけど、
リワード少なくない?みたいな。
という風に感じたと聞いております。
いやー、面白かったね。
なんか表裏型の話になった時、
もしかしたら私が急に演劇を勉強してると言い出したので、
ちょっと突飛だったかもしれないんですけど、
高校時代の演劇部の思い出
さっきケンケンさん、渡辺健一郎さんは私の高校の先輩って言ったんですけど、
高校の演劇部、厳密には演劇部って名前じゃなかったんですけど、
演劇部の先輩なんですね。
ケイナちゃんも演劇部だった?
そう、私も演劇部だったり、
単位制で1年生と3年生が一緒の授業とか取れるような学校だったので、
同じ演劇の授業を取ってたりしたんですよ。
だからさっき劇局の説明がスルスル言えたんだな。
いや、あれは調べたから。
だからちょっとだけ劇局がなんだろうっていうのを把握してたりとか、
勉強してたみたいなことを言ってるのはその辺があったりします。
山岡さんはタバコをわからず吸っている可能性があるっていう。
いや、そう。
さっきアップデートってそんな良いものっていうか、
めったに起こることじゃないし、変わっちゃう。
別人になっちゃうみたいなね。
怖いことでもありそうだなって思ったし、
でもそのきっかけみたいなのは、
まず自分がこれまで立ってたところを疑ったりとか、
振り返ったりするところから始まったりするのかなと思って、
タバコの味わいについて
あれ?これさっき話しながらさ、
さっき言っても7月の6日なんですけど、
6日のことさっきって言ってるんだ。
さっき聞いたから。
7月の6日に話してる最中に、
あれ?みたいな。
俺ってタバコ本当に美味しいと思ってるかなって言うと、
気づかされた瞬間があって。
収録中に気づいたんだね。
だからあの時からタバコって本当に美味しいかなって思いながら吸ってる。
本数変わったりした?
全然。変わってはない。
変わってはないけど、
それを疑ったりするようになったな。
でもさっきこんにゃくが本当に美味しいかどうか分かんないとか、
あとコンビネーションで美味しさがあるのかもみたいな話も出てたけど、
こんにゃくこんにゃくこんにゃくの3番目のこんにゃくが美味しいかというと、
他のいろんなおでんを食べてから食べるこんにゃくが美味しいのであって、
そろっちゃうと話が変わってくるかもしれないとか、
食感が変わったり口の中の感じが変わったりするのを美味しいって思ってるのかもみたいなのが出てきたんだけど、
私は全然タバコを吸わないので、
山岡さんだけが言ってるわけじゃないけど、
よくタバコを吸う人が冬のタバコがいいんだよみたいな話をすると、
それは本当にタバコを楽しんでるのかみたいなちょっと怪異的な気持ちもあった。
冬の冷たいキンとしたところに火をちょっと持って立ってるっていう状況がもうすでによくて、
タバコはあんま関係なくないとかって思ったりしてたんだけど、
でもそれも含めて味とか美味しいって呼ぶのかもとか思ったりもしました。
順番とか考えると。
冬のタバコは吸うときに息が冷たくて、冬の空気いっぱい吸えて美味しいっていう感じがあったから、
あんまタバコと関係ないのか。でも本当にきっかけなのかもね。
でもそのきっかけも美味しいの中に含めるかどうかみたいなこととかなのかなって思ったりしました。
37:30

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