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2020-07-27 30:34

第三回「自分たちの臭さや汚さとうまく付き合っていきたい」

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デジタルリトルプレス『poïétique』配信中。

D2021 を聴いて思ったこと/友達が多そうな音声配信、友達がいなさそうなラジオ/体臭や体液へのスタンス──衛生や防犯、治安というものへの欲望の危うさ/「正しさ」よりも大事なこと、面白いこと、いいことがたくさんある/声の不完全さとその意義

今週の一冊: 藤原辰史『分解の哲学』(青土社)

お便りも募集しています。

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こんにちは、ポイエティークRADIOです。この番組は、「とにかく自分でやってみよう!」をもとに、家の中にあるものだけで取材をし、
家の中で一人で制作するデジタルリトルプレス、ポイエティークを作っている、私、柿内正午が、その雑誌のコンセプトをそのままに、とにかく自分でやってみようという思いつきだけで始めた音声配信になります。
前回までも、適当に何も考えずに喋り出して、そのままの流れで、その時読んでいる本の話だったり、見ている映画の話みたいなことを、ダラダラ喋るスタイルでやってきたんですけど、
もしかしたら、最初に前置きなしで本題に入ってしまうみたいな方が、聞く側としても楽ちんなんじゃないのかなという気もしてきていますが、かといって本題というものは特にないので、
いい感じの塩梅を探っていきつつ、始まってすぐにサビが来るみたいな、ユーザーフレンドリーなポッドキャストに徐々にしていけたらいいなというようなことを考えています。
前回の配信は音質にそんなにこだわらなくてもいいんじゃないかという話を、めちゃくちゃ音質の悪い環境で録音したものをそのままに出してしまったので、今回はもう少しだけ聞きやすいように工夫できたらなと思い、
ヨドバシカメラで1000円しない、めちゃくちゃ安い、Amazonのレビューとか見ると星1以外ほとんどついていないようなマイクを一度買ってみて、そのマイク経由で録音を始めてみています。
もしこれで前の方がマシだということであれば、やっぱりマイクというのは安いものを買ってもしょうがないから高いのを買えるようになるまではないぞマイクで何とかしていくしかないなみたいなことで諦めがつくので、今回のこのしゃべりがどの程度聞きやすいものとしてあるのかというのがすごい楽しみであります。
特にこの自分一人でしゃべりながら一番思うのは、一人で特に相手もいない、合図値を打ってくれる相手もいない中でしゃべるというのがすごくどもりやすい、もしくは吸うと息を吸うような音というのがすごい入りやすいなということを感じていて、
僕は普段からそんなに、なんだろうな、息の吸い込む音であるとか、もしくは滑舌こんなに悪かったっけみたいなことであるとか、声を使ってのパフォーマンスってもうちょっとちゃんとしてたんじゃないかなみたいなことを自己認識としてはあったんですけど、
多分それって相手がいるからこそうまくいっていたことであって、ただ一人でしゃべるというその自閉した行為として声を使うというのはすごい難しいことで、普段の声の運用とはまた別の難しさというのがあるんだなというのを2回配信をやってみてすごい思ったんですけれども、
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ひたすらにどもる、ひたすらにしゃべりにくい、ひたすらに噛む、ひたすらに滑舌が悪いというのは文字だと、文字というのはもともとどちらかというと自閉した上でどう開いていくかという道具なので、特にそこにどもりであったりではなくて、むしろ一人であるからこその饒舌さというのがすごいわかりやすく出てくるんですけれども、
声に対してしゃべるというか、声という道具についてはどちらかというと発信というよりも、音の道具だというところのほうがすごい強いのかなと思っていて、一人でただしゃべるというのはすごいそれだけで難しいことだなというのを思うんですけれども、
今こうやってマイクに向かってしゃべっていると前回よりは調子よく声の運用というのをやっていけている気がしていて、これって多分マイクがある種の他者であるからなんですよね。
ただマイクというものは特に別に僕に対して何か応答はしてくれないですけど、僕が一人でこうやってぶつくさしゃべるということを何かしらのある程度の肯定をしてくれる道具としてあるというか、タモリが持っているモフモフしたマイクって実はスイッチ入っていなくて、タモリの声自体はピンマイクで拾っている。
じゃあなんでマイクをタモリが持っているかというと、持っていたほうが落ち着くからだみたいなことを有名なエピソードとしてどこかで読んだ気がしますけれども、多分そういうことで一人語りを許せる体の型というか、自分は一人でしゃべってもこれの場合は大丈夫みたいな姿勢みたいなものがあって、多分それをマイクというものが助長してくれるんだろうなと思うと。
このめちゃくちゃ安物の、めちゃくちゃ軽いんですけど、200gぐらいしかないんじゃないかというぐらいのスカスカのマイクに向かってしゃべるという体の形っていうのはある意味必要なことというか、こうやって一人でしゃべるという不自然さを少しでも和らげてくれるような道具としては優秀なので、音質としてはAmazonレビュー1かもしれないですけど、
このような形で自分のしゃべりやすさを助長してくれるというか、一人語りのアフォーダンスというものをマイクが持っているというのは、一人でこうやって配信を続けていこうとなったときには不可欠なものだなと思うので、早いところいいマイクが買えるようにしたいなと思いつつ、今はこうやって一人でしゃべっています。
今週は、今週というかもう先週なのかな、先週末、Dっていうアジアン・カンフージェネレーションのゴッチさんとマルクス研究者の斉藤光平さんのお二人がこれから定期的にやっていくとしている、得体の知れないフェスDというものにまつわる配信、台場の配信みたいなことをYouTubeでやっていたのを見てたんですけれども、
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フェスの運営のメンバーとマルクス研究者の斉藤光平さんと、今回はゲストで歴史研究家の藤原達史さんという方が8人くらいだったかな、もうちょっと少なかった、6人くらいで哲学対話みたいなことを繰り広げるという番組で見ていて、
僕は割と斉藤光平さんの大洪水の前にという本であったりとか、藤原達史さんのナチスのギッチンという本がすごい好きで面白いなと思いながら読んでいたので、内容としては知っている内容というかが多かったんですけれども、やっぱり文字として読むものと言葉として誰かに向かってしゃべっているものとして聞くものというのは全然違うことだなというのを見ていて感じたのが面白いなと思っていて、
特にこうやって声にすると資本主義というものであったりとか、ナチズムみたいなことを、もしくは文化への哲学みたいなことをしゃべっていくにあたって、なんとなく気恥かしさというか、何をしゃべっているんだろう、何こむずかしいことをしゃべっているんだろうというような伝わらないかもしれないという恐れというのが文字以上に強いなと思っていて、
文字というのは読んだ人が全員わかるということを特に前提としていないで、読んだ人の中でわかる人がいればいいというようなスタンスが許される道具だと思うんですけれども、声の場合は具体的に目の前に他者がいるので、
例えばそこの運営メンバーだったりというところでも、その資本主義というものについて素朴に自分でお金を稼いでものを買えるというところに自由を感じるから、資本主義というものが自由を阻害しているというのがいまいちピンとこないみたいな発言があったりして、
こういうそもそもの部分、資本主義というものって息苦しいよねという前提からマルクスの話を始める、フルスロットルで始めていくというのではなくて、そもそもの前提としているその感覚自体がもしかしたら一つの疑問であったりとか、何かしらその構造的に強いられている価値観かもしれないよみたいなところから話が始まっていくというのは、
具体的な他人に向かって声を使ってしゃべるということの一つの効能だなと思いながら聞いていたんですけれど、なのでそうやって誰かと一緒にしゃべりながら配信ができるというのはすごい羨ましいことだなというか、
自分の文字情報専攻でブッキッシュに凝り固まった考え方というのを一度その日常会話のレベルの語彙に置き換えていく作業というのはすごい重要なことだなというのを感じていたんですけれど、
僕もちょっと今回はこのポッドキャストに関しては一人でしゃべるというところなのでどこまでそれができるかわからないですけれど、なるべく生活実感そのままに小難しい本を読んだその瞬間ですごい万能感というか、
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世界の大体がわかったぞみたいな気持ちになりがちなんですけれど、こうやって声にすることで全然わかってなかったなというか、全然それを生活の中に落とし込んでいくには理解がすごい浅いところにあったなというか、文字としてしか理解していなかったなみたいなことに気づけるっていういい機会になるかなと改めて見ていて思ったんですけれど、
こういうネット配信って基本友達が多そうな人たちがやっているなっていうすごい偏見があって、僕がもともとラジオ聴き始めたのって中学生の頃とかだったんですけれど、めちゃくちゃ友達がいなかった時期に夜寝れない時とかに、
もしかしたら薄々裏サイトとかが流行っていた時期に、10代の前半を過ごしていたので、多くの人たちが各々のホームページに足跡を残したりとか、掲示板で何か喋っていたりとか、あと僕はミクシーもやれなかったんですけれど、おそらく僕が買ってもらえなかった携帯電話を使ってミクシーで何かしらコミュニケーションを取っているんじゃないかみたいなことをぼんやりと感じつつも、
そもそもそんなことをやる相手もおらず、そしてウェブ上で見知らぬ人とコミュニケーションする時は特になく、ただほぼほぼ自閉しながらもかろうじて外界とつながっているものとしてラジオというものがあったなと思っていて、第1回でお話ししたブックオフもそうなんですけれども、ラジオって基本的に友達のいない人の見方みたいなところがあるなと思っていて、
僕はすごい音声における一方的な配信というものが、一方的でありながらもどこかが、自閉しているからこそ持てる親しみみたいなものがどこかにあるだろうと思っていて、それってやっぱり元々のラジオの原体験として、これは友達がいない人たちの見方なんだなというような思いがあったからだなということを思っていて、
なのでそのYouTubeであったりとか、最近の音声配信って大体対談形式のものが多いんですけれども、その対談であることの意義っていうのはさっき言ったようにすごく大きいんですけれども、僕としてはやっぱりなんだろうな、こういう心細さであったりとか、何かしらそのうまくいかなさみたいなものを感じやすい時期だからこそ、
あまり友達がいないというか、人と会いたくないような時にでも安心して聞けるようなものとして、これを喋っていけたら一番いいんじゃないのかなみたいなことを見ながら考えていたので、対話というものの尊さをないがしろにはしないけれどもとはいえ、なるべく一人でブツブツ喋っているっていうスタンス自体はあまり変えないままに続けていけたらいいんじゃないのかなみたいなことを今は考えています。
とはいえ、Dっていう対談の配信がありと面白かったので、ちょうど手元に藤原さんの分解の哲学という本があったので、面白そうだからちょっとこれ読んでみようと思って、今週はそれをずっと読んでいたんですけれども、これはすごい良い本でですね。
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もともと副題が腐敗と発酵を巡る思考というふうにあるんですけれども、生産と消費というものだけに寄っている社会システムというものには、物を分解する、例えば食べて消化をして排泄するであるとか、
そういった何かしら物を分解した状態でまた土に返していくというような対差の機能というものが、あまり発想の拉致外にあったんじゃないのかというところからお話は始まっていくんですけれども、これはそれこそリーンの主催者の一人でもある斉藤光平さんの大洪水の前においても共通する問題意識なんですけれども、
要するにただ作って消費するというだけじゃなくて、実際にそのものが壊れるであるとか、壊れたときに作ろうであるとか、実際に調子が悪くなったものを一旦分解してみて自分で組み立て直してみるであるとか、
そしてその分解と再構築みたいなところを考えずに、これを食べて排泄をしてというところを生物学で対差と言いますけれども、自然と人間との間にも対差の関係というのは実態にあるはずで、物質対差の関係というものが健全に機能していない状態というのが今なんじゃないかというようなことを問題としながら書いていっているんですけれども、
僕が読んでいて直接その内容に関わるところというよりは読みながらずっと考えていたので、それこそさっきお話ししたような友達がいない人のためにラジオはあるんじゃないか問題であるとか、あとは第1回にお話ししたブックオフの良さみたいなところともかなり通ずるものがあるなというか、
分解というときに言われている腐敗だったり発酵というのは、要するに微生物が食べ物であったりとか動物の死骸というものを食べて排泄をしてというような形で分解していく過程のことを腐敗であったり発酵だったりと呼ぶわけですけれども、
これって要するに生肉であったりとかゴミであったりとか動物というものを腐らせていく過程って動物の体液であったりとか汚物であったりとか、とにかく臭いもの汚いものというのがどうしたって出てくる過程なんですよね、分解って。
その分解を担う人たちというのは、例えば屠殺業者さんだったりとかゴミ拾いをするような人たち、清掃業者だったりも含めてどちらかというと差別的な扱いをずっと受けてきているというようなところが1つのテーマとしてなっているんですけれども、
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これって雨の日のブックオフのインクと汗と水臭い匂いが混ぜ一体となった体型さみたいなものに対する問題と似ているところがあって、一言でまとめるならば体液をどう受け入れるかという問題なんだなというのをすごく感じていて、
これはすごい今外に出るとき、人と喋るときはマスクをしなきゃいけないというようなこの状況の中でより一層アクシュアルになってきているなと思うんですけれども、唾であったりとかそれこそうんちであったりとか汗みたいなものをどうしたって生き物である限りないことにはできないんですけれども、
それをなるべくないものとしてシステムの中で1つのノイズであったりとかエラーとして扱うしかないような新品でピカピカであること、若くて健康であることというところに何よりの価値を置く社会システム、ないしはその文化というものは、
人間の体液、人間の汚さ、生きている上では避けては通れないその排泄物やゴミ、においみたいなものに対して、絶対になくせないものにもかかわらずなくしたいみたいな欲望からどうしたって自由にいられないというところにすごい難しさというか問題、欠陥があるんじゃないのかみたいなことをずっと考えていて、
特に今年の2月以降って衛生観念みたいなものがものすごい言われやすくなってきているというところがありますけれども、
もともと911以降の対テロ対策であったりとか、あとは僕が小学生の頃とかだと、お隣の人は中核派かもしれません、どうぞ通報のほうでよろしくお願いしますみたいなポスターとかもありましたけど、
衛生観念というものと防犯みたいなもの、一言でまとめてしまえば治安というものはすごい管理の大義名分というか、全体主義的な統率のためのお正当化するための大義名分としてものすごい優秀というか、
それは誰もがきれいで清潔で安心安全な方がいいに決まっているというようなところから、なので皆さん何でもかんでも我慢しましょう。
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なので皆さん隣の人に対して安易には信頼しないようにしましょうというような息苦しさをつくるための一つのスローガンとして、この衛生・内市・防犯、取りまとめて言うならば治安というものがずっと機能してきたという長い歴史があって、
先ほど言ったような文化の哲学における社会の分解者たち、掃除のおじさんであったりとか、クズ拾いを行う人たち、盗撮者という人たちは基本的に非差別的な、非差別民として社会の周辺で生きていかざるを得ないような構造というのがずっとあるわけですけれども、
特に今この状況というのは常に清潔感がなければいけないし、ちょっとでも怪しいような振る舞いをする人たちはすぐに捕まえてもいいという極端なことを言っていますけれども、
そういうような治安に対するみんなの、ここで言うみんなというのはざっくりとしたみんなの必要というか需要みたいなのが高まってきたときって、よりそこの社会というものの生きづらさというものが冗長されるようなきっかけにもなりやすい時期なので、
すごいそれは気をつけたほうがいいというか、ブックオフの臭さというものを臭いからといってもっときれいにしようであるとか、もしくはブックオフに退去して押し寄せるセドラーと言われるような、今だと転売屋と言われるような人たちを完全に排除してしまうことが、
果たして本当に一つのアジール、一つの避難所としてのブックオフというものを損なってしまった原因ではなかったのだろうかというような、転売屋、汗臭さというものを受け入れないようになったクリーンなブックオフというのは、果たして誰のためにあるんだろうかみたいなことをどうしても考えざるを得ないような気がしていて、
なので、とにかく衛生管理を徹底しましょう、防犯を徹底しましょうというような考え方に関しては、ある程度はもちろん大事なことなんですけれども、
それが自分以外の他者に対して言うことを聞かせようというか、自分以外の他人というものを自分の思い通りに動かせたいという欲望とつながっていかないかどうかということに関しては、かなり気をつけて考えた方がいいだろうなというようなことをすごい最近は感じていて、
人と接するということは、どうあがいたって何かしらのその相手の汚いもの、それは具体的な体液の交換みたいなところもそうですし、もしくは相手の機嫌の悪さみたいなところもそうだと思うんですけれども、
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相手の何かしらの汚さ、相手の何かしらの面倒くささというものを何一つ受け入れないままにやり取りができるような他人との関係なんていうのはありえないはずなので、そこでその完璧にクリーンなもの、完璧に正しいものというものに対する欲望というのは、
もし自分の中にあるなと気づいたときには、一旦ちゃんと警戒をした方がいいなというようなことをすごい考えていて、その考えが文化の哲学を読みながらより一層解像度が上がって、やっぱり警戒しないといけないような気をつけながら、
正しいことよりも大事なことであったりとか、正しいことよりも面白いこと、正しいことよりもいいことというのはたくさんあるよなということをもう一回考え直さなきゃいけないなというようなことを思わされる良い本でした。
ここでその、もちろん正しさというものがなくてもいいじゃないかというのは、露悪的なところに行ってしまうのは全くありえない話で、正しさというものが他者の尊重であったりとか、自分でないものに対する敬意を払うための前提条件、最低限の振る舞いであるということを意味するうちには、
それはきちんと主張されるべきというか、常に大事にされるべき価値観だと思うんですけれども、ある種の正しさというものが、むしろ他人への敬意であったりとか、他者というのはそもそもわからないものであって、わからないからこそ、共感できないからこそ不可侵なものというか、決して触ってはいけないものというか、
自分の思い通りになるものとは思ってはいけないというか、自分のコントロールの拉致害にあるものだからこそ、敬意を払い大事にしなきゃいけないんだというような思いを損ねる機能として、その正しさというものが存在してしまう瞬間って簡単にくると思っていて、その瞬間には正しさというものの外に出ていくということを、出ていく勇気というか、出ていく毅然とした態度というものを持っているべきだなと。
思っていて、これってすごい難しいことというか、正しさというものをある程度まで突き詰めていくと、それが抑圧になり得るって、すごい難しい話のような気がしてしまうんですけれども、あまり実はこれってそんなに難しい話ではないと思っていて、要するに規模の話だと思うんですよね。
一つの正しさというものを一般に通用する概念として大きく通称化して、いわゆるでかい主語で語ってしまったら、その瞬間にその正しさというのは抑圧の装置としかならないと思っていて、もっと個別具体的な、目の前の人に対して自分でどう接したいんだっけというところをベースに考えていくしかないんだよなということを思っていて。
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大きな主語で見たときの振る舞いにおける正しさというのは割と本当に最低限というか、あんまりこれが正しいみたいなことは考えないほうがよくて、自分の目の前にいる具体的な他者に対しての振る舞いというものにおいて初めて自分たちなりの正しさというか、
正しさから逸脱することも含めての面白さみたいなものを追求する余地があるはずで、その仲間うちの逸脱したノリというものをまるでさも一般概念家のように、ある種の他者に関してはその敬意を払わなくてもいいんだであるとか、
そういうふうに思っているときに、自分たちに対しての振る舞いにおける正しさについて考えながら、その振る舞いにおける正しさについて考えながら、自分たちに対しての振る舞いにおける正しさについて考えながら、
困難を伴うものであるというか、難しさをどうしたって内包してしまうものになってしまうだろうなというようなことをすごい考えていて、なので、
初めになるべく友達の少なそうな人たちに向けてというようなことをしゃべった下の根も乾かぬうちにではあるんですけれども、
やっぱり何よりもまずは目の前に他人がいる。その他人に対して自分はどういう振る舞いをしたいだろうかということを具体的に考えられないうちには、
一般論として社会であるとか、ある属性を持った個人たちというものについて語ったりとか断じたりしたりするということはしちゃいけないだろうというふうに思っていて、
なので、友達の少ないことに無自覚なままというか、
ただ自閉した中で肥大していく自分なりのスタンダードみたいなものをあまり正しさだとして過信すぎるのはよくないだろうなみたいなことをすごい感じていて、
一つのそれを増長させる道具として文字であったりとか文字主体のコミュニケーションとしてのSNSというのはあるだろうみたいなことは、
耳に蛸ができるほどいろんな人が言っていますけど、
多分僕はそういうところに一つ抗う手段として、自分の声を使って自分の声でああだこうだ喋ってみる。
27:05
30分一人で喋っているとだいたい頭に喋っていたことと矛盾が出てきたりとかずっと同じ話をループしたりということが往々にして起こりがちですけれども、
そういった体のぶれであったりとか体のままならなさみたいなもの、
ないしは自分の頭の悪さであったり滑舌の悪さであったり、
そういう大したことなさも含めて全能化に陥ることなしに何か考えを外に放り出してみるということをやりたくてこのポッドキャストを始めているんだろうなということを改めて今しゃべりながら思いついたんですけれども、
文字より一層他者への配慮というものだったりとか、より遠くの他者への配慮というものはしづらくなってしまう。
今この体の中から出てくる、今この瞬間に出てくる言葉しか出てこなくなってしまうというところは声のリスクでもあるし、
これを聞くことでどういうところに届いていくのかというのが文字以上に自分ではコントロールできないものがあるなというのはすごい感じるんですけれども、
だからその大したことなさであったりとか正しくなさみたいなものも含めて一旦声に出してみる、一旦言葉に出してみるというところから、
スクリーン越しではない、ないしはちょっと皮肉になっちゃうんですけど、こういったイヤホン越しではないような具体的な他者との関係というものをもっといいものにしていくにはどうすればいいだろうかということを考える練習としても、
こういった形で一人でしゃべってみるというのはもしかしたら有効なのかもしれないなというようなことを期待しながら今週も配信してみました。
なので僕はほぼツイッターの自分のツイッターでつぶやく時のような気持ちでこの配信を作っていますが、
声の場合って聞きたくなくなったらすぐに消せばいいだけのものなので、その上で個人のブレであったりとか文字以上の何かしらの情報になる前の気配みたいなものも含めて、
パッケージできるんじゃないかというような思いがすごいあるので、今ツイッターにいるような人たちもみんなこう音声配信を始めてくれたら僕はもうさっさとツイッターから足を洗えるのになみたいな妄想もしたりしなかったりしています。
本当はちょっと今日他のいろんな話もしたかったんですけど、マイクのおかげですかね、あっという間に30分経ちてしまったので、今週はこの辺で終わりにしたいと思います。
それではまた来週お会いできたら嬉しいです。
30:02
ぽいえていくラジオ、柿内翔吾でした。
30:34

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