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  2. 第百八十五回 評するという行..
2024-01-15 1:11:52

第百八十五回 評するという行為が背負うやだみ

文芸時評やるよ!なんかえらそうだね!

https://akamimi.substack.com/p/edf

00:29
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と奥さんです。どうぞよろしくお願いします。
というわけでですね、今、沖縄では絶賛開催中です。
あ、そっか。
はい、ルチャリブロ&柿内正午フェア。
こちらは、もう1月の12日から始まっておりまして、
2月の7日の水曜日まで、沖縄の浦間市の本と、秋内アルヒさんでフェアをやってもらってまして、
このルチャリブロのね、青木新平さんと、青木みやこさんと、柿内正午さん。
あ、これの言い方だとルチャリブロに入っちゃった。
ルチャリブロの青木新平さんと、青木みやこさん。
そして、私、柿内正午の本が沢山並んでいるというフェアが開催されておりますので、
ぜひね、この2月までの間に沖縄に遊びに行って、アルヒさんで本を買ってみてくださいと。
この対象書籍を購入の方にはね、この3人が書いた原稿が持っている特製冊子がもらえるそうですので、
この冊子、多分、総文字数1万字を超えているかなり豪華な冊子になっておりまして、
私が書いたエッセイも、今の現時点での最新作、そしてつまり、最高傑作というものになっておりますので、
ぜひね、チェックしていただけたらなと思います。
こんなにね、気軽にアクセスできない冊子もなかなかないと思いますので、
めっちゃ気合い入れて書きました。
めっちゃ気合い入れて、めっちゃおもろいの書くぞという気持ちで書きましたので、おすすめです。
沖縄で見てくれるといいなという感じ。
でも沖縄がアクセスしにくいというのは…
我々にとってだからね、別にね。
1月20日、これが配信される週末の土曜日には、ある日の小さな読書会というのが行われておりまして、
ここの読書会に行きますので、
テーマは優しさということでね、この優しさをテーマに本を持ち寄って、
03:00
その本について語り合うという読書会になっておりますので、
よかったらね、来てください。
これ読書会に参加しない人はさ、
お店に入っていいのかな。
私特に参加するつもりないんだけどさ、
私以外はさ、みんなナビゲーターなんだね。
あ、そうそうそう。
知らなかった。
そうだね、あなたどうしようね。
でも別にそんな時間、何するのあなた。
いやだから、別に読書会には参加したくないけど、見たいから、
それは参加しなきゃダメ。
隅っこで座っててもいいのかなって思って。
あ、じゃあ僕、逃げ回りでね。
逃げ回り。
うん。
どういうこと。
なんか、この辺から顔が出てて、
なんかあなたの敵。
あなたが見、私が見、何でもない。
うん。
まあそういう、なんかその辺はちょっとまあ相談しましょうか。
はい。
という感じでね、行きますんで。
はい。
楽しみだなと。
うん。
いう感じですよ。
うん、優しさ。
おテーマにね。
優しさ。
はい。優しさだよ。
これもともとさ、これさ、マスコさんも来れるってことでさ、
あの、ルーティアリーブルのお二人、プラス僕になったけどさ、
もともとあきさんと、あの、二人の予定だったからさ、
最初に打ち合わせした時は、だからマスコさんいなかったんだけども、
優しさっていうテーマを受けた途端に、二人ともキョトンって言ってたんだよな。
だから、どんなことになるのやらっていうね、のもちょっと楽しみというところで、
楽しみだなという感じでございますが、
なんでこれはお知らせのコーナーでした。
で、もう一つお知らせがありまして、
1月の12日金曜日に発売の週刊読書人というね、
これは毎週金曜日に発行されている書評がたくさん載っている、
あの、なんていうの、業界誌?
でも、業界誌、読書人のための、
あの新聞にさ書評欄ってあるじゃない、
あの書評欄だけがたくさん載ってるみたいな新聞があってね、
この新聞にね、あの、載ってますよ。
私が。
映画辞書も載ってるんだ。
あ、そうそうそうそう。
なんかその、なんか結構その、第何曜日とかでさ、結構いろいろあるみたいなんだけど、
これは映画辞書と、あと論断辞書も載ってるんですよね。
月に一回。論断辞書っていうのは、あの、論断の辞書ね。
うーん、それ。
えーっとね、なんていうのかな、
だからその、あの、論考とかさ、
06:01
あとあの、岩波が世界っていう歌詞出してるんだけど、
まあそれなんていうの?
あのー、なんていうの?
だから、あの、僕、そう僕がまずやってる話をすると、
僕は文芸辞書っていうのをね、やらせていただいてまして、
あのー、
今年1年ね。
1年ね、その文芸辞を読みながら、いろいろと考えますよって。
で、これがこの論調っていうのがその論断辞表ってやつね。
で、こっちはだからその、なんていうの、朝日新聞のなんか、なんていうのかな、
新聞、現代思想とかさ、思想とか、世界とか、まあそういうそのこう、いわゆる論断よね。
うーん。
なんか、世界についていろいろ考えるタイプのさ、文章とかいろいろあるじゃない?
で、そういうのを読んで、あのー、やるみたいな。
それこそ僕が出色している三田宗介なんかもやってた仕事ですよね。
っていうのが、あのー、
もう載ってたりするんだけど、まあその中の文芸辞表っていうのをやらせてもらってて、
こっちはだから、論断ではなく文談。
まあ文談なんていうのが今あるのかっていうね、話に踏み込むだけですごい時間かかっちゃいますけど、
まあ文芸辞表っていうところで、あのー、
お世話になってる文化深いであったりね。
あとは文芸、すばる、しんちょう、ぐんぞう。
まああとはなんか、あのー、
タイミングによったらね、トリッパーとかね、スピンとかね、言葉ととかね、
まあいろいろ文芸詞出てますけども、
まあそのあたりに掲載されている小説を読みながら、
まあそれについていろいろくっちゃベルツー、
お仕事をね、いただきまして、
まあ今年一年はそれをやっていくんですけど、
それが月に1回この週刊読書人に載るよということで、
だいたい最初の金曜日かな、
今回は1月のね、年明け、お正月休みとかもあったから、
この1月12日号に載ってるんですけど、
まあだいたい最初の金曜日の週刊読書人にこれから1年間載るよということで、
よかったらちょっとチェックしてみてください。
多分図書館とかで見れるんじゃないかなっていうのと、
あとPDFでも書いたりするんでね、
まあちょっとその辺でこう見ていただけたら嬉しいなというのと、
結構ねこれね嬉しくてね、
あの、もともとフルスト読む生活のね本の時に、
あれこれとこうその感想とかね、書いてくださったり、
なんかこうお話ししてくださった方がね、
結構その読書系のYouTubeとかやってる方もいてさ、
そういう人たち結構その文芸誌を今月はどれ買おうかみたいなのをさ、
動画でアップしてるんだよ、
結構それ楽しそうだなと思ってて、
でもなんか文芸誌はちょっと遠遠いなと思って、
これまでは特にこう指を加えて見ていた世界なんですけど、
これからはそういうYouTubeのね人たちとかの文芸誌語りに、
あ、それ知ってるって言えるんだなって思うと、
09:01
ちょっとそれはウキウキするなっていうのが、
今この文芸字表に対しての楽しみだなというところですよ。
なのでこの僕のが載ってるタイミングのものをね、
買うとこの映画字表だったり、
いろんな字表と一緒に僕の文芸字表も読めるよというところで、
で、まあちょっとこれをね、
何かしら楽しんでいただけたらなという風に思っているんですけども、
でね、今日のテーマなんですけど、
この字表、ね、
まあ要するに表するわけだよ。
表するっていう時に、
なぜ人は偉そうになってしまうのかっていうことについて、
今日はお話ししていきたいと思います。
どうぞ。
あ、まだ僕がもうちょっと喋れないと。
え?
あのね、
あのね、
表するってなるとさ、
偉そうになっちゃう問題っていうのがさ、
あるんよ。
そんなつもり全然ないわけ、こっちとしては。
なんか、てかね、
結論から言おうか。
作品を作るより表する方がね、
画が出ちゃうんだよね。
これはどうしたって損なんだよ。
作品の感想を語るという時に、
そこに自分語りじゃなくするっていうのは、
ほぼ無理だと思うんですね。
作品を作る側はいいんだよ。
だって作品というさ、
他者をさ、制作していく側だから。
ちゃんと作れば作るほど、
自分というものから離れていくっていうことがあり得るわけ。
だけど表するっていうのは、
その作品に対峙している、
お前は誰なのっていうのを、
むしろ作品の作者以上に問われるというか、
引っ張り出される立場になるわけですよね。
だからどうしたってなんかその、
画が出てくる。
で、画が出てくるとそこにね、
すごいね、
常にね、
鼻持ちにならなさっていうのがね、
登場してくるんだよね。
これはなかなかね、
いかんかもしれがたいなっていうのを、
今回この字表の下書きをいろいろ書きながら思ったんですよ。
なんか別に普通に楽しく読みましたとか、
あんまり楽しく読みませんでしたっていうことを書いてるだけなんだけど、
なんかね、
鼻持ちにならなさが、
にじみてるんだよね、そこから。
文体がとかではなく。
12:02
うん。
なんか態度として。
うん。
なんか応用な感じがする文体であるじゃん。
あるね。
その書いてある内容ではなく。
そういうことではなく、
そう、
そういうふうにならない文体を思考してなお、
にじみてる。
そう、にじみてる。
そっか。
あとね、文体という話で言うならば、
新聞を積むのは時数制限がものすごい厳しいわけですよ。
うん。
だから、
切り詰めると、
そもそも、
ぶきらぼうにならざるを得ない。
なんかその、
クッション。
乗ったら食ったらこうかもしれないし、
こうかもしれないけど、
こうかもなーみたいな書き方はできない。
こうっていう書き方しかできない。
っていうところもあるよ。
うん。
それもあるけれどもっていうところではあるんだけど、
なんかね、
ちょっと自分でびっくりしたの。
うん。
普通に書いてるつもりで、
こんなに花持ちにならなくなるんだっていう感じになるんだよ。
うーん。
うーん。
えっと、
運芸辞書を書いている人と、
普通に生活してる人間の、
うん。
こう、
素朴な感想を言うと、
うん。
なんか、
読みたいとか関係ないわけじゃん。
うん。
あー。
うん。
その、
まあ仕事で読んでるから。
うんうん。
なんか、
こう、
だんだんクサクサしてくるんだなっていうか。
面白いと、
これをこんなに面白いのに字数を気にして、
書かなきゃいけないのがフラストレーションになるし、
面白くないと、
面白くないことについて、
いかにどう面白くないかを書きたいのに、
字数を気にしなきゃいけないからいっぱい書けないし、
あと、
なんか読みたい、
他に読み、
自分の時間でね、
読みたい本が、
どけて、
仕事で読んでるのに、
つまんないとは何事だみたいな、
フラストレーションがたまっていくし、
なんか、
こう、
大変だ、そうだなっていうか、
こう、
ウキウキし続けるのは難しいんだなっていう。
どうあれウキウキできないんだよね。
うん。
ウキウキしてないことが文章に出てくるっていうのはあるよなって。
15:02
でもね、なんていうのかな。
それで言うとさ、僕はね、
そもそも小説に関しては文外観なわけですよ。
フルストグラしかやんなことないわけ。
他にまともに読んだ小説、そんなにない。
そういうと言い過ぎだけど。
小坂和志とフルストグライなわけですよ。
結構これはマチンソーじゃん。
あとラテンアメリカ文学は好きだけど。
ラテンアメリカ文学は好きとかはあるけど。
だから日本語…
要するに今の現在進行形の文芸というものに対して、
特に物申せる立場にないわけよ。
うん。
字表を書こうというやつが自流を知らんという。
文芸の自流はね。
うん。
だから文芸というもののことを知らん中で
謙虚な気持ちでやろうとこっちは思ってるんだけど。
うん。
それでもなお、自分が秘宝する側だという立場から何か言おうとすると、
何かしらのジャッジをしないといけないわけですよ。
価値の重みづけは。
ここでさっき言ったように
お前誰やねんっていう側がどうしても出てきちゃうわけ。
要するにあなたは何を良しとするんですか。
あなたは何を悪いものとするんですか。
判断基準を作らなきゃいけないからね。
良し悪しのあなたの、お前の判断基準は何ぞっていうの言われるわけ。
作品には実はそれ言われないこともできるわけよ。
要するにこれは作品の中でのスタンスとしてはこうかもしれないけど、
そこの作中主体と作者は別ですからねっていうことは
異様は全然あるわけじゃん。
だけど表者としてそこで良し悪しの判断をするっていうのは
そのままやっぱり表者としてしないといけないんだよ。
この私としてしないといけないわけ。
ってなるとこっちの価値を押し付けるやつになるんだよね。
こっちの価値を押し付けるやつって
基本的に今さ、あんまり好かれないじゃん。
だからそこなんだよね。
イケスカナさんの原因っていうのは。
しかもここで何が一番良くないかっていうと
僕の中でまだはっきりと自信を持って打ち出せるほど
その価値基準っていうものがそもそもないわけですよ。
だからこの1年かけてそれをどうにか見つけていかないとなっていう
ふうに思っているはずなんだけど
どうやら僕は思った以上に小説というものに価値判断の基準が
もうすでにはっきりあるっぽいんだよね。
それはプリストやラティアメリカ文学を好んで読む
人間としての好みになっちゃってるから
多分それは自流と合ってなさそうっていうのも含め
すごいなんか今気難しいおじさんみたいなこと書いちゃうんだよ最初に
とりあえずメモで書いとくとさ
メモの段階でそういうふうになっちゃって
要するに何が言いたいかというと
作品それ自体の面白かった面白くなかったは素直に書けばいいと思うの別に
そこで面白くなかったって書くから感じ悪いわけじゃないと思うの
そうじゃなくてなんか急に小説とはみたいな大冗談で語った途端に感じ悪くなるわけ
18:01
だけど小説とはを語らないとお前にとってのその小説の良し悪しを決める判断基準は何なのか
表明できないわけじゃん
でなるとなんかそこをちゃんと説明しなきゃと思うと
小説とはって書くしかないわけ
その途端にもうなんかすごい偉そうな感じになるわけですよ
っていうなんかねその堂々巡りにね
おります今
っていうのがね難しいなって思うわけ
これ一言じゃないと思うの話としてね
ん?何のパス?え?
いやなんかあなたは今すごいさ
なんか大変なんだなみたいな顔でさ聞いてるけどさ
そもそもでもそのね何かを表するってなった時に
そうならそのこう何ていうの
なんか偉そうな地場にさ引っ張り込まれないでさ
住む人間なんていないと思うわけですよ
だからこれはすごい難しい話だと思うんだよね
だからなんかそれは別に何でもいいわけですよ
テレビとかでさなんか何か見てる
何かのパフォーマンスを見る時
それはもうスポーツでもいいし何か芸能でも何でもいいんだけどさ
見る時にさなんとなくさ自分にとってさ
これは良いとは判断できないみたいなもの見る時さ
臭すじゃんお茶の間とかでもさ
あれはダメだよとかさ今のはつまんないよとかさ言うじゃん
あの時さすごい感じ悪いわけじゃん
何様?
でも常にその何様性っていうのがさあるわけだよね
そのこう何かのパフォーマンスや作品の需要者側になる時
常にその何様感っていうのがさあるわけじゃん
でも結論としては俺様なんだけど
その俺様性とさ向き合わざるを得ないわけだよね
何かの作品というものに対して評価するという態度で接する時
人は絶対に
お茶の間という匿名性を剥奪されて
書きない称号として評さなきゃいけない身にね引きずり出されたらね
そこを考えざるを得ないわけよね
そうなんですよ
でもこれは本当にさ全部においてそうじゃない
一言だと思うとさどんな相談ごとにもさ
すごいさおっしゃる通りですねみたいな正論でさ
語れるわけじゃない?
そうだね
だけどさ
語りうるよね
実際さ
でもそこは結構ね僕はね不思議なんだよね
本当にさ絶対に正論でスパって割り切っていくじゃん
21:00
あなたにはね
僕にだけそこは僕以外のことは知らないからさ
でもあれすごくいいと思う
例えばさ
30年かけて正論を言っていい人を
選ばなきゃいけないんだっていうことは学んでるから
あなたには正論言うよ自分を棚にあげてね
それはなんていうか教育的側面もあるから
それが今の私の役割であるっていう時が確実にあるわけじゃん
あなたは叱られたくてそういうことを言ってる
ケツ叩かれたくてわざわざ怠惰なことを言ってる
本当は自分で
いやそういうこと言ってないでささっとやらなきゃいけないんだっていうのを
自己関係するすべきというのは
100分かった上でその役割を私に養成してきているというところまで
勝手にね勝手に汲み取って
蹴り上げてるっていう役割分担としてさ
やっているっていうのが家庭内においてはあるわけじゃん
だからよそでもずっと正論言ってるわけではないですよ
なんか心配になるんだよね
僕も別に全部が全部さ
蹴り上げてほしいわけじゃないわけですよ
人間には分かっちゃいるけどやめられないことっていうのがあるというかさ
分かっちゃいるけどできないことがあってさ
その時どちらかというと分かっちゃいるけどできないよねっていう共感を求めてるさ
タイミングっていうのは結構あるわけですよ
要するに正論としてはこうだということは分かってる
こうしてはいけないとかこうするべきだっていうのは分かってる
じゅうじゅう分かってるんだけどなんかできないんだとか
どうしてもやってしまうんだっていう
どうしてもっていうところにこそなんかがあるわけですよ
でなんかそこの苦しみは別に言ってしまえば甘えなんだよ
甘えかもしれないけどでもそれはそれで苦しいんだっていう時にこうさ
言うわけじゃん
でもだから僕はそれであなたにさ
共感の示された試しがないわけだよね
だからすごい心配になるんだよこの人は大丈夫かしらって
だからそれを見栄えなくやってた頃
絶対殺すみたいな顔してたよねって言われてたわけですよ
でもさ別に僕に対して絶対殺すっていうオーラを出さないものをそういうことを言うわけじゃん
24:01
怖いよねその方がね
だって何言って欲しいかよく分かんないから思ったこと言ってる
あと絶対に共感をして欲しい時あなた私もだけど
今からこういうこと言うから後悔してくれって言うじゃん
それにオーラ出されたらちゃんとさやるじゃん
ママごととしてね
だから良くないですか
そうか
でもあなたにその正論を言うことにためらいはないってこと?
あなたにはね
僕以外だとどうするの
正論を言う
なんか
正論を言うべき時と寄り添うべき時は間違えちゃいけないなと思っている
寄り添うべき人に正論を言ってしまうのは
自分が同じ立場の時どうすんのっていうところが欠落してると思うのね
今これもう評論の話から遠ざかっていってる気がするけど
いや遠ざかってないと思うんだよこの話は
作品っていうさ
人格から切り離されたものに対して発言する時と
人間という人格と切り離せないものと対峙する時っていうのはやっぱり違うと思うけど
少なくとも人間と対峙している時かつ相手が私という人格を判断条件として話す相手として選んできている時に
相手の人格であるとか置かれた状況を無視して正論を言うのは
相手がこっちの人格を踏まえて話しているのに相手の人格を踏まえてないからフェアじゃないと思う
ただ私の場合そうやって誰かで構わず正論を言っていたという過去があるがゆえに
正論でぶん殴ってくれって言って相談をされたこともある
そう言われたら正論でぶん殴る
そうじゃない時は殴らないように気をつけてる
ちゃんとしてるね
正論よりも有益な情報を言おうって思う
27:02
とりあえず今の話は素朴に大事な話で
要するに共感されたいのか正論でぶん殴ってほしいのかっていうのは
それぞれの具体的な関係によってやだったり状況によって変わるわけじゃない
でもそれはそうなわけ
それはそうなんだけど
どっちかっていうともう一回その評論の話に戻しつつ話していくと
要するに評論っていうのは非常にアンフェアな場なわけですよ
さっきあなたが言ったように作品
作者から引き離された作品というものを
こちらはある意味人格というものを加工した上で
よしよしを判断する主体というものを立ち上げた上で
その上で正論を言わないといけない
これは別にさっきの話で言うと
まずそもそも正論以外の共感の身振りを示すという義理はないわけですよ
そもそも相手は作品だしね
だからむしろその作品に全力で主体として向き合っていかないといけない
というところがある
というのはそうなわけ
だけどさ
評論する側っていうのはさ
特に今基本的にあまり
片目の狭いもんもするじゃない
非常に雑なことを言えば今共感がさ
幅を利かせる時代だから
これはすごい雑な見取り図だよ
あんまり実は僕自身はそうだと思ってないんだけど
ざっくりと一つの見立て図としてさ
要するに正論でぶん殴るような友情が成立しにくくなってる
これは文字ベースだけかもしれない
今僕は若い世代じゃないからよく知らんけど
文字から始まらない友情も僕らはなかなかないじゃん
インターネット越しに友達作るとかしかなくなってきてるからわからないけど
実態はね
でもとりあえず文字ベースから始まる
人間関係っていうのは共感から始まる
ことの方がメインなんじゃないかっていう気がしてるのよ
一旦ヨタとして話すけどね
要するに正論でぶん殴ってきた相手と
後々仲良くなるみたいなことってあんまりないような気がするわけ
そもそも殴りかかってくる人がいないっていうのもあるんだけど
そこで
なんていうのかな
一番よくある評論的なことを言う立場に対する揶揄としては
自分ではやってない的なのが一個あるじゃない
要するにまたあえて友達との相談ごとみたいな方に例を戻すとすると
30:05
理論と実際の会議っていう話よね
さっきあなたは自分のこと棚にあげてって言ったけど
要するに棚にあげないと正論なんか言えないわけ
棚にあげないと正論なんか言えないわけですよ
どうして棚にあげれるんだってところに葛藤があったりなかったりするわけじゃん
先に話すと評論っていうのはさっき言ったように
読み手としての主体を立てないことには書けないものなわけですよ
作品の場合は語り手と書いてる人は別ですよって言えるかもしれないけど
評論に関しては書いてる人と評してる人は一緒なわけですよ
その一緒の人の中で正論を書かなきゃいけない
つまり棚にあげれない
自分を土俵にあげた状態で棚にあげて正論を書かなきゃいけないわけだよ
すごい心苦しいわって
相談ごとに僕がグチグチ言ってる時とかに
自分のことを棚にあげて人のお尻を蹴飛ばせる
あなたの正論の駆使の仕方というか
切り離し方
自分の実践と
偶然でも出ない正論という理論との
切り離し方というか
それを僕には言えるとか
そういうところの
さっきはそれは人によるとか
場合によってそこは切り分けなきゃいけないという話を
一般論として書くのとして言ってたけど
具体的にそこでどういう操作が行われると
そういうことができるのかということを聞きたいんですよ
そういうことを聞いて
じゃあすごい参考にならないことを言うよ
私はさ
私とあなたはさ
いかにさ相手が今さ
最低のクズ野郎でさ
ドブスでさ
見るに耐えない状態であってもさ
こう
魂は可愛いと思っているじゃない
だから今はこんなにボロボロで
みんなにね
けって言われるような
ボロ雑拳みたいになってても
柔軟剤で洗ってあげたら
ふわふわになるんですみたいなさ
気持ちでいるからさ
まあ
死ぬまでにね
トントンになっていればいいやっていう
気持ちでいるからさ
死ぬまでにね
トントンになっていればいいやっていう
迷惑がかわされているわけですよ私たちの間では
我々の間ではね
だから
なんか腐っているときに
33:01
その迷惑があるからこそ
そして
適切なケアをすれば
ちゃんと
本来のね
輝きを取り戻すと信じているからこそ
その最短ルートとして正論をぶちかますわけです
今の話面白いよね
柔軟剤を使ってさ
綺麗にしてあげればふわふわになるんですとかさ
適切にケアしてあげれば
ブスじゃなくなるんですっていう話をさ
しているのに
あなたが今言った柔軟剤でふわふわにするとか
しっかりケアするってことのない実は
正論でぶん殴ることなんでしょ
最短ルートだから
めっちゃ面白いねそれ
だから正論でぶん殴って殴られたことによって
あなたがショック状態になって
ほわーってなった隙に
ほわーってなるとさ
悪態もつけなくなるからさ
少し可愛くなるわけじゃん
そしたら可愛がる
詐欺師のやり方じゃん
お釣りと支払いが逆みたいな
詐欺師のやり方じゃんそれ
先にお釣り貰ってから支払うみたいな
相ちゃん殴りつけて痛めつけて
ボロボロになったところで
優しくすることでいいことでしょ
でもそこで感情は合うわけだよ
はいはいはい
あなたは殴られつつも
おっしゃる通りだなって思って
おっしゃる通り間に刺された肩腹を抱えつつ
怒りをパワーに
立ち直って
あの時殴ってくれたから僕は立ち直ったんだって
言わせるっていう関係性があるからこそ
そしてそこで
ブスにどんなに気合を使ってあげても無駄だから
あのー
てか友倒れるから
言うべきことを最短で言うのが
その友倒れないための
友倒れないために
できるケア
っていう風に
この関係性の中では判断してる
ちなみに今これ我々の中でも
独自用法としてブスっていう言葉があるわけだよね
要するに家庭内でなんか
悪い雰囲気を醸し出していたり
その協力
生活に対しての協力体制が全く見られなかったり
そういう自分本位の状態のことを我々プッシュなさしているわけ
だけれども
要するにそれって身を負ったもないかとしてしまえば
我々はどんなにブス状態になったとしても
言葉が通じるっていう
ところがあるからできることなわけだよね
言葉が通じなくなった時
36:01
お腹いっぱいにしてもダメだったら私はもう諦めるかもしれない
ってことじゃん
言葉が通じるから正論は効くわけじゃん
まだ言葉の世界にいればね
お腹いっぱいにして
暖かくして
飲んで
寝かせて
ダメだったらちょっと
直に帰る
ってことだよね
それはすごい大事なことなんだと思うんですよ
つまり言えば伝わる
合意地点を見つけるために言語が
運用することができるっていうところが
そもそも前提としてなければ
成り立たないわけですよね
そうだね
つまりね
結局どうすればいいんでしょうね
でも今の話って
どうして私は自分のことをそんなに棚に上げられるのかってことを聞かれたんだっけ
そういうことを聞かれてたんだけど
だからその結果分かったこととして
とりあえず少なくとも我々の間では
言葉が通じるという
相互
信頼があるから
棚に上げられるっていう話だったんじゃない
関係ないんじゃない?それ
というか
あなたが
私がね
明らかにあなたより平らな生活を送っていても
正論を言うじゃん
でもその時あなたは
お前はやってないじゃないかって私に絶対に言わないじゃん
よく言えるのはこいつとは思ってるだろうけど
言わないじゃん
だから言えるわけじゃん
そこでやってないのになんでそんなことを言うのとか
言ってきたら
言わなくなる
と思うの
だからあなたが
私が棚に上げたものを
わざわざ下ろしてこないから言うんじゃない
いやだからそれが言葉が通じるっていう
そうね
そうね
だからさっき雑な見立てとして
共感ベースのコミュニケーションが優位っていうのは
要するにどういうことかっていうと
行動優位の時代なわけですよ
これはもうそのまま当然その通りというかさ
どんどんどんどん
全部がビジネスの理屈で通るようになってくるとさ
もう有言だろうが無言だろうがさ
実行してる奴が偉いっていう風になっていくわけですよ
でこれはね
すごいさ
あの
余裕悪い言葉遣いになってしまうけどクソなわけだよね
クソなんだよそういうさ
39:01
とにかく
行為というものに
重きを置く発想っていうのは
もうねダメなの
最低の発想だと僕は思ってるんだけど
でもそれが割と幅を利かせる時代なわけですよ
要するに例えばさっきのあなたの話で言うと
僕よりも明らかにタイダな生活を送っているあなたが
僕に対してサキッとしなさいっていう反論をした時に
あなたにでもあなたのその言葉に
恋は伴ってないですよねって言った途端に
その
なんていうのかな
お互い守るべきさ
論理の枠組みがさ
もうそもそも無効化してしまうわけですよね
そこが抜けてしまうわけですよ
もうそれは絶対にダメなわけ
僕は別にタイダなあなたにそんなに
関心がないから
今は棚上げにしてるけど
なんかそれで思想を来たせるようになった時には
流石にこれはっていう時には言うわけじゃん
しっかりしなさいって
そうすると一応しっかりするわけでしょあなたは
それはなんでできるかっていうとそのさ
今できてるできてないと関係なしに
こうであった方がいいという
美意識なり
価値判断っていうのは
別個で持っておきましょうって話なわけじゃないですか
これはもうすでに
あまりに陳腐化しすぎた結果
誰も言わなくなったけど
今こそ使うべき二項として
本音と建前っていうものがあるけど
要するに行為だけになっていく世界
本音だけの世界になっていくわけだよね
美しい建前が
そもそも機能しなくなっていく
これはダメなわけですよ
もう
ダメですけどだいぶ
だいぶ議論なとこで機能してませんけどこれは
っていうことなわけじゃないですか
だからそこの
ちゃんと理屈の部分というか建前の部分を
一応共有しているっていうバランスがあればこそ
正論というのが機能する
というか正論というものが一つ
杖というか道しるべとして機能し得る
ところが
確保されていくっていう話なわけじゃないですか
あとさ
不思議なんだけどさ
あなたの話をしてるわけじゃん
あなたにダメだしするとき
私の話してないからさ
発言者の行動を
とにかく言われる筋合い分かんないなって思うんだけど
だからその境地に
あなたのその境地まで行けたら
僕は別にこんなに悩んでないわけですよ
悩んでないわけですよ
そりゃそうなんだよ
僕も正論としては別に偉そうだろうが何だろうが
書きたいことを書けばいいと思いますけど
42:01
読みたいように読んで書きたいように書けばいいと思いますけど
うちのあるね
実際の
悪しき実績主義者がね
でお前は何なのっていうさ
ことをさ常にさ問いかけてくるわけですよ
それは多分あなたも本来はあるはずなの
いや
そこがないのが何で
何で無くできんの
だって今私の話してないじゃんって思う
今目の前の
ブスなあなたの話をしてるのであって
うたらな私の話を今誰もしてないのであれば
それを私が勝手に気にして
こう
正論を引っ込める理由にはならないじゃん
なるほどね
てかそんなこと言ってたらさ
何縮小しかありえないじゃん
じゃあさじゃあさじゃあさ
とりあえず僕との関係は
僕の関係は
僕のお悩み相談を近づけていこう
例えばこの前の話で言うと
新日本プロレスの
真田のことを
僕らは初見の見分けなのに
何か欲しいんだよな
みたいなことを言って
もっと何かこうすればいいのに
みたいなことを言えるわけじゃん
だけどじゃあお前真田
何か欲しいんだよな
みたいなことを言って
もっと何かこうすればいいのに
みたいなことを言えるわけじゃん
だけどじゃあお前真田
やれんのかよって言われてもさ
それはナンセンスに過ぎないわけじゃん
同じじゃない
これだとナンセンスに過ぎないから
ちょっと例があれだけど
でもだからなんつーの
えだってそれ同じことじゃん
今解決しちゃった
だって別にプレイヤーについて
てか観客がプレイヤーに求めているもの
について語るとき
プレイヤーである必要ないじゃん
だって観客なんだもん
観客の立場から
感想言ってるだけだから
観客の行動関係ないじゃん
みたいな
解決しちゃったじゃん
解決しちゃったな
どっちかっていうと
なんかその
なんとなく
自分が
面白さがわからないから
くさしてるもの
があるとしますよ
なんだけど
なんかもっと
こう
イケてないものをね
うん
単純に趣味が合うからでもいいけど
45:01
と、なんだろう
とかこう
押してしまっているから
商用するみたいな
ダブスターはやりたくないなと
思うのよ
ないし
その
何かを
褒めるために何かを下げるとか
それは違くないっていうのはあるよ
うん、それはそうです
でも自分自身はどうでもいい
自分、今の
何において
自分自身
だからその
まあいいや、この話はいいよ
自分のことを棚に上げるの話
ああ、うん
それはもうどうでもよくないっていう
感じはするけど
そうだね
そうだね
そう思うよ
あとなんか
評価軸
問題よね
何か
例えばさ
私は自分が怠惰であることに
納得している
何かもう今はそういう時期だから
思いっきり怠惰になるぞって思ってやってるから
めっちゃ納得してる
あなたは自分の今の状態が嫌なのに
何かグダグダしちゃうのが嫌
みたいなことがあるじゃん
それはもう自分への納得が
自分への納得度という意味では私は勝ってるんよ
だから開き直れる
なるほどね
大事なのはまず自分への納得度だと
納得度という尺度を持ち出せば私は勝てるっていうこと
別にそれはその時々で変えちゃえばいいと思うの
だからその行動主義
今日は行動主義ですだったら
私は実践している
自分が納得しているかどうかで勝負するは私は勝てるらしい
そこを何か勝てる軸持ってくれば
なるほどね
いいじゃん
今の話も一つ良いヒントになる話だね
要するに判断する軸というのは複数あるんだよね
だからある面で変なチョコでもある面でも大勝利だったりするわけじゃん
っていうのはあるよと
でもそれは自分に対しての自己判断についてはそれでいけるけどさ
例えば僕に対して突きつけられるのは一つ正論一本勝負だったりするわけじゃん
48:06
その違いは大きいよね
責任の恨みを逆襲されているのかなって思って
全然そういうことではないんだけど
だからあなたがそれを正論として受け止めているのがすごいよね
暴論じゃない結構
そう?
言うものって
だってそれこそ観客として言ってるじゃん大体にして
だって文筆においては私はプレイヤーじゃないから
そういうことね
書きないようにおいてのあなたのぐちぐち言ってるのに関しては完全に観客のやじとして
優しさと書きなよって言ってるじゃん
でそれを正論って思えるの偉いよね
だって観客側っていうのは見たままを言うじゃん
だからそれはそうでしょ
それはそうだなって思うしかないくない?
大丈夫?なんか最近ちょっといろいろ
ちょっと喉が
ちょっと寒いからね
寒いからね
前書き?
少し
ちょっとね詰まってる感じがする
まあなるほどねよくわかりました
はい
まあそういう感じなんですよ
あんまり気にせずに好き勝手書きますけども
でもだから今の話で言うとまだあなたという批評から
まだあなたという批評家の評価軸が安定してないってことでしょ?
いやなんかそういうつもりだった
意外とあるって話をしようと
意外とあるっていう話なんだよね
びっくりしちゃう
意外と
だからなんかその大体において自分の読みたいものしか読んでないとさ
僕って何でも楽しめちゃうんだなって気持ちでいたわけ
読みたいもの読んでっからね
読みたいもの読んでっからね
だけどなんかこう網羅的にさ
とりあえず同時代であるという軸だけで読んでいくとさ
割と好き嫌い激しかったんだって気づくわけ
そうでしょうね
いやだからすごいいい機会だなと思うわけ
その自分の中でのその読書の変更具合っていうのを是正できるという意味ではね
51:04
でもねこれはね実は
これね良くないかもしれないと思うわけ
いきなりでかい話するけど
寛容の時代
寛容を良しとする風潮の中で
むしろ人は意固地になっていくんじゃないかって気がしてきたの
で僕はその自分のエラそうに書いちゃうなっていう時の違和感の一番根っこにあるのはそれだと思うわけですよ
要するに何でもわけ隔てなく接しましょうって気持ちになると
そこの中で自分の好き嫌いを自覚してしまうわけ
そうするとこれが嫌いなんだな
なぜこれが嫌いかというとっていう評価軸がね自分の中で明確になっていくわけ
それは非常に論理だっているんだよ
それでいいのかしらって思うんだよね
要するに自分の狭いところに閉じこもっている状態で
なんかでもみんなで仲良くした方が
仲良くしなくてもいいけど
なんとかこういい感じにナナナで共存していった方がいいねってことを考えている時っていうのは
実は外に目は向いてないわけ
自分の居心地の良いコンフォートゾーンの中しか知らないんだけど
でもその外側に別のコンフォートゾーンがあってもいいよねっていう考えになって
要するにほっといてる関心がないわけそこに
でもその関心がないその隣の見に行った途端になんかゲッて思ったりすることって必ずあるわけですよ
ゲッて思った時に別にこれまでと同じ無関心ゾーンに戻っていけばいいだけ
要するに実証だったら取り上げなければいいだけ
なんだけどなんかそこにゲッて思ってしまった時に
隣のやつを見た時にちょっとゲッて思ったっていうことを書いてしまう
書いてしまうこと自体はまだいいの
それはただ自分の中の狭さを露呈するだけだから
でもそのゲッて思ったっていうものをゲッて思ったらまだちょっとカッコつかねえなって思って
こうこうこうだからダメだっていう書き方に
移し替えた途端になんかちょっと
嫌な感じになるわけよね
それはなるな
でしょっていうのが多分ある気がする
要するにだからさっきのあなたの正論はさ
よそにぶつけるとダメな理由ってまさにそれなわけじゃないですか
つまり我々の中では我々という閉鎖権が出来上がってるから
この閉鎖権の中ではそれこそ合意されたルールがちゃんと実行されているかどうかってチェック台で済むわけだけど
そもそも外から見た時にその外でもなおそのルールは適用可能かどうかっていうところになった時には
もう全然違う話になるわけですよ
でね違う話がたくさんあるわけ
うちはうちよそはよそで
とかっていう話はもうないわけ
サーキットライブ並みに友達のうちよそ
友達でもないクラスメイトの家もずっと尋ね回ってるような状態なわけよ今は
こっちはね
54:00
そうなるとさもう全部違うわけだよ
各家のカレーを食べて行かなきゃいけないみたいな
甘口な時点でこっちは上って思うけど
それで甘口だからダメだとは言えないわけだ
そこは普通にここの家のやつは甘いんですとは言える
そこまでは言っていいんだけどだからダメですは言えないんだよ
でもなんかね今ねそこがそこのねバランスが非常にむずい
でもとはいえとはいえこの我が家の主体として
我が家のこの目線から見るとこう見えたっていうことは確証がないわけだ
さっき最初から言ったようにさ
評査というものは作者以上に土俵に乗らないと何も言えないから
うちのカレーがどうかっていう
そううちのカレーがこうなんだけどからしか始められないから
だからねここのバランスが非常に難しいんだよ
要するに正論が正論として機能しなくなる
その正論が機能するっていうのは
要するにどこかで閉鎖権を作っていなきゃいけないわけですよ
これは全部そうでしょ
プログラミングとか何かの機能を作る時でも
この作業環境この環境下ではこの実行みたいなのがあったとしても
環境が移し変わった瞬間に
それのロジックが全部そもそも機能しなくなったりするわけじゃないですか
今そういうことが起きてるね
っていうことだわ
今本当のお困りごとにやっとたどり着いた感じがあるわ
そういうことなんですよ
でもねここまで言ったら自分で作ったチャブ台自分でひっくり返すけど
とはいえ全ての家をフラットに見るのは無理なんだよ
無理なんだよ
やっぱりレペゼンは我が家でやってるしかないんだよね
レペゼンはうちのカレーでやってるしかないんだよ
うちのカレーを最高と思うんであれば
その最高のカレーを基準にもう他のカレーを見るしかないんだよなっていう
そうしないで全てのカレーは全ての良さがあるっていう評価は
別に日常生活においてはそれで別にいいと思うんだけど
何か書くってなった時には何にもなくなるんだよね
書く足掛かりがなくなるから何も言ってなくなっちゃう
何も言ってなくなっちゃうんだったら何も言わない方がマシなわけで
っていうところがあるのでなんかねとりあえずね分かったわ
結局何を言ったってやっぱり自分の話になっちゃうんだねきっと
うちのカレーの話になっちゃうんだね
それはあんまり恐れすぎてはいけないなっていう気持ちにだんだんなってきましたが
いかがですか?
うちのカレーを更新していくようなよそのカレーに出会えるといいですね
57:00
いやマジでそれなんですよ
だから本当にそう
お母さんにレシピ聞いといてって言いたくなるようなね
よそんちのカレーを食べれるとね
そうそうそう
いいですよね
別にこっちのスタンスとしては自分ちのカレーの良さを知らしめたくて
他のよそのカレーを出汁にしたいっていうよりも
まだみんなめちゃうまカレーを求めてるわけですよね
結局レシピ聞いたらだいたい一緒なんだけど
使ってる肉の値段が倍みたいなことが起きるわけですね
とにかくこっちはびっくりしたいわけ
めっちゃおもろいじゃんこれって思いたいわけ
っていうことやな
肉に倍の値段出したらこんなにおいしくなるのっていう
ここで問題は
殴られたいわけだよ
さらにこの2つを正確にブラッシュアップするのであれば
文芸辞表において一番厄介なのは
我が家のカレーっていうものは存在しないってことなんだよね
そうだね
つまりまだ見ぬめっちゃ面白い小説というものを
勝手にこっちはどんどん期待しているわけ
それを我が家の味だと思い込んでるわけ
僕にとってのこれまでの小説体験の
乏しい小説体験系の相場として
こういうものが面白い小説なんだっていうものが
イメージとしてはある
でも実際そのカレーはない
あるけどね
そのものはない
それに対して他の小説を探り当てていく
その時に自分の小説感がひっくり返るようなものこそ求めてる
それこそだから
次からこのカレーが食べたいみたいなものを求めてるんだけど
なかなかそういうものに出会えない
っていう中でどういう風に書いていくのがいいか知らんっていうことよね
まだ1ヶ月目ですから
今もう2月号のね
だんだん揃い始めているので
それについて書いていますけど
1年の中でね
1作2作だけでもそういうなんかドカーンと来るものに
出会えたら嬉しいなという風に
あと別にいっぱい読んで書いてるからさ
1作1作って書くわけじゃないじゃん
横とか縦とかさ
要はその同じ月にこういうかぶり方をして
自分の中でこういうシナジーがあったとかさ
その次の号ではこういう傾向があったみたいなさ
流れとかが
並べて書くのが面白いのかしらって
まあそれはそうだと思うんですよ
通時的であったり矩時的であったりするものたちを並べていって
その間に何かを見出していくっていうのは
それこそ字表というものはそういうものだから
1:00:01
それはそうなんでしょうねっていう気がするんだよね
たぶん今の僕の好みとしてね
なるべく小説だけを読みたいんだよ
っていう気はしてる
その作品だけを読みたいな
っていう気はしてるんだよね
だからちょっとその辺はやってみないとわからないけど
なるべく作品の話だけをしたいなという気はしつつ
どうなっていくか知らんというところで
今の時点ではこんなことを思っているけれども
それこそね半年後1年後と
連載が続いていく中でね
どう変わっていくのかと
最初はあんなにうじうじと偉そうになっちゃう
みたいなことを言ってた奴が12月号に至るとね
もうすでにそもそも小説というのはこうあるべきなのだが
みたいなことを書いている可能性は
低くないからね
あとね今までね
締め切りをめっちゃ守る
かけないさんだったけど
それはずっと続くかというのが見物ですよ
もう悩みすぎて
ギリギリすぎて
どうしたらもっと良くなるんだろうとか
言ってる場合じゃなくなってるかもしれない
それはそうだね
でもね書けないはないな
今もすでにね
2000人の規定のところ下書きのメモだけで3500ぐらいあるんだよね
まだあと1日読まないといけないにもかかわらず
だから書けないことはない
まとめられない
2000人にまとめられないことはあるかも
そうそうだから今今回の1月号に関しても
2000人のところ4000字書いてて
2000字収録して
読書陣に載ってますけど
残りの2000字は今赤耳ニュースというニュースレターをね
かつては週に1回配信していた
ニュースレターでおなじみのニュースレターを
ちょっと今復活させてね
文芸時評のB面として
パン屋さんのパンの耳とか
あらじるみたいなね
魚のあらじるみたいな感じで
一番良い部分はこの週刊読書陣で読めるんだけど
そうじゃない残った部分歯切れの部分っていうのを
全部切り張りしてそれっぽく体裁を整えたバージョンが
月に1回届くということになっておりますので
良かったらこのポッドキャストと一緒に
メルマガニュースレター
このニュースレターって言い方ってさ
普及したんかね
メルマガに戻ったんかね
1:03:00
どうなんだろうね
デニムとジーンズみたいなことでしょ要するに
同じことなのに
スウェットとトレーナーみたいなことでしょ
トレーナーが今スウェットなのか
呼び方変えただけで絶対変わらないはずなんだけど
要するにニュースレターといえばメルマガニュースレター
どっちでもいいんですけど
それに登録していただけたら
頼まりもしないのに文字が届きますんで
文字が好きな人がね
良かったらどうかなっていう感じ
登録しなくても全部読めるから
ウェブで
登録しないで読みに行くっていうスタイルも
全然いいんですけど
良かったらねっていう感じのやつですので
良かったらどうぞという感じですよ
何回言うの
何回ちょっと最後に
このポテキャストは常にだらだら喋ってさ
だらだら引き伸ばしてやってるけどさ
僕文章だとすごい
割とキュってすんのよね
基本的に4センチのものを2センチにするとかはそうなんだけど
だいたい全部だらだら書いて絞る
筋トレと一緒やね
まず増量器があってから絞るわけですよ
みたいな書き方をする
だけどなんかね
早すぎる文章って
良くないなって最近思って
分かりやすいとされてる本を読むとさ
分かりやすいとされてる本を読むとさ
基本的にだらだらしてるんだよね
実はだからブヨブヨしてたほうが
ちょっとお腹出てるぐらいのほうが分かりやすいのかもしれない
どういうことかっていうと
何でもいいの
例えばね
シュッとした文章っていうのは消臭剤って書いてあるの
でその3文字しかないから
さらって読んで終わっちゃう
で何も残んなかったりするんだけど
丁寧な本っていうのはどういう風に書いてるかっていうと
消臭剤っていうのは匂いを消す薬剤のことです
みたいな書き方をしてるわけ
要するに言わなくていいこと言ってんの
だけどこのだらっと書くことによって
ああそういうことだったのか
っていう気持ちになるみたいなさ
機能があったりするわけですよ
なんかだからだらだらするっていうのは
結構大事かもしれないなって思う
単位をね
最近
だからだらだら書くっていうことを
だらだら書くって何て言うのかな
なんか無駄に書く
シュッとしながら
なんか無駄なことをシュッとしながら書くことを
最近ずっとしてたけど
そうじゃなくて
なんかもっとブヨブヨさせた方がいいんじゃないかっていうのを
最近書くときに考えるんですけど
1:06:00
そんなことを考えながら
今やってるのが
2000字にシュッとしてまとめないといけない
っていうことをやってるっていうところでね
何なんだろうなっていう
反動じゃない?
反動だと思うね
新聞向けにすごいキリキリと
絞っていったら
ブヨブヨしてた方がいいんじゃないかって気持ちになってくる
なんかちょっとだけ脱線するね
私すごいハムレット
ハムレットじゃない
シェイクスピア強化月間に
そうだね
測るのもなっていて
少年社長と那須崎さんとね
カジャミツシェイクスピアと
あと加工作の配信もあったり
あとまだ見れてないけど
悪性ピースたちのマンクベース一人芝居を見たいなと
配信されてるから
思ってたり
公演決まった時点で
テンペストとセロは読み直してて
でもさ
シェイクスピアって基本的にさ
全部やんないじゃん
長すぎるから
長すぎるし要素がすごい多いから
政治の話もあるし
宗教の話もあるし
とか
現代日本において
お客さんに伝わりにくいところが
カットするっていうところが結構あるから
すんごいマックスでだらだらしてる原点を読んだ後に
日本語訳だけど
公演を見るとさ
シュッて
してて
そこはつまむのねみたいな
だからすごい両方見れて
楽しいなっていう話でした
いやでもそれはいい話だよ
でもさつまむとさ
損なわれるものは明らかにあるわけじゃん
シェイクスピアの場合さ
一個のことを言うのにさ
延々と宗教湧いてんじゃん
それが結構大事なところではあるわけじゃん
それが美しいところであるし
それをね聞きたくてね
やたら美しい
どれだけの言葉を美しくして
今嫉妬してるってことを言うんだ
こいつはみたいな
何ページその話すんのみたいな
もう
読みたくて聞きたくて
シェイクスピアを見たり読んだりするから
全然そこがね
サビなんですけど
全部の要素についてそれやってるとさ
尺が収まんないからさ
そうだね
まあ劇局だとねまたあれだけどさ
小説とかだとさ
そもそもさだらだらしてるところが
大事だったりするわけじゃん
だから要するに
例えばプルエストのさ
失われた時を求めてのさ
映像化されたとしてさ
うん
なんか多分2分とかで終わるシーンに
50ページとか使うわけだよ
1:09:02
でもさ
50ページ使っているシーンを
50ページ読むっていう経験を
2分に終演することはできないわけだよ
だから映像で
確かにそこで記述されてることが
全部2分の中に
込められていたとしても
やっぱりその2分と50ページは
イコールにはならない
わけだよね
この辺は結構面白い話よね
だから要するに
だらだら書いた方がいいって
そういう話なわけじゃん
シュッとして書くっていうのは
2分の経験にするっていうことだけどさ
2分の経験にすることは
必ずしても正解ではない
同じことを言ってたとしてもね
正解ではないっていう
でも今そのさ
上演と
演劇および映像作品における上演によって
シュッとする話を今
2本連続したけど
映像にして伸びるっていう経験もあるじゃん
それはそう
それによって拡大に良くなったものとして
俳句があると思うんですけど
そうだね
そっちのパターンもあるからね
俳句のアニメの練習シーンがね
最近ジャンプの漫画のアニメ活動
大体全部そうよね
週刊の漫画だとキュッとなりすぎて
早すぎるものをいかにだらだら引き伸ばすことで
良さを引き出すかっていう方向にね
いってますからね
あれはご褒美だなって思う
いや本当にそう思うよ
別にシュッとしたくてさ
してるわけじゃないじゃん
週刊のね
しかも特に連載初期の方は全部そうだからね
いつ打ち切られても畳めるようにっていうさ
計画のもとさ
ここをつまんでるっていうのをさ
アニメ化までこぎつけるとさ
そこが
こぎつけるとさ
そこを組んでさ
ちゃんとさ
尺取ってくれるっていう
なんかご褒美だなって
本当にそう思いますね
思いますね
脱線でした
ずいぶん脱線しましたね
まあ今日はこの辺りですかね
はい
というわけで沖縄にぜひ
いらしてくださいというのと
週刊読書陣を
今年はよろしくねと
一部だけ買うと
週刊が495
結構するね
であの
公読すると
50週で2万円
多分PDF版だとまたちょっと
お値段変わったりしますんで
まあよろしかったら
ぜひと
ご検討くださいねと
いうところで
ありました
ということで
バイエティックラジオ
お相手は私
竹内翔太さんでした
どうもありがとうございました
01:11:52

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