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これは何?他のエッセイは、火の木とか、そういう木の種類ごとに書かれてたりするの?それともまたちょっと違うけど、そういう…
木? 木の…
そうだね、えっとね、火の木みたいにあるのは、例えば杉っていうのもあるし。 杉とかあるんだ。
あとまぁ、えぇ…
クスの木とかもあるし、ポプラとかあるし、 でもね、えっと、違うのもある。木の怪しさとかね。
おぉ、気になる。
とかもあるし、材の命、木材の材ね。材の命とかね。
ほぉー。
あと、江戸末の行進みたいなものもあったりとか。
ほぉー。
今日ね、江戸末の行進、これ一つ目に書かれてあって、まぁちょっと今日読まないんだけども、
そのね、江戸末の行進っていうのもこれすごい良かったんですよ。
あの、読まないけどね、どういうものかっていうと、江戸だから北海道のね、祭って江戸末って言うんですよ。
で、それを見に行くんですけれども、あの、倒木行進っていうのがあるんですよ。
倒木?倒す木?
そうそう、倒れた木の行進、行進していく、免許行進の行進。
ほぉー。
で、倒木行進っていうのは、その倒れた木がね、
寿命とか天才とか、まぁもちろん伐採で倒れてる木もあります。
で、そういう倒れた木を石杖にして、そこから新しい世代の木が生えてくる、育ってくるっていうのを、倒木行進って言うんですよ。
へぇー。
で、この江戸末の倒木行進っていうのを見に行ったっていうお話が随筆に書かれてるんですけど、
北海道の環境下ってものすごく厳しいのね。
で、その生育に楽な条件がなかなかないんだけども、この倒木行進には上手く条件が良くて、生えてくるんですって。
うん。
で、それはもう、倒木した上に生えてくるから、綺麗に毎一文に生えてくるっていう。
毎一文?その倒れた木の。
一文字に、一文字に生えてくるっていう。
ほぉー。
お話なんですよ。で、そこに何か、この70代である高田綾は、
んー、自分を老いた身として、何か、んー、輪廻転生というか、次の命にバトンを渡していくという、その生の定めみたいなものを感じ取っていくというお話なんですよ。
そこかな。すごい。めっちゃ読みたいわ。
ね、ほんとに。
すごいよ。
すーばらしい。もう、ある木のね、冷たい冷たい、この北海道の、そして雨が多く、雨に濡れた雪も多い、この地で、倒木の、しかも、この倒れてる川の、
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もうね、その、上から生えてくる木は、どんどんどんどん立派になってくるから、もう、で、だんだんその倒木朽ちていくから、もうほとんど分かんなくなってくるんですよ。
だけども、わずかに分かっていて、そこにある温かみを感じてくるっていう。
そっか、そっちへの眼差しね。倒木してる川のね、こっち見ちゃうじゃん。すごい生えてきてる。
それも見るんですよ。
それも見るけどこっちも見るんですね。
そう。それの喜びもあるんですよ。
ああ、私の、私の意志、私を逸材に、私を踏み台に、新しいものが次の世代のために育ってくれている。
その実感を深めていくっていう。
うーん。
ちょっとそこまで言えば読めようって感じなんですけど、ごめんなさい。
まあちょっと、まあ、今日違うのを読ませてもらいたいんですけど、次の、ちょっとじゃあ読んでいいですか。
いけますか。
次はね、ちょっと待って、何ページだったかな。
もう今のやつ読みたくなっちゃった人いるんじゃない。
それはもう読んでくださいと。
そうですそうです。読者の方にね。
次はね、縦の木、横の木っていうのがあるんです。
縦の木、横の木。
じゃあちょっと、読んでいきます。
これね、西岡恒一さんっていう有名な宮大区の方がいらっしゃるんですよ。
その人のお弟子さんたちに痛く感動したっていうお話なんですよ。
うーん。
このね、西岡恒一さんってね、結構有名な方で、プロジェクトXとかにも出てた方なんですよ。
へー。
でね、この方の名前、この方ね、法隆寺の宮大区なんですよ。
なんか見たかもな、遥か昔に。
あ、ごめんなさい。西岡恒一さんでした。失礼しました。
うんうん。読み方がね。
ちょっと今不安になって警告したけど。
西岡恒一さん。1908年生まれの方だね。1995年まで生きていらっしゃった方。
じゃあ、小田谷さんとほぼ同時代を生きた方。
そうだね。
で、この方の本何冊かあって、僕も読んだことあって、すごいよかったんですけど、
あのね、この方の名前をね、いろんなところで読んで、
僕の記憶してる限りだと、まず、僕が大変敬愛している志村福美さんのエッセイに出てくる。
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あ、そうですか。
うん。で、今回小田谷さんにも出てくるし、石村道子さんの本にも出てた記憶があるなぁ。違ったかなぁ。
なんかそれぐらいね、いろんなところで見るんですよ、この名前。
なるほど。
なんかね。
なんかじゃあ本当に、いろんな人にね、何かインスペーションを与えてた方だった。
そうなんですよ。
業界越えて。
で、読んでいきますね。
気になる。
奈良に住んでいた時には、西岡さんの兄弟寮の当寮から、
いろんな話を聞かせていただいて、たいそう幸せをしたが、そのいろいろな話の中で折りあるごとに繰り返して、木は生きているということを言われたのは印象に深い。
ここに言う木は、立木の木のことではなく、材、木材の材ね。材のことで、立っている木の、生きている立っている木のことではなく、木材の材のことで。
材のことで西岡さんは、立木は立木の生き方、材は材の生き方。
仮に立木を第一の命とするなら、材は第二の命を生きているのであり、材を簡単に死に物扱いするのは承知が浅い、というのである。
高尚の認識である。巧みの認識である。
文章から始まるんです。
ニヤニヤしちゃったな、なんか、すげえいいね。
いいですね。
切った後の木材、確かにね、死んだものというふうに、見てしまいがちな場合もあるかもしれないですね。
でも材は材の第二の命を生きているのである、というんですよね。
それなんかわかりますし、もちろんそう思えない時もありますけれども、そう思う時もわかるし、
なんか、そういうふうに確かに、思いたいって思いがあるかな、なんかね、そもそも。
そうだね、そういうふうに見ている人の話を聞いて、自分もそう見れたらいいなぁってやっぱ素直に思いますね、そういうふうに聞くとね。
花とかだとさ、ドライフラワーがあるけれども、あれもある意味やっぱ第二の命だし、
確かに。
やっぱその動物とかもさ、ちょっと僕、知識なんだろうな、
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ベルということで命を奪っているということに対して、なんかものすごい大テーマがあって、自分の中に何年も。
ある意味、第二の命をいただいているというか、みたいな話だなぁとも思ってね。
この認識はやっぱ深めたいじゃないですか、簡単に死に物扱いするのは承知が浅いって。
まさに当領に言われそうな言葉だなと思って。
承知が浅い。いいね。
あってなんか、僕こういう巧みな人に言われると確かにそういうふうに思っちゃいますね。
思っちゃいますね。
だってこれ、この人たち木を商売にして、木材を商売して、やっぱりニア大工をしてますからね。
うん。
プロにはプロのやっぱり認識があるわけですからね。
そうだよね。
うーん、いっぱい見てきて、いっぱい触れて、いっぱい考えてきたわけで、それはね、気になりますよ。
石岡津根一さんなんかはね、木に学べって本の中でね、このね、当領という仕事は何かと言ったらね、
当領は木の癖を見抜いて、それを適材適所に使うことですって言うんですよ。
ほー。
木を見抜くんですよ、まず。
うん、うん、その木の特性なのか分かんないけど、癖みたいなものを見抜いて、
そしたら適材適所に使うっていう、そうやってニア大工していくんだっていう、
だからもう木を見ることが仕事だから、そりゃ木の認識が深いっていうことで、
木の認識に心を打たれる人が、こうやって小田谷さんとか、清宮博文さんとか、いろんな方が触れてるんですよ。
なるほどな。
ちょっと読んでいきますね。
はーい。
瑞稀夫。
またある時、承知が浅いというのである。高尚の認識である。巧みの認識である。
またある時、弟頭領さんが見えて、生きている木ばかりではなく、
木の死んだのも見ておいてやってください、と言う。
これも題のことを言っているのだが、木の死んだの、という言い方がちょっと負に落ちなかったので聞くと、
死んだ木と木の死んだのと、どっちでもいいようなものだし、
自分にはうまく説明できないが、どうも死んだ木といったのでは少し違うように思う。
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これね、木材はさっき生きているって言ったんだけれども、生きているものは必ず死を迎えるじゃないですか。
だから、木材にも死んだものがあるわけなんですけれども、それをさらに分けていて、
木の死んだのという言い方と、死んだ木というので分けているんですよ、この頭領さんは。
分かりやすく、死んだ木と木の死んだの。
この違いが、何なの?同じでしょ?って思うんだけれども、使い分けているのが気になるって、これ講座屋さん言ってるんですよね。
へー、材が全て死んだのってわけではないんですよね。材っていうのはそもそも生きていて、命があって、でもその命は死というものがあるから、
材の中でも生きているものと、死んだのと、死んだ木があるのか。
木が死んだのがあるのかっていう。
それに分かれてるぞと。
もう一回読むと、木の死んだのという言い方がちょっと腑に落ちなかったので聞くと、
死んだ木と木の死んだのと、どっちでもいいようなものだし、自分にはうまく説明できないが、
どうも、死んだ木と言ったのでは少し違うように思うって言ってくれたんです。
で、打ちた木、され木、
救済、廃材、どれもぴったりとしない、やはり木の死んだものというのが一番当たっている、という。
普段、言葉のことなど決してうるさく言わない人だったから、こんなにきつく主張するとは、よほど思い込んで考えた挙句だろうと察した。
って言うんですよね。
これじゃあちょっと、読んでいきましょうかね。もうちょっとね。
木の死んだの、死んだ木、その違いがつかめなくて困った。
腐ったというのではないと思う。
腐敗の更新している間のじとついた汚らしさを、これらの木が経過した様子はない。
朽ちたというのは、そう見当外れでもなかろうか。
しかし、朽ちたと言えば、やはり汚らしさや陰気を伴う、これにはそういうものがなく、がらりとしている。
置かれた部署で長く長く世に立ち、いつ使い尽くそうともなく、気がつきもせぬほど痛みなくで使い果たし、死ぬとも覚えず命を終わった、というような、死の穢れのない終焉をした木、
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当霊は木の死んだのと呼ぶのかと思う。
いわば、無垢の天然死というような含みがあるのだろうか。
だから、外部から死の原因になる悪い病気だの、最悪なのを受け、病み苦しんだものをあるいは死んだ木と言うのかと思う、と言うんですよ。
ちょっと整理するとね、死んだ木っていうのは、外部から死の原因があったっていうんですね、何らかの病を受けて死んでいった。
で、木の死んだのっていうのは、そうじゃなくて、まあいわば、寿命で死んで亡くなっていったっていう、ずーっと長く長く世に立ち、使い果たされ死ぬとも覚えず命の終わった、死の穢れのない終焉をした木、それを当霊は木の死んだのと呼ぶのかと思った、って言ってるんですよ。
木の天然死って書いてありました?
そう、これね、厳密にね、ごめんなさい、木っていうのは純粋みたいな木と、もう一個木って続いてて、苦しみのない木、いわば木の天然死といった含みがあるのだろうか、こういうふうに使い分けていて、
まあ、あ、ごめんなさい、これもね、高田家がそういうふうに感じ取ったわけですよ。
はい。
うん、通りさんの話を聞きながら。
これちょっと続き読むと、
これは当霊さんに聞き正したわけではなく、私の推察だから違っているのかもしれないが、何にせよ、交渉の巧みの識別というか、この当霊の人柄というか、とにかく独特の言葉選びが強く印象に残っている。
言葉遣いから言えば、正しいかどうかわからないが、先の木は生きているといい、またこの木は死んだのといい、在と在と相対して物を言っている後人の前では、ただその心情、感覚を迫ってみようとする以外、何もできなかった。
しかし当霊、もっと他に言いようがないんですか。木の死んだの、じゃあなんだか子供、言葉みたいじゃありませんか。でも、しようがない。それが一番いいと思うものねえ。しっかりとした切れ味だった。って言って一小切りするんですね。
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うんうん。
なんかこれ、その、まあ、やっぱり宮大工をしていって、この第二の機材という命が、こうやって長く長く、人々にもう忘れるぐらい長く用いてくださって、あの、終わりを迎えたという、
この敬意、敬う気持ちが、まあ滲み出て死んだのっていう、多分そういう尊いことで多分敬意を従っていて、一方、死んだ木っていうのは、まあそれはそれで、別の尊さがあるというかね、まあ生きることができなかったけれども、病とか天災によって、だけどもそれはそれでそれなんだっていう、
まあなんか、人々もそうですよね、なんか浪水してなくなって大養生してくれたっていう人、何か、まあ、若くしてなくなった病でっていうのを、違うじゃないですか、明らかにね。それを、機材にもやっぱりこの方々は感じ取っている。
うーん、その行き着いた先の言葉がすごく、こう、ほんと子供言葉みたいな話だけど、なんだろうね、小難しい言葉じゃない感覚が、個人的には好きですね。
そうだね、まさに素朴な。
素朴だね、素朴ですね。
うーん、なんかこのね、やっぱり、うーん、一番最初に出した小林寺さんの配信の時に、見るってことに深みがあるって言った話の、ほんとに一例だなと思っていて、
同僚、ほんとに人と一緒に、人と共に仕事をしてきたっていう人の、この人だからこそのこの教育じゃないですか、素人には同じもののように見えるんだが、そこに質的な差異を見出していくっていう、これが、なんかこの、
うーん、見ることの深さなんだよね。で、質的な差異を見出し、そこに違う言葉を当てはめていくっていう。
うーん。
これあの、僕ずっとあの、何年もかけて、あの、ベルクソンの、アンリー・ベルクソンの道徳の宗教の二元戦っていうのを、先生とともに読んでいってるんですけれども、前田秀吉先生とともに読んでいってるんですけど、
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あの中でも、ベルクソンは、道徳っていうものに、人々は一口に道徳って言うんだけれども、質的差異を見出していってるんですよね。で、違う言葉を当てはめていってる。
で、その質的差異を見抜くのが、私の仕事なんだ。私の哲学者としての仕事なんだってことを言ってるんですよ。
うーん。
そう。
それが共通するものが何かある感じがしますよね。
ねー。
うーん。
なんか我々もちょっと、何の質的差異を見出せてるかっていうと、ちょっと心もとないんですけれども、でも、やっぱりなんだろうなー、例えば、私たち聞くっていう仕事をしてるから、人々のその聞く、まあその目の前の人の話してくれた言葉に対して、何かその、なんだろうな、この言葉はこの人にとって大事なキーワードになりそうだみたいなこととか、
って感じるじゃないですか。
感じる時もあるし、そうできない時もあるけど、そうだね。少なくともそう感じる時がある。
うん。
見ようとしてる。
見ようとはしたいと思ってる。
そうだよね。
僕、やっぱり文章を読むのが好きだし、書くことも今大事な自分の営みにしてる人だから、文章を読んでもすごい感じるんだよね。
うーん。
それはなんだろうな、この言葉がこの人の鍵になる言葉なんだなっていう、ことも感じることがあれば、なんだろうな、この言葉を扉にして、こっから、この人の言葉ならざるものを感じるっていうこともやっぱり、
違いとか、もあれば、なんかいろんなものがあるなー、なんだろうな、この言葉は、これはなんか、芸売りの言葉だな。
うんうん。
誰かが言ってることを引き受けて言ってるだけだな、みたいな言葉もあれば、これはもうこの人の、別にいくから、もうこの人の血がほとばしった言葉だなっていうのもなんかやっぱり感じる。
うん。
これ多分誰もがあると思うんですけど、あのー、っていう風になんか、たぶんより感じれていくっていうのがあるんでしょうね。
あるんでしょうね、やっぱり。
うーん。
それが人によって対象が。
そう。
違う? 棟梁の前は木だったし。
そうだねー。
その点でいうと、高田さん素晴らしいよね、その、木々の死んだのって言葉に、この言葉を見に行ったわけですもんね。
要は、聞き流しちゃうかもしれないですよね、これ普通に。
そうだね、確かにね。
ここにあるし。
ここに何かあると。
感じ取ったわけですよね。
うん。
素晴らしいなって思って聞いてましたね、なんか。
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うーん。
うーん。
それも深いな。
うーん。
うーん。
で、そういう風に言ってもらえると、我々もその言葉を入口に、なんかその、質的左右の見出しっていけるっていうね。
うん。
うん。
ありがたい。
ほんとそうですね。
し、学ばせてもらいたいなーって。
ほんとですよ。
うん。
これはまあ、この随筆はまだ続くんですけど、はい、なんかご紹介したかった文章はこの辺りでございました。