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2024-12-21 24:36

#25 幸田文の木を観る態度 / 幸田文『木』より「ひのき」その2

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今回は、幸田文の随筆「木」

映画「PERFECT DAYS」で扱われたことをきっかけに読みましたが、
木への深い眼差しと、木から大事なメッセージを受け取る姿勢に、
素朴なものを慈しむヒントを秘めている、そんな作品です。

サマリー

このエピソードでは、幸田文の随筆『ひのき』を通じて、夏のひのきの姿や木の命の勢いについて議論されています。特に、木を観察する深い意味や得られる感覚について考察されています。また、幸田文の『木』におけるヒノキの特徴や、夏と秋の対比が深く掘り下げられています。木の成長や季節の変化を通じて、人生における学びや経験の重要性が語られています。

夏のひのきの観察
今日はね、そっからまずはね、 『ひのき』っていう随筆があるんですね。
ひのき。
はい。ここから行きたいと思います。 読んでいきますね。
はーい。
冒頭からです。
8月の日の木は息高い姿をしていた。
息っていうのは、意気込みの息ですね。
8月の日の木は息高い姿をしていた。
まだ遠くに見るうちから、木がかきあふれて立っていることがよくわかった。
近づいてみれば、どのひのきもどのひのきもが、意欲的に生きていることを示していた。
もし、木がしゃべり出すとしたら、こんな時ではないだろうか、
と思ったほど、その場のひのきは、積極的で旺盛なものを発散していた。
もっと伸びるのだ、もっと太ろうとしているのだ、
と言っているような、そんな意思みたいなものを感じさせられた。
木がこんなふうに気を吐くものとは初めて知った。
木の持つ命の勢いというか、正気というのがこれかと思った。
ていう出だしから入るんです。
うーん、いいね。
いいね。
木がもししゃべり出すとしたら、こんな時じゃないだろうかって、
夏のひのきを見て感じているんです。
ある木の意思を感じているんですよ、正気を。
意思をね。
命の勢いってもの。
すごいよね。木をそんなふうに見たことなかったっていうか。
でもなんかこれ、一度は二度はみんなが感じている感覚かもしれないよね。
確かにね。同時になんか映像は浮かんだっていうか。
自分のなんか、記憶の風景の中にあるものとも繋がるし。
へー。
うん。
ひのきってさ、あれって日。
一日二日の日。
太陽って意味なんだけど。
日の木、太陽の木。
あ、そうなんだ。
太陽っていうのはもうちょっと言うと、最高のものを表すっていう木なんてことで、
ひのきっていうことなんですよ。
あの日の木って日の木ブログなんだけど、日の木って。
違う漢字もあるよね。
そうだね、そうそうそうそう。
そっちのも違うやつがあったね。
語源があって、語源的にはね。
日の木なんだ。
最高のものっていうのは建築材料として最高品質のものだから。
日の木ブログとかに使われたりとかね。
古くから建築材料として使われてたわけ。
なるほどね。
法隆寺とかもそうだしね。
あと伊勢神宮とかも日の木で使われてるし。
そうなんだ。
そうなんですよ。
古事記のスサノオとかもね、日の木が用いられたりするシーンとかもあったりするぐらい。
日の木ってそれぐらい歴史もあって、古くからそういうふうに扱われてた木なんだよね。
そりゃまあいろんなものがあるんでしょうね。
なるほどね。
声が聞こえてくるような感じで。
木のね。
ちょっと続き読んでいきますね。
より増しというような言葉も反射した。
より増しっていうのは、
祈祷師さんみたいな人がね、
なんていうの?
心霊みたいなものをある人形とか子供とかに映らしてお告げを話してもらうっていう、
行為があって、その対象物のことなんですよ。
つまりこの木は何か心霊が宿ったように思えるってことなんですよ。
あーなるほど。
より増しというような言葉も反射した。
別に怖いとか恐れとかというのではないが、
いつも見る木とは今日は様子が違うといった妙な怯みが出て、
けれどもその怯みを同行の山守をよく知る人に白状する気にもなれず、
するともう一人の同行のこれは樹木に何の関心も持たない若い女性が素直な声をあげて、
なんとも言えないいい気持ちのところですねーと言った。
その通りだった。
私たちは木立のちょっと途切れた道にいて、
今正午を過ぎたばかりの暑い日を浴び、
何かも夕暮れの黒く茂った森から来る冷たい風に吹かれていた。
夏の活達な心良さを満喫しているのだった。
だがまだしばらくの間私は戸惑っていた。
今まで一度も見たことのない木の一面に初めて出くわした。
という咀嚼しきれないものがあった。
っていうんです。
木の生命の力
いいね。
これは何、じゅんさんどういう風に、なぜ選んだっていうか。
いやなんかさーやっぱり、
こうだやさんが森の中を歩いていって、
なんかただのあるものを感じてるんですね、ほんとに。
神妙ななんか。
で、それはもう誰もが感じてるんですよ。樹木に馴染みのない女性も。
なんとも言えない良い気持ちのところですねって言って。
で、こうだやさんはなんか、
今まで一度も見たことのない木の一面に初めて出くわした。
という咀嚼しきれないものがあった。
っていうんですよ。
これ、この、
まあこの感覚素敵だなって思うし。
この感覚。
この感覚を見過ごしたくないってなると思うんです。
うん。
こういう風に木を感じ取っていけるといいなって思うし、
もちろんこういう風に感じれないときは多いけれども、
でも誰もが1年に1回や2回は、こういう風に感じることってあると思うんですよね。
うーん。
木以外にも含めて。
そのレベルでね。
毎日何気なく見てたんだけれども、何かが違うみたいなことを感じられるときって、
こちらのモードが違うから受け止められることってあると思ってて、
それはやっぱり見逃したくないじゃないですか。
はー。
神田家もきっと見逃したくないって思いで、
これ筆を取ってるんだと思うんですよ。
うん。
自分で書きながらそれを確かめに行く。
忘れないうちにっていう思いがあって、
これぜひ使えてると思うから。
神田家がこの何か違うっていうものについて、
どう感じ取っていったのかってことも見ていきたいじゃないですか。
そっかそっか。
それが続いて書かれていくってことなんだ。
その咀嚼しきれないって感じがいいね。
いいねー。
いい。
何かが分かったとかじゃなくてね。
咀嚼しきれない何かがっていうのはすごくいいよね。
へー。
そっか、その絶妙な感覚からその続きが書かれていくってこと?
その本当に日常の一瞬のさ、
確かに誰にでも訪れる、
その絶妙な、
言ってみたら違和感みたいなことですよね、あれ。
そうです。
すっごいね。
ちょっと楽しみだね、それ。
じゃあ続き読んでいくね。
うん。
去年の晩週にもここへヒノキを見に来ているのだが、
その時から夏にも是非もう一度と思っていた。
そういう思い方は私に抜きがたい家庭人の癖がついているからだと思う。
若い頃に染み込んだ料理も衣服も住居も最低一年をめぐって経験しないことには話にならないのだ、
そう痛感したその思いが今も時に触れて顔を出すのである。
ヒノキのようないつ見ても同じような姿をしている木と、
木を秋に見ただけでは済まされずに、
夏もまた見ようという気を起こすのは、
植物を丁寧に見ようとする心がけからというより、
過事業で身につけた経験から出てくる、
いわば用心みたいなものである。
一年をめぐらないと確かではないという用心である。
って言うんです。
おお、気になるな。用心。
その、丁寧に見ようとかじゃないんだ。
ちょっと面白いね、その辺。
丁寧に見ようという思いもあると思います。
あるんだけども、そういう思いから、
秋に見たあのヒノキをもう一回今日夏見に来ようと思ったのは、
そういう思いもあるけれども、それよりかは、
もう私の中に無意識として、
無意識として染み込んでしまった、この過事から身につけた、
ある学びがあるんだと。
それは、一年を通して、ようやく見えてくるものがある。
うーん。
っていうもの。
ちなみに用心っていうのは、どういう感じ?
用心ってヒノ用心の用心です。
あ、用心なんだ。あの用心なんだ。
そう、つまり、何だろうな、
分かって気になるなよってことなんですよ。
うーん。
この、一年を巡らないと確かではないという用心である、
って言ってるんですよ。
だから、一年を巡らないと、
はっきりしたものが捕まえることができないってことを、
お前忘れるなよ、という用心なんですよ。
夏のその木だけ見て決めたりとか、
そう、秋だけ、前回は秋だけ見たから、
秋だけとか。
これそうですよね、ほんとね。
そうね、ほんとそうだね、言われてみたらそうだな。
僕も今、家建てようみたいなことを思って、
物件見に行ったりするんですけど、
森の中に建てたいなとか思ったりして、
見に行ってるんですけど、
やっぱり木の当たり方とかって絶対春夏秋冬で違うし、
確かに。
あるし、確かにそうだなって、
なんかね、思いますよね。
確かに。
で、なんか、我々はさ、何だろう、
なんか、ある山を登ってさ、
もう一度登ったからその山いいやって、
なんかなるのが一般的だなって思って。
そうだね、次の山へってね。
でも神戸家さんはそうじゃないんだよね。
やっぱりこの用心から来てんだよね。
もう一回夏に見に行ってみたいと思ってこれ来てるんだよ。
なるほどね。
これ聞くだけでも、
その見るってものがより深いってことが分かるよね。
そうなんですよ、ほんとね。
一回見て見たじゃないんだね。
うーん。
これ咀嚼しきれないものっていうのを少なくとも半年はね、
携えてきてるんですよね。
秋に来て。
そういうこと?そっか。
また、冬夏に見に来て。
そっか。
そう。
それぐらいのスパンって。
ま、てか、一年巡らないと分かんないって言うから、
少なくとも一年はね、
その咀嚼しきれないってものを味わえるといいですねっていう。
季節の変化と気づき
うーん。
咀嚼しないまま保持しながら。
はー。
この態度も。
そうねー。
学びたいですね、これね。
何かねー、教わるものがあるなー。
ねー。
すごく豊かな感じがするなー、なんか。
ねー。
ねー。
めちゃくちゃいいじゃないですか。
いいでしょー。
じゃあちょっと続き読んでいきましょうかねー。
はーい。
その用心をしてよかったと思う。
秋と夏とでは、ヒノキの様子がまるで違った。
夏のヒノキは、とにかく静かになどしていない。
音を立てて生きている、といった姿だ。
いたずらに聴診器を自分の胸に当ててみると、
体内はごとんごとん、
ゴーゴーと相当ショッキングな音を立てているのに驚かされ、
これが生きている人体の音なのか、と、
今さらながらに、
何か頼もしいような、少し空恐ろしいような、
気まじめな気持ちにさせられるが、
夏のヒノキは見るからに、
その生きる騒音を幹の中に内蔵していることが明らかだった。
しかも、体内の音ばかりでなく、
もっと伸びる、もっと太るといった、
石のようなものまで示していた。
こんな姿を秋のヒノキからはどう想像できよう。
秋に見たとき、ヒノキは異常であった。
ヒノキの特徴と季節の変化
声を感じさせ、音を感じさせるものなど、
けぶりも持っていなかった。
静かに、無言に、おとなしげであった。
おとなしげに、優しげで、
それだから親しく思うことができた。
体重は大きく、丈高くて、
おのずから威厳はあったが、
それですら親しみやすい仁和を示していた。
今、夏のこの意欲的な木を見て思い合わせれば、
秋のヒノキの異常さは、
あれはくつろぎの時期にあたるものだったろうか。
激しい夏の生活を終え、
蓄積すべきものはすでに十分に満ち、
冬を迎えるまでの残事を、
安らいでくつろいでいた姿に違いないと思う。
ただ静かで、無言なのなら、
そうたやすくは親しめず、きっと冷淡さを感じたかもしれない。
それがむつみやすく思えたのは、
木が急速をとっていたせいだ。
夏の大青さを見ると、
秋の異常さは急速だということがはっきりするし、
秋を知っていたから、
夏のおおおと落とせんばかりの活力を感じれたと思う。
紅葉樹は、裸の枝に青く芽吹き、
花をつけ、実を結び、葉を染め、
そしてまた裸にぬいで骨を見せる。
いろんな派手な芸当をするから、
一人でに一年中なんとなく芽をやる機会があるが、
新葉樹にも四季があることはつい忘れて、
一度見ればそれで知ったつもりになる。
木が騙すのではないが、
常葉樹の地味な外見が人に早飲みをさせると言っていいようである。
それにしても、火事の経験というものもそう悪くないと思う。
最低一年間を手掛けてみなければ話にならないという掟が、
日の木で聞いたには意外であった。
経験と学びの重要性
っていう。
ここからまだ続くんですけど、一旦ここ一区切りもういいんで。
いやー、なんか味わい深いね。
夏と秋と、秋と夏と二つ巡って、
比較することができて、
より掴めるものがあった。
そうだね、そこも一生懸命。
比較できてるからっていうね。
そうなんだよね。
これ学びになるよね。だからやっぱりある一つのものが、
わからないものが潜んでるけど何かあるとは感じていって、
それをじっと見ることで掴めるってことももちろんあるでしょう。
でも何か比較対象があって、掴めるものもあるっていう。
で、その比較先を何か違うものでももちろん感じるだろうけれども、
一つ、施設が違うときに見てみるのはどうでしょうかっていう。
そうだね。
同じ対象物の時間軸の違うところをもう一回見てみるっていうところっていうね。
そうだね。
すごい学びがあった。僕自身インタビューの仕事してるから、
人間にも同じこと言えるかもね。
その瞬間のその人、例えば仕事、仕事してるその人、
だけ見てもやっぱその人はわかんない。
なるほどな、なるほど。
そうだね。
聞いてる人も思い思いに何か、なんだろうね、
適用できそうなそういう話だった感じがしたね。
人生の季節というものがあって。
そうだね、確かにね。
たまたま今日インタビューさせてもらったのは、
その人にとってのある人生の夏の場面だったけれども、
また秋になり冬になりみたいなんで。
そうそうそう。
そうだね。
そして最後火事だって、やっぱり火事、
火事の話もう一回出てきたのもちょっと印象的だった、なんか。
なんだろう。
神田さんにとってのその火事みたいなものの時間とか経験みたいなものが。
そうだね。
なんだろう、すごく大切なものとして受け取られてるんだろうな。
うーん。
まあこれ、書かれたのが本当に昭和だから、
昭和の時代っていうこともあって、
専業主婦がまだ多いけれども、
その中に人生の学びがやっぱりあるってことが、
なんか、
大体って思いもあるのかもしれないですね。
うん。
その日常っていうものの中にっていうかね、
そういうことなのかな。
うん。
いいね。
この夏と秋の違いを、
なんかこういうふうに感じ取れるっていうのも、
なんか面白いなと思って。
うん。
なんか、なんだろうな、
その、
私たちって日々いろんなものを経験していて、
で、
その、
木の四季とその変化
まあ1年経ってようやくわかるっていうことがあるっていうことはもう、
これは人間の差がだと思うんで、いいと思うんです。
うん。
で、それがだんだんつかめてくる。
で、そこに言葉をうまく当てていくってことを行ってくれていて、
言葉を与えてくれるから、
なんかこうやって、
なんだろうな、自分もその実感を確かめることができるし、
他者と分かち合うことができるじゃないですか。
うん。
小田谷さんがこうやって、
夏のヒノキと秋のヒノキの違いを言葉を当ててくれると、
ああ確かにそうだって。
なんか、我々もなぜか感じちゃうんですよね。
そうだね。
うん。
そうだね。なぜか感じちゃう。
感じちゃう。なんか、
まるで秋のヒノキと夏のヒノキを見てないんだけど、見たかのような。
そうだね。
そうだね。
それすごい不思議だよね。
うん。
そうなんだよね。
経験するっていうことが何なのかですけど、
実際生でヒノキを見るっていうことで感じる。
そうじゃないと感じれないこともあるけれども、
この随筆というか小説というか、
言葉を読んで、
ヒノキと出会っていくということもできるっていうね。
確かにそれ面白いテーマだね。
経験ってなんだろうって。
どうなのよ、そうなのよ。
山登りしてる人とかにもさ、
この木、やっぱ読んでほしいなって思うし。
また違う感じ方ね。
そう、出会い直せるというか、
自分が実際に見たあの山に対して、
そうだ、あの山はこの感覚なんだみたいなことに
つなげるっていう良さが、
なんかこの木からなんか感じれると思うから。
確かに。
いいし、もちろんこの木を読んで、
実際ヒノキを自分も見に行くってことも起こると素敵だしね。
うん、確かに。
山登り好きな人に今度勧めてみよう。
この本をね。
いやでもそうだね、経験って面白いね。
だって、夏のヒノキと秋のヒノキを比較しようなんて、
僕人生で一回も思ったことないけど。
でもあの文章を読んだら、
なんていうの?
何かの僕。
だから僕が経験したものに符号されてるのか、
新しく今それを読みながら経験してるのかわからないですけど、
少なくとも何かを共有できてるじゃないですか。
めちゃくちゃいいですね。
紅葉樹はさ。
紅葉樹。
桜とかモミジとか紅葉樹だね。
ああいうのはさ。
裸の枝に青く芽吹き、
花をつけ、
実を結び、
葉を染め、
そしてまた裸に脱いで骨を見せる。
これも素敵な表現ですけど、
見事に描いていて、
そうやって四季折々に姿を変えて見せてくれるから、
なんだろう、また春に見たい、夏の姿を見たいってこう思えるんだけども、
新葉樹林はね、
特に、なんていうの?
常緑新葉樹というか、
ずっと葉をつけてずっと緑の新葉樹。
まあ、日の木がそうだし、杉とかもそうですよね。
で、こういう姿は四季折々に姿を変えないから、一見。
一見ね。
だから、一つの季節で、
なんかやっぱ、日の木ってこうだなって分かった気になっちゃうんだけども、
そうじゃないんだっていう。
うんうん。
本当だね。
確かに。
確かによ。
一見って文字通り一見なんだろうね。
一回見てるだけだからね。
そうだね。
まあちょっと、はい、まず日の木とより一斉に、こういう感じでございました。
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