2021-03-07 29:51

#45 /3/7 賢い証し人

コロサイ4:3-6からの礼拝メッセージ。2021年3月7日録音。キリストを証しする上での大切な3つの要素をパウロの言葉から学びます。場違いな振る舞いでひんしゅくを買わない証についてパウロが教えています。
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コロサイビットへの手紙、4章3節から6節、新海薬聖書2017年版でお読みします。
同時に私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。
この奥義のために私は牢に繋がれています。また、私がこの奥義を語るべき語り方で明らかに示すことができるように祈ってください。
外部の人たちに対しては、機会を十分に生かし、知恵を持って行動しなさい。
あなた方の言葉が、いつも親切で塩味の効いたものであるようにしなさい。
そうすれば、一人一人にどのように答えたらよいかがわかります。
以上です。今日はこのところから、賢い証人、賢い証人と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。緊急事態宣言が延長になり、
本当は今日でオンライン礼拝も終了の予定でしたが、後でもお知らせしますが、
3月21日後2週間、このような形の礼拝で継続していきます。
あまり、いわゆる自粛ムードを実感していない人たちが多いかもしれません。
私も含めて、教会の方々は外に働きに行くような方が多いかと思います。
しかし、いわゆるロックダウンと海外では英語では言われていますけれども、
そのような緊急事態宣言下においては閉じ込められているわけです。
実はこのパウロももっとひどいエペソの獄中にこの当時いました。
殺された人の手紙の宛先は大体この辺り、ナオデギアのそばですけれども、
おそらくこの当時パウロはエペソに盗獄されていたのではないか。
そしてそこからコロサイの教会にあててエパフラス、コロサイの教会を信仰に導いたエパフラスに託して、
パウロとあるいはテモテが共に手伝いながら書いたコロサイグテの手紙を届けたと言われています。
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そしてパウロはこの手紙を締め袋にあたってコロサイ教会の人々を彼の福音宣教に招いています。
今日の御言葉にもありましたが、
違法人に隠された奥義、キリストの救いを明らかにするというそのパウロの福音宣教の使命、
それにコロサイの教会の人々を二つの方法で招いています。
一つはですね、今日の三節四節にはありましたが、
私たちのために祈ってくださいと福音宣教に直接携わって登録されているパウロ、テモテのために
門が開かれて語るべき語り方ではっきり語れるように祈ってくださいとの祈りの招きでした。
この祈りは先週の祈りの招き教えから続いています。
そしてその福音宣教の招きへと入りながら、
二つ目の福音宣教の招きをパウロはしています。
それはコロサイ教会の人々もその使わされた場所において
証人となるようにパウロは招いているわけです。
コロサイ人の人々もそして私たちもいわゆる違法人として
神の奥義、キリストの救いの奥義が隠されたままでありましたが、
目が開かれてイエス様を信じ、神のために加わりました。
そして今、実は私たちが生活している日本ですけれども、
私たちの周りの方々もその目が開かれていないある意味、
彼らにとってもイエス様の救いは奥義のままである。
そして私たちが生きた証としてその救いを明らかにするように
パウロはコロサイの人々もそして今、時代を越えて私たちを招いているわけです。
今ここに出ましたね。
二つの招き、そして今私たちは私たちの周囲にいる違法人、
不信者の方々にキリストを明らかにする使命が委ねられています。
これをクリスチャンの用語では証の生活と言うんですね。
このような責任を聞くと私たちは不安に思うかもしれません。
それはあまりにも大それた使命であると。
このような不安に応えながら、
私たちはクリスチャンの証の生活について三つの点からお話ししていきます。
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不安といえば例えば、
およそ宗教や信仰には程遠い日本という環境の中で、
この場違いなことを言ってキリスト教について触れて貧縮を買わないか、
そういう不安があったり、
あるいは福音を伝えると言われても語るべき内容もわからないし
語ること自体にも自信がないと思うかもしれません。
そのような不安に応えるためにもパウルの言葉に耳を傾けていきましょう。
まず第一の点ですね。
その場違いにならないために外部の人たちに対しては
機会を十分に活かし知恵を持って行動しなさいとパウルは教えています。
この四章五節の言葉、
これはですね、言語を見ると順番が違っているんです。
この見方は、ちょっと皆さんでもう一回読んでみましょうか。
外部の人たちに対しては機会を十分に活かし知恵を持って行動しなさい。
言語を見るとですね、まず最初に知恵を持って行動しなさいという言葉が最初に来ています。
この知恵を持って行動する別の日本語の訳では
知恵の内を歩みなさいとなっていたり、あるいは懸命に振る舞いなさいということです。
ある学者もこの歌詞を解説してこう述べているんですね。
ある注意を語っています。
知恵深く行動する、それはパウルは
クリスチャンの行動がこの世の批判や噂話の対象にならないこと、その重要性をよく知っていたということなんですね。
ですからまず私たちにとって大事なことは、やみくもに福音を語れば良いというのではないわけです。
知恵深くというのはですね、賢くとも言われていますが、
まず私たちある人はですね、証のために職場に行くなんて人がですね、私が学生時代よく聞かれました。
その前に、証の前に社会人としてまともに仕事をしなさいと注意をされたこともある人もいましたけれども、
まず私たちはそれぞれの使わされている場所において賢くというか、常識人としてきちんと責任を果たしていくことが最低限必要なわけです。
その上で大事なことはですね、失礼しました。
例えばですね、パウロはですね、私たちとは違って、もしかしたら聖書を読むとバチガエのような大胆に語ってですね、そして投獄されたと思う人もいるかもしれません。
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でも彼が大胆に語った時にバチガエと思えるように語ったその文脈はですね、ユダヤ人のカイドウというところが大きく取り上げられています。
つまり一番最初に救い主を信じるべき人たちがイエス様を拒んで十字架にかけた。聖書を悟らなかった。
そういうことがあってパウロは当時のカイドウではっきりと旧約聖書からイエス様が救い主だと語りました。
それ故に反対を受けて、そして時にはローマとも対立して投獄されているという文脈がありました。
それはですね、パウロに限ったことであって、コロサイ教会の人々には機会を捉えて資料深く明かしするように、そう命じていた。
ある意味はそういうコントラスト対比があるわけです。対照があるわけですね。非常に興味深いことです。
何度も申し上げますが裏を返せば、私たちがですね、人の迷惑を顧みずに福音を明かしすれば良いということではないんですね。
もちろんイエス様を信じている、あるいは少数派のクリスチャンであるが故に、不必要な偏見を受けてですね、不利な立場や批判を招くことがあるかもしれません。
しかし、あえて私たちが明かしの故に非常識な行動を取れば良いというのではない。
そのことを私たちが知っておくことは、安心を与えるのではないでしょうか。
繰り返しますがパウロはまず、知恵深く賢く行動しなさいと教えています。
実はその点は第二の点と関係してくるわけです。
第二の点、機械を十分に活かしなさい。
先ほどの誤説の最初の部分ですね、パウロスを教えています。
実はこの機械を十分に活かす、ギリシャ語を丁寧に見るとこうなります。
この十分に活かすというのは、エクスアゴラ像と言います。
このエクスというのはですね、外にという意味です。
このアゴラ像のアゴラというのは市場のことを指します。
ですから文字通り元々の意味は、市場を巡り歩いてそこから品物を買い上げる。
そこから品物を選んで買い出すという、そういう意味がこの言葉にあるんです。
十分に活かすの言語です。
そして機械というのは、ギリシャ語でカイロスと言います。
カイロスという言葉は聞いたことがあると思いますがそれは、
カイロスというのは、いわゆる時間の流れの中で起こってくる決定的な時を言うんですね。
例えば子供の誕生した日時、あれや地震等の時刻です。
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これら子供の誕生や地震の時刻は明確に何月何日何時何分という決定的な時刻があるように、
カイロスにはそのような決定的な時という意味があるんです。
だから機械を十分に活かしなさいというのはですね、ある面、チャンスの時を買い上げなさいというニュアンスです。
それはですね、例えば、これ分かりますね。
マグロのせり、今外国人の観光客が少ないですけれども、ほとんどいないですけれども、
この観光客の人気スポットの一つは、築地あるいは今は豊洲のこのマグロのせり。
これが非常に人気があったわけですね。
そしてこのせりというのは皆さんもご存知のように、
この場合はですね、並べられていますけれども、
せりというこの時間の流れの中で、この希望価格の声が一個一個の市内に対して上がるわけですね。
そして皆さんがこのお目当ての、せりをする人がお目当てのものが出てきたらですね、
このここぞという時に落札価格を伝えるわけです。
そして初せりではある寿司チェーンの社長が何億円でせり落としたというのが有名ですけれども、
これだというものに対しては、その時におつかんで金額を伝えてものをせり落とすわけですね。
このようなニュアンスが機械を十分に活かすという言葉にあるわけです。
これはパウロの言葉にぴったり当てはまるんですね。
つまり日々の流れの中で明かしの時が訪れる時がある。
その時が来たら機械を逃さないように捉えて、必要なことを語りなさい。
そういうことなんですね。
私も経験したことがありますが、
突然教会に行っているとかクリスチャンだって話があった時に、
その相手からどうして教会に行くようになったんですか、
なぜクリスチャンになったんですかと聞かれることがあるかもしれませんね。
その他の会話の流れの中で、キリストの信仰を明かしする機会が訪れることがあるかもしれません。
そしてですね、そういう時を見極めるために、
ふさわしい時には黙っているということ。
これは賢く生きることでありますし、
そして今こそキリストの証をする時だというのを悟ってですね、
その時を悟ってそのふさわしい言葉を語るというのも、
賢く生きるというここでのパウロの意味であるわけなんです。
そしてこのような誰かに尋ねられることをパウロは想定してか、
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六説で次のように教えているわけです。
まあ今言いましたね。
会話の流れの中でキリスト教信仰を明かしする機会が訪れるかもしれません。
そういう時を見極める時ですね、
今は違うなという時は語らない、
そしてその機会が来たら言葉を語る、
そういう見極めることこそ知恵深く行動することなんです。
そして尋ねられることを予想してか、
パウロはこのように続けています。
みなさんその場で読めたら読んでみましょう。
あなた方の言葉がいつも親切で塩味の効いたものであるようにしなさい。
そうすれば一人一人にどのように答えたらよいかがわかります。
4章6節
この答える時にその秘訣、
時々に応じた答え方を知るための秘訣がある、
それは親切で塩味の効いた言葉を語るという心構えです。
この点について最後を見ていきましょう。
ここでですね、まずちょっと細かく二つに分かれますが、
親切でという言葉を見ていきましょう。
この親切でというのは直訳すると親切は恵み、
ギリシャ語のカリスという言葉なんです。
恵み深い言葉が親切な言葉、
例えば相手がキリスト教に対して無知である場合に、
そういうことを非難しない、
あるいは信じないと裁かれるよという裁きの言葉を
安易に口にすることでもありません。
例えば日本人の方々ではよくあるのは、
カトリックとプロテスタントの違いがわからない方もいらっしゃいますね。
私も牧師ですけれども、わからない方は神父さんと言うんですよね。
神父さんは結婚してはいけませんから、
ちょっとそれはまずいわけです、私は最大者ですから。
そういう基本的な知恵もわからない。
私はそういう時は特にもちろん批判もしないし、
訂正しない場合も時に応じてあるんですね。
そういう相手のキリスト教の無知に対して、
すぐに批判したり正さないということもあるかもしれません。
あるいはこの恵みの言葉というのは、
非難されるべき人を非難しないという、
許しと恵みの言葉と言えるかもしれません。
そういう言葉自体が福音の証になるということもあるでしょう。
この親切な言葉とは、
神の恵みを明かしするような態度に裏付けされたりした、
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またそのような言葉であるということです。
塩味の効いた言葉。
この教会のそばに、前夜というラーメン屋さんがありますね。
私もよく通ると、たくさん人が並んでいて、
食べたいなと思いますけれども、並ぶのもどうかなと思ってですね、
何年も過ぎてしまいました。
時々そうですね、このカップラーメンを買って食べたこともありました。
ある時はですね、テレビを見ていたら、
山形の有名ラーメン店の店長が、
わざわざ前夜に食べに来たなんてことをやっていてですね、
やっぱり有名なんだなと思ったこともあります。
それは何よともあれ、
塩味の効いた言葉とは一体何でしょうか。
ある学者は二つあると言ってですね、
一つ目はですね、塩は当時防腐剤の役割をしていた。
物を腐らせない、清める役割をしていたので、
何かその場の雰囲気を清くする、正すような言葉と言えるという場合もあります。
そしてもう一つはですね、塩味の効いた言葉の反対の意味として、
味気ない言葉。
親分のつまらない言葉です。
例えば門切り型の言葉とも言われてまして、
イエス様の十字架を信じれば、
罪が許され永遠の命に預かりますということを、
いつでもこのことしか言えないとかですね、
そういうことを繰り返せばいいということではないんです。
でももちろんこの真理は大事ですよ。
でも代表されるように、
福音の証のために定形句を覚えて、
それを所構わず言い続けなきゃいけない、
そういうものでもないわけです。
陳腐なつまらない言葉、ありふれた言葉、
取ってつけたような言葉、
そういうのを語り続ける言葉ではない、
ということがまず塩味の効いた言葉の反対の意味だということですね。
そしてですね、この塩味の効いた言葉、
別の裏を返せばですね、
これはパウロに実例を見ることができるかと思います。
皆さん、使徒の働きを読んだことがあるでしょうか。
使徒の働きの中でパウロは、少なくとも3回ですね、
自分の救いの証を法廷などで語りました。
このようにですね、私たちもこの間教会で配った
自己紹介と祈りの課題のカードの中にあるように、
自分なりのキリスト教との出会いや、
イエス様を信じた背景があるわけですね。
そのような自分なりのイエス様との出会い方、信じ方、
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それを自分の言葉としてですね、
私はこうして救い主イエス様に出会い、
イエス様を救い主だと信じたという、
そういう証を自然に語れれば良いということなんですね。
これは先ほど映画で出ましたが、
ある学者はこれをテーラーメイドの証と言うんですね。
最近の人たちは分からないと思います。
スーツと言いますね。
今、卒業式、入学式、入社式のシーズンで
スーツを着ている人たちをこれから見る機会があるかもしれません。
あるいはコロナ禍において自粛でなかなかないかもしれませんが、
今は洋服のなんとか青山とかを着ていますけど、
そういうところで出来合いのスーツを売っているわけですが、
こういうテーラーメイドのですね、
本当にその人その人の寸法に合った背広を着る、
そういうことが良しとされるわけですね。
作ってみたいなと思うかもしれません。
それはもうその人のサイズにぴったり合ったものを作るわけです。
こういうことを言われたりですね、
あるいは例えば最近であれば、
皆さんがスマホやパソコンで見るインターネットの画面、
フェイスブックの広告、
そういうのもですね、テーラーメイドですね。
Googleなりフェイスブックなりが皆さんの閲覧情報を読み解いて、
そして皆さんに合った広告を出してきたり、
YouTubeのページを提案してきたりするわけです。
そのようなそれぞれの個性や好みに合ったという、
そういう売り方が最近の常でもあるわけです。
インターネットの言い忘れ。
このようなことでですね、
証を聞く信者さんにとっても、
また語る私たちにとっても、
人それぞれあるのが、
このキリスト教との出会い方なんですね。
まああえて言いますが、
まだ福音を知らない、いわゆる違法人、
クリスチャンでない方々にとっては、
その人なりのキリスト教との出会い方があるかと思います。
その人なりに合ったメッセージの聞き方があるかと思います。
そして同時に、私たち証をする方にも、
私たちなりのイエス様との出会い方があるわけですね。
そしてもしかしたら、
あなたの出会い方が、
誰かの福音宣教への興味にぴったり合うかもしれません。
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あるいは不思議なほどに、
意図していないあなたの証が、
人々の心を打つかもしれません。
例えば私はですね、
大学1年生の4月に、
イエス様を救い主として信じました。
その大きなきっかけを持つ前にですね、
高校時代の仲の良い友達に、
カトリックのクリスチャンがいたんです。
簡単に言うと、
およそ私たちと変わらない生活をしていたわけですが、
彼はですね、
幼い頃に洗礼を受けていたがゆえに、
自分がクリスチャンだと思っているわけですね。
だから、
俺クリスチャンなんだよって言うんですよ。
で私はですね、
その当時、
キリスト教に興味なかったんですけれども、
クリスチャンっているんだっていうことを思っていたんです。
そして、
後々イエス様を信じた後に振り返ってみると、
彼のですね、
そういう何気ない、
英語で言えばナイブなですね、
クリスチャンのフォームに生まれて、
小さい時洗礼を受けたから俺はクリスチャンだという、
そういう言葉がですね、
実は私がキリスト教に興味を持つきっかけの一つでもあった
ということに気づいたわけです。
ですから、
私たちそれぞれそれぞれなりの、
イエス様との出会いがありますから、
それを檻に触れて語っていく、
それを神様が用いてくださると知ることが良いかと思います。
3つの点からお話ししましたが、
最後にとても大事なことを忘れてはいけません。
それはですね、
精霊様が導いてくださる。
一番大事なことは、
神様ご自身が証の責任を取ってくださる、
あるいは証を導いてくださるんです。
なぜなら、
神様ご自身が人々をイエス様の救いに導きたいと
願っておられるからです。
その神様ご自身の導きがあるがゆえに、
また、
神様ご自身が私たちに語るべき機会を与えてくださり、
またその語るべき知恵の言葉を授けてくださる。
そのことを信頼して私たちは、
無理をせず、
賢くそのチャンスを見極めながら、
そしてそのチャンスが来たら、
神様を信頼して証の言葉を語りましょう。
そのためには何度も言いますが、
普段から自分のキリスト教徒の出会いなどを考えておく、
あるいはこういうことを語ろうと備えていくことも大事でしょう。
あるいは意外にですね、
インパクトがあるのは、
自分の心の支えになった聖書の言葉、
その言葉を覚えておいて、
それをさりげなく、
まさに機会があった時に伝える、
それも人々の心に残るものなのです。
何よともあれ、最も大事なことは、
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最終的には証の責任、
それは神様が取ってくださり、
語る言葉も神様が備えてくださるのです。
その御言葉を二つ見て、
この説教を締めくりたいと思います。
一つは第一ペトロ三章十五節です。
ちょっとこれを読んでみましょうか。
むしろ、心の中でキリストを等し、
聖なる方としなさい。
あなた方のうちにある希望について、
説明を求める人には、
誰にでも、いつでも、
弁明できる用意をしていなさい。
続いてイエス様の御言葉、
ルカの十二章十一節から十二節です。
読んでみましょう、読める方。
また、人々があなた方を、
カイドウや役人たち、
権力者たちのところに連れて行った時に、
何をどう弁明しようか、
何を言おうかと心配しなくてよいのです。
言うべきことは、
その時に聖霊が教えてくださるからです。
神様の導きに頼りながら、
また私たちも備えながら、
明石の機会に明石の言葉を賢く語る、
塩味の効いた言葉を語るお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、
宣教者パウロ、
そのパウロを通して、
あなたが御言葉を語ってくださったことを感謝いたします。
私たちにも、
この救いを明らかにする役目が委ねられていることを覚えます。
大それたことであり、
恐れを覚えたり、
足りなさを覚えることでありますが、
神様御自身が私たちに救いの経験を与え、
また語る言葉や知恵を与えてくださることを感謝いたします。
どうぞ私たちが神様に頼りつつ、
また自らも賢く備えながら、
あなたの証人として、
賢い証人として、
使わされたところで、
あなたに用いられるようどうか導いてください。
これらの思いやまた、
その尊い使命に対する導きを、
あなたにお委ねして、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらく一分ほど、
それぞれの場においてお祈りしてください。
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