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コロサイ4章、15節から18節。
どうかラオデキアの兄弟たちに、また、ニンパと彼女の家にある教会によろしく伝えてください。
この手紙があなた方のところで読まれたら、ラオデキア人の教会でも読まれるようにしてください。
あなた方も、ラオデキアから回ってくる手紙を読んでください。
アルキポニ、主にあって受けた務めを、注意してよく果たすようにと言ってください。
私パウロが、自分の手で挨拶を記します。
私がローに繋がれていることを覚えていてください。
どうか恵みがあなた方と共にありますように。
以上です。今日はこのところから、神に覚えられている幸いと題して御言葉を取り継ぎます。
改めまして、おはようございます。
2度の緊急事態宣言が明けたと思ったらまた、難しい、ちょっと私も分かりませんけども、
マンボウだか何だか分かりませんが、そういうものがまた東京に発令されたようです。
とにかく、このような状況でですね、本当に久しぶりにまた礼拝に務まれた方もいらっしゃいますし、
また、緊急事態宣言明けからですね、礼拝をインターネットと同時配信で行っていて、
まあいろんな体調や事情から、礼拝をズームで参加する方も今もいらっしゃいます。
さあ、いよいよですね、今日は殺さえびとの手紙の最後の学びです。
その終わりの締めくりの言葉から学びましょう。
今まで申し上げましたが、人と気軽に会えない昨今ですね。家族でも会えない。
その中、手紙は今あまりありませんが、SNSのやり取りが増えています。
そしてパウロはですね、この殺さえから150キロ離れたエペソーという町にあって投獄されていましたが、
そこで手紙をこう締めくくっています。前にも掲示しました。
ちょっと読んでいますね。皆さんも小さい声で読んでみましょうか。
私パウロが自分の手で挨拶を示します。私がローにつながれていることを覚えていてください。
どうか恵みがあなた方と共にありますように。
まさにこれが最後の言葉ですが、ここから分かることはですね、
パウロが自分の手で挨拶を示しますと書いていますから、
実は実際ここだけがパウロが手書きで書いた手紙の部分です。
当時よくあったんですが、後日筆記、おそらく弟子の手も手がパウロから聞いたことを書き記して、
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最後にパウロが自分の手紙だという、そういう心象性と権威づきをするために実質で挨拶を送ったようです。
パウロの手紙の多くがそういう形で書かれていますから、皆さんちょっと一般常識としてそういうもんだということを知っておいてください。
今日はですね、三つ目のポイントのうちの最初のポイントは、
手紙に書かれているところから読み解ける手紙の背景、そういうものからまず学んでいきます。
そして手紙の中身を見ると分かってくることから一つ、そして最後の二つはですね、神に覚えられる幸いということを見ながら三つの点から学んでいきましょう。
まず最初第一点、他の手紙との関係についてですね。
パウロはこの直前の終わりの前の17節でこう書いています。
ちょっと読める方はこれ前の部分読んでみましょう。
アルキポに主にあって受けた務めを注意してよく果たすようにと言ってください。
実はこのアルキポという人はですね、牧師ではなかったですけれども教会を何か任されていたようです。
その人に対する伝言なんですが、このアルキポという名前がピレモンへの手紙という個人宛の手紙でもやはりパウロは書いているんです。
そして先日取り上げた4章10節以下にですね、パウロと今一緒にいる人からよろしくと伝えてよろしくと言っていますというのが出てきましたね。
4章10節以降だとですね、エパフラスとかルカとかですね、あるいは聖書の書いたルカとかマルコからよろしくと言っていますというんですが、
実はそれがこのアルキポも出てくるピレモンへの手紙にも出てきます。
ちょっとこっちに掲示しました。長いんですけれども、ピレモンという個人宛への手紙ですね。
よく新学生時代ふざけてですね、ピグモンへの手紙とか言ってましたけれども、ピレモンという人への手紙の中に出てきます。
締めくりで、エパフラス、ここですね。
キリストイエスになって私と共に囚人となっているエパフラスがあなた方によろしくと言っています。
エパフラスというのはコロサイ教会を伝道して立て上げた人ですが、その他私の道路者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。
ここから何が分かるか想像つきますか。
おそらくパウロはエピソードの極中でコロサイ人の手紙と一緒にこの個人宛のピレモンへの手紙を書いているということなんです。
そしてこのコロサイ人の手紙とピレモン宛への手紙をテキコという人に持たせて同時にコロサイに届けたということが分かるわけです。
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そのことを覚えておいてくださいね。ピレモンへの手紙とコロサイ人の手紙が一緒に届けられた。
そしてもう一つの手紙との関わりを見ます。
前にも掲示しましたが、やはりコロサイの4章の締めくり15から16でパウロがこう言っています。
ちょっと読んでみましょう。
この手紙があなた方のところで読まれたら、ラオデキア人の教会でも読まれるようにしてください。
あなた方もラオデキアから回ってくる手紙を読んでください。
ちょっと見にくいかもしれませんが、ラオデキアとコロサイの位置関係を地図に書いています。
ここがエゲ海で海岸沿いのエペソというところにパウロが登録されていました。
ここから約150、160キロ離れたコロサイの教会への手紙ですね。
コロサイから50キロくらい離れたラオデキア。
ここにも手紙が入っているから、ラオデキアの手紙とコロサイの手紙、お互い交換しあって、そこからそれぞれ学びなさいということです。
ここですね、書いていませんが、リコス川という川沿いに渓谷があって、そこにこの2つの渓谷とともに町ができたと言われています。
この50キロ離れた、それぞれの教会にあった手紙を回してみなさいと言うのですが、実はこのラオデキアから回ってくる手紙が何かということをよく学者は議論しています。
おそらく、概然性が高いのはエペソビトの手紙だったのではないかと言っているのです。
詳しいことを抜きにしますが、エペソビトの手紙とされて今、聖書に載っているものがラオデキアにも届いていて、
同じ地域でお互いの手紙を交換しあって、家の教会で読み合わせたということです。
どういうことかというと、いつもコロサイの中で言ってきましたが、
エペソビトの手紙とコロサイビトの手紙は双子の手紙と言っていました。内容が似ています。
そして、強調点が違っていて、それぞれの手紙で詳しく書かれている部分と簡単に書かれている部分が違っているのです。
つまり、このエペソビトの手紙とコロサイの手紙を両方読むことによって、
パウロがこの時伝えたかったことが両方の教会にしっかりと伝わったということ。
2つの手紙を学ぶことによって、私たちはこの時タイムリーでパウロがコロサイの人々に教えたかったことを学ぶことができるということなんです。
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そこからですね、私はこう考えました。
先ほどピレモンの手紙はコロサイ書と一緒にコロサイに届けられてピレモンという古人に渡ったと言いましたけれども、
今日でこのコロサイビトの手紙の学びが終わります。
その後、ピレモンへの手紙を学びます。
新約聖書で一番短い手紙。1章しかないんです。
そしてそれを何週間かかけて学んだ後、今度はエペソビトの手紙を学ぶ。
それがちょっとこれから先の礼拝の御言葉のスケジュールになるということを覚えてください。
それによって私たち2000年時経っていますけれども、その時と同じリアルな感覚でパウロの手紙として学べますし、
コロサイで学んだ内容をもう少し詳しくあるいは広くよく学ぶことができると思いますので、そう覚えておいてください。
第一の点は他の手紙との関係ということで、この締めくりの言葉などから分かったこと、
そして今後の学びということでエペソビトの手紙やピレモンへの手紙を触れました。
二番目、ここから最後の2点、3点目はですね、神に覚えられている幸いということです。
第二の点は前にも掲示しました。
神の御前に自らが、自分自身が覚えられているということです。
先ほども冒頭読みましたが、一番締めくりでパウロはこうお願いしていますね。
一緒に読んでみましょう。小さい声でいいですから読んでみましょう。
私パウロが自分の手で挨拶を記します。私がローにつながれていることを覚えていてください。
どうか恵みがあなた方と共にありますように。
このローにつながれている私を覚えてくださいということから2つ学びますが、
大前提として2つありますが、一つ目は覚えてくださいというのはですね、覚えて祈ってくださいという意味です。
そしてそこにはですね、とても大事な信仰的な背景があります。
それはですね、覚えるということはですね、神様に自分が覚えられている、
神様が人を覚えていてくださるという信仰が大前提です。
パウロの要請はですね、ここに関係している背景はですね、パウロも祈るときに、
そうですがまずパウロ自身も、そして祈りを要請されている殺されの人々も私たちも、
まず神様に覚えられていることを前提としている。
神様が聖書で約束した約束を忘れないし、私たち自身のことも神様も忘れておられない、
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あるいは神様がつらいときに私を覚えてほしい、そういう信仰が背景にあるわけです。
そしてこれはですね、旧約聖書の神の民、あるいは預言者などに見られる信仰です。
私たち今違法人ですけど、旧約の神の民と同じ家族です。
その信仰の伝統から受け継がれています。
いっぱい出てきますけれども、今日は代表的な一人としてネヘミヤという人を取り上げます。
皆さん機会があればお家で旧約のネヘミヤ記を読んでみるのもいいかもしれません。
十何章ですからね。
簡単にネヘミヤのことを言いますけど、
イスラエルが神様に罪を犯して外国に責められて保守になりました。
その後、イスラエルに順次、神の憐れみの中、民が帰ります。
するとですね、荒れ果てているんですね、エルサレムは。
その荒れ果てているエルサレムにネヘミヤは帰って、
政府の公館として町の再建に取り組むわけです。
今年東日本大震災から10年ですけど、
10年経ってもなかなか復興を進まなかったりしていますが、
そのように彼はイスラエルの町を物理的にも霊的にも復興するために非常に苦労した人です。
いじめられたり陰謀にはめられたり、
部下が歯向かったり怠けたり、
そういう辛い中で彼は神様にこう祈っているんですね。
2つ用意しましたが、ネヘミヤ5-19。
ちょっと読める方、小さい声で読んでみましょう。
私の神よ、どうか私がこの民のためにした全てのことを覚えて、私を慈しんで下さい。
もう一つ、13章14節。
神殿がですね、汚れていて、いろんな意味で、
それを清めて、反対にあいながらも清めたら、
イエス様もそうしましたけど、その時に祈った祈りです。
私の神よ、どうかこのことのゆえに私を覚えていて下さい。
私が神の都、その人目のためにした数々の誠実な行いを拭い去らないで下さい。
彼の切実な思いというものが祈りから伝わってきます。
私たちも旧約の聖書の民もパウロも、
時に自分が見捨てられていると感じることがあるかもしれません。
神様を信頼して、辛い状況の中で堪えしのんでいる。
そういう辛い状況、孤独を覚えてしまう。
あるいはですね、頑張っても自分のしていることが、
無意味に感じる虚無感を抱くことがあるかもしれませんね。
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そんな時に、この善知善能で愛にあふれた神様、
自分の存在の拠り所である神様が自分のことを目に留めて下さる。
その自分の拠り所である神様に目を留めて下さい。
私を覚えて下さい。約束を覚えて下さいと祈れる、
そう信じられることが慰めであり、希望となるわけですよね。
私たち今、コロナ禍において、辛い状況を強いられているでしょう。
そうではなくても日々の試練の中で、
言葉にならない辛い思いをしていることもあるかもしれません。
そういう思いをまさに、私たちクリスチャンであればなおさら、
誠の神様を思い出して、誠の神様にこんな自分を覚えて下さいと
心の中から祈り、訴えることができるわけです。
それがですね、神様を拠り所として生きる、
そういう一つのことなんですね。
もう一つ、2番目のポイントを終わる前に、
ネヘミアの祈りを見ていましょう。
13章22節、読める方読んでみましょう。
3、私の神よ、この事においても、どうか私を覚えていて下さい。
そして、あなたの豊かな恵みに従って、私を憐れんで下さい。
神様の約束、また、私自身を神様を思い出して、
忘れずに、私を憐れみをもって取り図って下さい。
そういう祈りです。
2番目は、神に覚えられている幸い。
最後は、祈りの中で、神の前で他の人々のことを覚える。
そういう他の人のことを、神の前で覚える祈りについてです。
祈りのうちに、神の前で他の人のことを覚えるということを、最後に言ってみましょう。
何回目かになりますが、もう一回、4章18節の短い部分を読んでみましょう。
3、私がローに繋がれていることを覚えていて下さい。
ここでパウロが直接言いたかったことを、先ほども言いましたが、
エペソンの牢獄にいる私のことを覚えて下さい。
覚えて祈って下さいという、コロサイ教会への願いです。
私たちもですね、それからですね、他の人のために祈るということについて、最後にもなりましょう。
前も言いましたが、パウロはこの時に、エペソンの獄中で裁判の結果を待っていました。
そして、おそらく使徒パウロだけではなくて、先輩の使徒のペテロがこの時、皇帝ネロの手にかかって、
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殉教していたというニュースが入っていたようです。
ペテロは十字架につけられたんですけども、
死を裏切った私がイエス様と同じ十字架につくのはもったいないと言って、逆さ十字架になったという伝承もありますが、
そのペテロの殉教の話もパウロに届いていたわけです。
そんな中で、自分の裁判の結果を待っていたパウロは、
覚えて祈ってくださいと殺罪協会に訴えています。
この危機的な中にあるパウロの願いでした。
先ほども申し上げましたけども、殺罪協会とエペソンの間、160キロの距離がありましたね、だいたい。
当然、今よりもずっとずっと遅れていた当時は、パウロの様子を知り得ることはできません。
テレビ電話もないですから。
それどころか、今のSNSのような瞬時にやり取りもできませんので、パウロの近況もわからないわけです。
そして何もすることができないわけです、文字通り、パウロのために。
一方、私たちもですね、遠く離れている家族、友人、
また私もそうですが、教会のお互いのために、なかなか距離のゆえにできないことがたくさんありますね。
それどころか、一緒に住んでいても、例えば職場や学校で相手が何をしているかわからない。
大変な状況にあればなおさら心配になるわけです。
そこに行って助けてあげたいという気持ちがあっても何もできないわけですよね。
同じ屋根の下にいたとしても。
また、身近にいるから良かれと思ってアドバイスをしても、かえって反発を受けてしまったり。
それどころか、しばらく先週でしょうか、私たち学びましたが、
イエス様が祈っておられるように、私たちは何もすることができないんですね。
イエス様は私たちのためにこう祈りましたよね。
父よ、彼らを憐れんでください。
彼らは何をしているかわからないのです。
十字架の上で取り出したように、私たちが良かれと思ってすることさえ、窓外れなことが多いわけです。
知らない間にまた相手を傷つけていることもあるかもしれません。
そういう中で、私たちはこのこと、他人に対する自分の無力な状況を理解しながら、
もう一度、パウロの言葉を注意深く見ていきましょう。
パウロはここで、思い出してください、覚えてくださいと言った時に、
祈ってくださいと言っていると言いましたよね。
実はこの、祈りのうちに覚えるということは何か。
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それはですね、祈りのうちに覚えるというのはですね、
祈る時に、誰かのために祈る時に私たちは何をしているかというと、
その相手を神様の前に差し出しているというのです。
祈っている人が、私たちが祈ることによって、あたかも神様の前にいるようだ、それが取りなしだというのですね。
ある学者は、短くですね、私たちが祈る時、
そういう人は、私たちによって神の臨在の前に導かれている、そういうのです。
また、この祈るというのはですね、
コロサイ教会がパウロのために祈るというのは、
コロサイ教会の人々のパウロへの愛を目に見える形で神様にお示しする、それが祈りだというのです。
ちょっと想像してみて、こんな状況が浮かんだのですが、
皆さんね、王に対してこの家来たちがひれ伏して捧げ物をしている、
あるいは時代劇であれば、将軍など位の高い人の前に家来たちがひれ伏して捧げ物をしている、
そういう場面が思い浮かぶかもしれませんが、
私たちが誰かのために祈る時に、私たちをひざまずいて、あるいはひれ伏して、
その人を神様の前にあたかも捧げ物のように出している、
そういう行為が取りなしの祈りなんですね。
そして神様はこの人を覚えてどうかお取り扱いくださいと、
神にこの人を覚えていただくのがその取りなしの祈りだというのです。
あるいはね、皆さん病気の家族につき添って、
医者のもとに行ったことがあるかもしれません。
反対の立場になったことがあるかもしれませんが、
この自分が病気の家族を名医の前に連れて行って、
先生お願いしますと、この名医の手に委ねるように、
私たちも私たちが思う人のことを名医ではなく神様の前にお連れして、
神様この人のことをどうぞよろしくお願いしますとお委ねする。
それが覚えて祈るという行為なんですね。
パウロにとっても私たちにとっても、
人々のことを思い出すたびに神様の前に彼ら彼女らの祈りの課題を掲げているわけです。
先ほど申し上げましたが、
私たちが思う相手のことを本当に取り扱うことができるのは神様だけなんですね。
そのことを信じていきましょう。
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そしてコロナ禍において会えない人がいるならば、
そういう人のためにあるいは物理的にも精神的にも
自分の手の届かないところにいる人々のことを祈りの中で覚えて、
そして誠実なる神様の前にその人を差し出して、
神にその人のことを覚えていただき、
お取扱いくださるようにとお委ねしていくお互いでやりたいと思います。
最後にパウロのこの祈りの言葉を読んで終わりたいと思います。
今度はまたピレモンの手紙1章4節でパウロは祈っています。
続けてみます。読んでみましょう。
私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
神に覚えられ、また人々を覚えてもらうために祈るお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
2000年前にパウロが書いた手紙によって、
神様ご自身、その御心を私たちが知ることができて感謝いたします。
どうぞ私たちが聖書の言葉から祈りのうちに、
あなたの御心を知ることによって、
その信仰をあなたにあって固くしてくださいますようお願いいたします。
私たちは自分に対しても人に対しても、本質的には無力な存在です。
あなたに憐れんでいただき、
あなたに覚えていただくことが最善の道であることを信じています。
どうかそのように私たちを覚え、私たちを憐れみ導いてください。
またどうぞ私たちが心に思う兄弟姉妹や家族、人々を
あなたが覚えてくださり、あなたがお取り扱いくださいますよう、
どうかお導きください。
言い尽くせない思いがありますけれども、
私たちのすべてをご存じであるあなたの御手においだねして、
私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほどしばらく祈りましょう。
まさに神の前に様々なことを覚え、
神に覚えていただくためにしばらく時間をとりましょう。