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フィリピ人への手紙2章19節から24節。
私は早くテモテをあなた方のところに送りたいと、シュイエスニアって望んでいます。
あなた方のことを知って励ましを受けるためです。
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなた方のことを心配している者は誰もいません。
皆、自分自身のことを求めていて、イエスキリストのことを求めてはいません。
しかし、テモテが適人であることは、あなた方が知っています。
子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。
ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。
また、私自身も近いうちに行けるとシュイエスニアって確信しています。
今日はこのところから、「真実になって」と題して見言葉を取り繋ぎます。
皆さん、おはようございます。
なかなか新型コロナウイルスの感染拡大が冷め合わず、東京は第8波に入ったということを先週また言っておりました。
海外ではワクチンも進んで、医療体制も整ってマスクもしていないことが多いかもしれませんが、
なかなか日本では、部屋の中とか話し合うときにはマスクが離せないという、ちょっとそういういろんな状況がありますけれども、
また今日ちょっと少し薄曇りの日ですけれども、ともに見言葉から学べることを嬉しく思います。
そんな中でですね、このパウロはローマの国中でピリピリとの手紙を書いたんですが、
その時に今日出てくるテモテという人も一緒にいた。
後で見ていただきたいんですが、1章3節にですね、パウロとテモテからという、この自分と2人を、
テモテと差し出し人として書いている。
その上でですね、今日の箇所ではですね、テモテがピリピ教会を訪れて、その後パウロもピリピ教会を訪れることを知らしている。
そして実はそれを聞いて、困難の中にあったピリピ教会の人はおそらく励まされた、喜んでいるということがあると思います。
実は、この箇所を読む前に知っていただきたい背景があるんですね。
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この手紙、ピリピとの手紙は、ローマの国中にいた、おそらくローマにいたパウロが口実筆記としてですね、テモテがそれを書き留めたという説があるんです。
実はその手紙をですね、テモテではなくて、今日の箇所の次に出てくるエパフロディトスという、エパフロディトという人が、
このピリピとの手紙をピリピの教会に届けたという、そういう背景があることをまず覚えておいてください。
そんな中で今日の箇所では、他者への気遣い、2章の3節4節にある、自分自身のことだけではなく他の人のことも仮に見なさいという、
そういう生き方を知っているパウロとテモテの様子が見て取れます。
それらのことを踏まえて、今日3つの点から学んでいきますが、まず最初にパウロとテモテの旅路、この箇所の背景ということをもう1回おさらいしておきたいと思います。
2章の19節前にも出ていますが、読める方、読んでみましょうか。
私は早くテモテをあなた方のところに送りたいとシュエスにあって望んでいます。あなた方のことを知って励ましを受けるためです。
ここからも、手紙を持ったエパフロディトの手紙を聞いたピリピの人たちが、パウロとテモテが一緒にいるということが知らされているわけですね。
その上で、まずパウロの伝道旅行を一番最初にもおさらいしましたけれども、おさらいしたいと思うんですね。
人の働きの、皆さんよく言いますが、16章から20章までを読めたら読んでみてください。大きく拡大した地図がありますが、
第一次伝道旅行の時に、アジア地方でパウロは伝道して、ガラティアの教会宛に手紙を書いた。
パウロはガラティア地方のリステラ、リストラという訳もありますが、ここにいたテモテを第二次伝道旅行の時に、素晴らしい宗の器だということで連れて行くことを決めて、
第二次伝道旅行の時に、パウロはアジアで御言葉を語ることを禁じられて、そしてアジアで御言葉を語れないからですね、マケドニアというヨーロッパですね、今で言う。
ここでですね、パウロはマケドニアですね、ピリピってあります。ここでですね、紫商人のリディアをはじめ、最初に戒心者が起こったので、ピリピ教会が生まれました。その時にテモテも一緒に行った。
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実はその後、パウロとテモテは一緒に旅を続けていってですね、第二次伝道旅行の時、もう一度ですね、パウロはギリシャに行ったんですけれども、テモテをこのマケドニア州ですね、ピリピの辺りに残して、パウロがいないなとピリピ教会をテモテがしばらく面倒見たようです。
そして今度は第三次伝道旅行の時ですね、皆さんも知っているエペソという街で、魔術師との出来事を通してですね、たくさんの人がここでイエス様を信じました。
いろんな騒動が起こったんですけれども、パウロはしばらくエペソに留まっていて、そして自分の代わりにやはりテモテを第三次伝道旅行の時にこのピリピに使わせて、ここでしばらく面倒を見る、ピリピ教会の面倒を見るようにさせた。そういう背景がこの箇所にあったわけです。
そんなことですね、使徒の19、21から22節に書いてありますね。このエペソの騒動、エペソの大改新があった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通って、アカイアというのはギリシャですね、エルサレムに行くことにした。
そして私はそこに行ってからローマも見なければならないと言った。そこで自分に仕えている者たちのうちの二人、テモテとエラストをピリピがあるマケドニアに使わし、自分自身はなおしばらくアジアにエペソに留まっていたということですね。
そういうことで、ピリピの教会の人はテモテのことをよく知っていましたから、今日見ている箇所、2章の22節でパウロはテモテについてピリピの人々にこう言っているわけですね。
しかしテモテが責任であることはあなた方が知っています。子が父に使えるようにテモテは私とともに福音のために奉仕してきました。
このようにパウロとテモテとピリピ教会の強い結びつきが人の働きを見てもよくわかるわけです。
じゃあその上でなんでパウロはテモテをピリピ教会に自分から行く前に使わせたのかということを2番目の点で見ていきます。
パウロとピリピ教会の喜びのためにということが2番目のポイントです。
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2章20節、ちょっと読める方は前の歌詞を読んでみましょう。
テモテのように私と同じ心になって真実にあなた方のことを心配している者は誰もいません。
これまで説明してきたようにですね、パウロがピリピ教会の人たちにとって文人の親であるならば、
何度もピリピ教会をパウロナキアと訪れたテモテはピリピ教会にとって育ての親のようなご存在だと言えるかもしれません。
そしてそのパウロと同じ思いで、一つの魂でという元の言葉、
ピリピ教会の人々のことを気にかけていたテモテの様子について、
そしてこれほど深い関わりを持ったテモテが、その困難の中にあるピリピ教会を訪れますよと知らされることによって、
ピリピの人々は大いに励まされた。
パウロ先生は来ないけど、テモテさんが来るんだ。苦しいけどもうちょっと頑張れると思ったかもしれない。
だけども同時にですね、テモテの訪問を知らされたピリピの人たちは身が引き締まるような思いになったんですね。
なぜか、それはですね、このエパフローデトスを通して送られたピリピートの手紙の中にいろんな教えがあります。
福音にふさわしく生きなさい。
それから簡単に言うと、自分自身のことだけじゃなくて他の人のことを帰り見なさい。
もしかしたらちっちゃな小ゼレがあったけども、そういうことはさておいて、イエスの一つの体として共に戦いなさい。
そのようなパウロの手紙の教えを、テモテが後から言って、ピリピの人たちが守っているかどうかを確認する。
そういうことが、ここでパウロによって言われているんですね。
このあなた方のことを知って、私も励ましを受けるためです。
というのが、1章の初めに書いてありました。
この2章の19節に、あなた方のことを知って、私も励ましを受けるため。
あなた方が御言葉に立っているかどうか、私の教えをきちんと守っているかどうかを知って、
私も励まされたい。私の魂も喜びたい。
それは一種の、ピリピの教会の人たちに緊張というか、あなた方をしっかり守ろうという、そういう刺激になったわけです。
その中で、あることがわかります。
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それは、テモテという人は、パウロとピリピ教会の間に入って、互いの近況を報告し合うという役割を、伝言者のような役割を担っていたんですね。
あの当時、電話はもちろん、SNSなんてありませんから、パウロは信頼のできるテモテを伝達者として置いたということです。
そしてそれだけじゃない。
ピリピの人たちの様子を聞いて、パウロがしっかり福井に歩んでいるということを聞いて、励まされたいという、そういうことだけではなくて、今度は逆に、
パウロのこともピリピの人たちに伝えて、ピリピの人たちに安心を与えたい、励ましたいという、パウロの願いがあったんです。
2章23節に、私のことがどうなるか分かり次第、テモテを使うつもりですという中に、
パウロ自身の裁判の結果が分かり次第、テモテを送りますよ、つまり、死刑ではないことを確認してですね、
ピリピ教会の人たちにそのことを伝えて、安心させたいと、パウロは願っていたんですね。
このようなことから、何が分かるか?
パウロはですね、ピリピ教会の人々を気遣っている、そのパウロの思いやり、
パウロが親身になっている様子が見て取れるわけです。
先ほども言いましたが、このピリピの手紙を通して、パウロはピリピのクリスチャンを、
福音のために整えたいと願っていたことは、さっきに触れた通りです。
そればかりか、さっきも言いましたが、育ての親のテモテや、そして産みの親のパウロ自身が、
これから訪問するよということを予告して、
さらにですね、パウロは自分が行く前に、前段階としてピリピを使わすことによって、
できるだけ早くテモテを通して、自分の安全を伝えて、
ピリピ教会の人々を安心させて励ましたいということを願っていたことが分かるわけです。
ここから実は、まさにパウロが自分の語っていること、自分自身のことだけではなく、
ピリピ教会の人々の必要を重んばかっている、このパウロの様子が分かるわけなんですね。
パウロは自ら語るだけではなくて、その生き様を模範として、自ら実行していたことが分かるわけです。
そしてこの最後、「親身になって」というところですね。
読んでいますね。2章20節から22節繰り返しになりますが、
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テモテのように私と同じ心になって、真実にあなた方のことを心配している者は誰もいません。
ここで読んでみましょう。
皆、自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。
しかし、テモテが責任であることは、あなた方が知っています。
子が父に仕えるように、テモテは私と共に福音のために報じてきました。
実はですね、この親身になってということなんですけれども、
今日のこの箇所で繰り返し使われている言葉があるんですね。
それは、誰々のことという表現が心配に出てきます。
例えば、あなた方のことですね。
それから、今読んだ自分自身のこと。
そして、イエス・キリストのことを求めています。
そして、私のことが分かりしないの?テモテを伝えます。
これはですね、ギリシャ語はちょっと難しいんですけど、
いわゆる英語でのザという漢詞がついて、ちょっと不恰好ですが、
ザ、あなた方について。ザ、自分自身。ザ、イエス・キリストのような形になっていて。
誰が誰に関心を持っているか、誰が何に関心を持っているかということがよく分かるようになっています。
実はこの言葉によって、利己主義に対する利他主義、そしてキリスト中心主義。
利己主義対利他主義及びキリスト中心主義が対比されていることが分かるんです。
実はこの自分自身のことを、
例えば利己主義とキリスト中心主義の対比が20つあるんですね。
みんな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めていませんというふうに対比されています。
実はこの自分自身のことを求めるということの反対の行為こそ愛であるということを、
あの有名な聖書の箇所が実は同じ言葉を持って表現されているんですね。
それはこの第一コリントの13章4節5節の言葉です。
ちょっと読み方難しいかもしれませんが、読んでみましょうか。
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愛は寛容であり、愛は親切です。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず。
この自分の利益を求めないの自分の利益っていうことが、さっきのザ自分自身という言葉なんです。
だから自分自身を求めていく利己主義との正反対の行為が、神の愛の行為ですよとパウルは教えている。
これも第一コリントのパウルを書いているわけです。
さらに興味深いことが見つかるんです。
イエス・キリストのことを求める行為が他者への思いやりとして、今日の箇所で捉えられているんですね。
このピリピ2章の20から22節で手も手が、
真実にピリピ教会の人々を心配する行為がイエス・キリストを求める態度だとされているからです。
ちょっと難しいかもしれませんが、見言葉に立ち返っている。
紹介していますと、この手も手はですね、真実にあなた方のことを心配している。
でもそういう人は誰もいません。どんな人ですか?
みんな自分自身のことを求めている。
自分自身のことを求めていることの反対が、イエス・キリストのことを求めることだ。
つまり、イエス・キリスト様のことを求める、イエス・キリスト様への献身というのは、
あなた方、他の人々のことを心配したり、他の人々のことに親身になることなんですよ。
ということを、実はここから私たちは見て取れるわけなんです。
実はここから分かることは、私たちのイエス・キリスト様への献身は、
私たちの他の人への思いやりや気遣いに具体的に現れる。
ここではですね、PP教会の内部のお互いの思いやりを、特にパオラが言っているんですね。
困難の時に、自分自身のことだけ求めないで、
教会内部で自分だけのことじゃなく、他の人のことを優先しなさいよ、
ということを、2章の3節4節で言っています。
それはね、私たちも教会のお互いのためにということなんですけど、
ある学者はそれをもっと広く捉えて、
その学者が言うには、いわゆる社会一般の中では、
自分自身を求めていくということを、それを良しとする風潮がある。
でも、私たちはイエス様に従うものとして、他の人のことを変えりみる。
それは教会内の人、そして教会内でなくても、私たち以外の人のことを変えりみる、
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というところまで広く理解できるということですね。
ですから、繰り返しになりますが、私たちがもし、教会の他の兄弟姉妹のために
親身になったり思いやりを示すなら、それはイエス様に従っている行為であり、
またもっと広く伸ばしてですね、教会と関わりなくても、
私たちが誰か他の人に親身になったり、愛の手を差し伸べるならば、
それもイエス様への献身になるし、そしてそれを通してですね、
目に見えないイエス様の愛が人々に、私たちを通して明かしされるという、
そういう行為になるわけです。
実はその模範として手も手がいるわけですし、その手も手のことを、
もう一度フィリピンの人を思い出して、
あ、そうだ手も手さんこそ、そのようにイエス様の愛に生きた、
他の人のことを顧みた人だったんだってことを、
この今日の言葉を通して思い出したに違いないわけです。
そのような生生き様を私たちが見習うことも、見習うと言いますかね、
足跡に従うことももちろん、血の御心ですが、最後に興味深い御言葉の箇所を触れて、
終わりたいと思います。
実は、使徒の働きで20章でですね、パウロはエペソの教会の指導者たちに向けて、
別れの説教を語ったんです。
そこでパウロは非常に珍しいことをしているんですね。
イエス様自身の直接の言葉を引用して、その国別説教を締めくくっています。
そしてその言葉は、教会の指導者だけでなく、
主の弟子すべての人に当てはまる教えだと思います。
それはこれですね。
ちょっと長いかもしれませんが、頑張って読んでみましょう。
パウロの言葉3、
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたはイエス様を通して、私たちに救いをはじめ多くのものを与えてくださっていることを感謝します。
また、信仰の先達や兄弟姉妹を通して、あなたが良きものを私たちに与えてくださっていることを感謝します。
どうぞ私たちも御精霊の導きにあって、
他の兄弟姉妹をまた、私たちの周りにいる方々を喜びをもって大事にしていく、
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それらの方々に親身になり手を差し伸べていくことができるように、
どうか私たちを助けてください。
そして私たちを通し、教会を通し、あなたの栄光があらわされますよう、
どうか私たちを導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほどそれぞれ御言葉にお答えして、黙祷の時を持ちましょう。