2024-03-31 23:06

#205 復活がなければ 24/3/31

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ヨハネ-31からのイースター礼拝説教。2024年3月31日録音。 今日の聖書箇所では、復活のイエス様を信じなかったトマスとイエス様のやりとに焦点が当てられています。それから後の時代において、イエス様の復活は目撃証言によって事実であると確証されてきました。また現代では、たとえば分子生物学で博士号を取得し後に英国オクスフォード大学の学院の1つウイクリーホールの学長を務めた神学者のマクグラス氏も、イエス様の復活の意味や意義について述べています。これらのことを含めて、1.イエス様の復活が無ければ虚しい、2.復活の証人と証言、3.見ないで信じる幸い、の3点からイエス様の復活について考えていきます。

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それでは、新科学生書第2017年版でお読みします。
ヨハネ、20章24節から31節。
12弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。
そこで、他の弟子たちは彼に、私たちは主を見たと言った。
しかし、トマスは彼らに、私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じませんと言った。
8日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。
戸には鍵がかけられていたが、イエスがやってきて、彼らの真ん中に立ち、平安があなた方にあるようにと言われた。
それからトマスに言われた。
あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。
信じないものではなくて、信じるものになりなさい。
トマスはイエスに答えた。
私の主、私の神よ。
イエスは彼に言われた。
あなたは私を見たから信じたのですか?
見ないで信じる人たちは幸いです。
イエスは弟子たちの前で他にも多くの印を行われたが、それらはこの書には書かれていない。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子、キリストであることを、あなた方が信じるためであり、また信じて、イエスの名によって命を得るためである。
以上です。
今日はこのところから、復活がなければと題して、御言葉を取り継ぎます。
イースターですからね。イースターおめでとう。
皆さん、イースターおめでとうございます。
クリスマスはメリークリスマスってありますけどね。
ハッピーイースターってね。英語でいいんですよね。ハッピーイースターですね。
私一人で言いましたけども。
イースターですね。日本ではクリスマスほど有名ではないですけど、今ねディズニーランドなんかでも
パレードが行われたり、徐々にポピュラーになってきましたが、世界ではですね、本当に大事なキリスト教の祭典で
土曜日かな、NHKのBSニュースを見てましたらね、世界各国の金曜日のグッドフライディ、イエス様の十字架を覚える日と、イースターのことを放映してました。
金曜日のことに関しては、キリスト教国ではね、ムラチノだったかどこかではみんなで十字架を担ぐんですね。
そしてオーストラリアではですね、イースターに首相や大臣クラスの方が公式なイースターメッセージを語るんですね。
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多分去年だと思うんですけども、そんな平和のメッセージを日本の閣僚大臣、首相クラスがテレビでする。素晴らしいなぁと思いましたけれども。
今日の聖書で読んだ話は有名な話の一つで、主役はですね、復活のイエス様と弟子のトマスです。
中でもイエス様の復活、復活したイエス様と一回目会わなかった、他の弟子と違って会えなかった彼の不信仰がテーマです。
そして、今日このところからですね、イースター毎年巡ってきますし、クリスチャンであればイエス様の復活は当然と信じておりますけれども、
昨今ですね、世界中の紛争とか、あるいは日本でも震災など起こってます。その中でも当たり前のことが当たり前じゃなくて幸いだということも言われてますけれども、
復活について、イエス様の復活について今日ちょっと深く広く取り上げて、また私たちの信仰がですね、新鮮なスタートを新年度から切れればと願っています。
3つの点から話します。まず最初ですね、イエス様の復活がなければ、
これさっきの前置きですけども、3つの点でイエス様の復活がなければ虚しいって話、それから復活の承認と証言という話、そして最後には見ないで信じるものの幸いということをお話しします。
で、まず最初ですね、復活がなければ虚しいということです。
で、パウロが復活について書いている有名な箇所に、コリントビトの手紙第1の15章というのがあります。
そこの中で彼はこのように、信仰の本質と復活の重要性について明かししているんですね。
読みますね。キリストが蘇らなかったとしたら、私たちの宣教は虚しく、あなた方の信仰も虚しいものとなります。
私たちは神についての偽承認ということにさえなります。 もしキリストが蘇らなかったとしたなら、あなた方の信仰は虚しく、
あなた方は今もなお自分の住みの中にいます。 第1コリント15の14から17の罰水です。
実はですね、このようにパウロはイエス様の復活はキリスト教信仰の基礎、土台だって言っているんですね。
ところで、ここにあげたこの写真の方はですね、アリスター・マクグラスというイギリス人の牧師であり信学者です。
よく引用しますけれども、彼は本来は科学者でした。分子生物学といういわゆる科学の先端の分野で博士課程に行って博士を取りました。
しかし彼は信仰を何かのきっかけで極めて牧師になって、そして新学校に行って、オクスポード大学、今、世界の大学ランキングで1番です。
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そこのオクスポード大学のウイックリホールという新学部があるんですけども、そこの学長を務めた方です。
このアリスター・マクグラスという方は、彼の本の中でですね、復活を当然信じています。
そしてその復活が、やはりキリスト教信仰で大事な意味があるということをですね、いくつか挙げているんですね。
ざっといくつか挙げますけれども、復活はイエス様が神であることを示しているその証拠だと言います。
なぜならイエス様自身がですね、この生涯の中で、マルコでは3回ですね、十字架と復活予告したと言いますけれども、自分は蘇る、3回証言しています。
そしてそれが自分が神だということと関係している不可分の事実だと言っているんですが、
イエス様が復活したことによって、イエス様が自分が神であるというその主張が正しかったということが明かしされている。
そういう意味で復活はイエス様が神であることを示すということなんですね。 まあそれに基づいて、パオラがですね、ローマ人の手紙の1章の4節5節で、復活とイエス様の神性、神であることについてこう明かししています。
ミコ、イエス様ですね。ミコは肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、ここから読めるかと読んでみましょうか。
死者から3、死者の中からの復活により力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエスキリストです。
このようにイエス様は復活によって自分がですね神のミコ、神と不可分の方、神であるということを証言した。
またそのほか、復活にはですね、イエス様の十字架の死が、罪のための有効な犠牲であり、そしてそれはまた罪に打ち勝つ神の力の証だって言うんです。
パウロが言っているように復活がなければ自分の罪の中にいたって言っている通りですね。 そしてもう一つちょっとだけ詳しく取り上げるのは、イエス様の復活は信じる私たちの復活への道を示しています。
イエス様は死後、蘇る人々の初穂となられたからです。 パウロがこう証言しています。
もし私たちがこの地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているなら、私たちはすべての人の中で一番哀れなものです。
しかしから読んでみましょうか。しかし今やキリストは眠った者の初穂として死者の中から蘇られました。
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第1コリントの15章の19,20節です。 まあ一番最初にイエス様が蘇った、それは初穂であって、やがてイエス様を信じる私たちも同じように復活するという、その
ことがイエス様の復活によって明かされている。 余談ですけれどもね、カラマーゾフの兄弟といって、
ドストイフスキーが書いたロシア文学の大作があります。その最後も復活がすごいテーマになっていて、
少年が死んじゃうんですね。その葬儀に、墓地にみんな集まって、主役の修道僧がですね、
悲しんでいるお父さんや友達を前にですね、 彼ともまた会えるよ、
で、万歳、そういうところがクライマックスになっていますけれども、それはイエス様の復活が初穂だったから、
亡くなったもの、また彼だと再会できる、彼女だと再会できる、 私たちもその復活に預かれるという幸いをイエス様の復活が示しているということです。
2番目、 復活の承認と証言ということを見ていきましょう。
ちょっと難しい話になりますけれども、ある物事が 事実であるということを証明するために2つのことがあります。
1つ目はですね、2通りの方のうちの1つ目は、実証実験。 つまり同じことをもう1回行って、その通りになれば事実が証明される。
それはいわゆる科学、化学的な実験などで、その真実さが立証されるんですね。
これ簡単に触れません。そういうことがあります。 2つ目の証言ということを、
2つ目の証明の方法が大事です。それは2つ目はですね、 目撃者による証言なんです。
家政府の見たとかです。家政府は見たって言いますけど、私は見た。 今、冤罪とかが問題になってますけれども、それは訴える側の都合が良いように
証言させるよう、強制したり、誘導する。 そして冤罪が生まれるという問題がありますけれども、
それは問題として、それほど証言、 目撃証人の言葉というのは重要性があって、
キリスト教一般の言い方で言うと、それもですね 科学的な根拠というんです。科学というのは化学じゃなくて、
のぎ辺の科ですね。 だから実験と同じぐらい目撃証言、目撃証言というのは科学的な裏付けになるんだよ。
そして実はイエス様の復活に関しては、 実証実験ではなくて、目撃証言がその根拠だというのが、
キリスト教の2000年の歴史の中で言われてきたことなんです。 そのことを見ますとですね、パウロが同じ
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コリント人の手紙第15章の3節か7節で、 目撃証言について触れています。ちょっと長いんですけれども、
私がパウロがあなた方コリントの人たちに最も大切なこととして伝えたのは、 私も受けたことであって次のことです。
キリストは聖書に書かれてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、 また葬られたこと、また聖書に書いてある通りに3日目に蘇られたこと、
またケファペテロに現れ、それから十二弟子に現れたことです。 そのうちキリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。
その中には既に眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。 その後キリストはヤコブに現れ、それからすべての人たちに現れました。
パウロが言うには、目撃証言、これらによってイエス様の復活をコリントの皆さん疑ってますけれども、 事実としてあなたに提示しますって教えているんですね。
聖書からこんなことを皆さん覚えておいてください。 で
繰り返しになりますけれども、十二弟子を中心とする弟子たちにイエス様が復活の後現れた。 それが今日のトマスの出来事にも関わるんですけれども、
そしてそれだけじゃなくて500人以上の兄弟たちに同時に現れた。 ある学者はですね、イエス様の復活が亡霊であったり幻想、幻聴だ、幻覚だってことはありえない。
なぜなら500人以上の人が一緒にそれを見ることがありえないからだって言ってるんですね。
まあそのような いっぱいのたくさんの目撃証人がいる。
そこからイエス様の復活は揺るがない事実だとパウロは主張しているわけです。 そして彼ら
パウロはですね最後に自分のことを証言して、証して、証言者に加えてこう言ってるんですね。
失礼しました、ちょっとごめんなさい。 引用するのを忘れてしまいましたけれども、皆さんのレジュメですね。
レジュメの2ページ目の2段落目。 ここに書いてあるんですね。これら12弟子を中心とする弟子たちに時には500人以上の人々が同時に復活のイエス様を目撃し、
実際に触れ合った。 次です。さらにパウロは自分自身について言及します。こう書いてるんですね。
そして最後に、つきたらずで生まれた者のような私にも現れて下さいました。 なぜつきたらずって言ってるか、おそらく2つの主な理由があるんですね。
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1つは12弟子のように一緒にイエス様と生涯、イエス様の生涯に連れ添ったわけではないということが1つ。
そしてもう1つ大きいのは、彼は教会を迫害して、おそらくステパノをはじめとして命を奪うような迫害をした。
そういう意味で彼は別のところでは人の中では一番小さいものだ。 そんな私にもイエス様は復活して現れて下さいました。
そして皆さんご存知のようにパウロは衝撃的な戒心を体験したわけです。 そして今で言うこのような証言者にもなっているわけです。
私たちをはじめ、この世界の多くの人々がよりどころとして聖書に基づいてイエス様を信じている。
それは何かというと、これらの復活の証言が聖書に書かれてあって、私たちはそれを根拠にイエス様が復活したとも信じている。
あるいは信じることができるということですね。 実はそのような聖書をもとに私たちが信じているということは、
イエス様を見た十二弟子よりも素晴らしいことだとイエス様がおっしゃっているんです。 それが最後ですね。見ないで信じる幸いということです。
トマスはこのイエス様に迫られて告白しましたね。 私の神、私の主。
イエスの復活の手の釘の後に指を入れて、脇腹に手を当ててみないと信じない。
これね私衝撃的な思い出深いことが一つあるんです。 私が学生時代に勤っていたレリモバクテスト教会というところで、教会学校にいたんですね。
その時に牧師の卵の新学生の人がこのところから話をしたんです。 子供の前に、たぶん小学校2、3年生の子供の前にですね、
畳の部屋から話をしました。 実はここのところに行って、トマスがこう言ったらイエス様がトマスのところに行って、
その指を私の釘の後に差し入れてみなさい。 私の手の脇腹に手を持ってきなさいってその先生が言ったら、子供たちがですね、
わたずされして怖がったんですね。それくらいこのイエス様の新規迫るトマスへの迫力というのが文面からも伝わってきています。
そして彼はですね、そのイエス様に迫られて、そして実際イエス様の傷の跡を見て、 私の神、私の主と告白したわけですね。
その時にイエス様はそのトマスに対して言ったんですね。あなたは見たから、私を見たから信じたのですか。
見ないで信じる人たちは災害です。 これはですね、どういう意味があるか。
トマスに対する叱責もあるんですけども、実はこのイエス様が天に帰られた後、私たちも含むまさに見ないで信じる人たちが災害だ。
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見ないで信じている私たちは祝福されているんだ。 素晴らしいんだってことをイエス様はこの時視野に入れている。そういう意味があるんです。
トマスはですね、結局イエス様の傷の跡を見て、信じることができましたよね。
でも私たちは当然ながら実証実験をできない。証言でしか信じることができない。見ないで信じることしかできない。
そして事実、私たちはイエス様の復活を見ないで信じてここにいるわけです。
聖書を拠り所にして、他のクリスチャンの証言を拠り所にして、見ないで信じているのが私たち。それをイエス様は幸いな人ですよ、私たちと言ってくださっている。
そのことを覚えておきましょう。 そして、イエス様の最初の目撃承認の中、
大事な人は誰ですか。 疑いぶらかった、口やかましい男、
ペテロですね。ペテロも実は 白外の中にあるローマの教会に対して、こう言ってるんですね。
1章8節から9節。 ローマの白外の中にあるクリスチャンにこう言っています。
あなた方はイエスキリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じてあり、
言葉に尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
あなた方が信仰の結果である 魂の救いを得ているからです。
このね、今見てはいないけれども信じており、ってところに、こうペテロの実感がこもっている。
さらにそれがですね、それ故に栄えに満ちた喜びに踊っています。
ここにもですね、ペテロの実感がこもっていますよね。
そしてイエス様の復活を直接見ていなくても、彼らが私たちがその結果、信じた結果、
魂の救いを得ている、幸いを言っているわけです。
さらにですね、最後、この復活というのは、私たちがこの今地上を生きていく上での試練を乗り越えていく。
まあ今風で言えばですね、まあ頑張ってやり抜く。 今流行りそういう言葉なんて言ってるか知ってます?
あの回復する力、レジリエンスってね。 意味わかんないと思うんですけど、回復力って言うんですけど。
それに私たちの今の試練を乗り越える大きな力にも、この復活が役に立つというか、意味がある、関わっているってことをパウロは述べています。
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実はこの言葉、有名な言葉で知っている方も多いと思いますが、これはですね、 これまでパウロがずっと信仰イエス様の復活というのは、信仰になくてはならないということを
とうとうと語った締めくくりにですね、このことをパウロは述べているんですね。
しかし神に感謝します。神は私たちの主イエスキリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
その根拠は復活です。 これ読んでみましょうか。ちょっと長いですけど有名な箇所ですからから。
ですから私の愛する兄弟たち。 固く立って動かされることなく、いつも主の技に励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
この復活の希望を胸に抱いてですね、新しい年度も歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をあがなってくださいました。
そして今信じる私たち、その私たちに復活の命を授けてくださり、復活の希望を与えてくださっていることを感謝いたします。
今年度終わり、また明日から新しい年度が始まります。どんなことが待っているかわかりません。
しかしどうか嬉しい時も困難の時も、復活のイエス様を心に抱きながら、復活のイエス様と共に歩んでいく一年となりますように、
唯一となりますように、どうか導いてください。 この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではいつも通り1分ほど、黙祷して御言葉に応える時間を持ちましょう。
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