2022-02-06 25:06

#92 22/2/6 祈る力、祈りの力

エペソ-20からの礼拝説教。2022年2月6日録音。人には誰であれ祈り心があるものです。いつ、どこで、どのように祈ればよいのでしょうか。そもそも、聞かれる祈りとはどんなものなのでしょうか。それらのことに関連し、今日の聖書箇所から祈りについて3つの点をみていきましょう。

00:03
私は、エペソビトへの手紙、6章18節から20節をお読みします。
あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも、見たまによって祈りなさい。
そのために、目を覚ましていて、すべての生徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
また、私のためにも、私が口を開く時に語るべき言葉が与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように祈ってください。
私は、この福音のために、鎖に繋がれながらも、施設の務めを果たしています。
述べ伝えるさえ、語るべき言葉が事を大胆に語れるように祈ってください。
以上です。
今日はこのところから、祈る力、祈りの力と題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
寒い日が続いていますけれども、また相変わらずオミクロン株の拡大が大変ですけれども、
こうやって礼拝堂でまたズームを通して、オンラインで共に礼拝ができることを感謝しています。
さて、エプソビトの手紙もいよいよ終わりに近づいてきました。
今日の箇所は、締めくりの祈りの要請です。
手紙の締めくりでもありますけれども、また先々週から見ている、
礼の戦いの教えの締めくりとしても、この祈りが要請されているわけなんですね。
この礼の戦いの中で、パウロは一番大事な言葉、2つと言いましょうか、命令しています。
主にあって全能の力によって強められなさいと終わりに言いますとパウロは言いました。
そして信仰に堅く立ちなさいと言って、堅く立つということを言っています。
実は堅く立つために先週見た、神の武具を全て身につけなさいという話をしましたね。
私たちは、はっきりパウロは言いませんけれども、いわゆる礼の戦いの中で、
この世の困難の中で信仰に堅く立つ、イエス様への信仰を捨てない、
そのことをパウロは強く求めてきているわけですけれども、
その秘訣の一つは、礼の武具を身につける、それが先週のところです。
そして今日はその続きで、祈りなさいと、信仰に堅く立つために祈りなさいとパウロは言っているんです。
先ほど読んだ短いこの3節の中に、祈りという言葉が5回も出てきているんです。
03:01
そのうち4回は祈りなさいという命令です。
ですからどれほどパウロがこの祈りを大事にしているか、
礼の戦いの中で信仰に堅く立つために祈りが欠かせない、
そのことをパウロはここで言っています。
祈りはまさにクリスチャンが生きる上で必要不可欠な呼吸ですとか、
家族の間に会話が必要なように父なる神様と会話する、それが祈りなのですね。
その中で3つの点から祈りに関わる力についてともに見ていきましょう。
まず最初はどんな時にも祈りなさいです。
1番目、2番目のポイントに関係ありますが、
今日読んだ18節をもう1回読める方、読んでみましょうか。
3杯、あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。
そのために目を覚ましていて、すべての生徒のために忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
一番最初はどんな時にも御霊によって祈りなさいという、どんな時にもという言葉です。
どんな時にもというのは、別の英語の聖書やギリシャ語のそのままの訳にしますと、
あらゆる時に、すべての機会に、そういう意味です。
前にもここに提示しましたが、機会、この時というのはギリシャ語のカイロスという言葉なんです。
ギリシャ語には時を表すもう一個のクロノスというのがあるんですけど、それは時の流れを指す言葉なんです。
ストップウォッチのことをクロノグラフと言うんですけども、それは流れていく時間を計測していくから、
ストップウォッチをクロノグラフ、このクロノスから来ている言葉で表すわけです。
一方、カイロスは何かが起こった時という決定的な時を指します。
だから、どんな時にも祈りなさいというのは、私たちが祈りの必要を覚える時には、いつでもどこでも祈りなさいということなんですね。
日常生活の中で、家でも職場でも、歩いている運転している移動中でも、必要に駆られたら祈りなさいということです。
そのことが、あらゆる祈りと願いによって、この御言葉のあらゆる祈りと願いによってという言葉にも表されています。
06:03
また、この目を覚ましていて祈りなさいということにも表れているわけです。
この目を覚ましているというのは、こういうふうに考えることです。
自分が今、霊の戦いの中にあること。
自分は今誘惑されているんだなということに目を覚まして気が付くこと。
また、やがて毎日日常普通に生活しているかもしれませんけども、やがてイエス様が帰って来られる日が近づいているんだ。
そのことを忘れないで目を覚ましている。
そういうこともあります。
神の裁きが来るということもあって、目を覚ましていて誘惑に合わないように祈るとかですね。
また、祈るべき機会を逃さないとも言えるわけですね。
例えば、皆さんどうでしょう。
私の場合はですね、運転中でも何か家事をしていても、心配事や気になることが起こってきたらですね、その場で祈るわけです。
何か心の中で不安が出てきたら、その場で神様に委ねるように助けてくださいとか、こうしてくださいと祈ります。
祈ることからはですね、自分のことや家族のことや教会の皆さんのこととか、あるいは仕事の中で起こった何か出来事に関することなど、あらゆる内容に及びます。
どんな時でも、何に関しても目を覚まして、これは祈るべきだという時に、私は祈るわけです。
パウロも皆さんにそのように要請していると思うわけですね。
同じ国中書館のピリピリとの手紙の中で、パウロは有名なこの言葉を書いていますね。
この前にも示しました4章6節から7節、読める方読んでみましょうか。
3.何も思い患わないで、あらゆる場合に感謝を持って捧げる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いをキリストイエスにやって守ってくれます。
この御言葉にある通りです。
思い患いが心を襲う時に、神に祈る、この御言葉をぜひ覚えておいてください。
そしてそれと同時に、とても大事なことがあるんですね。
私たちはどこでも祈ります、いつでも祈りますが、同時に定期的に時間や場所を決めて、継続的に祈っていく必要があるわけです。
09:06
朝何時という人もいるかもしれません。夜寝る前という人もいるかもしれません。
そしてそれはですね、ここの御言葉にありますけれども、
この全ての生徒のために忍耐の限りを尽くして祈りなさいという言葉とも関係しているわけですね。
皆さんが家族のために、教会のあるいは知り合いのクリスチャンのために祈る。
そして1回コッキーとかですね、あるいは何か生活の課題、取り組んでいる問題、そのことをですね、継続的に忍耐を尽くして祈り続けていく。
そのために私たちは、定期的な時間や場所を設けて祈る必要があるわけです。
実はその時に私たちはですね、この祈りの力を身につける訓練をすることになるわけなんですね。
第1番目、どんな時にも祈りなさい。
それでは2番目です。
見たまぬうちに祈りなさいということです。
これはですね、私たちへの良い知らせです。
なぜか、私たちはこの目を覚ましていて祈っていきたい、また時間と場所を決めて祈り続けたいと思っていても、弱い存在ですね。
でも私たちの努力以上に、精霊が私たちの祈りを助けてくださる。
精霊は私たちの祈りを導き、祈る私たちをこの丸ごと引き受けてくださる。
この精霊にこそ祈りの力が、祈りの力の源があるんですね。
この2つの点があります。
まず今申し上げましたように、精霊は私たちの祈りを助けます。
精霊こそが祈りの力の源です。
その働きについて、このある学者がこう言うんですね。
この回括語の中です。
精霊はクリスチャンの祈りを導き力づける。
精霊はクリスチャンの傍らに立ち、祈りに借り立てる。
また、どのように祈るかを導く。
簡単にまたうまくまとめているわけです。
例えばこういうことです。
私たち思い患いすぎるのはいけないですね。思い患い、心配に押しつぶされるのは。
しかしこうも考えられるんですね。
もし私たちの心、皆さんの心の中に心配事や無性に気になることが浮かんできたら
12:00
ただそれを悩み続けるのではなくて、実はそれは
祈りへ促す精霊の働きだと考えられるわけです。
祈らずにいられない、心配かもしれません。
でもそれは祈りに私たちを借り立てる精霊の働きとも受け止められるわけです。
ファウロンもですね、ローマ人の手紙の中でこのように証言しています。
8章26節から27節ですね。読んでみますね。
ミタマも同じようにして弱い私たちを助けてくださいます。
私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが
ミタマご自身が異様もない深いうびきによって私たちのために取り成してくださいます。
残りの部分読んでいきましょう。人間のから3回。
人間の心を探り極める方はミタマの思いが何かをよく知っておられます。
なぜならミタマは神の御心に従って生徒のために取り成しをしてくださるからです。
このようにですね、私たちの心の中に異様もない深いうびきが出てくる。
実はそれはその声にならない言葉、言葉にならないこの願い。
そういうものを精霊の促しで何か思うままにですね、神にその思い患いや思いを打ち明けましょう。
実はそのようにして祈っていくときにどう祈ったらいいか、
何を祈りたいかということが導かれることがあります。
それがですね、精霊は私たちの心を探って私たちの思いを知っているから
どう祈ったらいいかを助けてくださるという精霊の働きなんですね。
ある学者は言うんですね、祈りというのは祈った人にしかわからない働きがあるんだ。
ですから何度も申し上げますが、
心配に苛まれるときに心配に押しつぶされるのではなくて、
まず神に助けてくださいと祈っていきましょう。
こうしてくださいと祈ることもいいかもしれません。
その中で私たちの努力や苦しみ以上に精霊が祈りを導いてくださるわけです。
そしてもう一つですね、大事なことがあります。
この日本語の聖書ではですね、
御霊によって祈りなさいと言っています。
御霊によって、よってという言葉なんですけども、
これはですね、英語の主なる訳ではですね、
inと言うんですね、in the spirit、御霊の内に置いてという内なんですけども、
15:00
それは御霊に置いてというのは御霊の内にですね、書いてあります。
それはですね、どういうことかというと、
私たちが祈るときにあたかも精霊の中に包まれているという表現なんですね。
今、北京の冬季御霊が開かれています。
ゼロコロナということでバブル法式というのが取られていますね。
この中にいる、ある環境にいる間は感染させないしないという特別なルールがありますけども、
温室のように考えられるかもしれません。
この御霊の内にあるというのは温室のように考えてもいいわけなんですね。
私、新宿御苑の温室に行ったことがありますけども、
そこはですね、熱帯や温帯の、特に熱帯の温度や湿度が保たれているわけです。
そうすると真冬に行ってもですね、日本では見られない熱帯や亜熱帯の植物が生い茂っているわけですね。
この植物にとって本当に良い環境が、空気も温度も湿度も保たれているわけなんです。
まさにクリスチャンは精霊の中に、気が付くまいと気が付いていようと精霊の中に、この温室の中にいるように生かされているんですね。
そして私たちは、気が付いていようがいまいが精霊の中に生かされているが故に、祈ることができるわけです。
ある学者はですね、このような言い方をしているんですね。
精霊は私たちの生きる環境である。私たちクリスチャンは精霊の中に包まれている。
御霊によって御霊のうちにクリスチャンが生きるときに目を覚まし、祈り続ける力が恵みとして与えられる。
温室の中で命と力を得て植物が育つように、私たちも御霊の中で命と力を得て、またその御霊の空気を吸っているが如く生かされて、神に向かって私たちは祈ることができるわけなのです。
祈りにおいて大事なことは御霊の力、御霊こそが私たちの祈りの力の源であると覚えておいてください。
最後、パウロでなくても力のある祈りと証が私たちはできるということなんですね。
パウロは6章19節でこう言っています。
読める方は読んでみましょうか。
また、私のためにも私が口を開くときに語るべき言葉が与えられて、福音の国を大胆に知らせることができるように祈ってください。
18:06
この時パウロはですね、ローマかあるいはエペソの極中にいたそうです。
この鎖につながれていると言っていますけど、一説によるともしかしたらローマの兵隊と文字通り手と手あるいは足と足が鎖につながれていたかもしれないと言われているんですね。
ちょっと皆さん考えてください。
もし皆さんがこの信仰の理由に投獄されていたら何と祈ってほしいでしょうか。
牢屋から出られるように祈ってほしいと思うかもしれません。
でもパウロはそうじゃなくて、たとえその中にいても大胆に祈れる、大胆に福音を語ることができるように祈ってほしいと言ったんですね。
その中で大事なことはまず一つ目ですね。
パウロはエペソの赤子のクリスチャンに対してこの信仰の巨人であるペテルパウロがですね、私のために祈ってくださいと要請しているわけなんです。
この手紙の最初の方でパウロはですね、途中でもそうです、3章でもそうですが、エペソの教会の方々のために祈っています。
何度も繰り返しています。
しかし同時にパウロはこの獄地の中にあるという危機的な状況の中で彼らの祈りを必要としていた。
それはつまりですね、赤子であるクリスチャンのエペソの方々の祈りもパウロと同じく力があるということなんです。
ですからもし私たちが、自分はパウロのような立派な人間ではないと思うかもしれませんが、
神の目から見たら私たちはパウロと同じほどですね、祈りの力を授けてもらっていて、祈り手としては大事な存在だということを覚えておいてください。
そのような確信を持って祈っていきましょう。
そしてパウロはこの最後の締めくくりでこのように述べています。
私はこの福音のために鎖につながれていながらも施設の務めを果たしています。
述べ伝えるさえ語るべきことを大胆に語れるように祈ってください。
先ほど言いましたがパウロは獄中から出られるようにではなくて、
その中にあって福音の施設の務めを果たせるよう祈りを要請しているんですね。
この施設、別の言葉では大使、外交官、そういう意味があるわけです。
今先ほど言いました北京五輪で話題になっていたのは外交的ボイコットですね。
国の代表を買い返しなどに送らない。
プーチン大統領は来ていましたけれども、日本からはそのような国の代表を、政治的な国の代表を使わせていない。
21:06
この施設や外交官というのは国の代表ですから、彼の彼女の言動が国の言動になるわけなんです。
彼の言ったこと、彼女の言ったことが国の言葉になるわけなんですね。
パウロはですね、ローマ帝国の獄中にあって、そのような身分でもあるにもかかわらず、自分は神の国の代表の大使である。
で、そのような神の国の代表としてですね、神の国の福音を大胆にというのはですね、はっきりと明確に語るように、語れるようにと祈りを要請しているわけです。
そのように自分の立場をわきまえているわけです。
ここから何が言えるでしょうか。
私たちはですね、キリストの証人として、自分がパウロのように立派になれたら証ができる、そう考えなくていいんです。
あるいは逆にですね、もっとこうなったら私は福音を証しできる環境や状況を嘆いてですね、これが故に福音が語れない、証ができないという必要ないんです。
パウロのようにですね、今この置かれている場所で、置かれている機会を、与えられている機会をまさに目を覚まして見据えてですね、福音を語れるように、主の証人として証を生きることができるように、そう志してですね、また祈り合っていく必要があるわけです。
私も自分自身仕事しながら、そう願って祈って日々の生活を送っていますし、ぜひ皆さんもですね、そのように私のために祈ってほしいですし、また皆さん自身のために、また他の教会の方々のためにですね、
教会の方々が置かれた場所において、主の証人として大使として生きることができるように祈り合っていく、そんな教会に私はなってほしいと願っているわけなんですね。
ぜひこれこそですね、私たちパウロでなくても、祈りの力が精霊によって与えられ、また証の力がですね、精霊によって与えられ、そして証のためにお互い祈り合う力が与えられている、それが幸いなことなわけです。
どうぞお互い、そのような祈るもの、祈り合うものとして、神の国の代表としてこの地を歩み、またお互い支え合っていく教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロが獄中の中で祈りを要請して、この手紙を書いております。
24:07
私たちも、エプソノクリスチャンも、そして私たちも、目に見えない霊の戦いの中に置かれていますけれども、あるいは様々な制約の中に生きていますけれども、
どうぞその中で、御霊の助けを得て祈ることができますように、祈る幸いを知ることができるように、どうか導いてください。
また、自ら祈り合うことによって、その使わされた場所において、あなたが口を開き、また言葉を与え、力を与え、御言葉を述べ伝えていくことができるように、どうか導いてください。
この言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは一分ほど、主に応えて祈る時間を持ちましょう。
25:06

コメント

スクロール