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ローマ6章3節4節
以上です。今日はこのところから、バプテスマの入学式となり、してみ言葉を取り継ぎます。
おはようございます。皆さんご存知のように祈ってまいりました。
今日8月は、マサコ姉妹のバプテスマ式を迎える日となりました。
その中で、バプテスマの意味について、大切さについて、今日はバプテスマ式がありますので、短くですが、御言葉からともに学んでいきたいと思います。
このローマの教を読んだ箇所、パオロが書きましたが、バプテスマ式にはですね、いわゆる霊的な出来事を象徴する意味があるというんですね。
それは、イエス様を信じた人が、イエス様の十字架の死にあずがり、そしてイエス様とともに葬られ、罪に死ぬということ、そしてイエス様とともに蘇られて、新しく歩む、永遠の命を授かる、
そういうイエス様の埋葬と復活に参与していることが、目に見える形で現れている。これがバプテスマ式の意味です。
とにかく3つの点から、その重要性について学びましょう。
第一番目、バプテスマとはですね、キリストの戒心を公のものにするという、初代教会の伝統がありました。
今日読んだ聖書の箇所にもあるように、先週ペンテコステの教会誕生以来、バプテスマの儀式というのは、教会という共同体にとって、またパウロ自身にとっても非常に大事な儀式だったんですね。
なぜなら、ミシンジャからの戒心、イホウジンからあるいはユダヤ教徒からキリスト教徒への戒心は、個人的プライベート、今お一人様流行ってますけれども、
そういうプライベートなものではなくて、公の体系になる、そういう伝統があるわけですね。
簡単に言うと、バプテスマを受けるというのは、イエス様を信じて新しく生まれた人が、神の家族、神の国の民、新しい神の国の民に加えられるという、そういうパブリックな意味がありました。
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ちょうど赤ちゃんが生まれましても、生まれた赤ちゃんは一つの家に属しますね。あるいは国に属します。
そういうプライベートな出来事ですけれども、パブリックな意味が、出産にもそしてバプテスマ式にもあったわけです。
実はその証拠に、先ほど読んだローマの6章の3説4説、パウルは、読んでいるというか、当時聞いた人、ローマのクリスチャンがみんなもうすでにバプテスマを受けている、
そういう前提で、彼はこの霊的な真理ということを書いているわけです。
このようにですね、バプテスマはですね、信仰告白の機械である、聖子の時代から考えられていたんですね。
ここにも書きましたけれども、信仰告白の公の機械がバプテスマには意味があったと。
そのことをですね、同じローマの10章9説でパウルは告げているわけです。
ちょっと読めるかで読んでみましょう。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを主様からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
この心でイエス様のことを信じるというのが、いわゆるプライベートな営みです。
しかしそれを口でイエスを主と告白するというのは、皆さんの前でバプテスマを受けてということも願蓄されているわけです。
まず最初の点はですね、私たちがイエス様を信じる、それはプライベートな出来事ではなくて、公の出来事であるべきであって、バプテスマはそれを意味している。
そしてそれは教会当初からの伝統であるということです。
2番目、クリスチャンの前提としてのバプテスマ、そういう意味がありました。
これは新約聖書の中で出てくる信仰の伝統です。
新約聖書ではですね、イエス様の弟子たちなど、特別な霊を除いて、イエスの名においてバプテスマを受けていないクリスチャンの言及はありませんということです。
新約聖書でキリスト社という場合、特別な霊、イエスの弟子、十二弟子なんかそうでしたけど、それ以外はみんなバプテスマを受けている人がクリスチャンと言及されているという、そういう伝統があったんですね。
パウロ研究者の第一人者、ダンという人がですね、こう言っているんですね。
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このパウロも新約聖書もバプテスマをですね、いわゆる通過儀礼とみなしていた。
通過儀礼、何かわからないかもしれませんが、三聖堂の一番新しい辞書でこういうふうに定義されていました。
通過儀礼とは、その社会の構成員が節目で経験しなければならないとされている儀式です。
儀礼です。入学式、卒業成人式や、結婚出産の祝いや早々や供養など、そういう意味があるわけです。
つまり、神の民、教会に属する者というのは、当然バプテスマを経験する、バプテスマを通る、それが前提であると言えるわけです。
最後の点ですね。バプテスマにはですね、弟子の学校の入学式としての意味がありました。
このイエス様の御言葉です。ちょっとこれを読んでみましょう。
マタイの28章の18節から20節の前半ですね。ちょっと先読みましょう、私が。
イエス様が天に昇る直前、弟子たちに言い残した言葉です。
イエスは近づいてきて、彼らにこう言われた。
私には、天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ここから読んでみましょうか。
ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
父、子、精霊の名において、彼らにバプテスマを授け、
私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。
これはイエス様がですね、自分の弟子たちに地上を離れる前に、
あなたたちが今度は新しく、当時の未信者の人を快信に導き、弟子としなさいと教えた御言葉です。
ここではですね、ちょっと難しいことを言うと、英語的な、文法的にはですね、
弟子としなさいという言葉が主な動詞です。
じゃあどうやってその人を弟子とするんですか?と言うと、
英語流に言うと同名詞的な、副詞的な意味ですけども、
それはバプテスマを授けることによって、そしてイエス様の命令した御言葉を教えることによって、という、
そういう意味があるんですね。
実はこの弟子という言葉はですね、ギリシャ語でマセテースと言います。
それは学ぶ人という意味があるんです、弟子というのは。
だからイエス様の弟子となる人は、イエス様学校に入学して、イエス様から学ぶ人になるんですね。
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で、そのようにイエス様が教えておられるようにですね、
会心した人が弟子となるためには、イエス様の学校にまず入学してもらわなきゃいけない。
そのための通過記令が、入学式がバプテスマ式です。
そして入学した後、弟子として弟子学び続ける。
同じですね、学校に入って学ぶという、そういうプロセスをイエス様は、
弟子としての歩みとして命じているわけですね。
これら今3つの伝統や聖書やイエス様の言葉を見ましたけれども、
これらの共通理解にならうなら、もし人がイエス様を救い主として信じたのであれば、
躊躇なくですね、ためらわずバプテスマを受けることが望ましいということなんです。
何度も言いますが、バプテスマはイエス様の弟子としてのキリスト弟子学校の入学式なんですね。
入学しなければ、この春入学したWBC男子がいらっしゃいますけれども、
入学しなければ学校生活が始まらない。
そのようにですね、イエス様の弟子学校は、
入学資格、それはイエス様を信じれば、救い主として信じれば誰でも入学資格を得られます。
アメリカの名門のハーバード大学とかですね、
イギリスの名門のオックスフォード大学に入るが如く、
この重要に捉えて難しい難関、ハードルが高いと考えることは必要ないんですね。
イエス様の学校に入って学び始めるというのは、誰でもできることです。
そういう意味で、入学式としてのバプテスマ、ぜひ受けることを考えていただきたいわけです。
私の個人的な試験になるんですけれども、
実はですね、私は大学卒業してから8年間牧師になるまでに、
学生伝道に携わっていたんです。
学生の方を新しく、クリスチャンのベースがない人をイエス様に導くという仕事です。
私もそこを通して信仰を持ったんですね。
そうすると、家族に反対される人が多いんですよ。
特に名古屋にいた4年間なんかは、本当にですね、長男やからダメだって言われたという方にあったりとかですね。
あるいは家族に反対されても牧師にですね、それは当然ですよって言われて、
信仰を負けずに戦慄を受けた方もいました。
でもですね、そういう背景があったので、私は牧師になってしばらくも家族に反対される人なんかいたので、
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あまり強くバプテストなことを進めなかったんですね。
ちょっと色々怖いな、リスクもあるなと。
でもですね、深く聖書を学び続けて、キリスト教の伝統に触れていく中で、
こう確信するようになったんです。
もしある人がイエス様を信じて、教会生活を始めたのであれば、
ためらわずできるだけ早いうちにバプテストを受けるべきだと。
そう自分の経験から、また学んだことから確信するようになりました。
実はそう思う中にはいくつかの経験があって、
例えばですね、私が牧師として、牧師になる前も病床で、
ある方、間際の方もいましたけども、自分の関わりがある方で、
未信者の方で、死を間際にした病床でイエス様を信じますという、
信仰覚に導く特権に扱ったことが何だかありました。
そういう方々はバプテストを受けることなく、天に召されていったんですね。
そういう経験をしましたし、ただ、そういう方も天に行かれると、
私もちろんイエス様と共に十字架かった犯罪者もバプテストに負けず天に行きましたから、
それはまあ大丈夫だと思って安心しているんですけれども、
でもその経験、バプテストを授けられたら授けただけでよかったなという思いと、
あと今のコロナ禍の状況ですね、その中で確信がより強まったんです。
つまり、死を間近にして洗礼を受けるということもできるんです。
病床に行って自分と何人かで行って、手切れを授けることもできるんですが、
今ご存知のように、もしコロナになってしまったら、面会ができませんね。
病院に入ったらどんな病気でも入院した方に、特に部外者なんかは面会できません。
私、学生の頃は集中治療室に恩師の牧師と信者さんのところに行くと、
集中治療室ですけれども、教会の牧師ですって言ったらスッと入れてくれたんですよ。
でも今は絶対そんなことはできません。
そういうことを考えた時に、ますます誰がいつ入院するかわからない、
本当は会ってはいけません。
でも誰がいつ入院するかわからないし、まさに手にたたつかわからない状況に今起こられているわけです、まさに。
そういう中で、なおさら信者の皆さんにはですね、教会生活属性の皆さんにはバブテスマの意味を捉えて、
バブテスマを受けるタイミングについて、ぜひ考えていただきたいんですね。
真剣に考えて祈ってほしいと思います。
皆さんの意思に委ねられているのであれば、なおさら。
ただですね、やっぱり心配があると思うんですね。
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バブテスマを受けても立派なクリスチャーになれるか心配な。
それから様々な、いろんな習慣を変えられないかもしれない。
いい人間になってからバブテスマを受けようとなったらですね、誰も受けられませんって先輩牧師が言いました。
こういう考えには落とし穴があります。
つまりそれは、バブテスマを受けても、自分の力で自分を変えようとしてしまうという癖が残るんですね。
そう考えると、バブテスマを受けた後に生まれ変わった、新しい人生を始めようと思っても、
罪の性質、言ってますけど残ります。
そうするとバブテスマを受けた後も苦しくなります。
絶対でもそういうところを通るんですね。
そういうところを通っても、イエス様の十字架の許しの深さというのがわかるという幸いに預かるんですけども。
でも、こう考えてください。私もこう考えています。
自分も含めてもし変わる必要があると思えば、それはですね、まさにイエス様が変えてくださるわけです。
本当にクリスチャン生活というのはですね、徹頭徹尾、神の愛に自分の身を委ねるということだ。
自分が変えられない、人に対して優しくできない時もある。
つまずいてしまったり、つまずかせることもあるけども、
そういう私たちの不完全さを超えて、なお広く深い愛と終わりまで私たちを導くという神様の真実さ。
そこに自分の身を委ねるということが、クリスチャン生活の喜びであり幸いだと私も確信しています。
もしかしたらバクテストに乗っけてもクリスチャンをやめてしまう、そのリスクを心配するかもしれません。
でも、誰も将来のことをわかりませんね。
イエス様も、明日のことは明日に煩うなと、ロークはその日の日に十分だと明日が煩うとおっしゃっています。
ですからなおさら、自分の将来に様々な心配があるからこそ、
イエス様に自分自身を全て、欠点も手折りなさも含めて丸ごと自分をお委ねするという意味、
イエス様よろしくお願いしますという意味も含めて、バクテストの式に預かっていただきたい。
そういう意味でバクテストについて考え、導かれたらぜひ決断してほしい。
20年近い僕が生活の中で今はそう確信するようになっています。
先ほどこのイエス様の、イエス様学校への入学、そういう命令、
弟子としなさいという命令がありましたが、この最後にイエス様はこういう素晴らしい約束を述べています。
一緒に読んでみましょう。
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三杯、見よ私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。
マタイ28-20
このイエス様にお委ねしながら、また教会という神の家族の中に身を置きながらですね、
バクテストマンを通って主の学校に弟子入りし、また励ましをお互いでやりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは私たちを救い、またイエス様の十字架と復活に預からせ、
私たちを新しい命、またあなたの新しい民へと導いてくださったことを感謝します。
新しい神の民である教会、そこに属する入学式としてのバクテストマン式、
今日、取り行われます。
どうぞ、橋本姉妹をこれからも守り、導いてください。
バクテストマンを受けたどうか、私たちそれぞれもこのひとたび、
あなたへの愛、あなたの愛と導きを、真実さを思い出し、
さらにあなたを委ねることができるよう導いてください。
バクテストマンについて悩み、祈っている方がいるならばどうか、
主がそれぞれにふさわしく語りかけ、決断を促しお導きくださるように、
あなたが誠実であるということ、そのことをどうぞお示しくださるように導いてください。
言い尽くせない思いがありますが、この願いと感謝を、
私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは、それぞれの方々1分ほど時間をとって主に応答して祈りましょう。