2024-08-18 29:01

#225 冤罪と恩赦 24/8/18

マルコの福音書15:1-15からの礼拝説教。2024年8月18日録音。イエス様に十字架刑の判決が下った時のことを取り上げます。そこには正義を曲げる人たち、正しいことを知りながらもそれを実行できない人、何が正しい事かもわからず煽動されてしまう人たち、そしてそのような人たちの中で沈黙を保つイエス様が登場します。1.サンヘドリンの矛盾—仕組まれた冤罪(),2.ピラトの矛盾―恩赦の失敗(),3.沈黙の救い主‐私たちの恩赦()、の3つの点を取り上げます。

サマリー

ポッドキャストエピソードでは、イエスの冤罪とそれに関連する恩赦について深く掘り下げています。ピラトとサンヘドリンの矛盾が指摘され、イエスの沈黙が重要であることが強調されています。また、冤罪のテーマに取り組み、イエスの沈黙の姿とその背景にある深い意味について考察しています。さらに、ピラトの判断やバラバの恩赦の意義、旧約聖書のメシア預言との関連にも触れています。

冤罪の構造
マルコの福音書、15章1節から9部節。
世が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で教義を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
ピラトはイエスに尋ねた。
「あなたはユダヤ人の王なのか?」
イエスは答えられた。
あなたがそう言っています。
そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
ピラトは再びイエスに尋ねた。
何も答えないのか?
見なさい、彼らはあんなにまであなたを訴えているが、しかしイエスはもはや何も答えようとされなかった。
それにはピラトも驚いた。
ところでピラトは、祭りの度に人々の願う囚人一人を釈放していた。
そこにバラバというものがいて、暴動で人殺しをした暴徒たちと共に牢に繋がれていた。
群衆が登ってきて、いつものようにしてもらうことをピラトに要求し始めた。
そこでピラトは彼らに答えた。
お前たちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか?
ピラトは祭司長たちが妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
しかし祭司長たちはむしろバラバを釈放してもらうように群衆を煽動した。
そこでピラトは再び答えた。
ではお前たちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を私にどうしてほしいのか?
すると彼らはまたも叫んだ。
十字架につけろ。
ピラトは彼らに言った。
あの人がどんな悪いことをしたのか?
しかし彼らはますます激しく叫び続けた。
十字架につけろ。
それでピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスは鞭で討ってから十字架につけるために引き渡した。
以上です。
今日はこのところから冤罪と恩謝、冤罪と恩謝と題して見事を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
先週は台風が金曜日に接近するということで、前の日から大騒ぎになってですね、東海道新幹線も運休をしたりしておりました。
幸い私たち新座市付近ではですね、大きな被害もなくと言いますか、少し雨が強くなった程度でなんとか過ごせたことで良かったのかなと思います。
被災された方々の無事も祈りながら歩んでいきたいと思います。
さて今日はいよいよですね、イエス様が十字架にかけられるその裁判が行われた、判決が下されたところです。
毎週私たちが昭和しております使徒信条のですね、ポンテオピラトの下に苦しみを受けというところですね。
そのあたりからのところが今日の箇所と関係しています。
でまぁ、冤罪と恩赦という観点から3つのところを見ていきます。
サンヘドリンの矛盾ですとかピラトの矛盾。
そして最後はその恩赦が私たちに向けられているということを見ていきたい。
沈黙の救い主ということで3つのキャラクターに焦点を当てながら見ていきましょう。
まず最初ですがサンヘドリンの矛盾、そこには仕組まれた冤罪がありました。
もう一度繰り返し読みます。
一節と二節。
夜が明けるとすぐに西市長たちは長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってからイエスを縛って連れ出しピラトに引き渡した。
ピラトはイエスに尋ねた。
あなたはユダヤ人の王なのか。
イエスは答えられた。
あなたがそう言っています。
この最高法院をサンヘドリンと言っています。
そして先々週から先週のペテロの否定もそうですけれども見たように、
イエス様はまずユダヤ人の宗教と政治の最高権威の最高法院、サンヘドリンの中で裁かれ、そして冒涜罪ということで今に至っているわけです。
10章の33から34でイエス様はご自分について予告された通りですね、宗教指導者の手から違法人のローマの総統がピラトの下に引き渡されたわけですね。
そしてこの罪状がですね、ユダヤ人の王というものでした。
これにはですね、ユダヤ人側とローマ人側の立場から違った意味を持つことになるんですね。
そしてその違った意味を理解することが、今日の箇所を知る鍵になるわけです。
いろんなものがそこから浮き彫りになってきます。
まずユダヤ人にとっては、それは約束された救い主、ユダヤ人の王は約束された救い主を指すことになります。
いわゆるメシアですね。
そしてここが大事なんですが、当時の救い主メシアに期待されていたことは、
ローマの圧勢にあったイスラエルを武力によって、そして政治的な文字通りの王として、言ってしまえば反乱を起こして、
ローマからイスラエルを解放して国家を作る、そのようなダビデの子孫であるユダヤ人の王メシアを期待していたわけです。
しかしイエス様はその期待とは違った受難のメシアだということを繰り返し述べてきたわけですね。
そしてその上で、しばらく前、2週間前に見たサンヘドリンで、イエス様は自分の正体をそのようなメシアではない、受難のメシアである、
つまり神と等しい神の御子であり、やがて雲に乗って帰ってくる再臨のメシア、救い主であるということを明らかにしたわけです。
そしてそのことがユダヤの最高議会サンヘドリンにとって、神と等しくする神を冒涜する罪だということで、死罪に値するとなったわけです。
しかしご存知のように当時のユダヤはローマの統治下にありました。
ですから処刑する中で、特に十字架の刑に処するためには、このローマの権威の下で判決が下さらなければいけなかった。
そのようなことでサンヘドリンはイエスさんを縛って、協議してと言いますか、決めた上で十字架にかけるべくピラトにイエスさんを引き渡した、というのが今日のまず今見ている箇所です。
ピラトの苦悩
で、ルカーの福音書の23章2節で彼らがどのような訴えをしていたかということがわかります。
ユダヤ人の王として、23章2節、告白者がピラトにこう証言していました。
この者は我が民を惑わし返さる、つまり皇帝に税金を納めることを禁じ、自分をキリストだと言っていることがわかりました。
つまりローマの反逆罪を企んでいるということで訴えたわけです。
ここで皆さん気づきました?興味深い矛盾が生じている、そのことに気づきましたでしょうか。
イエス様は先ほども言いましたが、ご自分についてサンヘドリンではローマに反乱をくわだてるような、そのようなメシアではないと証言したわけです。
それもあってサンヘドリンはイエス様を神への冒涜ということで死刑に処すると決めたわけです。
しかしここでは彼らが否定した、否定したと言いますか、イエス様がそうではないと言っている、つまり暴動をもって政治的な手腕をもってローマに反乱をくわだてるような、
ユダヤ人の王ではないとイエス様が言っているのにもかかわらず、それを知っていたにもかかわらず、サンヘドリンはそのようなくわだてをするものだということでピラとローマに訴えている。
この矛盾があるわけですね。
このようにローマの反乱をくわだてた自称ユダヤ人の王だとサンヘドリンの議員たちはピラとの前にイエス様を訴えたわけです。
別にですね、ローマにとってはイエス様が神だと言ったって関係ないんですね。
それよりも最も大きな死刑に値する罪は、自分をユダヤ人の王としてローマに反逆をくわだてたものだ。
それが死罪にあたるというわけだったからなんですね。
実はですね、今もどこと言いませんが、スパイ国家というのがありますよね。
言いません、どこだ。
そのスパイ国家のように当時のピラとは、実はたくさんのスパイをイスラエルの中に巡らしていたようなんです。
ですから、イエス様が本当に言っていた主張ですとか、このユダヤ人の最高議会がどのようなことを企んでいたのかということも実はつかんでいたんです。
言い換えると、このピラとに対するイエス様の訴えが冤罪だということをスパイ網からですね、ピラとは知っていたとある学者は言っているわけですね。
その中でピラとの発言が15章に書いてありますね。
2つです。
15章10節、発言というか考え方。
ちょっとここだけ一つ読んでみましょうか。
10節、ピラとはから3回。
ピラとは最主張たちが妬みからイエスを引き渡したことを知っていたのであるとあるわけですね。
群衆がイエス様の教えにどんどんついていったことも含まれています。
そしてイエス様を十字架にかけるように叫び続けた群衆、バラバラを代わりに釈放しようといった群衆に対してもこう言ったんですね。
15章14節。
あの人がどんな悪いことをしたのかと言っている。
少なくとも3回ですね、ピラとは群衆に対してこのイエスをどうしようか。
言い換えればですね、遠回しにイエス様が十字架にかからないようにということを3回もですね、群衆に訴えているわけです。
このようなところからイエス様が冤罪によってこのサンヘドリンからローマ総督の下に連れてこられたということがわかるわけです。
2番目。
今度はこの総督ピラとの矛盾、御者の失敗というところから見ていきましょう。
15章の15節。
それでピラとは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスは鞭で討ってから十字架につけるために火渡した。
このイエス様の無罪を確信していたピラとは何とか十字架を避けようとして、官令に従い御者を提案しました。
それと同時にですね、群衆の方から御者を申し出てきたわけですね。
この過越の祭りの時に囚人を釈放してくれと。
しかしピラとの思いとは裏腹に群衆は殺人の罪を犯したこのユダヤからですね、ローマに反逆を企てようとしたバラバを釈放してほしいと願えていたわけなんです。
そして今まで読んだようにですね、何度も群衆はピラとに反抗して叫び続けて、ついにその群衆の声が勝ってしまったわけなんですね。
実は今まで見たところには、3種類の愚かな人々が描写されているって言うんですね。
まず一番最初に見たように真理を曲げて群衆を煽動して捜査までしてイエス様を排除して自分たちの権力を維持しようとした最主張裏の宗教指導者たちの姿がありました。
律法学者や旅の長老たちもそこに含まれます。
そして2番目は学者によってこのように指摘されている群衆です。
その群衆はこういうふうに指摘されています。
野獣馬的な大衆は本質的に無資料であり捜査されやすいものである。
そしてその特徴は暴力だと言っているんですね。
そして3番目それはピラとです。
権力を維持するために群衆に迎合する政治的支配者のピラとです。
彼はイエス様の取扱いについて自ら決断をしないで群衆に判断を委ねていることがわかります。
先ほども言いましたがこの男をどうしようというのか群衆に判断させている。
彼は政治的な正しい判断ができた。
つまり政治的と言いますか法的な判断できた。
イエスは無罪である。
しかしそれを実行することができなかったわけですね。
なぜなら群衆を喜ばせようとしたということです。
それは聖書に書いてある通りですね。
イエス様の取扱いについて自ら判断せずに群衆に委ねた。
政治的な正しい判断ができてもそれを実行することができなかった3種類の人たち。
特に今2番目の恩者に失敗したピラと。
彼は群衆に迎合して正しい政治的法的な判断ができない人だったということがわかります。
沈黙の救い主
それでは最後ですね。
今日の主役のイエス様3番目。
沈黙の救い主。
それは私たちの恩者を表している。
前後しますが15章の4節5節。
ピラとは再びイエスに尋ねた。
何も答えないのか見なさい。
彼らはあんなにまであなたを訴えているが。
しかしから読んでみましょうか。
しかしイエスはもはや何も答えようとされなかった。
それにはピラとも驚いた。
沈黙するイエス様の姿にピラとが驚いたとわざわざ書いてあるわけです。
そして2節のですね。
ピラとに対するイエス様の答えは謎めいているわけなんですね。
わかったようでわからない。
ピラとがですね。
お前はユダヤ人の王なのかと言ったらですね。
イエス様はあなたはそう言っていると言いました。
実はこのあなたがそう言っていますというのはとても良い役で。
ギリシャ語の元の言葉の直訳です。
本当にですね。
ここにビジュアルがないんですけど。
よく言うギリシャ語では省略される代名詞。
あなたという言葉がここにわざわざ入っているんです。
スというシグマに言う。
あなたはそう言っていますという現在形で書いてある。
その意味は何かということで。
私も学んできたつもりですが。
今日ははっきり皆さんにもお知らせしたいんですが。
実はですね。
それはユダヤ人の王なのかという答えに対して。
いいえともノーとも取れることです。
そしてはっきり答えていないわけなんです。
イエスの沈黙とピラトの判断
謎めいているんですね。
どういうことか。
まずいいえという場合。
それはですね。
先ほど一番目のところで見たように。
ローマに反乱するための武装放棄するような。
地上の権力者としてのユダヤ人の王ではありません。
という意味でいいえなんです。
実はヨハネの18章36で。
今日の箇所では沈黙を貫いていますが。
イエス様の言葉がこう記されているんですね。
ピラトに対する答えだということで。
私の国はこの世のものではありません。
もしこの世のものであったら。
私の下部たちが私をユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。
しかし事実私の国はこの世のものではありません。
ですからそのような意味で。
私はユダヤ人の王ではないという意味で。
いいえノーなんですね。
一方ユダヤ人の王ですか。
はいということについては。
こういう部分でははいなんです。
神なる救い主として。
サイリンの救い主としてのユダヤ人の王であるという意味です。
先ほど言ったかどうか忘れてしまったんですが。
ユダヤ人の王というのは。
約束のメシアとか救い主という意味とイコールなんですね。
ですからこのような意味での地上の王ではなくて。
神なる救い主。
サイリンの救い主。
メシアとしてのユダヤ人の王ではありますよという意味なんですね。
さらにここにはですね。
もう一つの意味があるんですね。
たぶんレジュメには書いてないんですけれども。
実はここでイエス様はこのような答えを言いながら。
ピラトにハンダを入れられているんです。
あなたがそう言っています。
そしてあなたが判断しなさいということで。
実はピラトにイエス様は判断を委ねてこのような言い方をしたということもあります。
ですからこの3つのことをぜひ覚えておいてください。
ハイでもありイエでもあり。
そしてイエス様はピラト自身に判断するように水を向けたわけです。
そしてどうしたかというとその上でピラトはイエス様は無罪だということで。
このような群衆に最後取り入ってしまいましたけれども恩謝を図ろうとしたわけですね。
さらにこの沈黙のメシアであるイエス様に代わってバラバが釈放されました。
そしてイエス様が十字架につくことになりました。
そして皆さんもご存知のように実はこのバラバ恩謝を受けたバラバは。
罪人のために十字架で死んだイエス様。
そのイエス様が十字架の上であがなうべき全ての罪人の代表としてこの犯罪人のバラバがいるということなんですね。
当然その中に私も含まれている罪人の代表としてのバラバという意味もあるわけです。
それと関連してイエス様の弟子であるペトロが後に振り返ってこう書いているんです。
第一ペトロの手紙3章18節。
ちょっと難しいかもしれませんが頑張って読んでみましょうか。
キリストも一度罪のために苦しみを受けられました。
正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。
それは肉においては死に渡され霊においては生かされてあなた方を神に導くためでした。
最後の部分は十字架に死なれやがて復活してと理解してほしいでしょう。
ここに罪人のために苦しみを受けられたイエス様。
それは正しくない方が正しくない者たちの身代わりになられたと書いてある通りです。
そしてそこに当然バラバも含まれており私たちも含まれているという理解なんです。
そしてその上で目を引くのがここの主題である沈黙のメシアイエス様の姿なんですね。
これだけの冤罪で訴えられ続けている中でイエス様が沈黙しているその様子はピラトに驚きに見えたわけなんですね。
そしてその様子を見てピラトは恩赦を決断したとも言われています。
バラバの恩赦
実はその神々しい沈黙のイエス様の姿はこれも旧約聖書の救い主のお姿に重なるわけなんですね。
そのことが旧約聖書イザヤ書の53章の7節に書かれています。
メシア預言で知られるイザヤ書の53章にこんな言葉があるんですね。
そしてその同じイザヤ書の前後になりますが、53章の4節5節にもこのようなことが記されています。
まことに彼、約束の救い主は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
それなのに私たちは思った。神に罰せられ、討たれ、苦しめられたのだ。
しかしから読んでみましょうか。
しかし彼は私たちの園木のために刺し、私たちの戸賀のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒された。
そしてその沈黙のイエス様ですけれども、群衆の行為に負けたピラトンにより十字架の判決が下されてしまうわけです。
そして十字架に渡すために鞭に打たれたとあるわけなんです。
実はこの鞭打ちというのは十字架にかける準備としての鞭打ちなんですね。
なぜそれを行ったかというと、この十字架の上でなかなかイエス様は拒否しましたけれども、
麻酔薬的なこの葡萄酒を飲んだりしてですね、なかなか息を引き取らない。
そういうこともあって、なかなか息を引き取らないという意味で残酷な刑が十字架だったんですが、
早く絶命するように十字架にかかる前に鞭打ったと言われています。
実はここにシンプルに書かれていますが、この当時描写を見た人、読んだ人は鞭打ちの刑の無誤さをすぐ理解したわけですね。
実は鞭打ち執行のための専門の者がいたんですね、兵士なり執行者。
そしてこの持ち手の先に分かれた皮がついている。
そしてその皮には貝殻ですとか骨が埋め込まれているわけです。
そして裸にされた上半身を打つわけです。
39と言われていますがその回数は決まっていなかったようなんですね。
イエスの贖いの宮座
そして当然皮が剥げ肉が見え内臓が見えて死ぬ者もいたとも言われています。
そのような無誤い刑にイエス様が晒され、やがて十字架に引き渡されていくわけなんですね。
そのイエス様の姿を振り返ってですね、弟子のペテルはこのように描写しているんですね。
第一ペテルの2章の23節から25節の抜粋です。
イザヤの言葉の反映がありますが、その打ち傷のゆえにあなた方は癒された。
あなた方から読んでみましょうか。
あなた方は羊のようにさまよっていた。
しかし今や自分の魂の牧者であり、貫徳者である方のもとに帰る。
イエス様の十字架、またそこに至る歩みを共に思いながらですね、
そのイエス様を心に受け入れ、その贖いに感謝し歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
私たちの救い主なるイエス様、皆を賛美いたします。
あなたは多くの訴えがなされ、冤罪というべき罪をなせりつけられましたが、
神の御心を受け入れ、私たちの罪を贖うためにそれらを受け止め、
鞭打たれ十字架へと進んでいかれました。
そのあなたの打ち傷のゆえに私たちは癒され救われました。
そのあなたの尊い贖いの宮座を感謝いたします。
どうかそのことをよく味わいながら、またあなたに信頼しお従いする私たちであり、教会でありますよう、
このあなたの贖いの宮座に感謝して、イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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