2024-08-11 24:51

#224 ペテロの躓き 24/8/11

マルコの福音書14:66‐72からの礼拝説教。2024年8月11日録音。ペテロは3度イエス様のことを「知らない」と言いました。それにも関わらず、そのことが記された今日の箇所には良い知らせ「福音」が示されています。会話の内容を詳しく見ると、計算された巧みな言葉でペテロを追い込む様子とペテロの裏切り行為の実態が浮き彫りになります。1.ペテロを追い詰める言葉(),2.否認し裏切るペテロの言葉(),3.私たちへの福音として(),の3つの点を取り上げます。レジメはこちらから: 「ペテロの躓き」 マルコ14:66-72 3034/8/11 – 新座志木パプテスト教会 (niiza-shiki.org)

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16節からとなっていますが、前後関係がありますので、 54、55節を読んで、その後を読みます。
マルコ14章、54、53、54節。
それでは、お読みします。
人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、 祭司長たち、長老たち、律法学者たちが皆集まってきた。
ペテロは遠くからイエスの跡について、大祭司の家の庭の中まで入っていった。 そして、下役たちと一緒に座って火に当たっていた。
続きまして、66節。
ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやってきた。 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめていった。
あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね。 ペテロはそれを否定して、何を言っているのかわからない、理解できないと言って、前庭の方に出ていった。
すると、鶏が鳴いた。 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。
この人はあの人たちの仲間です。 すると、ペテロは再び否定した。
しばらくすると、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った。
確かにあなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。 するとペテロは、嘘なら呪われてもよいと誓い始め、
彼は失礼しました。 私はあなた方が話しているその人を知らないと言った。
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。 ペテロは、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います。
イエスが自分に話されたことを思い出した。 そして彼は泣き崩れた。
以上です。今日はこのところから、ペテロのつまづきと題して御言葉を取っていきます。
皆さんおはようございます。 先日8日の木曜日に宮崎県沖で大きな地震が起こりましてですね、
南海トラフ地震との関連で地震情報というのが出まして、比較的埼玉はまだ安全な地域なんですけれども、
いろいろな緊張もある日本列島と言いますかね、そんな中です。
また東北地方に台風も近づいているということなんですけれども、お互いの無事を祈りながらですね、
また暑い中ですが、お祈り、礼拝、御言葉に耳を傾けていきましょう。 さて今日はいよいよペテロがつまづく場面です。
今日の箇所では、ペテロがイエス様と関係を打ち消す言葉に焦点が当てられています。
03:07
ですから、この箇所は一般的に事実を打ち消す、否定するという意味を組んで、ペテロの否認という言い方をされています。
英語でPeter denies Jesusとなっていますけれどもね、ペテロの否認と言われています。
このマルコの最初の読者たち、ローマの60年代ぐらいの教会にいた人たちの実際の状況はですね、
著しい迫害とか権力者によって命を奪われるということはまだ稀であって、むしろ日常生活の中でイエス様との関係を問われていく、
そういう小さな試練と言いますか、そういう状況に置かれていて、そのような読者に向けてもこのペテロの言動がメッセージとなっているとも言われています。
その初期キリスト教の状況の背景に合わせて読んでいくと、実は私たちの日常にも深く関わってくることがわかってきます。
そしてまたマルコの福音書はですね、4つの福音書の中で最もシンプルに事実が記されています。
しかしいつも言っていますが、その箇所を詳しく見ていく中で浮き彫りになってくること、興味深い発見がありますので、そんなことに注目しながら3つの点から見ていきましょう。
最初の2つはですね、ペテロを非難する人の言葉とペテロの言葉を見ていきます。そして最後に私たちに向けられた福音的な部分を見ていきます。
最初はですね、まず絵が重なってしまいましたけれども、ペテロを追い詰める言葉を見ていきます。もう一度復習になりますが、66、67節読んでいます。
ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやってきた。 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめていった。
ここだけ読んでみましょうか。 あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね。
場面設定をちょっとですね、見ていきたいんですが、ペテロが下の中庭にいるととあるように、下があれば上があるんです。
上はどこかというと、先週見たイエス様が裁判を受けている大祭司の庭を言います。
そしてどういう意味があるかというと、上でイエス様がサンヘドリンの正式な裁判を受けている中で、下のところでペテロが非公式に
プライベートな裁判や尋問を受けている、そういうような場面設定になっているんですね。
06:05
そしてその中でおそらく3月4月、今で言うイースターの時期ですから、当時のエルサレム、その頃のエルサレムは
明け方の頃です。鶏が鳴く頃ですけれども、寒かったので
焚火で壇を取る必要があった。そしてその中での今日の出来事なんですね。 そしてその壇を取って、野獣馬的になりゆきを見守っていると
大祭司の召使いの女性がペテロに行ったと言うんですね。 その言葉は
あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね、というものでした。 ここで
詳しく見て注目すべきことはまず、見るという動詞が2回使われているんです。 この女性が
ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめてこう言った。 ペテロが見られているというところが強調されています。
そしてこのじっと見つめてというのは元のギリシャ語を見ると、 マジマジと見つめてという意味があるので
この女性がペテロが誰かということを分かって見つめているというニュアンスがあるようです。
さらにこの彼女の言葉、 冒頭にわざわざですね、この元のギリシャ語で言いますと
英語で言うところの主語のyouという言葉が使われているんですね。
先頭にわざわざあなたという言葉が使われていて、ペテロを指し示している様子がわかります。
そして 前も言いましたがギリシャ語は簡単に言うと単語を入れ替えることが
自在にできるんです。そして前半の部分と後半の部分の言葉によってその強調できるんですね。
そして ちょっとこの元々のこれを読んでみますと カイスメタトゥナザレヌエースタトゥイエスーと言っています。
直訳するとこの言葉の順で直訳すると カイというのがあなたを持っています。またあなたこそ一緒にナザレイ人といた。
それはイエスとなったんですね。 このように強調されていることは繰り返しますがスーというのはあなた
ユーという言葉ですからペテロということが強調されています。そしてメタというのは一緒ですね。
あなたが一緒にナザレイ人といた。エースタというのはB動詞です。
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あなたこそ一緒にナザレイ人といたでしょう。 それはイエスだという強い非難の言葉が込められているわけなんですね。
で この言葉
さらにですね ナザレ出身のという言葉です。
実は これはナザレというのはイエス様の出身地です。ナザレ人と呼ばれると預言書にあります。
そしてこのナザレという言葉は裁判を主催する側からするとイエス様を攻め立てている側からすると非難の言葉です。
今まさに問題を起こしているナザレ出身の男イエスという意味が込められているんです。
まあとても良くない例えですが今でいうところのヘイトスピーチに似たような地名の言葉が響いてくるわけなんです。
そしてペテロは罰が悪くなって否定をしてその場を立ち去りました。しかしその後その女性は彼の後をついてきたようですね。
そして追い討ちをかけるように側に立っていた人たちにこのペテロの正体をさらにバラしていったんです。
彼が彼女がですねペテロをさらに追い詰めて追い討ちをかけている様子もここからわかってくるんですね。
このあなたもという言葉は最初はペテロだけにしか向けていない言葉だったんです。
しかし次の言葉この人たちは周囲の人たちを巻き込んでこの人はあの人たちの仲間ですといったところにですね
二種類の人を巻き込んだ。周りの人たちに
まずペテロのことを知らしめて周りの人を証人として避難者として巻き込みました。そしてペテロを
あの人たちの仲間ですと言ってイエス様の弟子たちというよく知られた悪党どもの一味という具合に
そちらの人たちもペテロにですねペテロそちらに巻き込んでさらにペテロを追い込んでいったということがわかります。
この避難する人たちを賛同者としてそして避難されるべき人たちを仲間としてペテロが逃げ道がないように
さらに追い込んでいく様子がわかるんです。まあ今風に言うと
みんなあなたのことを悪く言ってるしあの連中と同じでしょっていうそういう避難の言葉です。
12:03
この人を避難する上での残酷な部分もここから浮き彫りになってくるわけですね。
そして
3度目にですねペテロを追い込む言葉が
書かれているわけです。 確かにあなたはあの人たちの仲間だ。
ガリラヤ人だから。 女性が巻き込んだ周りの人たちがついにペテロを追い詰めるということが起こってきました。
でそこにですね また特徴的な言葉があります。
先ほど言ったあの人たちの仲間だということに加えて ガリラヤ人だからという言葉です。
マルコの福音書の最初はイエス様と弟子たちの出身地ガリラヤ地方での出来事でした。
エルサレムから北ですねガリラヤ湖の上の方が舞台でした。イエス様と弟子たちの出身地が北部ガリラヤ地方です。
そして詳しく言いませんが特定の音の発音の仕方によってガリラヤの鉛があることがわかるんです。誰の耳にも。
昔東北出身の説教者がですねこの部分から説教して東北のあまりでこうなんか話したのを思い出すんですけれども。
さらにですねこの都会のエルサレムにはあえてこういう田舎の北部のガリラヤ人がいるということが非常に珍しかったんです。
ですからガリラヤから来た連中はあのイエスの仲間だということがよく知れ渡っていたんですね。
そのようにペテロは追い込まれてきたわけです。
それでは今度はペテロの言動に注目していきましょう。
否認し裏切るペテロの言葉です。 まず最初の女性の言葉に対してペテロはこう答えます。
68節 ペテロはそれを否定して何を言っているのかわからない。
理解できないと言って前庭の方に出て行った。 するとニワトリが鳴いた。
あなたもあのナザレ人イエスと一緒にいましたねという言葉に対する否定です。 この何を言っているのかわからないし理解できないという言葉。
この言葉はですねまずもちろんイエス様との関係を否定しているんですが これは裁判における正式な反証の文言だそうです。
あなたの言っていることがわからないあなたの言っていることが理解できないという 裁判の証言における正式な否定方法だったようです。
そして特徴はですね相手の証言を最小限の言葉で否定しているということにあるんですね。
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そしてさらに注目すべきはここで イエス様の名前を出していないところなんです。
あなたが言っていることとか言っています。それを理解できない。
イエス様の出身地は居るかイエス様の名前さえ口にしなかった。 そのようにしてイエスのことを自分は知らないということの
証言する、立証するための 効果を期待していたようですね。
そして2度目、鶏が鳴いてその後2度目の否定の言葉は記されていません。
この女性が あの人たちの仲間だと
周りの人に言いふらしたところは ペテロの答えは省略されています。そして3番目に周りの人たちがペテロに対して
お前もあの仲間だガエラ人だからだっていう言葉に対する否定が次に 書かれていますがその言葉が衝撃的な内容なんですね
こう書いてあります。するとペテロは嘘なら呪われても良いと誓い始め
私はあなた方が話しているその人を知らないと言った ということです。
気がつき、お気づきになったように呪われても良いという言葉です。ここの部分を直訳すると
しかしペテロは呪いをかけ誓い始めてという言葉なんです。 この呪いをかけるという言葉は動詞でして
カトリックでですね
ハモンという言葉をアナテマって言うんですがそのアナテマという言葉のギリシャ語の 元になった動詞がアナテマゾウという言葉が
入っているんです。だから
破門の覚悟で 自ら誓ったと言えるかもしれません
そしてハモンというのを呪われても良いという意味でここで訳していますが
そのことを知らないということを誓ってですね言葉が正しいということを誓って
ここでもイエス様の名前を口にしないであなたが話しているその人を知らないと言ってのけたんですね
でこれらの言葉の意味は実は前のこのペテロの言葉と比べてこういう意味があるんです
ペテロは一番最初にイエス様のことをあなたは神の子キリストですと言い当てた人ですよね
そのことをペテロはこの言葉によって彼の言動によって否定した
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ということがわかるわけなんです
そのような衝撃的な意味が彼の言葉にはあったんですね
それではここから私たちへのメッセージ 福音というものを見ていきたいと思います
私たちへの福音としてイエス様の以前の予告の言葉をもう一回読んでみましょうか するとすぐにニワトリがもう一度泣いた
国連でましょうか3回ペテロはニワトリが2度泣く前にあなたは3度私を知らないと言いますと
イエスが自分に話されたことを思い出したそして彼は泣き崩れた 今日のところの結論なんですけれども
実は ここはですね先週見た最後の箇所とつながりがあります
先週見た最後の箇所を覚えていますかイエス様は目隠しをされて殴られました そして
お前が救い主たら目隠しをして誰が当てたかを言い当ててみろって言ったんです まあ繰り返しますが
旧約聖書のある解釈から目が見えず耳も聞こえず言い当てるという解釈からですね じゃあ目も見ず聞かず当てることができる人というのは匂いを嗅いで当てることができるんだ
というまあ 言い伝えがあって
そして それがメッシアだって言い伝えがあって
イエス様は目隠しをされて殴られて誰かを言い当てろ しかも言い当てろって言葉は預言しろという言葉だったんです
わかりましたイエス様はその時に 沈黙を保って預言しませんでした
しかしここで何が起こっているかというとイエス様の預言が成就しているんです ペテロが3度知らないというニワトリが2度泣く前にペテロが3度知らない
という預言がここで成就しているということがわかってイエス様が救い主だということが 明かしされているわけなんですね
さらにですねある学者はこの箇所をこのように解釈しているんですね この裁判の箇所を通して
読者はイエス様の模範に従うように強い明かし人になるように教えられているんだって 言うんです
しかしそれだけじゃなくてもっと深いレベルで見ると 実はこの箇所には福音が宣言されているというんですね失礼しました
どんな福音か その学者はこういうんですね
表面的にはイエス様のように強い明かし人になりなさいと言うんですけども 深いレベルでいうと福音が宣言されている
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それはこういう意味だと メッセージの暗い部分は失礼しました
我々はペテロのように彼を実際に否定している しかし福音は我々の救いが我々の取るに足りない実際の行動によるのではなく
神のステージによるのだということである ここに記載されているのは
先日見たように強がっていながらつまずいたペテロの姿です しかしイエス様は
先ほど言いましたがつまずく弟子たちの姿を予告してさらにこっつけ加えられたんですね 覚えてますかね
あなた方はつまずきます 私は羊飼いをすると羊は散らされると書いてあるからです
ここから読んでみましょうかさんはいしかし私は蘇った後 あなた方より先にガリダ屋へ行きます
つまずくことを予告していますけれどもイエス様は蘇って この
ガリダ屋という彼らの原点の場所に先に行っていると そしてそこであなた方を待って何が起こるかというと彼らは新しく
また使徒として照明を受けて立ち上がって出ていくわけですね ここに福音があるわけです
ですからマルコは当時の教会の人たちに対してあるいは私たちに対して 強がりのペテロではなくてペテロのような弱さを認めて
イエス様の恵みに頼れるように 私たちに復印を伝えているということなんです
繰り返しますがこれを読んだ当時の教会の人たちはこの結論も知っていた ペテロが立ち上がって教会の指導者になったということも知っていたわけですね
そしてその後まさに自分を罪との頭で読んだパウロも 罪と福音を
告げてこのように語っているんですね ローマの5章20節
律法が入ってきたのは違反が増し加わるためでした しかしから読んでみましょうか3
しかし罪の増し加わるところに恵みも満ち溢れました このようなイエス様のお気に入りを頼みながらですね
弱き自分足りなき自分のそのようなところをイエス様に委ねて歩んでいく お互いでありたいと思いますお祈りしましょう
私たちの救い主なるイエス様あなたのお名前を賛美いたします 私たちは日常生活の様々な場面で弱さを覚えまたつまずくことがございます
24:12
しかしその度に先立つイエス様の福音を知ることができますように どうか私たちの目を開いてください
このあなたがイエス様とペテルのありえありを通して私たちに語ってくださった この福音を私たちが日々の生活の中でより深く知り歩んでいくことができますように
どうか私たちを導いてください この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは1分ほど
黙祷する時間を持ちましょう
24:51

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