イエス様の死刑判決
それでは、お読みします。 マルコ14章53節から65節
人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、 祭司長たち、長老たち、立法学者たちがみな集まってきた。
ペテロは遠くからイエスの跡について、大祭司の家の庭の中まで入って行った。 そして、下役たちと一緒に座って火に当たっていた。
さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、 彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、 それらの証言が一致しなかったのである。
すると、何人かが立ち上がり、こう言ってイエスに不利な偽証をした。 私は人の手で
作られたこの神殿を壊し、人の手で作られたのではない 別の神殿を三日で建てる、とこの人が言うのを私たちは聞きました。
しかし、この点でも証言は一致しなかった。 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねた。
何も答えないのか。 この人たち、この人たちがお前に不利な証言をしているが、どういうことか。
しかしイエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。 大祭司は再びイエスに尋ねた。
お前はほむべき方の子、キリストなのか。 そこでイエスは言われた。
私がそれです。 あなた方は人の子が力ある神の右の座につき、
そして天の雲と共に来るのを見ることになります。 すると大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。
なぜこれ以上証人が必要か。 あなた方は神を謀得する言葉を聞いたのだ。どう考えるか。
すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。 そしてある者たちはイエスに唾をかけ、
顔に目隠しをして拳で殴り、 当ててみろと言い始めた。
また下役たちはイエスを平手で打った。 以上です。今日はこのところからキリストの死刑判決と題して絵見事を取り付けます。
皆様おはようございます。 イエス様の受難物語が進んでいますが、今日暑い中、
こうやって共に礼拝が守られることを感謝しています。 ところで、今、
受難物語と一転してパリオリンピックが開催されていますね。
いろんな競技に注目されているかと思いますが、 競技には、専門家の解説とか
プレイヤー本人の声を聞くことによって、その選手の凄さが分かったり、 その選手に対する新たな
リスペクトが生まれる場合がありますね。 私は中学校高校で6年間卓球をやっていたので、卓球競技も特に注目していますけど、
昨日、日本女子代表の早田ひな選手が銅メダルを取りました。 ご存知の方も多いと思いますが、利き腕の左腕のですね、手首から
痛めていた。
その前の、
昨日は3位決定戦ですけれども、準々決勝でソン・エイサという中国の世界ランキングナンバーワンの選手と争った時から何か
サポーターをしていたようですね。 昨日、勝った後のインタビューで、実はその準決勝の前の準々決勝、
今日から言うと、昨日一昨日、先一昨日の北朝鮮の選手との試合の後に左手に激痛が走ったと言っていたんですね。
そしてそのインタビューでは、昨日も今日も戦える状況ではなかったし、 2割ぐらいの力でも出せれば良かったのではないかなということを言っていました。
また、痛み止めの注射を打って、そしてだんだん100%の力が出せるようになって、今日の勝利につながったということを言っていました。
そういうふうに、選手が明らかにすることによって分かってきて、その選手の凄みとか、あるいはまた競技の深みなんかが分かってくるわけです。
いつも言っていますが、この聖書の出来事、イエス様の言動も、詳しく見ることによって、新たなイエス様が救い主だということに対する理解が深まったり、
また、私たちイエス様、クリスチャンであればイエス様を信じ尊敬していますけれども、新たに尊さを知るということがあるかと思います。
その中で今日、3つのことを見ていきます。
このイエス様が最高法院サンヘドリンで死刑判決を受けた、そしてそのやりとりが書かれているという出来事ですけれども、
じゃあそこで一体何が起こっているのか、どういう意味があるのかということを、3つの点から探っていきたいと思います。
まず、大まかに一番目、実際に何が起こっていたのかということですね。
もう一回繰り返し、復習のために読んでいます。14章55節56節です。
さて、祭司長たちと最高法院全体はイエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである、と書いてあります。
繰り返し出てきますが、イエス様はユダヤの最高法院サンヘドリンと呼ばれる議会にいよいよ招集されてしまったわけですね。
裁判にかけられたわけです。
56、57節のところを見ると、不利な証言という言葉、不利な偽証と書いてあります。
これは元々のギリシャ語を見ると、偽りの証言をするという、ちょっと読みにくいんですが、プセウドマルチュレオという言葉が使われています。
日本語の偽証と同じように、一言で偽の証言をするという動詞になっています。
このプセウドという言葉は偽物を表す説当語として置かれていて、この証言をするという動詞と合わせて一つの単語が使われています。
このプセウドというのは、植物や動物の額名の頭にプセウド何々と言って、なんとかもどきとかですね、使われているような言葉です。
まさに偽証言とはっきりと書いてあります。
しかも、この3つの説の間で2回使われているんですけれども、さらに敵対してイエス様に証言しているという様子、敵対している事実を表すために、
前置詞でいうところの英語のアゲインストと同じギリシャ語のカタという言葉が使われているんですね。
ちなみに英語の聖書のNIVという訳では、many testified falsely against himとなっています。
テスティファイドというのは証しする、フェルスリーというのは偽物の、嘘のということですね。
Against him、このように明確にイエス様に対する敵対心と、そして偽の偽証だということが、この全体の文章を読むと浮かび上がってくるわけなんです。
しかもその証言が一致しないという様子が繰り返し描写されているわけですね。
そしてその中でイエス様は沈黙を守っているわけです。
私たちがよく知るとこの人気のテレビドラマですとか、最近テレビコマーシャルなんかでも、そして小説でも裁判の場面が出てきますね。
そして被告を、あるいは無実の被告を、小裸に攻め立てるようなシーンが思い浮かぶと思いますが、そのような描写が実はここでなされているわけなんです。
そして痺れを切らした大祭司がですね、いよいよイエス様に尋ねます。
その中でイエス様は沈黙しているので、2つのことを聞いて答えさせようとしています。
お前はほむべき方の子、キリストなのか?という言葉。
証言の一致しない偽証
失礼します。出てこないか。
このほむべき方の子、キリストというのはですね、どちらもほむべき方の子という言葉と、キリストというのは簡単に言うと旧約聖書のメシア、救い主という意味なんです。
そこは深掘りしませんので、この大祭司が聞きたかったことは、お前は救い主なのか?
神の子、救い主なのか?ということを聞きたかった。
しかもこの場面では、議会の真ん中にですね、裁判長のような最初が出てきて、そしてイエス様に聞いたという、おごさかな様子が見て取れるわけです。
その後ですね、また詳しく見ていきますけれども、イエス様が明確な答えをして、その明確なイエス様の答えを神の冒涜と大祭司は捉えて、死刑判決を下すわけですね。
そしてその後一番最後の方で、このようなことが行われました。14章65節、ちょっと読める方読んでみましょうか。
私だけ読みます。ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして、拳で殴り、当ててみろと言い始めた。
また、下役たちはイエスを平手で打った。
非常に痛い、痛々しいシーンで、私たちのよく知るところであります。
しかしこの場面もですね、当時の人にはよく知られた、そして私たちにはおそらく知らないであろう意味があります。
まずこの唾をかけて、殴るという行為。
これはですね、この被告、この死刑判決を受けたこの男が悪いものである、有罪になるということを公に周知するための行為だったということなんです。
唾をかけ、殴りつけることによって、この男の罪深さを人々に知らしめる、あえて言えば見せしめのための公の行為だったわけです。
そしてもう一つですね、この目隠しをして拳で殴り当ててみろという行為。
実はここはですね、単なる侮辱以上に大変興味深い背景があるんです。
実はこの元の言葉の当ててみろはギリシャ語ではですね、預言せよという言葉なんです。
プロフェテソンですね、プロフェットという預言の言語にもなっています。
預言しろ、当ててみろというのは預言しろという意味なんです。
実はこの言葉は旧約聖書のメシア預言と関係しているんですね。
実はこの背景にあるのはそのメシア預言の一つと言われている旧約聖書のイザヤ書の言葉と関係しています。
読んでみますね、イザヤ書の1章から4節の抜粋。
エッサイの根下部から新芽が生え、その根から若い枝が出て実を結ぶ。
これよくメシア預言でクリスマスの時に引用されるとこですね。
その続き、ちょっと長いんですがここから読んでみましょうか。
この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによって裁かず、その耳の聞くところによって判決を下さず、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。
実はこのところを当時の伝統はメシア預言の一つと捉えていたんです。
そして興味深い解釈をここにしているんですね。
侮辱的な行為とメシア預言
実はここの赤字で書いてある目の見るところによらず、耳の聞くところによって判決を下さずという言葉。
これをメシアがそうするということは、メシアには特別な能力があって、匂いを嗅ぐことによって判決を下したり預言するというか、言い当てることができるという言い伝えがあったそうなんです。
だからイエス様の頭に覆いをかぶせて預言してみろというのは、お前が本当のメシアであるならば、匂いを嗅いで誰が当てたのかを預言せよ、言い当ててみろという。
そういうこの旧約聖書のメシア預言に対する彼らの迷信と考えと一致していたという興味深い事実があるわけなんですね。
そのように私たちが知らないところの知るところの深い意味があって、イエス様は有罪判決、死刑判決を受け、そして次に出来事が映っていくわけです。
さあその中でもう少し、もうちょっと根深い問題を2番目のこととして見ていきましょう。
2番目、確定済みの死刑ということです。
イエス様の私はそうだという答えに対して、このような応答が書かれています。14章63から64節。
すると大祭司は自分の衣を引き裂いていった。なぜこれ以上証人が必要か。あなた方は神を冒涜する言葉を聞いたのだ。どう考えるか。
すると彼らは全員でイエスは死に値すると決めたということですね。
実はこの裁判の最大の問題は、この記述の冒頭のところではっきりとイエスを死刑にするためと書かれています。
だから最初に判決ありきという裁判、そこが最も深い問題の一つだったわけです。
ですから、いわゆるサンヘドリンのメンバーたち、大祭司に始まり、祭司長、そして立法学者の民の長老たちですね。
彼らをはじめとするイエス様に敵対していた人々の根本的な問題は、イエス様の主張が本当かどうかを含め真実を知ろうとしなかった。そこに根深い問題があったということですね。
あるいは、自分たちにイエスをミシアと認めない、神のことを認めない自分たちがもしや間違っているのではないかという疑いさえ起こさなかった。そこに根本的な問題があったわけです。
イエス様の真実さと尊さ
ここは簡単に言いますが、社会的に地位にある人が真実や自らの過ちを認めない故に、その周囲の人たちの命が脅かされていく。残念ながら、そんなことは今も周知のごとくと言えるでしょうね。
しかし私たちにとっても、イエス様が一体どんなお方なのか、その言葉にどんな意味があるのかということを真摯に探求していく、そんな姿勢が求められていくのではないかと思うわけです。
最後ですね、3番目。その中で真実を貫いたイエス様のお姿が浮き彫りになっています。
14章の62節。そこでイエスは言われた。ここから私がから読んでみましょうか。
私がそれです。あなた方は人の子が力ある方の右の座につき、そして天の雲と共に来るのを見ることになります。
この大祭司の逆鱗に触れた冒涜とする言葉がこの言葉です。
このイエス様の言葉の深い意味を知ることが、大変興味深いことを知ることにつながるわけです。
最初の天の神の御座につき、そしてやがて約束のメッシャーとして、サイリンのメッシャーとして雲に乗ってくるという、それも一大センセーショナルなことでした。この言い方も。
そして私を裁いているあなた方が裁かれるということも、ここの中に示唆されているわけです。
その大胆な言葉以上に、その最初の私がそれですという言葉が、最も衝撃的でセンセーショナルな言葉だったんですね。
知っている方もいらっしゃると思いますが、実はこの言葉は、英語ではI amという言葉に訳されています。
お前はそうなのか、I amというのはそうですという文字通りには大祭司に答えて、私はあなたの言う通り約束のメッシャーですという意味にとれます。
と同時にイエス様はこの言葉で、神ご自身であると自分のことを宣言しているということになるんですね。
ご存知のように、エジプト紀の3章でモーセがこの芝の中で燃えている火を見て、その芝が燃え尽きないのを見て、
そしてイスラエルの民をエジプトから救出するという偉大な使命を受けた時に、神様とそこで出会うわけです。
その時に私は私のためにあなたのことを何て言ったらよろしいでしょうかと聞いたら、その燃える火の中で神様の声がして、
こう言ったんですね。私はあるというものであるということです。
この神が言うところの私はあるというものであるという言葉の私はあるという部分がI amという、
ヘブライ語、ギリシャ語、英語では公約されているわけなんですね。
詳しい説明は省きますけれども、このI amという言葉、ヘブライ語でどう発音するのか私はわからないんですけれども、
ギリシャ語では少なくともエゴ・エイミーという言葉ですけれどもね。
この言葉は聖なる神の本質を表す言葉なので、口にしてはいけないというふうに伝えられてきて、
ヘブライ語のもともとの言葉は誰も発音できないまま今まで伝わってきているんですね。
その私はあるという言葉のみならず、もうちょっと幅広く言うと、
経験のあるユダヤ人やユダヤ人一般の中には神という言葉を使うのを遠慮して、
遠回しに言う表現が出てきます。
特にマタイの福音書では天と言いますね。天。神と呼ばずに天。
そういうふうに使ったり、あと今日先ほど見た大祭司の言葉で、
お前はイトタカキカタの子、キリストの中のイトタカキカタの子のイトタカキカタという言葉も神を表す表現ですね。
このような詳しく知ると、イエス様が私は神であるといった言葉、
ここは実はマルコの福音書の一つのクライマックスになるわけなんです。
なぜかもう一つその意味があります。
イエス様はこれまで断るごとにペテロに対しても、
私が生ける神の救い主であるということは黙っていなさいと言ってきましたよね。
メシアの秘密と言われていて、マルコの福音書に何度も出てきました。
しかしここでは、イエス様ご自身がこのメシアの秘密を明らかにして、
私こそ神の御子、キリストであると明言しているわけです。
そしてもっと注目すべきことは、もしイエス様がこの場でそれを言ったらどうなるかということです。
真実を言うとイエス様はここで死刑になるわけですよね。
私は違いますと言えば無罪方面になるのにもかかわらず、そうですと言った。
しかもそのように言った背景には、今まで誰にも言うなよと言ってきたことを、
あえて自分が死刑になるような場面ではっきりと言ったというところに、
このイエス様の真実さなり勇気なり誠実さなり、言葉で表せないものが詰まっているわけですね。
さっき述べた通り、権力者の中には自分の利益のために、自分を守るために真実を認めない、
そして他人を犠牲にする人がいることがあります。
しかしイエス様は真実を証言して、さらに自ら不利になって死ぬにもかかわらず命を捧げていった。
それは他でもない、他の人を生かすためだったということなんですね。
ここにまさにメシアの尊さ、崇高さ、まさにイエス様が本当に救い主で神の子だったということが証言されていると私は思うわけです。
イエス様の勇敢さと御業
皮肉なことに敵対者たちの陰謀の中でそれが明らかにされていくというところにも、
神の御心の奥深さや謎めいた部分があるという恐れを持って受け入れる部分があるわけですね。
何をともあれ、これは私たちの習うべき姿としても描かれているんです。
イエス様に習って真実を探求し、それを証言する人にされたいと私は思うわけですね。
そしてもちろんこの勇敢な真実なイエス様への敬意と信頼を持って、これからもイエス様に従っていきたいと思うわけであります。
そのような思いが詰まったというか、またイエス様の大事な御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
まずこの10章の45節ですね。読んでみましょうか。
人の子も使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
お祈りしましょう。
救い主イエス様、あなたの名前を賛美いたします。
あなたの勇敢で真実なお姿、私たちの言葉で言い表すことができない、あなたの尊さを、光合しさを今日知ることができました。
そのことを感謝いたします。
どうかそのあなたの尊い御業を覚えて、私たちがあなたの道を歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
神様、このような厳しな思いがありますけれども、それらの思いをあなたにお依頼にして、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほどイエス様に答えて、黙祷する時間をとりましょう。