2024-08-25 29:01

#226 逆転の即位式 24/8/25

マルコの福音書-32からの礼拝説教。2024年8月25日録音。()今日の箇所では、嘲られることによって「ユダヤ人の王、キリスト」として即位したイエス様の姿が描かれています。思い通りにならないことの中にも神様の導きがあり、無名な人の名が残り、意志に反して背負わされた十字架の先に弟子の道がある。私たちが他人も自分をも救えないと思ったとしても、イエス様は私たちを救って下さる。これらのことを、1.嘲りが就任式(),2.強いられた十字架(),3.自分を救わず他人を救う救い主()、の3つの点から考えて見ましょう。

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マルコの福音書15章、16節から32節をお読みします。
また、葦の棒でイエスの頭を叩き、唾をかけ、跪いて拝んだ。彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の着物を着せた。それからイエスを十字架につけるために連れ出した。
兵士たちは通りかかったクレネジン・シモンという人にイエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドルとルフォスの父で田舎から来ていた。
彼らはイエスをゴルゴダというところを訳すと、ろくろの場所に連れて行った。彼らはもつ薬を混ぜたブドウ酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから彼らはイエスを十字架につけた。そして九時を引いて、誰が何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは午前九時であった。イエスの罪状書にはユダヤ人の王と書いてあった。
彼らはイエスと一緒に二人の強盗を一人は右に一人は左に十字架につけた。通りすがりの人たちは頭を振りながらイエスを罵って行った。
おい神殿を壊して三日で建てる人よ十字架から降りてきて自分を救ってみろ。同じように祭司長たちも律法学者たちと一緒になってカウルガールイエスをあざけって行った。他人は救ったが自分は救えない。
キリストイスライルの王に今十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。また一緒に十字架につけられていた者たちもイエスを罵った。
以上です。
今日はこのところから、逆転の即意識と題して読み言葉を取り付けます。
皆様おはようございます。
最近テレビのニュースでは、2つの政党の総裁選挙のことが話題になっています。
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また、くしくもアメリカの大統領選挙が11月にありまして、民主党大会が先週あったことなどから、そのことも日米で国の代表といいますか、そういう人が決まるであろうことでニュースで騒いでおりますが、
今日は正確には彼らは王ではありませんが、イスライルの王の就任ということがテーマになっています。
今日の箇所は、後でも言いますが、イエス様がユダヤ人の王である、それがメインのテーマです。
そして、いろいろな人たちが出てきますが、兵士たちやユダヤのサンヘドリン、最高議会、律法学者や祭司長、パリサイ人、民の長老など議員たち、そして道行く人までイエス様をあざけている、そういう場面ですね。
元のギリシャ語では、あざけりと罵りという言葉が3種類に分けて使われています。
つまり、その中には神への冒涜を表す言葉もあって、神なるイエス様があざけられている様子がある面、言葉を巧みに色鮮やかに描かれているのがこの場面なんですね。
ユダヤ人の王、救い主キリスト、その様にお方としてイエス様が即位している、その姿を今日の場面が描いているので、それとのコントラストから、どの様にイエス様が罵られたのか、
そしてその罵りが実は皮肉なことに、神の敗罪の中でイエス様の王としての就任式であった、そういう描き方をされているのです。
そしてその場所はゴルゴダ、ドクロの丘、この形から別の訳ではシャレ神戸の丘と呼ばれた処刑場でした。
そしてイエス様がついた王座はまさに十字架だった、そういう話です。
3つのことから今日見ていきます、兵士たちのあざけりの場面、そして実はクレネジンシモンという人について、そして最後は自分を救わなかったイエス様という3つのところから考えていきます。
最初はあざけりが就任式であったということです。
1番目はあざけりが就任式、抜粋して16から18節を読んでいます。
兵士たちはイエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んで被らせ、それからユダヤ人の王様万歳と叫んで敬礼し始めた。
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先週はピラトの前でローマの裁判を受けた、そしてイエス様の無罪が証明された。
しかしユダヤの反乱軍の王としてイエスは名乗っているとユダヤの議会に訴えられたんですけれども、それが無罪であった。
しかし群衆の声に押されてピラトが十字架につけることを決めたというのが先週の場面です。
そしてその当時の官礼に沿って、処刑をするためにローマの屈強の兵士たちがイエス様を連れ出した、ピラトの官邸に連れ出したとされています。
この兵隊たちは乱暴なユダヤの民を治めるためにローマのあらゆるところから集まってきたんです。
そして退屈でもあったんですね。
よくこの犯罪人死刑囚を退屈しのぎのおもちゃのように扱っていたと言われています。
そしてローマ帝国に反乱を起こす抵抗勢力のユダヤ人の王だということで、そのような敵意も相まってこのようにイエス様を乱暴にからかったわけなんです。
そして皮肉ってイエス様をユダヤ人の王だと言って蔑んだわけです。
実は兵士たちが着せたものやした行動が王の即位と深く関係しています。
文書には書いていませんけれども、紫の衣、この絵では赤ですけれども、紫の衣は当時最も高価な衣であって王衣、王の服であったわけです。
そしてわかりますが茨の冠はまさに冠として王の頭につけられたものです。
そして植物の足で作った棒を持たせたとありますが、この絵にありますが尺って言うんですね。王尺。
この尺はですね、王の権威を表す、象徴するものとして王が持った。
一説によると片手だけでも自分は十分自分を養えるし、民を養えるということを表しているとも言いますね。
またエステル記では王が尺を出すと王妃が王に召されることができるなんていうのもありますけれども、
このように葦の棒は権力を象徴する尺としてイエス様の手に授けられたわけです。
そしてその尺の棒、葦の棒を取り上げてイエス様の頭を叩いたわけです。
そして唾を吐きかけたとありますが、それは実は皇帝に捧げる、よく聖書にも出てきますが、
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親愛や敬意の印としての口づけの挨拶なんです。その代わりに彼らは唾をかけたわけですね。
そしてローマの皇帝を称えるのと同じ言葉でユダヤ人の王を万歳と叫んだんです。
元の言葉はあえてあげませんけれども、ラテン語で皇帝を万歳という言葉をギリシャ語に直しているんですけれども、
同じ言葉でイエス様に対してユダヤ人の王様万歳と言って揶揄したわけなんですね。
そしてその時にひれ伏して拝んだ、ユダヤ人の王様万歳といってひれ伏して拝んだとあるんですけれども、
拝むにはギリシャ語のプロスキュネオーという言葉が当てられています。
それはひざまずいて神を礼拝する声を表しています。
よく人行伝何かに天使が現れて、その誰かがひざまずいて拝もうとすると、天使はですね、
私は神ではないから拝んではいけませんという時に使うこのプロスキュネオーという神を礼拝する言葉が、
実は兵士が下げすんでひざまずいてイエス様を拝んでいる姿に当てられているわけなんですね。
そしてイエス様は十字架につけられ、王位につきました図様に掲げられた在庄書き三つの言葉でですね、
ユダヤ人の王と書かれているわけですね。彼らが使うヘブライ語かアラム語ですね。
一番目は。二番目は当時の公用語のギリシャ語、そしてローマの公用語のラテン語でユダヤ人の王イエスと書かれているわけです。
この在庄書きによって、ここで王が即位したという告知なり布告が行われている、そういうニュアンスもあったようですね。
このように書いたのはマルコと言われていますが、マルコはあざけりや死刑の一個一個の出来事を通して、
実はイエス様がユダヤ人の王、救い主、神の子であるということを公に布告するという高度な文学表現といいますかね、技術を用いています。
そして繰り返しになりますが、これらの軽蔑と侮辱の行為によってイエス様は礼拝を受けるべき神の救い主、御子である、ユダヤ人の王、救い主であるということ、
その真理が逆説的に宣言されているということなんですね。皮肉といいますか。
さらに、この兵士たちの軽蔑やあざけりの行為、また道行く人たちのあざけりの行為によって、
実は旧約聖書のメシア預言が成就しているということも表されているわけなんです。
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特に、受難の救い主を予告しているといって有名な四篇の二十二篇の言葉があざけりの行為によって成就しているわけです。
兵士たちが十字架のイエス様の衣をくじ引きにした様子、それは四篇二十二篇十八節のこういう言葉ですね。
ちょっと読んでみましょうか。
彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。
もともとは敵によって恥に晒されていて、神に救いを求める人の四篇だったんですが、実はそれは救い主の預言になっていたという言葉ですね。
そして道行く人が頭を振って罵る様子、頭を振るというのは軽蔑や敵意を表します。
それも詩編の二十二篇七節の成就なんですね。読んでみましょうか。
私を見る者は皆私を罵ります。口を尖らせ頭を振ります。
このようなあざけりや暴徳の敵対的行為さえ、旧約聖書のメシア預言の成就であるということが示されて、イエス様がユダヤ人の王、救い主であるということの信憑性が明かしされているわけなんですね。
皆さんお気づきになったと思いますが、マルコのメシアの秘密という表現があります。
イエス様はいろんな人の口を通して、時に悪霊の口を通しても神の子だとかですね。
またペテロもあなたはいける神の子、救い主ですと宣言告白しました。
でも断るごとにイエス様は誰にも言わないように黙っていなさいと言い続けてきました。メシアの秘密。
しかしイエス様は先々週見たように、大祭司の前でいける神の子キリストだということを宣言し、神であるということを自ら告白したわけです。
実はその時はその告白によって死刑が決まるにもかかわらず、イエス様はご自分が救い主であることを宣言したわけですね。
そして先週見たところでは、ユダヤ人の王である救い主であるということをピラトの前で明らかにしたわけです。
このように徐々に裁判、不利な状況の中でイエス様のメシアとしての正体が明らかになってきました。
その後イエス様は沈黙し続けていますけれども、今度は沈黙からあざけりや罵りの十字架を通してイエス様の救い主としての正体が明かされている。
大なる救い主としてイエス様を十字架の上に就任したということがここで描かれているわけなんです。
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2番目、強いられた十字架、クレネジン・シモンという人について見てみましょう。
15章21節読める方読んでみましょうか。
兵士たちは通りかかったクレネジン・シモンという人にイエスの十字架を無理やり背負わせた。
彼はアレクサンドロとルフォスの父で田舎から来ていた。
おそらくエルサレムに巡礼に当時過越のために来ていたと思われます。
このクレネジン・シモンですね。
この当時の十字架警にかかった死刑囚は十字架の横棒を刑場まで担いでいくのが常だったんです。
しかしイエス様は過度の疲労、そして背中に打たれた傷のゆえに背負えなかったと言われています。
そして通りすがりのクレネジン・シモンに無理やり横棒を兵士が背負わせたということなんですね。
実はここで珍しいことが起こっています。
たった一節の中に三人物の名前が具体的に書かれています。
マルコの副印象の特徴を皆さん覚えていますか。
共感副印象の中でマルコの副印象の特徴は一番簡潔だということです。
でも簡潔でありながら細部に詳しいというのがマルコの副印象の特徴です。
簡潔な副印象の中で三人物の名前が具体的に一節の中に出ていることは非常に珍しいと学者も言っているんですね。
そこには訳があるんです。
実はちょっと難しいかもしれませんが、まず背負わされたシモンという人は無名だったようです。
だから実はその二人の息子アレキサンドルとルフォスという人の名前はマルコを挙げています。
なぜかそれはこの二人の息子はこの手紙を読んだローマ世界のクリスチャンや教会の中で有名人だった。
だからこの有名人の父親のシモンは実はイエス様の十字架を担いだその人なんですということをマルコは明らかにしたんじゃないかという説が有力なんです。
一節によるとこのルフォスという人はローマ人の手紙の16章の13節にパウロがローマの教会にお別れの時にルフォスによろしくと言っているので、もしかしたら同じ人だったとしたら相当ローマの教会の中で有名な人だったと言われているんですね。
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それを覚えていただくと同時におそらくシモンはこの出来事を通してイエス様の弟子として歩むということを決意したのではないかとも言われています。
そしてその子供たちがその信仰を継いだと。
実は今日イエス様を敵視する場面で登場する人たち、そこには屈強な兵士たちが登場しています。
またサンヘドリンの権力者たちも登場します。
しかしこの有名で屈強な人たちの名前は一切知られていないんですね。
反対にこの無名のシモン、そして二人の息子の名前はこのように今にまで語り伝えられている。
このシモンはよく知っている方もいらっしゃると思いますが、十字架を背負って私についてこなければ私の弟子にふさわしくないとイエス様が8章で言っていますが、
その十字架を背負ってイエス様に従っていく弟子のモデルとしても今よく有名といいますか取り上げられる人物なんです。
今の時代名前を売ること、残すことに躍起になる人が多いですね。
別に悪くないんですけども、さっきに挙げた選挙に絡んでは本当に名前を売るということが大事なようです。
また有名人でなくてもSNSを通して自分の名前を売りたいという人がいるかもしれません。多いかもしれません。
そのように自分の名前を売ったり残すことが名誉とされる今の時代に、実はこのクレネジン・シモンの生き様は良いモデルになるのではないかなと思うわけなんですね。
彼は別に自分の名前を売ろうとしなかったんです。
強い立場の中でたまたま神にあって今まで伝えられてきたという人なんですね。
そしてよく言われるのは、彼は自ら選んだのではなくて、強い立場の中で十字架の横棒を背負わされたわけですね。
強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の横棒を背負わされたわけですね。
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の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強
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強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場の中で強い立場
また一緒に十字架につけられていた者たちもイエスを罵った
まあちょっと今日その二人については触れませんでしたけど
このようにイエス様を罵った人たちがいたわけですね
そして通りすがりの人たちも同じようにイエス様を暴徳してこう言いました
通りすがりの人たちの暴徳あの罵るって言葉はさっき言った暴徳という言葉なんですが
おい神殿を壊して三日で建てる人よ十字架から降りてきて自分を救ってみろ
両方に共通しているのは十字架から降りて自分を救えというそういうメッセージなんですね
この最初たちが言った他人は救ったは何のことを話しているか皆さんお気づきですよね
これまで書かれてきた病人を癒したりしたイエス様の奇跡の技を言います
で皮肉なことにですね
彼らは十字架から降りるところを見れば信じると言いながらも
それまで見てきたこれらのイエス様の奇跡を見ても信じてこなかったんですよね
ここに来てお前が十字架から降りてきたら信じると言っている
これはですね非弁であって彼らの罪の固くなる心の現れに過ぎないわけですね
そしてイエス様は自分を救おうと思えば十字架から降りることが不可能ではなかったわけです
しかしイエス様はそうなさいませんでした
それはゲッセマネの祈りを通してですね
父なる神様のここにありますが
飲まなければいけなければこの杯を飲みます
私の願うようにではなくあなたの願うようにしてくださいと言った
このゲッセマネの祈りの決意がここに現れて
そして十字架によって多くの人を贖い救うために自分をここで救わなかったわけですね
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ここで少し考えていただきたいんですけども
十字架にかけられているイエス様とイエス様を罵っている人たち
どちらが立場がこの時上に見えるでしょうか
一見するとイエス様を下から罵っている人たちがイエス様より立場が上に見えますね
サンヘドリンの議員たちはその気になればイエス様を十字架にかけることを避けることができましたし
十字架から下ろすことができたかもしれません
しかしですねよく考えるとそのイエス様より上に見えた人
あるいは罵った人たちはイエス様のように他人を救うことは決してできないわけですね
罪の贖い永遠の命を与えるなんてことはとてもできない
またおりにかなった救いを授けるということもできないわけですよね
それどころかイエス様に要求したように彼らは自分を救うこともできないかもしれません
そして当然イエス様がなさるように自分を救うことができないのが彼らだったんですよね
そして繰り返しますがイエス様が十字架に留まってくださったからこそ
私たちが今神様の前に罪が贖われて救いを得ているわけなんですね
加えて日々の生活の中で私たちが他人のことも自分も救えないと思ったとしても
イエス様が私たちを救ってくださる
そう信じていきたいものですね
自分を救わなかったイエス様
あざけり冒涜する人たちに抵抗することもなく生きを引き取ったイエス様を
実は最後に父なる神様は蘇らせてくださるわけです
たとえ私たちになす術がなかったとしても
イエス様によって救いを得た私たちは
さらに父なる神様によって救いを与えられていく
そのような幸いが私たちに与えられていることに感謝しましょう
このイエス様の姿を思い出すようにですね
後の聖書の記者がこのように書いてあるところを最後に読んでいきたいと思います
ヘブル・ビトへの手紙の12章の2節から3節ですね
じゃあ途中まで読んでみましょうか
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ここから私が読みますね
このイエス様の姿を覚えて歩んでいくお互いでやりたいと思います
お祈りしましょう
イエス様が大なる救い主として就任されたことを見てきました
私たちを救うためにイエス様は自らを救われなかった
その尊い贖いの業を感謝いたします
そのイエス様の宮座の家に
イエス様によってまた神様ご自身が
これからも私たちを救い続けてくださることを感謝いたします
どうぞあなたの道を歩み
あなたの救いを知り
あなたの救いに生きるお互いとなさしめてください
この願いと感謝を
私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう
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