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本庁は、斉藤渡先生より、十字架を取り巻く人々と題しまして、メッセージをしていただきます。
それでは、いつものように、お近くの方とご挨拶をして、そしてお言葉をご一緒に受けてまいりましょう。
それでは、一言、お祈りをお捧げいたします。
恵み深い御財政の地なる神様、今朝もこうして、愛するお一人人々とともに、この受難宗に入ります、
城の聖地とも言われておりますけれども、私たちは、受難の支援さまをそこに覚えながら、
この礼拝においてのあなたのお言葉をともに、受け止めてまいりたく願って、今一層とおります。
どうぞ、主がどんなに私たちを愛し、ご主人を私たちのために十字架にお付け下さったか、
そのことを心に留めながら、お言葉を求めていくことができるように導いてください。
今朝は、この礼拝の中において、召されました方々のことを見舞いに覚えながら、
合同の記念礼拝として、この礼拝を迎えております。
また午後には、午前においても行われますが、神様がどうぞ、既にその机に預かり、
天に召された愛する方々を覚えながら、私たちもまた同じ信仰の歩みをもって、
あなたの見たかいをそこに見ることができるように導いてくださることをお願いをいたします。
祈られておりますように、ユン先生も、実後、順調に守られておられるようでありますが、
どうぞ、この週末には退院し、またインスタをこのところにおいてともに、
お迎えできるぐらいに強めてくださることを併せてお願いし、
我々の支援している人の皆によって、未満にこの祈りをお授けいたします。
アメン。
私は、宮谷教会においての、この商店舎合同記念礼拝、
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昨年はいなかったのか、あまり記憶なかったのですけれども、
それまでの赤城一丸教会であるとか、その前の平方時代には、
平方はインスタの礼拝の中で商店舎の記念会を行い、
一丸教会はインスタの翌週の日曜日に行っておるというのが通例でありまして、
その時は、そういうご遺族関係の方々や、あるいはそれまでに、
特にその一年前から召されなさった方々のご遺族などがお見えになりますから、
多分二百名か三百名ぐらい集いなさったと思います。
そしてそれが終わってから今度は午前二時まで、
教会がバスを打ち渡して、そしてバスでその農骨堂のある石ヶ谷墓地というんですかね、
そこに行きました。
非常に大きな、そういう大々的なことごろをなさっておりました。
そこでは私も進学生時代に奉仕したことがありますから、
懐かしい方々を見たりもしますし、また私が赴任した短い期間ですけれども、
その間にやはり二十人、三十人ほどでしょうか、召されましたので、
そういった方々のことを思いながら、合同の記念礼拝を行うということをしておりました。
さて私は今朝、お読みいただきました、この部下による奉仕書の二十三章ですけれども、
その中で特にお読みいただいたのは、
イエス様と一緒に十字架につけられ、処刑されていった二人の合同。
しかしこの二十三章を応中心に見てまいりますと、
この十字架を取り巻く人々というタイトルをそこに付けておりますけれども、
イエス様の十字架を中心に、いろんな人たちがそこに関わりを持って、そして終わるという、そういう箇所ですね。
こういう一人との様子、姿から、私たちお互いのそれを、一体私はこの中どういう人と同類なんだろうか、どうなんだろうかな、
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一人一人を見てまいりますと、非常に自分に当てはめていかなきゃならないようなその人の生き方というのもそこにありますね。
加えてイエス様の十字架というのは、これは私たちの住みという事柄をそこに現実に捉え、そして私たちにその関わりを求めている、そういう出来事です。
ただ私たちの本質って言いましょうか、そこにはね、どうしてもこの罪というもののこの現実から避けようとするそういう一面もありますし、
あるいは真正面から自分の罪という事でもって向き合っていくという、そういう勇気ももう一つない。
今のままでいいんじゃないか。つまり自分とのこの関わりを恐れるあまり、どうしても避けていく。
私がクリシャンになる頃のそういう要素を振り返ってみますと、たぶんそういうところがありましてね。
教会行き、あるいは聖書もですね、少しずつ読み出してくると、どうしてもこの読みにくい箇所、そういう事柄に出会うわけです。
時には教会に来たばっかりに知らんでもいい事を知って、そしてこうチクチクとですね、心に刺さるようなこういう感じをする。
そういうタイプの人間じゃありませんでしたから、どうしてもそういう面を見てまいりますとね、教会に来る、あるいは聖書を開くということが何となくこう重たくなるわけですね。
避けようとするところがあるわけです。
申し上げましたように、この二十三章を見ていくと、そういうこの罪という十字架というものに対して、そういう一面を持つその様子をいろんな人たちの中に見るわけですね。
特にこの直接イエス・キリストの裁判にこれを指導したと言いましょうか、この総督このピラトですけれども、彼は最初は何とかこう、自分が罪人中のこのエルサレムにおいてはイスラエルにおいては、
こんなややこしいことが起きたら、その後の私の失勢に関わるんじゃないかと。
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ですから早くこういうことからは、もう私のその仕事ではない、早くこれを切り上げるということで、それで彼は言うならば、
最初や立法学者たちが訴えてきたそういう点を見ていくと、どうも本当にそれがこの裁判において裁かなきゃいけない、このイエスなんだろうかというところから、まあ一時はこの無罪にするわけですよ。
できるだけこの裁判に自分はかかりたくない。
そしてそこに訴えてきた、この最初たちの話から、このイエスがガリネア国、あの地方から出てきた。
だったらこれは私の手ではなくて、直接この国を統括しているこのヘロデだということで、その時ヘロデは自分のこの動きに行き取りましたから、早速ヘロデの国を回すわけですね。
このニュース暗証のこの十二節を見ますと、この日ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは互いに敵対していたのであると書いてあります。
それまではローマから自分はこの国を治める総督として婚姻してきた。けれどもこのヘロデという、彼をまた途中でもって王の権力の座に就いたような男なんですけれども、どうしてもこの二人の間というのは思わしくない。
まして総督ピラトは、こういうややこしい問題は、いいことを聞いた。それじゃもうヘロデに回そうと言って、そしてヘロデの方にこのイエスを連れて行かせる。
それくらいこのピラトは、自分の権力とか、あるいは将来においての自分の将来性ということを考えると、早くこの事件から手を引きたいという、彼一流の打算がそこにあるわけです。
申し上げましたように、そういうところが、じゃあ自分にはないのか。これは私自身もそうでしたし、またある教会で報酬をしておりました時に一人の青年が、なんとなくわかるんだけれども、今イエスキリストを信じたら、若い自分にはもっとやりたいことがある。
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それができなくなっちゃうんじゃないだろうか。そういうことを言ってきて、自分もそういう時があったなと思いながら、決してそんなもんじゃないよ。
やったら、じゃあそれでもっと自分の人生がもっと素晴らしくなるのか、決してそうではない。いろいろ経験したわけではないけれども、しかし私が今まで見聞きした、そういったこの人たちの様子を聞いたりすると、そんなんじゃないんだ。
言っても彼は、やっぱり自分のもっと何かしてみたいという、そういう方向に彼は行くようになってしまって、教会は去ったという、私にとっては非常に忘れがたい、私とそうとにかく変わってない彼のことを思い起こします。
自分の中にあるこのピラト的なそういう打算、本当に信じたらどうなんだろうかな、それよりももう何もない方がいいじゃないか。
こういう打算的な考え方というのは、これ私たち日本人が、特に宗教とか信仰とか、そういったことを考えるときに、本当にそれは私にとって幸せをくれるんだろうかとか、あるいは今自分がこういう病があるけれども、本当に治るんだろうかとか。
そういうことで、いろんなところに行って拝んでもらったり、あるいはお蔵をもらってみたりという、そこには、やはりそういう打算というんでしょうかね、エゴがあるわけです。
最もそういう中で打算に動いたのが、イスカリオというのはユダですよね。彼は3年、イエス様と行動を共にし、あの度に地雷が来ました最後の晩餐の中でもって、何かこう袋をつかんでいる男が、あれがユダだと言われておりますよ。
考えてみると彼はね、そういう中で会計さんという、そういう大切な役割をイエス様から仰せつけて、そしてやってたんでしょう。
その彼が、物々にごとに言ってみましょうかね、イエス様を裏切って、そして彼をわずか銀30枚で、イエス様の居場所と、そして誰がイエスであるかということを、そこに告げ口して、そして連れて行くわけですよ。
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この銀30枚というのは、これは奴隷が怪我をした時の、この二枚金としてもらう、わずかな保証金みたいなものですね。このユダは、そういうものでもってイエス様を引っかいてしまった。
手にした銀30枚よりも、イエス様の存在というのはね、彼にとっては大した利益にならないという。最初こそこの人について行ったならば、世の中変わるじゃないか。あるいはもっと大きなことが表されて、そして私のそれなりの立場を得るんじゃないだろうか。将来がそこに見えてくるんじゃないか。
そういう計算のもとに彼は入ってきて、そしてイエス様については来たんですけれども、どうも自分のそれとは違う。そして最後にとったそれが、結局彼について行っても何の得もないということで、
そして彼はわずかなお金で持って、イエスを裏切って、そして最初たちに渡す。じゃあ彼はその銀30枚を持って、そしてルンルン気分で行ったのか、そうじゃないですね。
やってしまってから、何と私はとんでもないことをしただろうかと言って、そして何とかもう少し自分のやった事柄がそれによって補われるならばと言って、そして返しに行ったんですけれども。
しかし、わずかなお金で持ってイエスキリストを裏切ったこのユダのそれを、そういった最初たちはもう目もくれないで、もうそれはお前の勝手にせいということで、そしてさらにイエス様を捉えた彼らはさらにそこからイエス様を十字架につけるべく向かうわけですよ。
気がついた時のユダは、その銀30枚も結局はそこに放り投げて、そして自分の命すらそこで持って失うというとんでもない破滅への道を彼は歩んだ。
総督ピラト、あるいはこのイスカリオテのユダ、彼の中にあるところのもう一つの面というのは、私たちの中にも現実にあるわけです。
ただここでもってピラトの方から回されてきましたこのイエス、ヘロエは自分のところに来たというのがわかると、ここですね、8節、ヘロエはイエスを見ると非常に喜んだと書いてあるんですね。
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これは皆さん、私たちのイエス様を受け止めて、本当にイエス様を信じて喜んだというその喜びとは全く違いますよ。
彼が喜んだというのは、こんな近くで、そのイエス気に人を用いて、そして何かをさせようという、そういう興味半分ってましょうかね。
そういう彼のところが様子がよくわかります。私もイエス様を信じてそして行きましょうというそういう喜びではなくして、
まあ、なんとピラトは面白い人間を私の方によこしたことがあって、ピラトも手を伸ばしてしまったそのイエスを、自分が操ってそして何かをさせようというような懇談がありありです。
興味本位。ただそれだけのことでもって、このイエス様を自分の前に連れ出させ、そして私の前で何かやれということを言うわけですよ。
しかしイエス様はこの9節を見ますと、それで色々と質問したがイエスは彼に何もお答えにならなかった。何にもお答えにならなかった。
ヘロデは自分の興味半分から来る満足心をそこで持って満たそうとして、そして自分の前でまるでマジシャンを抱え込んで、
そして自分の目の前で何か面白いことをやってくれたならばという、ただそれだけのことでもってやったんでしょうけれども、それでいくつか質問するんですけれどもイエス様は何にもお答えにならなかった。
私たちもお祈りのときにね、自分のそういう勝手な事柄だけを持ってきて、そしてイエス様にぜひぜひ一つお願いしたいというようなことであっても答えられるような祈りはそこにはないです。
イエス様は何にもお答えにならない。あるにおいてこのパウロは少しずつそういう経験を彼はしたんですね。
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人パウロとなって、そして彼は多くの働きをしました。ただ彼には何か肉体的なもう一つの課題があって、そして何とか癒してほしいということを願ったと書いてあります。
3度と書いてあるんですけれどもね、それは3回であとも4回からもうやめちゃったというのではなくて、もういつもそのことでイエス様にこのお祈りをしたけれどもイエス様は何にもお答えにならなかった。
それとこことは違いますけれども、なぜかというと直接の彼の願いに対してイエス様は沈黙でした。しかしその沈黙の中に彼はものすごいイエス様からの解決をそこで持って教えられたわけですよ、イエス様の恵みは。
余すところなく自分に注がれているというこの現実を彼は初めてのように気が付いて、私はもうこればかりのために何とかこれを治してもらったら、あるいはもうちょっとこの辺りが癒されたならば、もっとその働きは広くいろんなところに行ってそうした働きが存分にできるんじゃないだろうか、イエス様に喜ばれるんじゃないだろうか。
しかしそういう彼の確かに純真な祈りでそう、けどその祈りに対してイエス様は沈黙だった。が、その沈黙の中に私の恵みはあなたに対してもう既に十分に注がれているという別な面からの大きな大きな恵みをそこで持って彼は知った。
もし肉体の棘だけでその祈りが答えられたとならば、それだけだったかもしれない。
けれどもそういう棘にあらわされた自分の弱さを知ったときに、その弱さを通してイエス様がどんなに素晴らしいかだか、私は本当にそのことがわかったと言って、彼はそれから以降は自分の、あえて自分の弱さを誇りたい。
彼は自分に二つの誇りところがある。一つは今申し上げたような、そういう弱さ。そしてもう一つは、彼はこの十字架のほかは何も知るまえと決断したぐらいに、彼は十字架こそが全てだということを、そしてそれを誇りとするということを彼は述べておりますけれども、
ピラトやユダヤ、あるいはヘロデっていう、自分の罪をそっちのほうに置いておいて、そしてただダサン的に、あるいは興味半分でもってやってくる彼らは、申し上げたように罪というものに対してはまことに無関心。
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ですから、そういう彼らがどんなに願い求めても、そこからのイエス様の応答は何にもない。しかし同じように応答がなくても、本当に自分の弱さ罪ということに直面して、そしてそれを受け止めたときに、それ以上のものがそこにあるということを、これはパオロ自身が本当にこう経験したわけですよ。
ですからパオロは、私はあなた方の間でイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは何も知らないことに決心したということを、このコリントの教会に書き送った一文の中に、そう彼は述べておりますけれども、そこに至るまでのパオロはそうじゃないですよ。
もともと彼には親の代から、いわゆる先祖から、もうすぐ十回に象徴されるそういう教えの中でもってずっと今日まで来た。それに対してイエスの教えは、時にその立法を無視するような、そういう言葉を言ってくる、もう彼にとっては邪宗教というんでしょうかね。
あってはならないものとして、だから彼は、それこそ大最初の許可を得て、そして騙すのにまで、このクリスタンたちを迫害するために向かっていった。
いや、すでにその前にステファンを死に追いやるということからも、あえて彼はそういうことをやって逃げた。そして軍師はみんなそれを喝采でやってくれたものですから、それをいいことにして、さらに迫害の手を伸ばそうとした、その矢先に問われていったわけですよね。
本当のイエス様の救いというものを彼は知っていた。しかし、彼が知ったこのイエス・キリストは、今申し上げたような総督やヘロデや、あるいはイスカイトの手のこの枝とかというような、そうではなく、彼はこの方を通して、自分の罪がどういうものかということに直面したんです。もう避けられない。
ですから、彼はあのダマスコ途上において、一時はもう盲目とされてしまったんですけれども、しかし周囲の人々の助けの中でもって、彼はクリスチャンとして再スタートするわけですね。
それまでは十字架を最も軽蔑し、愚かと決めつけた彼のこの宗教観や、あるいはそういう正義観から言うと、もうそれしかない。しかし、その彼が本当に自分の罪というものに気が付いていった時に、彼は変えられていった。
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ですから、あの油断が自分の犯してしまったこの罪ということに思いが走っていって、そして悔い改めたんですけれども、悔い改める相手が違ったんです。
最初は立ちのところに行って、そして銀三十枚を返済するというような、確かに彼はとんでもないことをやったというところから、そういう風に走ったんでしょうけれども、もしその彼がね、銀三十枚を持って、そしてイエス様の元に走ったならば、イエス様はそれも全部受け止めとして、その油断をお許しなさったと思いますよ。
先週申し上げたように、ペテロ、あのサタンを退けとイエス様から背撃されたあのペテロですらんもね、しかも最後の最後に至って、そしてとうとうイエス様を裏切ってしまったあのペテロでさえも、彼は自分のそういう問題を持ってイエス様のところに来た、家に彼はその許しを得て、そして再び立つことができたわけですよ。
そういう中で、そういう総督、ありはそれだけじゃない、読んでいただきましたこの十字架の上の、この二人の強盗たちの姿もまた、最もイエスキリストの十字架を取り巻く、最も中心的な、そういう十字架に敷かれてしまったこの一人の強盗は、
彼もまた、そこに立っても尚、人間のこの持つ打算点でしょうか、そういう感じですね。
彼は何とイエス様に言いましたか。この三十九節を見ますと、十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスに悪行を負い、あなたはキリストではないか、自分を、と私たちを救え、と言って、彼はイエス様に願う。
何とかこの苦しみから、あるいはこの死の恐怖から、逃れたいというのが、まあ人間の本能ですよね。
罪のいる人が何とかという前に、何とか我が身の、そういうこの救いって言うんでしょうか、それを求めた彼のこの姿です。
30:12
そこには、罪に対する何らの後悔や、あるいは意識や、あるいはそこに自分の存在があるということにおいて、彼はそこにまで至らなかった。
で、それを聞いたもう一人のこの強盗が、何ていうことを言っているか。我々は当然、この十字架につけられたということは当然のことなんだ。
確かに我々のボスのね、あのもう一人のこの中心的な、やってしまった、何もちょっと出てきませんが、彼はね、確かにこの我々と違って、そして彼だけが許された。
そして我々はこういう十字架につけられてしまった。けれどもしかしこれは、自分の当然のことだ。
そして彼は、イエス様にそこで持って願ったことは、あなたが御国においでになるときには、私を思い出してください、と言う。
ただそれだけの祈り。この四十二節にはそのことをそこにこう述べておりますが。
もう一人の方はね、確かに自分の罪、バラバラ許されて、何で私はその子分なのに、私がつけられなかったのか、と言う、そういう思いから、
イエス様に、今言うような自家乱万みたいなことでもって、とにかくイエスよ、あなた自分で教えて、それからその力でもって我々を作ってくれ、と言うことを願っていた。
しかしもう一人はそうじゃない。本当に自分の罪に直面した彼は、当然の報いとしての十字架なんです。
しかしこの方は十字架につけられる何らの理由もない。
一時はあのピラトレスラムを無罪だ、宣言した。しかし理不尽にも。
最初はそういうグループの人たちの訴えによって、また彼らの魔獣ならばワイロンによって群衆が動かされて、そして、ただ並雲にイエスを十字架につけろ、ということでもって求めていった。
そういうことであって、私たちが十字架につけるのは当然だけども、この方はそうじゃないんだ。
33:00
ですから、あなたがミクにおいでになるときには思い出していただきたい、と言ったときにイエス様がね、初めてそこでもって、そのもう一人の強盗の方にね、
あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
私はムノミノ等の人と会話することがありましたけどね、彼らの確かに聖書にはここが違うんですよ。
私たちはね、あなたは今日私と共にパラダイスにいます。
そこを上手に、私は今日あなたにいます。
パラダイスにいますじゃないんですよ。
今日あなたにいます。あなたはパラダイスに。
よく考えてきますと、ムノミノ等の教えの中にはね、この十字架の救いというのは彼らにはないですから、
今日このことを言うけども、将来あなたは救いに預かるだろう。
今日私はそのことを言います。というだけのことで。
しかしイエス様はそうじゃないんですよね。
あなたは今日私と一緒にパラダイスに。
即座の救いというものをそこで持って、イエス様ははっきりとおっしゃった。
今日は言っていてもそのことになるのは、あるいはずっと将来かもしれないというのが、彼らの持っている聖書なんです。
そんな曖昧な救いではないんです。
私はその違いを気がついた時にね、改めてこのイエス様がこの強盗の人に言った、
あなたは今日私と一緒にパラダイスに。という、本当に力強いメッセージがあった。
いつかはそうなるだろうではないんです。
あなたは今日言いますけども、あなたがここから万が一解放されて、そして行った時に、
まあ頑張りなさい、そしたらあなたはきっと天国に行けるかもしれないよ、というような、そんな意味合いじゃない。
時間も、そんな余裕も、今一緒に死に産むことをするこの強盗の一人にはそんな時間はないんです。
しかし幸いに今日私と一緒にパラダイスに行くという、現在にこのことが自分の内になされるということに、
この強盗の一人は驚きを得て、そしてその机に預かっていた。
それもこれも、この十字架を取り巻く人々の様子というものを見てまいりますとね、
もう人間のそういうエゴの塊みたいな問題がそこにずっと描かれております。
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もうだいぶ前になりますけども、パッションという映画をご覧になった方がいらっしゃると思うんですね。
私も見に来ましてね、最初は教会学校の子供たちを見せてあげたらいいなと、そんな思いで来ましたけども、
あまりにもイエス様のリアルになってみましょうか、あるいはそうだったんだろうなというような、
ムチ打ちに始まる処刑場に行くイエス様の姿、ちょっとこれを子供たちに見せるのには、
彼はそういうところから無理かもしれないということで見せることはしませんでしたけどもね。
しかしそれぐらい、十字架につけられていくイエス様の取り扱われていくユダヤ人たちの秩序というのがあんなに厳しかったのかな、
目を背けたくなるようなそういう場面がずっと続きまして。
その時、あの映画が一般公開されるという時に、ユダヤ社会から上映禁止の運動が起こるという、そういうこともあったそうです。
その時にそのユダヤ社会は、もしそんなことがあったらね、我々は再びこの人種差別を受けるんじゃないか、
それなくてもユダヤ人ということでもって、昔からイエスを十字架につけたこの輩だということでもって、歴史の中でも酷い集中を受けながら来た。
だからまたこの映画でもってというような思いがよぎったんでしょう。
そして上映禁止のそういう運動に走ろうとした時に、制作をしたメル・ギブソンというね、
彼が言うならばアクションスターですよ、ハリウッドの。
ですから私もそういう映画が好きですから何本か見ましたけどね。
その彼がね、それまで得てきた、蓄えてきたお金を出し切って、そして一つの映画を作りたい。
それがあのパッションだったそうです。
そして彼は何もこのキリストの生涯、そしてまたその十字架に至るところのそのイエス様の姿をそこでもって描きたいという、ではなかったんですね。
反対運動がこの起ころうとした時に、確かに直接的に当時のユダヤ人たちがイエス様を十字架に追いやっただろう。
ただ彼はそこでね、私もこの映画の中に出演しているんです。顔も何も出てこないんですけどね。
どういう場面で出たかというと、あのイエス様を十字架につけるこのローマの兵隊が手を打ちつけてきますよね。
あの時のこの手が、これがあのギブソンという監督が、そこだけはもう自分にということでもって十字架につける時のそこは彼は自分でこうやったそうです。
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つまりその映画を通して彼が一番訴えたいのはね、誰がやった歴史的にイダヤ人がどうのこうのじゃない。
イエスキリストを十字架にやったのは私なんだ。私の罪がこの十字架にイエスキリストをつけた。それを言いたかった。
まあそれがあってから、もうそういう上映禁止とかそういう運動はなくなったそうですけども。
エピソードの一つに、それがこのある書物の中でもって表されておりました時に、ピラトが、あるいはイスカリオテノイダが、ヘロデが、あるいは最初たちが、ではなくして。
一番イエス様を十字架に追いやったのは、あの兵隊がイエス様のその両手両足を犬首でもって釘付けしていくその手に表された自分のその罪だ。
パウルもその十字架に自分の罪を直視した時、彼はこの十字架を私の生涯の誇りとして私はこのことを伝えたい。
イダヤ人だけではなく、異邦人のすべての人に必要なのはこの十字架のメッセージだということで彼は自分の命をそこでもってかけたわけです。
コリント第一の手紙の一章の十八節っていう、この箇所大変有名な箇所ですが、十字架の言葉をお褒美に至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては神の力だ。これはパウルの体験ですね。
そして彼が語るその宣言は、今私たちもキリストの十字架の家にこの救いとこの力とに預かっているということ。ではお祈りをお捧げいたしましょう。