2022-04-03 31:08

#/99/22/4/3 エルサレム会議にて

ガラテヤ2:1-10からの礼拝説教。2022年4月3日録音。先週見た箇所に引き続き、パウロは自分の使徒としての権威と「異邦人も律法を守らず割礼を受けなくてもイエスを信じるだけで救われる」との福音の弁護をしています。福音の自由を守るために奔走し自由の律法を教えたパウロの姿を通して1.出来事の要約としてのエルサレム会議、2.律法を守るユダヤ人クリスチャン、3.施しの3点を取り上げます。

00:07
ガラティア人の手紙2章1節から10節。
それから14年たって、私はバルナバと一緒にテトスも連れて、再びエルサレムに登りました。
私は刑事によって登ったのです。
そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、
違法人の間で、私が伝えている福音を人々に示しました。
主だった人たちには、個人的にそうしました。
しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、滑稽を強いられませんでした。
忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。
彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリストイエスにあって、私たちが持っている自由を狙って忍び込んでいたのです。
私たちはひとときも彼らに情報をしたり、屈服したりすることはありませんでした。
それは福音の真理が、あなた方のもとで保たれるためでした。
そして、主だった人たちからは、彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。
神は人を分け隔てなさいません。
その主だった人たちは、私に対して何も付け加えはしませんでした。
それどころか、ペテロが滑稽を受けている者への福音を委ねられているように、
私は滑稽を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました。
ペテロに働きかけて滑稽を受けている者への人とされた方が、私にも働きかけて違法人への人としてくださったからでした。
そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナワに交わりの印として右手を差し出しました。
それは、私たちが違法人のところに行き、彼らが滑稽を受けている人々のところに行くためでした。
ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、
そのことなら、私も大いに努めてきました。
以上です。
今日はこのところから、エルサレム会議にてと題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
4月に入り、最初の礼拝となりました。
そして、天気がやはり三寒四温というように、寒い日、暑い日、暖かい日が入れ替わっておりまして、
今日は雨降りですけどもね、雨の中、街道では皆さんこうやって集って、礼拝できることを感謝しております。
03:05
さて、今日の歌詞はですね、先週からの続きです。
失礼しました。
彼はですね、自分の福音、そして自分の使徒としての立場を弁明しています。
そして、先週からその弁明が続いていて、今日はその続きですけども、
彼はですね、何度も言いますが、ここで、使徒としての権威と、
違法人も立法を守らず、滑稽を受けなくても、イエス様を信じるだけで救われる、その福音をまだ弁護しているんですね。
今日のこの1節から10節ではですね、
福音によって与えられた自由を守るために奔走し、その自由の立法を教えたパウロの姿が描かれています。
その姿を3つの点から学んでいきましょう。
出来事の予約としてのエルサレム会議。
ちょっと長めでですね、いろんな出来事が今日書いてありますから、
何が起こっているかということを皆さんの頭にぜひ入れていただきたいんですね。
2番目、その中で教えられている、あるいは問題となっていること。
立法を守るユダヤ人・クリスチャンの存在、その関わりです。
3番目は大事な施しについてということを学んでいきます。
まず第一の点、エルサレム会議で起こったことが今日の背景にあります。
先週見た1章の後半の部分の続きです。
イエス様を信じたパウロがダマスコからエルサレムに下り、
そしてまたエルサレムから自分の生まれ故郷のタルソに帰った。
そういう行き来を先週学びましたが、その続きです。
1番目のポイントのようやくの部分が、今日の話の半分、長くなります。
さっきも言いましたけれども、この歴史的な出来事、それを捉えてほしい。
なぜかというと、それはですね、私たちの福音の基礎となった、
それを福音の基礎を据えた、歴史的な背景になります。
それを知ることは非常に大事です。
皆さんもね、自分の先祖の物語なんか知ると、
自分のアイデンティティがはっきりするような、そんな感じに似ているかと思います。
で、先週の出来事から、14年後のエルサレム会議の出来事を、
ここでパウロは振り返っています。
で、その中でパウロはこう主張しているんです。
今日の箇所の主なテーマはですね、パウロはこう言っています。
06:05
エルサレム教会の代表的な人たちからさえも、
私は違法人のための人としての権威、そして私の働く福音、
両方とも承認を得ているよと、そういうことを言っています。
神様から直接、イエス様から直接召されたパウロですけれども、
人間的な権威の承認を言えば、
私も当時の伝統的なエルサレム教会の主だった人たちから、
きちんと承認を得ています。
そういう、何て言うんでしょうかね、
二度目の確認をパウロはここでしているわけです。
で、ここで新しい人物が登場したのに気がつきましたか。
バルナバという人です。
ちょっとした絵をそうにしました。
バルナバというのは慰めの子です。
この違法人の人パウロが活躍するために、
バルナバはなくてはならない存在だったんです。
皆さんもご存知のように、会心当初のパウロは、
元迫害者として恐れられていたし、
信じてもらえませんでしたね。
ダマスコにおいても、エルサレムにおいても。
でも、このバルナバは裕福な、そしてギリシャ語を話すユダヤ人だったんです。
そしてエルサレム教会で、たくさん研究したからだと思うんですけども、
それなりの信頼があった。
そのバルナバがサウロとエルサレム教会や、
当時のクリスチャンの仲立ちをしたわけなんです。
9章のパウロの会心の後27節にその様子も書かれています。
さらにこのバルナバは、パウロの第一伝道旅行の先導者として、
パウロの違法人選挙を手引きした人だったんですね。
で、アンテオペ教会、この地図ありますけども、
ちょっと見にくいかな。
エルサレムがここですね。
アンテオケってのがあるんです。
先週行ったところの最後、パウロはキリキアに戻ったんですね。
このシリアキリキア町に戻ったタルソというところに戻ったんですけども、
バルナバと共にアンテオケにパウロはいてですね、
このアンテオケから、この教会から使わされて、
パウロはバルナバに導かれて第一伝道旅行に出たわけです。
で、その時にこの最初の不認知の一つ、
選挙地の一つがガラテア人の手紙の宛先のこのガラテア地方ですね。
ここガラテア地方。
ここだ、ガラテア地方。
09:00
アンテオケから船に乗って、
長崎から船に乗って神戸に着いたってありますけども、
長崎から船に乗ってキプロスに着いて、そこからガラテア地方で伝道した。
これが使徒の13章、14章あたりに書いてあります。
まあ、読める方ぜひ読んでください。
で、そのガラテアでの選挙旅行を終えて、
彼らがアンテオケに帰った時に事件が起こったんです。
その事件が今日の聖書の箇所の発端になったんですね。
使徒の15章にこう書かれているんですね。
15章の1節2節。
さて、ある人々がユダヤからこのアンテオケに下ってきて、
兄弟たちに孟子の習慣に従って滑稽を受けなければ、
あなた方は違法人物ですね。救われないと教えていた。
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、
パウロとバルナバとその仲間のうちの幾人かが、
この問題について人たちや長老たちと話し合うためにエルサレムに登ることになった。
これが今日の出来事の背景です。
そして何度も言いますが、歴史の中で、教会史の中で必ず出てくる転換点、
それがエルサレム会議。
ここで簡単に言うと、
違法人も立法を守らなくても救われるということが正式に合意された場所です。
認められた場所です。
そして先週、パウロはですね、
ここにありますね、この図を見てください。
アンテオケから下ってきてエルサレムに行った。
これは今日の日曜日説にあるように、
前回パウロがタルソスに帰って、
14年後、大まかに言うとエルサレムに滞在した前回から14年後、
この時、ケファと呼ばれているペテロとヤコブと会ったと先週話しましたけど、
それから14年後、このエルサレム会議のためにパウロはエルサレムに登ったというわけです。
そして、二人はですね、
違法人宣教の身としてのテトスを連れて行った。
テトスという人は、ギリシャ人、違法人クリスチャンで、
割れを受けていなかったけれども、
パウロの宣教力法で道路者として活躍した人です。
この目に見える証拠として、
割れを受けていないクリスチャンのテトスを連れて行ったというわけなんですね。
そして、パウロは続けて言うわけなんですね。
その時に、エルサレム会議の代表的な人たちからさえも、
12:02
私は違法人のための人としての権威も、
そして、私の語る福音も承認を得ましたと言ってですね。
そこのことをですね、今日の2章3節でパウロは言い直しています。
ちょっと見にくいんですけど、読めるから緑の部分読んでみましょう。
しかし、私と一緒にいたテトスでさえギリシャ人であったのに、
割れを強いられませんでした。
そうやってパウロが福音によって起こした救いの実ということ、
福音自体も承認。
さらにその時にですね、当時の教会で柱として認められた中心的な存在の
ケファと呼ばれているペテロとヤクブ。
そして今日のところではですね、ヨハネ。イエス様の弟子の一人ですね。
おそらくヨハネの福音書を書いたと言われているヨハネ。
この3人の中心的な人からもパウロとバルナバは
違法人の占拠者として承認を得たとパウロは言っているわけです。
このように書いてあります。
私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤクブとケファが、
ケファとヨハネが私とバルナバに交わりの印として右手を差し出しました。
それは私たちが違法人のところに行き、
彼らが割れを受けている人々のところに行くためでした。
これ簡単に言うとですね、
ヤクブ、ペテロ、そしてヨハネはイエス様の十二弟子、
そしてイエス様の兄弟のヤクブ、
彼らはユダヤ人の伝道者としてそれまで働いていた。
その地位は確立していたけれども、
同じように今度はパウロとそしてバルナバを
違法人への伝道者として認め合ったと言われているわけです。
この交わりの印として右手を差し出したって何か分かります?
そうです。握手です。シェイクハンドル。
本当です。握手をして認め合った。
今もね、ウクライナの問題で各国用事にあってますけど、
握手をしたりしてますけども、
そういう握手をしてお互いを認め合った。
パウロとこのバルナバも違法人の使徒として認められたということなんですね。
実はこれらのことを通してパウロは、
この手紙を読んでいる、聞いているガラティアの教会の人たちに
こういうメッセージを送っているんですね。
批判を受けているかもしれないが、
私の語る福音がこのように正式に認められていますと。
15:02
それ故に、偽兄弟たちが主張する
違法人も立法の遵守と活例がなければ
キリスト社としては不十分である
という偽の福音には論拠がない。
だから惑わされず、今、福音によって与えられている自由に
とどまりなさいというメッセージを送っています。
私なんかもクリスチャンになりたての頃とかですね、
やっぱり自分がなかなか聖書の通り生きられないことが分かるわけです。
そうすると、簡単に言うとカルト的な宗教がですね、
あんた守れないんだったら救われているの?と言ってきたりね。
完全に守らないと救われないよと言ってきて、
今言ってしまえばですね、守れもしないのに守れるような偉そうなですね、
そういう宗教的リーダーがこうやってマウンティングしていくんですよ。
でもそれに惑わされちゃいけない。
守れなくてもイエス様の十字架で十分だ。
その福音の自由にとどまりなさいとパウルは
カラテアの人たちとして私たちにも告げていることを忘れないでください。
これが第一の意見です。
二番目、さあその内容から学んでいきましょう。
大事なことはですね、福音の本質と枝葉のことを見分け受け入れ、
福音の本質的なことと枝葉末節のことを見分けて互いに受け入れ合うということなんです。
今日の二章四節五節でパウルはこう続けて述べています。
忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに強いられるということはありませんでした。
テトスがカツレイを強いられるということはなかった。
フェテロとヤコブとヨハネとパウルたちの面談に偽兄弟が割り込んできたわけです。
それくらいこの偽兄弟たちはある程度の地位があったんですけれども、
そのから強制されなかったよと。
彼らは私たちを奴隷にしようとしてキリストイエスにあって私たちが持っている自由を狙って忍び込んでいたのです。
しかし私たちは一時も彼らに情報をしたり屈服したりすることはありませんでした。
それは福音の真理があなた方の下で保たれるためでした。
キリストを信じるだけで十分だという福音の真理が守られるために妥協しなかったとパウルは言っているんですね。
繰り返しますがここで私たちは信仰の本質と枝葉を見分けること、
そして違いを乗り越え互いに受け入れ合うということを学びましょう。
ここの背景をもう少し詳しく説明しますと、
パウルがここで偽兄弟と呼んでいる人々は実はまだエルサレム教会ではユダヤ人クリスチャンとして容認されていたのです。
18:06
なぜか、それは彼らはユダヤ人クリスチャンの中でも立法を厳しく守って割礼に固守する人たちだったのです。
ユダヤ人として、旧約聖書の教えとして。
当時の教会の主流派はペテロやヤコブやヨハネたちはユダヤ人の文化的宗教的な背景を尊重してあげたのです。
そしてその信仰のスタイルも容認していたのです。
しかし彼らの問題は、この強固なユダヤ教の足場を持ったクリスチャンとして、
自分たちの宗教文化的習慣を違法人のギリシャ人、そういう背景がない違法人クリスチャンに教養しようとしたのです。
同じようになれという人間が陥りやすい間違いです。そこで問題が生じました。
そしてその点を、教養するそういう点をパウロは断固として拒んだので、彼らを偽兄弟と呼んだわけです。
この微妙さをちょっと覚えておいてください。
伝統的なエルサレム教会では、こういう活例を受けたり、立法遵守する人、ユダヤ教のベースを持ったクリスチャンは容認されていました。
でもそれを違法人に教養したがゆえに、パウロはそれを断固と反対して偽兄弟と言ったわけです。
そして実際そういう中からガラティアに来て、それを教養する人たちがいて問題が起こったという背景です。
それ、とても大事でこれからも出てくるので覚えておいてください。
その上で私たちが学ぶ教養は次のことです。
この福音の本質と文化や生活習慣の違いを見分けることです。
そしてその上で違った立場の互いを受け入れ合うということです。
福音の本質はイエス様を信じれば立法なしで人は義と認められるということです。
ユダヤ教に鑑みた文化的背景を言えば、彼らは旧約聖書の立法を守っていたので食べ物の規定を守っていましたよね。
豚肉を食べないとかかつれを受けるとかを守っていました。
それは単なる宗教文化的生活習慣であって、本質的な福音とは関係ないことなんです。
どうするかというと、お互いを批判し合ったり認め合わないのではなくて、お互いを尊重して認め合うということが必要だったということなんです。
言い換えれば、福音の本質的ではないことを他のクリスチャンに強要してはいけない。
21:02
また、福音の本質とは関係ないことで他のクリスチャンを裁いてはならないということです。
私は時々言うんですけどね、私が学生時代にアメリカ人の選挙団体の母体で救われたんです。
その中にこういう人がいたんですね。オレゴン州から来たアメリカ人のクリスチャンです。
彼はウナギを食べませんでした。
なぜか、救援証書にウナギスケールレス、ウロコロないものを食べちゃいけないと書いてあったから、
彼はクリスチャンでアメリカ人だったけど、ウロコロない魚を食べなかったんですね。
でもだからといって、彼は僕たちにそれを強要しませんでした。
私が体験した身近な例ですけども。
そのような本質と枝葉のことを見極めて、裁かず受け入れ合うということが大事です。
成熟したクリスチャンというのは、この福音の本質と枝葉のことに見分けがつく人のことを言います。
そして違った立場の人々を、違いは間違いじゃない、そうやって尊重して受け入れることができる人、成熟したクリスチャンだということなんですね。
さあ、そこから何がもう少し言えるか。
私たち同じクリスチャンでも国籍が違いますね。
日本人、アメリカ人、ウクライナ人、例えばですよね。
国籍の違いがありますし、そして同じ日本人であっても、同じ国の人でも地域が違うと文化が違います。
そして同じ、例えば埼玉県民であったとしても、育ちが違うといろんな違いが出てきますよね。
そこからやっぱり信仰の癖とかがいろいろ出てくるわけなんですね。
今はですね、コロナの影響でどこの教会でもいわゆる交わりの機会が少ないんです。
今度のインスタもうちの教会では食事会などしませんよね。
食事会すると食べ方のマナーとかでいろいろですね、あれこれ批判が起こったりする場合もないと見えないわけなんです。
そういう機会が今は少ないですから、どこの教会も生活習慣や文化の違いからの小さな衝突はないんですけれども、
これは大事な原則として、その時、もしそんなことが心に思い浮かんだら、この教訓を心に留めておいてほしいわけです。
またクリスチャンといってもですね、いろんな教会がこの教会史の中で生まれてきました。
そして実は育った教会によってもいろんな文化があります。
教団によってもいろいろな制度や文化が違います。
私たちの教会は日本バブテスト教会連合ですね。
私たちの教会にはうちの教会員の方だけじゃなくて、別の教会の教会員の人も礼拝や交えに集っています。
24:03
ですからそれぞれの教会や教団の違いがあるので、その違いに敬意を払いながら互いを尊重し合う。
それが必要ですね。
またですね、あえて、今問題があるから言うのではないんですよ。
問題があるから言うのではないんですけれども、大事なことは、他の教会から集っている方々はですね、
ニーザ式バブテスト教会のありをですね、尊重していただきたい。
それが僕自身としての願いだということを心に留めておいていただけたらと思います。
このようなクリスチャンとしても、史をまっせつな部分で違いがありますけど、
大事なことはですね、共通の精霊体験による交わりがあるということなんです。
難しいですね。
でも簡単に言うとですね、パウロとペテロたちが握手ができた理由、それにはですね、大きな理由があった。
それは、共に神様の精霊の働きを体験したということなんです。
2章の8節にはですね、
違法人の中で神が働いて、救いの見業を行ったその神は、
滑稽を受けたユダヤ人の中でもやはり見業を行って、滑稽を受けた人々も救いに導いた同じ神である。
だから、滑稽を認めたペテロやヤコブやヨハネたちも、
そうでないパウロやバルナバたちもですね、
共に戦況を通して精霊が働いて救われた人が起こったという神の見業を見たわけ、体験したわけです。
だからそこでですね、一気投合して握手することができたわけなんですね。
私たちもいろんな違いがありますが、
私たちそれぞれどうでしょう、皆さん。
精霊が働いたからイエス様を信じることができましたよね。
そしてバクテスマを受けるという決心をできた、それも精霊が働いたからです。
そしてまた皆さんが日々の生活の中で祈りが応えられたり、聖書を通して励まされるというのも、
それも精霊が働いたことであるし、生活の中で何か、文字通り救いを体験したら、
それも精霊の見業を体験したことなんです。
そういういわゆる証ですかね、精霊による救いの証を私たちは共有しているから、
違いがあっても一つのキリストの体として共感が生まれて、
一つのキリストの民として互いに共に集うことができる、そのことをぜひ覚えておいてください。
最後、短い点言及します。
ペルサリム会議で確認された施行ということです。
シメクリのジュスティスでパウルがこう述べていますね。
読める方、これ読んでみましょう。2章10節3回。
ただ私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、
27:06
そのことなら私も大いに努めてきました。
これはユダヤ教や旧約聖書の背景で、貧しい人たちに金品をあげるという施行、
それが非常に大事にされてきました。
聖書ではない信仰的な読み物の中では、それによって救いを確実にするとか、
イエス様も天に宝を積むと言っています。
立法を守らなくてもいいけれども、この施行という点においては、
きちんと守っていこうということが合意されたのがエルサレム会議だったわけです。
貧しい人々への施し。
大事なことは、心に覚えて祈っている。
その心があるなら具体的に金銭的な援助をするということだ。
これは多くの学者が解説しているということです。
ある物事、ある事柄への本当の献身度を図る指標は何か。
それはそこにどれだけお金を使っているか。
それが献身度を図る指標になるとも言われています。
後にパウロはエルサレム教会にお金を送っています。
エルサレムで基金が起こって、エルサレムの教会が非常に貧しくなったんですね。
その時何をしたかというと、ピリピなどマケドニア地方の
違法人の教会からお金を集めて、
この信仰の先輩である海の親のようなエルサレム教会に
その献金を違法人教会から届けたということが起こってくるわけです。
パウロは具体的な感謝や祈りの思いを
エルサレム教会の献金・募金という形で結実させたわけですね。
今で言えば、憎らいな問題、いろいろ取り立てされて
テレビでいろんな悲しい映像を見ております。
そのことを祈っているのであれば、
例えば募金をしてみるということも言えるかと思われますね。
ある学者はこのところを解説して、このように述べているんですね。
この最後のかいかっこ。
原始教会、初代教会はその根源において
イエスに習う貧者救済をそのトレードマークとしたというわけなんですね。
私たちもこのパウロの教えを通して、本当の福音の自由を知り、
そこに生きながらまた知り合って祈り、また会えていく。
30:00
互いに認め合っていく。
そのようなお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
パウロの福音、また一色の弁護、その見事を呼びました。
このような大きな戦いがあり、老苦があり、
今私たちのもとに福音が届けられ、
私たちが神の民とされている幸いを感謝いたします。
どうかその福音の自由を保ちながらまた愛の立法を行う、
そのようなお互いであることができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは、しばらく御言葉に応え、祈る時間を持ちましょう。
一分ほど木刀を持って、忍び前に出てください。
31:08

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