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それでは、お読みします。
ガラティアビトの手紙、1章、10節から12節
今、私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。
神に取り入ろうとしているのでしょうか。
あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。
もし、今なお、人々を喜ばせようとしているのなら、
私はキリストの下辺ではありません。
兄弟たち、私はあなた方に明らかにしておきたいのです。
私が述べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私は、それを人間から受けたのではなく、また、教えられたのでもありません。
ただ、イエス・キリストの啓示によって受けたのです。
以上です。
今日はこのところから、福音の特権と尊さと題して、見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
今日は3月最初の第1日曜日ですけれども、
この後、今日は生産式、オンラインでも取り行うということで、
準備をして臨んでくださっていると思います。
そんな中ですけれども、ガラテア人の手紙から、
今日で3回目の説教となります。
何事も、聖書の見言葉を理解するときに、
その背景を理解することがとても大事です。
今日はそのことを話しますので、
それによって、私たちが今後よりよく、
このガラテア人の手紙を受け止めるようになれます。
そしてもっとですね、今日、
違法人である私たちがいつも言うように、
神様のために加えられた、それがどれほど特権であるか、
素晴らしいことかということを、
もう一度別の視点から学んでいきたいと思うんですね。
次の3点から今日学びます。
パウロへの批判の背景。
なぜパウロはこれだけ強く反論するのか。
そういう背景。
そして、彼の反論としての返しの出来事が2番目です。
最後に、その福音がもたらした衝撃、
それと私たちへの意味を、
ということで3点から学んでいきます。
まず、第一、パウロへの批判ですね。
ガラテア書の背景を知ってください。
読める方はまた10節ちょっと読んでみましょうか。
3、はい。
今私は人々に取りようとしているのでしょうか。
神に取りようとしているのでしょうか。
あるいは人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。
もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、
私はキリストのしもべではありません。
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今日の3節全体に貫かれていること。
それがここにも色濃く出ているんですけれども、
それはですね、パウロが人となった。
また、福音を受けたのは、
それは神ご自身に由来している。
ここで彼は断言しています。
そして背景にはこういう事情がありました。
違法人も立法を守らず滑稽を受けなくても、
イエス様の十字架を信じれば、
つまり福音を信じれば、神の民として加えられる。
それが福音だったんですけれども、
それはとてもですね、衝撃的な内容だったんですね。
当時の神の民にとって。
言い換えると、パウロの反対者たちや、
ガラテア社の背景にあったこの偽教師たちは、
神の民が立法を守らず滑稽を受けないということが、
たとえクリスチャンであったとしても、受け入れられなかった。
正当的なクリスチャンの中にも、
エルサレム教会を中心にそういう人がいたということなんですね。
このような主張する人々が、
そのパウロに訪れたことがあるエルサレム教会の中にも、
一部いたんですね。
使徒の働きにも、このような見言葉があります。
ここにもありますね。15章の5節。
ところがパリサイ派の者で、信者になった人たちが立ち上がり、
違法人にも滑稽を受けさせ、
孟瀬の立法を守るように命じるべきであると言った。
この出来事は、ここの前の図にもありますけれども、
ガラテア地方、おそらくここの前の図にある。
この辺り、アンテオケというところにパウロが帰ってきた時に、
エルサレム教会の人たちがやってきて、
滑稽を違法人のクリスチャンも受けるべきだ、立法を守るべきだということで、
騒ぎになったということなんですね。
ここのエルサレム教会ですね。
エルサレム教会からやってきた人たち。
このようにですね、パウロの敵対者の偽兄弟たち、
そして正当なクリスチャンの中にも、
このような理屈によって、
パウロの首都職と副院を否定したんですね。
つまり、立法を否定するパウロは、
ユダヤ教やエルサレム教会の正当的な経緯に裏付けられていない。
そしてその副院は、ユダヤ教やエルサレム教会の正当な教師から
引き継いだものではない。
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いわゆる彼らが認めるところの正当的な人間の組織と
人間の教師からパウロは何も受け継いでいない。
そのような批判があったわけです。
パウロはその反論として、
いやいや、自分の副院は人間ではなく、
神ご自身に由来するんだよ。
そして自分は人に取り入れるためではなくて、
神に責任を果たすべく人として働いているんだ。
人より勝る神の権威、神から由来しているということを
彼はここで断言している。
こういう背景を覚えておいてください。
その上で2番目。
パウロへの啓示。
パウロの戒心と証明の物語をぜひ知っていただきたいんですね。
この11節、12節、読める方は読んでみましょう。
兄弟たち、私はあなた方に明らかにしておきたいのです。
私が述べ伝えた副院は人間によるものではありません。
私はそれを人間から受けたのではなく、
また教えられたのでもありません。
ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
このパウロの戒心の物語、皆さん、
使徒の働きの中で読んだことがありますか?
どこにあるかわかりますか?
主に9章です。
8章から読むと迫害者パウロの様子もわかるんですね。
要約するとこういう物語です。
イエス様を十字架にかけたユダヤの指導者たちと
同じ指導層が当時のユダヤ人の指導者として
クリスチャンたちを迫害していたんですね。
そしてパウロはこの当時、詳しいことは後にしまして、
サウロという名前で出ていたんです。
パウロというのはローマ社会での名前。
その青年サウロは、若くしてユダヤ教に熱心だったんですね。
教会への迫害の熱に燃えていたんです。
この前にも示しましたけど、
9章1節でパウロはこういう風に紹介されているんですね。
サウロはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて。
この絵は多分、8章にあるステパノという、
当時の今で言えば教会役員のような人がですね、
殺された石打ちの刑に遭った時の絵だと思うんですけども、
これはサウロかどうかわかりませんけども、
サウロもその現場に立ち会っていたっていう。
そしてその後、この9章1節でサウロはなおもですね、
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脅かしと殺害の意に燃えていた。
そして彼は何をしたかというとですね、
ダマスコという地域のクリスチャンを男女構わず入ればですね、
縛り上げてエルサレムに連れて行くことができるように、
その権限を委ねてくださるようにですね、
イエス様を殺した一味と言っていいかわかりませんけども、
そこに関係する大祭司にですね、推薦文を書いてもらって、
その推薦文を携えてダマスコに行って、
クリスチャンを縛り上げようとしていたわけです。
しかし彼はダマスコに向かう途中、
まばよい光にですね、照らされて、
おそらくラクダか馬に乗って行ったんですけども、
そこから落馬してしまったわけですね。
こんな様子が絵を引っ張ってきましたけどね、有名なところ。
そしてそのまばよい光にですね、
当てられて目が見えなくなった時にこういうやりとりがあったんです。
見言葉はここに示してありますが、
彼は地に倒れて、
サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのかという声を聞いた。
彼、サウロが、主よあなたはどなたですかと言うと、
お答えがあった。
私はあなたが迫害しているイエスである。
イエス様とここで出会ったわけですね。
同じ頃、主の弟子であるアナニアという人が、
主のお告げを聞いて、サウロの元に行って祈れば、
彼の目が開かれるとサウロは聞いているから、
行きなさいとお告げを受けたんですけども、
アナニアはサウロの噂を知っていましたから、
ああいう危険な男のところに行くのですか、
というためらいの言葉を発すると、
イエス様からこのような言葉をアナニアは受けたわけです。
前にも示してありますが、
9章15、16節、
行きなさい、あの人は私の名を、
違法人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、
私の選びの器です。
彼が私の名のために、
どんなに苦しめなければならないかを、
私は彼に示すつもりです。
そしてアナニアはサウロの元に行って、
彼のサウロの頭の上に手を置いて祈ると、
目から鱗が落ちた。
これは目から鱗という格言の由来になった出来事です。
そしてまた見えるようになったわけです。
これがサウロとイエス様の出会い、
戒心と証明の物語なんですね。
パウロは後にこの事を振り返って、
このように証言しているんです。
1、2、16章の15から18節を抜粋しました。
前にもありますが、見える方見てください。
彼はこう言っています。
私はこう言われました。
私はこの民と、
違法人との仲からあなたを救い出し、
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彼らの所に使わす。
ここから読んでみましょうか、読める方。
それは3回。
それは、彼らの目を開いて、
暗闇から光に、
サタンの支配から神に立ち帰らせ、
私を信じる信仰によって、
彼らに罪の許しを得させ、
聖なる者とされた人々の中にあって、
御国を受け継がせるためである。
このように、パウロはイエス様からの啓示を受けた。
聖名、使徒としての聖名を受けたということを、
後々明かしするわけです。
ここで、私は、イエスは、
この民と、違法人との仲に、
仲から救い出して、
違法人のもとに使わす、
と言われているわけですね。
このようにですね、パウロは、
どんなに批判されて、
命の危険を犯してもですね、
違法人に福音を述べ伝えたその理由、
それは、神への責任を果たすため、
このようにイエス様は御自身から、
違法人選挙へ召されたからだったんですね。
反対にパウロが、
クリスチャンを迫害する理屈は、
こういうものだったわけですね。
クリスチャンは自分が、
パウロが自分が伝統として受け継いできた立法を破っている。
このパウロがですね、
自分が大事にしてきた立法を、
クリスチャンはないがしろにしている。
そして、殺害の熱意に燃えていたんですけども、
パウロは、サウロは復活のイエス様に、
ダマスコの土壌で出会って、
目が開かれました。
そして気づいたんですね。
イエス様の十字架と復活、
その意味は、立法を破るためではなかったと。
立法を完成するためであった。
立法ができない救いを、この福音が成し遂げた。
そのようにパウロは、
イエス様から啓示を受けたわけです。
そして直接、神様から、
違法人の人と召されたわけですね。
その確信のもとに、彼は、
批判を物ともせず、
命を懸けて、
宣教に従事したわけです。
クリスチャンとしてですね、
日本人で生きていく時にですね、
非常に珍しい存在です。
あり程に言えば、宗教を真面目に信じている。
毎週日曜日、教会に行っている、
礼拝している、変わり者だと言われるかもしれません。
しかし私たちが、
拠り所としている福音は、
後頭無形な話ではないんです。
先週まで話したように、
2000年の歴史と伝統によって、
受け継がれてきたわけですよね。
そういう歴史と伝統の重みがありますが、
それに加えて、
今日ここにあるように、
この福音は、
神ご自身に由来しているという、
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そのような確かな根拠があるわけです。
ですから私たちは、
変わり者と思われるかもしれませんが、
神に由来して、
福音に救われているわけですから、
人を恐れることなく確信を持って、
恥じることなく、
クリスチャンとして生きていくことができるわけです。
世界では、こういう生き方は常識的だという、
そういう場合も多々あるわけですね。
それはさっきおきました。
最後の点。
私たちはどう受け止めればよいか。
それは、新しい時代の到来なんだ、
パウロの福音は。
その福音による特権と尊さを、
改めて知ってほしいということなんですね。
これまでお話ししてきた通り、
パウロがなぜ批判されたかというと、
立法を守らない法人も、
神の民としての特権を得られるという、
そういう主張をしたからでした。
神のためのユダヤ人からしたら、
それは立法をないがしろにして、
特権だけを許せない行為だったんですね。
この前にも説明文を書きましたけれども、
ユダヤ人はですね、
神様からの特権と保護を受けていたんです。
その神様からの特権と保護を受ける、
拠り所が立法だったんですね。
依法人が立法も知らず、守れないならば、
当然神の民としての特権も、
神様からの保護も受けられるわけないわけです。
資格もないと言われているわけですから。
それが彼らの理屈です。
もしその神様の民として特権を得たい、
神から守られたいと思うならば、
立法を守りなさい。
そして活れを受けなさい。
それが彼らの理屈です。
だから彼らの理屈から言えば、
私も旧約聖書の立法を守って、
いつも言いますが、
うなぎを食べちゃいけない、
エビカニ食べちゃいけない、
男性は活れを受ける、
それを守らなければ、
この神の民としての特権に名付かれなかったわけです。
しかしそんなことはないわけですね。
福音はそれに、
ドラマティックなですね、
変化をもたらしたわけです。
依法人であっても立法を守れなくても、
イエス様の福音を信じれば、
神様の民として、
出世エジプトから、
創世紀から続く、
この神様ご自身の保護の中にいられて、
アブラハムの契約、
神の民の特権に、
預かることができるようになったわけですよね。
その福音は、
こう主張するんですね。
人は立法を守ることによっては、
神の前では義とされない。
誰も。
それゆえにイエス様の十字架と復活を受け入れて、
ユダヤ人も依法人も、
神様の前で完成されるんだ。
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ユダヤ人だって立法を完全に守れないでしょ。
依法人も同じです。
だからイエス様の十字架と復活によって、
神の前で立法を全うした者として、
義とされるんだ。
それが福音なんですね。
乱暴の例えですけど、
こういうことに置き換えられるかもしれません。
会社があってですね、
あなたが社員とします。
その職場で決まりを守れない人がいる。
営業ノルマ達成できない人がいる。
でも社長が決めたたった一つの簡単なルールを守れば、
いいわけです。
同じだけの給料と福利構成が得られる、
その簡単なルールとは何か。
それは自分の過ちを認めて社長に謝ってですね、
その社長の大いなる憐れみに、
ありがとうございますとお礼を言う。
その簡単なルールに従いされすれば、
どんなに模範社員でなくてもですね、
優秀な社員と同じだけの給料と福利構成が与えられるわけです。
そしてそういう人でもですね、退職するときに、
今までの自分の至らなさを謝ってですね、
社長に謝ってその社長の憐れみに感謝すれば、
優秀な社員と同じように退職金をたくさんもらえて、
この暮らすことができる。
実はですね、神様の民、
ユダヤ人から見たら、
私たち日本人はこの決まりを守れない、
営業ノルマも達成できない社員のように映っていたわけです。
ある学者はその衝撃をですね、
このように証言するんですね。
歴史にはいろんな時代があった。
旧石器時代、中世の時代、
それぞれ転換期があって、
私は今までデジタルの時代に至ったわけですね。
その時々にはですね、大事な要素があったわけです。
石器時代であればこの石の道具、
鉄器時代であれば鉄の道具、
デジタルの時代であればデジタル革新。
いろんな革新をもたらした転換期には、
そういう出来事があるって言うんですね。
でもここにありますように、
この福音がもたらした、パオロと第一世代の教会がもたらした、
この福音がもたらした新しい時代の幕開けはですね、
他の基準となる技術革新などにですね、
何にもましてそれは徹底的な転換で、
あらゆる時代に影響を及ぼし、
人類すべてを変容する展開だったんだ、
というわけです。
変容する転換だって言うんです。
もう一度言いますね。
福音がもたらした新しい時代の幕開けは、
他の基準となる何にもまして徹底的な転換である、
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徹底的な転換であって、
あらゆる時代に影響を及ぼし、
人類すべてを変容する展開、転換だったって言うんですね。
そのような衝撃的な時代の中、
私たちはこの福音に出会っているわけです。
この特権と福音の尊さをですね、
ぜひ改めて知っていこうと考えてやりたいと思います。
パウルはその福音の力について、
ローバービートの手紙一章十六節でこのように述べているんですね。
一緒に読んでみましょうか。
前にも掲示してあります。
私は福音を恥としません。
福音はユダヤ人をはじめ、
ギリシャ人にも信じるすべての人に
救いをもたらす神の力です。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたが私たちを神の民として召して下さいました。
この福音、イエス様の十字架と復活の良い知らせ、
それは衝撃的な出来事でありました。
どうか私たちはこの神のために加えられた特権の
素晴らしさ、尊さ、ありがたさを
どうぞあなたの歴史の中で、
またユダヤ人との比較の中で
悟ることができるようにどうか導いて下さい。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど主に応答して
祈る時間を持ちましょう。