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新約聖書コロサイビトへの手紙2章16節から19節をお読みします。
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、誰かがあなた方を批判することがあってはなりません。
これらは、来たるべき者の陰であって、本体はキリストにあります。 自己比喩や密会礼拝を喜んでいる者が、あなた方を断罪することがあってはなりません。
彼らは自分が見た幻によりたのみ、肉の思いによっていたずらに思い上がって、頭にしっかり結びつくことをしません。
このかちらがもとになって、体全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。
以上です。 今日はこのところから、救いの実態と題して見事を渡り継ぎます。
おはようございます。
12月も第2週に入りまして、アドベント第3週日になりました。 寒さが増しておりますけれども、そんな中、昨日は新型コロナウイルスの感染者数が初めて全国で1日の感染者数が3,000人超えたと。
9時前にNHKのニュースを見ていたら、緊急速報が入りまして、ピコンピコンとなるわけですよね。
何かと思ったら、3,000人を初めて超えたということが入ってきました。 その中ですが、現在、
いろんな国々でワクチンが認められて、接種されているとなっていますね。 ちなみに皆さんに聞きますが、皆さん、ワクチン打てるよと言われたら、新型コロナウイルスのワクチン打てますよと言われたら、
打ちたいかどうか。 打ちたい方。
打ちたくない方。
迷っている方。 今、迷っている方と打ちたくない方の方が多いですね。
なぜ迷って打ちたくないんでしょう。
安全性がまだ検証されていないというのがありますね。 有効性や安全性の課題がある。
副反応の課題。 もし仮にですね、
完全なるワクチンや治療薬が現れたら、その不完全なワクチンや、また代用品の今の治療薬はいらなくなるわけですね。
実はですね、今日のこの聖書の箇所には、罪の完全なる許しをもたらした、 完全なる救いをもたらしたイエス様、
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そういう方がおられるにも関わらず、それを無視して、 代用品を押し付ける異端の問題があった。
それが今日のこの数説の背景にあることであり、また、 この細部等が書かれた背景にもあるわけです。
今日パウロはですね、先週に続いてビジュアルに、目に訴えるような書き方で、 身体という言葉を鍵に教えています。
その3点をですね、
1つ目は身体のない影、2つ目は頭のない身体、 3つ目は頭を持った健全な身体という、その3つから今日共に学んでいきたいと思います。
まあ、副書になりますけど、殺さえ人、殺さえというのは、 この地中海があるエペソのですね、内陸。
エペソの内陸のですね、この辺り、 150、160キロのところの町の境界です。
まず最初ですが、 身体のない影という、そういう問題です。
パウロは今日の御子様の冒頭でこう述べています。前にも掲示しましたが、 前後して申し訳ないんですが、
なぜパウロがこういうことを教えるかというと、 この御子様が背景にあります。読んでみますね。
殺さえ一生九説。 どうかあなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、
神の御心に関する真の知識に満たされますように、 惑わしが多い中、本当の知識、神様御心に関する正しい理解を深めてください。
そういうことがあって、今日の御子様も書かれています。 そんな中でパウロは冒頭こう書いていました。
2章16、17、もう一回読んでみますね。 こういうわけですから、
食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、 誰かがあなた方を批判することがあってはなりません。
これらは来たるべきものの陰であって、 本体はキリストにあります。
これが最初の御子様です。 この背景にあった
異端の教え、 そしてその教えによって殺さえのクリスチャンが揺さぶられ、
それ今の私たちにも関わりがあることなのでお話ししましょう。 この異端の主張というのはですね、こういうものです。
旧約聖書の立法、それからそこから派生したユダヤ教の言い伝えを 完全に守らなければ本当のクリスチャンになれません。
そのように言って、この体の異邦人教会のクリスチャンを揺さぶっていたんです。 そして私たちと同じ信仰を持ちなさい。
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その背景は先週、 聖書の御子様で学んだ、
サイヌ少々や起きてということにも関係ありますし、 以前バフでそのとの関係で学んだ、
割礼というものにも関わります。 割礼を受けなければ男性は本当のクリスチャンになれないということだったんですね。
しかしパウロは17節で彼らの間違いを断罪しています。 こちらにも書いてありますが17節。
これらは来たるべきものの陰であって、本体はキリストにあります。 これらというのはユダヤ教の数々の立法や言い伝えですね。
食べ物と飲み物についての規定。 例えば、
うなぎを食べてはいけないとかあるんです。 鱗がない魚を食べちゃいけないと言いますから、うなぎや穴子は食べれません。
まあそういうことも含めて。 安息日、土曜日守るとかですね。
新月の祭りとかそういうこともありますけれども、 このようにパウロは陰であって本体はキリストだと断罪しているわけです。
パウロがここで否定しているのは旧約聖書の立法そのものではないんですね。 ちょっと聖書の知識を話しますからそのつもりで考えてください。
旧約聖書や旧約の立法を否定しているわけではありません。 どういうことかというと、正しい
立法の意図とその目的から離れてそれを当てがってはいけないというそういう問題なんですね。
旧約聖書の立法、本来の意図。 それはいくつかある中で特にここで問題になっているのは、
救いのために民を備えるということです。 つまり旧約聖書の立法というのは、やっても守れないことがわかるんです。
守れないことがわかると彼らは救い主を待望するようになります。 そのように人々の心を救い主に向けさせる。
そして救い主が来た時にその救い主を信じさせる。 それがこの立法本来の意図の一つであったわけです。
その目的を超えて、これを全部守らなければクリスチャンでも救われないといったところがこの異端の間違いだったんですね。
例えて言えば先ほどの話に戻りますが、この ファイザーって書いてるんです。新型コロナウイルスのワクチンに例えて言いますとこんな感じでしょうかね。
この今のワクチンの問題、例えばこのワクチンマイナス70度で保管しなきゃいけない。
そういう難しさがあります。あるいはその先ほど言いましたが有効性の問題。 この間ラジオである学者が言ってたのは
それを打つとですね、感染しても症状が出ないので、それによって症状が出ない人が他の人に移す危険があるとおっしゃってました。
そしてアレルギー反応の話も出ましたけれども、いわゆる副反応という問題がありますし、そして当然
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どれくらいの有効性があるかということもまだ 十分な数の
臨床試験が行われてないので、検証されてないということです。
ですから今、やむなくそれを使っているとしましょう。研究自体が、研究自体ですか。
で仮にですよ、こんなこと絶対ないんですけど 100%安全なワクチン、100%有効性のワクチンが将来出たとします。
そして誰でも受けられますよと言われたとしましょう。 人は受けますよね、みなさん。
ただその時にある人がやってきて、いやいやいや、昔のこの ワクチンを打たない人には今のワクチンを打たせません。
って言われたらおかしいですよね。不完全なワクチンを打たないと、この完全なワクチンを打ってはいけません。
っていうそういうおかしさがありますけれども、このような理不尽な主張に
パウダーが問題としている当時の遺談の おかしさというか問題があったわけです。
この最後の手紙の御言葉に話を戻しますけれども、 パウダーが言っていますね、その旧約聖書の立法を守れ、
滑稽を受けろと言っている人、その立法は ここに書きました。
それらはこれらは浸るべきものの影であって、本体はキリストにあります。
と言っています。 影を追っても虚しいですよ。
本体のキリストを知っていれば十分ですよ。 だから彼らに裁かれる必要はないんですよとパウダーは
私たちにも、ところさんの人々にも語っているんですね。 この影と
本体という言葉はですね、ギリシャ語でソーマと言うんです。 ソーマというのはギリシャ語でいわゆる体です。
ボディ。 だから直訳すると
これらの立法は影であって、体はイエス様にキリストにあると言っているんです。
つまりですね、皆さんちょっと考えてください。 この夕日の元満という昔映画がありましたけど、夕日を背にした人がやってきます。
するとその人よりも影が最初に私たちの方に到達しますよね。 で
でもですね、その影に固執して本当にやってきたその人本人を認識しない。 そういう間違いと同じだったんですね。
そしてこの影が旧約聖書の立法や掟であって 救い主の本体、まさに体をもってこの地に下ってきたのがイエス様。
そのイエス様の来臨をお祝いするのが クリスマスですね。
そのように今ここにいる私たち、ころさんの教会の兄弟姉妹も 救い主イエス様
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影ではなく体のイエス様を信じて救われています。 ですから私たちはイエス様にあって完全に救われていますので
どんな宗教的異端やカルトの掟によっても揺さぶられる必要はない。 そのように
心に留めていきましょう。 聖書には別の箇所にこういう約束もあります。
立法とイエス様の完全性を対比した約束です。 エブルビトの手紙の10章のイステスとジュステスを読んでいますね。
立法には後に来る素晴らしいものの影はあっても その実体はないのですから立法は年ごとに絶えず捧げられている
同じ意見によって神に近づいてくる人々を 完全にすることができないのです。
この御心に従ってイエスキリストの体が ただ一度だけ
十字架の上で捧げられたことにより私たちは 聖なるものとされているのです。
ですから皆さん イエス様を私は信じているので罪をやめられない
天国に行くまで罪の戦いがあるけれども 聖なるものとされているんだと信じたり宣言することができるのです。
ぜひこの御言葉を覚えておいてください。 次2番目ですね
頭のない体ということをパウロは話しています。 パウロは異端のもう一つの過ちを指摘してこのべています。
2章の18、19節 この異端の特徴のもう一つは
自己悲劇や御使い礼拝を喜んでいる者 その者があなた方を断罪することがあってはなりません。
彼らは自分が見た幻に寄りたのみ 肉の思いによっていたずらに思い上がって
頭にしっかり結びつくことをしません。 この際2の18、19を続けています。
どんな背景がここにあるか、何を根拠にいたのをそれを主張するか 実はですね
クリスマス物語にもありますが 何が
メッセージを伝えました?クリスマス物語にマリアや 羊飼いにメッセージを伝えたのは
御使いですね。天使ガブリエルとか。 そのような聖書の信仰があったんです。それで
旧約聖書の立法も御使いが伝えたと信じられていました。 そういう聖書の箇所もあります。
だからそこから逸脱して誤った信仰が生まれたんです。 どんな信仰か。
そういうことも相まってですね、ある学者は このパウロの指摘の背景にこういう距離があったってですね、ちょっと前に書き出していました。
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この自己被害というのはですね、禁欲主義です。 極度の断食や禁欲主義を実行すべきであると主張した。
彼らは天使を礼拝していたか、もしくは 天使のように礼拝すべきであると考えていたんですね。
そういう天使というのは神の御方が取り継ぐからだ。 そういう根拠があったわけです。そしてそれと関連してまた
霊的な幻を見たことがあったり、見ることができると主張していた。 そして
それらの実績によって自分が霊的に高い地位にある存在だと主張している。 そしてその経緯によって人々を支配し、またあたかも同じステージに上がるように人々を指導する。
こういう、今でも起こり得そうなですね、 背景、ごい教えに立っていたそうです。
当然皆さんも何か思いつくかもしれませんが、今の時代でも 霊の世界の幻とか、あるいは
苦行を強調して人々を支配する、そういう宗教がありますね。 そんなことに対してパーラはこう警告します。
その偽物の経緯によって断罪されることを避けなさい。
それらは霊的なものではなくて肉の思い、罪に支配された人間の思いつきに過ぎない
虚しいプライド、そういう人間のプライドに基づいた虚しいものだから相手にするなとパーラは言っているんですね。
そのように反対に彼らをパーラは断罪しています。 そのような
ことを反対すると同時に、それらに反対し私たちを励ます言葉を 別の聖書の箇所にも見出すことができます。
イエス様の学しの一人のヨハネ。 そのヨハネが手紙の中でこう書いています。
前にも掲示しましたヨハネの手紙第2の9節。
誰でも行き過ぎをしてキリストの教えのうちに留まらないものは、さっきの言ったような立法ですね。
神を持っていません。 その教えのうちに留まっているものは
御父を御父をも御子をも持っています。 私たちが
キリストの教え、イエス様を救い主として信じる その教えに留まっているならば
父なる神様も御子イエス様も持っている。 そうヨハネは約束しています。
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このようにですねパウロはこの板を頭にしっかり結びつくことをしていない。
頭に結びついていないということで 首のない体
皮肉って言ってます。 あの皆さんこれ知ってますか?
今話題、見たことあります? 映画とか漫画、私じゃないんだけど
鬼滅の刃ですね。 言ってしまいましたけど、これあの
ある人が、意外な人がこの漫画批判するんです。 何批判するかっていうと
鬼が最後首切られるんですよ。 首切られる残酷なシーンを子供に見せていいのか。
それを家族で見てるっていうのはどうなんだっていう。 意外にこんな人がそういうことを指摘するんだなぁという意外だったんですけど。
そういう首が切られる鬼のことの姿が映ることが問題されていますが、
パウロはこの 遺産者たちをまさに
首がない体のような 皮肉って言うんですね。
つまり 私はこう思いました。
頭がないってことは考えたり見たりすることができないわけですよね。 だからどんなに例えば体の苦行して断食をしても
頭がなくて考えられないから それは正しい判断でもないし正しい道に行くこともできない。
そしてもし彼らが霊的なものを見たと主張したとしても 頭がないわけですから正しく判断できないませんので、そのような神秘的な現象というのは
その真意、本当か嘘かを判断することができない間合いものだ。
そういうふうに私はこの御言葉から受け取っているんですね。 皆さんどうでしょうか。
何やともあれ パウロが指摘しますように
苦行や神秘体験をもとに 権威を振りかざして
私たちは支配するような人が現れても そのような人々に私たちは断罪される必要がないんです。
首がない鬼のようなもので
私たちは本体であるイエス様をしっかり信じている 救われていると断言することができるわけですね。
また 先週見た御言葉を振り返っていただきたいんですが
2章15節 そういう悪しき霊の権威をも
武装を解除して勝利のトレードに晒し者にした そういう御言葉もよりどころぞできるでしょう。
最後、健全な教えを見ていきましょう。 頭を持った健全な体についてパウロは言っています。
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頭なるキリストに結びつくということをパウロは言っているんですね。 パウロは締めくくりの御言葉でこう述べています。
この頭が元になって 体全体は
節々と筋によって支えられ つなぎ合わされ
神に育てられて成長していくのです。 この際2-19
頭がない体はバラバラになってしまうということを実は指摘しながら パウロはこのように私たちへの励ましの御言葉
イエス様の真理を語っているんですね。 この御言葉の意味をまとめるとこうです。
私たちは頭であるキリストにつながっている 健全な体である
さらに言えばこの御言葉は キリストの体である境界
とキリストの関係を示唆していますし そのキリストと結びついている私たちとの関係として
私たち同士の関係を体という言葉を通して 示唆しているんですね。
どういうことか この筋と筋
節々と筋 これは関節とかですね体が結び合っていることを表しています。
体のそれぞれの部位 つまりこういう感じの絵ですね。
私たちそれぞれクリスチャンは まずそれぞれが
頭であるイエス様と結びついています。 と同時に私たちそれぞれは体の部位のようにお互いが結び合って連携し合っているということなんですね。
これを有機的な結合と言います。 ちょっとその現代の科学的な正確さをかくんで書きますが
パールが言おうとしていることは
頭と体の各部位がそれぞれ結びついています。 そして各部位同士が結びついています。
そのような時に 栄養が体全体に行き巡って体全体が成長しますと言っています。
同じように私たちもクリスチャンそれぞれは体の各部位ですけれども それぞれクリスチャンが頭のキリストに結びついていてお互いが結びついているが故に
それぞれがキリストにあって神から栄養を受けて成長しているし 私たちが集まっている一つの体としての教会も神様から栄養を受けて
教会としても一つの体としても成長していきます。 そうパールは述べているんですね。
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実は私たち一人一人教会に来たり家に行ったりと結びついていますが 互いの存在が必要なんですね。
あるクリスチャンの学者がこう述べています。 皆さんのレジュメにも書きましたけれども
ある心学者がこう言うんですね パウロがキリストの体について語る場合それは
キリストに属することまた 他者とともにキリストに属することを意味する
他者を考慮に入れない個人の経験は共同体全体をバランスの欠けた 不健康な体とするって言うんですね
他者とともにイエス様に属していることを意味するし 他の人を考慮に入れない
自分主義の経験というのは霊的な成長を求める姿は 共同体全体教会のバランスを欠けた不健康な体と教会を成してしまうというんですね
残念ながらこのコロナ禍において教会内のいわゆる交わりは制限されています 例えば毎年クリスマス礼拝の後に
は食事会をしてお互いに知り合ったり 深刻を深める会を持ちますが今年はそれはできません
礼拝の後も感染予防もあってすぐに帰宅しなければなりません
でも考えてみるとですね私たちはこうやって礼拝出ている時に無意識のうちに他の人のことを
まあ 意識しているんですねちょっと言い方がおかしいですけど
そして無意識のうちにお互い影響し合っているんです 共に時間を過ごすことも
例えば他の人が礼拝の中にいる姿に何らかの影響を受けてますよね あの人今日来てないからどうしたのかなぁって心配したり
そういう人来るとよかったっていうふうに励まされたりします あるいはよく言うんですけど皆さん
主の祈りとか人心情を昭和するときにお互いの声を聞きますよね そして速さや
遅さを意識して合わせますそれはやっぱりお互いを意識して パウロが言う結び合っている証拠なんですね
そしてまた境界離れれば家庭などでですね 境界と人のことを覚えて祈っている人がいらっしゃるかもしれません
私は少なくともそうさせていただいています そして来週バブテスマ式があります
私長年いろんな教会行ってですねバブテスマ式を見ると自分が洗礼を受けた時のことを思い出すんですね そして信仰が新たにされます
またバブテスマを受けたことがない方にはそのイエス様への献身とかバブテスマということを考える機会にもなるかと思います
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そのようにですね私たちは境界にいるお互いを無意識の間に 確認し合いながら実は
影響を受け影響を与えあってともに成長しているんです 先日ある方と学びした時にですね自分の境界生きている意味考えた時に
礼拝にいるだけでそういう意味では私たちは意味があるんですよ 自分だけじゃなくて他の人のためにあなたは神に用いられているんですよという話もしたことがあります
このように私たちは互いに影響し合ってお互いを成長しているそれをパウロはこの
結び合っている 繋ぎ合わされていると表現しています
そして私たちはそれだけでなくて当然 頭なるイエス様にそれぞれが結び合わなければならないわけですね
そして体全体が結び合いながら成長していくように私たち一人一人も成長し 体全体が成長します
皆さんもわかっていると思いますけど 右手でご飯食べるから右手だけが大きくなることないですよね
右手でご飯を食べたら体全体が大きくなるようにとにかく 体の各部位全部が一つの体として一緒に成長するように教会も私たちそれぞれが共に成長していく
教会自体が一つの体として成長していくわけです そして
食べ物を外から取り入れて外から肉を浴びるように私たちはそのまさに命の源を神様ご自身から この外から取り入れていく
そのような 勇気体 信仰の勇気体であるということなんですね
私たちはその世の中で養われているのでパウロは 一旦恐れずに何があっても大丈夫だと
互いに結び合い神に養われているから大丈夫だと 励ましているように私は思うわけです
このようなパウロの御言葉の励ましを胸に抱きながら 互いに結び合いまた
成長していくお互いでありたいと思います 最後にもう一度パウロの言う御言葉の約束を読んで終わりにしましょう
この頭が元になって体全体は 櫛々と筋によって支えられ
つなぎ合わされ 神に育てられて成長していくのです
コロサイニショウチュウキュウセツ お祈りしましょう
天の神様 みんなを賛美いたします
私たちは コロナウイルスの影響で様々揺さぶられていますが
コロサイ教会の兄弟姉妹はまた異端の窓橋によっても揺さぶられていました 時代が越えても
様々な不安があるのが私たちでございます しかし
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完全なる救いの実態であるイエス様を信じ またそのイエス様と結び合わされまた互いに結び合うことによって
私たちは神様にあって 全身に告げることができるその幸いを感謝いたします
どうかそのような 神にある
お互いのことをまた神にある愛の幸い 救いの実態を共に味わい実感しながら成長し
前進していくことを祈るとされますよ 願うがこのような体に新たに加わる方々の主が導いてくださいますよ
お願いいたします この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします
それぞれしばらく1分ほど神様に応答してお祈りしましょう