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それでは朗読します。 ガラテアビトの手紙、2章11節から14節
ところが、ケファがアンテオキヤに来た時、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、違法人と一緒に食事をしていたのに、
その人たちが来ると、活霊派の人々を恐れて、違法人から身を引き離れていったからです。
そして、他のユダヤ人たちも彼と一緒に、本心を偽った行動をとり、バルナバまでその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
彼らが福音の真理に向かって、まっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。
あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく、違法人のように生活しているのならば、どうして違法人にユダヤ人のように生活することを強いるのですか。
以上です。
今日はこのところから、アンテオケ事件からと題して見言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
先週は、暖かい日もあり寒い日もあり、気温の変動が大きくて、ついていくのも辛かったのではないかと思います。
また、長らく続いているロシアのウクライナ侵攻においても、街々が解放されにあたって、この惨状が明らかにされて、非常に胸を痛める、そのようなことがまだ起こっています。
国連などでも、いろんな決議がされました。私たちもそれらの収束を祈りながら、また過ごしているわけです。
そして、今日からキリスト教歴では、キリストの受難集に入ります。
イエス様の苦しみの中にあって、このウクライナの人々をはじめとする、私たちの苦しみを担って、十字架で死なれた、そんなことを思いながら過ごせる集となればと思います。
そんな中ではありますが、いつも通り、ガラテアビテの手紙、これまでの続きから学んでまいります。
2章の先週見た一節からは、エルサレム会議といって、違法人クリスチャンが、割れや立法の遵守をしなくても、イエス様を信じれば、それで神の民とされる、そのことがエルサレム会議というところで合意されました。
そして今日は、聖書ではアンテオキアとありますが、アンテオケで起きたこの事件、ここから3つのことを語ります。
そこにちょっと触れますし、来週に次回以降に詳しく触れますけれども、この出来事は、パウロが福音を確信するのに至った、やはりこれも先進続いてですね、
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教会の歴史、また私たちの信仰の歴史で大きな転換点になった出来事です。
その中からですね、3つの点、何が起こったのかという、先週と同じように出来事をざらっとおさらいします。
その2番目は、その起こった背景ですね、ユダヤ人の文化的なこと、そして私たちが陥っていけない過ちということを学びながら最後は、本質を捉えるということをもう一度学んでいきたいと思います。
1番、何が起こったのか。まずですね、ユダヤ人を恐れたペテロということです。繰り返しになりますが、11節から12節をもう一度お読みしますね。
ところがケファ、これはペテロですね。ペテロがアンテオキアに来た時、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
ケファは、ある人たちが役部のところから来る前は、違法人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、発霊派の人々を恐れて、違法人から身を引き離れていったからです。2章11、12節。
アンテオキアというのはですね、ちょっとこの図では薄いですけども、ここのですね、パレスティナ地方のエルサレムから、失礼しました。
北に登ったこの辺りです。ここがアンテオケですね。先週の地図と比べますけれども、このエルサレム会議のその後、この北のアンテオキア、アンテオケというところで今日の事件が起こったわけです。
先週見たエルサレム会議の後の出来事らしいですけれども、ケファ、すなわちペテロ、これからずっとペテロと言っていきますけれども、
このペテロがですね、エルサレム会議の後、このアンテオキアを訪問したんですね。
そしてその時に、このアンテオケという町、アンテオキアという町、ここはですね、
このパウロの第一次電動旅行の時の出発点になった、出発点でありますけどね、出発点になったところです。そしてここはですね、
ローマ帝国の中の第3の都市です。第一の都市は首都ローマ、東京のようなところ。2番目はエジプトのアレキサンドリアですね。
日本の大阪のように考えてみるかもしれません。その3番目の、日本で言えば名古屋のようなですね、
中共という大都市。なんかアンケートを取ったら、やっぱり日本の第3都市はどこですかというと、名古屋という答えが一番多いようなんですね。
4位はどこかというと横浜だそうです。5位が福岡だそうです。それをさせておきまして、第3都市、これがアンテオキアで、たくさんのユダヤ人、3万から6万のユダヤ人が住んでいた。
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そして、ギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるディアスポラのユダヤ人もたくさん住んでいました。そんな中でですね、
違法人とユダヤ人の間で、このアンテオキアはですね、やはり民族的な摩擦がありました。その背景まで話します。
そしてそのアンテオキアの教会には、多くの違法人クリスチャンもいたんですね。
当時ですね、後でも詳しく言いますが、ユダヤ人は違法人と宗教的な汚れを避けるために一緒に会食をしなかったわけなんですね。
それが先週の見事場の背景にあるように、違法人だけじゃなくて、ユダヤ人クリスチャンの中にまだこの当時も根強く残っていました。
しかしペテロはですね、皆さん是非、使徒の旗だけ読んでいただきたいんですが、使徒の術書にあるように、違法人コロネリオのこの戒心に直面したりしましてですね、
この違法人が救われること、その経験、また先ほども述べました、エルサレム会議の合意ということを知っていたので、ペテロはユダヤ人でした。
かつては向けていた。けれども、違法人クリスチャンとアンテオ家では会食をしていたわけなんですね。それがまずあった。
しかしこのエルサレムから、この前にもありますけれども、ヤコブ、イエス様の弟のヤコブで当時の教会の主流派の一人であった、
ある意味根本主義のユダヤ人のクリスチャンのヤコブの使いがアンテオ家にやってきました。
その使いがやってきたのを見て、ペテロはですね、後ろめたくなって、徐々にですね、違法人と一緒に食事していた回数を減らして、
ついには違法人との会食の席に劣跡しなくなった。それがここで言われていることです。
ペテロだけならまだしも、先週お話ししましたが、このバルナバ、バルナバというのは、
違法人クリスチャンと、そしてディアスポラのクリスチャンとユダヤ人を橋渡しした、このディアスポラのクリスチャンで裕福だったが故に、
たくさんの施しをして、ユダヤ人クリスチャンの中にも辛抱がつかった。
このバルナバ、違法人との橋渡しのバルナバ、そしてパウルを第一位選挙旅行に扇動していった、
パウルの恩師のような、違法人選挙のまた道路者のようなバルナバでさえもですね、ペテロと同じように違法人との会食を避けるようになった。
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それが今日の箇所の一つの出来事です。
ペテロが恐れていたのはですね、その中のかつれい派という、この聖書の言葉にありますが、かつれい派という人ですね。
かつれいを受けたユダヤ人クリスチャンや、かつれいを受けているユダヤ人の人々を恐れて、ペテロと、そしてバルナバがこういう行動をとった。
この何があるかと言いますとですね、一つには先週も言ったようなユダヤ民族的宗教的な事情がありました。
違法人と会食してはならない。
もう一つはですね、当時、今でもありますよね、根本主義者、根本的な、根本主義的な民族主義者はですね、非常に過激だったわけです。
そうすると、例えばペテロのような違法人と会食した人を見ると、暴力に訴える。
そのようにする人たちもいたわけですから、おそらくこれらの理由から、エルサレム教会の役部はですね、
メッセンジャーに対して、違法人との会食、接触に安定を受け、教会でも気を付けてくださいと、そういうメッセージが送られてきたと考えられているわけなんです。
しかしそれに対して、パウルはですね、激しく非難した。なぜか、それはですね、福音の真理に従っていない。
先週見たエルサレム会議で合意した、この福音を信じるだけで違法人も十分だ、そのような信仰の自由、
信仰の真理に、福音の真理に、バルナーバとペテロが反対したというので、人々の前で激しくですね、ペテロを、パウルを非難したわけです。
これはですね、ガラディア人の手紙の背景にあるように、使徒パウロにやはり大きな権威があったということの証拠です。
イエス様の一番弟子とも見られるような弟子のペテロ。そして初代教会の創始者とも言われていたペテロ。
そのペテロ、使徒ペテロに対して公の面前でですね、彼の生き様を福音に従っていないと批判したパウロは、
ニセ兄弟の反対と違ってですね、批判と違って、パウロにもきちんとイエス様から授かった使徒の権威があった、そういうことの証拠にもこの出来事の背景が見て取れるわけです。
今ざっとこの中で起こったことを見てきました。
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3番目、じゃあなぜこんなことが起こったのか。失礼しました。2番目、なぜそんなことが起こったのか。背景にある立法とは何か。
実はですね、ユダヤ教の立法というのは本来は悪いものではもちろんなかったんです。
なぜ立法を守ったか。なぜ滑稽を受けたか。それは神様とアブラハム、そしてイスラエル民族が契約関係に入った。
そしてその契約を継続するための良いものとしてこの立法を守った。それが背景にあったんです。
その中で特にですね、滑稽を受けること、食事の規定と安息日の規定、いろんな祭りと言われている日々のカレンダー的なですね、規定を守ること、この3つが最重要視されていたわけです。
何か契約する時にその契約が続くためにこういうことを守ってくださいというような、そういうような内容だったんですけれども、
いつの間にかユダヤ人の中で誤解が生じて、こういう誤った考えが生まれたんですね。
つまりユダヤ民族だけが神様から選ばれているという特権を得たと。だから違法人より優位な立場にある。
そしてその特権と優位性を維持するためには、滑稽を受けて食事と安息日の規定を守らなければならない、そういう理解に誤解してしまったわけですね。
優位性を維持するための手段として立法の規定があった。これが間違いだったわけですね。
例えばですね、豚肉、豚肉は食べてはいけなかった。レビキというところに食べてはいけない食べ物がいっぱいあったわけですね。魚とか。
私いつもここを見ると思い出すんですけれども、学生時代にアメリカ人のクリスチャンの学生が来て日本に放置したんです。
そして当時サンシャインプリンスホテルのところに泊まったんですね。食べ物が欲しいというので、ホテルの裏にあるやはり西部系ですから、
声優があってですね、声優の職員売り場に行った時に江戸さんという日本人なのに江戸という名前の江戸さんという人と一緒に買い物に行ったらですね、
うー何これ気持ち悪いって言って袋を取り上げたんです。そしたらそこには煮干しがいっぱい入っていたわけですよね。
その死んだ干からびた魚がいっぱい入っていてそれを食べるということが考えられなかったわけです。
よく言うように、例えば今では韓国に行ったらですね、カイコのマイをですね、行って食べたりとか、
そういういわゆる食文化から受け入れられない、思考から受け入れられないというそんなことならまだしもですね、
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このユダヤ教に関しては宗教と神との関係というアイデンティティの根本につながる、それが食べ物と関わっていたから、
これだけ強い規則や抵抗があったわけです。
で、その中でもう一個大事なことはですね、お酒とか豚肉以外の肉でも偶像に捧げられたものを食べちゃいけないことになっていたんです。
日本でもありますよね、仏像に捧げたりとか。そういうところから違法人との会食も禁止されたわけです。
なぜかというと、違法人の食卓にはですね、ユダヤ人が知らない間に偶像に捧げられた肉やお酒が出てきてですね、
もうそれを食したらユダヤ人は穢れるとされたわけです。
そしてそれを食べている違法人も穢れている、そういう考えがあったわけです。
だからユダヤ人は違法人との会食が禁止されていたとなったわけです。
そしてそこから転じて、違法人がクリスチャンになっても、
かつれを受けてこれらの食べ物の規定を守って清められないと、この本当のクリスチャンになれない。
そのように考えるユダヤ人も、そしてユダヤ人クリスチャンも、少なからずいたというのがこの背景にあるわけなんです。
そしてここから何回も見ましたけれども、
違法人がクリスチャンになっても、食べ物の規定を守りかつれを受けなさいという、そういうことにつながって圧力が生じたわけですね。
そしてそのことからですね、ユダヤ人やユダヤ人クリスチャンが違法人がクリスチャンになっても会食しないという価値観へとつながった話をしましたけれども、
注意しなければいけないことがあるんです。
それは実はですね、パウロが主張したことの背景にはですね、この当時はユダヤ人が多数派でした。
違法人は少数派で弱者だったんです。
弱い立場を守るためにパウロがこう主張したんです。
ナチスの過ちというのはですね、少数派の弱者のユダヤ人を迫害した、それがホロコーストです。
だからある人たちはですね、このパウロの主張というか、このようなユダヤ人の背景や歴史を槍玉にあげて、ユダヤ人に迫害を加える口実にした、それが口実でホロコーストになった。
だからそこを私たちはですね、その違いをきちんと認識しなければいけないわけなんですね。
お分かりいただけたでしょうか。
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何回も言いますけれども、このような、この聖書の箇所とか、このような聖書的な背景がユダヤ人排斥の理由には絶対にならないということを覚えておいてください。
これがですね、人類最大の過ちの一つのホロコーストが起こった原因なんですけれども、これはですね、聖書の言葉や宗教的なこの価値観がですね、
反ユダヤ主義や民族差別を正当化するスローガンに誤用されたという問題なんです。すり替えられてしまった。
今も、異性者、権力者をはじめ強者は、少数派や弱者を支配する理由に宗教的な言い訳を使います。奇弁です。
少しだけ話題になりましたが、プーチン氏もですね、今回のウクライナ侵攻にあたって国民を鼓舞するために、聖書のヨハネの福音書から引用しています。
でもそれは間違った引用方法です。そのようにですね、私たちが当然同じような論法で自分の側を通すという過ちは避けなければいけません。
一方でもう一つ私たちが目を開いて注意すべきことはですね、たとえ異性者がそのようなことを聖書を通して、あるいはとある宗教を通して自分たちの欺瞞をですね、後押ししたとしても、
それを見抜いて、聖書とかですね、彼らが利用した宗教自体を差別したり批判してはいけないということになります。ある宗教イコールテロリストの集まりだということを考えてはいけない。
それが現代を生きる知恵として私たちが理解すべきことです。
それでは最後ですね、問題の本質は何か、私たちが捉える点は何かということを学んでいきましょう。
2章の14節、読んでいますね。
彼らが福音の真理に向かって真っ直ぐに歩んでいないのを見て、私はみんなの面前でケファにこう言いました。読める方は読んでみましょう、ここから。
あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく、違法人のように生活しているのならば、どうして違法人にユダヤ人のように生活することを知るのですか。2章14節。
この言葉を少し詳しく見ますけれども、ここでパウロがですね、ペトロの言葉を、あなたは違法人のように生活していると言っていますが、それは単純な非難の言葉ではないんですね。
パウロが言いたかったことはこういうことです。ユダヤ人から見たら、違法人と会食している人は違法人と同じだって見なされるってことなんですね。
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だから、パウロが批判しているのはですね、そのペトロが罪人のように不死だらな、乱な生活しているってことを言っているんじゃない。
そうじゃなくて、何を批判しているかというとですね、ペトロが違法人との会食を避けるという行為は、違法人をユダヤ人に回収させる、その強制させるということと同じなんだってこと、それを批判しているんですね。
つまり、ペトロがですね、もし私と一緒に違法人が食事したいのであれば、違法人のクリスチャンも滑稽を受けて、食事の規定を守らなければ私は彼らと食事をしません、そのようにしなさいと違法人クリスチャンに強制している。
つまり彼らがユダヤ人と同じようになるように強制するのと同じだ、そのことをパウロは批判しているわけです。
それに対して、ついてパウロは福音の真理に向かって真っ直ぐ歩いていない、そのように批判しているわけなんですね。
まあ私たち、皆さん真面目なクリスチャンであればですね、自分の言っていること、やっていること、クリスチャンらしくないのかなと疑うことがあるかもしれません。
しかしですね、私たちはイエス様を信じる、自分の罪を知って、また誠の神を信じて、イエス様を信じるだけで救われていて、神の民となっている、そのことを覚えてください。
また自分が弱い立場に置かれているのであれば、イエス様はパウロのように弱い立場の私たちの味方なんだということもぜひ忘れないでいてください。
その上でですね、ちょっと歴史的な、文化的なことで学んでいきましょう。
先週も言いましたが、福音の本質と文化や生活、習慣の違いを見分けていく。その上で違った立場のお互いを受け入れ合う。
例えば、今日は教会史のことについて詳しく触れますけれども、教会の歴史の中で揉めたことがいくつかありました。
バブテスマ、うちの教会のように全身霊にするのか、カトリックなのかそうですけど敵霊といって頭にかけるだけで十分なのか、そういうことで争いが起こった。
宗教改革の頃ですね、全身霊を辛抱した新しい宗派に対して敵霊を凶暴したこの教会の制度はですね、お前たちそんなに全身霊にこだわるならば水に浸して殺してやるといってですね、水の中に浸けて滴死させたという、そんなこともあったわけです。
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反対の多分迫害もあったでしょう。とにかく戦霊の形をどうするかとか、それに比べて例えば幼児戦霊を認めるか認めないかとかですね、あるいは精霊の賜物をどう捉えるか、そういうことで教会の歴史の中で最近も含めていろんな議論がなされて、悪く言うと相手を認めないということが起こってきたわけです。
そして皆さんもこれからそういうことを耳にするかもしれません。あなたのそういう教会スタイル、信仰スタイルは正当じゃないと言われるかもしれません。でもそういうことに耳を傾ける必要はありません。そういうことはですね、各教団や教派の成り立ちや歴史に関わること、それらの教会のグループにとってはアイデンティティと関係する大事なことかもしれません。
バフテスト教会ですから全心霊を大事にします。でもそれは福音の本質ではないわけなんですね。大事なのは福音の本質なのでそういう点で正当的な教会かどうかということを判断してはいけない。お互いの立場を尊重するということを覚えておいてください。
そして例えば最近ではですね、あんまり今ないかな、賛美歌の形式についての論争もありました。今うちの教会では最近歌えませんけども、新しいタイプの賛美歌、フォークとかロック調の賛美歌を礼拝で歌っていいかどうかという議論があったりしたわけですね。
でもそれは音楽的な思考にかかることですから、それも本質的な問題ではありません。このようにですね、私たちは福音の本質は何かというものを捉える目を信仰の成熟とともに養っていく。
そしてこの活礼や食事の規定が強制されたような福音とは本質的でないことで強制されたり、自分を裁かないように、また他の人々に同じような追い目を負わせないように気をつけていかなければならないわけですね。
それらのことを思いながら私の十字架を覚えて歩んでいくこの週でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
アンテオキア事件から御言葉を学びました。
ユダヤ人のアイデンティティや背景がある中で新しい教会が生まれ、様々な圧力が生まれました。
どうぞ私たちが強制される立場にもならず、また強制する立場にもならないよう、福音の本質を捉えて生きていくことができるように、福音の本当の自由を味わいながら歩んでいく、そのようなお互いであり、教会でありを導いてください。
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この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて祈る時間を持ちましょう。