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それでは、朗読します。マルコの福音書8章22節から33節。
彼らは別斎舎に着いた。すると、人々が目の見えない人を連れてきて、彼に触ってくださいとイエスに懇願した。
イエスはその人の手を取って村の外に連れて行かれた。
そして、彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、何か見えますかと聞かれた。
すると、彼は見えるようになって、人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えますと言った。
それからイエスは再び両手を彼の両目に当てられた。
彼がじっと見ていると、目がすっかり直り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
そこでイエスは彼を家に帰らせ、村には入っていかないようにと言われた。
さて、イエスは弟子たちとピリポ、カイザリアの村々に出かけられた。
その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。
人々は私を誰だと言っていますか?
彼らは答えた。バブテスマのヨハネだと言っています。
エリアだという人たちや、預言者の一人だという人たちもいます。
するとイエスは彼らにお尋ねになった。
あなた方は私を誰だと言いますか?
ペテロがイエスに答えた。
あなたはキリストです。
するとイエスは、自分のことを誰にも言わないように彼らを戒められた。
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、妻子長たち、立法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと弟子たちに教え始められた。
イエスはこのことをはっきりと話された。
するとペテロはイエスを脇にお連れして、勇め始めた。
しかしイエスは振り向いて、弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた。
さがれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
以上です。
今日はこのところから、二回見えるようにと題して二言葉を語ります。
みなさん、おはようございます。
今日は寒い、小雨降る朝となりました。
私事ですが、皆様にご報告し、祈っていただいた国内改革電動会セミナーを、先週の月曜日から川水と千葉県の市川市で主催者としてやってまいりました。
結局、感謝なことに、全国から31名の参加者が募られています。
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北は文字通り北海道から、そして東北ですね、青森や秋田、宮城ですね。
そして、あと一番西というか南はですね、東海地区ですね。
関西は今回いなかったんですけども、名古屋、愛知県とか、あとですね、岐阜県。
そういうところから来て、一番遠くから来たのはですね、
KDKの支援母体のホワイトフィールズというアメリカの母体の代表が、カリフォルニア州サンディエゴですね。
ダルビッシュがいるサンディエゴパドレス、サンディエゴからですね、このセミナーのためだけにですね、月曜から木曜までご来日してくださった。
接待なんか大変だったんですけども、良い時を過ごされました。お祈りをありがとうございます。
そして、そういう皆さんもですね、今一緒にそれぞれの場で礼拝を守っている。見事場に耳を傾けているのではないかと思います。
さて、今日のところはですね、イエス様の奇跡物語、そして後半にですね、ワルコンの福音書が入っていく折り返し展でもあるんですね。
いつも通り3つの点からお話ししていきますが、いきなり本題に入りますけども、一番最初はですね、この盲人の癒しのところを取り上げます。
二段階の盲人の癒しというところですね。
8章25節でイエス様がこのように癒されました。2度目ですね。
それからイエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。
今日のこの癒しの箇所もですね、ずっと一章一節から丁寧に見ていって、いっぱいこの奇跡や救いの出来事があるんですけども、それまでとは違った点がいくつかあります。
まずはですね、それまでイエス様は群衆の中でもこの人を癒した。人々はそれを見て驚きましたけれども、
村の外に連れ出して、群衆がいないところで一対一で向き合った。なぜか、おそらく目が見えませんので、耳の情報ですね、音だけに外部とのコンタクトを持っていたこの人にですね、
余計な音を聞かせないで、一対一でイエス様とのやり取りに集中させる、そんな配慮があったのではないかと思われるわけです。
そしてですね、7章に出てきた後で、この時7章32節のところ、前に語った説教なんかも後で参考していただきたいんですけども、
結構言葉の不自由の方の癒しの時のように、今回もイエス様は椿をその人の目につけた。
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新型コロナのところから、いろいろ飛沫感染なんて言われてて、いろんな物議を醸す椿をつけるということですけれども、
当時の社会では、椿をつけるというのも、一つの治癒方法の一つであったわけです。
そういうことで、椿を目につけられた時に、この男の人は何か治るんではないかという期待が、この耳の聞こえなかった人と同じように起こったのではないか、そういうことが考えられるわけです。
そしてここで、最も注目すべき点が一つあるんですね。
それは、この時にイエス様が2回この人の目を触ったということです。
1回目は、なんとなく人が木のように立っているのがわかります、と言ったわけですよね。
いろんなイマジネーションがあるかと思いますけれども、おそらくその人は、木は触ったことがあるので、立っているものというと木ということが頭に浮かんだかもしれませんね。
人ということも認識していたので、木と人が合わさって、人が木のように動いているのが見えると最初に言ったのかもしれません。
2段階でここで注目された、なぜかということをよく言われています。
私、他の解説書を書いていないんですけれども、10年か20年ほど前、新聞の書評欄にある本が紹介されていました。
それは、生まれながらの目が見えなかった人、あるいは幼少、ほとんど見える前に視力を失った人を医学的に回復させた時のドキュメンタリーの本のことが書評欄に出ていて読んだんです。
そこで興味深かったのは、目を癒す時に、その人の視力を回復と言いますかね、与える時に、やっぱり一変に直さないそうです。
なぜかというと、おそらく生まれて初めて視神経が働いて脳に伝達されていくわけですね、その信号が。
そうすると、一変に完全に見せると、この情報が多すぎて脳が処理できなくなってしまう。
そうして、見たものももちろんわからないし、いろんな情報が多すぎて、刺激が多すぎて不具合が起きるということで、
医学的には、やはり段階的に見えるようにしてあげるということが行われたということが書いてあります。
そのことを思い出した時に、イエス様が二段階で治されたというのは、そういうこともあるのかなと私なりに考えました。
でも、それと同時にあるいはそれ以上によく言われているところ、それはですね、この奇跡はイエス様が救い主であるということを理解させるために、
心の目とか、よく言うのは霊の目、神様がわかる心や霊の目が開かれていく、そういうことを示唆しているというわけなんです。
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その文脈の中で、二度目、三度目と、人はイエス様の救い主であるということを理解するために、
一度ならず二度、あるいは三度、四度と目が開かれ続けていく必要がある。
そんなことがこの奇跡物語に示唆されているのではないかと、学者の定説でよく言われています。
そこの一つの証拠と言いますかね、この直前、先週見た話はですね、パンの奇跡から悟らなかった弟子の話が出てきました。
二回もパンの給食の奇跡を体験したのに、弟子たちはイエス様の救い主であるがどんなことかということも悟らなかったし、
そこからイエス様の教えを誤解までしてしまった、見えず、そして聞こえない弟子たち、悟らない弟子たちの姿が、先週明らかになりました。
そういうところの連想からもですね、連想と言いますか、話の繋がりからも、
今日のこの出来事は、イエス様が心の目を、霊の目を開いてこそ、人は救い主を本当に見ることができる。
そういうことを教えていると言われているわけです。
で、そういうことと関連してイエス様は、8章の26節で見えるようになった人に、こう言って命じられたんですね。
ちょっと見にくいかもしれません。このそこでから読めるかと読んでみましょうか。
3、はい、そこでイエスは彼を家に帰らせ、村には入っていかないようにと言われた。
これはですね、どういうことかというと、誰にも言うなということです。
これはこれまで見てきたように、いわゆるメシアの秘密ということで、
イエス様についての誤解が広まらないように口止めしたということなんですね。
単なる当時も何人かいた奇跡を起こす魔術師的なものとして、
イエス様の噂が広がることを防ぐためのメシアの秘密とよく言われています。
その中で2番目のポイントを見ていきましょう。
あなたはキリストですというペテルの深刻画です。
結論のところだけ言いますけれども、
するとイエスは彼らにお尋ねになった。
私は誰だということを尋ねた。
あなた方は私を誰だと言いますか。
ここのペテルが彼を読みましょう。
3、はい、ペテルがイエスに答えた。
あなたはキリストです。
イエス様は弟子たちを伴ってガリダヤ湖からピリポカイザリアの村へ向かいました。
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その途中でご自分の正体を明らかにしたわけです。
ちょっと地理的に見にくいかもしれませんが、
これガリダヤ湖ですね。
このガリダヤ地方、ユダヤのガリダヤ地方でイエス様は主に活動して、
ガリダヤ湖周辺を行ったり来たりしていました。
ピリポカイザリアというのは、この北側にある地図で言えば、上の方にピリポカイザリアとありますね。
ここの村々に古藩から行った。
この多分癒しが起こった別栽培の辺です。
ここのピリポカイザリアというところでイエス様は、
ご自分が救い主であると正体を表した。
そこに意味がありましてですね。
実はこのピリポカイザリアのカイザリアというのは、皇帝のことをシーザーと言いますけど、カイザルと言うんですね。
ちょっと読み方に。
だからカイザル、皇帝が授けた町を当時の人はカイザリアと付けたんです。
そしていっぱいそういう町がありましたから、その頭にピリポという名前を付けた。
ピリポというのは、一世代前の統治者、ヘロデ大王。
イエス様が誕生した時に子供たちを殺したヘロデ大王。
ヘロデ大王の息子たちが分散して統治をしていたうちの一つ。
その息子の一人ピリポがこのピリポカイザリア地方を任せられたので、
カイザリアの上に統治者であるピリポの名前を付けて、ピリポカイザリアと付けたわけです。
このカイザリアという名前が付いているということはどういうことかというと、
カイザー、シーザー、皇帝がそこでやはり神として崇められていたという意味なんです。
そして皇帝の像があって、人々はそれを拝んでいた。
それに対して本当の神であり救い主王はイエス・キリストだということが、この町で宣言された意味があるわけです。
それは一つの余談なんですけれども、それ以上に意義深いことは、
ペテロの口を通してイエス様がキリストだというその正体が明らかにされたことなんです。
1章の1節から順番にこのマルコの文章を勉強していますけれども、
イエスがキリストだということが言われたのは、実はこの前は1章1節の冒頭でしかなかったんです。
神のイエス・キリストの福音の始まり、一番最初のタイトルのところでイエスはキリストだということが言われましたけれども、
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そこから一切言われずに、ここで初めてイエス様の正体がキリストだと明言されました。
どういうことかというと、数々の奇跡物語、救いの物語がずっと書かれてきていたんですね、マルコの中に。
それを読んだりそれに触れた私たちは、薄々イエス様は救い主だということに気がついていた。
当然、このマルコの福音書の登場人物も、いろいろな救いの宮座を見て、イエスは救い主だろうということに気がつく人が出てきたわけです。
弟子たちもなんとなく気づいたんですが、ようやくここで初めてイエス様のお墨付き、そして著者マルコのお墨付きがあって、
そうイエスは救い主キリストだということが宣言された、明言されたということに意味があるわけなんです。
繰り返しになりますけど、イエスは誰ですかと聞かれたら、イエスは救い主ですと私たちが確信を持って言えるのは、この御言葉があるからと言っていいと思います。
さあ、その中で、もうちょっと注目することがあるんですね。
それはイエス様が福音書の他の箇所、マルコの福音書のほかにマタインの福音書というのがあるんですけど、
同じ箇所を見ると、イエス様はこの後にこういう言葉をペテロに言っているんですね。
するとイエスは彼に答えられた、バルヨナ・シモン、これはペテロの正式名称ですね。
ヨナの息子のことをバルヨナと言います。ヨナの息子シモン、あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかにしたのは、血肉ではなく、天におられる私の父です。
これ血肉ではないというのが人間じゃなくて、天におられる私の父です。
まさに神様によって目が開かれたこそ、ペテロはイエス様がキリスト、救い主であることを悟ることができた。
そのことがですね、マタインの福音書からも明らかになるわけです。
イヤシンになりますが、先ほどの目が見えるようになったイヤシンの奇跡と関連して、
まさにイエス様の正体、私たちは自分の力で悟れない、
イエス様が私たちの心の目、霊の目を開いて、初めてイエス様は救い主だと認めることができる。
それをちょっとまず覚えておいていただきたいんですね。
けれども、ペテロや弟子たちの理解は不十分で誤解もあったんです。
キリストだって言い当てたんです。
だからイエス様はまたこう命じているんです。
ペテロが告白した後、8の30、スルートから読めるかと読んでみましょうか。
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スルートからね、読んでみましょう。
3、はい。
スルート、イエスは自分のことを誰にも言わないように彼らを戒められた。
言い当てたならば、どうぞ言いふらしてくださいっていうのが普通なんですけど、
いや、誰にも言わないように、またメシヤの秘密です。
口封じをしたわけです。なぜか。
それは次の部分と関係してくるわけです。
イエス様が救い主であるという理解がまだ十分ではなかった。
それは人の子としてのイエス様ということを理解しなければならない3番目ですね。
人の子としてのイエス様ということを理解しなければならないことと関わるわけです。
口止めした後にイエス様は、このようにご自分のことを言われたんですね、8章30節。
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、妻子長たち、立法学者たちに捨てられ、殺され、
3日後に蘇らなければならないと弟子たちに教え始められた。
ここでイエス様は救い主の更なる、新たなと言いますかね、別なる正体について教え始められたんですね。
これはいわゆる受難のメシヤであって、復活のキリストについて明らかにし始めたんです。
これが教え始められたということが一つの影響です。
どんな誤解を弟子たちが、ペテロたちがしていたか、それは当時のローマの圧勝下にあって、
イスラエルが期待していたメシヤ像というのがあったんです。
これ実は、今のあちらの方で起こっていることとも少し関係ないとも言えないので、微妙なことなんです。
でも前提として言いますけど、これを言うことによって、どの民族のどの行為も正当化したり批判するということにはならないので、
一応聖書のバックグラウンドとして聞いておいてほしいんですけれども、
当時のこのイスラエル民族にとって期待していたメシヤ像、キリスト像というのは、文字通りローマですね。
それまでですね、バビロンとかアシリアとかいろんな国に征服されてきましたから、
期待していたメシヤ像、救い主像というのは、文字通り敵を武力によって制圧して、
イスラエル第一で最も偉大だとされたダビデ王が築いた、イスラエルの王国を文字通り復興させる。
それがメシヤ、救い主、キリストに対する当時のイスラエルの人々の期待だったんです。
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勝利のメシヤ、ダビデ王の再来のメシヤ。
それをペテロをはじめ弟子たちにとって、そういう期待を持っていましたから、
彼らの身内のユダヤ人のリーダー、最初は立法学者だによって、
解放され殺される、そんな救い主はありえないとペテロや弟子たちが考えた。
そういう誤解がメシヤに対して当時あった。だから口封じをしたということなんです。
そしてさらには復活の良い知らせも、そんなことありえないと信じられなくて、いわゆるスルーしてしまったわけですよね。
その時に弟子とイエス様の間で何が起こったかですね。
イエス様はここで興味深いことに、自分のことを何と言っていますか。救い主はと言っていますか。
ここでイエス様は、人の子はと言っています。
これまた難しいあるいは大事な言葉です。
覚えておくと、キリスト教の知識と教養としてもいいですよ。
人の子というのは、まさにこの柔軟と柔軸を含んだメシヤのことを表すのに一番便利な言葉は、この人の子という言葉なんです。
今日は難しいことは言いませんけれども、旧約聖書の歴史とかいろんな言葉の使い方を見ていくと、
人の子というのは、世が完成する時にやがてやってくる、専門用語でいうとサイリンのメシヤのような姿でありながら、
でも柔軟を経験する救い主を表すのが、サイリンのメシヤとしての人の子なんですね。
この人の子という言葉をイエス様が愛で使って、新しいキリスト像を弟子たちに教えた、それがこの柔軟と復活のメシヤなんです。
さらに大事なことは、ペテロが何をしたか。
ペテロはその後、皆さんが見るこの言葉を言ったイエス様に対して、
これはちょっと前の資料にないんですけれども、皆さんの聖書を見ていただければわかりますと、
32節ですね、イエス様がはっきりとこのことを話されたので、ペテロはイエスを脇にお連れして、
勇め始めたと言っています。勇める。これはどういうことかというと、簡単に言うとですね、勇めたというのは、
目上の人間が目下の人間を忌ましめるときに使われる言葉、それが勇めるという言葉なんです。
そんな馬鹿なこと言ってはいけませんと、別の聖書の歌詞で言われています。
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実はその勇めるという言葉は、
イエス様が31節で、下がれサタンと言ってますよね。下がれサタンと33節でペテロに言った。
その時にペテロを叱って言われたという、叱ってという言葉と勇めるという言葉は全く同じ言葉なんです。
エピティメオ、エピティマオ。
とにかくペテロはイエス様の上の立場で、イエス様の間違いを正そうとして、そんな柔軟のメシアなんてこと言っちゃいけませんよ、と言い去る。
そしてイエス様は振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。
下がれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。
イエス様はペテロだけじゃなくて、12弟子全員に向かってこのことを言われたのではないか。
サタン呼ばわりしたというのは、実にペテロをサタン呼ばわりしたというよりも、
アラノでイエス様がサタンの誘惑に遭った、その時のことを思い起こして言った。
その時アラノでイエス様は40日40夜断食した時にサタンの試みに遭った。
そこで遭ったサタンの試み、簡単に言うとそれは、まさに受難を経ずして栄光のメシアになる。
そういうことがサタンの誘惑として起こった。
それをイエス様は思い起こして、そのサタンの誘惑を知りづけるためにも、
このような強い言い方をしたというわけです。
受難と十字架がなしで、栄光のメシアになれという誘惑をサタンの誘惑として知りづけたということですね。
そして、イエス様が救い主であるということには、これまで言ったように、
受難と十字架と人間的には考えられない復活も含んでいるということ、
そのことを弟子たちがキリストの中で、キリストの姿として新たに悟るべく、
イエス様はこれからも弟子たちの目を開かざるを得ない。
弟子たちは反対に言えば、この思いもよらなかった受難と復活のメシアを理解するために、
心と霊の目を開き続けてもらわなければいけない、そういう必要があったわけです。
8章31節の、「イエスは弟子たちに教えられ始めた?」という言葉から、
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ここから受難と復活のメシアの姿が明らかになっていくという意味で、
マルコの福音書は後半に入っていくんですね。
その新たな教えに私たちも、心の目、霊の目が開かれるように、
イエス様に求めて祈っていきたいと思います。お祈りします。
私たちの救い主であるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは受難のメシア、復活の救い主としてこの地に来られました。
それは十字架に至る道は厳しい、まさに命を捨てる道です。
どうかその真理について、私たちがあなたに知ることができるように、私たちの目を開いてください。
と同時に、このメシアであるイエス様のことを、
誠の救い主であるイエス様のことを、さらに広く深く知ることができるように、
どうか私たちの心の目を開き続けてください。
そのように目が開かれ、私たちの群れに加わる、
そのような方々もどうか、あなたが導いてくださるようお願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは一分ほど、イエス様に心の目を開いていただくように、
また御言葉に応答して祈る時間を。