2020-09-20 30:07

#23 20/9/13 賢く生きる

コロサイ1:9からの礼拝メッセージ。3020年9月13日録音。聖書の教える賢さ、知恵とは。
00:05
コロサイビトへの手紙、1章9節。
こういうわけで、私たちも、そのことを聞いた日から、絶えずあなた方のために、祈り求めています。
どうか、あなた方が、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心についての知識に満たされますように。
以上です。
今日はこのところから、賢く生きると題しての言葉を取りちぎます。
おはようございます。
9月、第二週になりました。
多少ですね、暑さが柔らいで、朝より過ごしやすくなったり、日がまた短くなってですね、秋の訪れを感じたり、少し寂しいような気もしますけれども、
だんだん良い季節、皆さん取り入れできることを嬉しく思います。
さあ、今日はですね、1節だけですけれども、賢く生きるという題でお話ししますが、
この今、まさにコロナ禍の中で先が見通せない、その中で賢く生きたいという思う人は、少なからずいらっしゃると思います。
政府のようなカジトリをする人たちには、なおさらですね、知恵が必要ですね。
東京GoToトラブルキャンペーンの除外から外すということを10月1日にしようとしたら、また文化会というか専門家の方からちょっと検討してくれということで、
31日に見直すという、そういう判断が動いたりしますし、また9月11日はですね、
今までの集会というんですか、コンサートだったら、クラシックだったらば、
満員にしてもいいよとか、野球やサッカーの観戦も人数を増やしていいよという、そういう規制の緩和がなされるという発表がありました。
そして9月11日といえばですね、この写真にありますように、これ分かりますか?
もう19年経つんですね、ニューヨークのドウジタ発っていうのから。
で、その時いつもですね、ニューヨークヤンキーズは追悼の試合をしてですね、
このマー君は、ニューヨークポリスといってですね、このヤンキーズのチームの選手はみんな頭にニューヨークの消防署か警察官の帽子っていうんですかね、
そのロゴが入った帽子をかぶって追悼するということを毎年しているようです。
今年話題になりましたけど、私個人的にとても好きなんですけど、このマー君がですね、その時投げて勝利したという。
そういう世の中いろんな動きが先週ありましたが、まさに9.11シテルから始まって、今のコロナに至るまで、
うよ曲折の時代に来ていますけど、その中で私たちは賢く生きたい、知恵が欲しい、
そういう中で今日の御言葉がすごくタイムリーなんですが、パウロがこの御言葉の中で、この祈っていると言っています。
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もう一度復讐のために前に掲げましたけども、こう彼が書いています。
こういうわけでというのは、エパフラスから聞いたあなた方の信仰の成長を喜んで感謝している。
その中で私たちも、そのことを聞いた日から、それを聞いた日から、絶えずあなた方のために祈り求めています。
どうかあなた方があらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心についての知識に満たされますようにと祈っていると言っています。
ここで大事な言葉はですね、神の御心についての知識に満たされますようにと、それが私の願いであり祈りだとパウロは言っています。
言い換えると、神様の御心を十分にあなた方がいつもどこでも知ることができるようにと祈っていると言うんですね。
クリシャンとして生きる上で誰でも知っていることは、神の御心を知るということが賢い生き方、良い判断の秘訣だと理解しているかと思います。
しかしですね、私たちが知っておくべき前提をまず今日話します。
それはですね、神の御心という時に、誤解ではないんですけど私たちが考えがちなのはですね、日常生活の具体的な課題とか導きを考えてしまうんです。
どんな仕事を選ぶべきか、どういう学校に行くべきか、あるいは誰といつ結婚するかとか、
そういう狭い意味でのことに神の御心を求めすぎてしまいます。
でもそれよりもここでパウロが言っていることはですね、もっと広い意味で広い視野を表しています。
世界地図があってですね、復習ですけれども、このポリント・ポロサイというのはエペソから入ったこの辺りの教会ですけれども、
この広い世界をですね、考えた御心という意味なんです。
それはどういうことか、それはですね、こういう意味で御心という言葉が込められています。
神の創造から完成に至る、神の贖いと救いの物語を知るということなんです。
あとでわかりますから、ちょっと今大雑把にでもいいんですけど、理解しておいてください。
創世紀から目標に至る、私たちが生きている時代も含めての、私たちに対する、人間に対する神様の贖いや救いの物語を知るということが、神の御心を知るということなんですね。
このように深くて広いんです。
で、この壮大な話をわかりやすくするために、パウロは具体的に書いているわけです。
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どういうふうに書いているかというと、神の御心について知るために、あらゆる霊的な知恵と理解力が必要だと言っているんですね。
実際ですね、この御言葉の特徴は、赤で記しているこの3つの言葉に特徴があるんです。
知恵とか知識とか理解力という、そこがですね、色濃く御の御言葉に出ていて、実はソロサイビテの手紙のテーマにもなっていくんです。
で、そんな中で何が言えるかというと、神様の御心を十分に知るためには、私たちには知恵や理解力が必要だと、パウロは言っているんです。
だから、神の御心の知識に満たされるように、あなた方に知恵と理解力を与えられますようにと、パウロは祈っているわけなんですね。
本当に賢く生きるためには、神の御心についての知識が必要です。
そしてその知識を得るために、実は鍵となる言葉が、知恵という言葉です。
ちょっと難しいんですが、知恵について今日3つの話をします。
その中でわかるかと思いますので、聞いてください。
まず知恵についての第一点ですね。
知恵はですね、一番あらゆる知恵により神の御心を知る。
まず神の御心に関する知識に満たされるためには、あらゆる知恵が必要だと言うんです。
この知恵、ギリシャ語ではソフィア、ソフィア大学というのがありますね。
この間デイケン先生が亡くなりましたけど、城地大学はソフィアユニバースティックなんですが、知恵。
で、実は知恵というのは旧約聖書の伝統で、いつも言っている旧約聖書の伝統、私たちが繋がっている旧約聖書の伝統では、こう理解されているんです。
ちょっと難しいのでここに書きました。
今日はですね、頭使いますからね。
知恵とは旧約聖書が言っている知恵とは、私たちが人生の経験や観察をもとに、
神の世界を神の方法で生きることを学ぶことである。
つまり、どういうことか。
神の世界。
聖書の理解では、この世界は神が作られた。
そして神がこの世界を支配し維持しておられる。
地球が回っているのも、私たちが生きているのも、神の創造の技が今も私たちになされているから。
神の創造の技が最初から今も継続しているという神の世界観です。
そして神の方法で生きるというのはですね、私たちがこの神の作った世界で生きていますが、
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その神の世界を生きるための道を学んでいくことが知恵だというんです。
何回も言っていますが、クリスチャンのライフスタイルは旅に例えられていますよね。
旅。天国まで目指していく旅。
そしてその中でクリスチャンの生き様を道行きと言っていると前にも言いました。
だからその具体的な道、どこの道をどう歩いたらいいかということを学ぶのが知恵だというんですね。
そして実は、この神様の世界を、神様の方法で生きることを学んで得られる知恵というのはですね、
さっき言った人生の仕事や結婚の選択とかという細々したもの、
そういう人生の選択のもっと前提やベースにある私たちの価値観とか世界観なんです。
私たちの人生の土台とか価値観とか、あるいはアイデンティティに関わる、
それがこの神の知恵を、神の御心を得るという、生きるということなんですね。
そして、もうちょっと分かりやすく言いましょう。
ある学者が、この旧約聖書のイスラエルの指導者が神の知恵をどういうふうに教えたかというと、
こういうふうに言ったとそうです。
旧約聖書の指導者たちは、賢い人が追い求めるものは力ではなく善である。
英語で言うとパワーじゃなくてグッドネス。
人は誰でも力を求めますよね。
神のトップが選ばれようとしていますが、誰が一番になるのか。
誰についていったら自分はその力の下で、自分の権力をもっと強くすることができるかということが見え隠れしていますよね。
だから人というのは力を得て人を支配したくなるけれども、賢い人はそうじゃなくて、
正しさや良きことを求めるんだ。
これが旧約聖書の使者の教えだという。
何を忘れてもこれだけ動いてくださっても結構ですが、
このような知恵によって神様の御心を知っていきます。
そして今ここまでとりあえずお話ししておきますけれども、
この神の道を生きるための知恵。
それを実はこの細部の手紙の中でパウロは具体的にも説明していますので、これから学んでいきます。
詳しいのある人は2章3章と見進んでみて予習してみてください。
第一の点。
知恵によって神様の御心を知る。
そして知恵とは、
善を求めることであったり、
神の世界を神の方で生きることを学ぶことであるということです。
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さらに二番目。
神の御心に至る知恵とは、
指導を受ける心を持った、また威不信であるということですね。
ちょっと難しいですけれども、話していく中でお分かりになると思います。
聖書の知恵の書として一番有名なものは何ですか?
これですね。神言です。旧約聖書。
神言って英語でプロバーブスって言うんです。
プロバーブスっていうのが英語でいわゆる格言です。
人生の格言が書かれているのが神言で、それは知恵の書です。
そしてそのまさに神言の冒頭、1章の1つから3節でこう書いているんですね。
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの神言。
これは知恵と訓誡とを学び、悟りの言葉を理解するためであり、
正義と公義と公正と資料ある訓誡を大得するためである。
そのために神言が書かれたって言われています。
ちょっと脱線しますけど、さっき言ったね、
賢い人は正しいこと、良いことを求めるということもここにも反映されていますけれども、
ここで注目すべき言葉は、この資料ある訓誡を大得する。
これが知恵だって言うんですね。
実はこの資料ある訓誡を大得する、それはどういう意味か。
資料ある訓誡を得るということは、
学者に言えれば、受け入れる心を持った威不振だ、
つまり、指導や修正を受け入れる心だ、
それをもうちょっと聖書に与えると言うと、
聖書の言葉や、聖書の指導者から学ぶ姿勢だ、
この聖書の言葉や指導者から学ぶ姿勢ということが、知恵には欠かせないって言うんですね。
この殺された人の手紙に関して言えば、これを書いているのはパウロです。
パウロはいろんなことを教えています。
だから彼の願いは、殺された兄弟姉妹が、
彼が書いた聖書の言葉や彼の指導から学んでほしいと思って、
この知恵の書を、殺された人の手紙を書いたわけです。
そして今の私たちに当てはめれば、もう皆さんも察しがついている通り、
聖書の言葉を、やはり敬意を持って受け入れるということです。
そして、例えば私も皆さんにお話ししていますが、
自分勝手なことを話さないために、一生懸命、いろんな本とかキリシタ語にあたって学ぶんです。
それは、パウロが何が本当に痛かったのかとか、
聖書の伝統から何をパウロが痛かったのかということを、
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限界があるのせよ正しく学んで、謙虚に学んで、
それを皆さんにお裾分けするとか、料理をして食べてもらう。
それがこの礼拝の説教であるわけなんですね。
だからそういう意味で皆さんも、こういうことを、私の話を、
ある面、聖書に対する敬意を持って受け入れてくださるということを前提でお話しするわけです。
で、今ちょっと出てきましたけども、
この中で見え隠れすることはですね、
敬意、尊敬の心なんですね。
今やっぱりコロナ禍の中で、リスペクトとか敬意ということが必要なように思います。
例えば政治家がですね、専門家に対して然るべき敬意を払っていればですね、
知恵のある決断ができるのではないかと思います。
あるいは、コロナの中で病気に感染してしまった人に対して、
私たちが、そういう然るべき敬意を持って、
その治った人々に対して然るべき尊敬を持って望むならば、
そういう人に対する誹謗や中傷が止むわけですよね。
そしたらですね、じゃあその然るべき敬意というのは、
聖書に対する敬意とか、神に対する敬意はどこから生まれるのかというと、
それは、神様を正しく恐れる心から生まれます。
だから敬意と威不信といったんです。
恐れるというのは、恐怖心ではなくて威不ですよね。
威不というのは何かというと、ここに書きました。
威不とは、偉大な存在に対して賢って敬うこと。
慎んだ態度をとることです。
あなたの皆が崇められますようにという詩の祈りのね、
本当の意味は、聖なるあなたの皆がその清さにふさわしく取り扱われますようにという祈りなんです。
偉大な神様を私たちは、その偉大な神様としてふさわしくお取り扱いするとか、
その前で私たちは恐れ貸し込んで、慎んだ態度をとるというのが、神を恐れるという態度です。
当然、軽んじることでは反対で、その善知善能の神様、
それだけじゃなくて、私たちを愛して、私たちに最善のものを与えようとしておられる神様、
その神様を偉大な存在として、信頼や対する愛のお方として、ふさわしく敬うこと、
そしてその言葉を受け入れることが、神を恐れるということです。
興味深いことに、ある学者は、その知恵と恐れることについて、こういうことを述べているんですね。
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本当の知恵は、知能指数じゃなくて、
死を恐れることによって得られるんだ、と言っているんですね。
それはどういうことか。
当然、知能指数の高さとか、
それ大事かもしれませんけど、そういうことはあまり関係ない。
本当の賢さとは、知能指数の問題ではなくて、
聖書の言う賢さというのは、
その知恵というのは、どんな立場の人でも、
神様を恐れることによって得られるということなんですね。
今、皆さん、私もそうですが、こうやって、
日曜の貴重な時間を割いて、ここに来て礼拝をしています。
具体的に、自分の体をここに連れてきてですね、
足を運ぶということは、
主なる神様を敬って、
慰務する具体的な行為です。
これが皆さんが、具体的に知らずの手にしている、
神を恐れ敬う行為が、この礼拝です。
時間を捧げて、ここまでわざわざ来て、
神に賛美を捧げ、そして神の御言葉を聞く。
礼拝において、家庭において、
神の御言葉を受け入れることもですね、
これを敬うことに含まれています。
先ほど神言を引用しました、神言の一章の続き、
このように書かれています。
最も有名な言葉の一つですね。前に書かれました。
主を恐れることは、知識の始めである。
愚か者は、知恵と君界を下げすむ。
神に対して敬意を持たない者は、
神の知恵と君界を下げすむ。
これでも、主を恐れることは、
まさに知識の始めであると、
知恵の書である神言が語ってある通りです。
最後の点です。
知恵とは実はイエス様のことです。
そしてそのイエス様、知恵なるイエス様を私たちは、
精霊によって正しく理解できるということです。
最後のポイント。
この、威不信と言葉を、威不と言いましたね、威不信。
威不と言いましたけども、
神様へ恐怖心から、私たちは従うのではありません。
あるいは何となくやりくもに、
やたらめったら神に従うのではないんですね。
私も体験していますが、
聖書を深く学んだり、
キリスト教の伝統を通して、
神の御心の知識を知るということは、
喜びです。
日本語でちょっと言いにくいんですが、
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まさにエキサイトするんですね。
詩編の作者はですね、
大きな獲物を捕まえたように、
あなたの御言葉を得ると、喜びが増しますと言っています。
そのように、神の御心の知識、
神の知恵を知るということに、
喜びやエキサイト面でも伴う。
なぜならそこに、私たちは、
イエス様との出会いを体験するからなんですね。
イエス様を知る喜びをそこで体験するからです。
そして、この知恵の極みがイエス様であると、
パウロは言っているんですね。
この殺される人の手紙で、後から出てきますが、
2章3節でパウロはこう言っています。
このキリストのうちに、
知恵と知識の宝が、
全て隠されています。
このイエス様は実は、
知恵の極意だと、
パウロはこの手紙で言っています。
そして、問題がありますよね。
皆さんも知っているように、
聖書の言葉とか、
イエス様ご自身について、
心で理解する、
腑に落ちるということは、
難しいんですね。
頭で分かっても、
心まで落ちたりしない。
頭で分かることが難しいんです。
人間は例えば不可能なんですが、
もう一度今日の、
パウロの祈りを振り返ってみましょう。
パウロはこう祈っています。
あらたがたが、
あらゆる霊的な知恵と理解力によって、
神のミクロについての知識に
満たされますように。
最後のポイントは、
霊的な理解力ということなんです。
プニウマティコスという意味なんですが、
実はこの霊的な理解力というのは、
ちょっと驚々しい感じがしますが、
単刀直入に言うと、
精霊が教えてくださるということです。
精霊なる神様によって私たちは、
理解できないことを理解できる。
イエス様を信じるその気持ちも、
イエス様を信じるという理性的な判断も、
精霊が与えられるから、
精霊が働くから可能なんだと、
パウロはここでも言っているんですね。
精霊が理解力を与えてくださる、
それが秘訣です。
学者もこういうふうに解説しています。
キリスト信仰へ導かれた者にとって、
精霊の付与こそが、
神の思いと道を理解する鍵である。
この通りです。
精霊が与えられてこそ、
神の思いとその道を理解することができると、
それがキリスト信仰の鍵だと言うんですね。
24:01
誰でも気がついていなくても、
イエス様を救い主として信じるならば、
イエス様の心に精霊が宿っているんです。
皆さんのうちに精霊様が住んでいます。
イエス様を信じ精霊が与えられた人には、
神様やイエス様について、
聖書について正しく知る。
それに基づいて、
物事を神の見込みにおいて判断する力が与えられると言うんですね。
パウロがコリントミトの手紙でこう書いています。
ちょっと長いんですけど抜粋します。
一体、人の心のことは、
その人のうちにある霊のほかに、
誰が知っているでしょうか。
同じように、神の身心のことは、
神の御霊のほかには誰も知りません。
私たちはこの世の霊を受けたのではなく、
神の御霊を受けました。
それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、
私たちが知るためです。
私たちには、キリストの心があるのです。
ちょっと解説しますが、
人の心のことは人間がわからないように、
神の身心のことはわからない。
神の身心のことは神の霊のみが知っていると言うんですね、パウロは。
でも、その神の霊が私たちに与えられているんだ、とパウロが言うんです。
なぜその神の霊が与えられているか、
それは、それこそ神の恵みによって、
プレゼントによって、
神からもらったものを、
神の身心も含めてですね、
神の救いや贖いの素晴らしさも、
私たちがその聖霊によって知るためなんです、と言っています。
そこの結論、
私たちには、キリストの心があるのです。
実はこの心という言葉、
新海訳聖書の新しい版でも心と訳されているんですけど、
本当はですね、心というのはですね、
ギリシャ語でカルディアと言うんですね。
トヨタはカルディアと言うのもありましたよね、覚えてですね。
でもですね、カルディアという言葉じゃなくて、
ヌースと言って、知性という意味なんです。
ここの言葉の本当の意味は。
だから私たちにはキリストの知性が与えられていると言っているんです。
どういうことかというと、
ヌースという言葉はですね、
物事を知る力とか、
理解する力とか、
判断する力、
そういう言葉なんです。
そしてさっき伝えてきた、
まさにパウロが一生の救説で言っている、
ゴルサー一生の救説で言っている、
知識とか、知恵とか、
理解力に関わる言葉なんです。
だから私たちには、
キリストの理解力が備わっているんだ、
ということをパウロは断言しているんですね。
信じようが信じまいが、
精霊によってはそうなんだ、
とパウロは言っているんです。
27:00
信じようが信じまいがというのは、
私たちが感じようが感じまいが、
精霊によってあなたには、
私たちにはイエス様の心、
イエス様の知性が与えられているんだ、
とパウロは断言しているわけです。
その私たちはイエス様と心においても一つにされ、
思いにおいても一つにされ、
その賢さの中で生きるということ、
それは精霊の導きによりますし、
その実は奥義をパウロはこのゴルサー一生の中で、
やはり私たちに解き明かしているわけですから、
そのことを学んでいきましょう。
ちょっと今日は聖書の引用が長くなりましたけど、
最後に二つの聖書の言葉を引用して終わりたいと思います。
この同じコリン島にあてて書いたパウロの手紙から引用します。
1章20節21節
知者はどこにいるのですか?
学者はどこにいるのですか?
この世の議論家はどこにいるのですか?
神はこの世の知恵を愚かな者にされたではありませんか?
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、
神の知恵によるのです。
それゆえ神は御心によって、
先頭の言葉の愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。
十字架を信じれば救われるなんていうのは、
愚かに聞こえるかもしれないけれども、
その愚かに聞こえる言葉を通して、
神様は信じる者を救おうと定められた、
それが神の知恵だとパウロに言いますね。
最後、コロサイビトの手紙の過激な言葉を引用して終わりたいと思います。
このキリストのうちに、
知恵と知識の宝が全て隠されています。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは神の民として、
神様の御心を知りたいと願っています。
それは歴史的にも広く、
また深く私たちが知り尽くしがたい、
しかし素晴らしいメッセージです。
どうかそのあなたの御心、
救いの御心を知るために、
私たちに知恵を授けてください。
精霊を与えてくださって感謝いたします。
どうかその精霊に頼って、
あなたの素晴らしさをますます知ることができるように、
その喜びに私たちを導き入れてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらくお祈りしましょう。
御言葉に応答して、
神様の知恵を求める祈り、
感謝の祈り、
御霊の導きを求める祈り、
どうぞそれぞれが御言葉に応答して、
祈りを捧げてください。
30:07

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