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マルコ6章30節から44節をお読みします。
さて、人たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
するとイエスは彼らに言われた。
「さあ、あなた方だけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。
出入りする人が多くて、食事を取る時間さえなかったからである。
そこで彼らは自分たちだけで船に乗り、寂しいところに行った。
ところが多くの人々が彼らが出て行くのを見て、それと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。
イエスは船から上がって、大勢の群衆をご覧になった。
彼らが羊飼いのいない羊のようであったので、イエスは彼らを深く憐み、多くのことを教え始められた。
そのうちに既に遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て行った。
ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。
みんなを解散させてください。
そうすれば周りの里や村に行って、自分たちで食べるものを買うことができるでしょう。
するとイエスは答えられた。
あなた方があの人たちに食べるものをあげなさい。
弟子たちは言った。
私たちが出かけて行って、二百でなりのパンを買い、彼らに食べさせるのですか?
イエスは彼らに言われた。
パンはいくつありますか?
行ってみてきなさい。
彼らは確かめて来て行った。
五つです。それに魚が二匹あります。
するとイエスはみんなを首に分けて、青草の上に座らせるように弟子たちに命じられた。
人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神を褒めたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお渡えになった。
また二匹の魚もみんなに分けられた。
彼らはみんな食べて満腹した。
そしてパン切れを十二の籠いっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは男が五千人であった。
以上です。
今日はこのところから、アラノの羊飼いと題して、ミコトバを取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
早いものでも10月になりましたね。
残るところあと3ヶ月。
少し今、荷差しあったりは涼しくなってきて、今日はちょっと曇ってますけれども、
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共にミコトバから学べること、また礼拝できることを感謝しています。
さて、つい先日、あるニュースのラジオ番組で、給食の無償化が進んでいる。
特に国よりも先に、特に東京なんかは区が率先して、市町村自治体が国よりも先に、
学校の給食を無償化しているという話が出て話題になっていました。
実は今日のイエス様の奇跡も、給食の奇跡です。
5000人の給食といって、最も有名な奇跡の一つです。
これは4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、全部に記されている有名な奇跡です。
しかし、このよく知られている奇跡物語ですが、
これも今日の禅語関係ですとか、旧約聖書との関わりをよく観察すると、
救いの素晴らしいメッセージを読み取ることが浮き上がってくるんですね。それができます。
そのことを捉えながら、3人の人物との関わりを中心に、3つのことを取り上げていきましょう。
そして、よく話題になるのは、どうやってこの奇跡が起こったのかということになるのですが、
今日はそのところではなくて、いわゆる著者といわれるマルコが、この奇跡を通して何を伝えたかという意図を読み取りながら、
この奇跡から私たちに関わる救いのメッセージを読み取っていきたいと思います。
ちょっとだけ背景を説明しますと、ガリダヤ湖周辺での出来事ですね。
先週見ましたけれども、ヨハネが斬首されたというのが先週出ましたが、
ガリダヤ地方を治めていたヘロデ大王の次男、ヘロデアンティパスとイエス様のことを比較していきたいと思います。
とにかくこのガリダヤ湖周辺で今日の出来事も起こっているわけですね。
まず最初の点は、ヘロデとイエス様を比べていきます。それは誠の羊飼いということと関わってきます。
じゃあちょっと皆さんも読んでもらいましょうか。34節ですね。私読んでみますね。
イエスは船から上がって大勢の群衆をご覧になった。 ここから読んでみましょうか。読める方。
彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深く慌れみ、多くのことを教え始められた。
このところ読んでもわかりますように、この1つ2つ前の段落ではイエス様が12弟子を使わせた。
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帰ってくると彼らは使徒と呼ばれていますけれども、その報告をした後、今日のところありまして、
しかし報告していた時も引き出しに群衆が訪れて食事する暇もなかった。
皆さんも仕事が忙しくて食事したり休む時間がない。職場の方は今の働き方改革で1時間休憩トレーナーと言われて、
取ったように書いたりしている人もいるかもしれませんけれども、
それはそれとしまして、食べる暇もなかったほどまだ忙しかった。
そしてイエス様は弟子たちにこう命じたんですね。
さあ、あなた方だけで行って寂しいところへ行ってしばらく休みなさい。
けれども例によってですね、弟子たちのおそらく船で移動したんでしょうけれども、
この船で移動して寂しいところに行った弟子たちイエス様の後をですね、陸路からですね、
群衆があちこちから集まってついてきて先回りしていたっていうんです。
そこで先に待ち伏せしていた群衆を見たイエス様は、
彼らを羊飼いのいない羊のように深く哀れんで教え始めたっていうのが今日の最初です。
実はここから何が分かるかと言いますと、
先週見たこのヘロデ・アンティパス、
彼はですね、王のように振る舞っていましたが、
このイエス様の様子から、実はこのヘロデ・アンティパスが羊飼い、
群衆を治める羊飼いとしては不十分であったという事実が浮き彫りになっているんですね。
どういうことか、実はこの弟子たちが向かった寂しいところ、
寂しいところに行きなさいという寂しいところはですね、
もともとの聖書で書かれているギリシャ語では、
エレーモスと言って、アラノと同じ言葉なんです。
一章から出てきましたよね、バブテスマのヨハネが登場したアラノ、
イエス様が試みにあったアラノ、
その後もイエス様や弟子たちが働きで疲れた後に休みに行ったアラノが、
このエレーモス、寂しいところという言葉と同じなんです。
何がここで分かるかというと、
先週見たヘロデは宮殿で豪華な誕生パーティーを祝って、
飲めや歌えや、盛大なパーティーをしていましたが、
このヘロデの地で治められていた民は、
アラノで飢え渇いていたということが、ここで浮き彫りになっているんです。
時の支配者ヘロデは、あたかも王のように振る舞っていた。
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父親のヘロデ大王のような力量はなくて、
4分の1の分割された地域、実際は2地域だけを何とか任されていた、
そんな統治者だったんですけれども、
彼は王のように振る舞っていた。
けれども、彼は民衆を養うことができなかった。
そのことが、イエス様の憐れみの心と相まって分かるわけです。
一方、イエス様は、約束のダビデの子孫、
イスラエルの王、本物の王ダビデの子孫、
そして救い主、羊飼いとして、
民衆を養うことができるんですよ、
そういうメッセージが読み取れるわけなんです。
実は、それと関わりある聖書の約束というか、
予言というかわからないんですけれども、
御言葉が旧約聖書にあるんですね。
エゼキエル書、旧約聖書のエゼキエル書。
エゼキエル書、イスラエルの民が
保守から帰るという、そういう約束の文脈の中で、
34章の23節、25節に、こう書かれています。
私はというのは、神様の言葉として、
エゼキエルで語っていますから、神はという意味ですね。
私は彼らを牧する一人の牧者、私の下辺、ダビデを起こす。
私は彼らを養い、その牧者となる。
残りの部分を読んでみましょうか。
私は彼らと平和の契約を結び、悪い獣をその地から取り除く。
彼らは安らかにアラノに住み、森の中で眠る。
このダビデの末裔の救い主が来て、
アラノでこの民を安らかに住まわせる。
悪いものからお取り去って、彼らを守ると約束しているわけです。
このマコトの王、救い主として来たイエス様、
そのことが予告されていますね。
コネ、知ってます?
パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。
マリアント・アネット、フランス革命でギロチンによって処刑された。
マリアント・アネットが、群衆が飢えているのを家臣が伝えて、
パンがなくて群衆は困っているんですと切実に訴えたら、
マリアント・アネットはパンがなければお菓子を食べればいいじゃないと言った。
そういう逸話、ホントかそうか分かりませんけども、
異性者がどれほど民の実情を分かっていないか、
そんなことが見て取れる例だと思います。
あまり触れるのもどうかと思いますが、
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しょっちゅうニュースでは物の値段が上がったということが頻繁に取り上げられています。
政府も対策を講じています。
期待する人もいれば、しない人もそれぞれいるかと思います。
もちろん私たちは良い政策をしてほしいと願ったり働きかけるわけですけど、
しかしそういうことを期待したり願いながら、
同時に私たちは誠の羊飼いであるイエス様を知っている、
誠の王であるイエス様を知っている私たちは、
この私たちを豊かに養ってくださるイエス様に助けや救いを願って、
そしてその救いを受け取っていく、そんなお互いであればと願います。
まず最初はヘロデとイエス様を比較して、
イエス様は誠の王、誠の羊飼いということを見ていきます。
2番目、モーセとヨシアとイエス様を比較して、
新たな羊飼いということを見ていきます。
最初に旧約聖書の言葉を引用します。
民数記27章の16、17節でこういう言葉があります。
モーセの祈りです。
これ祈りです。
主の回収を羊飼いのない羊の群れのようにしないでください。
このモーセの祈りはいつ捧げられたか。
これはエギプトから出てアラノを旅したイスラエル民族の救いを願った祈りなんです。
実は今日のこのアラノの5000人の給食の出来事は、
イスラエルの民の歴史とも関わりがあるようにマルクは書いているんです。
皆さんご存知のように、
イスラエルの民はエジプトから出て40年間アラノを旅しました。
アラノというといろんな意味が聖書にありますが、
試練とか神を信頼する場所とかあります。
そしてアラノを旅してどこに向かったかというと、
約束の地を目指しているわけですよね。
ここでぜひ覚えておくべきことがあります。
それは何か。
それは旧約聖書の有名な出来事を通して、
新約聖書ではイエス様とそのイエス様の救いによって生まれる新しい神の民について、
旧約聖書の出来事を鏡にして差し示すということをしています。
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一番有名なのは、出エジプトの出来事を通して、
イエス様にある新しい民の救いが上がらないということがしょっちゅう出てきますよね。
そんな中で、今日の箇所なんですけれども、
何が言われているか。
そんな箇所で何が言われているかというと、
アラノでイエス様から食事を受け取った人々、
5000人の給食でイエス様から養ってもらった人々は、
かつてイスラエルの民のように、アラノ40年間旅して神に養われた、
イスラエルという神の民とつなぎ合わされて語られています。
モーセではなくて、イエス様によって養われた新しい神の民として、
5000人の給食の出来事が取り上げられているんですね。
さっき読んだこの御言葉、この祈りの中で、
モーセは主の回収と言っていますよね、最後のところ。
主の回収を、このイスラエルの民は、
まさに神の民、主の回収だと言っています。
そしてその上で、この祈りを願っています。
何か、民を導くモーセ、
これから自分の命が長くないということを知っていたんです、モーセは。
その中で自分がいなくなっても、
このイスラエルの民が、いわゆるまさに羊飼いがいない、
私がいなくなって羊飼いがいない、
羊のようになって路頭に迷わずにいられるように、
そしてふさわしい羊飼いが起こされて、
約束の地に無事入れますようにという、
そういう願いがこの祈りに込められているんですね。
そしてその祈りに神が応えて、何がなされたか、
それは何度も言いますが、
ヨシワという人が立てられたということですね。
この続きの前後の27章18節に、こうあります。
主はモーセに言われた。
あなたは、神の霊の栄を祈っている人、ヌンの子ヨシワを連れてきて、
あなたの手を彼の上に置け、新しい羊飼いとしてヨシワが指名された。
そのことがヨシワ記に書いてあるわけです。
大谷翔平がベイブルースと比較されているように、
実はイエス様がこのヌンの子ヨシワと比較されているというか、
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新しいヨシワとして、救い主としてイエス様がここに登場するわけです。
どういうことかと言いますと、その仕掛けに気づいた方がいるかと思いますが、
実はヨシワというのはギリシャ語で発音するとイエスなんです。
イエスという名前はヘブライ語で言うとヨシワなんです。
同じなんです。
ちょっと詳しい話をすると、旧約聖書を中間時代、ギリシャが統治している時代に、
ギリシャ語がわかるユダヤ人に書いた70人約聖書というのが出ましたよね。
それはギリシャ語の聖書で、このヨシワというのはイエスとなっています。
だからギリシャ語で見ると、ヨシワもイエス様もイエスなんです。
そういう実はからくりがあります。
そこで何が言いたいかというと、繰り返しますが、
なおさら同じヨシワとイエスということですから、
イエス様は新しいヨシワとして、誠の羊飼いとしてここに登場して、
アラの旅を無事約束の地に導くという興味深い位置がここにあるわけですよね。
孟瀬に代わる羊飼いがヌンの子ヨシワ、イエスであったように、
今の新しい誠の羊飼いは神の子イエス、ヨシワであるということです。
ヨシワが神の民を羊飼いとしてアラヌに導き入れたように、
同じようにイエス様は新しいヨシワ、羊飼いとして、
アラヌにいる新しい神の民を養って約束の地に導いてくださるということです。
ヨシワというのは、皆さん何をイメージしますか。
ヨシワ記に有名な言葉がありますよね。
強くあれ、大しくあれ、ヨシワは勇敢な指導者でした。
ここの約束にもありますように、さっきやりましたけれども、
この獣もアラヌで追い出すということがエゼケイルにあったように、
敵を、今ちょっと語弊がありますけれども、
敵を倒して約束の地に導く勇敢なヨシワ、
同じようにイエス様は勇敢な羊飼いとして、羊を命懸けで守ってくださる、
そういう救い主であるということがわかってくるわけです。
私たちはこの新しいヨシワ、誠の羊飼いであるイエス様に信頼して、
このアラヌを旅することができるということですね。
最後、ダビデとイエス様、私の羊飼いでことを見ていきましょう。
今日のところでイエス様は弟子たちに命じて、
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いよいよ奇跡を行って、給食の奇跡を行うというときに、
こう命じたんですね。
するとイエスは彼らに命じて、全員をグループごとに青草の野原のように座らせた。
すると彼らは100人また50人の群れごとに座った。
ここでちょっと前の話と重なるんですけれども、
100人また50人の群れというのは何かというと、
イスラエルの民がアラヌを旅したときに、この100人50人のユニットで旅したそうです。
AKB48じゃないですけれども。
わかる人が見ると、これはイスラエルの神の民のアラヌの旅と重なっているというのがわかるので、
なおさら新しい神の民だということがわかるそうです。
ここで皆さん気がついたでしょうか。
青草の野原の上に座ったってあるでしょう。
でも弟子たちとかイエス様と民はどこで会ったって最初言いました?
寂しいところですよね。
ギリシャ語のオー大丈夫です。ギリシャ語のエレーモス。
アラヌがここで青草の野原に変わっているんです。
これは不思議な転換ですね。
実はここには四編の23編のモチーフが取り上げられているという有名なことですね。
主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの身際に伴われます。
正確には同じ言葉ではないんですけれども、
このイメージがここに重ねられているということなんです。
イエス様は弟子たちに、あなたたちが彼らに食べ物をあげなさいと言いましたよね。
弟子たちはよく頭を使って、群衆をイエス様が解散させて町々村々に行けば楽になるわけです。
心配しなくていい。
でもある学者が言わせるには、一見無責任で、その時間に散っていっても彼らが食べ物を探すあてはなかったというんです。
あなた方が食べ物を用意しなさいと言ったときに、200デナリでも足りませんと言いましたよね。
200デナリというといくらかというと、だいたい日雇いの1年分の給料だそうです。
大雑把に言って300万円くらいですか。
それくらいのお金があっても彼らを食べさせることができません。
でもイエス様はそれを養われた。
まさに羊飼いのように荒野で豊かに民を養わせて育わせた、私たちの誠の羊飼いだということがわかるわけです。
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このように、これはダビデが試練の中で歌った詩編ですけれども、
ダビデにとって主なる神様が羊飼いだったように、私たちにとってもイエス様は羊飼いです。
荒野を緑の牧場に変えるお方です。
本当の羊飼いとして私たちを養ってくださいます。
そのイエス様に信頼して歩んでいくお互いでありたいと思います。
最後に一緒に三言を読みましょう。詩編23編の1節から3節。
主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
最後の2つを読みましょうか。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの三際に伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、皆のゆえに私を義の道に導かれます。
お祈りしましょう。
天の神様、あなたが救い主イエス様を使わせてくださり、
誠の羊飼いとして私たちに授けてくださったことを感謝いたします。
日々この世を歩む中で私たちは荒野を歩むような経験をするかもしれません。
また弟子たちのように、どうやって自分を、人を養ったらよいのかと
途方に暮れることがあるかもしれません。
どうかそんな中、私たちが持っているものをあなたに捧げながら、
私たちを養うことができる誠の羊飼いであるイエス様に頼り、
そして、あなたからの救いを体験することができますように、
どうか導いてください。
そして、あなたの栄光があらわされますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど見言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。