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エペソビトの手紙2章19-22 こういうわけで、あなた方は、もはや他国人でも起流者でもなく、
聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。 聖徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、
キリストイエス御自身がその要の意思です。 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。
あなた方も、このキリストにあって、共に築き上げられ、 見たまによって、神の御住まいとなるのです。
以上です。
今日はこのところから、神の宮を建て上げる、と題して御言葉を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
最初に、本日、 聖三式を取り行う予定でしたが、
出席される方がご都合によって、出席できなくなりましたので、
今日は聖三式、私一人ということで、取り行わずに、このまま礼拝を取り行ってまいります。
さて、 今日の聖書の箇所で、パウロは
言葉を使って神殿を建て上げようとしているんですね。 どういうことか、
先週の箇所では、 イホウ人とユダヤ人がそれぞれ違う
立場の、そして私たちもそうですが、その違った私たちをイエス様が一人の新しい人、一つの体に作り変えたという話でした。
今日の朗読した御言葉の冒頭で、あなた方は多国人でもなく、起流者でもなく、神の国の民だとご宣言されているとおりです。
そして違った人々を新しい一人の人間、一つの体に作り上げるというのが、先週の話でした。
今日、 パウロは言葉を使って神殿を建て上げようとしています。つまり、こういう真理を伝えようとしているんですね。
神様は、私たち一人一人のクリスチャンを材料にして、聖霊の宮を建て上げて、その中にお住まいになるという真理です。
今日の聖書の箇所の最後の2節に、こうあるとおりです。 主にある聖なる宮、
聖なる宮、見たまによって、あなた方は神の御住まいとなるのです、と書いてあるとおりですね。
このことを基に、基礎と材料の意思という2点、そして最後にそこに住まわれる住人という3つの点から、
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神の神殿、神の宮を建て上げる意思、そして住人という3つの点から学んでまいります。
第一の点は、基礎の意思、キリストは要の意思で、聖書の教えが土台だということですね。
読める方は、この19節、20節を読んでみましょうか。
3、はい、こういうわけで、あなた方はもはや多国人でも、基隆者でもなく、
聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。 聖徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、
キリストイエス御自身がその要の意思です。 基礎の意思ということですけれども、
実はこの話、この御言葉を読んだ時にですね、私の恩師の牧師の伊津田明先生が、
この真理を語る時に、いつもこういう冗談を言っていたことを思い出したんですね。 建築は土台がしっかりしなければ、土台無理だ。
まあ、いわゆるダジャレですけれどもね。
土台の大事さ。まず最初、土台ではなく、要の意思と、ここでは、
イエス様のこと、キリストのことを言っています。 このキリストの意思が要の意思、
これは別の日本語の訳では、書籍とかですね、墨の頭石、英語でコーナーストーンと言われているんですね。
これどういうことかというと、この図にもありますように、
失礼しました。
イスラエル地域、この地中海沿岸地域は石の建築だったんです。 日本の伝統建築といえば木造ですけれどもね。
で、このキリストが要の意思というのはですね、こういうことです。 建物の四隅に置く書籍のことを言うんです。
この図では十字架が角っこに据えられています。 キリストをモチーフとしているようですけれども、
建物を建てるときに、まず最初におそらくとても大きな 4つの石をコーナー、角っこに置いて、一番最初の基礎としたわけです。
ですから、まあ神殿を建てる、石の神殿を建てる上でですね、
イエス様こそが私たちの神殿建設の一番最初に据えられるべき、 お方でなくてはならない存在であるという意味なんですね。
つまり、私たちはイエス様を救い主として信じてクリスチャンになりました。
言い換えれば、パウルはずっと言っているように、違法人であった私たちは、 イエス様を救い主として信じて神の民に加えられました。
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そしてそれが全ての始まりであるということです。
こういう意味でイエス様こそ、なくてはならないお方、絡めの石だということなんですね。
次にですね、土台として使徒と預言者とあります。
この建物の四隅に、基礎の石が置かれましたけれども、今度はその四隅の石を拠点に、
いわゆる一番下に土台の石を置いていく。それが組織、土台の石ということなんですね。
それが教会で言えば、使徒と預言者だと言うんですね。
これらの土台を基盤に、イエス様の四隅と使徒と預言者が土台となって、その上に建物が組み上げられていく。
ここで言う使徒と預言者とは、教会ができた頃の使徒、パウロや十二弟子、
そして預言者というのは、その当時神の言葉を語った人たちを言います。
今で言えば、私たちにすれば、聖書の言葉から学ぶということと言えると思います。
もちろん今もそうですが、教会では、聖書からの礼拝の説教をとても大事にしています。
このように私たちにとっては、聖書の言葉が土台となるわけなんです。
私たちが自分の信仰の基礎を固めるためにも、そして神の宮である教会を建て上げるためにも、
私たちは聖書から学び続ける必要があるということなんですね。
土台がしっかりすると建物が頑丈になります。これから台風や災害のシーズンですけれども、
このしっかりした土台であれば、石の土台であればなおさら、ビクともしないとイエス様も言っているわけなんです。
ですから私たち教会も、そして私たちそれぞれも、聖書の言葉にしっかりと留まるならば、
頑丈な建物として成長していける、そういうわけなんですね。
これが第一の点。基礎の石、それはイエス様がなくてはならない存在、信仰の創始者である。
そして聖書の言葉はそこの後据えられる土台であるということです。
次の点ですね。二番目。材料の石という点で、神の住まいとされる私たちを見ていきましょう。
21節、22節を読める方は読んでみてください。
このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なるミヤとなります。
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あなた方もこのキリストにあって、共に築き上げられ、見たまによって神の見住となるのです。
ここでですね、難しい言葉なんですが、覚えておいてほしい言葉それは、共同体。共同体という言葉です。
この御言葉を解説して、ある学者がこのようなことを述べているんですね。アメリカ人の学者ですけれども。
ここに、新約聖書の概念が、いかに我々の個人主義的な概念と異なるか、ということに気付かされる。
パウルの言っていることが、この人はアメリカ人ですけれども、特にアメリカはそうかもしれませんが、
この個人主義的な概念ととても異なっているんですね。
つまりこういうことなんです。イエス様を救い主として信じている私たち、私たち一人一人の中に、
聖霊様が宿っておられるという約束があります。
同時に、クリスチャンによって成り立つ共同体自体が、聖霊が宿る神のミヤである、
そうパウルはここでは伝えたいんですね。
この、今読んだ御言葉21・22節で、こう表現しているからですね。
この黄色い線で掲示してありますけれども、建物の全体が組み合わされて成長し、
あなた方も共に築き上げられ、神の御住まいとなるのです。
こうパウルは述べているわけです。
これはですね、パウルがもともと書いたとされるギリシャ語の原文を見ると、
はっきりと強調点というか、共同体的意識の大切さが伝わってくるんです。
このですね、「あなた方も」という言葉は、難しい言葉で言うと文法的には複数形の主格の代名詞です。
あなたは、英語ではyouという一つしかないんですけれども、ギリシャ語では、
ヒュメイスというですね、複数のあなたを表す、あなた方を表す、はっきりとしたyouに相当する代名詞があるわけです。
それでですね、ギリシャ語では主語の代名詞は省略できるんですね。
だけどもここではわざわざパウルは、このヒュメイスというあなた方という言葉を入れているんです。
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それほど、なんて言うんでしょうか、エペソ教会の一人一人、この見言葉を聞く一人一人が意味をなす、
みなさん一緒ですというそういうニュアンスが伝わってきます。
さらに、組み合わされと共に築き上げられという言葉の頭には、よく私が言うこのシンクロナイズスイミングのシンですね、
ギリシャ語のシュンという説得語がもともとの単語についているんです。
共に築き上げられという言葉には日本語で訳になってますけども、
組み合わされという21節の言葉では訳筆されていませんが、この組み合わされという言葉の前にもギリシャ語では共にというシュンという説得語がついていて、
非常に珍しい、パウルが作った他に例のない言葉だと言われているんですね。
これらのことからも、交わりとか群れという共同体の真理が大切な要素、必要不可欠な要素であるとパウルは強調しているわけなんです。
このですね、石で組み上げられた建物、その建物はですね、この例えば間の一つの石が壊れたり抜かれると建物のバランスが崩れたり、
危ないわけですね、壊れかねないわけです。
ですから、いいですか、私たち一人一人も、あなた一人一人がですね、あなたご自身がですね、
教会にとって自分はなくてはならない存在だ、教会にとって自分はなくてはならない存在だということを自覚してほしいわけです。
違法人とユダヤ人のように私たち一人一人は様々な点で違います。
しかしイエス・キリストを信じているこのその一点だけで繋がれていればいいわけなんですね。
それだけで私たちは教会にいる価値がある、価値がって言うと変ですけど、そのあなたが教会にいる意味があるんですね。
そして私たちはそういうお互いを、違法人とユダヤ人が認め合ったように、教会に属するお互いを互いに認め合って敬意を払い合うわけです。
そして神の御矢である教会が立て上げられていくために協力し合っていくわけなんですね。
具体的に何かできなくても、心から賛同したり祈るということができると思いますね。
そして自分が教会の大事な一つの意思として、自分の成長にも責任を持つわけです。
ですから、自ら聖書の言葉に親しんで、土台に繋がる、土台を据えるということも大事なわけなんですね。
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このような中で神様は私たち一人一人を大事な材料として、一つの意思として組み合わせて、一つの建物、神の住まいとして成長させて立て上げてくださるということなんですね。
これが第二のポイントです。私たちそれぞれがこの聖なる御矢の大事な材料である。
最後は、その住人、建物が立て上げられていくと中に住む人が大重要ですが、その住人、時間と空間を超えた御矢、子聖女として、ということをちょっと考えてみたいと思います。
21節、もう一回確認のために読んでいますね。
このキリストにあって建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる御矢となります。
2章21節。この御言葉はですね、旧約聖書の大事な約束に基づいています。
神の神殿に関わる約束で、そこに神が宿るという約束です。そしてこの聖なる御矢という言葉、
これはですね、今神殿という言葉と置き換えてきましたが、その神殿よりもですね、もっと厳密には
御矢という言葉です。神殿はギリシャ語ではヒエロン、御矢はナオスと言うんですけど、そのナオスという言葉が使われています。
それはどういうことかと言いますとですね、建物の最も奥、中心なる部分ですね。
ここにですね、神殿の建物の一番奥、孟瀬の幕屋というのもありましたけれども、一番奥に聖女、
聖なる場所、子聖女至る聖なる場所と書くんですけれども、その最も奥の最も中心が聖なる場所で、そこに神が宿る。
神が宿ってこその神の御矢である。 この神の御矢、中心の建物の部分を
パウロはここで述べているわけです。私たちがその御矢である。私たちの群れが、共同体が神の御矢である
ということなんですね。何が言いたいか。 皆さんね、イエス様の十字架の出来事とその後のことを思い出してください。
イエス様が十字架で息を引き取られた時に何が起こったか。それは神殿の幕が上から二つ、上から裂けた。
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つまりその子聖女の中に、まあ誰でも入れるという真理が明らかにされたわけなんです。
イエス様の十字架によって清められた人は神と直接まみえるという真理が現れているわけです。そしてペンテコステの時に
精霊が下られた。それはですね、新しい時代の到来を表しています。
こういう意味ですね、もはや建物の神殿や御矢ではなくて、信じる人々のその中に神様が宿る。
そういう時代の到来を告げているわけです。 そして今がそのような時代なんですね。
これはですね、私たちの礼拝を
考える時に大事な真理です。
今や私たちが礼拝する時に、この教会堂に神様が精霊様によって宿っておられるわけですね。しかし大事なことは同時にですね、
建物を越えて私たちが共に礼拝するところに神様が宿っておられるという真理なんです。
オンライン礼拝をする上で、これはとても大事な真理です。
今、日本の
JAという日本の福音的教会の集まりの中で、こういうオンライン礼拝は神学的にどう意味があるのかなんてことも真面目に議論されているわけなんですけれども、
このオンライン礼拝、 それぞれ場所が違いますけれども、実はこの
交わりの中に精霊様によって神様が宿っておられるという意味があるわけですね。
私たちはですね、自分の頭ではこのことをすぐにこの理屈を理解できないことだと思います。
でも、 いつも言ってますように、永遠の神様というのは私たちの時間と空間を超えたお方です。
そして繰り返しますが、大事なことはこのオンライン礼拝では、この神が不思議な形でご精霊によって私たちの中に宿っておられる、
この真理を信じた上で集うことが必要だということなんですね。
最後にちょっとだけ話の流れにあったんですけれども、
言葉にしなかった大事なことに触れたいと思います。それは三密体ということなんですね。
このパウロの書いた御言葉にも習って私は説教して、その説教の中で、
神様、イエス様、精霊様が宿ると様々な言い方をしてきました。
その時に、この三つの威嚇というのを位に書く。
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この三密体の威嚇の区別は難しいと思うかもしれません。でも、こういう様々な言い方があるということこそ、
三密体の真理とその祝福があるということなんですね。
精霊様が宿っておられる、つまり神が宿っておられる、イエス様がここに宿っておられる、
共におられると信じることができるわけなんです。このように神様は確かに、神の御矢である私たち、
この私たちの時間や空間を超えた、特に時間、空間を超えたこの礼拝や交わりの中に共に
宿っておられる、居てくださる、そのことをぜひ信じて、このような礼拝ですけれども、続けていきたいと思います。
最後にイエス様の次の約束をぜひ心に留めてください。読める方は一緒に読んでみましょう。
マタイの福音書の18章の19節から20節ですね。
3.あなた方のうちの二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、
天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。
2人か3人が私の名において集まっているところには、私もその中にいるのです。
2人か3人が私の名において集まっているところには、私もその中にいるのです。
これは礼拝にも当てはまることですね。祈り心で主を礼拝しているそのところにイエス様は確かに居てくださる。
そのことを覚えながら、共に主の宮として立て上げられていくお互いでありたいと思います。
お祈りします。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
捨てられた石が墨の頭石となった。
それは私たちにとって、あなた方にとっては不思議なことだと御言葉にありますが、
あなたのなさることは私たちの思いを超え、遥かに超えた不思議なことでございます。
理解を超えています。
しかし、あなたは私たち一人一人をあなたの宮として選び、そして組み合わせ、
あなたの宿る場所として立て上げてくださることを感謝いたします。
一つの教会に属するお互いであり、また今は事情があってオンラインで離れたところで礼拝をしているお互いでありますけれども、
そのたたなかに、ご精霊様によって神様が共にいてくださることを信じて感謝いたします。
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どうぞその真理をあなたにあって覚えながら、共に組み合わされ、共に成長していく、
あなたの宮を立て上げていく、その大事な要素として、私たちは共に歩んでいくことができるように導いてください。
この言い表せない思いを、感謝を、願いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン それでは1分ほど、
どうぞそれぞれ主にお答えして、祈りの時間を持ってください。