2021-08-29 25:52

#70 21/8/29 キリストこそ平和

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エペソ-18からの礼拝説教。2021年8月29日録音。今日の箇所では人間的な亀裂を乗り越えて「一人の新しい人、一つの体」として再生される道が説かれています。コロナ禍において、人種のみならず様々なことがきっかけで対立しがちの今に生かせるヒントがあれば幸いです。この箇所の背景は、パウロの執筆当時、神の民のユダヤ人と異邦人(エペソの人々)の間には分断と、それを解決したキリストによる再創造のみわざです。それを3つの点から学んでみましょう。

00:03
新海約聖書 2007 版でお読みします。
実に、キリストこそ私たちの平和、です。
キリストは、私たち二つのものを一つにし、
御自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
様々な規定からなる戒めの立法を廃棄されました。
こうしてキリストは、この二つを御自分において、
新しい一人の人に作り上げて平和を実現し、
二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、
敵意を十字架によって滅ぼされました。
また、キリストは来て、遠くにいたあなた方に平和を、
また、近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。
このキリストを通して、私たち二つのものが一つの御霊によって、
未知地に近づくことができるのです。
以上です。
今日はこのところから、キリストこそ平和と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
後でお知らせの時にもご紹介しますが、
今日はですね、見えないんですけど、
玉川キリスト教会の福井先生ご夫妻が休暇ということで、
私たちの礼拝に、本当は来たかったんですけども、
こういう事態なので、Zoomの方で参加してくださっています。
お知らせの時に簡単にご挨拶いただきます。
そんな中で、休暇の時期で8月ですけれども、
あっという間にですね、もう最後の日曜日を迎えてしまいました。
最後の方は暑さがぶり返して大変ですけれども、
また今日は何人かの姉妹方がですね、
こうやって礼拝にともにこの場に集えてですね、
一緒に礼拝できる幸いを感謝しています。
さて、今日はキリストこそ平和。
壁の話が出てきましたが、
しばらく前からアメリカ軍がですね、
アフガニスタンから撤退するということで騒ぎになっていますよね。
ついに先週ですか、爆弾戦が起こりまして、
100人以上の方々が子どもも含めて犠牲になりました。
今日の見事を学んでいる時に、
カブルの空港ですか、あそこで本当に人々がですね、
まさに国外に逃げたくてですね、
壁に、壁を乗り越えるが如く、よじ登るが如くですね、
人が集まっていて、それを米軍兵が制している。
そこに爆発が起こってしまった。
そういうことを、この説教を準備しながら思い出したんですけども、
今日の説教とは直接関係ないですけども、
本当に今でもいろんな国々の中で、
分断とか争いが絶えないわけです。
03:03
今日はですね、先週に続いて、
埋められない距離が埋まるということを学びます。
先週はですね、神様と人間の埋められない距離が、
イエス様にあって埋められた、
という話だったんですね。
今日は、まず一義的にはですね、
当時のユダヤ人とイホウ人、
特にエピソの兄弟姉妹との間の敵意とかですね、
埋められない距離がどうなるか、
そういう人間同士、神の民同士、
付けつめてみればですね、
距離について学んでいきます。
14節の冒頭でパウロが、
イエス・キリストこそ私たちの平和だと、
宣言していますね。
そのことを中心に、そのことを関連して、
3つのことを今日、学んでいきます。
まず最初はですね、
隔ての壁と敵意ということで、
少し歴史的背景を皆さんに知っていただきたいんですね。
ちょっと長いんですけど、
それぞれの場所で読める方、
14節から15節を一緒に読んでみましょうか。
前にも掲示しましたが、読める方読んでみましょう。
実にキリストこそ私たちの平和です。
キリストは私たち二つのものを一つにし、
御自分の肉において、
隔ての壁である敵意を打ち壊し、
様々な規定からなる今しめの立法を廃棄されました。
今日は詳しく触れませんけど、
パウロはですね、いつものように、
たくさん大事な言葉をですね、
短い中に詰め込んで、
ことの重大さを表現しています。
歴史的な背景ということで、
少し難しいかもしれないんですけども、
このことを分かるとですね、
皆さんパウロが言っていることですとか、
福音書の背景とか、
イエス様の言っていることがよく分かるようになりますから、
ぜひともに学んでください。
当時のユダヤ人とイホウ人、
ここではエペソの教会の人たちですけども、
その間に壁があったということですね。
この隔ての壁という言葉が出てきますけども、
今日の14節、隔ての壁。
隔ての壁とはですね、
当時のエルサレム神殿にあった、
神殿の壁のことなんです。
神殿は簡単に言いますとですね、
中心に行くほど聖なる場所とされていますね。
そしてこのパウロが言うと、
この隔ての壁にはですね、
イホウ人がその先に入ることが許されなかった。
06:02
そういう意味でイホウ人と、
隔てる、隔ての壁と言われていました。
そしてその壁にはですね、
この隔ての壁の壁にこういう言葉が書いてあったんですね。
ユダヤ人以外の他民族の誰も、
宮の壁の中にも、また囲い地にも入ってはいけない。
そして誰でもこの規則を破る者は、
結果として自らの身に死を招くことになる。
こういう厳しい言葉が隔ての壁に書いてあった。
なぜそんなことが書いてあったか。
この壁はですね、神の民、ユダヤ人と、
イホウ人の埋められない距離を象徴しています。
実際そういう隔てでいたわけですね。
その根拠の一つが、ユダヤ教の立法、
広い意味での立法で、
そのことが2章の15節にですね、
様々な規定からなる今しめの立法と表現されています。
様々な規定からなる今しめの立法。
実はですね、敬虔なユダヤ人、
当時ですね、神様への感謝の気持ちを表すために、
あるいは神様の契約の民として、
自分のよく言うアイデンティティを守るために、
これらの立法を固く守っていました。
それと関係して最も代表的なのが、
男子に施された滑礼ですね。
イホウ人とユダヤ人の区別をしていた。
イホウ人でも本当にユダヤ教に回収するために、
滑礼を受けろとまで強制していたんですね。
さらに儀式立法とかが、立法の中に儀式立法があって、
穢れに関する掟がたくさんありました。
例えば、食べ物に関わることが有名でしたよね。
その穢れた物を食べたら穢れるとされていて、
イホウ人がそれを食べるから、
ユダヤ人はイホウ人が穢れていて、
接ししないとか、一緒に食事しないとか、
ましてや神殿に入れないということを言っていたわけです。
使徒の働きのコルネリオとペティロの出会いが
そういう環境にありますけれども、
ちょっとこのことを私は思い出したんですね。
あまり関係ないかもしれませんが、
10年から30年ぐらい前に私は、
夫婦で韓国に行って、
韓国人のクリスチャンの方々と交流したんです。
接待で、クァンジュという光の州というところだと思うんですけれども、
いわゆる上野の雨横みたいなところを連れて行ってくれたんですね。
市場が。
いろんな店があって、きれいなシルクのものが売っていたり、
カワセヒが売っていたりするんですけれども、
そこで、アマグリを作る機械みたいなのがぐるぐる回っていて、
09:03
おいしそうだなと思ってよく見たんです。
ただですね、アマグリではなくて、
カイコ。
茶色いですね。
カイコを入っていたんです。
気持ち悪いから出しませんけど、
絹糸を作るときにこの中にあったもの、
セミの抜け殻がありますよね。
セミの抜け殻の中身が入っていて、
3分の2ぐらいの大きさでペッチャンコになったやつ。
そういうのがいっぱいぐるぐる回って焼かれていたわけです。
それを買うと新聞紙に入れて、
焼き芋みたいに新聞紙に入れて分けてくれるわけです。
それを案内してくれた韓国人のですね、
例えば今で言えば、あんまり知らないですけど、
二重とかですね、
ああいう見てくれのギャルみたいな女の子がですね、
それをボリボリボリボリ舞を食べるんですよね。
食べてみなって言われて食べてみましたけど、
まあ微妙な事でしたけど、
衝撃的なですね、
食べ物の違いをそこで体験したんですけども、
こうやって食べ物はですね、
国や宗教によって大きく違いますね。
そういう食べ物の違いから、
いろんなちっちゃな壁など生まれるかもしれませんが、
この今日の聖書の箇所の背景、
ユダヤ人は食べ物も含めて神への献身と、
自分たちの神の民としてのアイデンティティが関わっていましたから、
こういう立法の規定と、
違法人との関係ということではですね、
深刻な問題が起こっていたわけです。
その立法根拠に、
壁が作られていて、
両者の間に敵が存在していたと、
パールは言っているんですね。
クリスチャンになっても、ユダヤ人の、
クリスチャンの方々は、
ユダヤ教の規定を守るという方々が多かったので、
違法人クリスチャンが、
そういう習わしに従わないことに、
非常に大きな抵抗を持っていた。
違法人もそういうユダヤ人の抵抗を持っていて、
敵があったり、壁があったということが、
今日の背景です。
そしてパールはですね、
このように二つのもの、
この二つのものというのは、
違法人とユダヤ人のクリスチャンが、
一つになれなかったという問題を、
今日取り上げていて、
しかしその、
隔てな壁を打ち壊して、
二つのものを一つにされたのが、
イエス様だと、
パールは宣言しています。
それが、
次の第二のポイントに繋がってくるわけですね。
第二のポイントは、
イエス様こそ平和である。
ちょっと長い聖書箇所ですが、
赤い字だけでも読んでみましょう。
実にキリストこそ、
12:02
私たちの平和です。
キリストは、
ご自分の肉において、
隔ての壁である敵を打ち壊し、
様々な規定からなる、
今しめの立法を廃棄されました。
こうしてキリストは、
十字架によって、
神と和解させ、
敵を十字架によって滅ぼされました。
あと私読みますね。
またキリストは来て、
遠くにいたあなた方に平和を、
また近くにいた人々にも平和を、
福音として伝えられました。
パールはここでですね、
キリストこそ私たちの平和だと、
力強く宣言するわけです。
そしてそれから続けてですね、
イエス様が平和だとはどういう意味ですか、
ということを説明したり、
またどうやってイエス様がその平和を実現したか、
そのことを語り続けていくわけなんですね。
それを一言で言うと、
下にも書きましたが、
イエス様の十字架によるあがない、
イエス様の十字架によるあがない、
それがイエス様が平和であり、
平和を実現した根拠だ、
ということなんです。
どういうことか、
実はですね、
難しく言うと先ほどの
食べ物とか清めに関することを
猜疑立法とか言うんですね。
宗教的な立法。
それにもう一つですね、
道徳立法というのがあるんです。
いわゆる殺すな、
盗むな、
関与するななど、
ある面、普遍的な道徳的な立法ですね。
そのような立法があるんですけれども、
イエス様はその道徳立法の
さらに上を行く基準を語られたんですね。
マタイの5章21節から22節。
このようにイエス様は言われました。
前に掲示したんですけれども、
昔の人々に、
人を殺してはならない、
人を殺す者は裁きを受けなければならない
と言われたのを、
あなた方は聞いています。
しかし私はあなた方に言います。
兄弟に向かって腹を立てる者は、
誰でも裁きを受けなければなりません。
兄弟に向かって脳なしというような者は、
最高議会に引き渡されます。
また、バカ者と言われるような者は、
燃えるゲヘナに投げ込まれます。
マタイ5の21から22。
つまりですね、
この基準から言えば、
ユダヤ人でも、
違法人でも、
神の裁きを免れない、
ということですよね。
違法人であろうが、
神の民という自負するユダヤ人であろうが、
15:02
神様の前では同じ、
神の掟を破る罪人な。
ですから、その立法を廃棄するような、
解決方法をイエス様が、
十字架の上で、
成し遂げてくださった、
ということなんですね。
ここでですね、
興味深いことがあるんですね。
この、
失礼しました。
ここですね。
テキーを十字架によって滅ぼされました、
ってありますね。
テキーを十字架によって滅ぼされましたの、
滅ぼすという言葉は、
言語のギリシャ語では、
殺すという言葉なんです。
殺すという過激な言葉です。
テキーを十字架で、
あるいはイエス様において、
殺したという、
強い言葉になっているんですね。
当時のローマ帝国はですね、
戦争が止まない中、
戦争を止めさせた、
そういう、
ローマの平和という言葉によって、
ある面、称賛されていたんですね。
イエス様が誕生した時の、
皇帝アウグストスは、
平和の君と言われて、
神として崇められていたわけです。
けれどもその、
ローマがもたらした平和の背景には、
戦争によって国々を侵略するという、
暴力があったわけです。
さらにですね、
その後、平和に制定するために、
ローマ帝国はですね、
暴力を使って、
人々を脅して沈めていた、
そういう部分もあったわけです。
実はその象徴の一つが、
十字架なんですね。
十字架は見せしめに、
晒し物にしてですね、
人を死刑にすることによって、
ローマ帝国に背いたら、
このような目に合うぞと言って、
そういう脅迫する形で、
力でこの平和を保つ、
一つの手段だったわけです。
しかしですね、
神様は、
それを、
この人間の暴力さえ、
十字架を逆手に取るようにして、
このイエス様の十字架の死によって、
人々に本当の平和をもたらしたわけですね。
立法では成し得なかった、
神の前の義というものを、
そこで実現した。
人と人との平和を実現した。
そして、
神の前の罪をそこであがなって、
神と人との間を、
和解に導いたわけです。
こういう図がありますけども、
ちょっと薄いですけど、
十字架の縦棒と横棒ですね。
18:01
縦棒は、
神様との人間、
神と人間との関係。
そこに、
イエス様は和解をもたらして、
平和をもたらした。
横棒は、
人間と人間の関係。
十字架によって、
イエス様は、
違法人とユダヤ人、
人間と人間の間に、
この隔ての壁をとって、
平和をもたらしたというわけです。
このイエス様の十字架の、
あがないの技について、
エプソビトの手紙と、
双子の手紙と言われている、
コロサイビトの手紙に、
このように書かれているんですね。
読める方、
コロサイ1-13-14、
前にありますけども、
読んでみましょうか。
3、
神は、
私たちの、
すべての背きの罪を許し、
私たちに不利な、
さまざまな規定で、
私たちを責め立てている、
債務証書を無効にし、
それを十字架に釘付けにして、
取り除いて下さいました。
コロサイ1-13-14、
このように、
ユジャヤ人とイホウ人の、
クリスチャン同士に、
イエス様は十字架によって、
平和をもたらしました。
さらには、
神様と人間との間に、
和解と平和をもたらしたのです。
そして当然、
その平和は、
私たちにも及んでいるわけです。
最後に、
一人の人として、
神に近づくということを見ていきましょう。
2章の18節、
読める方は読んでみましょう。
3、
このキリストを通して、
私たち二つの者が、
一つの見た場によって、
未知地に近づくことができるのです。
ここではですね、
敵対していたユジャヤ人と、
違法人のクリスチャンが、
イエス様によって、
新しい一人の人、
一つの体となったと、
告げられています。
仲高いしていたのが、
一人の体になった。
先週はですね、
イエス様から遠く離れていた、
私たちが、
イエス様のアガナヤによって、
イエス様と一つにされた、
ということを学びましたが、
今日はですね、
敵対していた、
お互いがですね、
イエス様によって、
一つの新しい人に作り変えられた、
ということが、
言われているわけなんです。
当然そこには、
違法人である、
日本人の私たちも、
含まれているわけなんですけれども、
私たちは、
様々な違いがありますけれども、
今やイエス様によって、
一人の人間として、
あたかも一人の人として、
一つの同じ見た目によって、
21:02
唯一の父なる神様に、
近づくことができると、
宣言されているんですね。
実はですね、この、
道地に近づくことができる、
道地に近づくことができる、
という言葉はですね、
元の言葉ではですね、
神様とのアクセス権を得た、
今風に言うと、
神様とのアクセス権を得た、
あるいはですね、
神様のもとに、
私たちを導くアテンド、
案内人がいる、
そういう意味なんですね。
このようなイメージです。
あくまでもフィクションですよ。
こういうイメージです。
皆さんね、
私たちが、
天の神殿の奥におられる、
誠の神様に、
これからお会いできる、
そういう面会の約束を持って、
天の神殿に行ったとしてください。
その時に、
ユダヤ人やエペソード人やですね、
私たちがいるわけです、そこに。
でもですね、
そのために、
実は必要だったものがあったんですね。
特別な招待券とか、
身分証明書が必要だったんです。
でもですね、
全員その、
どのグループも、
その招待券や身分証明書を忘れてしまって、
お互いですね、
罵り合っているんですね。
お前のせいだ。
お前のせいだ。
そうやって私たちが罵り合っている時にですね、
イエス様が来てくださって、
身分証明書、
神様に会うための身分証明書をくださったんですね。
それが、
聖霊様です。
聖霊。
そして、
それだけじゃなくて、
イエス様自身がですね、
この秘書が社長室に案内するように、
私たちの前に、
先立ってですね、
神殿の奥の間に、
私たちを伴って、
そして、
誠の神様の前に、
アテンドして、
案内して、
こう連れて行って、
くださるわけですね。
このようにですね、
私たちが誠の神様に近づく資格は、
ユダヤ人であろうと、
エペソ人であろうと、
日本人であろうと、
私たち自身には、
全く備わっていないということなんです。
イエス様の十字架と、
聖霊だけが誠の神に近づく、
拠り所であり、
根拠なんですね。
実は、
そのことに、
私たちが気が付くときに、
ユダヤ人、
イホウ人、
あるいは、
同じ小さな教会の中で、
お互いの違いを認め合いながら、
イエス様の十字架と、
聖霊だけを根拠に、
共に神様に近づくことができるわけですね。
それが、
キリストの体、
教会に与えられた祝福であり、
特権なのです。
24:02
そのことを覚えながらですね、
最後、
エペソの三章十二節を読んで、
説教を締めくりたいと思います。
読める方、
エペソ三章十二節を共に読んでみましょう。
3、
はい。
私たちは、
このキリストにあって、
キリストに対する信仰により、
確信をもって、
大胆に神に近づくことができます。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、
皆を賛美いたします。
私たち、
違法人として、
神の民と加えられたことを感謝いたします。
私たち本来の姿においては、
私たち本来持っているものによっては、
神様ご自身に近づくことができません。
しかし、
イエス様の十字架、
その贖いがよりどころとなり、
聖霊により約束の承認を受け、
そのことのゆえに、
神を父と呼べること、
いつでもどこでも、
あるいは一つの体として、
教会として、
神様に近づくことができる、
その幸いを感謝いたします。
どうかその素晴らしさ、
祝福を、
私たちが日々の歩みの中で、
また教会の礼拝の中で、
さらに深く知ることができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではどうぞ皆さん、
それぞれ1分ほどですけれども、
御言葉に応えて、
黙祷する時間を持ちましょう。
25:52

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