2022-11-06 26:22

#131 私たちのうちに働く神 22/11/6

ピリピ-13 からの礼拝説教。2022年11月6日録音。今日の箇所でもキリスト教の有名な名言に触れることができます。それは13節の素晴らしい約束で、私たちに確信を与える宣言です。一方12節はキリスト教会内で難しい議論を生みました。そのような個所ですが12,13節から1.自分の救いを達成するとは、2. 従順について、3.私たちのうちに働いて下さる神様の3つの点から学びましょう。
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フィリピ人への手紙2章12節13節
こういうわけですから、愛する者たち、あなた方がいつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて、自分の救いを達成するよう努めなさい。
神は見心のままに、あなた方のうちに働いて、志を立てさせ、ことを行わせてくださる方です。
以上です。 今日はこのところから、私たちのうちに働く神と題して見言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 早いものでも11月になりました。今日は、久しぶりに
お山さんも礼拝に集って共に 参加できることを嬉しく思います。これからも引き続き祈ってまいります。
さて、本題に入りますが、 今日の箇所にも、キリスト教聖書で最も有名な言葉の一つが出てきます。
後でも見ます。それは13節です。 それは、素晴らしい約束で、
私たちの クリスチャン生活に確信を与える力強い宣言です。
その上で、その前の12節は時々、キリスト教会内で難しい議論を生む言葉です。
そのような中ですけれども、この2つの節から3つのことを今日学んでいきます。 まず最初、自分の救いを達成するとは、それはどういうことか。
ちょっと前にもありますが、読める方はこちらを読んでみましょう。
こういうわけですから、愛する者たち、あなた方がいつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、
恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。 この恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさいということを見ていきます。
恐れおののいてというのは、別に神様を怖がってという意味ではないんです。 これは簡単にだけ言っておきますけれども、
旧約聖書の伝統から受け継がれている言葉で、神様に威風の念を持って、
聖なる恐れを持って偉大な神様、強い神様だという、そういう聖なる恐れを持って恐怖ではなく、尊敬とかですね、
そういうような気持ちを持って、ということなんです。 自分の救いを達成しなさいと言うとですね、じゃあイエス様信じて、あるいはバブテスマを受けた後、
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自分の救いを達成できなくて失うのか、そういうことをですね、議論されてきた、そういう背景があるんです。
でも簡単に言いますが、そういうことではないんですね。信仰を失うとか、失わないように頑張りなさいとか、
そういうことではないんです。 それを理解するために、今まで何度も言っていました。
こういう救いの考えです。私たちイエス様信じたものは、もう救われているが、まだ救いは完成していない。
このもうとまだという意味です。もう救われているというのはですね、こういう意味です。
私たちはこのイエス様、十字架のイエス様をですね、自分の罪の身代わりのために、神に罰を払ってくださった十字架だ。
それを信じるとき、そのイエス様を信じるときに、私たちはもう救いが始まるんです。どういうことか、
この目に見えない神様と、なんて言うんでしょうかね、親子の親子の関係を回復する。
そういう意味で救われました。もう一つ、例えば本当はあっていけません。でもこのコロナの時代、なんかね、昨日
ある医者が書いた本を読んで久しぶりに、なるほどと思ったんですけど、コロナになって人がいっぱい死んでます。
それはですね、戦争で人が死ぬよりずっと多くの人がコロナで今まで亡くなったって言うんですね。
今本当は生きていけないんですけど、いつ自分の命が亡くなるかわからない。そういう状況で万が一ですね、自分の命が
今日終わってしまったとしても、イエス様を信じていれば、私たちは確実に永遠の命をいただくことができる。
体の命が終わってもですね、厳密ではないんですけど、簡単に言うと天国に行くことができる。
そういう意味で私たちはもう救われているんです。それを覚えていてください。でも、パオロがここで言いたいことはですね、その前提で
私たちはもう救われているが、まだ完成していないという、そういう面があるんですね。
その前提でパオロは12節で、自分の救いを達成しなさいと命じているんです。実はこの
自分の救いを達成しなさいという言葉はですね、しばらく前に学んだ1章27節のこの言葉と似ているんですね。読める方はこれちょっと読んでみましょう。
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。 これは
詳しく言語に基づいて訳すと、キリストの福音の市民として、ローマ市民であるけれども、福音の市民を、権を持った者として、福音の市民らしく生きなさいという意味でしたね。
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それをですね、元に2つを合わせて、こう言い換えることができるんですね。今日のパオロの
遺体教え。 あなた方はもう救われているのですから、その救いにふさわしく、この地上で
福音の市民として生活しなさい。 完全に罪が許されて、心からですね
清くなる。それは天国で完成します。死んだ後、完成します。 ですから、この地上の生涯できている間、もう救われているんですから、それにふさわしく、この地上で福音の市民として生活しなさい。
そういう意味で、自分の救いを達成しなさい。 と、パオロはここで教えている。そのことをまず捉えておいてください。
2番目。じゃあ、そこでもう少しパオロが言っているんですけど、 従順についてですね。この12節をもう少し詳しく見ると、こう書いてあります。
こういうわけですから、愛する者たち、あなた方がいつも従順であったように、 私が共にいる時だけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、と言うんですね。
だから、救いを達成する、 救いにふさわしく生きるということの中には、
従順、 神様の御心に従って生きるということが
意図されているわけなんです。 ちょっと余談になるかもしれないんですけども、この2章の12節とさっき言った
福音にふさわしく生活するという27節、一緒に27節には共通の問題があるんですね。課題が。それは
パオロがいた時だけではなく、パオロがいない、 不在の今こそイエス様に従いなさい。
この時、パオロはローマの ローマの国中にいたんですね。
かつてフィリピで教会が生まれて、その間 フィリピの教会の人たちは、パオロの下、神様にイエス様に従って生きていた。
今は一緒にいないけども、いない今はなおさら イエス様に従いなさいよ、とパオロが言ってるんです。
さっきの27節、 一緒に27ではこう言ってるんですよね。
福音の市民にふさわしく生活しなさい、そうすれば 私が行ってあなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方について
こう聞くことができるでしょう、ということで ここでもですね
パオロがいない間でも イエス様に従いなさいよ、ということが強調されているんです。
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このことで、私あることを思い出したんですね。
これちょっと小学生に見えませんけど、小学校で 私の小学校は授業始まるチャイムでした。
キーンコーンカーンコーンってなる。 先生が来るわけですよね。
そうすると、普通は教室でみんな座っているんです。 でも先生がなかなか来ない時がありますよね。
そうするとどうなるかというと、ザワザワザワザワ 雑談が始まって、教室をみんな歩き回ってですね。
ある時、ひっちゃかめっちゃかんなんですね。 で、そうする時にある人が立ち上がって先生が来たと言うと、急いで席に戻って
シーンとこうなる。そういうことを思い出すんです。 それがですね、ある時やっぱり似たような時が起こって
先生が来なくてザワザワザワザワ教室がして、みんな歩き回ってですね、賑やかに。 やっぱりある人がですね
廊下から来て、先生来た! みんなザワザワザワと席に戻って、シーンとするんです。
その時にその人が嘘って言うとですね、 みんななんだよーって騒ぐんですよね。
何が言いたいかというと、先生がいるとみんなしっかり 言うことを聞くみたいな。そういうことがこの話にあるんですけれども
パウルはですね、この今の例えのように、自分がいる時、 パウロ先生がいる時だからイエス様にみんな従うんじゃなくて、私がいない時も
みんな自分の意思で、自分の願いでイエス様に従ってくださいということを パウルはここで言っているんですね。
自発的な従順ってことです。 ただこの従うという
従いなさい、従順になりなさい、従うということ。 それはですね
ルールや規則を守るということじゃないんです。 ある人は聖書はルールブックだと思って、聖書に書いていることを一言一句守ろうとします。
それも大事かもしれませんけど、そういうことじゃない。 そのルールを守らなければ救いを失うというような書物が聖書ではないんですね。
この従うというのは そういうことじゃなくて
ちょっと難しいかもしれませんが、従う相手との人格的な関わりとか、 人格的な信頼関係が伴うものなんですね。
さっきの学校の話で言いましたからあえて言うと、 自分がすごく好きな先生が言った言葉には喜んで生徒は従うわけですよね。
その信頼関係が従うことには前提なんです。 だから
クリスチャンである私たちはですね、イエス様を救い主として信頼して、 イエス様の御心を生きることが何よりも幸いな人生なんだと
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そう信じて生きること。 それがイエス様に従っていくあり方だ。
その土台で、 イエス様の御心を生きるために、イエス様ともっと信頼関係を築くためにどうしたらいいかということで、
聖書の言葉を通してイエス様神様を知って、 そしてその聖書を通してイエス様の御心を知って、 そのイエス様の御言葉に従って生きる。
これがこのクリスチャン生活の醍醐味とか基本なんですね。 パウルはそのような
イエス様を信頼して、 自らあなたは救いを達成すべく、イエス様の御心に従っていきなさいと教えています。
ちなみにですね、これからもうちょっと詳しく見ていくんですけれども、 パウルはその中でも特にですね
フィリピンの教会、クリスチャン同士が 相手を敬うこと、
虚栄心を捨てて相手を敬うこと、 そして自分自身の欲望とか好き勝手求めるんじゃなくて、
相手のニーズを優先するようにお互い使い合うように生きなさい。 イエス様のそのようなモデルを見なさいということを命じているんですから、
そういうお互いが減り下って、使い合って、 教会が一致するってことを一つの大事な、
神の御心、イエス様の御心としてパウルは実は語っているんです。 それは今詳しく見ませんけれども、
最後の点。 その中でとても大事なことがあるんです。 それは私たちの家に働いてくださる神様ということです。
これを読んでみましょう。 神は御心のままに、あなた方の家に働いて、
志を立てさせ、ことを行わせてくださる方です。 これはですね、聖書の中でとても有名な言葉の一つですので、覚えていくと良いかと思います。
イエス様に従って生きる人生、 十字架を背負って生きる人生って聞くとですね、
重荷に感じるかもしれません。 神様に従う人生、窮屈に感じるかもしれません。
でも、そうではない。 ここでパウルが教えていること、
それはですね、 後でも言いますけれども、喜びの秘訣でもあるんですね。
さらに、神の御心を行う上で素晴らしい約束がこの言葉に込められています。 それは、
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私たちが神様の御心に従えるように、神様が私たちの中に直接働いてくださいますよ、という約束です。
大事なことはですね、 聖書はですね、あるいはパウルはこういうことを教えていないんです。
日常生活において、 神様が私たちに代わって何かをしてくださるとは教えていません。
例えばですよ、仕事をサボっていて良い結果が得られることはないし、 勉強をサボっていて良い成績が取れることでは違うわけですよね、わかりやすく言うと。
そういうことじゃなくて、 神様というのはですね、
私たちが何かをできるように、 私たちの中に働いてくださる。
言い換えれば、 聖霊なる神様が私たちの中で働いて、
私たちが神様の御心を行えるようにしてくださるんです。 難しい言葉で言うと内発的な動機を与えてくださるんです。
言われて仕方なくやるんじゃなくて、 内側から本当にやりたいという思いを神様が与えてくださるって言うんですね。
しかし大事なことはですね、神様の絶対的な確証があって、 その前そのことがですね、この御言葉からわかるんですね、それは実は
この日本語でも 新しい聖書ではなってますけど、
13節の言葉のですね、一番最初に神という言葉が来ているんです。 他でもない神様が
あなた方の中に働かれるんですよということで、 神様が私たちに働いてくださるという確証がパウロによって力強く
語られているんですね。 この短く言い換えると、
神は ご自分の身心のままに、あなた方のうちに働いて
志を立てさせるお方です、というふうに読むことができるんです。
神様が志を立てるって一体どういうことか
神様が志を立てるというのはですね、どういうことかというと、 失礼します。
神様が 私たちの中にですね
やりたいという意志を与えてくださるということなんですね。 先ほども何回も言ってますけど、精霊が私たちの中に働いて、私たちの中に
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新しい願いが生まれる。 そして
神様の御心を行うということが優先、 大事だという、そういう願いを心の中に起こしてくださるんですね。
私たちを借り立てるという言い方もできると思います。 だからフィリピンの教会で言えばですね、パウロ先生がいなくても、先ほどの教室の例で言えば
学校の先生がいなくても、自らこの良いことをしたいと思う願いを神様は心に与えて くださるということなんですね。
で、この
願いということですね、英語ではですね ニューディザイア・トワード・ガードって言って
デザイアーっていうのはですね、時に欲望とかですね、力強いこの執着とかっていうことで 訳されるんですけど
それが良い意味で新しい 願い
どんな願い? 神様に対する新しい願いを
神はあなた方の中に働いて起こしてくださるんですよ。 ちょっと字が間違えましたけど、神に対する新しい願望が起こるって言うんですね。
その意味である学者は、こういうふうにこの事態を説明しています。 キリストのものであるということは、言い換えればクリスチャンであるということは
真の意味で戒心するということであり、心が変わるということであり、それは 神の精霊によって人生が支配され
単に新しい行動を起こすだけでなく、さっき言ったルールに従うだけではなく そもそもその行動を促す
神への新しい願望を持つようになるということである。 ただルールを守るんじゃなくて
神様に従いたいというそういうアクションを行う 新しい願望
神様に喜ばれたい、そういう新しい願望を 精霊によって与えられると
ある学者は言っているんです。そして続いて13節は 神は見心のままにと言っています
見心のままにあなた方のうちに働いてことを行わせてくださる ちょっと前後しましたけれどもこの見心のままにあなた方のうちに働いて
見心のままにあなた方のうちに働いて 神はことを行わせてくださるお方です
今志を立てるということを言ったんですけども 今度は神様が働いて私たちをに行動に借り立てる
何かを意思を与えてそして
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良い行動を 起こせるように神が働いてくださるというふうにパオロは続けているわけです
そのように私たちの中に神様が働いてくださって 神に対して従いたいという意思を与えてくださって願いを与えてくださって
そして 私たちは神様の見心に向かって行動するようになると
パオロは教えているわけです その上でこの13節の初めの
神や見心のままにという言葉 この言葉はですね
神の喜びのためにという言葉なんです ちょっと脱線しますけどあのクリスマスで有名な
天使が現れる場面がありますねいっぱいありますけども アラノで羊が夜晩をしているときに
天の軍勢が現れるその時に 地の上に平和が
天には神に栄光が地の上には 神の見心に沿った人に
平安がありますようにっていう言葉のな ですねこの
神の喜びの人の上にっていうそういうギリシャ語なんですエウドキア まあそれはさっきおきまして
神の見心のままにっていうのはですね 神の喜びのために
という言葉なんですね それはですね
精霊が 私たちの中に働いて私たちを良いことに借り立てるその
究極的な目的は 神様がそれによって喜びたいという
神の喜びのために神は私たちの中に与えてくださるんだっていうそういう信仰が 込められているわけと同時にこの喜びのためっていうのはですね
私たちの喜びのためでもある私たちが 精霊に促されて神の見心を行うとですね
行った私たちにも神の見心を行うことによってこの喜びが訪れる そういう
信仰がこの言葉に込められているわけなんです そしてさらにですね大事なことは
この神様はですね私たち一人一人の中に働いてくださるんですけどもそれだけじゃ なくてこの私たちの交わりの中に働いてくださる
そして私たちの教会の交わりの中にも神が働いてくださることによって 神様は私たちを神の家族として築き上げてくださる
そして ずっとここでも述べられてきましたように私たちの教会が神の栄光
神が素晴らしいということを表す教会としてくださるんですね そのように神様は信じる私たちの中に精霊によって働いてくださる
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だけではなくてこの私たちの教会という交わりの中に精霊によって神は働いて くださって
良いことを行わせてそして神の素晴らしさが私たちを通して教会を通して 表されて神も私たちもともに喜ぶものになる
それが神の御心であるということですね そのことを信頼してですね
神様に 信頼しながら神様の御心をこない
イエス様に従っていくお互いでありたいと思います 最後にもう一度ですねこの今日に関連する2つの大事な聖書の言葉を
読んで終わりにしましょう 2章13節もう一度言いましょう
神は御心のままにあなた方のうちに働いて 志を立てさせことを行わせてくださる方です
今度は前見た一章6節ですね3はいあなた方の間で良い働きを始められた方は キリストイエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると私は確信しています
お祈りしましょう 天皇父なる神様あなたのお名前を賛美いたします
あなたは私たちの中に精霊を送りあなたの御心に従いたいという強い思いを与えて くだされそのことを知ることができて感謝します
どうぞその約束通り私たち一人一人の中にまた教会の中に御精霊様が与えてくださって あなたの御心をこないそしてあなたに栄光を表すお互いであり
教会となりますよ この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それではお一人お一人1分ほど神様の言葉に応えて黙祷する時間をとってください
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