2021-09-12 26:51

#72 21/9/12 3つの祝福

エペソ3:1-7 の礼拝説教。2021年9月12日録音。2000年前に書かれた言葉から、4000年前約束されて今に至る祝福について、3つの点から学びましょう。どうかこの祝福が、1年先も(明日さえも?)わからない今を生きる私たちの糧となりますように。
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エペソービトへの手紙3章1節から7節
こういうわけで、あなた方、違法人のために、私パウロはキリストイエスの囚人となっています。
あなた方のために、私に与えられた神の恵みの務めについては、あなた方は既に聞いたことでしょう。
先に短く書いた通り、奥義が啓示によって私に知らされました。
それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかが、よくわかるはずです。
この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、
今は、見た目によってキリストの聖なる人たちと預言者たちに啓示されています。
それは福音により、キリストイエスにあって、違法人も共同の相続人になり、
共に同じ体に連なって、共に約束につながるものになるということです。
私は神の力の働きによって、私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕えるものになりました。
以上です。
今日はこのところから、三つの祝福と題して、三子たわを取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
9月も半ばに差し掛かろうとしております。
昨日は9月11日で、アメリカのドウジタ初テロから20年ということで、ニュースでもさまざま式典などをやっておりましたけれども、
あれからもう20年か。
10年前は、東日本大震災がありましたね。
今、コロナ禍において、来年もわからない私たちや、もしかしたら1週間先、明日もわからない私たちにとって、
10年前、20年前、こんなことがあったんだということを振り返るときになったのではないでしょうか。
そんな中で、今日は2000年前にパウロが書いた手紙から共に学んでいます。
今日の2節から6節で、パウロが大切にしている言葉が出てきます。
前にも掲示しましたが、奥義が掲示によって私に知らされましたという言葉です。
どういう意味かというと、それは隠されていたことが明らかにされるという意味なんです。
この日本時間の水曜日ですか、アメリカでアップル社が新しい製品を発表すると。
iPhone 13が出るんじゃないかなんて話題になっていますが、こういう新製品が出るときに前もって告知をしますよね。
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特に車なんかは、この間はフェアレディZを新しくこれから開発しますというニュースが出て、
だんだんどんなものかが明らかになって、そして製品発表の当日にその実物を見てみんな驚くわけです。
同じように聖書も旧約時代に、例えば救い主が来るよという約束があって、
それがだんだん預言者たちによって明らかにされて、そしてパウロに、
聖霊によって明らかに、それはイエス様だということが明らかになって、それが今の私たちに伝わってきている。
これが奥義が啓示によってパウロに知らされているということなんですが、
その中でも今日は特に3章6節の言葉に注目して、3つの点から学びたいんですね。
この3の6を読める方は読んでみましょうか。
それは福音により、キリストイエスにあって、違法人も共同の相続人になり、
共に同じ体に連なって、共に約束に預かるものになるということです。
もう一つの奥義、パウロがここで明らかにしていることは、
これまで何回も言ってきましたが、違法人が神の民になったという奥義です。
それは旧約時代にはありえないことだったんですね。
だからユダヤ人のクリスチャンも、違法人がクリスチャンになったら、
活霊を受けなさい、立法を全部守りなさい、旧約聖書の掟通り生きなさいという人が起きてきて、
圧力が起きたんですが、そういうものが取っ払われて、
3つの共にという鍵で祝福が表されています。
共同相続人、共に同じ体に連なる、共に約束につながる。
これ全部元のギリシャ語では、いつも私が言っているシンクロナイズスイミングのシンですね。
この由来となったギリシャ語のシュン、S、シグマとNですが、
その言葉が頭についた一つの単語なんです。
ちょっと余談になりますが、この共に同じ体になる、
シュンソーマ、シュンソーマというのはですね、
パウロのこの言葉でしか一回しか出てこないんです。
どのギリシャ語の文献を見ても。
そういう珍しい言葉なんですけれども、
この共にという言葉でパウロは、
明らかにされた奥義、違法人、エピソードの人の私たちも
一緒に神の旅になったという祝福を語っているわけです。
聖書の大事なことは、旧約の廃棄を皆さんが捉えることなんですけれども、
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その一つ、この祝福の約束の根拠になる大事な見言葉があるので覚えておいてください。
それはアブラハムが最初に与えられた約束の言葉です。
創世紀12章3節。
読める方は読んでみましょう。
あなたを祝福する者を私は祝福し、
あなたを呪う者を私は呪う。
地上のすべての民族はあなたによって祝福される。
このアブラハムに与えられた祝福が、今私たちに成就している。
これはですね、今から4,000年前に与えられた約束です。
私たちは明日どうなるか分からない身にありますけど、
この4,000年の歴史の中でですね、今私たちがこうやって生かされているということも、
選ばれているということも、今を乗り越える力になるのではないかなと思います。
ちょっと余談になりましたけれども、
それでは3つの点の1つ目。
最初の祝福は、この祝福の内容を見てきますけれども、その祝福は、
御霊が与えられる、つまり、
共におられ、智慧を与える神様の約束という言葉です。
それはですね、アブラハムの祝福の第一番目は、
精霊が与えられているということなんです、私たちに。
違法人にも精霊が与えられた。
さっきも言いますが、違法人ではありませんが、
まずパウロに精霊が与えられて、神の福音の釘が明らかになった。
それが私たちに伝わってきたということが全体にありましたけれども、
その上で、精霊と私たちの関係ということをぜひ覚えてください。
何かも言いますが、パウロの時代のユダヤ人の神の民の常識からすると、
エペソの人々や、私たちも含めた違法人、
どうしても違法人というのは、私は昭和の人間ですから、
久保田さっき思い出したんですけれども、
違法人がですね、精霊を受けることなんていうのは、ありえないことだったんです。
なぜか、旧約聖書の時代は、ユダヤ人どころか、
ユダヤ人の中でも特別な人だけ、
ダビデのような王様とか、イザヤやエレミアのような預言者、
先民を導く特別な使命を持った人だけにしか、精霊は下らなかったんです。
それが今や、ユダヤ人やオロカ、
違法人の私たちにも精霊が与えられたというのは、ありえない恵みなんですね。
使徒の働きの中、ペンテコステの説教で、
ペテロは不思議がっている人々にこのような約束を語ります。
使徒の2章、17節から18節。
神は言われる、終わりの日に、私の霊を全ての人に注ぐ。
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すると、あなた方の息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、私の下辺にも端目にも、私の霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
難しい言葉を抜きにしてですね、
神様の言葉を語るということが、精霊が与えられた確かな証拠だということで言っているんですけど、
大事なことは、いろんな人が書いてありますね。
老若男女、今で言うダイバーシティですね。
ここで言うのは、全ての人に例外なくイエス様を信じたら、
精霊が与えられるということを言っているんですね。
神ご自身の精霊が、信じる私たち一人一人の中に宿る。
それは、ありえない特権でした、当時。
また、先週ちょっと話しましたが、
神のミヤである私たちの霊廃の中に精霊が宿るということも、
ありえない特権だったんです、当時からしたら。
その驚きを今の宗教的事情に例えるならば、こういう風に言えるかもしれません。
今、いろんな宗教が神様との関係を良好にするために、
お金を払いなさいとか、修行しなさいとか、
あなたの身を極めなさいと言いますよね。
修行して、打ち叩いて。
しかし、そうではない。
私たちはイエス様を信じて、罪があがられる。
それだけで、神様ご自身、精霊が私たちの中に住んでくださるんです。
苦行しなくても。
また、精霊はイエス様の言葉を私たちが理解できるように、
知恵を与えてくださいます。
いろんな宗教、それもですね、やっぱり高額なお金を払ったり、
この本を買ったら、なんとかなんとか言いませんけどガードが立つから、
ORっていうね、頭文字。
本を買ったら、知恵が与えられるよとか。
お金を払って厳しい修行すれば、神の知恵が与えられるよ、
神のことが分かるよって言うんですけど、そうではない。
私たちはイエス様を信じたら、神の知恵である精霊が与えられるんですね。
さっきまで、この間学んだエペソの1章の17、18提はこうありますよね。
どうか私たちの主イエス・キリストの神、すなわち、
栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなた方に与えて下さいますように。
イエス様を信じるだけで、精霊が与えられて、
聖書の言葉、神のことが自分のこととして分かる。
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それが、精霊が与えられているという祝福です。
ぜひですね、この、いわゆるこの素晴らしい恵み、
精霊が与えられているという祝福の恵みやありがたみをですね、
よくよく考えて、自分のものと、また捉えていっていただきたいと思います。
では2番目。2番目はですね、義人とされる祝福。
最後の審判の安全保障という祝福なんですね。
この御言葉にあるように、アブラハムの祝福はですね、
神が違法人をその信仰によって、義と認めてくだれるということなんです。
まあ説明しますが、こういう言葉ですね。
聖書は、神が違法人をその信仰によって、義と認めてくださることを前から知っていたので、
アブラハムに対し、あなたによって全ての国民が祝福されると前もって福音を告げたのです。
ちょっとこれ読んでみましょう。読める方。3、はい。
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人、アブラハムとともに祝福を受けるのです。
昔は、神の立法を守って、立法を破ったら、生贄の動物を殺して義とされたんです。
でも今はそうじゃない。イエス様を信じることによって、違法人でも義と認められている。まさにそれが福音なんです。
これがね、どれほどすごいことか。マイナス面を見ると分かります。
このガラティアの3章の10節、続きを見るとそれが分かるんですね。
ちょっと厳しい言葉、読める方読んでみましょう。3、はい。
というのは、立法の行いによる人々は、全て呪いのもとにあるからです。
こう書いてあります。立法の書に書いてある全てのことを過酷たく守って実行しなければ、
誰でも皆呪われる。旧約聖書はこういう基準だったんです。非常に厳しいわけですね。
しかし、このイエス様が来る前は、立法を固く守って実行しなければ呪われる。そういう時代だったんです。
しかし、今は信仰義人という言葉があるんですね。この信仰義人。覚えていてください。信仰義人。
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ある学者は、このイエス様の贖いについてこう解説するんですね。
この義人は、最後の審判の時の贖いの保障になっている。最後の審判の時の救いの保障になっているっていうんです。
つまり、私たちはイエス様を信じたその瞬間から、イエス様の十字架の効力を自分のものとして、罪が贖われます。
その効力は、私たちの生涯続くわけです。
在籍官が心に湧いてきたら、イエス様は罪を犯しました。十字架によって許されていることを感謝しますと祈ってください。
でも、贖いの効力があるから、そう祈っても許しを体験できるんです。
とにかく、生涯イエス様の十字架の贖いの効力が続いて、私たちがこの世の旅路を終えて、万が一神の前に立たされて、
最後の審判を受けたとしても、私の罪はイエス様の十字架によって贖っていただきました。
それだけで、私たちは最後の審判から免れる、永遠の命を、まさに本物の永遠の命を手にすることができるわけです。
私は18歳の時、イエス様を信じてクリスチャンになったんですが、それまでどうやったら自分が神の前に正しく生きるのか、
自分が簡単に言うと、良いこともすれば悪いこともいっぱいするので、正しい人間か良い人間か悪い人間か分からなかったんですね。
自分の嫌なところを見つけては、自分ってダメだ、悪い人間だと落ち込んでいました。
イエス様を信じた後も十字架が長いのが分からなくて、良いことをして神の前に点数稼ぎをしていたんですね。
でもある時、イエス様の十字架、私が本当は死んでお詫びしなければいけないんだけども、
イエス様が十字架の上で死んでくださったから、もう私は自分の罪のために、
神の前に良いことをしなくてもいいんだということが分かって、心に平安を得たわけです。
それはですね、実行しなければ、固く守って実行しなければ呪われるって書いてあるわけですから、
良いことをして神に祝福されようとしたらですね、呪われる経験しかできないわけなんです、不完全ですから。
何回も言いますけれども、このような人間の罪の弱さを知ってますから、この世の世間一般の宗教やカルトはですね、
そういう消えない罪跡観に、なんていうんですか、それを指摘して、
あなたがお金いっぱい払えば、良いことをすれば、組織の言う通りすれば、あなたの心は100%、
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良心の過剰に悩むことがないですよ、ということをずっとですね、言い続けて信者を縛るわけです。
しかし、私たちは、たとえ心にですね、攻められるところがあっても、
イエス様の恵みがあるから、私たちは心に平安を得ることができるんです。
この福音がですね、3章13節に書いてありますね、ガラティア3の13、読める方、読んでみましょう。
3、キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちを立法の呪いから贖い出して下さいました。
なぜなら、木にかけられるものは全て呪われたものであると書いてあるからです。ガラティア3の13。
呪われたものはですね、木、十字架にかけられるって言うんです。
でも、罪ないイエス様が私たちに代わって十字架の上で呪われて下さったから、
それを信じる私たちは、その呪いから解放されるっていうのが福音です。
今日のその共にの中でですね、共に一つの体になるっていう言葉が特に表してるんですけど、
イエス様を信じたら私たちはイエス様と一つになるんです。
つまり私たちはイエス様と一緒に十字架にかかって死んで、
この立法の呪いの罰をイエス様と一緒に既に受けたことになるんです。
そしてイエス様と共に蘇って、罪なき者として歩むことができるわけなんですね。
どうぞ皆さんもう一度ですね、イエス様を信じたがゆえにイエス様と一つとされ、
また神の民として一つとされてですね、神様の前から全く義とされている、
信じるだけで救われる信仰義にその祝福をもう一度かみしめてみてはいかがでしょうか。
これは2番目です。最後3番目の祝福です。
世界が与えられるキリストと共に新しい世界を支配するという約束なんですね。
冒頭に見たアブラハムの約束、
そのもう一つの大きな内容はですね、約束の土地に入るということなんです。
約束の地、聖なる地、今詳しく言わないですし言うすぎると角が立つので言いませんが、
今、いわゆるイスラエルで色々揉めていますよね。
それはその約束の地をどうやって解釈するかで揉めているわけです。
ユダヤ人のものだとね。
でも旧約聖書の不完全な経時ではですね、文字通りカナンの地が約束の地だったんですが、
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新しい時代、新しいこの経時、新約時代の意味はですね、
それは象徴であって、実際の本当の約束の地は全世界だと言うんです。全世界。
それはもっと言うと、贖われた新しい全世界が神の民の約束の地になるということなんです。
それはですね、前の説教、7月18日にしたエブソ1章13、14の説教で触れた
宇宙規模の贖い、宇宙規模の相続という言葉と関係しています。
それを別の観点から見ることが今日の御言葉でできるんですけれども、
共に相続する、今日の約束の共に相続する、そして共に約束に預かるという言葉と主に関係しているんですけれども、
共に約束の地の相続人になって、共にそれを受け継ぐ約束に預かるものと、
私たち日本人もなったという、そういう祝福の約束です。
その約束の土地、それは全世界であってどういうことか、もっと詳しく直接的に言うとですね、
私たちがやがてイエス様と共にこの世界を支配するものになる、そういう驚くべき約束なんです。
つまりこの世界がすべて贖われる時、新しい天土地ができる時、私たちはイエス様と共にミザにつけられたと約束されていますけれども、
本当にイエス様と一緒にミザについて、イエス様と共に新しい世界を支配することになるんですね。
その約束、それが聖書の目史読の20章の6節と22章の5節に書いてありますね。
ちょっと読んでみますね。
この第一の復活に預かるものは幸いなもの、聖なるものである。
イエス様が再臨した時とか、死者の復活に預かる私たちですね。
この人々に対しては大の死、最後の審判は何の力も持っていない。
ちょっとここから読んでみましょう。
彼らは神とキリストとの祭祀となり、キリストと共に千年の間王となる。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らには灯火の光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である。
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実はこれがどういう状態か私たち今、それこそまだ隠されていてわからないんです。
でも確実に言えることは、何らかの新しい世界が、いろんな災害や原発の問題ある世界が全部あがなわれて、宇宙全部があがなわれて、
そしてその時にイエス様を信じる私たちは何と、イエス様と共に千年というのはおそらく象徴的な言葉だと思うんですけど、
イエス様と共に永遠に王となる。
意味がわからない。わけがわからないんです。
でもこれ本当なんですね。信じ難いことですけども、このことは真実なんです。
ぜひ皆さんそれがどういう意味か、今の自分にとってどういう希望なのかを考えていただきたいんですね。
その壮大な約束を見据えることが、今神様にあって困難な時を生き抜く希望になったり、糧となることもあるわけなんです。
時間と歴史の流れを超えた、壮大な神様の祝福について話をしました。
私の言葉にも限界がありますけれども、どうぞ聖霊なる神様が皆さんにこの素晴らしさを明らかにしてくださるよう願っています。
それではお祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたの壮大な祝福の約束、それはかつて隠されていましたけど、今明らかにされ、私たちに神の旅の祝福を与えられていることを感謝いたします。
しかし、今なおまだまだ私たちが理解できないこと、私たちに隠されていることがございます。
どうぞ聖霊なる神様が、その確証やその祝福、また私たちが生きる意味での、上での糧として、
それらのあなたの祝福を、私たちが味わい、理解し、つかみ、この地上の旅路を歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
この言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらく一分ほど時間をとって、神様に答えてお祈りしましょう。
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