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ルカの福音書2章1節から16節、クリスマスイエスキリストの誕生の出来事です。
その頃、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アグストゥースから出た。
これは、キリヌースがシリアの総督であった時の最初の住民登録であった。
人々は皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
ヨセフもダビデの家に属し、その地筋であったので、ガリダヤの町ナザレからユダヤのベスレヘムというダビデの町へ登って行った。
身をもになっていた、いい名づけの妻マリアと共に登録するためであった。
ところが彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて男子の産子を産んだ。
そしてその子を布にくるんで貝羽桶に寝かせた。 宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜晩をしていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。皆さん、私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。
今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ている緑子を見つけます。それがあなた方のための印です。」
すると突然、その御使いと一緒に、おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛礼した。
糸高きところで、栄光が神にあるように、地の上で平和が御心にかなう人々にあるように。
御使いたちが彼らから離れて、天に帰った時、羊飼いたちは話し合った。
「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださった。この出来事を見届けて来よう。
そして急いで行って、マリアとヨセフと貝羽桶に寝ている緑子を探し当てた。」
以上です。 今日はこのところから、
クリスマスの救い主、クリスマスの救い主と題して一緒に見ていきます。
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みなさん、おはようございます。 また改めまして、クリスマスおめでとうございます。メリークリスマスです。
すみません、何かうまく言えないんですけど、本当に今日クリスマス、たまたまクリスマスイブですけれどもね、日曜日にあたりまして、
そして今日はコロナが明けて初めてですね、3年ぶりぐらいなんでしょうか、4年ぶり、3年ぶりでしょうか、
クリスマスの軽食会もこの後ございます。本当に喜びを皆さんで分かち合いたいと思います。
さて、今日のクリスマスのお話ですけれども、 一番大事な今日の聖書の言葉、
それはですね、今日の2章の10節から11節の言葉です。 天使が羊飼いたちのところに現れて、こう言いました。
虫は無視できない。 天使がですね、「見つかりはカエダに行った。」
恐れている?羊飼いたちに。「恐れることはありません。 皆さん、私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。」
ここから読める方、読んでみましょうか。3、はい、「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお招きになりました。
この方こそ主キリストです。」 実は、
この天使に告げた、天使が羊飼いたちに告げた、この言葉は世界で一番最初の、しかも最も大事なクリスマスのメッセージなんですね。
で、クリスマスをお祝いする、そしてプレゼントを交換する、それはなぜか、それは神様が私たち人間に救い主というお方をプレゼントとしてこの地に使わせてくださったから。
そういうことなんですね。 で、
この生まれた赤子こそイエス様ですけれども、この方こそ主キリストですと言っています。 この主というのは簡単に言いますと、
誠の神ですよ。そしてキリストですというのは、キリストというのは救い主のことを言います。 ですから、この生まれた赤ちゃんこそ神であり、私たちの救い主です。
ちょっと専門的なことを言いますと、大きな喜びを告げ知らせます。 喜びを告げ知らせるというのは、一つのギリシャ語でユアンゲリゾマイという言葉で、
このユアンゲリオン、エヴァンゲリオンというアニメもありますけど、福音という意味です。 福音を知らせます。ということで、その福音とは何ですか。
それは救い主、キリスト救い主がお生まれになったということです。 このところから、救い主と私たちの関係について3つ、なぜイエス様が私たちの救い主かということを3つ考えていきたいと思います。
まず最初ですね、失礼しました。
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これはちょっと、一番皆さんのレジュメにありますけど、なぜか、まず私たちを助けてくださる救い主、イエス様はそういう方なんだって言うんですね。
聖書の中にこういう言葉があります。 神は我らの避け所、また力、苦しむ時そこにある強き助け。
こうあるんですけども、新約聖書のイエス様の記述の場面には、いわゆる癒し、病気を治すというところが出てきます。
すごく興味深いのは、病気を治す、治ったという言葉、癒すや治すという言葉は、救うや救われるという言葉に置き換えられて使われているんです。
イエス様が病気が治ったある女性に、あなたの信仰があなたを治したのですって日本語で訳されているんですけども、
あなたが私を信じたからあなたは治ったんですっていうことで言ってるんですけども、もともとのギリシャ語では、あなたが私を信じたからあなたは救われたのですっていうことなんです。
病気の癒しと救いが同じこととして考えられています。
これは今こういうことが起こるのかということとはまた別にもっと大事なことを表しているんですね。それは何か。
それはイエス様が救い主であるというので、それはイエス様は私たちが必要な時に必要な救いの手を差し伸べてくださる。
イエス様に私たちは困った時に助けを求めることができるということなんですね。
何でも官邸団という人気番組がありますが、その冒頭でですね、ビートルズのヘルプという歌が繰り返されていますね、いつも。
このビートルズのこのヘルプという歌、最初の歌い出し、ヘルプというこの英語がですね、3回続けて叫ばれて、こんなこと言ってですね、日本語で訳すと。
ヘルプ、誰か助けて、ヘルプ、誰でもいいってわけじゃないけど、ヘルプ、誰かの助けが必要なんだと、これを繰り返されています。
この言葉はですね、私たちの気持ちを代弁している。
これちょっと歌詞ずっと読んでいくとですね、若い頃は何でもできると思ったけど、歳を取ったら、そうでもいかないから助けが必要だって歌っていて、歳を取った私には時間は空くんですけれども、何よともあれ、この言葉は私たちの気持ちを代弁しているからでしょうかね。
1965年の発表から、もうすぐ60年経ちますけど、今でも色褪せない名曲になっているんじゃないかと思うわけですね。
神様が私たちを助けてくださる、救い主だという時に、もしかしたら神様やイエス様に救ってくださいって祈るよりも、助けてくださいって祈る方が、私たちにとっては馴染み深いんじゃないかなと、最近気が付いたんですね。
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日々の生活の中で何か困ったことがあったら、是非イエス様を助けてくださいと祈ってみてはどうでしょうか。
困った部屋でひざまずいて祈るとか、そういう形式にこだわらずに、何か歩いている時でも仕事している時でも、言葉に出さなくても心の中でそう言ってはどうでしょうかね。
先週ですね、ある配達に関わっている方がこんなことがあったそうです。毎週同じところに配達行くんですけども、木曜日に電話があったですね、10時頃。
ただ、火曜日に行った先の人から電話があって、フライパンが届いてませんって言うんです。
それでですね、その方はですね、そうですかって言うしかないんですね。お客さんがそう言われたから。
一応他のものをチェックして、いくつも届けられたらしいので、マスクはありましたかとか言ったら、他のは全部あったんだけどフライパンだけないんです。
ご主人が受け取ったんで、フライパンがないなんて、デカいからないなんてことはありえないですっていうふうに言われたそうなんですね。
その方はですね、10時半頃そういう電話を受け取ったんですけども、近所にも一緒に配達行ってるそうなので、
近所の人にですね、その時は電話で2人ですかね、フライパン間違えて届いてませんかって電話したんですけど、ないないないって言うんですね。
仕事がちょっと手が空くのが、10時半頃に電話をもらって、2時頃だったので、2時頃までやきもきしながらですね、別の仕事をしていたわけです。
その間ですね、その人はクリスチャンなので、イエス様助けてくださいって心の中で言ったり、一人で言ってたそうです。
イエス様助けてください、フライパンがどこにあるか教えてくださいってですね、言いながら仕事をしていたんですね。
そしてちょっと仕事の手が空いて、2時頃ですかね、電話が通じないある方のところ、そのないって言った人の近所の家に行って、
ピンポンしたらその方がいてですね、フライパン届いてませんかって言ったら、ないです。
どうしよう、あんなフライパンなくなるなんてことあるかなと思って、まあいろいろやりくる人その後ですね、そのもう1回ですね、
事務所といろいろ連絡を取ってですね、必ずそこに一緒に届けた袋の中に入っているはずだっていうことで、じゃあ勇気を持ってですね、その方の家に行ってみようってですね、その方はその方の家に行ったそうです。
ピンポンしたら、荷物が届いたら旦那さんが出てきてですね、すいません奥さんから電話があって、妻から聞いたよって、フライパンがないって言ってるそうなんですけど、もう1回だけ届けた荷物を確認してもらえませんかねって言ったら、
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なんか玄関にですね、その袋がそのまま置いてあって、パッて見てですね、ティッシュの箱があったんです。なさそうだなと思って、下見たら一番下にフライパンが入ってたんですね。
20センチのフライパンなので、ちっちゃいからわからなかったんです。すいませんなんてですね、その仕事をしている方はよかったって胸を鳴らして、その間中何時間もですね、どうしよう始末しようものかなと思いながらですね、イエス様助けてください、フライパンどこにあるか教えてくださいと言って、その後あったんで、イエス様ありがとうございますと言ってことなきを得たそうです。
それは本当に身近な例で、皆さんにとってはフライパンぐらいどうってことないかもしれませんけれども、何が言いたいかと言いますと、本当に日常生活の中で困ったことがあったら、イエス様助けてくださいと素直に、声に出しても出さなくても、祈ってみてはどうでしょうか。
そういう意味でイエス様は、私たちが困った時に助けてくださる救い主であって、私たちはイエス様助けてくださいと祈ることができる。それが第一の点ですね。
新約聖書の中ではですね、このイエス様が神であり救い主であることを表して一言で、主という言葉で言い換えているんですね。パウロという人がこんな言葉を書いているんです。ローマ人の手紙の中で。
これちょっとミナと読むんですけれども、読めるかと読んでみましょうか。主のミナを呼び求める者はみな救われる。
イエス様を呼び求める者はみな救われる。そう覚えてください。2番目、イエス様が救い主だということは、これは罪を償う救い主だって言うんですね。
ここでいう罪というのは皆さんも知っていると思いますけど、いわゆる犯罪ではありません。私たちの内面に関わること、
思いや心に関わること、難しく言うと倫理的な問題。 もっと言うと神様と私たちの関係に関わるという意味での罪なんです。
それについて聖書やはりパウロが書いた手紙の中で、こんなような言葉が書いてあるんですね。
しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対する
ご自身の愛を明らかにしておられます。 罪人のために
イエス様が十字架で死んだことによって、神はその愛を明かした。 何が言いたいかというと、
私たちの罪を神様に対して償うために、イエス様は十字架で死んでくださったということなんですね。
どういうことでしょうか。 皆さんどうか分かりません。私は少なくとも、
自分で自分の罪を完全にコントロールすることができないんですね。 またもしかしたら私たちは誰かに対して罪を犯してしまった。
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何か過ちを犯したとしても、償うことはできると思うんですね。 一方でも、私たちは神様に対して自分の罪を償うことができるか考えた時に、
私たちは自分の罪を完全にコントロールできないんですから、 神様に自分の罪を償おうと思ったら、一生涯償い続けなければならない。
あれは不可能じゃないかと思われるんですね。 そんな時に先ほども言いましたけれども、だからこそ
罪人であるにも関わらずイエス様が十字架に死ぬことによって、神の愛が明らかになったということが言われるんですね。
ここで大事なことは、なんでイエス様が罪の償いができるか。 それはイエス様は
人間になられたけれども、罪がないお方だったということです。 ここで何が関係してくるか、それは乙女マリアという存在です。
イエス様は、マリアがヨセフと結婚する前に、生命によって見込まれたというお告げを受けました。
それはどういうことか。
イエス様の法律的な父親は、今日の聖書にあるようにヨセフという人です。 お母さんはマリアでした。
けれども、生命によって神様が 人間になるためにマリアという女性の体を借りて、この地に下ったということを考えると
純粋のヨセフの子供ではないんですね。 今日詳しく言いませんけど、それでいろんな荒る噂が通り立って大変だったということだったんですけども。
このように、女性の体を借りてきましたけれども、 精霊によって見込もったので、人であってこの地に来たけれども、
罪がないお方だということができるんですね。
人間の父親を持たずに、マリアの体を借りて、精霊によって見込もって生まれたイエス様は神様の子供です。 だから人間でありながら罪がない。
ですから、罪がないからイエス様は人間の罪をその身に背負って十字架で死ぬことができました。
イエス様は人間になりながら、罪がない神であるがゆえに、 人間の罪をその十字架の上で自分の身をもって償うことができたということなんですね。
話が変わりますけれども、 この罪と神の関係についてですね。
氷点という代表作で知られる作家の三浦彩子さんという方がいるんですね。 その人はエッセイの中で罪についてこんなことを書いてるんです。
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面白いことを言いながらこう書いてるんですね。 人間というのは
自分を罪深いものだと、容易に認められないというですね。 例えば、人と自分が同じことをしていてもその評価は異なる。
これくらい面白いですね。人が鼻クソをほじくっていると、 いかにも汚く下品に思うが、自分が鼻クソをほじくっているときは、その自覚さえない。
同じことをしているんだから、同じように評価すべきなのだ。 でも私たちは、生来不公平に人を裁えているのだ。
その後、まとめとしてここに書いてですね。 人間はなかなか自分が悪かったなどとは思えないものなのだ。
しかし、本当に自分が悪かったと思うとき、 人間は思いかけぬ大きな平安が与えられるのだ。
罪がわかったとき、神が見えてくるのだ。 驚くべき新しい世界がわかってくるのだ、と言っているんですね。
私たちがイエス様を、自分の罪を償って十字架で死んでくださった方だと信じるとき、
これが自分を自分の罪の救い主としてイエス様を信じ受け入れるということなんですね。
こんなふうに、その気持ちを表すことができるんですね。
イエス様、私の罪を償うために十字架で死んでくださりありがとうございます。 あなたを私の罪からの救い主として信じます。
こう祈って、神の前における自分の罪を償ったイエス様を救い主として信じ受け取ることができるということですね。
最後、イエス様が救い主であるということは、 永遠の命を与える救い主だということなんです。
イエス様に病気を治してもらった人たち、聖書にたくさん出てきますが、そういう人たちもやがてこの地上の生涯を終えることになりました。
しかし、たとえこの地上の生涯を終えたとしても、神様と共に生きるという希望があるんですね。
イエス様が十字架で死なれた後、神様はイエス様を蘇らせてくださいました。
イエス様が3日目に死にの中で蘇ったという聖書にあるのは、そのことなんですね。
そのイエス様を自分の救い主として信じるならば、私たちはそのイエス様と同じ、蘇りの命、永遠の命をいただくことができるんです。
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永遠の命はどんなものですか?人はどうやって蘇るんですか?という議論があるんですけど、実は聖書の学者の人もよくわからないそうです。
でも、私たちたとえこの地上の命が途絶えても、
やがてイエス様のように復活し、神と共に永遠に生きる、そういう希望があるよ、とイエス様も聖書も私たちにお告げているんですね。
その、まあ率直に言うとよくわからないんですけれども、
イエス様は永遠の命についてこういう約束を残しておられます。
新約聖書、ヨハネの11章の25から26節にこの約束があるんですね。イエス様の言葉、私は蘇りです、命です。
私を信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。
まあ、これがですね、
イエス様が私たちにとって永遠の命を与える救い主である、そういう約束の見言葉なんですね。
まあ今日イエス様が私たちの救い主であるということを3つの点から学びましたけれども、この
イエス様が救い主であるという約束を信じてですね、新しい年も神様であって、そして救い主であるイエス様を信頼して歩んでいきたいと思います。
お祈りします。天の神様、皆を賛美いたします。
世界で最初のクリスマスの日にあなたは救い主、
イエス様をキリストとしてこの地に使わせてくださったことを感謝いたします。
どうぞ私たちがそのあなたのプレゼントであるイエス様を信じ受け入れることができますように、
そしてどうかまたあなたと共に罪許され生きることができますように、
苦しむ時そこにある助けと言われているイエス様を頼りにし、新しい年も歩んでいくことができますように、どうか私たちを導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。いつものように短くですね1分ほどそれぞれ黙祷してください。
1分黙祷の時間を持ちます。