2022-12-18 21:30

#137インカネーションXmas 22/12/18

ピリピ2:6-8からのアドベントメッセージ。2022年12月18日録音。今日の朗読箇所は聖書とパウロの書簡において、歴史上もっとも注目されている箇所の一つです。それはまた、キリスト論を語る上でも同じく大きな意味を持つ言葉です。クリスマスと関係深いキリストの受肉という真理を扱っているからです。ピリピ人の手紙を学んでいる今だからこそ、このクリスマスの時期にここから深く学んでいきましょう。「受肉・incarnation」という言葉をぜひ覚えてください。それに関して1.受肉:成し遂げられた大きな贖い、2.受肉:神へ捧げられた大きな愛、3.受肉:示された広い苦しみ、の3つの点から学びましょう。

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キリストは神の見姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
以上です。今日はこのところから、インカネーションクリスマスと題して2言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。ちょっとですね、レジュメを配り忘れてしまったので、ちょっとお待ちください。
もう一度ですね、繰り返してもらいます。と言いますのは、今日の朗読した箇所はですね、新約聖書の中でも、そしてパウロ書館の中でも最も大事なものの一つと言われています。
そしてご存知の方も多いと思いますが、キリスト教の2000年の歴史の中で、特にイエス様の受肉を語る上で、非常に注目された大事な見言葉が今日の箇所です。
ピリピリとの手紙をたまたま学んでいるということもあって、そしてクリスマスもあって、ちょっとこの箇所からもうちょっとじっくりですね、イエス様の受肉ということを学びたいと思います。
英語でインカネーションと言いますね。この受肉、インカネーションという言葉は非常に大事なキリスト教の真理、難しく言うと神学的な鍵となる言葉ですので、ぜひ知っている方もいると思いますけれども、覚えておいてください。
その中で3つの点からお話しします。これ導入そのままですね。まず最初ですね、受肉の中で表されている、このクリスマスの素晴らしい真理、それは成し遂げられた大きな贖いというものです。
実は皆様ご存知かと思いますが、イエス様の十字架には、この罪の贖いという意味があります。罪を贖うというのは、罪の償う、償いとも言い換えることができますが、償うということについてですね、私がよく引用する三聖堂の神明会国語辞典ではですね、償うとは、相手に与えた損失などをそれに相当する金銭や、
物品を提供することによって補うという意味があります。損失を相当する金銭や物品で償う、補うことを償いと言います。
数年前ですけども、あるご夫人から聞いたんですね、教会と関係ないところですけども、その方のお子さんが小学校で、よくクラスの5年3組とかいう板がありますよね、プラスチックの。その板を壊したんです。それで、その板の弁償のお金を学校に払ったって言うんです。
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私、聞いて驚いたのは、私が小学生の頃、窓ガラス割ったことがあるんですけども、そんなのでお金払ったことがなかったんですね。最近は、そういうこの学校のものを壊したときに、弁償するんだということで驚いた記憶があります。
しかし、その金額はそれほどプレートは大きくないと思いますけれども、神様への罪を償うと考えたときに、私たちは、その罪が私たちの想像を遥かに超える大きなものだということを考えなければいけないんですね。
ある神学者、キリスト教の有名な神学者は、人間の犯した罪の大きさについて、このように言うんですね。
それは、天地万物を作られた創造主への氾濫で、宇宙の道徳的な秩序の破壊だって言うんです。
人間の犯した罪、人類の罪というのは、天地万物を作られた創造主への氾濫で、宇宙の道徳的な秩序の破壊である、そのように言っているんですね。
そのような大きな罪の償うこと、それほど大きなものですので、人間には、この罪を賠償する能力を持ち合わせていないわけです。
しかし、神様には、その罪を償う義務もないわけですね。
しかし唯一、神が人間になることができれば、そのお方は、人間が償うべき義務を、人間として、そして神としても負うことができる。
人間として負って、神として償う能力を持つことができる。
人間が償うべき義務を、人として負うこともできるし、そのお方は神として、神様への罪を償う能力を持つことになる。
それが、人が神になることによって可能だというんですね。
そのようなことを考えると、キリストのジュニックイエス様が、神であられるイエス様が、人間となってこの地に来られた神であるということ。
それはイエス様こそ、私たちが計り知ることができない神様への罪、つまり創造者への反逆、その宇宙的な破壊能力を持つ罪を償うことができる唯一のお方だったということなんです。
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ですからイエス様だけが、人間と神の交わりの道を開いてくださることができたということなんですね。
まず最初、このイエス様のジュニックの意味。
それは、私たちの罪を、人間人類のこの破壊的な、計り知れない罪を償う能力を持った神が、人間として、この人間の償うべき義務を果たした。
そういう意味で、イエス様が人となられた神として、この地に下ってくる意味があったということを覚えておきましょう。
2番目、このジュニックというのは何か。
それは、神へ捧げられた大きな愛だ、という意味ですね。
どういうことでしょう。
ヨハネの福音書の10章17節で、イエス様はこのように述べています。
読めるかと読んでみましょう。
3、私が再び命を得るために、自分の命を捨てるからこそ、父は私を愛してくださいます。
イエス様が命を捨てる。
そして、それに応えて、その愛に応えて、父がなる神がイエス様を愛する、という言葉です。
これはどういうことか。
皆さんがもしかしたら、おそらく知っている方も多いと思うんですけども、
アウグスチヌスという、ヒッポのアウグスチヌスという、とても有名な神学者がいるんですが、
彼が、その罪の償いについて、先ほどの代償ということをさらに進んで、
こういうようなことを述べているんですね。
本来の賠償は、受けた攻撃の憎しみよりも、もっと大きな喜びをその人に提供するときに、初めて実現する、というんです。
バナナを踏んで、バナナを潰してしまったけれども、メロンをあげると、
メロン嫌いな人もいるかもしれませんけれども、ここにいますけれどもね、
それがとても相手が喜んでくれるかもしれません。
とにかく、さらに大きなもので償うときに、相手に大きな喜びを提供する、
アウグスチヌスという人が言ったんですね。
その上で、実はイエス様が十字架とそこに至る道で受けた苦しみは何かというと、
そのイエス様は神様でありながらも、実際に纏われたからこそ、
この柔軟の苦しみというもの、十字架の苦しみを味わわれた。
それ分かりますよね。
そしてそのイエス様の苦しみにどう意味があったかというのは、
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神様への愛の大きさを表した結果を受けた、この苦しみだという。
つまりこういうことです。
イエス様への神様の愛は、その従順によって示されました。
そのイエス様の神様の愛は従順によって示されましたけれども、
その従順を尽くした結果、イエス様は柔軟という苦しみに至ったということなんですね。
イエス様はですね、その中でご自分の十字架とこの父への愛ということを、
従順ということと愛ということを関係して、
ヨハネの福音書の中でこう述べているんですね。
ちょっとこの前のパワーポイントにはありませんが、
皆さんのレジュメのですね、1ページ目の下から3段落目にですね、
ヨハネの15章の10節という言葉があります。
ちょっと私読んでいますし、読める方は読んでみましょう。
3、はい。
私が私の父の忌ましめを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、
あなた方も私の忌ましめを守るなら、私の愛にとどまっているのです。
この前半の部分、イエス様、私が私の父の忌ましめを守って、
つまり父に従うことによって、父の愛にとどまっていると言っているんですね。
このように、愛と従順というのは、切っても切れない関係であるわけですね。
例えばですね、クリスマスプレゼントを買うときに、
皆さんが愛している家族とかパートナーからですね、何々が欲しいと言われたらですね、
今はあれから言えませんけども、その相手が欲しがっているものをですね、
探してですね、いろんなお店を歩き回る、寒さを我慢してですね、
そういう苦しみにもめげずに、あちこちのお店を探して、このプレゼントを手にするわけです。
今だったらですね、簡単にネットでサーフィンしてできるかもしれません。
私も子供が欲しいといったものはなかなかなくてですね、
ネットであちこち子供が小さい頃ですね、探した覚えがありますけれども、
とにかくですね、この相手の愛を示すために、あちらこちら歩き回る。
それはまさにイエス様が父に従った従順の道に少し似ているんですけれども、
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このイエス様の神様に従い尽くした、神様への愛をこの表して従い尽くした、
その行き着くところ、それが受難であり、苦しみの十字架だったということなんですね。
愛への従順、そしてその従順の極みが十字架だということを、
今日読んだパウロの御言葉にも書かれているわけですね。
読める方、フィリピンの2章の7節を読んでみましょう。
人としての姿をもって現れ、自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
今日ちょっと前半は触れませんでしたけど、イエス様はこの地に下られる前からですね、
道と一緒に天地を創造した神として存在しておられました。
しかし、その神としてその在り方を捨てることができないとは考えないで、
この神でありながら人間の姿をもってこの地に下った。
そしてしもべの姿をとってですね、そして自ら低くして死に至るまで、十字架の死に至るまで、
死なる神に従い尽くしたと言われているわけです。
このようにイエス様の十字架とそれに至る柔軟というのは、
神様へのイエス様の大きな愛の証なんですね。
そして実はイエス様が肉体を持っておられたからこそ、
この柔軟と十字架という痛みと苦しみを身をもって体験されたわけなんですね。
この肉体を持っておられた神であるがゆえに体験した痛みと苦しみ、
これはなかなかですね、
後で話しますけどもですね、
なかなかですね、それは神でありながら上から目線ではなくてですね、
本当に人間として肉体を持っておられたがゆえに、
この十字架の苦しみがイエス様の体に染み渡った。
今そのイエス様の十字架の苦しみはですね、
父なる神への大いなる愛の現れだということを見たわけです。
この彼が体に耐えた痛みの大きさが大きいほどですね、
神様へ示された愛も大きいわけですね。
そしてその大きな愛のゆえに、
神様はそのイエス様の十字架の見業を満足し喜ばれて、
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そして罪の贖いを受け入れてくださったというわけなんです。
この柔軟に伴う苦しみにはですね、
イエス様の父なる神への大きな愛が表されている。
そしてその大きな愛は、父なる神に大いなる喜びをもたらすつくないだったということが2点目です。
最後、この柔軟、柔肉というのは、示された広い苦しみというんですね。
先ほど見たアーグスチーヌスはですね、
イエス様の苦しみについて、愛の表現以外にもこのように言っているんです。
ちょっと読める方は難しいかもしれませんが、読んでみましょう。
キリストの柔軟の広さと悲しみの大きさゆえに、それは神への大いなる償いとなった。
イエス様の柔軟、その苦しみの広さ、悲しみの大きさということを言っているんですね。
これもですね、先ほど申し上げているように、
イエス様は単なる神でなくて、肉体を取った神であったからこそ、この苦しみ、悲しみを経験されたわけです。
実はですね、私、子供の心に印象に残った話があります。
イエス様を信じたのは18歳の時でしたけれども、その前の小学生の時ですね、
学校の先生に聞いた、皆さんもよく知っている芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説ですね。
蜘蛛の糸、簡単に言うとですね、神様が、人間が地獄ですか、そこで苦しんでいるのを見て、救おうと思って糸を垂らしたわけですよね。
そして、登ってきた時にですね、みんなこの蜘蛛の糸に縋って登ってくる時にですね、
たくさんの人が群がって、そして一番上にいたカンダダという人がですね、
お前たち持ってくると、糸が切れるから降りろって言った。
それを見て、この神様は糸をプツンと切って、みんな地獄に落ちてしまった。
その話をよく思い出すんですけれども、そのようにですね、聖書の神様というのは、
高いところから人間を見下ろして、人間の痛みを何も感じない方じゃないんですね。
人となられて、この地に下られて、そして他でもないその人の罪を背負ってですね、
十字架の上で、自らの体を持って苦しみを味わわれた。
この芥川雄之介が描いた、人間の苦しみを担うことと関係ない、そのような神の姿はそこにないわけです。
このようにイエス様の神としての悲しみは大きくですね、苦しみは広いものであった。
そして実際そのイエス様の苦しみの叫びが聖書に記されていますね。
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マタイの27章46節、読める方読んでみましょう。
3時ごろイエスは大声で叫ばれた。
エリエリエマサバクタニ。
これは我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか、という意味である。
イエス様はこの地上に来られる前から神であられて、そして父なる神と親しい交わりにあったわけです。
そのイエス様が十字架の上で味わわれた苦しみ、それはその父なる神様との関係が引き裂かれている。
そして苦しみの極みの中で叫び求めても何も答えられない沈黙があった。
その苦しみの大きさと悲しみの広さがこのイエス様の言葉に凝縮されているわけです。
しかしその苦しみの意味、それは全人類の呪いの罪がのしかかった、この最も広く大きな悲しみであったわけですね。
しかし幸いなことに、父なる神様はこのイエス様の祈りを聞いて、イエス様を通して私たちの罪をあがなってくださった。
その償いを受け入れてくださったんですね。
そのことがエブルビトの手紙の5章7節に書いてあります。それを読みましょう。
キリストは肉体を持って生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げ、その経験の家に聞き入れられました。
イエス様のこのお苦しみ、この十字架の叫びは神に届いて、そして神はそれを良しとして人類の、そして私たちの罪を償ってくださったのです。
クリスマスにはこのようなイエス様の受肉を覚える幸いな時でありますので、そのことに思いを馳せながらこの1週間共に歩んでまいりたいと思います。ご祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様が十字架の上で受けられたお苦しみ、それは神であられ、そして人となられたお方の贖いの宮座であり、そしてその私たちの罪の償いであること、大きな悲しみと苦しみであったこと、
神の怒りを和らげ、喜びへと変えるものであったことを知ることができました。
その人となられた神、そのイエス様がくらわれた幸いを、このクリスマスの時期、私たちが覚えて過ごすことができますよう、どうか導いてください。
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この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではしばらく一分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間をとってください。
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