2023-09-10 27:31

#175 不信仰に驚く 23/9/10

マルコ6:1-6からの礼拝説教。2023年9月10日録音。今日の箇所はマルコの福音6章1-6節で「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」という驚くべき言葉が記されています。しかし「不信仰」ということを見つめるときに、信頼へのヒントが見えてきます。1.聖書の読み方のコツ―聖書やマルコの福音書の豆知識、2.郷里で拒絶されたイエス様-親しさの弊害、3.イエス様を驚かせた不信仰―大胆で率直な信仰への招き、の3つの点から学びましょう。

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新約聖書、マルコの福音書、6章、1節から6節をお読みします。
イエスはそこを去って、教理に行かれた。 弟子たちもついて行った。
安息日になって、イエスは街道で教え始められた。 それを聞いた多くの人々は驚いていった。
この人は、こういうことをどこから得たのだろう。 この人に与えられた知恵や、その手で行われる、このような力ある技は一体何なのだろう。
この人は大工ではないか。 マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。
その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。 こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。 預言者が敬われないのは、自分の教理、親族、家族の間だけです。
それで、何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、 そこでは何も力ある技を行うことができなかった。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。 それからイエスは近くの村々をめぐって教えられた。
以上です。 今日はこのところから
不信仰に驚く。不信仰に驚くと題して見言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
先週は、週末、金曜日に台風13号が 上陸するのではないか。関東を直撃するのではないかと、しばらく前から騒ぎになってまいりましたが、
上陸する前に温帯低気圧に変わりまして、 台風の直撃とはなりませんでした。
新潟市周辺も少し雨が強くなった程度で済んだわけですね。
それでも千葉や茨城、その他のところで、大雨で命を失う方々もいらっしゃったということで覚えて祈っていきたいと思います。
それで、今日は打って変わってですね、昨日まで少し涼しかったですけれども、 また暑さがぶり返した、そんな残暑厳しい時でありますけれども、共に見言葉から学べることを嬉しく思います。
さて、今日の箇所はマルコの6章の1節から6節であります。
この箇所ですけれども、
この箇所はですね、これまで話してきましたように、 聖書を読んでよりよく理解するために知っておくべきことがある。
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その一つとして考えられること、それは今日の箇所はですね、 大きな区分の中の締めくくりの段落であるということです。
後で詳しく説明しますけれども、前提としてお伝えします。
それはですね、聖書の章や節、今日は6章1節から6節ですけれども、 その区分についての知識やその関係と関わることなんですね。
そのことをもとに、いわゆる豆知識的なことを最初にお話しして、 聖書の読み方のコツですか、コツみたいなことをお話しします。
そしてその中で、キリスト教信仰について大事な点を2つ取り上げてまいります。
まず最初、失礼しました。 まず最初の点はですね、ちょっとこちらにレジュメの
ビジュアルの方には書けませんでしたが、一番最初、 レジュメの一番ですね、聖書の読み方のコツ。
聖書やマルコの福音書の豆知識ということで、第一番目のポイントを記しておきました。
聖書の箇所の引用が6章の1節、2節、 ビジュアルにはないので、皆さんレジュメ見ていただければと思いますが、それを読んでいますね。
イエスはそこを去って教理に行かれた。 弟子たちもついていった。
安息日になってイエスは街道で教え始められた。 それを聞いた多くの人々は驚いていった。
この人はこういうことをどこから得たのだろう。 この人に与えられた知恵や、その手で行われる、このような力ある技は一体何なのだろう。
ここのところをまず最初に挙げました。 実はですね、先ほども繰り返しましたけれども、
聖書に今日は6章1節から6節とありますが、この章と節というこの区分はですね、 聖書の原点、丸子で言えば著者丸子が書いた時点ではありませんでした。
あのびっしりですね、 原点残ってないんですけど、写本って言ってね、突破印刷なんかそこにいざありますけども、
手でみんな写したんです。 紙が貴重だったので、大きな字でもぎっしり書いてあります。
それで隙間なく全部英語で言えば大文字で書いてあるので、 それだけ見ただけでは何が書いてあるかわからないんですね。
で、後になって聖書を参照するために何章何節というのを作った。 それを覚えておいてください。
それ知っておくとちょっとあの得意見になれます。で、もう一つですね、 聖書っていうのは例えば今のところ丸子が書いたと言われていますが、書いた人が
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意図を持って構成しています。 あえて言えば小説とかですね、論文のように。
で、その人はですね、小説とか読んだことありますよね。
段落があって、その細かい段落の塊が大きくなって、一つの区分というものを作っていく。 これで言えば段落が細かくあって、章みたいな大きくなってきますけれども、
実はこの聴者丸子が意図した大きな区分と、 この聖書で振ってある6章1節から6節というこの
数字は一致してないんです。簡単に言うと。 ちょっとそのことを詳しく見ていきます。最初にちょっと勉強的なことになりますからね。
寝ないように。寝てもいいですけど、ちょっと聞いてください。で、やっと出てきました。 で、皆さんの今日レジ目の一番最後3ページ目に添付資料を付けてあります。
そこを見ると、この箇所がですね、どういう区分になっているかということがわかります。 実はこれは大きな区分の始まりがですね、
3章30節から35節のところです。 イエス様のことを母親とか家族が連れ戻しに来たというところが3章30節から35節にあります。
そこでイエス様はですね、 35節で、誰でも神の御心を行う人その人が私の兄弟姉妹母なのですということを言っています。
そこのポイントはですね、その段落のポイントは、 神の御心を行う人はイエスの母兄弟っていうことを言ってて、イエスの本当の家族は誰かっていうことを言っています。
で、ここから始まる大きな区分の終わりが今日の6章の1節から6節で、そこのテーマは距離での不信仰。
家族と距離の不信仰ということで、 カギノセイクはいくつかありますけど、例えば家族で言えば4節のイエスは彼らに言われた預言者が敬われないのは、
自分の距離、親族、家族の間だけです。 この2つの段落、始めと終わりの段落にあるテーマは家族というテーマなんです。
もうちょっと言うと不信仰な家族や不信仰な距離の人々っていうのがこうなっています。 その間にサンドイッチのように挟まれているのが皆さんのレジュメのAとB。
イエス様の言葉と身技です。 最初の区分がその後すぐにですね、3章のところのすぐ後4章1節から、
例えで教えるイエス、イエス様の教えということが種まきの例えから始まっていくつかありますよね。 それが2つ目の区分。
サンドイッチの中のイエス様の言動というところの前半です。
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後半はB、4章35節から5章43節。 この奇跡の新しい段階、イエスの奇跡、いつも言っている新しい奇跡のフェーズに入ったって言いましたよね。
そういうふうに中の段落が構成されています。そしてこれ今話したことをまとめるとざっと言うとこういう感じですね。
始まりが3章30節から35節で終わりが6章の1節から6節で今日の箇所。 その間にサンドイッチのようにA区分、イエス様の教え、
B区分、イエス様の奇跡ということが挟まれています。 小説でありますけど、おそらくこういう区分でマルコは書いて並べたんじゃないかというのが学者の中である程度一致しているんですね。
ここから何が分かるかと言うとですね、
このイエス様の教えと奇跡、この真ん中の部分によって何を教えているかというと、イエス様はこれだけ神の救い主として
権威ある方ですよということを伝えています。 そしてその教えと先ほどから言っている前から言っている新しい奇跡のフェーズ
もっとイエス様の偉大さが現れているこの2番目の奇跡の塊のところで、イエス様がこれだけ権威ある神の救い主ですよということが言われているわけですよね。
そのシメクリが先週見た12歳の女の子のよみがえりの奇跡です。 すごい衝撃的な奇跡でしたよね。
このように前後がしかし家族というところから実は不信仰だった家族、不信仰だった身近な人という話で実は挟まれているわけです。
これ何を言っているかというとですね、実はこの前後に不信仰のエピソードを置くことによって読む人に、当時は読むのでは聞いてたんですけどね。
最初は教会でマルコの話を聞いてました。とにかくそれを読んだ人、聞いた人にですね、こういうメッセージをマルコは伝えたかったんです。
不信仰の話を前と後ろに入れることによって不信仰に対する警告です。
と同時に、それを反面教師として、これだけ教えにも身技にも権威がある神の子、救い主であるイエス様を信頼しなさい、信じ続けなさいというメッセージを伝えている。
それが今日の箇所の締めくりの部分から見えてくることなんですね。
ここで皆さんね、真面目な、私も含めて言っちゃいますけど、クリスチャーの方々考えてほしいんですけど、私たちはですね、ここにありますように聖書は神様の言葉として信じていますよね。
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権威あるあるいはもしかしたら神秘的なことのかもしれない。と同時に人間である著者がよく考えて書き上げた作品のようなものなんです。
あえて、抵抗ある人もいるかもしれませんけど、あえて言えば文学作品のようにメッセージが伝わるように考えられて構成されているわけなんです。
だからその作品の著者の、ここで言えばマルコの糸を組んで読み解く、読んでいくということが必要なんですね。
そういう読み方をすると新鮮に伝わってきたり、新たな驚きを持っていつも読み慣れている歌手を捉えることができます。
これは言い換えるとですね、聖書は心と頭を使って読むとも言えるんですね。
そういう心の営みだけじゃなくて、頭を使った学問的なと言ってみるか分かりません。
そういう営みを両方通して、実は聖霊が働く、私たちに聖霊が働く。
そして私たちに神様の御心が伝わってくる。これが聖書が神の言葉だと言われる遺言でありますし、
私たちが聖書を読むときにこういう視点で読んでみると、またですね、新たな広く深い視点で読むことができるわけです。
それが最初のポイント、聖書を読むときのコツというかですね、聖書編参の豆知識としてお伝えしておきました。
ちなみに、教会のホームページにメッセージの音声があるんですけども、音声と同時にレジ名が付いていますから、
レジ名をダウンロードしたい方はすれば、レジ名の最後に教会の人が持っているような、
今言ったこの箇所の段落の区分ということも見ることもできますので、一応付け加えておきます。それが最初の点。
では2番目、信仰でことを見ていきましょう。じゃあ、そこで何が書いてありますか。
2番目、距離で拒絶されたイエス様のことが書いてあります。そこには親しさの弊害ということが見て取れますよ、と言ってですね。
6章4節でイエス様はこう言われました。イエスは彼らに言われた。ここから読んでみましょう。3回、
予言者が敬われないのは、自分の距離、親族、家族の間だけです。
豆知識で言うと、これも当時よく知られた聖書にもあったし、一般の文学作品の中にもあった、皆さんがよく知っている言い回しをイエス様は引用されたと言われています。
それはさておきまして、今日の箇所はイエス様が故郷のナザレに戻って、
街道で教えた時の出来事です。そしてこれまでの段落、今まで説明してきたようなイエス様の教えとか奇跡で、人々は驚いたわけですよね。
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その驚いた時にですね、人々はイエス様や家族のことをあまりにも親しく知りすぎている故に、
彼らはイエス様につまずいたというのです。このつまずいたというのはですね、ギリシャ語でスキャンダリゾートです。
いわゆるスキャンダルの元のこと。今ある大手事務所のスキャンダルが話題になってですね、もうその
タレントが嫌だとかいう人がいるかもしれません。そういうつまずくということと関係しています。
イエス様のことをこうやって受け入れられないつまずいた。実はですね、よくありますけど、よくテレビ番組でね、有名なタレントとかですね、
スポーツ選手が
自分の故郷を訪れる、そういう番組がありますね。で例えば、10万円単位でその地域で買い物をするとか言って、この卓球の金メダリストの水谷淳選手はですね、
静岡県岩田市に帰って70万ぐらいですね、なんかうなぎ屋で奢ったりして、番組やってました。でこのイケメンタレントで高橋勝則さん、私と同じ年です。全然見えません。
で、58ぐらいです。彼は、その場合は出てきた番組で、彼はですね、母校の青山学院に行ったんです。サンドイッチマン。
で、いろんなですね、その番組の中で、彼にゆかりのある人が出てきたり、最後に青山学院の教室に行って、彼ラグビーブだったんですよ、中学時代。
ラグビーブの顧問の先生が出てきたら、もう震え上がってですね、頭が上がらないんですよ、80ぐらいの先生の前に。
で、何が言えるかというと、どんなに有名人でも、学校の恩師とかですね、自分を面倒見てくれた人に頭が上がらないということがあったり、
逆にその教えた立場からしたら、有名になっても、ジュンはジュンだし、カツノリはカツノリだ、みたいなね、そういう感じの、まあ言ってしまえば、ちょっと低く見えるようなところがね、あるわけです。
で、イエス様の今日の話にもそれと似たところがありまして、この周りの人々の話、先ほど朗読でもしましたけども、
これは大工の、イエスは大工で、大工というのは木工だけじゃなくてですね、石も使った建築士のことを言うそうですけども、
そしてマリアの息子、またヤコブとヨセフとユダとシモンの兄弟、兄ではないと、その一姉妹のことも書いてあって、まあ俺たちはこいつ、ガキの頃から知ってるよ、みたいな、そういうメッセージです。
で、実は、ここにですね、軽蔑を表すであることがいくつか、一つ入っている。それは母マリアの息子という呼び方。
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普通はですね、父誰誰の息子って言うんです。本当だったらヨセフの息子って言うんです。
ちなみに、ベニヤミンって出てくるでしょ。ベニヤミンっていうのは、どっちだったか、ちょっと忘れました。息子って意味なんですね。ベニーだったかな。
とにかく、誰誰の息子っていうときに、過不調性なので父親の息子って言うんですけど、この母親の息子という呼び方はですね、軽蔑の念がある。
ごめんなさい、女性の皆さんもね。でもそういう時代だったんです。
で、そこにはさらにですね、乙女マリアから生まれたということが伝わって、婚前交渉によって生まれたんじゃないかっていう噂が、悪い噂があったと学者は言うんです。
だから、ある目、あいつの父親はわかんねえんだよっていう、そういう軽蔑の念もここに含まれていたと言われています。
で、そういうことからあって、先ほども言いましたけども、あまりにもイエス様のことを身近に知りすぎた上に、教理の人々はこのイエス様を神の御子、救い主で、到底信じられない。
立派な教え、立派な奇跡は見ても、あれ、どっからあんなことができるんだ。
ガキの頃から知ってたのに、そういう父親もわかんないのにみたいな、そういう軽蔑の念が見てくれるわけです。
で、ある学者はですね、この出来事が記された理由は、後々のクリスチャンや教会にあてての警告という意味もありますと言っています。
それはですね、私たちがあまりにも親しくイエス様のことを考えすぎる、あるいは身近である上に、そのイエス様の偉大さや権威を見失うことがないようにとの警告でもあるとある学者は言っています。
それで最後の点を見ていきましょう。
最後の点。
イエス様を驚かせた不信仰、それは裏を返せば大胆で率直な信仰への招きなんですよ、と言うんですね。
6章5節6節。それで何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは何も力ある技を行うことができなかった。
ここで読んでみましょうか。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは近くの村々を巡って教えられた。
これまで何度もマルコの福音書には、イエス様の奇跡や教えの後に人々が驚いたと書いてあります。
しかしここでは、不信仰ゆえにイエス様が驚いたと書いてある。
これは大変注目すべきコメントなんですね。
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この段落の前、先週の話を覚えてます?皆さん。レジュメとかを見てください。
そこまで4つの奇跡が伝えられていましたよね。4つの奇跡。
4つの奇跡が伝えられていて、何度も言いますけど、前の奇跡の塊と違って新しいフェーズに入った。
新しい段階の奇跡だ。まず最初は嵐を沈めるイエス様。天地創造であり、そして救い神と同じ力を持ち、
海の中に潜んだであろう龍であるレビアタンをも制することができる。 そしてその後、岸に上がったらレギオンにつかれた人。そしてレギオンは
1人2人の悪霊ではなくて、2000以上の悪霊につかれた男。それをも、レギオンをも制したこのイエス様が出てきました。
そしてその次は、カイドウ管理人の、カイドウ司のイヤイロという人がですね、娘を、死にそうな娘を助けてくれていった。
そこに向かう途上で、12年間出血が止まらなくて、瀕死の状態にあった女性をイエス様を癒された。
そしてその最後、今日の歌詞の直前は、12歳の命が絶えた少女を
死からよみがえらせた、驚くべき奇跡が4つ続いているわけですね。 そういう中で
イエス様は、女の子のよみがえの奇跡の時に父親に言いました。死んだという知らせが入った父親に言いました。
恐れないでただ死に続けなさい、この力強い言葉を私たちはこの直前に聞いたわけです。
耳に残っているんです。しかしその直後にイエス様は彼らの不信仰に驚かれたという、
全く逆のことが書いてある。 それはこのコントラストからわかるように私たちが思う以上にショッキングな記述があるんですね。
まさにスキャンダラス。 そしてさらにあるようにイエス様は不信仰故にほんの少しがお働きしかできなかったと
記されているわけです。 私たちですね
クリスチャン生活を送る中で イエス様の力や権威を制限して考えてしまうことがあると思います。
レジュメに書いてないですけど、難しいのは常識的な面と非常識な面とどういうふうに私たちが両立させて
クリスチャンとしてこの世の現実の中で生きていくかという課題があって、それもクリスチャンの成熟の域なんですけれども、
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しかし時としてですね信仰があまりにも日常化しすぎて イエス様の救いや宮座についてまあこんなことだろうな
どうせ変わらないだろうなと考えてしまうことがあるかもしれない。 正直に言うと私もそういうところがあります。
ありますけれども私たちはその常識と大胆さの両方が必要です。 頭を使って聖書を読むことと同時に大胆にイエス様を信じることも必要だ。
この12年間出血が止まらなかった女性のようにイエス様ならホロモニ触ってさえしても私を救ってくださるという大胆な信仰。
あるいはカイドウ・ツカサのやいろのように恐れずにただひたすらイエス様に信頼し続けるということも必要です。
皆さんはですね先週一週間どんな言葉を聞いたでしょうか。私は この恐れずただ信じ続けようと言葉を聞き続けて先週一週間
歩んだ部分もありますけれども皆さんはいかがでしょうか。 まあこのようなことで
イエス様を時に大胆に信じてみる、そういうことが私たちへのチャレンジなのではないかと思いました。
最後に ヘブルビットの手紙の中にですね信仰について書かれているところを取り上げて終わりたいと思います。
ですからあなた方の確信を投げ捨ててはなりません。 それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなた方が神の御心を行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ知りづくなら私の心は彼を喜ばない。 最後一緒に読んでみましょう。
私たちは恐れ知りづいて滅びるものではなく信じて命を保つものです。
お祈りしましょう。 天の神様、救い主イエス様、見事はお感謝いたします。
距離でイエス様につまずいた人々の話を見ました。 私たちは本当にあなたを愛し、あなたを慕っております。
しかし時にその親しさ、短さゆえにあなたを大胆に信じること、信頼し続けることに難しさを覚えたり
諦めを覚えてしまうことがあるかもしれません。 どうぞ神様、その世の中で私たちが恐れずあなたを信じ続けることができますように、
大胆にあなたを信頼し歩んでいくことができるようにどうか導いてください。 そしてあなたの救いの見業を私たちが日々の生活の中で体験し、
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あなたの生きておられることを驚きと喜びを持って知ることができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほど黙祷して神様にお答えする時間を持ちましょう。
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