2023-06-11 25:03

#人間を救う神 23/6/11

マルコ3:1-6からの礼拝説教。2023年6月11日録音。ウィキペディアの祈りについての冒頭こう記されています。「祈りは、最も基本的な宗教行為や民間信仰の一つである」。また三省堂の新明解国語辞典では「祈る」をこう解説しています「自分の力ではどうしようもない時に神仏の力にすがって、よい事が起こるように、願う」。ワールドカップのPK線、WBCの逆転のチャンスの時にその様子を見守る観衆や選手らが目をつぶり両掌を握りしめて祈る姿の映像が画面に大きく映し出されます。人は窮地に陥るとなぜか祈ります。救いを求めて祈るのです。今日の箇所を元に最初に救いを求める祈りについて、1.救い主イエス様に祈る、2.些細な祈りと人のいのち、の2点から、最後にこの箇所に見られる背景や筋書きを、3.これまでのまとめと今後の展開について、で取り上げ3点をみていきます。


--- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/nsbc/message
00:08
マルコの福音書3章1節から6節を朗読します。
イエスは再び街道に入られた。そこに片手のなえた人がいた。
人々はイエスがこの人を安息日に治すかどうかじっと見ていた。
イエスを訴えるためであった。
イエスは片手のなえたその人に言われた。
真ん中に立ちなさい。
それから彼らに言われた。
安息日に立法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか、
命を救うことですか、それとも殺すことですか。
彼らは黙っていた。
イエスは怒って彼らを見回し、その心の堅くなさを嘆き悲しみながら、
その人に手を伸ばしなさいと言われた。
彼が手を伸ばすと、手は元通りになった。
アリサイ人たちは出て行ってすぐにヘロデ島の者たちと一緒に、
どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
以上です。
関東地方語ですね、この間の木曜日ですか、梅雨入りしましたですね。
今日はそれに倣ってでしょうか、少しそんなにではないかもしれませんが、
雨降りの一日となりました。
そんな中ですけれども、お互い一心を栄拝できることを感謝していきましょう。
さて今日はですね、マルコの3章ですけれども、
祈りについてですね、
ウィキペディアの冒頭にこう書かれているんですね。
祈りは最も基本的な宗教行為や民間信仰の一つである。
日本で一番用いられていた三聖堂の神明会午後時点の
祈るというところですね。
その解説を見るとこう書いてあります。
祈る、それは自分の力ではどうしようもない時に
神仏の力にすがって良いことが起こるように願うこと。
その行為を祈ると言います。
改めて調べてみると、なるほどなと思いますし、
後でも出てきますけど、これはクリスチャンでない方にも通じるかもしれません。
通じると思います。
よく言われるのは、ちょっと前のワールドカップ、
サッカーワールドカップのPK戦の時とかですね。
03:00
あるいはWBC野球のワールドカップのような大会で
逆転のチャンス、日本が逆転の時にですね、
そのチャンスの時にバッターがヒットを打てるように。
それらの時にですね、見ているスタンドの聴衆の映像が
クローズアップされますけども、両手を組んでですね、
手のひらを合わせて祈っている。
目をつぶっている。
そんなシーンがよくテレビに映ることがあります。
そこでも表しているように、人はですね、窮地に陥ると
なぜか祈りますね。
で、救いを求めて祈ります。
で、今日の歌唱ですね、元にですね、祈りについて
最初2つのことを取り上げ、最後に前後の文脈ということで
ちょっとまあ、勉強みたいなことですけども、
マルコの不均衡を理解する上で助けとなることに触れ、
3つの点から見ていきたいと思います。
まず最初、救い主イエス様に祈るということです。
3章の1節3節、こう書いてありましたね。
イエスは再び街道に入られた。そこに片手のないた人がいた。
イエスは片手のないたその人に言われた。真ん中に立ちなさい。
このユダヤ人の街道で、イエス様が片手のないた人というのはですね、
英語で見るとですね、この魔女の杖のように歪んだという。
魔女の杖の先っぽが歪んでますよね。
そういう手に障害のある人がイエス様を見かけたわけです。
ユダヤ人の礼拝堂の中で。
その時、これまで癒しの軌跡が出てきましたけど考えられることはですね、
当時の人たちにとってこの病の癒し、
それはですね、今の私たち以上に必要に迫られる問題だったわけです。
一方ですね、この今画像にもあります。MRIの画像ですけども、
今の私たちは病気になれば適切な治療は受けることができます。
ただ、当時の人たちと比べ物にならないほど医療が進歩していますから、
例えば当時の人はですね、病気の原因が悪霊にあるとかですね、
呪いをかけられたからだと、そうやって多くの人が考えていたようです。
しかし、私たちこの健康診断の血液検査なんかもそうですけどね、
私もこの間健康診断のデータが出て、ちょっと大げさじゃないことを言うようですけど、
少しちょっと心配なことがあって、明日もう一度再検診に行くんですけども、そんなにシリアスなことじゃないですけど、
そういうデータというものが出て、正確に私たちの体や病気のことを今知ることができます。
そんな中でイエス様の時代はですね、この病の癒し、それは身近な問題であり、
06:09
それこそ差し迫った救いであった、それを求めてイエス様のところに行ったという事情がありました。
一方ですね、今の私たちはもちろん病気の苦しみの中で祈ることもできます。
でもそれと同時に、時にはそれ以上にですね、病気以外の自分の様々な問題、
人間関係とか仕事上の問題とか家族のこと、そういう病気以外の自分の問題の中で救いを求めること、
それはですね、より身近なことであると考えられると思います。
何が言いたいか、イエス様はどんなお方か、それは神様の救いをこの世に告げ知らせて、
そしてそれを今日の話のように、癒しという奇跡などで具体的に神様の救いを人々に見せたり体験させる、
そのためにこの地を歩まれた救い主だということですよね。
そしてそのイエス様によってもたらされるこのような救いこそが福音だと、マルコの福音書はいわゆる明かししているわけです。
今の時代、そういうことから考えて、今の私たちにとってキリスト教の本質、
それはですね、こう言えると思うんですね、それはイエス様は当時と違って目には見えません。
でも復活したお方、蘇ったお方として目には見えませんが、私たちと共におられる神なる救い主、それがイエス様だ。
それがキリスト教の信仰の本質の一つですね。
そしてその目には見えないけれども蘇って私たちと共におられるイエス様に対して私たちは私たちを助けてくださいと祈ることができる。
これがある目、キリスト教の信仰の醍醐味と言えると思うんですね。
このようにイエス様の救いにクリスチャンはもうちょっと大胆にとか、日常を頻繁に祈りによって救いを求めることができます。
と同時にこれはクリスチャンでない人もですね、そのイエス様のこのような救いに日常の問題の中でこのようなイエス様の救いに預かることができるということなんですね。
ですから何が言いたいか、クリスチャンの方はもちろん、そしてクリスチャンでない方も何か窮地に陥ったならば、イエス様私を救ってください、そう祈ることができる、そう祈ってみましょうということなんですね。
イエス様はこう約束してくださいました。ヨハネの福音書16章の24節ですね。ちょっと長いんですが読めるかで読んでみましょうか。
09:06
今まであなた方は私の名によって何も求めたことがありません。求めなさい、そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ち溢れるようになるためです。
このようにクリスチャンの方はもちろん、クリスチャンでない方もイエス様私を救ってくださいと祈ることができるというわけです。
2番目、もう少しこの祈りについて見ていきます。些細な祈りと人の命ということを見ていきます。
2番目なんですけど、この中にも2つぐらいポイントがありますね。
今日の見事はまた触れますが、3章の4節でこう書いてあります。
それからイエス様は彼らに言われた、この人々がですね、イエス様が安息日にこの男の手を癒して日本に違反しないかどうかと見張っている。
そうやってパリサイ人が見張っている中で、イエス様はその男に真ん中に立ちなさいと言って、そして人々を見渡してこう言ったんですね。
安息日に立法にかなっているのは善を行うことですか、それとも悪を行うことですか、命を救うことですか、それとも殺すことですか。
彼らは黙っていた。
この質問はですね、パリサイ人たちにとって、あるいは誰にとっても簡単に答えることができる質問ですよね。
しかしパリサイ人にとって許しがたいことがあったんです。
それは、この手が苗えた人、その人を安息日に言い出すということ、それは命を救うほどの事案ではないということ。
別の言い方をすると、それは立法の違反だ。命の救出の事案にはそれはならないということだったんですね。
どういうことか。先週見ましたように、安息日には労働が禁止されています。
本当にですね、現代でも安息日にタクシーもバスも走ってないそうです。そのイスラエルでは。
そして現代の、このエルサレムにあるですね、
ユダヤ教のですね、これちょっと下が間違ってますね。
ユダヤ教に厳格に従う病院、これヘブライ語が書いてありますけれども、
このユダヤ教の規定に厳格に従う病院に入院した妊婦さんが手記を書いてるんですね。
この下の字は先週の残りで無視してください。
その妊婦さんなんですけども、夜中にですね、腎痛が差し迫ってきてトイレに行けなかったそうです。
12:06
それ安息日の夜中。そしてその日は安息日なので、火を起こしちゃいけないから電気つけちゃいけないんです。電気使っちゃいけないんです。
だからナースコールの代わりにハンドベルが渡されたんですね。
ハンドベルでガランガランガランって言ってですね、看護師を呼ぶんです。
トイレに行きたいからベッドを起こしたいんだけど起こせないからハンドベルで呼ぶとですね、看護師が来ます。
どうしましたか?トイレに行きたいんです。ベッドをあげてくださいって言うんだけど、そのユダヤ人の看護師さんはちょっと待ってくださいって言って、
またナースステーションに戻って、違法人の看護師を連れてくるんです。ユダヤ人じゃない。
そして自分は労働できないから、ユダヤ人でない看護師にベッドの起こすスイッチを押させるんです。
電気を起こすという、火を起こすという立法に違反することをですね、違法人の看護師にさせるそうなんです。
そして、起こしてやっとその人はトイレに行けたそうなんですけども、一時が晩時、安息日はそのようにですね、
違法人の看護師を通してでしかユダヤ人の看護師が働けないということがあって、本当に困ったということを式で書いていたわけなんですね。
で、このことは現代の話なんですけども、当然イエス様の時代、その時代もですね、
安息日には命の危険を及ぼす病気や症状以外の医療行為は禁止されていたんですね、今で言う。
ちなみに現代的に言うと、その時、安息日でも処置していい病状はですね、心臓発作、脳卒中、
たぶんアレルギー反応ですね、これ現代かな。
深刻な感染症、出血、毒物混入、臓器不全、これらが命の危険を及ぼす症状として、安息日でも処置がしていいという症状だそうです。
で、私から確かしたらびっくりするんですけれども、そういうことですから、今の読んだ聖書箇所の手が苗えた人、
その人はパリサイビトの基準によれば、治療行為はしてはいけない。命に別療がないわけです。
それは些細なことでしかなかったわけです。
しかしイエス様はその手を癒やされました。なぜか、それは命を救うべくイエス様にとっては些細なことではない、重大な出来事だったからなんですね。
で、このようにですね、私たちが些細に思えることでも、イエス様にとっては命を救うべく一大事だと見てください。
15:01
そして私たちをその苦痛や苦しみから救い出そうと願っておられるのがイエス様なんですね。
よくこんなことでイエス様祈れませんとかっていう方いらっしゃるんですけれども、
でもそういうことを思わずにですね、些細なことでも窮地に陥ったら、祈りの宗教的なポーズ取れなくても、
歩いたままでも、仕事したままでも、声に出せても出さなくても、心の中ででもですね、イエス様私を助けてください、イエス様私を救ってくださいと祈ることができる。
それをのように覚えておきましょう。
そしてもう一つですね、今度は警告的なことを取り扱いたいと思うんですけれども、
一方ですね、クリスチャンとしては自分がパリサイ人のようにならないようにと気をつける必要があるんですね。
どういうことかというと、自分が習慣としている宗教行為や信念を守ることによって、それにこだわってですね、
命や人の必要を些細なこととしておろそかにしてはいけないということです。
皆さんもよくわかると思いますけれども、当然ながらですね、例えば日曜日に自分の体調が悪ければ、しっかりお休みしてですね、
身体を健康保つということが必要ですよね。
あるいは日曜日礼拝行と思っても家族が病気であって、それは看病しなきゃいけなかったり、
病院に連れていかなきゃいけないってことがあったら、それはした方がいいんです。
そのようなことを具体的に言えるかと思いますけれども、
ちょっとそれで関係してですね、この写真ね、これ何かというと、築地にある聖ルーカ国際病院、
しばらく前亡くなった元理事長の檜原重明先生が務めていた聖ルーカ国際病院の中のチャペルです。
ここで病院の中にチャペルがあって、ここで礼拝が守られているんですね。
コロナ禍に入る直前にですね、私ここの教会に行って、ちょっと礼拝に、夕飯に参加したことがあるんです。
アメリカ人のこの病院付けの牧師チャプレンと話したんですね。
まあ面白いことに、聖ルーカ国際病院もそこのニーザーの立教大学も同じ系列のグループですから、
そこのチャプレンがですね、立教のチャプレンも知ってるから、
ジェームスって言ったかな、ちょっと訪ねてみたらいいよなんて言ってくれたんですけども、油断ですけども、
そのチャプレンはですね、入院中の患者さんのケアももちろんする。
あるいは研修医って言ってね、見習い、1年目、2年目のお医者さんのですね、
研修としていわゆるスピリチャルケアですね。
宗教的にケアをどうやって患者にするかってことも病院内で教えたりするそうです。
このチャプレンというのはですね、いろんな意味があるんですけど、例えば病院付けのチャプレン。
18:07
もともとですね、いろんな由来があるんですけども、その病院のチャプレンの由来というのは、
本来は日曜日に教会まで行って礼拝できない人のために、
礼拝をしたり、まあ神父であれば、生産式を取り行うことが目的だったんです。
例えば看護師さんとかお医者さんなんかはお仕事をしていて、日曜日でも職場離れられないから、
そういう人のために礼拝行為を取り行うということが主な仕事でした。
もちろん患者のケアもそうです。
そこからですね、わかる通りですね、このように健全なキリスト教っていうのはですね、
命を救うこととか、人々のニーズに応えること、それと神の前での宗教行為ということをバランスよく行っているということを、
私たちもクリスチャンとして知っておくこと、それをある意味クリスチャンとして誇りとして持っておくということは大事ですね。
命を救ったり人のニーズに応えることと、礼拝を始め神の前に正しく生きるということを、
それをバランスよく健全に行っている。
それが健全なクリスチャンであり、それこそイエス様の足跡になることですので、
私たちもそのようなバランス感覚をクリスチャンとして身につける必要もあるということですね。
ちなみに教会で元哲学外来カフェが行われていますけれども、それもそういう意味があります。
宗教的行為ではないんですけれども、イエス様の広い救いというものに人々が触れることができる、
何らかのニーズに応えるために、そういう元哲学外来カフェをやっているということも覚えておいてください。
それが2番目です。
些細なことでもイエス様は重大な命に預かる案件として見てくださるので、祈りましょう。
私たちはまた今度はクリスチャンとして、宗教的行為でないことをですね、
特に人の命やニーズに関わることをですね、
些細なこととして仕付けることがないようにバランスを保っていきましょうということが2番目です。
最後に短く、これまでのまとめと今後の展開についてお話ししていきましょう。
今日のこの箇所でこういうことがありました。3章2節6節。
人々はイエスがこの人を、手のなえた人を安息日に直すかどうか、じっと見ていた。
イエスを訴えるためであった。
大差異人たちは出て行ってすぐにヘロデトの者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
あのちょっと話を取りますけど、優れた文学作品とか映像作品にはですね、
いろいろな必ず物語の筋書きがあって、
将来大きな出来事になりそうな事件とか人物を物語の最初の方にチラチラチラと出してくるわけですよね。
21:06
で、例えばマルコの服にしてもそれと同じことがなされていて、
ここではですね、これまでの癒しの物語の中で初めて出てくることがあります。
ちょっと本題に関係もありませんけど大事なので、例えば一つはですね、
癒しの奇跡ですけども、今日のところではイエス様以外は喋っていません。
他のところでは、私を清めてくださいってツアラとの人が話したりとかですね、
あるいは反対者でさえですね、心の中でつぶやいて、
誰、神以外に誰が罪を許す権威があるんだっていうつぶやきが聞こえてきたり、
あるいは立法学者がですね、あなたの弟子たちはどうして安息にしにこんなことをするんですか?
っていうそういう反論の声もあるんですが、
今日の箇所ではイエス様以外、こだわを発していないんですね。
実はそこに一つの不気味さがありましてですね、
パリサイ人たちはイエス様の質問に答えない。
でも答えないけどどうしてるかというと、ヘロデ島の者たち、政治的な一派とですね、
どうやってイエスを殺そうかという相談をし始めた。
沈黙ですね、相手に答えず無視をして、心の中で憎しみを増し加えて、
そして殺す算段を始めた。
その沈黙にですね、不気味さや彼らの敵、そしてイエス様が怒ったり悲しんだ、
彼らの堅くなさということが見て取れるわけです。
そしてこの、ここからですね、イエス様の殺害計画がどんどん進んでいくばかりか、
パリサイ人ら、イエス様の敵たちとですね、イエス様の衝突が激しくなってきて、
十字架の危機が迫ってきます。
それと同時に今日のところはですね、最初の奇跡物語のシリーズが終わって、
今度は新しくですね、新しいイエス様の教えのシリーズが始まって、
しかも違った類の奇跡が出てくる。
そういう前半の頂点、ピークが今日のこの箇所なんですね。
まあそんな中でですね、これから有名なイエス様の例え話が出てきたり、
先ほども言いましたけど、新しい奇跡物語が出てきたり、
それらの展開の中でイエス様とパリサイ人の衝突が激しくなって、
イエス様の命の危機が高まっていく。
そうやって物語が展開していく。
そんなことをですね、期待しながら、
引き続きマルコの文書からイエス様について学んでいくお互いでありましょう。
お祈りします。
24:00
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様は私たち人間を救う救い主としてこの地に来てくださいました。
私たちが些細なことと思うような、
そのようなことも真剣に向き合って、
私たちに救いの手を差し伸べてくださるお方であることを覚えて感謝します。
どうか私たちがこの日々の歩みの中で、
あなたに助けを求めながら、そしてあなたの救いを体験し、
歩むことができるように導いてください。
またこのイエス様の福音の物語が進む中で、
ますますイエス様の足跡を見、
またイエス様の受難の道を知ることができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様の名前によって祈ります。
アーメン。
それでは皆様1分ほど黙祷して、
主に応えて祈りましょう。
25:03

コメント

スクロール