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エペソビトへの手紙、4章32節から5章2節を朗読します。
互いに親切にし、優しい心で許し合いなさい。
神もキリストにおいて、あなた方を許して下さったのです。
ですから、愛されている子供らしく、神に習うものとなりなさい。
また、愛のうちに歩みなさい。
キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神への捧げもの、
また、生贄とし、香ばしい香りを捧げて下さいました。
以上です。
今日はこのところから、神に似た人になる、と題して御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。
突然ですけれども、私が20代の頃のお話をします。
私が20代の頃ですね、
キリスト教の結婚式、ある教会で取り行われた友人の結婚式に出ました。
そこで、友人、神老の代表の挨拶がなされて、今でも動いていることがあります。
少々お待ち下さい。
今、ちょっと入ってくる方がいるんで。
私が20代の頃、初めて、キリスト教の結婚式に、
初めてじゃないんですけども、他所の教会の結婚式に出た時に、神老の友人代表がですね、こういう挨拶をしたんですね。
些細なことから争いが起こると。
結婚してですね、朝歯を磨くと。
奥さんはですね、貴重面の方で、歯磨き粉のチューブをちゃんと後ろの方から出して歯を磨く。
一方のご主人はですね、歯磨き粉の真ん中からブチュッとですね、チューブを出して歯を磨く。
で、貴重面の奥さんからしたら、そのことが旦那さんは許せないし、旦那さんからしたらですね、もうちょっと大らかにしてよということで、
このような些細なことがですね、 夫婦の生活習慣の違いから衝突になるんだ、というようなことを話したんですね。
私はそんなもんかと思って聞いてましたけども、結婚して、なるほどなと思った次第なんです。
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皆さんはどうでしょうか。 このようにですね、大事ではない些細なことから、
そしてキリスト教の教会で言えば、本質的でないこと、そして聖書的でないことから衝突が生じて争いに発展しないようにパウルは今しめています。
それが先週から続く御言葉です。 そして今日は少し積極的な今しめをパウルは語っていますので、3つの点から話します。
互いに許し合うということ、神に習うものとなるということ、 そして
キリストに習って愛のうちに歩むということ、この3点から今日はお話をします。 まず最初の点ですが、
互いに許し合いなさいということですね。 読める方、前に掲げた御言葉を読んでみましょう。
4章32節。互いに親切にし、優しい心で許し合いなさい。 神もキリストにおいてあなた方を許してくださったのです。
先ほどのハミガヒッコという小さな例ですけれども、 エヴェソの教会でまさにこの
福音の本質とは違う点、 伝統や教え、
伝統から出た習慣、 そこから衝突する危険があったわけです。
もしかしたら実際の衝突が起こっていたかもしれません。 だからですね、
怒っても罪を犯してはなりませんとか、 息通り叫びを捨てなさいなんてパウルが
この間の見たところで教えていたわけです。 で、クリスチャンになってもですね、
ユダヤ教の背景のあるユダヤ人は、 さまざまなそこから派生した忌ましみを守ってきました。
例えば、 福音書によく見られますけれども、
マタイの福音書の15章で立法学者パリサイビトがイエス様の弟子たちを非難したんです。 それは何か、弟子たちが
洗わない手でパンを食べたからだというんです。 これ、今のコロナ禍における私たちにおいては当然のことかもしれませんが、
ちょっと違うんですね、当時の常識。 それは、宗教的な汚れと手を洗うということが関係したわけです。
ユダヤ教に熱心な人たちは、 外に出て行って市場に行ったり、いろんなところに行くと、
汚れたものに触れないように注意をしていたんです。 でも、知らないうちに汚れたものに触れる。
極端な話、違法人が触ったものに触れる。 そうすると、彼ら自身が宗教的に知らない間に汚れてしまうわけです。
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その汚れた手で、 そのままパンを食べると、自分もいわゆる宗教的に汚れてしまう。
そのことを恐れて、彼らは家に帰ると手を洗って、 極端な人は水浴までして、
今も外から帰ったら、まずシャワーやお風呂を浴びて、 コロナの感染予防をするわけですけれども、
熱心なユダヤ教徒、クリスチャーになっても、 宗教的な汚れから手を洗う、水浴するということを家に入って過ごした人たちがいたわけです。
そのようなことから、そういうことをしない、 ユダヤ教の背景のない違法人クリスチャーとそういうことをする、
ユダヤ教の背景のあるユダヤ人クリスチャーとの間に衝突が起こっていた。 起こる危険があった。それが怒りになり、言い争いになっていた。
その危険があった。 そしてパウロが先週見たような教えを書いて送ったということがあるわけです。
このような無益な衝突が起こらないようにパウロは、 先週見た箇所で教えてきましたけれども、
先週の箇所はですね、 してはいけませんという禁止のある意味否定的な教えでしたが、
今日のところでは何々しなさいという前向きな教え。 その一つが、
前にも掲げてある4章32節の、 互いに許し合いなさいという教えです。
言語ではですね、 互いに許し合いなさいという言葉が続いています。
また、この許し合いなさいという言葉はですね、 許す人になりなさいという、
義の前というですね、 なるという
動詞の命令形なんです。 英語で言うとbeですね。
be ambitiousという、 少年を大使、青年を大使を抱けているその同じ、なりなさい。
許す人になりなさいとパウロは教えているわけです。 翻って私たちは
許す人になっているでしょうか。 イエス様も実は
このように、祈りなさいと教えていますね。 主の祈りですね。私たちが礼拝で祈っているのはマタイの福音書の主の祈り版ですけれども、
ルカの福音書の主の祈り、イエス様が教えた祈りには、 こう書いてあるんですね。
前の御言葉を読める方、読んでみましょうか。 ルカ11章4節3、私たちの罪をお許しください。
私たちも私たちにお意味のあるものを皆許します。 私たちも私たちにお意味のあるものを皆許します。
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このような、許すということをイエス様も教えています。 また大事なことはですね、
お互いに許し合いなさいということです。 英語ではeach otherとよく言われますが、
聖書でよく言う大事なお互いに、それはつまり、 私たちは他の人を許しますが、私たち自身も許されなければならない存在であるということを
覚えておかなければならないわけです。 私たちは許し許され合う関係の中で生きている。
パウルはエペストの教会の中を行っていますが、 キリスト社同士も許し許され合う関係の中で生きている。
自分ばっかり許して損していると思うのではなくて、 許し許され合って自分も許されていることを忘れてはいけません。
そして、この御言葉にありますようにですね、
神もキリストにおいてあなた方を許してくださったのです。 許しの根拠として、あなた方もイエス様にあって神様から許されているんですよ、と。
つまり、自分自身も神様にあって許されている存在、 そのことを認めていくことが必要なわけです。
このキリストにおいて神が私たちを許してくださった。 これがですね、第二のポイントにつながっています。
今、羽賀くんが来ましたね。 一番後ろの側、真ん中の席に座りましょうかね。
神様が許してくださったから、ということが二番目につながっていくんですが、
二番目はですね、
そこでいいよ、そこで。
どうぞ、はい。 二番目はですね、
神に習うものとなりなさい、という教えです。
読める方、前にある五章一節を読んでみましょう。
ですから、愛されている子供らしく、神に習うものとなりなさい。
ここでの言語もですね、
なりなさいなんですね。 ここの御言葉は、なりなさいという言葉が
はっきり訳出されていますね。 さっきは許す人になりなさいっていうのが訳出されていませんけども、
全く同じ、ギネッサイという、
ビカミング、ビカムというね、そういう命令形が、同じ言葉が使われているんです、さっきの三十二節とこの五章一節。
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で、ここでは、
神に習うものとなりなさい、と
教えられているわけです。
で、この表現はですね、非常に珍しいんです。
パールはよく、皆さん新学生書よく読むと分かるように、
私を見習うものになってください、と言っています。
そしてイエス様自身に習うものになりなさい。
人となった神であるイエス様に習うものになりなさい、という表現は、新学ではよく見られますが、
唯一、新学生書で、神に習うものになれ、という命令がここにあるわけなんです。
それほど大事な、稀な教えです。
そしてこの、習うものになりなさい、の習うというのはですね、
真似をするという意味なんです。
ある英語の訳ではですね、
Be imitator of God。
イミテーションという言葉がありますけど、
真似をする人になりなさい。
人はですね、憧れの対象の真似をしますね。
これよく分かりますね。
大谷翔平選手がアリーグのMVPに、
一郎さんに続いて20年ぶりに、
満票でですね、一郎さんにもできなかった。
30票満票でMVPに輝きました。
この漢字のですね、大谷翔平のユニフォームなんかも、
馬鹿売れしているわけです。
で、これはですね、やはり
不安が、
彼に憧れているから、これを着たい。
彼のような、
パフォーマンスはできないから、せめて同じユニフォームや、
名前入りの、日本人だから、漢字の名前の入った服を着たいと。
それが不安の真理でわけですよね。
私の後知り合いでですね、70歳ぐらいのある女性がですね、
オードリ・ヘップマン、不安なんです。
カスガのオードリじゃありません。
オードリ・ヘップマンという、もう美人女優、ローマの休日。
で、彼女はですね、
オードリ・ヘップマンがLINEにした時に、
NHKホールに会いに行って、
本当に会えたそうです。一番前の席に座って、
握手してもらったって、嬉しそうに私に語るんですね。
教会の方じゃないんですけど。
もうその方の表情が輝くのと同時にですね、
これ本当なんですが、
その方の目の
やり具合とか、首のカッシング具合とかですね、
笑顔の作り方が、
多分意識してないと思うんですけど、
このオードリ・ヘップマンにそっくりなんですよ。
本当に
70くらいの女性なんです。
このようにですね、あとで、
人は自分の憧れる存在を真似したりですね、
憧れる存在に似てくるんですね。
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実はこのパウロの言葉は、
子供が親に似てくるという、そういう元々の意味があるんです。
同じ今、遺伝子持っているから似るかもしれません。
そしてパウロが言うには、
私たちクリスチャンは
誰の真似をするかと言えば、
誰に似るものになるかと言えば、
私たちの
父なる神ご自身の
真似をする人になりなさい。
そう教えているんです。
そしてその具体的な
教えの一つが、先ほども
見ましたけれども、
お互いに許す人になりなさい。
互いに許し合いなさい
ということがあるかと思います。
神もキリストにおいて、
神もキリストにおいて、あなた方を許してくださったのですから、
あなた方も
許し合いなさい。
それが神に似るものの
一つの特徴である。
さらにパウロは最後にですね、
イエス様にならいなさいと
勧めているわけです。それが3番目。
愛のうちにあいみなさい。
5章2節読める方、読んでみましょう。
また愛のうちにあいみなさい。
キリストも私たちを愛して、
私たちのために
ご自分を神への捧げもの、
また生贄とし、香ばしい香りを捧げてくださいました。
愛のうちにあいみなさい。
あいみなさいというのをよく言うようにですね、
生活しなさい、生きなさい。
ここも先ほどと同じ
明確な命令形が使われているんです。
愛のうちにあいみなさい。
パウロは4章21節で、
真理はイエスのうちにあると教えているように、
イエスを
真似るというふうに
捉えることもできると思います。
愛のうちにあいむとは、そのイエス様の
地上での生き様を真似ることになるわけですね。
一番目の点で
些細なことからの衝突という例でですね、
立法と一体を守るがゆえに、
聖書の教えや本質的な教えを見逃す、
そういうことを話しました。
その
立法学者やパリサイビトが
イエス様に
いろいろ質問したんです。その中である学者が、こう質問したんですね。
先生、
立法の中で一番大切な言いましめは何ですか?
100以上も細かい言いましめがある。
何が一番大事ですか?と
イエス様を試して
質問した。それに答えてイエス様はこうおっしゃったんですね。
マタイの22章の37から40節。
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そこでイエスは
彼に言われた
ここを読んでみましょう。
心を尽くし、
思いを尽くし、
知力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。
これが大切な第一の言いましめです。
あなたの隣人を、
あなた自身の恩に愛せよ、
という第一の言いましめを、
それと同じように大切です。
このように二つの大事な言いましめがあるよ。そして、
イエス様が締めくくっています。
立法全体と
預言者とが
この二つの言いましめにかかっているのです。
この立法全体と預言者というのは、別の言い方をすると
旧約聖書全体と言います。
この二つの言いましめ。
神を愛し、
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
これが
最も大切な言いましめだと
イエス様はおっしゃったんですね。
すべての言いましめはこれにかかっているとも教えられました。
まさに
愛のうちに歩むことこそ
立法の本質である
聖書の教えである
そうイエス様は教えました。
そしてイエス様は
それを自ら体現されましたね。
十字架の上で
罪の磨りとして
命を捧げ
私たちにその愛を
表して
くださったんですね。
イエス様の弟子の一人
まさにマナ弟子と言われています。
愛された弟子
の一人のヨハネが
こう書いていますね。
第一ヨハネの手紙3章16節
読める方読んでみましょう。
キリストは私たちのために
ご自分の命をお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは兄弟のために命を捨てるべきです。
最後の
この教えは非常に
厳しい教えかもしれません。
しかし
ここで大事なことがあります。
赤く強調しておきましたけれども
大事なことは
イエス様が私たちのために自分の命を捨てられたんですけども
それによって私たちに
愛がわかったのです。
つまり私たちはまず
イエス様の十字架のその
愛をよく理解する必要がある。
経験する必要がある。
心奥深くにそれをとどめる。
喜ぶ必要がある。
そして
ヨハネは続けていますね。
ですから
ですからというのはですね
それがわかったから
だからこそ
兄弟のために命を捨てるべきです。
逆の言い方をするとですね
21:00
私たちは心配になるわけです。
自分が人のために命を捨てなきゃいけないのか
そんなことできない。
嫌々ながらするのも嫌だ。
その心配はありません。
自由意志が与えられているという愛が
神によって
与えられた証拠なんですが私たちは
喜んで
捧げるものに
なるべきなんです。つまりそれは
イエス様の愛が本当にわかって
そこから出てくる
愛
それこそが
神に喜ばれる
愛の行いになるわけなんですね。
この3番目の
御言葉の
イエス様の十字架がですね
生贄である
香ばしい香り
を捧げたことになっているという言い方
これはですね旧約聖書の
捧げ物で
牛やヤギの肉を焼くんです。
いい匂いがするんですよ。いい匂いが。
焼肉屋のサバ取るといい匂いするでしょ。
そういう匂いです。
それはですねどういう意味かというと
神が喜んでおられる
そしてそこには喜びがあるという意味なんです。
だから私たちもイエス様に習うならば
イエス様の愛を知って
喜んでそれに応えていく
愛のうちに
歩むということなんですね。
何度も言いますが
いやいや歯を食いしばってするものではない。
そのことをぜひ忘れないでいてください。
そして
イエス様の愛で許しを知った人だけが
それができることなんですけれども
私たちはですね
イエス様の愛で許しを知った
ということはもちろんですけれども
神様の真似をするためには
神様ご自身を
知らなければ
真似をできないわけですね
知らない人のことを真似ることはできません。
そういうところでこういうことが考えられるんです。
私たちが毎日聖書を読んで
お祈りするのはなぜか。それは
神様を知るためなんです。
イエス様の
愛を知るためです。
聖書で言う知るという言葉
それはですね
体験によって知るという
そういうことも意味します。
聖書を読んで心が動かされる
祈りの中で正直に神に打ち明けて
心が神とつながる
精霊によって
神の愛が注がれるという
経験
あるいは日々の出来事の中で
困った時に本当に神様を助けてくださいと祈ってみる。
あるいは日々の生活の中で
周囲深く神様の愛の働きを見つけて
そして神様
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やはり私に
生きて働いておられるということが分かって
神に感謝する。
そのようなことを通して神の愛を知り
私たちは
神とキリストに
習うものとされていくわけなんですね。
そのようなことが分かりながらですねぜひ
皆さんにも聖書を読み日々祈り
生活の中で神を体験していく
そのようなものに
私たちになっていきたいと思います。
その歩みの中で私たちは
神様を知り
イエス様の愛を知り
神を真似るものとなり
イエス様の愛のうちを歩むお互いと
なるわけですね。
お祈りしましょう。
天の神様
あなたのお名前を賛美いたします。
神に習うものになりなさい。
私たちは神を知り尽くすことができません。
イエス様の愛をもっと知りたいと思います。
人知を遥かに超えた
イエス様の愛を
どうぞ私たちが知ることができますように。
神様どうか
私たちに精霊の力を与えて
神様ご自身の愛また
神様ご自身の
この生き様を
聖書を通し祈りを通しまた
日々の生活を通して
知ることができますように。
そしてあなたへの
喜びをもって
あなたに仕え人々に仕えていくお互いでありますように。
この願いと感謝を
私たちの救い主
シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど
神様に応えてお祈りしましょう。