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マルコの福音書9章30節から37節をお読みします。
さて、一行はそこを去り、ガリラ屋を通って行った。 イエスは人に知られたくないと思われた。
それはイエスが弟子たちに教えて、人の子は人々の手に引き渡され、殺される。
しかし殺されて3日後に蘇ると言っておられたからである。 しかし弟子たちはこの言葉が理解できなかった。
またイエスに尋ねるのを恐れていた。 一行はカペナウムに着いた。
イエスは家に入ってから弟子たちにお尋ねになった。 来る途中何を論じ合っていたのですか。
彼らは黙っていた。 来る途中誰が一番偉いか論じ合っていたからである。
イエスは腰を下ろすと12人を呼んで言われた。 誰でも先頭に立ちたいと思う者は皆の後になり、皆に使える者になりなさい。
それからイエスは一人の子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせ、 腕に抱いて彼らに言われた。
誰でもこのような子供たちの一人を私の名の家に受け入れる人は私を受け入れるのです。
また誰でも私を受け入れる人は私ではなく、私を使わせられた方を受け入れるのです。
以上です。 今日はこのところから
使える人にと題して2言葉を取り継ぎます。 皆さんおはようございます。
今年に入って2020年2回目の礼拝です。 本当にいろんなことが起こって、
エノトロン地震でもですね、まだ復旧が全く追いつかない。 施設によりますとですね、
上下水道の整備が一番かかるそうで、だいたい平均180日復旧にかかるそうです。 時間を繰り返すのでね。大変かと思いますので、
祈りながらできることをそれぞれしていければと思います。 また芸能関係ですけどもね、安野昭さんが昨年くらいに亡くなっていたというニュースが飛び込んできて非常にびっくりしました。
本当にいろいろな、私からすれば昭和がですね、そういう意味で
移りゆくなんてことも感じさせられる日々でした。 そんな中で今日はですね、
マルコの福音書、これまでの続きのところから見てまいります。 聖書はですね、その人物、登場人物の立場になって考えるとよく理解できます。
今日の箇所でイエス様にある面、取り詰められている弟子たちの立場になって考えてみるのは、今日はどうでしょうか。
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一般の人がイエス様の言葉が心に響かないという理由、あるいは反対にですね、私もそうかもしれませんが、長らく聖書の言葉に馴染み深くしていますと、
慣れ親しんでいる。そうすると、それがあんまりスルッと流れてしまうことがありますけれども、弟子の立場でですね、聖書の言葉をもう一回聞き、
見ていく、理解していくと、馴染みがなかった人でもですね、びっくりするようなことがあったり、あるいは慣れ親しんでいた私たちにとっても、新鮮な響きで伝わってきます。
聖書をですね、もうちょっと多角的に深く理解することができます。 その弟子たちはですね、ご存知のようにローマの帝国の支配下にあった
ユダヤ地方、ユダヤの社会に住んでいた。そういう2つの文化、ローマの文化とユダヤの文化の中で暮らしていたわけです。
そういう背景が2つあったということをまず捉えておいてください。 今日の最初の場面で、まずここで導入なんですけれども、30節、32節でイエス様は2回目のですね、
受難と復活の予告をしています。でも弟子たちはですね、例によってそれを聞いても理解できなかった。
それどころか、イエス様が目の前にいるのに、その理由を尋ねることができなかった。
尋ねることができなかったんですね。で、そんな中で、またそれはですね、今まで見てきたような弟子たちの未熟さということが現れていたわけです。
今日の箇所はですね、鍵は弟子たちをはじめ、人の中に潜む
名誉欲とかですね、支配欲とか、不健全な成功願望ということが明らかにされている。 そして、そんな中で
それに気づいて、使える人になりなさいということをイエス様は教えているので、そのことを3つの点から弟子たちの背景を知りながら考えていきたいと思います。
まず最初は弟子たちの立場、弟子たちの社会的な地位ということを見ていきましょう。 9の33、34節ですね。
一行はカペナームに着いた。イエスは家に入ってから弟子たちにお尋ねになった。 来る途中、何を論じ合っていたのですか?
彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである。
ちょっと見にくいかもしれませんが、このユダヤの地方の、ユダヤと言えば国家のガリラヤという地方がイエス様と弟子たちの活動拠点でした。
ガリラヤ湖ですね。ここのカペナームというところが今日の街です。ここは1章の14節でしたか、21節に一番最初にイエス様が弟子たちと街道に入って
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アクレを追い出したというところです。活動拠点でおそらくペテロの家があったのではないか。今日の家ももしかしたらペテロの実家だったのではないかと言われています。
そういう、これからおそらく
ヘンボウさんにてこのガリラヤを通って、しかしメシアの秘密を保ちながらこれからエルサレムに向かっていく途上だったらしいです。
そこでイエス様は柔軟の予告をしました。
このペテロとアンデレは両親でしたけれども、
彼らの社会的地位がどんなものであったかということをまず知ってください。
いわゆるですね、弟子たちは
小市民、小市民ですね。
学者が言っているんです。どういうことかと言いますと、当時の
社会的階層とか、社会的な階級というのはあったんですけれども、その小市民彼らの立場というのは一番多い、いわゆるマジョリティだったわけですね。
で
当然支配者層ではなかったですけれども、いわゆる最下層でもなかった。
で、イエス様はその最下層の人たちを貧しい人たちと言って、私はその人たちに福祉を述べてあるために来たと言っています。
で、この最下層の人たちというのはどういう人たちかというと、いわゆる自助努力によっては
自分のことを養えない貧困層、社会的弱者がいたんですね。
その中にはこれまで見てきたように、サーラトと言ってですね、この病に犯されたり、目が見えなかったり、体の障害の上にいわゆるその
ユダヤの社会から宗教的に穢れていると言って、弾きにされた人たちも含まれていたそうです。
で、その中でイエス様の弟子たちはいわゆる最下層ではなかったんですけれども、そのすぐ上の層がこの小市民だったんですね。
で、この弟子たちの小市民、どんな特徴があったかというと、彼らはですね、学者によると
漁師とかですね、普通の仕事をして健全な経済活動をしていたけれども、いわゆる本当に借金の返済に疲労しながら活路を乱そうとする小市民で
支配者層ではなくて、社会の大部分を占めていた人々だった。最下層のすぐ上の層がこの弟子たちがいる。
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羊飼いとか子作農もそうだったようですね。で、そんな弟子たちが
何をしていたかというと、イエス様に従っていけば
救い主、神の子に従っていけば、支配者層にのし上がれるんだと思っていたらしいですね。 そんな中でイエス様は
カペナウムというところでですね、家に入って、おそらくペテロニエーカーと言われてますけども、弟子たちに聞いたんですね。
来る途中、何を論じ合っていたのですか? 誰が一番偉いかを論じ合っていた弟子たちに対して、何を論じ合っていたのですか?
そうすると、 そのようにして彼らはですね、自分たちの中にあった名誉欲とか支配欲が浮き彫りにされてですね
何も言えなかった。黙っていた。 なぜ黙っていたか、そういうところがイエス様に見透かされて恥ずかしかったと
言われているんです。 これは弟子たちの背景です。
そこからまた次の点ですけれども、 イエス様はそんな弟子たちに、2番目、支配者ではなく使えるものになりなさいと教えました。
家の中に入って、9章の35節、家の中に入ってイエスは腰を下ろすと12人を呼んで言われた。
じゃあ誰でもから読めるかと読んでみましょうか。 3、誰でも先頭に立ちたいと思うものは、皆の後ろになり、皆に使えるものになりなさい。
ということです。 で、ちょっとここからさらに歴史的な背景が続きます。でも皆さん、聖書に親しんでいるので、それを知ることによって
聖書の出来事をよりよく理解できてですね、 もっと深く
共感しながら見言葉を知ることができますので、しばらく聞いてください。 で、実はですね、当時の今度はローマの社会全体で見ると、いわゆる支配者層というのは
地位と財産を有していたんですね。 財産がある人がその地位につけるみたいなこともあったそうです。
そして彼らの財産はどうやって賄われていたかというと、 重税です。
増税なんとかっていう人がね、言われてますけども。 学者はですね、はっきりとそれは搾取だと言っていました。
そのローマは帝国内にいっぱい属種みたいなものを持っていましたけど、その属種があった理由を平和に収めた理由は、
彼らが反乱を起こさないでおとなしくローマに従えるようにするということが一番の理由でした。 そしてそこからどれだけたくさん搾取するかということが彼らの
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最優先事項だったわけです。で、興味深いことにですね、イエス様を従事にかけたピラト、総督ピラト、ああいう総督は給料が
支払われてなかったそうです。なぜかそれは搾取して 私服を肥やすことが前提になっていた。
そういうのがもう当たり前の社会構造だった。 まあそういう搾取される側にあったのが弟子たちでした。
で、ご存知かもしれませんが、あのテルマイロマンなんかね、見てるからも知れませんけども、 首都のローマ
をはじめとする帝国内では、いわゆる支配者層は、その地位と財産ゆえにたくさんの奴隷を持っていました。
あの公館になんかになるとですね、 夫婦子供それぞれの奴隷があって、200人、300人家に奴隷がいたという人がいたそうです。
で、首都ローマではですね、たとえ支配者層でなくても家に2、3人の奴隷がいたというのです。
で、その時にですね、ちょっと弟子の立場になって考えてみましょう。 これ主税人ですね、搾取した側。こういう下辺、
いろんな役割を家で担っていく。 で、弟子の立場になってちょっと考えてみましょう。イエス様が
何でした?告白されたのは、イエス様をペテロは神の救い主だって言いました。 それはどういうことがキリストだ、どういうことか。
それはですね、当時皇帝が神のことを言っていたんです。 だからそれはイエス様は皇帝と同じ身分だということなんです。
そして、いわゆる約束のメッシャー、ダビデの子孫に、
このイスラエル民族が期待していたことは、その時で言えば文字通り、
ダビデの子孫の王として放棄をして、ローマを軍事的にやっつけて、そして彼らが国を支配する。
それを夢見ていたわけです。だからチラチラ、使徒の働きなんかも出てきますけれども、
そういう偽キリストが出てきて、 人々を煽動して殺されてしまったりしたわけですよね。ローマの人たちから。
そういう中で弟子たちはまだイエス様をそういう救い主だと期待していたわけです。 ちなみに余談になりますけれども、今日のところ一番最初にイエス様がガリダヤを通った時に人に知られたくなかったってありましたよね。
それはなぜかというと、そういう間違った期待でイエス様を見た人が多かったから秘密裏に通ったということなんです。
そういう期待を持った弟子たちは、当然イエス様についていけば自分たちもいわゆる支配層にのし上がることができる。
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そして多くの財産と奴隷を手にすることができると期待していたんですね。 そんな弟子たちにイエス様は
座ってというのは、当時のユダヤ教や聖書の教師が弟子を教える時の正当的な姿勢なんです。
そして目を見て弟子たちに教えました。なんて教えたか。厳粛に、誰でも
一番になりたいと思うものは、皆の後ろになり皆に使えるものになりなさい。 先頭に立ちたい、支配者になりたいと思う人は皆の後ろになり
皆に使えるものになりなさい。と弟子たちに言ったんですね。 繰り返しますがイエス様についていって
支配者層にのし上がってたくさん奴隷を有すると思っていたかもしれない弟子たちがですね
いやあんたたちは支配者層じゃなくて下辺になりなさい。 奴隷になりなさい。みたいに言われた。
その衝撃、想像できるでしょうかね。
ショックを受けたに違いない。 ところで
奴隷って言うとですね、非常にこうネガティブなイメージをいただくかもしれませんが、当時のローマでは
もちろん奴隷は物として扱われていたので市場で売買されていました。 けれども一方財産であり家族としてもみなされていて
たくさんの主人たちは良い人が多かったんですね。 だから家族同様大事にして
それなりの給料をもらって、お金を貯めて、それを主人に返して、いわゆる自分で事務を身受けして自由人になれた奴隷もたくさんいたそうです。
奴隷同士で結婚して、自由人になった奴隷と元奴隷が結婚したりして、その主人の家で家族を設けることもできた。
自由人になっても主人に仕える元奴隷もたくさんいたということなんですね。
例えばこの図にあるように、 明家の奥さんの奴隷の人は、こうやって鏡を磨いて鏡を持つ女の奴隷もいたそうです。
当時今と似ているように、髪の流行がよく変わったそうです。 だから美容師のような髪の形をきちんとするそういう女性の奴隷もいたそうです。
とにかく財産として特別な才能や職能を持った人として、大事にされていた奴隷も多かった。
多分イエス様はここで言う、使える人という時に、そのようなイメージ、自分の才能とかできることを通して人に使えるという意味で使える人になりなさい。
それことをイエス様はここで強調したのだと思います。 人のために使える人になりなさいとイエス様はここで強調したようです。
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先週の金曜日、不禁止かもしれませんが、ミュージックステーションでテレビ見てたんですよね。
去年のレコード大賞を取ったジェス・グリーンアップルという人が出てきて、私嫌いじゃないんです。
その人がカラオケに行ったんです、ボーカルの人。自分の歌を歌ったら4番だった、5番だったってすごいショック。
7番?7番だったってショックだったんです。自分の歌を自分より6人上手い人がいるって言ってショックだったんですね。
何が言いたいかというと、今はカラオケでも点数とランキングが出ますよね。
ゲームなんかでも世界ランキングとかが出るわけです。
SNSではこのいいねの数がどれだけいったかとかバズったかとかが話題になってですね。
要はこういう小さいこと大きいことをはじめとして、特別な才能や能力とか特権が強調されてるんですね。
どれだけその人が影響力があるか。インフルエンサーなんていう英語が日本語のように使われている。
で、そういう中で特別な才能や強調が、才能や能力や特権がですね、一般人というか変なんですけども、
強調されている中で、自分が取るに足りない人間なのかな、もっと大きいことをしなきゃいけないのかなという
錯覚というか脅迫観念に駆られる、プレッシャーに駆られるってことがあるかもしれませんね。
しかし、学者が言うんですけども、神の経済学というのはですね、そういう特権や特別な才能を持った人のための世界ではない。
シンプルで単純でですね、ノーマル、日常生活に即した中で奉仕をしたり、働く人を神はたっといとみなしてくれるんですよと学者は言っているわけです。
特別な才能や特権や能力ということもあれば、それに越したことないですけども、そうでなくて、
普通でシンプルな、単純な奉仕や仕事をする人、それをイエス様はたっとばれるということが言われているわけです。
そういう意味で、使える人になりなさい、普通にできることをしなさいという中で、次の点がそのことをもう少し具体的にわかる内容になってきます。
取るに足りないと見えてもということです。
その中でイエス様はこう続けました。
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それからイエスは一人の子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて、彼らに言われた。
ちょっと長いですが読んでみましょうか。
誰でもこのような子供たちの一人を、私の名のゆえに受け入れる人は、私を受け入れるのです。
また、誰でも私を受け入れる人は、私ではなく、私を使わされた方を受け入れるのです。
ちょっと見にくいんですけども、ここにイエス様が子供を抱いている絵を出しました。
このペテロの家に行った子供でしょうかね。
小学生、中学年ぐらいじゃないかと言われていますけど、あるいは幼児かもしれません。
イエス様は弟子たちの真ん中に立たせて、おそらく腕に抱いた。
どういうことを意味しているか。
実は子供についていろんな考え方が当時あったのですが、
ここではおそらく取るに足りない存在の代表として、子供というものが取り上げられたようです。
当時、むしろ邪魔であったり、奴隷に邪魔になったり、煩わしい奴隷に売られることさえあったような存在が子供だったのです。
そんな中で、イエス様は子供を真ん中に立たせて腕に抱いたというのは、
実は自分もこの子供と同じなんだ、取るに足りない小さいものなんだということをイエス様は弟子たちに示されたわけです。
同時に、自分の低さということをアピールしながら、こういう人に使いなさいと具体的に弟子たちに教えたわけです。
この間、東京新聞、先週読んだのですが、こういう記事が出ていました。
エマニエル在日大使が大谷翔平のデコピン用のビザの写真を作って、大谷翔平と面会して会ったんですよと。
在日大使ですよ。
日本におけるアメリカの代表が大谷選手と会って、Xにアップして喜んでいるわけです。
そしてこんな特別なワンコ用のビザの写真まで出して、今度来年に犬が来たときはこれを使ってくださいと言ったそうですけれども、
これ何を言っているかというと、大谷さんぐらいの人だと特別な扱いを受けるんです。
みんな喜んで、こういう地位の人が大谷さんだと特別に扱うんです。
子供に代表されるような、トロに足りないとみなされている人や貧しい人々を受け入れるなら、イエス様は私を受け入れたことと同じなんだと言うんですね。
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そしてもしイエス様は子供やトロに足りないと思われている人たちをあなたが受け入れるならば、私を受け入れることであり、それは私を使わせた父なる神様を受け入れることになるんですよと具体的に教えているんですね。
しばらく前にイエス様の十字架を背負って私に従いなさいということはありましたけれども、
これはその中の一つの具体的な生き方、使える人になる、目立たなくてもシンプルであっても普通であっても神と人に使えていく、これが弟子のあるべき姿だと言っているわけですよね。
そんな中でどうでしょうか、私も含め皆さん日々の生活の中でする普通のお仕事や普通の営み、家や職場でするそのような一つ一つの仕事まで拡大していいと思うんですよね。
そういうことを通して実は私たちはイエス様を受け入れているわけですし、神様をお使いしている、そういう面ある仕事をさせていただいているということかと思います。
もしかしたらダソル神社への支援もそういうことにかかっているかもしれません。
最後にイエス様自身が自らのこのような法師の質問について述べている御言葉を読んで終わりにしましょう。
ルカの福音書の4章18節、イエス様が一番最初にカイノで読んだ御言葉と言われています。
ちょっと長いですけど頑張って読んでみましょうか。
主の霊が私の上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、主は私に油を注ぎ、私を使わされた。
お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは弟子たちに使える人になりなさい。
子供のような小さなものを受け入れる人は私を受け入れ、またイエス様を私を使わせたお方を受け入れると教えて下さいました。
新しい年が始まりましたけれども、どうぞ私たちが日々の営みの中でこのあなたに使えるということ、
目の前にいる方々に使えたり、取りに足りないと見えるように見なされるかもしれないそのような法師や仕事の中で
あなたにお使いし、道にお使いし、またあなたの弟子として歩んでいけることができますことを感謝いたします。
この新しい年の歩み、それぞれの歩みをあなたにお祈りして、イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく御言葉に応えて1分ほど黙祷しましょう。