1. 人生相談のための精神分析的ラジオ
  2. 依存はしたくないし、自立もで..
2025-02-26 34:10

依存はしたくないし、自立もできる気がしない【1144】

自己愛対象関係のこと。
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サマリー

このエピソードでは、自己愛構造体と病理構造体について探求し、恋愛における自己愛の複雑さと矛盾について考察されています。また、精神的なポジション論を通じて、自己愛が他者との関係に与える影響についても議論されています。親との関係や自己愛構造の問題についても焦点が当てられています。特に、依存と自立の感情が人間関係にどのように影響を与え、愛情や切り捨てといった感情がどのように絡み合っているかが描かれています。依存と自立の葛藤について考察し、特に親子関係における依存の問題が探られています。さらに、自己愛構造やナルシシズムがどのように依存関係を悪化させるかについても論じられています。親子関係における自己愛と防衛機制の複雑な関係が探求されており、特に親の理想化が自分の感情に与える影響について深く掘り下げられています。

自己愛構造体の探求
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1144回をお送りします。
2月26日、226事件の日か、水曜日、7時34分です。
うーん、あれね、ひどく寒いぞ226って覚えさせられたんですよ。1936年ですね。
あー、確かに、この時期は寒いですね。
この頃、ただですね、日本では実は当時、確か後期2600年という、割と祝典的な雰囲気で、
そんなに世相暗かったのかっていう話があったりもするんですよね。
まあまあ、そういうよく知らない日本史の話はいいとして、
今日は先を急ぎたいわけですが、何でかって言うとですね、
今日の話は多分こみ入ってくるんですよね。
でも今日はあんまり長々と喋ってられないので、明日もやりたいかなと思っていますけど、
だいたいこういう話って、私いつもそうですが、前半後半に分けることの意味が全然ないような話し方になってしまうんですよ。
これしょうがないんですけどね。
まあちょっとその辺いきますが、
最近僕がずっと追ってる自己愛構造体、病理構造体とか言ったりもしますし、
自己愛対象関係とも言ったりするんですけど、
えっとですね、適切な例がね、なかなか思い浮かばないんですよね。
あんまりにもちょっとっていうのかな、ドロドロしてくるっていうのかな。
だからしょうがないんでちょっとね、考えて、いろいろ考えて、
一番やっぱり僕がこの問題で悩んだのは恋愛なんですよね。
これはやっぱり恋愛で起きがちなことなんですよ。
恋愛だと誰でもある程度はこれやるんじゃないかなと思うんですけどね。
私はちょっとこの時に気づいたんですよ。
自分は相当この件でこじれてるなっていうのに気づいたんですよね。
まあ端的に言うと、すぐ別れたくなっちゃうんですよね。
だけど私ほら、散々この番組では言ってる通り、
4桁に告白するほど彼女欲しかったくせにすぐ別れたくなるってどういうことなんだろうって、
自分でもすっごいね、この事故矛盾ぶりにものすごいイライラしたんですよ。
でも別れちゃったり本当にするんですよね。
狂ってんじゃない、つまり狂ってるっていうのはこういう時に出てくるんですよね。
正気とはもう思えないなっていうね。
でこの、まあだから恋愛で話せばいい。
ただ恋愛って恋愛じゃないですか。
何してるのかよくわからないけど、
つまり一般の心理状態と違ってしまうのはやむを得ないみたいな雰囲気が出てしまうんで、
これは一般の心理状態に起こることなんだけど、
恋愛における矛盾
恋愛の時は著しくそれが出るんで、
最近ようやくですね、私は、
自分がgood vibesってものがようやく板についてきたというか、
心に入った感じがするんですよね。
それは奥さんとの関係で感じるんですよ。
前みたいに、
要は僕のですね、自己愛構造体がいいと思う。
病理はある意味言いすぎな気がちょっと最近してきたんですよね。
自己愛構造体でいいと思う。
構造体って、この先日3ヶ月チャレンジである方が、
そういうことには割と細かい方なんですけど、
細かくすごく助かってるんですけど、僕雑なんで。
構造体って言葉はいかがなものかみたいな意見があって、
それは確かにそうなんですよね。
これはね、あの、
メラニ・クラインとか多分あんま構造体とか言うの嫌がったんじゃないの?
自己愛対象関係でいいでしょっていう感じで、
彼女はやっぱりその辺は割と厳密なんですよね。
ある意味では。
これもっとそこの構造体的に言わないなら、
二次ナルシシズムって言うべきなんだと思うんですよね。
クラインは絶対そうだと思うんですよ。
クラインはそもそも一次ナルシシズム認めてなかったから、
二次ナルシシズムですよ、それは。
っていう言い方だったんじゃないかと思うんですよね。
ロゼ・フェルドとかがやっぱり病理構造体とかって言っちゃってるわけなんですけど、
構造体って言ってしまうと、
本当にそういう構造のものができてるっていう感じがあってね。
あと誰が言ってんのかなと思うんですけど、
僕これはねすごい大事な概念だと。
正しいかどうかちょっと疑わしいんだけど、
大事な概念だと思うのが、
自己愛構造ポジションっていう言い方があるんですよね。
これは僕は、
ちょっと正式な名前忘れてるかもしれないんですけど、
つまりこういうことなんですよ。
PSポジションと妄想分裂ポジションとDポジション、
欲打つポジションの間に、
どっちにも行けずに困った人が、
いろんな意味で自分も困ってるし、
他の人も困らせるんだけど、
自己愛構造ポジションみたいなのを取るっていう、
この考え方は僕は、
それポジション論に持ってくるのってどうかな。
PSとDはあんなにきっちりしてるのに、
そこにこう三角形作っちゃうわけじゃないですか。
言ってみれば、
PSとDと自己愛構造ポジションの3つポジション、
ポジションだから別に3つでもいいんですけど、
でもどうなのかなって思うんですよね。
どうなのかなと思いつつも、
ポジション論を取って、
久しぶりにポジション論をたまたまネットで見つけたんですよ。
提供大学かなんかの心理学科なんかに書いてあったのかな。
ちょっと何大学か忘れましたけど、
あの画像で見つけたんですよ。
画像でなんですよ。
三角形が書いてあって、
これはでも分かりやすいかも、
こう考えてみるとっていうふうに思ったんですよ。
つまり、
欲打つも迫害も嫌だから、
自己愛構造にしてしまうっていうような感じなんですよね。
これは僕は、
この自己愛構造体というか病理構造体というか、
二次ナルシズムというべきか、
何て言いますかね。
自己愛構造にしては、
自己愛対象関係が一番、
僕の中では正しい感じがある意味するんですけどね。
この話の二正面作戦ぶりをですね、
二正面作戦って言うじゃないですか。
ドイツが第一次大戦でやってしまって失敗したやつですね。
第二次大戦でもやったよね。
結局失敗しましたよね。
だからイギリスとロシアを両方的に回すから、
そういうことが起こるんだけど、
二正面なんですよ。
何の二正面かっていうと、
欲打つに対する、
逆だな、先にこっちがいいな。
先防をまず防衛します。
羨ましく思いたくない。
私、羨ましくないからっていう感じ。
羨ましいって思うってことは、
負けてるってことじゃないですか。
私、羨ましくないからねっていうね。
これをまず持つ。
一方では。
他方で、羨ましくないからって言って、
円切ると寂しくなるじゃないですか。
悲しくなるじゃないですか。
やっぱり恋愛だと分かりやすいな。
僕はそういうふうに思いっきりなったんで。
で、欲打つに対する防衛もしたいと。
これ二正面なんですよ。
しかもこれは同時に出てきちゃうんですよね。
つまり、羨ましくないからっていうのは、
究極何を言いたいかっていうと、
お前のことなんか別れても俺平気だからって言ってるわけですよ。
でも、自分平気じゃないからっていう不安もあるわけです。
この両方の不安を、両方同時に解決したいから掘るんですよね。
欲打つポジションの不安が欲打つ不安じゃないですか。
で、PSポジションの不安が言ってみれば迫害不安じゃないですか。
全部を迫害と皆してるわけですよ。
勝手に自分が羨ましいと思ってるくせに、
全部を迫害と皆してるわけですよ。
いや、私はあなたと付き合いたくないです。
付き合いたいと言っておきながらそうなんだけど、
付き合いたくないですと言いたいわけ。
付き合いたくないですと一方で言っておきながら、
精神的ポジション論の考察
他方では別れたくないですって言ってるわけですよ。
だから二正面作戦なんですね。
両方を防衛しなきゃいけない。
そこで何をやり始めるかというと、
あなたは私だから論を取るんですよ。
論じゃないんだけど。
つまりこれが東映同一化による一体化。
東映同一化ってのは東映しまくることで、
私はあなた、あなたは私の世界を。
これね、あれなんですよね。
それと一つ意識どう違うんですかって言われると、
非常に困る。
非常に困るんだけど、
これは一つ意識とは違うんですよ。
これはね、すごいご都合主義的な取り込み。
だから取り込み同一化と東映同一化が、
一緒くたに起きてる感じがするんですよね。
ただ私この二つを厳密になんてとても分けられないと思うんで、
最近取り込み同一化ってあんまり言わないですしね。
やっぱ東映同一化にまとめてもいいんじゃないかぐらいに思うんですけど、
要は彼女とずっと付き合ってると、
時とかって恋愛ってそうじゃないですか。
よく言いますよね。
それはあなた、相手のことをちゃんと見てないで、
相手を理想化してるだけだからと。
その理想化ってつまり、
自分にとって都合がいいってことですよね。
まあ理想化でもあるんだけどね。
本当らしくないぐらい素晴らしい人にしちゃってるから。
でもそれって私の心がやってることだから、
いわば私ですよ。
で、恋愛中っていうのは、
相手もそうかなり振る舞ってくれる時があるんで、
ラッキーにやれば、
ラッキーじゃないのもいろいろありますが、
ラッキーにやればね。
そうすると、
相手もそうやって振る舞ってくれてるうちに、
同一化していくわけですよね。
つまりそれは私の理想に相手が合わせてくれているわけだから、
同一化してるわけですよ。
これを心の中に取り込んでしまうことによって、
理想通り振る舞ってくれない相手を、
こう脱価値化してね、
捨てていこうとするわけですよ。
かなりいやらしい話になってくるんで、
自分の人格疑いたくなるんで、
だからこの話をドロドロしてると言ってるんですけどね。
でもこれは起きることなんですよ。
私たちは絶対これを恋愛じゃなくて、
一度は絶対どんな人でも僕は、
自己愛構造体をみんなが持ってるっていうのはね、
私は今微妙に思ってるんですよね。
だから自己愛構造、
自己愛対象ポジションなんじゃないかっていうのは、
いい感じの話だなと思う。
誰もがこのポジションを取り得るとは思うんですけど、
誰もがこれを強く経験してきているとか、
これしょっちゅうやってる人もいれば、
そんなにこれを結構気を付けてる人もいれば、
後に言うようにですね、
これでどちらかというと欲打つポジションを取りがちな人もいるんで、
様々なんですけど、
親との関係について
これが誰でもあり得ることだっていうのは間違いないと思うんですよ。
なぜならば、これをみんな我々やっぱりですね、
幼児期に一回はやったと思うんですよね。
お母さんは理想のお母さんです。
理想のお母さん通りに振る舞ってくれないなら、
もうお母さんなんていりませんっていう、これなんですよ。
これは相手の親がよくできてるとかとは関係ないですよ、必ずしも。
よくできてるケースもあるでしょうけど、
いやそれはお母さん優しかったんだね、じゃないんですよ。
運と巻き戻せはどんなお赤ちゃんでも、
空想力さえあれば必ず一度はやると思うんですよ。
相手がどんなに虐待的であろうと、
毒親的であろうと、一度はやると思うんですよ。
だって空想する力があれば、
むしろ親がね、出来が悪いほどやりそうなことなんですよ。
空想したくなるじゃないですか。
で、一瞬でも親が、
例えばものすごい私のお母さんいいお母さんだと、
0歳3ヶ月児ぐらいの子が、ちょっと早すぎるかな。
でもあり得ることだと思うんですよね。
人間って脳がでかいんで。
0歳半年でもいいや。
親が出来が悪いっていうのは何が言いたいかというと、
その時親がやってくれてることが、
原始的であればあるほど、
原始的なのにそれが理想的に見えるというのは、
子供以下はやっぱり幼いということを意味してると思うんですよ。
いやだってあまりにひどいと死んじゃうじゃんっていうかもしれないけど、
死んでるならこの話はそもそも問題にならないんですよ。
何とか頑張って生きてきたからこそ、
親が何かはしてくれたはずであり、少なくとも生んでくれたわけ。
この話、産むってところから全てが始まっているんでね。
親がいなければいいっていう言い方って、
要は産まなければいいになるじゃないですか。
つまりこれは半出生主義みたいになっていくじゃないですか。
だからこれをメラニー・クラインが死の衝動と、
死の衝動って言ったのは本当はフロイトなんだけど、
メラニー・クラインはそれを論理的にすごく拡大したんです。
つまり生まれてこなければよかったのに、
あんた産まなければよかったのにっていう言葉は、
超破壊的なんですよ、自分に対して。
だって生まれてこなければよかったっていうセリフは、
生まれてこなければ言えないセリフじゃないですか。
ここのところはすごくややこしくなるし、
一層ドロドロしてくるんで、この辺にしますけど、
それをタナトスと呼んだってことなんですよ。
だからこの気持ちを防衛しなければならない。
そのためには究極的にはここで万能空想が出るわけですよ。
なぜ万能かというと、私が私を産んだからにしてしまうんですよ。
でも私がやったこと、私はこれを親にはやらなかったけど、
それほどは、彼女には絶対やってたんですね。
あなたはもう私の一部だから、あなた本体いらないからってこれなんですよ。
本体がいなければ恋愛できないだろうって感じになるんだけど、
あまりにも彼女に腹を立て始めると、これが起きるんですよ。
つまり切り捨てる寂しさと、さっき言いましたね、
切り捨てる寂しさと、相手の、恋愛で言うと、
男女逆にすれば、男女逆にしなくても同じだね。
要するに相手の言いなりになりたくないとか、
親の言いなりになりたくないとかそういうことですよね。
言いなりになりたくないとか、こいつとはもう付き合ってられんみたいな、
そういう別れるに従って発生するであろう2つの問題を同時に防衛するためには、
彼女と私は一体になりました。
だからここがおかしいんだけどね。
一体になったから本体はいりませんという理屈を作り出す。
これが心の中で構造化するというので、
自己愛構造体と呼んでみたり、
自己愛と統合の理論
病理構造、病理っぽいじゃないですか、この発想って。
だから病理構造体と呼んでみたりする。
一体になったものを心の中に持っちゃうということです。
私はこれ恋愛中すごいあったんですよね。
つまり別れてもいなくならない気がするっていう、
我ながら不思議な盗作感覚を抱いたんですよ。
そうすると別れられるじゃないですか。
つまり創的防衛が成立するんですよここで。
創的に元気よく切り捨てられる。
だって心の中にいるんだから。
しかも抑圧的にならずに済むわけですよ。
ただしこれは万能空想ですよ。
自分が生んだ人がいなくても自分は生まれてますって万能空想じゃないですか。
明らかにそれは万能であり、全知全能になってないとできないことですよ。
ほぼオカルトなんですけど。
だから現実見当式を下げないと無理なんですよ。
現実の吟味する能力。
本当にお前親がいなくても生まれてこれたかっていう現実見当能力が。
情緒的な話ですよこれはね。
情緒の発展とかじゃない気がするんですよね。
情緒的にこれを考えられるかって話。
視点を変えられるかって話に近いと思うんですよね。
情緒の発達みたいなことを言うと、
なんかこうやっぱ子供の発達みたいに思ってしまうんだけど、
これをもう情緒の発達というよりは、
情緒的に考える視点を取れるかっていうような話に近いなって思うんですよね。
誰だって理屈では親がいなくて自分が生まれてるはずないっていうのは分かるんだけど、
ここで一つエグい話をすると、
だからですね精神分析では途中に、
両親の成功を史上最高のものと見なせますかっていう問いが、
この時うわ気持って思ってしまうということは、
どこか自分の存在を気持ち悪く思っているってことになるじゃないですか。
だからこう、あのあれですよね。
現光景とか現空想とか、
排泄とか言いたがるわけですよ精神分析は。
そこを情緒的にちゃんと考えられてますかっていう問いを立ててるのであって、
ここを小切れにですね、
簡単なんですよここを小切れにやるのはね。
両親の成功をとか言っておけばですね、
だいぶ気持ちが楽になる。
でもこれで気持ちを楽にするっていうのは、
どっかごまかしがあると言いたいわけですよ。
フロイト依頼の原理的にですね。
ここを排泄と言っておくことによって、
気持ちの悪さをちゃんと保っておく。
気持ちが悪いってことは、
ちゃんと考え抜けていないっていうことを意味していると、
分析は言いたいわけですよね。
だからつまり、
未正面作戦を取ってるということですね。
そのために融合という、
非常に解決にもならない解決策を編み出すわけですね。
そうするとオリジナルというものを脱価値化できる。
なんなら切り捨てられる。
オリジナル不要論を唱えられる。
オリジナルがなくたって、
自分は存在しているんですっていう、
万能空想に浸ることができるわけです。
その時に元気さを保つことができるから、
創的になれると。
感情の葛藤と倫理
ここまでが前半なんですよ。
取り急ぎ喋ってきましたみたいな感じになって。
ここからが、
これをですね、
何とかするために、
分離するにあたっての、
分離するにあたっての、
自分の、
自分の不充足感というのかな。
オリジナルに依存しているということを、
防衛して否認したいわけですね。
母親に依存しているということを否認したい。
彼女に依存しているということを、
私だったら否認したかったわけですよ。
こういうことが起こるということは、
やはり彼女というものの存在が、
私に対して、私にとって、
何か大変腹立たしいものになってた、
ということなんだと思うんですよ。
それは、この関係が、
正しいというのか、
やっぱり良い関係であるということに対する、
私の長自画的なものがあるんですね。
私のというか、私と彼女で作った。
何なら彼女が作ったものなのかもしれないんですよ、
その長自画は。
融合してるんで、
もうどっちのものなのか分からないわけですよ。
付き合っていくなら、
毎日手紙を書こうみたいなことを、
言ったと仮にするじゃないですか。
この場合メールでいいか。
お互いメールをやり取りしようと。
でも彼女はしばしばすっぽかすくせに、
私がすっぽかすくせに怒るみたいなことって、
怒ってくるわけじゃないですか。
つまり、彼女の長自画が言ったべき論を、
私が守らなければならないんだったら、
私の長自画にしてしまうんだから、
オリジナルはいらないみたいな、
こういう理屈が出てくるわけですよ。
この話は、
なんでそんな込み入った言い方をしなきゃ、
なんないんだって言われるかもしれないと。
なんつーのかな。
こういう怒りがないんだったら、
オリジナルを切り捨てる理由って、
怒らないですからね。
関係というのは結局、
自分の心の中にできたものであったり、
理念であったりしないってことなんですよ。
リアルな関係というのは。
あなたがそれを言ったんじゃんとか、
そういう話をするってことは、
これって究極的には浮気みたいな話でも、
成り立ちますから。
だからこの辺でまた、
めんどくさいことが起きるわけですよ。
浮気は別でしょうみたいなことを、
言いにくいんですよね。
この自己愛構造体というものを、
一つ仮定してくると。
オリジナルを重視するということは、
オリジナルが何をしたって、
ある意味、だからこれやっぱりね、
その話をいくらしても、
無駄な感じがしてきた。
無駄な感じはするんですよね。
あの怒りというのは、
つまり自分にとって都合がいいか悪いか、
っていうのがやっぱり重要だと思うんですよ。
なんだかんだ言って。
そこに倫理みたいなものを持ち込んでるような、
雰囲気を持ってますけれども、
実際はそうではないと思うんですよね。
やっぱり長寿がと勝手に融合してしまっていて、
つまり関係というものの中に、
関係というものを自分の中に、
同一化していくと、
どうしてもそこには長寿がというものとの
同一化も一緒に起きてくると思う。
特になって親なんてそうじゃないですか。
何々しなさいっていう関係を作ってるわけだから、
親が言う通りにしないということは、
やっぱり親は喜ばないですよ。
でも親が言うことが正しいということになってくると、
依存と親子関係の葛藤
長寿がを自分のものとして取り込んでるものになります。
そうすると親はしばしばその言い付け通りには
行動しなくなりますよね。
言い付け通りに行動しなくなると、
自分は長寿がと一体化して、
親とも一体化してるから、
親を罰したくなりますよね。
その長寿がの論法を持って、
いつもスマホばっかり見てるんじゃないって言われた子供としては、
親がいつもスマホばっかり見ているのを、
逆に責めたくなるじゃないですか。
この話は精神分析的に見ると非常識に見えるんですよ。
それはそれ、これはこれでしょっていうのを、
どっかに作っちゃうんでね。
でもこれを厳密に厳密に適応していくと、
やっぱり長寿がというのは理念なんで、
べき論なんで、
自分がその長寿がと一体化すると、
当然親に腹を立てるわけで、
親に腹を立てる理由はこれだけではないって絶対にね。
親を切り離したくなるということが起こるわけですよ。
その時に、
親への依存という問題が一つ必ずある。
依存してるから結局こいつは正しくなくても、
従わなければいけないのかみたいな、
そういう話になる。
心の中ではね、そういうナラティブが発生するわけですよ。
ナラティブにあまり意味はないと僕は思うんですけれども。
ここで問題になってるのは、
結局のところは、
依存しているという事実を否認したいわけなのと、
その依存を離れてしまうと自分一人で行かなければならない。
そうすると、長寿が的理念って大して役に立たないじゃないですか。
スマホばっかり見てるんじゃないみたいなのから離れて、
スマホをバリバリ見ることができたからといって、
それでどんどん自分の人生が充実していくってことは起きないじゃないですか。
つまり、依存を離れると非常に不安になりますよね。
欲打不安が今度出てくるわけです。
こいつも防衛しなきゃならないわけですよ。
想的に防衛しなければならない。
だから離れても大丈夫だもんねって思わなきゃいけない。
その時に親の良いところは私はすでに全部吸収している。
こういう言い方ってするじゃないですか。
家元制度みたいなやつですよね。
もう学ぶべきことはこれ以上はないみたいな。
そういうやつですよ。
これが冗長的に来てるわけですよ。
もうこの恋人とは付き合ったから、
全ては分かっているみたいな。
なんて言うんですかね、この取り込み感ですよね。
取り込んで私のものにしたんだから、
もうオリジナルは私には不要になった。
言いたいっていうことなんですよ。
それだけ離れたい、イライラさせられる理由もあるんですよね。
やっぱり関係なんで。
これによって関係をどんどん壊して、
どんどん取り込んで、
自己愛が肥大化していくという形の人生の反復が、
自己愛構造の影響
たぶん二次ナルシシズムの問題ってやつなんだと思うんですよね。
で、もうこれはこのパターンを常に取るとは限らずに、
実際に依存に圧倒されてしまうというケースもあると思うんです。
結局葛藤はあったはずなんですよ、絶対に。
葛藤全然ありませんでしたっていうケースはたぶんないと思うんですよね。
葛藤はあったと思うんですよ。
どんなに幼くたって子供は親に腹を立てることあるし、
どんなに仲良くたって恋人に腹を立てることはあるでしょう。
だから葛藤は起こると思うんです。
その時に今のように全部自分が正しいんだに持っていくことで、
もういいものは全部取り込んだからもういらないんだっていう主張をすることで、
これはだから傲慢型なんですよね、どっちかというと。
でもナルシシズムは逆も起こるんですよ、きっと。
圧倒されてマゾキスティックになっちゃうケースってあると思うんですよ。
親子関係だと特にあり得ると思うんですよね。
親絶対正しいことにしちゃおうという。
しちゃうんですよ。
これ結局同じなんですよ。
自分絶対正しいことにしちゃおうというのと、
親絶対正しいことにしちゃおうというのと。
常識的には中間でしょうっていうのは中間なんですけれども、
これが簡単でないケースがあるわけです。
どっちの場合もおそらく親がむちゃくちゃな場合こそむしろ簡単じゃなくなる。
ここが独特なんですよ。
親が横暴だとこれが起きやすいんですよね、きっと。
親が程よいというか、親がそもそも中間的な存在である限りにおいては、
いやそれは中間でしょうと平気で言ってられるんだけど、
親がむちゃくちゃだった場合、子供としてはですね、
親が絶対に正しいと思うか、自分が絶対に正しいと思うかによってしか切り抜けきれないっていうケースが出てくると思うんですよね。
親が非常にいつも正しいわけじゃないということが、
8、9歳ぐらいで起きた場合には、
子供は既に少なくともある程度は一人で生きていけるようになってるんで、
あ、この部分はしょうがないなとか、この部分は放っておこうとか、
そういう穏当な政策を取ることができますよね。
つまり完全に切り捨てたいんだけど切らないで、
自分としてもそこは折り合ったり欲打つ的な気分にはなるけれども、
家出をして絶望的な気分になったりはせずに済むわけです。
でも親がむちゃくちゃだった場合は、そうはいかないんですよ。
そんなに簡単な話にはいかない。
少しでも例えば反抗的な目をしたら、なんだその目はみたいな感じで、
その目をしている限りは食事は一切与えないみたいになった場合、
やっぱり親が絶対正しいと思うか、自分が絶対正しいと思うか、
二者択一を迫られるじゃないですか。
つまり親に無理があった時ほど、
この自己愛構造みたいな話っていうのは進行していくと思うんですよね。
これは恋愛関係でもそうだと思うんですよ。
彼氏ないし彼女が横暴であればあるほど、
どっちかを選ばないと関係はやっぱり崩壊しがちになると思うんですよね。
続けていくならば、結局その関係を続けていこうとするならば、
もう彼氏絶対ですみたいに思うか、
それでも本当に捨ててしまって、そして層的に防衛するか、
どっちかを選ぶことになるような気がするんですね。
だからやっぱり親に圧倒されてしまうといった場合には、
さっきの逆が起きるんだろうと思います。
東映ドイツ化によって理想というものは自分の理想なんですよね。
結局そこは自分の理想なんですよ。
だって分かんないんだよ、親がどう理想的なのかなんて、
3歳児とか、結局自分の理想なんですよ。
しかしその理想は親が全部持ってることに今度なるわけ。
自分が全部取り込みましただったら、
自分が理想通りの人間なんだからという言い方ができるんだけれども、
そういう場合に少なくともある程度親がですね、
この辺難しいですね。
自己愛構造を持ちがちな場合の親の無茶苦茶さというのは、
過干渉なのかもしれないけど、優しかったり、
すっごく面倒を見てくれたりするっていうケースもあると思うんですよ。
難しいんですよね、その辺はね。
親が常に虐待的かというと、そうとは限りないじゃないですか。
すごく過干渉だけど、すごく子供のことは好きっていうことは起こるわけだから、
そういう独特の一体感というものを持ったまま、
持ったままなんだけど、子供の中の親像はすごく、
子供っぽい理想なんですよね。子供っぽい理想。
とてもいいお母さんだ、みたいなお母さんっていうのは、
4歳児にとってのそれだったりするんですよ。
ところが、この場合のとてもいいお母さんだ、
なのに私は、みたいな理屈で、
全面的に親が正しいというナルシシズムに入った場合、
これは私は、ある種のナルシシズムだと思うんですよね。
本人はものすごく自己否定的で、
自己肯定感ありませんみたいな流行りの言葉で言うとそうなるんだけど、
でも私はそれはナルシシスティックに聞こえるんですよ。
この場合の親っていうのは多分、
心の中の親なんだろうなって感じがするんですよね。
本体とはまたやっぱり別観っていうのがあって、
さっきの構造とそっくりなんで、
完全に親を取り込んでしまっているんですよ。
ただし、にもかかわらず、
その構造の中にどこか親が絶対に正しいのであって、
親は全てを持ってる。
それは心の中の親なんですよね。
心の中にそういう親を抱え込むんですよね。
絶対に正しい親。
私はそれに値しない子供みたいな、
そういう独特の自己愛関係を作り出してしまって、
後の部分はよく似てる気がするんですよ。
後の部分はこの親を羨ましく思うのはやめようっていうことは変わらないんですよ。
独特の心理状態
さっきので言うと、
私は全知全能で万能だから、
もう親を羨ましく思う必要はない。
結局これ同じこと言ってるんですけどね。
親を羨ましく思う必要はない。
親は必要ないんだみたいにするんですよ。
だけれども親に圧倒されていて、
あるいは彼氏彼女に圧倒されていて、
この人に私は全然ふさわしくないです。
でも付き合ってくださってありがとうございますみたいな、
すごい独特の心理状態に入って、
この場合、相手は真っ白なんですよ。
というか真っ白にしておかないと困るんですよ。
真っ白にしておかないとこの人に対する怒りが湧いてくるじゃないですか。
そうすると別れて自分一人でやっていかなきゃならない。
その自信はない。
これが欲打不安ですが、
この欲打不安に対する防衛がすごい強いので、
これだけは避けなければいけない。
ということは相手は真っ白でなければいけないってことになる。
この独特の戦法の仕方。
羨んでるんだけど羨んでるという気持ちを防衛したいという。
さっきのもそうなんですよね。
ある意味ではね。
自己愛構造体のケースもそうなんですよ。
絶対にこいつには負けられない。
この親には負けられない。
3歳児がそれやってるんで心のどっかで乾杯してるのは知ってんだけど、
知らないふりをしたい。
そういう点では同じなんですよ。
だから私が全部親を取り込んだんだにしたか。
それともだから親は完璧なんだ。
全部私が至らないんだにしたか。
どっちかなんですよ。
どっちかというかどっちかになることはあり得るってことなんですよね。
どっちかになることはあり得るってことです。
自己愛的に非常に自己肯定感をゼロにしている。
この親のやってることに無理があればあるほど、
親子関係と自己愛
この関係性は極端になっていくということ。
親は真っ白にするためにはどう考えたって、
例えば水風呂とかにつけてるのに真っ白だ。
親は言う通りなんだってことになると、
自分がその分ものすごい極悪な存在になっていくしかないじゃないですか。
そういう自己感を持ってしまうってことですよね。
そういうこれを自己愛と呼ぶのは無理があるんだけど、
でもこれは自分のためにある意味やってるんで。
親は自分には必要だよっていうことからこれが来てる。
その分自分はものすごくよろべない存在。
一人じゃとても生きていけないっていうそういう感じになってて、
親は理想化される。
つまりこれによって、
戦亡が防衛されてる。戦亡への怒りですけどね。
怒りが防衛されてる。
親に怒りを向けないように頑張っているっていう意味で防衛されてる。
同時にギリギリのラインで自分の欲打つが防衛されてる。
とにかく親は真っ白だから、
くっついてればなんとかなるっていうそういう気持ちがあるから、
ギリギリのところで、
あの欲打つ的な絶望からは一応回避されるっていうそういう感じですね。
この2つが私は二次ナルシシズムの著しく特徴的な特徴を言うと、
前者は私が言ったその自己愛構造体みたいな話は、
病理構造体みたいな話はローゼンフェルドの話ですけど、
でも結局内部に特に超自我的な親を取り込んだ場合、
このマドキスティックな自己愛みたいなことって起きるだろう。
別れと自己正当化
論理的に考えてもってかねがするんですよ。
なぜなら融合してるってところからそういう結論が出てくる気がする。
融合というのは融合する理由があってのことだと思うんですよね。
そして融合というのはやっぱり分離に対する不安というものが強いわけですよ。
なんだかんだ言って。
総的防衛の人ってのはそうでないことを盛んに主張するんだけど、
結局はその人は恋人なしじゃやっていけないっていうことを言ってるようなものだと思うんですね。
オリジナルなしで子供が生まれるわけはないから。
いきさつを考えてみるとそれは鮮明なんですよね。
私の場合極端だったから。
彼女をできない人間の極端系みたいな人間だったから。
だからこの話が自分の中ではスッと入りやすかったという面はあります。
どうしても別れるときに総的防衛を使う。
それは現実見当を見失うレベルの総的防衛を使わないと。
だってお前あれほど欲しがっていて頭おかしくなりそうだった時代どうするんだよっていうのが自分に降ってくるじゃないですか。
これで自分がモテるんだったらその辺の話はスッと話せるんだけど、
別れるとなったらこんなお前と付き合ってくれるような人間は二度と絶対現れないよって自分に問いかけることになるじゃないですか。
それでも別れようとするんだから、
やっぱりその場合はよっぽど腹に据えかねることがあったんでしょうし、
よっぽどその場合自己正当化の道を取るしかないんですよね。
この時にすごく自分が超自我的になるんですよ。
圧倒的に自分は正しいって感じがするっていう。
それを持ってこないととてもじゃないけど別れるってことができなくなる。
だから戦亡への防衛と欲妻への防衛を両方同時にするためにこういうことをやるんですよね。
心理的に。
まあ僕はやったんだという。
それをポジションと言われると面白いなとは思うんですよ。
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