自己愛とその影響
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1145回をお送りします。
2月27日木曜日、7時29分です。
なんか久しぶりにね、7時半ジャスト付近、精神分析的な宿命の、少しこう、戻ってきた感じが、全然戻ってきてないんだけど、しますね。
まあまあ、余計なことを喋ってないで、今日は一気に中身に行きたいと思うんですが、昨日の続きに近いですね。
ちょっとだから最近これに凝ってるわけですよ。自己愛対象関係。
自己愛構造体とか、病理構造体とか、いろいろ、ローゼンフェルドとか、スタイナーとか言ったっけ?シュタイナーだっけ?
なんか、アメリカの方の人ですよね。あんまり私、このシュタイナーさんとかをちゃんと、まだ追えてないというか、あの辺のですね、
わかるんですけど、すごいちゃんとしてる人たち。読んでていつもですね、こう、なんだか、今一応面白くないんですよね。なんだろうな、これはな。
オグデンだけ面白いんですよね。アメリカの人の対象関係的な話の中ではね。
どうしてもやっぱり一社心理的な、この自己愛構造体もややもすると一社心理的になっていく感じがするんですけど、ある人の中にある病理構造みたいな感じじゃないですか。
これ絶対対象関係の中でしか出てこない話だと私は思うんだけど、やっぱりベースには自己愛対象関係というものがあると思うんですけどね。
なんかそれがある人の心の、しかも病理的なモデルみたいになっちゃうっていうのは、
ちょっとこの話を始めた頃に、ややそれに対する警戒感から喋ってこなかったんだという話をしたと思うんですけど、
まあまあそうなんですよ。でもそんなこと考えてても無駄な感じがしてきたんで、これもバンバン喋っていってるわけですけれどもね。
前からすっごくこれは意識にあったんですよね。どうしてかっていうと、私自身のことが多分にここに入ってるからですね。
私は言っちゃっていいと思うんですけど、彼女が欲しい大問題でほぼ大学卒業、20代ほぼ全期これが終わってたと考えていいんですけど、
この際の性的刺激にものすごく精神的なサディスティックなところがあって、基本的に女の子を恥ずかしがらせるでしか立たないみたいなね。
本当にそうだったんですよ、ある時期は。で、事実上不能みたいになっちゃって非常に困った時期があったんですけど、
だってあのね、実際ことに及ぶにあたってですよ、相手が嫌がってないと立たないみたいになっちゃうわけですよ。
そうすると一緒にいるのが犯罪でない以上は立たないわけですよ。どうすれば立つのかわかってるんだけど、問題なのはそれをする気が全くしない相手には、
そもそも性欲が湧いてないも同然の、湧いてないわけじゃないんだけど、湧いてないも同然の状態になって、それをやると今度は相手が怒り出しかねないという、
こういう問題はね、僕はずっと抱えてたんですよ、実はね、結構数年ぐらい抱えてたんですよね。
あの時病院に行けばよかったというか、その時こそまさに精神的な心理的なところに行ってもよかったわけですけど、
まあもちろんそんなことは全く考えつくこともなく、むしろアメリカに逃避するというよくわからない行動をとっちゃったんで、我ながらですね、非常にアレなんですけど、
この話と関係があって、これ今ならば12分に説明できるんですよね。12分にはできないけど、8分ぐらいは説明できるんですよ。
ほぼ自己愛好状態で説明できるんですね。で、松木さんの本のところでは、冒頭ではそこまで強調されてないんですけど、
誰だっけな、ちょっとお名前を忘れてしまったんですけど、パーソナリティ障害への精神分析的アプローチというような本があったと思うんですけど、
正式なタイトルはこうじゃないけど、松木邦博さんが編集している本のシリーズの中の、私が一番好きなやつで、パーソナリティ障害シリーズなんですよ。
中の臨床例を見ると、抑鬱だろうとパーソナリティ障害だろうと、それこそトラウマだろうと、ほとんどある意味変わらないじゃんっていう感じがするんだけど、そこが精神分析のいいところでもあると思うんですけどね。
いずれにしてもそこで、必ずと言っていいほどこの病理構造体の話は出てきて、松木さんじゃない方がシステムについて書いているところではですね、
まずこれは暴君であるという、そういうところからスタートするんですね。
これは私にはね、むしろ非常にピンとくるんですよ。
だって性的にスタティスティックって暴君じゃないですか。
しかもこの暴君を自分の中に飼ってるから、自分まで困ってるじゃないですか。
めっちゃ暴君的なんですよ、この存在は。
病理構造体の理解
で、先日だいぶ前になっちゃいましたけど、アツさんって方と私ここのポッドキャストでもコラボしたじゃないですか。
彼もよくおっしゃってるし、杉田俊介さんっていうね、ひもての品格って本を書いた人もやっぱりそのこと書いてますけど、
最近ちょっと読んだ独特のね、フェミニストの方の本も私と同い年なんですよね。
で、フェミニズムで、フェミニズムっての人ってなぜかこういう本の書き方するなっていう本の書き方なんですけど、
短く切れているのの集合体なんで、働かない男とも考えてみた。
こういうタイトルの本なんですけどね、なかなか読みにくいところもあれば面白く読めるところもあり、
ある意味ですね、社会問題の専門用語みたいなのが随所に大量に出てくるんで、
そういうのが僕は結構読み砕くのに骨が折れる。
やっぱり頭が心理しちゃってるんで、頭があんまり社会してないんですよね。
2号保険制度とか読まれると、なんかよくわかんない制度の名前が出てきましたみたいになっちゃって。
いや、聞いたことあるんですけどね。聞いたことしかないんで。
難しい話じゃないんですけどよくわかんないんですよね。
なんかピンときてないと言いますかね。
なんか私税金とか払うときもある意味そうで、
なんか来たから払おうみたいなノリで、お金払ってなくなっちゃったけど、
まあいいやみたいなそういうノリになりやすい人間なんですよね。
なんか興味がないんだな、こういうことにっていうのがわかりますね、自分でね。
まあまあそれはよしとして、その人も書いてたんですけど、
要は男の人が、杉田さんも、あの人もフェミニズムみたいな書き方もされてますけど、
そうかなって思っちゃうときもあるんですけど、
まあそれはいいとして、要するになんていうんですかね、暴君なんですよ。
男は暴君であるべきだぐらいのノリがあって、
だから全然杉田さんに暴君感が全く少しもない人は困るわけですよ。
僕もそうなんだけどね。
病理構造体を抱えてる割にそれを表出できないんで、
自分の奥底で勝ってるみたいな感じになっちゃうんですよね。
ここに嫌なことが起きたら逃げ込んで、暴君感を持って、
人との関係を静かに切っていくみたいなね。
それは心の中の暴君に任せてる部分があるんですよ。
こいつにやってもらおうみたいな、こういう嫌な仕事はね。
ギャング団っていう風に書いてたの、ローゼンフェルドじゃないんじゃないかな。
このでもギャング団っていう表現はすごいいいんですよね。
要はあれですよ、そうこ的な幼い長寿がリーダーになって、
依存的な自分を排除して、依存的じゃない部分だけをまとめ上げて、
ギャング団のように動き、警察を警戒する。
警察っていうのはこの場合カウンセラーのことです。
我々の存在がカウンセラーにバレると解体されて、
良くないことにならないから、依存的な連中にカウンセリングをやらせておいて、
我々はカウンセリング以外の時間に暗躍しようっていう、
そういうノリなんですよね、これはね。
心の中の力度をね。
非常に上手いことを考えたもんだなと思うんですよね。
こういうふうに自分がまず強烈に分裂している、
依存したい事故部分と依存しない事故部分に分かれていて、
しかも依存しない方を暗躍しているという形をとっているんですよね。
このノリのまま社会生活を送ると、ちょっと反社会的になっていくじゃないですか。
でもそれを防ぐためにも、やっぱり表には知られないように、
これは基本暗躍するわけですよ。
要は汚れ仕事みたいなのを中心に引き受けていくという、
そういう流れなんですよね。
カウンセリングの重要性
でもこれで結構社会的に上手くやるという。
最近のノリってそうじゃないですか。
自分にとって役に立たない人は切っていきましょうみたいな。
搾取的な人も切っていきましょうみたいな。
感じの悪い人も切っていきましょうみたいな。
こういう時にめちゃくちゃ役に立つんですよ。
表面的にはなんてことなく、どんどんどんどん人との距離を置いていく上で、
これほど心理的には上手くやってくれる組織はなくて、
私もこれですごい痛い目に見そうになったので、
すごい気をつけるようになったんですよ。
だって、やたら苦労して作った彼女をあっさり捨てるとかやっていて、
そういう生き方もあるのかもしれないんですけど、
私はやっぱりこれまずいなっていうのは、
相当30代前半で強烈に意識するようになったんですよね。
これを意識していたから、今も大橋えつおさんとか、
ジェイン松崎さんと仕事やってられるんですよ。
もう絶対これはね、この私はですよ、
これをやってうまくいかないとは限らないんですよ。
私がもし会社組織とかに入れるような人間ならば、
これでも結構上手くやれる。
だからすごく自己愛構造体的な人になってた恐れがあるんですけど、
うまくやれる可能性はなくはないと思うんですよね。
ある程度大組織でやる必要があると思いますね。
つまり人間関係をどんどん切り替えていかなきゃならないとなるんで、
ある意味。少なくとも心理的にはそうなんで。
いろんな人がそこにいないと困ったことになる。
あと少々関係性を切ったとしてうまくいかなくなったとしても、
給料は常に出るっていう状態が必要なんですよ。
私のようにフリーランスでこの自己愛構造体に頼りっきりにしていると、
いや大橋は気に入らないから切るみたいな、
Jを気に入らないこと言い出したから切るみたいなことやってると、
金なくなっていっちゃいますよね。確実に。
どう考えても依存的なことってありますからね。
だから依存している自分というものを排除していくというところがポイントなんですね。
これが接触障害に現れやすいというのは非常によくわかるじゃないですか。
ある程度精神的になって、
そういう社会的な関係になってまでこれをやっていた私みたいな人間もいるんだけれども、
どっちかっていうとこれはやっぱり思春期に非常によく現れそうな態度だし、
思春期にはこれが接触障害の形で出るんですよね。
そこのところを松木邦路さんは集中的に扱っていて、
そういう本が臨床例が大量にあって、
この話を著しくわかりやすくしてくれているわけですよ。
結局やっぱり食べ物というものになってくるとですね、
依存感ってはっきりするじゃないですか。
やっぱり私が大橋さんに依存しているとか、
ましてや私が彼女に依存しているとかになってくると、
奥さんにとか娘にとかでもいいんですけど、
こういうのも切ってきますから、はっきり言って。
いや私は娘になんか依存しないから、家族は捨てるみたいな。
こういう昭和の昔の、今もいらっしゃるんだけど、
やや困ったタイプのお父さんっていたわけですよ。
俺の邪魔をするんならこの家族ごと捨てるみたいなことを言って、
本当にどっか行っちゃうわけですよ。
お父さんの蒸発みたいな話って、
河合俳夫さんもよく書いてますけど、非常に問題があるわけですよ。
でもまあ、なんていうんですかね、
うまくやれなくもないんだろうけど、
女根性ガエルの娘とかを見ていると、これはまずいんだなって、
あれほどの人は珍しいですけどね。
悪い人じゃないんですけど、
明らかにあの人は自己愛対象関係を持ってて、
あれほど自分だけで生きていくのは困難であるにもかかわらず、
だからビルの上に屋上に立って、
飛び降りようかどうしようか迷ってるシーンから始まるじゃないですか。
これがやっぱり関係というものをどんどん、
ギャング団の優雅ままに破壊、
自分の中の暴君は最後は自分に害するんですよね。
ここがやっぱり怖いなと。
だからその手前の段階でやっぱりカウンセリング受けるしかないんだけど、
ここでカウンセリングに対しても当然ですね、
まず秘密の存在として自分らを振る舞う。
それがバレ始めるとその関係を切り捨てるから、
カウンセリングが途中で中断しやすい。
この辺のことをローゼンフェルドは
陰性治療反応という本にまとめていると思いましたね。
だから陰性治療反応というのは要するにそういうことなんですよ。
途中でいやいやこのカウンセラーもダメだみたいなことを言い出すわけですよ。
そういうことをXでしょっちゅうつぶやかれている方いるじゃないですか。
本当にロクなカウンセラーがいねえみたいな感じで、
カウンセラーの挑戦
これが本当にロクでもない人に当たりまくったとか、
本当に野良の人に当たりまくった可能性も一方でありますよね。
他方ではこの人が絶え間なく陰性治療反応を引き起こしている可能性も
他方ではありますよね。
どっちだかわかんないですよね、あれだけではね。
そこを見極めていくというか、そこを頑張っていくのもカウンセラーの仕事かなと、
他人事みたいにしゃべっているわけですね、私はね。
正規のカウンセラーさん大変だなと思いながら、
だってこれ陰性治療反応でもうあいつはクズのようなカウンセラーだ、
これ脱価値かね、と言われてしまうわけですけども、
実はその人のこのギャング団が暴君のようで、
あのやべえ我々の存在知れたから早くこのカウンセリング切り上げなきゃみたいな
ノリになっている可能性は十分あるんですよ。
もうちょっと別の言い方をすると、
このカウンセラーに自分依存し始めてしまったと、
依存するということは自分はろくでもない人間だということだと、
言ってますよね、これもね、
それこそ昭和のお父さん的に人に依存して生きていくんじゃないみたいな、
ちゃんと自立して生きろみたいな、こういう非常に幼い価値観で生きるわけですよね。
そうすると依存ということが全部悪なわけだから、
カウンセリングの途中でもカウンセリングが役に立ち始めた瞬間こそ、
その気配を感じざるを得ないわけですね。
このカウンセリングなしでは私は生きていけないんだと、
そんな自分は弱々しくて病的な人間だと思いたくないと、
そこでこのギャングみたいな一見強そうな、
いわゆる役に立ってないんだけど実は強そう、
実はじゃないな、逆だな、
強そうな、私はこれでインポになりましたみたいな人なんだけど、
存在なんですけどね、
この強そうな奴に依存するわけですよね。
これも結局依存なんですけどね。
とにかくこれに任せて、
じゃあ治療は打ち切りますと。
なぜなら先生はこういうろくでもないことを言いました。
最初のお約束と違いますと。
自己愛の影響
もっともらしいことを言って去っていくわけですね。
これね、あれなんですよ。
私たち、それこそ大橋さんと昔からやってたいろんなサービスありますけど、
必ずこういう話を大橋さんとしたことは、
実は数回しか、1回か2回しかないんだけど、
1回か2回はあって、僕は毎度意識させられるんですけど、
このね、入る入らないの段階ですでにこれが現れる方っていらっしゃるんですよね。
すごい自己愛対象関係強いんですよ、そういう人。
入る入らない時って皆さんある程度は躊躇するじゃないですか。
どんな金額だとしてもお金出すということになると。
でもこれがですね、そのお金を出す時には、
つまりある意味その人の脆弱性というものが現れるわけなんだけれども、
中でもここでいろんな気持ちにこっちをさせてくる方っていらっしゃって、
それはやっぱり僕は自己愛対象関係と、
明らかにそこで見ると分かりやすいっていうのにですね、
途中から気づいたんですよね。
最初からその気持ちにさせられるなっていうのは、
すごく考えさせられていたんですよ。
ある意味だから逆転移が起きるってことなんですよ。
単純に言うと入りますよっていう感じで、
すごくこっちを喜ばせてくるわけです。
もうすでにこれが逆転移ですよ。
でも入らないわけですよ。
ちょっと考えさせ、なんていうのかな。
考えさせてくださいとかね。
あ、そうだったんですか。
それだったらちょっと様子を見させてくださいとか言ってね。
肩透かしを浮らわせてくるわけですね。
この肩透かし感がね、
ご本人絶対意識してないと思うんですけど、
すごいウッていう、
記憶に明らかに残るようなやり方っていうのがあるんですよね。
ああ、なんか肩透かし食わされたわっていうようなことを、
大橋さんと喋ったりすることもあったわけですけど、
この肩透かし感はもう完全に逆転移ですよ。
肩透かしを食らわせてきてるんだな、この方は。
いろんなところでなっていうのが、
もう非常に実感させられるわけですよね。
つまりその方のサディズムが現れてるわけですよ。
どう、入ると思った。
気持ちよくなったでしょみたいな。
無意識ですよ。
完全に無意識なんだと思いますね。
でもこれってものすごく、
自己愛行動体的な、
自己愛対象関係的な感じですよね。
つまり、あなたに依存しますよ、依存しますよと言っておきながら依存しない。
ここには扇望がありますよね、はっきりと。
あなたたち自分がいいものを持ってると思ってるでしょう。
持ってるよねっていう感じで。
でもあなたいいもの持ってないから。
じゃあねっていうこういう感じ。
あなたちっともいいもの持ってないんですよ。
あなたは役に立つことができない人なんですよっていうことを
案に伝えてくるわけですよ。
それをわざわざある意味やるわけですよ。
あなたたちは自分はいいものを持っていて、
それが提供できると、
お金になるほど価値があると信じているんでしょうけれども、
私はそうは思っていませんよということを、
これほど絶妙なやり方で伝えられるってことは普通はないんでね。
批判とかされるより、ある意味よっぽど来るじゃないですか。
現玉が入ってくるっていうニュアンスをこっち持っちゃうと、
特にお金がないときとかには持っちゃうと、
今どんどんあるサービス。
これだからすごいんですよ。
飛ぶように何かが売れていても効果があるんですよ。
飛ぶように売れてるから、
この人も買ってくれるんだと思ったら買ってくれないみたいな。
これを意識に残るしかもようなやり方でやってきてくださるんで、
めっちゃ勉強になる。
フリーランス始めた頃から長らく、絶え間なく起こる現象なんですよね。
僕はそれを自己愛対象関係なんだっていうふうに理解できるようになってからは、
なるほどこれはギャング団って言葉が、
最初私ギャング団って言葉がピンと来なかったんですよね。
確かに相互的で子供っぽい暴君みたいな感じはあるなとは思ってたんだけど、
ギャング団を組織するって、
わざわざ犯罪組織みたいな雰囲気を出すほどのものなんだろうかと思ったんだけど、
なるほどこれは人に非常に独特の気持ちを残していくっていう意味で、
だから大変だろうなこういう人はっていうのは思いますね。
ものすごく大変だろうなと。
だってこれは意識してない水準で起こっていることだから、
多分相手がどういう印象を残しているかって、
全然ほとんど意識されていないと思うんですよね。
これが周囲の人に常に繰り出されているということはですね、
全く必要のないレベルで、
かなりの精神的な苦痛を、
接触する全ての人に与えかねないという部分があるんですよ。
私はこれはやっぱり、
依存のメカニズム
だからやっぱりロジャーズ偉いなと、共感しろと。
共感できないというのはやっぱり警長しましょうということになって、
だからと言って共感できないお前はダメだみたいなことを言って、
昔のロジャーズ派ではそういうことが起きていたという話があるんですけど、
それじゃサディズムになっちゃうのでダメだと思うんですけどね。
共感しにくいですよね、非常にね。
でもやっぱりこういうことなんだなって思うんですよね。
だってそれは寂しいじゃないですか、どう考えても。
実際のところこれを片透かしされたとしてもですね、
商売をやっている人間は他の人にヒットすれば十分なんであって、
困ることは別に何もないわけですよ。
そして害してその片透かしを食らわせたような人は、
それをすごく必要としてたりするんですよ。
だからこのギャング団はですね、心の中のギャング団は、
非常にその人に過酷な人生を強いていくことに必ずなると、
私なんかは思うんですよね。
この過酷さはただ、
総敵防衛をする人にはなかなか自覚されないんで、
だから昨日お話しした、
これがマゾキスティックに出る人の過酷さを思うと、
この人生を避けたくなるんではないかと最近思うんですね。
それがつまり、昨日も申し上げた、
外の人に扇棒を本当に向けてしまうんだけど、
破壊活動はできないというタイプ。
つまり、なんて言えばいいんですかね。
自分と一体化しようとする超自我がついに一体化できずに、
サディスティックになる人っていうのは一体化できるんですよ。
だから自分は、暴君って言ってるのは相互的な超自我であって、
ニザというときはこの相互的な超自我を使って、
都にも核にも関係を破壊しようという、こういう感じなんですよね。
そして依存だけは絶対済まない。
だから依存しないというのは結果なんだけれども、
したくないのも依存なんじゃないかなとは思うんですよね。
いずれにしてもここではいろんな不安が防衛されてるんで、
少なくとも昨日も二正面作戦って言いましたけど、
一つは迫害不安ですよね。依存対象が迫害してくると。
もうそう決まっちゃってるんで。
依存するとろくなことにならんみたいな。
人に依存すると頼った人間が自分をいいように搾取するとか、
小突き回すとか、顎で使うとか、ろくなことにならないので、
とにかく依存したい気持ちというものを自分から排除して、
ここを防衛しようと。一つは。
その上で自分が依存するってことは結局、
自分は無能力だってことになってしまうんで。
だからこういう人は今度は別の形で、
オリジナルを全部自分のものにしがちだという、
ジャイアン現象みたいなことが起きるわけですね。
タスクシュートは俺が開発したし、
J松崎株式会社も佐々木商工だけで俺が開発したものだし、
みたいになっていくんですよ。不思議な感じがすると思うんですけど、
そうではないんですよね。暴君なんで。
それに対してJがゴジャゴジャ言ってきたら、
切り捨てようみたいな。暴君なんで。
この言い方をして上手く生きるっていうのは、
なかなか難しいところがあるんですけれども、
その辺はドコンジョガイルの娘を読んでみたりしていただくと、
いいかもしれないっていう感じですね。
でもこの人って結構本人はご機嫌なんですよ。
藤山先生がワッハッハと言って、
いっつも笑ってると。そういう風に書いてるんですけど、
要するにあいつらは6段やつでもないからいいんだ。
別に別れたって俺は痛くも悲しくもない。
本当にドコンジョガイルの娘では、
ドコンジョガイルを書いたお父さんは本当にそうなんですよ。
ワッハッハって言ってるんですよ。
それでお前らなんかいなくったって俺は少しもかまわんって言ってるんですよ。
だってあんたそれでビルの屋上にいたじゃんっていう、
その話はすっかり忘れているかのように、
これってすごいなってやっぱり思う。
別に悪い人じゃないんでね。
本当にご機嫌になっちゃっているんですよね。
だけどこれだと分かりにくいんですよ。
これじゃなくて、これよりもうちょっと違う形に、
ある意味先に進んじゃってる形なんですけど、
やっぱり溜め込んじゃうというタイプ。
つまり逆なんですよね。
排斥しきれないというタイプ。
つまり私はもうダメだから依存させていただきますみたいになっちゃっていて、
依存できないというタイプ。
近いわけですよ、これは非常に。
依存する事故っていうのは排除されがちなんですよね、どうしても。
ある意味自立に向かうためには、
依存心ってある程度排除しなきゃいかないんで。
これってつまり平穏な生き方をどう捉えるかなんですよね。
こういうふうにいろんなことを言われて、
奥さんとかもいろんなことを言われて、
箸の上げ方がなってないとか、
そういうのを言うことを聞かされる、
こういうしょうもない平凡な人生というものに
甘んじるのが嫌だみたいな表現を取る人もいるんですよ。
可愛いファイオさんが書いてたな、
音楽を聴きながらトルストイを読む生活みたいな。
なんか高尚な感じがするじゃないですか。
でも一方ですごく学生っぽいじゃないですか。
中年のおじさんが言うようなことじゃないですよね。
中年のおじさんというのはもっとしょうもないことを、
部長に頭を下げるとかね。
自己愛と外部の理想化
しょうもないことに価値を見出さなきゃいけない世代なんですよ。
それが嫌だから、そういう総的防衛に走って
蒸発しちゃったりするわけですよね。
こんな人生には何の価値もない。つまり脱価値化されているわけですね。
リアルの価値が脱価値化されているわけですね。
普通に考えるとやっぱりこれは空想の世界に、
だから万能空想の世界。
トルストイと音楽に生きるっていうのは万能空想の世界なわけですよ。
なんか一発当ててと。
すごくこの一発感が、万能空想感があるじゃないですか。
自由自在になっちゃうわけですよね、その世界の中では。
でもこれが万能感が、時々この番組で勝手な造語として、
新聞主義の人に怒られそうですけど、
マイナスの万能感が出る方っていらっしゃっていて、
ありとあらゆる悪いことが
全部自分に引っかぶらなきゃならない運命になっている
っていう風になる方が当然いらっしゃるわけです。
このギャング団だけが外に出ちゃうんですよね、要するに。
迫害する対象というものが
本当に外に出て、ここを防衛しきれないわけですね。
自分が距離を置くということが
許されてないかのようになってしまうわけです。
そうすると、外に出ているのは
ギャング団なのにもかかわらず理想化されていて、
偉大なるギャング様みたいになっていて、
私はあなたの言うことなら何でも聞きますみたいになるんですよ。
それしかないんですよね。
このギャング団はどうせ心の中のものなので、
自分自身の中のものとして捉えても、
自分の外のものとして捉えても万能空想の世界なので、
どっちでもできちゃうんですよ。
外に置いて、しかも理想化をして、
生きていくことはできるかもしれないけど、
そのギャングの人に、ギャングの人、ギャングを投影した人、
親なんだけれども、親だったり、
やたら暴力的なご主人だったりするんだけど、
でもその人が私を助けてくれるんだと。
この構造変わってないんですよね。
要するに自己愛対象関係でも、このギャング団がいざというときは、
Jさんとか大橋さんとかを、私の場合ね、
架空の話として言ってるんだけど、切り捨てて、
私がJ松崎株式会社の社長として、
まっすぐシュートのオリジナルとして振る舞っていけば、
全然やれるじゃんみたいな。
これを真逆にするわけ。
いいものは全部外にある。私の中には何もない。
時々私ということを言うけども、マゾキスティックになるわけですよ。
私空っぽですから、こんな私を飼っていてくださって
ありがとうございますみたいになって、
殴られても私が悪いんだからしょうがない。
殴った人は偉い人で正しいんだみたいになるわけ。
こういう人って実際いらっしゃいますよね。
逆になってるんだけど、やってることはそっくりなんですよ。
対人関係ではないから、
結局暴君にかしついているのは同じなんで、
ただそれを排除されている側に立つか、
排除している側に立つかの問題であって、
排除しているのも私なら、排除されているのも私なんで、
依存的な事故であるのも私なら、
暴君的な事故であるのも私なんで、
結局はそのことに気づいてないというだけですからね。
この過酷さが
わかるはずなんですよ。
対人関係である以上、どっちをやったって半分は自分なんで、
これを全部暴君だと思って自分がやってても、
自分は全部依存して
虐げられている側だと思ってやってても、
やってることの過酷さに実は何の違いもない。
この場合最大の問題は分裂にあるんだと思うんですよね、
結局は。
暴君と依存する私の強烈な極端な二分化ですよね。
この二つは二つながらにして私ですから、
こういう分裂を心の中に抱えたまま生きるのは、
結局のところかなり残酷な生き方だというか、
そして寂しい生き方だということになっていくんだろうな、
という感じがします。
暴君と依存の葛藤
じゃなければ別にカウンセリングに通う必要はないですもんね。
いずれにしても、これで金庫を取るという人もいますから、
この場合、接触障害の例えてみればわかりやすいわけです。
私には物を食べる価値はありませんという、
独特の接触障害になっていくわけですよね。
良いものは私には取り込めませんということですよね。
つまり食欲がなくなっていきます。
暴君は全部外にいるわけですから、しかも理想化されているから、
暴君なんだけどとても偉い人なんですよ。
そして自分は鞭打たれているんだけど、
この鞭は本当に正しい鞭なんだということになっているわけですよ。
排泄もできないわけですよね。
自己を排泄するわけにいかない。排泄すると迷惑がかかるので、
自分というのは要するに依存する
ダメな部分だけでできているということになってしまっているから、
外に出すこともできない。
しかし、外に出さず、何も食べずには生きていけないので、
なんかちょっとは食べ、なんかちょっとは出すという、
そういうかなり息苦しい生き方になるんだけど、
これはさっきの猛烈に排泄しまくり、
猛烈に暴君的に生きるというのと、
非常に近いところにあるんじゃないかなという話を
昨日もして今日もしたという、それだけなんですが、
精神分析と価値の扱い
これを接触障害の例えを用いながら、
社会人は大抵そうじゃないので、
人間関係の中そのものに持ち込んでいるという風に考えてみていくと、
例えば私が20代あんなに苦労して、
性的には不能になってみたりしていた理由が、
非常に分かりやすくなってくる。
そしてそれは結局、
融合していくわけではなくて、
融合していく私ってやつですね。
ある意味長寿がなんですし、
理想の自分というものと融合しようとするところから来ている。
融合してしまうということは、
とても危険なことですよね。
だって大橋栄一郎さんは私じゃないわけですからね。
私がどれほど彼のことをよく知っているような気になっていたとしても、
そういう記憶を作り上げてしまうんだけど、
彼の中のいいものは全部自分のものにしてしまったということに、
してしまう。
だから私、情報のインプットという表現がどうも好きになれないんですよ。
一番相手からいい部分だけを、
私のものにしましたというニュアンスが拭えないじゃないですか。
本を書く時って出す人は大体そうですから、
一応ね。
一番いい部分を書きましたということになっているわけですよ。
それを読んじゃえば、もうそのオリジナルに書いた人はいらないと。
もう言ってしまえば邪魔だということになりかねないわけですよ。
いい考えを手に入れたら、
自分がオリジナルでありたいじゃないですか。
自分が良いものでありたい。
良い理想的な人生を説いている人の話、
例えば仏教とかでもいいんですけど、
仏教すっげえ学びましたと。
俺仏教、俺ブッダだわみたいになりたいじゃないですか。
悟ったんだわ俺みたいな。非常に仏教的じゃないけど。
でもこういうのを戒める話って宗教には常にありますよね。
ヤコゼンがそうだけど、
要するに狐にさせられちゃう人ですけれども、
だから野良カウンセラーっていうのはこの意味で嫌われてるんですよ。
私もそうだけど、
サンをね、月さんから直接学んできましたみたいな顔をしちゃってますけれども、
そうじゃないんで。
だから家元制度ってあるわけですよね。
結局ね。
ある意味スピンオフしてると言えなくもないんですよね。
スピンオフと自己愛称関係はちょっと違うと思うんですけど、
あのついでにもう、
今日は短めに切り上げたいと言って30分超えたんで、
ついでにあれなんですが、
この排泄という表現、だから松木さんもバッチリ書くんですけどね、
お金はうんこなんだから、やっぱり包みに入れて渡すでしょう人にっていう。
田中角栄さんが昔同じようなこと言ってましたね。
裸で金を渡すのは汚いんだから、
必ず封筒に入れろと。
裸で金渡すのは絶対ダメだみたいな。
たとえそれが言ってみれば賄賂だとしても、
絶対包めと。
風呂敷でもなんでもいいから包むわけですよね。
すごい古い時代なんで、包むっていう言い方しますよね。
私昔は大橋さんと仕事を最初にした頃に、
非常に驚いたことがあったんですよ。
一応セミナーみたいなのをしに依頼されていったから、
行ってやるということになってやったわけだから、
あれ?お金ってどうなるんだろう?って思ったら、
お金は渡されるってことになることがわかったんだけど、
どこやって渡すんだろう?
お金をバッて財布から引き出して渡したら変じゃないですか。
で、封筒に入ってるんだけど、
封筒に入ってるときに何て書いてあるんだろうっていうのが、
すっごい僕気になったんですよね。
お車代って言葉をその時初めてリアルに見たんですよ。
あ、車ねーみたいな。車じゃないんだけど。
車代そんなにかかんないですからね。
非常に考えさせられましたね。
日本人ってこういうの好きですよね、ある意味ではね。
汚いものを包むのが好きですよね。
そしてその表現を避けますよね。
ここに入ってるものは何とかですっていうのの、
少しでもいいからずらそうとしますよね。
この汚さっていうのはすごいね。
さっき途中お話しした、入ると思った?お金払うと思った?
お金払うと思ったでしょ?でも違うんだなっていう。
この独特のサディスティックな雰囲気っていうものを、
勉強になるよねっていう感じがするんですよ。
親になると分かるんですけど、
子供が便秘になるとすっごい辛くなるんで、
出してくれるとわーっていう風になるんですよね。
いろんな意味でこの排泄に対するコントロール感。
子供は親を最初にコントロールできると思える瞬間はここにあるっていうのを、
ちょっとこじつけがましいですけど、
アンナフロイトとかフロイトの古典理論では出てくる。
一社心理学っぽさが強すぎて、
私はそのまんまは乗る気がしないなって感じはするんですけども、
ただこのやっぱり出してあげるっていう、
出してあげますよっていうこの流れの中で、
その良いものはそっちが持ってるっていう感じにしたいという気持ちは、
私は非常によく分かるんですよ。
この仕事をやっぱりしてきたメリットなんですよ。
ダイレクトにお客様から、
言ってみれば、Cですよ。
カスタマーがダイレクトにお金を下さるというこの世界は、
そこに良さがあるんですよ。
私が出すものに価値があるんでしょうっていうこのニュアンスってのは、
いろんな意味を持ちがちなんですよね。
ついついというか。
藤山直樹さんが封筒に入れないでくださいといつも言うっていうね、
精神分析の押し払いですから。
これはお下者じゃないんですと。
これは日本人の感覚だとどうしてもお下者にしたくなるんですよ。
そうすると1回1回の押し払いになるじゃないですか。
また、前回はキャンセルしたんだからお金返してくださいとか
払いませんよっていう話になるけど、
精神分析ってそれ絶対許さないわけですよね。
絶対払えと。来なくったって払えと。
これは1回1回のお金じゃないんだよっていうね。
それ私、自分がカンセリング受けた時に言われたんですよね。
これは家賃のようなものだと思ってる。
そのメタファーいかんなって僕思ったんですよね。
確かに家賃なんだけど、家賃って結局その日に旅行に行ったって
1日分お金を親に払わないぞって何?
通用しないじゃないですか。
家賃のようなものだと思えた。
家賃違う気がするっていうふうに私も思ったんですけども、
家賃じゃないような気がするんですよね。
そうじゃないだろうって思うんですよ、これは。
キャンセルをしたとしても払うというのは、
松木さんがだからこれはうんこなんだっていうのは、
当然下品だと思って出すものでしょうっていう、
割と彼はその辺をストレートに言うんだなって思ったんですけど、
この辺やっぱり僕はですね、
そういうでも感覚を持ってないと絶対ダメなんだろうな本当はっていう。
私のは本当じゃないからいいんですよ、別に。
まとめて先に頂いておくとか、
自己愛の探求
しかもそれは基本的にはデジタルでのやり取りになるとか、
今後デジタルのやり取りになるし、
やっぱり自分はカード払いにしたんですね。
ちゃんと向こうも、
クレジットカードを扱えるやつをお持ちで、
いややっぱり先進できないねと。
ちなみにiPadを使いでやっぱり先進できないなと思ったんだけど、
つまり漕ぎれいになってるじゃないですか。
でも多分これが何かの効果を下げるんだろうなって感じがするんですよね。
漕ぎだなさが必要だよなここにはって感じがどっかあるんですよね。
入り口付近に立った時からやっぱり何かがあるし、
出口付近に立った時にもやっぱり何かが起こるし、
常に何かが起こってるこの世界で、
わざわざ小道具を漕ぎれいにまとめてしまうことはないわけなんですよね。
ここで生の自分がいかに出せるかってことを、
ある意味徹底的にやっていかないと、
やってる意味がやっぱり少しずつ少しずつ減って、
気が付くと半分ぐらいに減ってって、
そもそも漕ぎれいになってしまう。
少しずつ減って、気が付くと半分ぐらいに減ってって、
そもそも週1しかやってないのにっていうことになりがちだとは思ったんですよ。
思ったんだけど、まあしゃあないよねっていうところもありますよね。
私もいちいち現金出したくないっていうのはあるし、
やっぱり今の時代現金持ち歩くっていうのは、
あんまりいいことでも安全なことでもいろいろないわけですし、
他に名前は書きませんからね。
だけどやっぱり本当のところ電子決済をしてしまうということは、
封筒に入れるってことないじゃないですか。
封筒に入れたくなるこの真理というのは、
一種の抵抗を示していると思うんですけれども、
生の自分を見せたくない、生の自分を晒したくない、
生の自分を晒せないということになっているんだと思うんですけど、
それってやっぱり結局のところ何かに対する
扇望みたいなもんですよね。
やっぱりここをきれいにしておきたい。
きれいにしておきたいということは、
どこかに汚いものというものがあるわけで、
きれいにしておきたいというのは、つまり価値のあるものが、
本当に価値があるかどうかはわからないんだけど、
価値があることにしておきたい。
その方が自分にとって都合がいいという、
そこには絶対に自己愛が働いているわけですよ。
一見マズキスティックに見えて、
一見まともな社会人ならみんなそうするってことがあるにしても、
やっぱりそこには自己愛的なものが働いていて、
だって嘘でもいいからきれいな世界に住みたいっていうのは、
やっぱりナルキストスがですね、
嘘の世界に住んでいるうちに彼は、
痩せ細って衰えていってしまうわけですよね。
そしてエコーの子玉が、
アイラブユーに対してアイラブユー以外に何も返せない子玉がね、
アイヘイと言うとアイヘイと言っちゃうんで、
そうして別れていくってあの話みたいな話。
ああいう話に多分つながってるんだろうなという感じがするんですよね。
自分の世界から離れていくっていうのは、
自分の世界から出られないことの悲劇みたいなんですよね。
ナルキストスの悲劇っていうの。
これがナルシシズムの原理にあるわけですから、
やっぱりあれは本当は自己愛って訳すべきじゃないって、
藤山さんは正しいんだろうなって感じがするんですよね。
自分の外に出られないんですよね。
自分の世界を小綺麗にまとめてしまったら、
その小綺麗な世界から出られないんだけど、
小綺麗な世界ってのは多分死んでるんですよね。
小綺麗な世界の悲劇
ワイパッド食べられませんもんね。