1. 人生相談のための精神分析的ラジオ
  2. 悩むと私たちは矛盾したメッセ..
2025-02-24 45:19

悩むと私たちは矛盾したメッセージを発する【1143】

体育座りの男の子に話しかけるならなんと言う?
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サマリー

このエピソードでは、対人関係における矛盾したメッセージに焦点を当て、感情や思考の表現について深く掘り下げています。カウンセリングの役割や、他者とのコミュニケーションにおける心理的障壁についても言及しています。悩みを抱える人々は、他者との認識の差に苦しむことがあります。このエピソードでは、交差点やATMを通して、主観的な見方がもたらすリスクとカウンセリングの役割について考察されています。矛盾したメッセージを発するテーマのもと、行動療法や精神分析における本音の重要性が論じられます。特に、相手の本音にどう寄り添うかや、接触障害に対する治療のアプローチについて語られています。また、持つ夢や共通認識の重要性についても議論が行われています。セミナーや交差点の例を通じて、成功や失敗の解釈の違いと、それがコミュニケーションに与える影響について考察されています。人の心の内にある認識できないシークレットを尊重することが重要であると論じられています。

カウンセリングの重要性
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1143回をお送りします。
2月24日、月曜日、8時54分です。
今日は休日なので、少し時間が大幅に遅れました。
こういうのが、カウンセリングではダメなんですよね。
でも、これはカウンセリングではないので、ここがやっぱり、いちいち何かを私、言いたいんでしょうね。
とにかく、カウンセリングでないのは明瞭なんで、ここに僕しかいませんからね。
僕の元気ってのはこんな雰囲気なんですけど、やっていきたいと思います。
めちゃくちゃ元気なんですよ、私は。
ここ1年、もう昔、本当、信じられないぐらいなんですけどね。
小学校、幼稚園時代かな、風邪とかばっかりで、1年のうち200日ぐらいは風邪ひいてた気がするんですけど、
ここ1,2年、風邪を事実上ひいてないんじゃないかぐらいな。
まあ、ひいてても1,2日ぐらい。
で、僕、花粉症がないんですよね。
これはもう本当ラッキーとしか言いようがございませんが、
あの、だからあの、ティッシュで鼻を噛むみたいなことも、ここ1年の間に何かも数えるほどしかないんですよ。
で、なんかね、あの、抑鬱的になるということも、ならないわけじゃないですけど、全然全くってことはないですけど、
一晩寝ると、そして眠れないってことが僕はないんで、一晩寝ると消滅してるんですよ、だいたい。
で、最近は夢見をすごくはっきり見るようになった夢もあって、それについてはちょっとほんと他の人に分析してもらうといいんでしょうけどね。
やっぱりということを今あんまり普通にやってないんで、本当にそれなりに専門的なところに行くしかなくなるんで。
で、それほどの夢かなみたいなところがありまして、でもまあいろいろ思うところがいっぱい出てくる。
だから絶対寝て絶対夢を見るみたいなの、ここがね、ちょっと自分の中で今一番考えるところではあるんだけど、
まあまあ元気は元気なわけですね。夢も覚えてられるわけですから。
まあそれ眠りがちょっと浅いって話もあるんですけど、それは年取ってきたからっていうのもあるんですけどね。
ただ不思議だなと思うのは50を過ぎてから健康になっていく人間って、もうちょっとやっぱりよくわかんないというか、
全てが僕は遅れて遅れて出てくるタイプだなっていう感じはしますね。
20代の頃、30代の頃は今に比べると実に不健康でしたからね。
これも不思議というか変ですよね、いろいろとね。
お知らせを挟みます。3月15日の土曜日に山崎孝明さんゲストに精神分析的心理療法課で、
最近そっちはあまり名乗られてないけど、婚姻心理師、臨床心理師の山崎孝明さんをお招きして、
新井さんという方と3人でですね、先日のフォトキャストはコラボで新井さんとお送りしたばかりなんですが、
この方と3人でカナエ談を3時間トークで、夜の6時から9時までやります。
ハイブリッドで現地は渋谷、オンラインもあって動画配信もいたします。
いろいろコースはございますので、ご都合に合わせてですね、
ぜひこの番組が面白い方にあれがつまらないっていうのは僕にはちょっとありえないだろうと思っておりますので、
ぜひ、私にとって欠けてるピースといえば、この正規の力道系の人なんですよ。
知識と知見がやっぱり直接的には欠けているって私は思っておりますんで、この番組にはね。
そこを僕が勝手なことを喋って埋めるというのがこの番組の趣旨ですから、
趣旨ではないけどミソかな、そういうもんなんで、それがリアルに埋まるという。
埋まる方がいいのかっていうのはありますよ、その問いはあるけれども、
埋まることは確かなんで、埋めてみたいという人はですね、埋めてみたいで意味が通る人はぜひですね、
こちらに来ていただくと損はないと私は思います。
以上お知らせでして、
引きこもった感情
昨日ですね、私の仕事をずっと一緒にさせていただいている大橋絵蔵さんと、
割と今後の、珍しく今後のことなんかを語ったんですね。
そういうプロジェクトの計画について喋ったからっていうのがあったんですけど、
僕はもうこういう時間って楽しいんだけど、基本的には消費的な時間だと思ってるんですね。
大橋さんがどう思ってるかわかんないですけど、私は基本的にはこれは消費的な時間だと思ってるんですよ。
どんなに楽しくて盛り上がって充実しても、この通りにはならないですから。
お互いもそんなことは従順承知の上で、こういう風になるよねって思ってるんだけど、そうはならないんですよ。
仮になったとしてもそれは形式的なものでしかなくて、
中身はだいたい自分らが思い描いているような格好にはならないんですよね。
だってサービスを受ける人が変われば、サービスが同じ名称だったとしても、
大きく中身は変わって変動していくものですからね。
ここをなぜか全然受け入れられないっていう方が時々いらっしゃるんだけど、
あれはもう受け入れる受け入れないの話じゃない。
同じ例えば、何でもいいんですよ。高校の日本史Bみたいなのあるじゃないですか。
知らんけど。
あったとしてですね、僕はそれは毎年同じ授業やってるんだってことになってるのかもしれないけど、
中身の人がごっそり入れ替わってるのに毎年同じはずがないんですよ。
毎年全く同じだっていうのは、例えば授業してるのがAIだとしても僕はありえない話だと思うんで、
全く違うことやってるじゃんって感じがむしろしますから。
そういうもんなんですよね。このポッドキャストがそうですよ。
僕は毎日喋ってることは違うことだって、当然ですよね。
同じこと喋るんだったら1回でいいわけですよ。
毎回毎回全く違うことを喋ってるわけで、
だから名称の統一っていうのはあるにしてもですね、
中身はもうごっそり入れ替わるに決まってると思うんですよね。
その大橋さんが最初に冒頭に映画の1シーンなのかな?見せてくれて、
あれを見た時に、だからカウンセリングってのはこういう課題を抱えているというか、
だから私はそうか、力道系なんだと今朝思いついたんですね。
力道系なんだってのは間違ってるな。
力道が好きなんだと今朝思いついたんですよ。
膝を抱えて何かうずくまっていて、落ち込んでる男の子の横で、
あんなことは僕は現実にはないんじゃないかと思うんだけど、
可愛い女の子が慰めてくれるんですよ。
その時に男の子は顔を上げられないんですね。
もう落ち込みすぎてて。
女の子はなんてことはないことを語りかけるんですよ。
この時に僕はつまり何が言いたいかというと、
この男の子は引きこもってると思うんですよね。
引きこもってるから語りかけられても返事はしないし、顔も上げない。
ほっといてくれってやつですよね。
よくああいう態度になっちゃう人はいますよね。
子供に多いですけど大人にもいますよね。
ああいう態度にならないんだけど引きこもっちゃうということはあって、
しかもそれが気づかれないという人すらいるんだけれども、
とにかくそうやって非常に鮮明に引きこもってる感があって、
スファリして顔をうずめていてうーってなっている感じを醸し出してるから、
ほっといてくれってセリフとしては出てくるが、出てこなかったけど出てくるシーンなんですよ。
ということはつまり放っておいてほしくはないわけですよね。
これがカウンセリングの僕の入り口だと思うんですよ。
自分の中に矛盾したメッセージを対人関係の中では特に、
僕は今うまい言葉がないんで、対象関係って言葉はいい言葉なんだけど、
対社会関係と言いたいんですけどね、僕はね。
言いたくなっている時があるんですが、
これは対社会関係で矛盾したメッセージを自分が抱えこまざるを得ない心理状態に入り込む。
そうすると放っておいてくれという気持ちは一方で確実にやはり近づいてきた人に、
つまり近づいてきた人は対象ですけど、
対象に対して放っておけっていう攻撃を出すんだけど、
放っておいてほしくないというオーラが全身から滲み出ちゃってるわけですね。
この状態になった時に、カウンセリングというものが始めたい人がそこにいればね、
放っておいてほしくないわけですからね。
その女の子がそのカウンセリング役を買って出るわけだけれども、
やっぱこのシーンは映画だけあってよくできているわけですよ。
なんて言えばいいんだろうでは悩まないわけですね。
カウンセラーさんがここで、カウンセラーではないんだけど、
よく技法の話の中でも一番、僕もそう思うんだけど意味ないなというか意味がない問いとしてね、
何と言ってあげたらいいのかっていうのがあるんですよね。
それはないでしょうって感じが私もするんですよ。
何とも言って、自分がつまり膝でうずくまっている顔をつっぷしているような、
そういう放っておいてオーラを出しておきながら、
実は放ってかまってほしいという状態にあるときに、
何を言ってほしいかじゃないと思うんですよね。
いや、それは言葉が素晴らしい場合、講師先生みたいなね、
詩曰くみたいなことが言えるんだったら、
いうことに意味があるでしょうけれども、
普通に考えれば、ここで何かを言うってことに大して意味はないですよ。
何言ったって放っておいてくれって言われるに決まってるじゃないですか。
だからここは転移なんですよね。
放っておいてほしいというその人は、
で、私はそう考えちゃうわけですよ。
いや、これは転移だよね。
つまり放っておいてくれと言ってる相手は私じゃないよな。
私が何か言ったり、肩トントンとしても放っておいてくれって言われるでしょうけれども、
その相手は私でなくても同じじゃないですか。
誰が言ったって同じじゃないですか。
誰が言ったって同じっていうことは、
その人は自分の世界に入ってるわけじゃないですか。
その自分の世界っていうのは自分の夢の世界じゃないですか。
個人主義と共同生活
何も見てないわけだから。
で、その自分の夢の世界の中に入ってるということは、
つまりそれはナルシシズムってことになるわけだと思うんですよね。
この状態の人に何を言うかという問いって、
大した意味はないと思うんですよ。
私が行こうと、その女の子が行こうと、他の誰が行こうと、
基本同じなんだから、
基本同じだということは、
その人は人を転移関係でしか見ることができない心理状態にハマってるということですよね。
と、私は見たくなる。
この解釈が私を一番納得させるわけですよ。
この状態の人っていうのは、
その人の光栄というものを強烈にしていて、
だから引きこもるわけですよ。
引きこもるということは、
つまり私だけの世界というか、
私の世界のものの見方を成立させられるのは、
もう私だけの世界なんだってことなんですよ。
これは当たり前のように思うんですよ。
今の人は個人主義的だからね。
私だけの世界の見方をしたい。
だってその人の見方しかできないな。
私が見るように世界を見たい。
みんなそうしてるんですよ。
でも大事なのは、
人間というのは、
自分の見るようにしか世界を見られないにもかかわらず、
共同生活を営めるところにあるわけですよね。
私は私らしく交差点に入っていくわけです。
毎度のお馴染みのこの話ですよ。
私と全く同じように赤色を見ている人は、
他に世界80億いてもおそらくいない。
主観的な見方のリスク
少し色弱とかいろいろあるわけじゃないですか。
僕も男子なんで、
実は色毛は全然ないですけど、色弱すらないですけど、
でも微妙に全くないわけじゃないわけですね。
でもそんなことを言えば、
いろんな人がいろんなものの見方をして、
正しい赤の見方とかはないわけだから、
赤、黄、色、青ですけど、
あの青信号、先日Xで外国人が、
どう見ても緑だろって言って、
それ子供もよく日本人でも言うよねっていうね、
青と緑の境界線みたいな、
そういうのもありますが、
信号によってね、
青っぽいやつも緑っぽいやつもありますし、
鮮明なやつも、
太陽が背景に入るとほぼ見えなくなる、
危ない信号もいろいろありますが、
とにかく僕らは夢を見ているわけですね。
別の言い方をすると、
私の主観まるだし、
私らしくしか交差点は見られない。
でもそれって実に危ないじゃないですか。
お前らしく交差点見てる場合じゃないだろってことになる。
それじゃあ事故が多発するはずなんだけど、
しない、少なくとも。
結構ちゃんと交差点は機能する。
これはこんなに多くの、
1000万、2000万の人間が、
それぞれの物の見方を取るにもかかわらず、
共通の物の見方というものは、
何らかの形で成立されているという凄さなんですよ。
でもしばしばやっぱり、
これだけ複雑なことをやってしまっている人間は、
しばしばその人独自の物の見方にはまり込んだ場合、
他の人との夢の、
共通認識が保ちにくくなることがある。
これが多分神経症。
ATMと認識のずれ
保てなくなる。
これを精神病と言うんだと思うんですよ。
だから現実の見当がおかしくなってしまう。
ATMは何かやっぱりちょっと不気味なところが人間にはあるんでしょう。
なんかよくわかんない機械だし。
これもATMの専門家は別だと思いますよ。
いやいや、実に単純な仕組みだからって思うかもしれないけど、
昔からATMがあったわけじゃない人とか、
いろいろいるわけで、
やっぱりATMの見方というのは様々なわけですよ。
様々だ。
だからこのATMが私を実は監視してるんじゃないだろうかと、
そういう私なりの物の見方を始めてしまうという状態があっても、
おかしくはないわけですよ。
おかしいけど。
おかしいというのはつまり、
そういう認識を他の多くの人は持てない。
だから他の人の認識と、
その人独自の認識があまりにも大きくずれる。
人はみんなずれるんですが、
あまりにも大きくずれる。
あまりにも大きくずれると、
あまりにも大きくずらしている人を、
おそらく神経症水準というような言い方に近いと思うし、
これは難しいところですけどね。
あまりにも多くずれざるを得ない人を、
多分精神病水準と言うんだろうと思うんですよね。
いろいろあると思います、この辺は。
この辺は精神病理学の世界に入っていくんですが、
そこまで行ってない。
そこまで行かないというのはつまり、
退屈割りで抱え込んでる人はそこまでは行ってない。
でもあの人はやっぱり何かこう、
独自のものの見方をとらざるを得ない何かがあったんですよ、きっと。
私はその前のシーンを大橋さんに見せてもらってないから、
多分当面は見る余裕がないので見そうな気がしませんが、
とにかくそういうシーンはあるわけです。
で、その特殊なものの見方は、
辞めても大丈夫だよというふうに接触するのが、
カウンセリングの一つのケアに近いと思うんですけどね。
仕事なんだと思うんですよ。
それをある女の子が買って出るという、
ごく短いシーンなわけですよ。
で、この話はそこに引きこもってるんだけど、
この男の子は大事なのは、
自分の見方を他の人の見方とオーバーラップさせることが困難になりつつあるので、
引きこまらないと自分の見方を見失うので、
引きこもってるわけですよ。
つまりその時、自分一人に慣れているようで慣れない。
だから放っておいてくれになっちゃうわけですよ。
2人以上いるところでは、2人以上いてしまうわけです。
僕らはそういうことをせずに済む。
あの交差点では安心してですね、
ここ大事なんですよ。
安心できない人はこれが難しいってことなんですよね。
交差点で安心して、
他の人も私と同じものの見方をしているよねという、
ある意味勝手な当ての仕方、
これをミニコットが仕様と呼ぶんですけれども、
勝手な観点を取ることによって、
みんなと私は一緒だから、
私独自の世界をここに展開させようってことができる。
つまり一人きりになれる。
何人もそこにいるのに、
渋谷の交差点とかね、
一人きりになれる。
渋谷ちょっと難しいか。
だから危険なところでは難しくなるんですよ。
でもうちの近くの交差点のご老人と一緒に、
3、4人しかいないところでは、
明らかに一人になれるわけですよ。
自分一人のものの見方、
自分の主観丸出しでもまず大丈夫だからね。
これはつまりミニコットは何が言いたいかというと、
自分独自のものの見方、
一人のものの見方、
一人になれる。
カウンセリングの役割
みんなと一緒にいながら一人になれるという人は、
自分への信頼と他者への信頼が、
かなりの程度までいけているって言ってるわけですよ。
そうじゃなかったら、
放っておいてくれになってしまう。
2人以上いる世界に入ってしまったら、
私のものの見方とあなたのものの見方は違うんですって言ってるわけですよね。
それは危険ですよね。
生物としてそのような生き方は危険なので、
この時その人は緊張感が高くなり、
複数いるところでは、
ミニコット特有の言葉遣いで言うと、
孤立できないわけですよ。
みんながいることが分かってしまっている。
なんなら敵もいるかもしれない。
この警戒感いっぱいの状態が、
つまり引きこもるしかない状態なんですよね。
人間にとっては。
私は私独自の見方を、
私だけの世界で成立させよう。
つまりマイワールドを作り始めてしまう。
そうすると、
マイワールドは万能世界だから、
自分にとって都合のいい世界ですからね。
マイワールドは万能世界。
外の世界は危険な世界。
ということで、
マイワールドと外界とが分裂していく。
この分裂を、
ミニコット流のジゾイド、
つまりスキゾイドですし、
分裂、病。
その人は孤独になって、
孤立と分けているわけですよ。
悪い意味で言うところも、
孤独になっている。
孤独な人は一人になれない。
安心して、
赤ちゃんというのは、
お母さんがいることを知らずに、
安心して一人っきりになっていて、
おっぱいと思ったら、
おっぱいはやってくる。
涼しくしてほしいと思ったら、
涼しくなる。
金持ちのボンボンみたいな世界ですよ。
そのような世界では、
ちょっと言葉は悪いけど、
昔の言い方で、
修行人みたいな人たちは、
みんな人間じゃないわけですよ。
彼らは環境に過ぎないわけですね。
だから、
自分のために環境が動いてくれる。
一人っきりなわけです。
人間がそこにはいないから。
だから、
一人っきりになれる世界というのは、
とても幸せなわけです。
孤立しているわけですね。
孤独ではない。
これはミニコット流の表現だからね。
孤立はいい意味なんて、
孤独が悪い意味なんて。
アイソレーションと何だったかな。
まあいいや。
その孤独になっていない。
孤独になってしまうというのは、
そこにいる修行人たちが、
実は人間であるということが明らかになり、
しかも、
いっぱいいろんなことをしてくれる。
ご飯も作ってくれる。
何でもしてくれるのに、
実は自分を憎んでいる。
気が気でない。
これを孤独というわけですよ。
ちょっと極端な言い方してますよ。
もしかすると、
食べ物には毒が入っているかもしれない。
そういうことは、
全然わからなかった時代は、
幸せだったんだけど、
こういう話は、
時々漫画で書かれていますよね。
環境としての母親が、
突然対象としての母親になってしまう。
どんなにニコニコしていて、
どんなに優しくたって、
裏で何やってるか、
何を考えてるか、
わかったもんじゃない。
気がつくと、
家に火がついていて、
そのお母さんも、
愛人のもとに行っちゃってるとかね。
そういうことが起きるわけですよ。
相手は環境ではなく、
人間なので。
これを対象としての母親が、
トラウマを引き起こすという瞬間。
これは非常に極端に言いました。
ことをわかりやすくするために。
極端に言います。
これがミニコット流の世界ですね。
だから、
非常にふんわりしているようで、
全然ふんわりしてないですけどね。
私はこの、
カウンセリングには、
様々な技法があるんですけど、
つまり、
どういうことが、
私は力道で気に入って、
精神分析ね、
気に入ってるのかというとですね。
本音で接するというときに、
本音で接するというときに、
何をすることになるんだろうっていうのが、
僕は精神分析が一番納得がいくんですよ。
何を言ったらいいんでしょう。
どんな言葉掛けをしたらいいんでしょう。
って話が始まるということは、
その人は本音であるということと、
口に出すことは、
バラバラになりうるって話をしてるわけじゃないですか。
私は、
精神分析以外の技法では、
精神分析だとそれは起こるし、
他の技法について私は実は知らないんだけど、
これからちょっとやや調べようという気になってきたんですよ。
特にエリスのビデオを見ていてですね。
つまり、
認知行動療法って今CBTですね。
Cognitive Behavioral Therapyですけど、
簡単に言うけど、
認知行動って最近は、
認知と行動は別々だったわけじゃないですか。
だから行動療法などというのは、
本音がどうであるかなんて、
あまり関係ないと思うんですよね。
もちろん今ブラッシュアップしてきたっていう、
先日山崎さんにそういう話も、
話しさせてもらったんだけど、
でもブラッシュアップしてきたとしてもですね、
やっぱりオリジナルの、
創始者の発想って残ると思うんですよ。
行動療法の理解
行動療法というのは、
行動を治療していくわけじゃないですか。
一番わかりやすいところで、
タバコ吸いまくってる、酒飲みまくってる、
その行動を変えましょうと。
だから行動を変えるためには、
例えばお酒を飲まなかった日には、
反抗をするみたいなことをやると。
そして行動としてお酒を飲まなくなればいいと。
それでいいじゃないかと。
昔飲んだフレの親父に殴られたとか、
お母さんが出て行っちゃったとか、
そういうことを知る必要がどこにあるんだっていう、
ある意味そういうことじゃないですか。
で、それは一理あると思うんですよ。
だけれども、
酒飲みまくっちゃいました、
みたいなことを言って、
体育座りしている男の子みたいに、
顔つっぷしている人に向かってですね、
あ、じゃあわかった、
明日から反抗ね、またしていこう、
みたいに。
まあそうは言わないと思うんだけど、
この発想ってつまり、
本音ってどこにあるんだろう、
それを言ってる人の。
その人の本音は、
ただこの人に酒をやめてほしいんだろうか。
なんかこいつまた酒やめやがって、
私はそういうことが気になる立ちなんですね。
つまり、なんていうのかな、
自分がそういうお酒飲んじゃいました、
みたいな人と接したとき、
本音はどこに行くだろうって思うんですよ。
自分の本音として。
いやもう本当この人ダメな人だなと思っても、
別に行動療法だったら、
そんなことは関係ないわけですよね。
いやいや、
では新しくまた禁酒プログラムやりましょう、
みたいになるかもしれない。
で、これなんかに似てるなと思ったんですよ。
わかんないですけどね、
ライフハック系のある種の、
対人支援サービスみたいなのって、
こういうところあるなって感じがするんですよね。
ライフハック系のサービスって、
自分の本音が出てこないなと。
サービスしてる方ですよ。
例えばエヴァノートに記録を残しましょうって言ったときに、
記録が残せないんですよ、
みたいなこと言われたとき、
どう思ったか全然出てこないですよね。
やっぱりめんどくさいですかねとか言って、
ハードルの低いショートカットとかを教える。
多分そういう感じになるなと思うんですよね。
でも私は、
なんでこいつ記録ごときできないんだよって、
例えば思ったとするじゃないですか。
この思いが、
私は大事だって思うんですよ。
で、本音をただ口にすればいいって問題はもちろんなくて、
精神分析だったら本音を口にするぜっていうわけでは全然ないし、
CBTなら本音をベラベラ喋りますってわけではないんだけど、
でも精神分析は少なくとも、
あなたの本音、
つまりそれは逆転の話になってくるんだけど、
というふうに憎んだということが、
憎んだ腹を立てたということがあるということは、
っていう話を始めるんですよ。
僕はこれがないと、
カウンセリングなんてできないなって感じが、
カウンセリングであろうと、
1on1セッションであろうと、
この本音で接するというのが、
基本ベーシックでないと、
どうしようもないなって思うんですよね、
自分としては。
接触障害と治療
別に、膝を抱えてうずくまってる男の子に、
何と言ったっていいんですよ。
本音を言ってもいいし、
本音は隠しててもいいんだけど、
大事なのはまず、
本音に中心を当てることでしょうって思うんですよね。
この女の子はかわいそうだなと思ったのか、
元気出させたかったのか、
その辺に本音があるわけじゃないですか。
放っておくことにしか結果ならないかもしれないんだけど、
それはまあまあどうでもいい、
じゃあどうでもいいんですよ。
考えたのはここで、
大丈夫だからしっかりしなよと言うべきです、
みたいなそういう両方があったとして、
それはダメだろうと思うんですよね。
だってそれは、
その人の本音と何の関係もなくても、
それが本音ならいいと思いますよ、別に。
だけど、
本音でも何でもないものを、
技法として喋るっていうのは、
ありえないだろうと思うんですよ。
で、何がありえないって、
そんなことできないんじゃないかなって思うんですよね。
あの退屈割りしてる男の子ぐらいならできるでしょうけど、
私のサンチャレレベルであっても、
そんな本音でも何でもないようなものを、
ここでこう喋るといいから喋るとか、
あのすごい大きな誤解ですけどね。
ロジャーズ派は、
オウム返しに相手のことを言うと、
相手が何も言わない、
相性と個人の本音
ああいう男の子の場合は、
じゃあどうするんだってことになっちゃうじゃないですか。
オウム返しするとか言ったって、
オウム返しするなんてロジャーズにはないんですけど、
だいたいロジャーズってオウム返しなんかしないし、
なんですが、
ロジャーズ派ってのは、
ガール・ロジャーズっていうのは僕はやっぱり好きなんですよ。
彼は本音で喋ってる感じがするし、
絶対本音で喋れみたいなことを、
彼は言うんですよね。
自己一致の原則のところに僕はあると思うんだけど、
だけど共感できないのに本音を喋るということは、
もうあんた帰ってくださいとか、
言い換えないわけじゃないですか。
これは逆転医としての憎しみっていう話になってって、
先日松木邦博さんの接触障害の中にですね、
酒を飲んだのに白を着る女の子が出てきてですね、
ものすごく憎しみが湧いてくると。
ここがやっぱり僕はでもですね、
まあそれは精神分析用語なんだよなとは思うんだけど、
でもやっぱり松木先生偉いなって先生つけちゃってるけど、
思っちゃうんですよね。
だって別に憎まなくてもいいと思うんですよね。
いやもう諦めよう、
サジ投げようでも全然いいような状況ってあったと思うんだけど、
憎くなるって、憎くなるってやっぱ偉いよなって感じがするんですよね。
しかも憎くなってるにもかかわらず、
なんかもう殴るとか怒鳴るとかしてないし、
あなたは本当にお酒を飲んでいませんかって、
まあ本当はわかんないけどね、松木先生何言ったんだかなんて。
本当に飲んでないんですかっていう、
このなんか静けさがすごい偉いなと思うんですよね。
こんな話ばっかりだったと思うんだけど、
あの妙に真剣ですよね。
つまり本音ですよね。
まあちょっと金髪先生入ってるなって感じもしなくはないですけどね。
とにかくそういうことで、
何を言うかとかじゃないと思うんですよね。
どうその人をしたいかとかでもないと思うんですよね。
この時自分は本心ではどう感じるんだろうっていう話、
そしてそれはただ言えばいいってわけでは多分ないって話ですね。
いやあなたのことが本当に憎くなりましたとかって
ああいう時に言うわけにはいかないと思うんで。
そんなこと言われたら、
接触障害の女子とかは二度とそこにはいかないということになって
治療は失敗に終わるってことになると思うんですよ。
本音を、本音としてはその人はどう思うのかと。
それが大事な気が私はするんで、
で、本音ってのはそもそも何なんだっていう話をしてくれる精神分析は
私を引きつけるわけですよ。
で、すべからく僕は野良は、これはもう野良カウンセラーはって言っちゃいますし、
余計なお世話だし。
ここではもう脱足なんですけど、野良カウンセリングをやるなら
リキドー系がいいなってやっぱ僕は思っちゃう。
ロジャーズ派とかでもいいと思うんですけどね。
結局これはまず本音として何が起こるかっていう、
その時どういう事態が自分、自分の本音って人は言うんだけど、
自分の本音は毎度毎度変わるんですよ。
このことをちゃんと扱っているっていうことが少なくとも
参考とするならば大事だろうと。
共感するとか寄り添うとかいう話の以前に
共感できるのかって話。
そしてできる人とできない人、つまり相手次第で変わると思うんですよね。
この女の子だってその男の子のことが気になってるか好きだったから
そうやって寄り添う気になっただろうけど、
他の子が昔で言う僕みたいなのがうずくまってても
多分放置されてると思うわけですよ。
つまりそれは本音として好きになれるかどうかってこともあるわけじゃないですか。
私のような商売の人間は相手が好きになれるとか
相性良いとか悪いとか言ってられないところもあるので、
本音として揺れ動くというのは非常に多くを考えなきゃいけないんですよね。
ちなみになんですけど、相性良し悪しなんていうのは
よくカウンセリングでも出ますけど、
多分私はカウンセラーの人たち、相性の良し悪しなんて
ほとんど気にしなくなってるんではないんだろうかと最近思ってるんですね。
3ヶ月チャレンジやってて相性とか思ってるものは
完全にイリュージョンだなって思うんですよね。
多くの場合相性とかはないなって思うんですよ。
で、僕これについてよく思うのが
さっき冒頭の方で喋りましたけど夢なんですよ。
夢の中で不思議なんですよね。
相性の悪い人と遭遇するんですよ。
この人どうも流石にこういう人は生理的に合わんわみたいな。
お前自分で夢で人間作り出しておいて生理的に合わんってなんやねんって感じじゃないですか。
僕はものすごい後で思うんですよ。
これはどういうことなんだろうと。
この夢って何なんだろうねっていう感じがするんですよ。
なんかね、いかつい天然パーマンみたいな
割とわかりきったような人に絡まれるとかいうことが夢の中で起きるんだけど
これは一体不安ということになるんでしょうけどね。
つまりイリュージョンなんてもの
相性なんてものは絶対作り出してるな自分がって思う。
僕はね、これもまたすごく精神分析的じゃないですか。
そもそも夢の話を使ってますから。
だから僕は全く信じられないなと思うんですよ。
何が信じられないって。自分が信じられないですよねやっぱりね。
自分がこの人相性いいなとか
この人とだったらもう3ヶ月チャレンジバンバンできるだろう。
そんな見通しはナンセンスだと思うんですよね。
所詮夢見てるだけだよねっていう夢の中で
いや最高のこの人こそ最高のパートナーだわみたいに思う女の子と遭遇したって
それはお前が作ったっていうことなんですよ。
何の意味もないわけですよそこに。
前世からの縁とかそんなものはないわけですよ。
単に私の願望が夢になったという。
しかもそれは自分で作ってるわけですよ。マスターベーションですよね。
セックスしなくったってマスターベーションですよね。
夢の重要性
これは僕はものすごく大事なことだといつも思うんですよね。
これが僕をやっぱり精神分析に今の段階ではほぼ縛り付けていると言っていいぐらいのことだろう。理由だろうなと。
相性ってのはないんですよ。
相性がないということはあると思った段階ですでに僕は夢を見ているわけで
そういう人と相対している、そういう方と相対しているときには
自分の夢というものをまず検討していかなかったら何にも始まらないですよね。
ひたすら誤解を積み重ねるだけで終わってしまうと思うので
ここを頑張るしかないなと思うんですよ。
ついでに大橋さんの話から始まってるし
夢って話で昨日そういえば思ったのが
これは先々日土曜日かな
大橋さんのコミュニティの中の
言ってみればオンラインセミナーを
大橋さん主催という大橋さんのセミナーをやってたんですね。
大橋さんおっさんに言ってますけどね。
滅多にないんでね。
久しぶりだなぁと思いながら聞いていて
私はああなるほどさすが大橋さんで実にいいセミナーだった。
ちょっと上目線だけど思ったわけですね。
ところが昨日大橋さんがひどくそのセミナーについて
あれは良くなかったっていう話をされていて
いつも通りこの人自分の評価基準きついからなと思いながら
なんでこんなに観点が同じものを見ていて違うんだと
やった人と見ている人の違いなんですけど
これはそう言ってしまえばそれまでではありますが
つまりやっぱお互いが夢を見るよねってことなんですよね。
なかなかそうそう共通認識にはいたらない。
どれほど一緒に長く仕事をしていて
全く同じものを見たって全然違うものを見ることになるのは
やむを得ない。
やむを得ないと言いつつやっぱりこういう状況の人間たちが
成功と失敗の解釈
どんどん交差点に入ることの危険性をね
絶対すごいことだと思いません。
全く違う解釈を二人がするような人間
それも相当近しいところにいる人間がそうなのに
全く見ず知らずのいろんな世代のもちろん男女もバラバラで
人たちが僕なんかほんと小学生とか見てると
この子たちが交差点をちゃんと使えてるんだからなーって
まあねだから気をつけて見てあげないといけないわけですけれども
ほんとですねセミナーの成功失敗なんて
あそこで起こることの怖さに比べればなんてことはない。
私交差点ってなんかこの日つまんない日に聞こえるんだろうなと思うんですけど
だってもうこれで一票の話になってしまうケースって
現実に起こってますからね。
我々日本人にとってはですねやっぱり
そりゃあこういうご時世ですから国防費が
GDPの3%とかは大事な話なのかもしれないけど
まず喫緊にこのやっぱり交通ルールでしょって思うんですよね。
僕らが一番命を左右されかねないのはここだと思うんですよね。
大砲とかじゃないと思うんです。戦車とかそういうものによって
あの僕らが怪我をする可能性に現状比べると
もう圧倒的に何か1億倍ぐらい高く
道路上での何かっていうことを思うんですけれども
そこで最も重要なのは
共通認識をこの関係者全員が持ててるかどうかに
かかってくると思うんですよ。
でもそんな保証はどこにもないわけですよ。
僕はだから3回見ましたから赤信号で減速もせずに
突っ切っていった車で減速もせずにってとこやっぱ
なんか思わず行っちゃえじゃないですよね。
もう明らかにしばらく青だったところの交差点を
真っ直ぐ突っ切っていく。
だから僕はあれはドラッグじゃねえかなみたいにやっぱ
そう思うんですよ。認識が最初から明らかに間違ってる
人っていうふうにはなかなか僕らは考えられないんですよ。
それぐらい人間の共通認識というものは何かの基盤に
がっちり支えられているように見えるところがあるんですよ。
でもそれはイリュージョンなんで。
こんなにあやふやなものはないと思うんですよね。
なんでセミナーの話をしているのに
交差点の話になっちゃったのかなと思うんだけど
要するに失敗とか成功ってのはですね。
イリュージョンなんですけれどもだからといって
観点を変えるとか視点を変えてみればという言葉って
僕には虚しく響くんですよね。
僕には成功したように見えたセミナーは
やった人が言ってんだから
いくらかは慶長するんだけど
どう言われようと失敗には見え始めない。
つまり共感できないわけですよ。
ロジャーズ派だったら今はそうでもないらしいけど
ロジャーズ派で1987、80年でめちゃくちゃ怒られるわけですよ。
なぜ共感できない、なぜ共感できない。
これでうつっぽくなっちゃうっていう人が大勢いたっていう
ひどい話だと思うんですけどね。
何のカウンセリングなのか。
カウンセリングの訓練なんでしょうけどね。
なぜ共感できないんだって言うんですよね。
大橋さんに。できないですよね。
観点が変わらなかったら共感なんて。
で、大橋さんは失敗したとみなす。
これに共感するために何が必要か聞くしかないですよね。
まずね、話を。
だから慶長って話になる。
この時僕は画面越しだってことも特に手伝っているんですけど
体育祭、体育座になってうずくまってる男の子がそうである。
見るってのがめちゃくちゃ大事だって最近は本当思うんですよ。
僕は聴覚優勢の人間かもしれないけど
そんなことは言ってられないですよ。
見る。なるべく表情も見る。
で、背景もできれば見る。
背景見えませんが、背景かっこいい絵とかになっちゃってるんですけどね。
Zoomにせよ、Google Meetにせよね。
でもまあ、その背景の選択も合わせて見る。
とにかく見るっていう視覚情報ですよね。
入れていく。
まずこれやんないと全然共感にはいたらないですね。
話は聞く、当然。
聞くっていうのは展開を喋れる。
見るだけだとどうしてもその三次元的な。
今ここだけになっちゃう。
今ここ。今ここなんで見るはものすごく大事。
体育座でうずくまっていれば、それを見れば
その人が放っておいてほしくないのは一目瞭然じゃないですか。
こういう観点がいる。
これがだから傾聴なんですよ。
傾聴共感自己一致ってのはこれしかないと思うんですよね。
ひたすら相手の身になるっていうのを
どこまでやっていけるかということ。
相手の身になれば相手にとっては失敗なんで。
失敗というのは失敗したくないという意味を必ず含んでいるんで。
それをひたすら聞いて見ていくということをしなきゃならない。
私とおはしさんだとして
100回ぐらい話を。
しかもそれを基本的にはセミナーの失敗を中心にしている話だ。
私がどれほど言ったとしても
それを中心としている話だということを
とことん聞き込めばですね。
分かるような気がするんですよね。
いずれはあれは失敗だったということが。
これが夢の共有なんですよ。
夢の共有って全然気持ちのいいものとは限らないんですよ。
これが夢の共有だと僕は思うんですよね。
これがでもやっぱりこの能力があるから
我々は球場に行って一体感を持つことができるし
ホームランはホームランなんですよ。
ダイファールはダイファールなんですよ。
三振は三振なんですよ。
そんなものはないんだけど
我々はそれを夢見るわけですね。
そしてみんなで見る。
何なら5万人で共通の夢を見る。
中にはね、ビールとか飲んだり
全然違う方向見てる人もいるんで
5万人が共有しているとは思いませんけど
でも何万人かの人が共有しているのは確かなんですよ。
で、これをしかし場合によっては
10回は少なくとも
1on1で聞き込まないと無理っていうことが
いっぱいあるんですよね。
だから3ヶ月チャレンジというもので
CMやってるわけじゃないんですけど
聞き込むわけですよね。
ひたすら聞き込んでひたすら様子を伺う。
様子を見るんですよ。
なかなか目に入ってこないってこともあるんですけどね。
例えばそういう話を聞いているうちに
眠くなるっていう不思議な現象が起きるんですよ。
退屈なのかって言われるかもしれないけど
退屈はしてないんですよ。
こういう時に逆転医かどうかを考えるためにも
昨日何時に寝たっていうのをまず僕考えるんですよ。
眠いはずはない。
で、何なら足元の立てるヒーターみたいなのやってるから
これがいけないのかと思って切る。
めっちゃ寒くなってくると
目が冴えるような気がするのに
なお眠くなる。
これはやっぱり相手の人の話と関係があるんですよね。
こうやって逆転医を探っていくより他ないと思うんですよ。
話は一生懸命聞いていて頭にも入ってるんだけど
眠くなるってことが起きる。
つまりこの人の夢を共有できない。
自分は自分だけの夢を見たい。
その退屈ありで引きこもってる男の子と同じですよ。
私は私の独自の観点を保持したいと思ってる。
つまりお箸さんはセミナーでは失敗だったと言うんだけど
私は成功だったという私の観点を保持したいと
あまりに強く思うと
失敗だったという話の共有が難しくなるので眠くなる。
眠るということは夢の共有をシャットアウトする
っていう意味があるはずなんで。
で、ここで眠くなるのは何でなんだっていう時にですね
彼はまだ何か別のことが言いたいんじゃないだろうか
っていうように推定していくことができるわけですよ。
つまり何か向こうも覆ってるわけですよね。
引きこもりの尊重
夢の共有をしてほしいと言いながら
放っておいてくれ男の子がそうであるように
私のことが分かってほしいと言いながら
分かろうとする人間の手は払いのけるっていう話が始まる。
そうすると相手は諦めるしかなくて
そっとしておこうとか言うじゃないですか。
そっとしておくということは
その人にはその人の夢を見させておこう。
私は私の夢を見るしかないっていう意味ですよ。
でもそこでまた切り捨てるっていうのは違うんですよね。
相手の夢を尊重するという意味がある。
だから私はその引きこもりというのはですね
これは藤山直樹さんが書いてることなんだけど
引きこもりというのは
引きこもっている人の人間性を尊重するっていう意味があるはずだ。
引きこもりを直せばいいってもんじゃないんだっていう
これはウィリコットがですね
やっぱり人間には最後まで明かされない秘密があるんだ
っていう表現を取った時に
そんなようなことを書いてたような気がするんだけど
そういうことなんだろうなって思いますね。
最終的に何でもかんでも分かられればいいってもんじゃないってことですよ。
結局だってその人独自の存在だから
独自の視点はどっかにあるはずなんですよ。
心の秘密と尊重
どれほどオープンマインドで自己開示が激しい人であったとしても
やっぱりその人の究極のシークレットっていうのかな。
本当にその人が認識できてるかどうかわからないんだけど
そういうシークレットも
その人が保持したまま一生を得るっていう部分はあるんだろうと思うんですよね。
そういう話ですが
それよりは例えば隠し事をしてるとか
放っておいてくれもそうなんだけど
つまり横にいる人が眠くなってしまう。
今思い出したんですけどね
ヨマワリ先生っていう
これは戸畑海斗さんが紹介してくれた
割と有名な先生なんですけどヨマワリ先生で
ヨマワリするんですよ。
飛行少年少女たちのために
ひたすら夜回って話を聞くみたいな。
その先生が
それこそ引きこもっている少年のところに
通い詰めているうちに
気がついたら寝てたということがあったんだけど
その時この少年が
気がついたら居なくなってて
学校に行ってたと。
これが私は
すっごいこの話はミニコット
駅にしか私には解釈できんって思ったんですよ。
だって寝に行ったわけないじゃないですか。
夜行ったにせよですね。
寝に行ったわけじゃないんですよね。
これがだからそっとしておくということの意味だし
その人のその人独自の世界を尊重するということの意味だし
にもかかわらず居なくはならない。
環境としての母親として機能はするっていうことの意味だし
でも自分独自の夢は見ちゃうみたいな。
こういう共有の仕方もあるはずなんですよね。
だから何を言えばいいかっていう話では全然ないし
その人の行動としてはだから
登校させるってことになるんでしょうけど
行動を修正させるって話でも全然ないんだと
言うのは私には割と自明なんじゃないかなと。
弱割先生はカウンセラーじゃないんで
カウンセリングをするんだったら野良カウンセラーになるんだけど
これは力動系っていうふうに私には思えるし
それしかそれが一番僕は正規じゃない。
逆に言うとCBTだったら
認知行動療法だったら正規のほうがいいんじゃないかなっていう感じが
これは正規は認知行動療法であるべきだとかじゃないですよ。
CBTを受けに行くんだったら正規でいいんじゃないかな
正規でいいっていうか正規がいいんじゃないかなっていう
そういうようにも思う。
何がどう結論ってわけではないんですけど。
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