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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
おそらくなんですけど、まだ告知できてませんか?
6月の4日だったと思うんだけど、土曜日ですね。
ご存知の方も多いとは思いますが、
橘さんと対談トーク風のイベントをやります。
長めで3時間くらいを予定しています。
3時間だから、14時から17時くらいを計画しています。
何を話すかといえば、タスク習答なんですけどね。
橘さんはタスク習答をお使いなわけではないので、
彼の話を伺いながら、タスク習答的には、
私がしゃべる方は、どういう風にそれを捉えるかみたいな話を混ぜていって、
一部二部構成にして、二部は私の中では漠然と、
時間管理が第一部で、
二部では情報発信というテーマになるかなと思っています。
情報発信の方は、私は自分が情報発信をしているという自覚があまりないので、
情報発信という言葉から、私が類推することをしゃべっていく感じになりますけど、
私は自己発信なんだと思うんですけどね。
でも自己って情報じゃないから、
情報発信のように見えるということは多々あると思うんですけど、
タスク習答の話とかも情報発信だと感じられると思うんですけど、
私を発信している感じ、
私を発信しているというか、
でもこの話ですね、先日たちさんと打ち合わせして、
面白い話だと思ったんですけど、
プライバシーという問題がここには絡んでくるわけですよね。
自己を発信するとなってくると。
私は自己を発信したい人間なんですよ、実は。
でも顔出しということになってくると、全然全くしたいと思わないんですね。
私は自分のプライバシーに価値はないような気がしているんです。
だからプライバシーはダダ漏れにしてもOKだって話ではならないんですけど、
ただ価値という意味においてはですね、
私の日常生活なんかに、
興味あるって方はいらっしゃるかもしれませんが、
私自身は日常生活の見せる価値みたいな、
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これを知ってもらうことの価値はないなみたいに思っているんですね。
だから自己発信と私が言っているときは何を意味しているんだろうって、
これがまさに僕にとっては自己発信で、
この中に情報的なものは僕はあんまりないと、
情報価値という意味ではね、
またそういうものを出したいともあんまり思ってないんですよ。
そういうものを出せって言われると、
例えば商業出版なんかで出せっていう話になってくると、
あるいは連載とかで、連載は私続かないじゃないですか。
なぜ続かないかというと、
求められているものが多分出せてないからだと思うんですね。
だんだん苦しくなってくるんですよ。
私マニュアルを書いたりするのも好きな方じゃないと思う。
ていうか多分苦手なんだと思うんですよ。苦手。
苦手というよりやっぱり好きじゃないって感じの方が強いですね。
得意では絶対ないと思うんですが、
そもそもやりたいというモチベーションは一切わからないんで、
できるワードみたいなのを書きなさいって言われると、
多分僕は放棄しちゃうと思うんですよね。
そういう人間なんで、そういう人間はいっぱいいると思いますけど、
情報って話になってくると、
一つは徹底しないっていう性格があるんですね。
徹底するのはそもそもあまり好きじゃないということもあります。
これもね、多分そうは思われてないと思うんですけど、
例えば私、ヒゲ剃りとか買うじゃないですか。
かなり適当に買うんですよ。
なんか適当な値段で適当に良さそうだと思うものをサクッと買うんですね。
なぜかというと、
人生で僕は多分、損得するってことをほぼ信用してないんだと思うんです。
これも不思議な話に思われるかもしれないんですよね。
でも今の世の中でQOLと言ってる話を聞いていると、
みんな本当にそんなことを信じているのかなと、
これは僕がしゃべると宗教的な話になっているように聞こえるかもしれないんですが、
よくよく普通に思い起こしてみても、
自分が一番楽しかった時と自分が一番得した時は一致してないなって思うんですよ。
例えば楽しさで言うと、やっぱり私は小学校時代とかって楽しかったと思うんですね。
この辺の記憶にもよると思うんですよ、そういう感じって。
だから私は別に小学校時代に戻りたいとまでは思いませんが、
小学校時代楽しかったのみたいなのは結構あって、
その時得してたかというと、
あんなことは大人になったら到底真面目にやる気にならないなってことが多いんですよ。
この辺で私はまとめたくないんですね。
自分の感覚というものを結構信用していて、
あれは損をしていたから楽しくなかったことにしようという気持ちにはどうしても慣れないんですよね。
例えばあれですよ、収穫旅行実行委員とかをやってて、
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あれって得することなんにもないじゃないですか。
先生の下働きみたいなことを大量にしてあげくお金は1円ももらえないんですよ。
こういう時に経験になったとかって言うんですけど、
私は別に経験になったところで得をしたとは思わないんですね。
あの経験が何かに生きているかもしれないですけれども、
あんま興味ないんですよ。
ただ楽しかったなとは思うんです。
こういうのを騙されたっていう風に考える方もいらっしゃるらしいんですよね。
やりがい搾取とかっていう話もあるじゃないですか。
でも私、やりがい搾取って言い出したら、
やりがいって全部搾取なんじゃないかなっていう気もするんですよ。
だってやりがいがあることが全部金銭に結びつかないんだったら、
それは搾取であるって話になるわけじゃないですか。
定義的にそう思っていかなかったら、
やりがい搾取っていうのは結局あれですよね。
高いモチベーションで仕事をした結果、
その収益が誰か、あるいはその仕事上の便益が誰かのものになったものを指すじゃないですか。
そう指さないんだったら、
そこに悪意があったか善意があったかとか言い始めてしまったら、
多分あれ取り締まったりはできないと思いますね。
法律的には。
例えば先生は私が一生懸命、
修学旅行のパンフレットとか作ることによって便益を得るわけでしょう。
それはけしからんってことになってしまったらですね、
実行委員にはお金払わなきゃならないって話になってくると思うんですよ。
出なかったらやりがい搾取だと。
ここに教育的な目的があるからいいんだって話をし始めちゃったら、
教育的な目的があれば搾取してもいいって話になってしまいますからね。
どっかで線引くってことになるんでしょうけどね。
私これ簡単な話じゃないと思うんですよ。
でも私の主観的には簡単でいいと思うんですよね。
楽しかったらそれでいいということにしてあるんです。
そうしないと、そういう考え方では自分を守れないっていうのが、
つまり現実に対する不信感じゃないですか。
私はそうは思わないから、
現実にいちいち不信感をそういうところで持ちたくないので、
つまり何を守ろうとしているかって話だと思うんです。
最終的には。
自分の時間なのか、お金なのか、体力なのか、肉体なのかですね。
私はこの場合にはお金は問題になっていないと思うんですね。
時間も問題になっていないと思うんですよ。
学校の話してますからね。
体力。
体力はそれによって私が倒れでもしたなら問題なんだけど、
そんなことはなかったから問題じゃないと思うんですよね。
残るは肉体だけなんですよ。
残るは肉体だけなんですよ。
僕ら守ろうとしているのは、外してこれだなって思うんです。
あれで肉体が傷つくということがあるということはあり得るんですよ。
ただですね、私はあの時肉体が守れなかったから残念だとは全く感じないんで、
やっぱり余計なことだと思うんですね。
そこまで考えていくっていうのは、今のように追って追って考えていかないと、
たぶん何が搾取されているかの実態というのはすごく明らかにならないと思います。
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むしろ学校に対する不満とか不平とかを正当化する理由にこっちを使っちゃうような、
その方が断じてわかりやすいんですよね。
そんな気がするんです。
お話がまたそれてるんですけど、そういうわけで4日にやりますんで、
たぶん告知もしますから、告知したら興味ある方は今回は無料ではありますので、
ゲストと一緒にやるやつはですね、岡野淳さんのような極めて特殊な事例を除くと、
そうそう無料ではありませんので、よろしければチェックしてみてください。
今の話の中にも一応出てきてるんですが、タスクシュートでの話を私するって、
たぶん今回ゲストのたたしさんはタスクシュート自体の話はされない。
私がそのタスクシュートっていうのは、返して誤解されてるという風にも思ってますけど、
それは確実だと思うんですけど、私のように使うのが最も一般的でマジョリティで正しいというのを全然言えないんですよ。
私のように使うっていうのはどう使うかというと、今思い出してみるとなんですけど、
タスクシュートなんですけど、割り込みという概念に関して私は一番アンビバレントと言いますか、
非常に困惑してたなっていうのを今思い出すんですね。
割り込みって絶対どんな場合もなくならないんですよ。
これを無くすべきなのかどうなのかというところで私は困惑してたなっていうのがあるんですね。
大橋さんとも大橋哲夫さんとも何回かお話したことがあるんだけど、これは難しいんですね。
彼と短く話した程度で、数ストローク彼と会話した程度で結論が出るような話ではさらさらないんです。
つまり割り込みというのは、例えば人生をQOL的に見て損得で考えたとしても、
それが果たして得を生むのか損を生むのかは誰にもわからない面があるんですね。
だってわらしべ長者ってそうじゃないですか。あれ割り込まれてます。しかしあれは長者になってます。
しかもわらしべ一本から。あんな都合のいい話はそうそうないかもしれないけど、
でも私フリーで生きていて、フリーランスの醍醐味の一つってこれだなと思うのがわらしべ長者なんですよ。
考えてみると、私一行持ち家持って結婚できて子供もいて、学校にもやれてるんですけど、
これ私の結局は、今こういう日は使えませんが、鉛筆から出たものじゃないですか。
鉛筆は使ってませんけど全く。ボールペンから出たものじゃないですか。
絵とか本当そうですよ。ビリーバットじゃないですけど、
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ブラザー・ナオキさんのディズニーのミッキーの絵を描いただけで彼はもう億万長者じゃないですか。
そういうもんですよね。フリーの醍醐味ってここにあると思うんですよ。
元手が一切、一切とは言わないけどパソコンはいりますが、
でも元手はですね、それこそ最近で言うところの格差の底辺の方に至って、
うまくいけばなんとかなっちゃうというか、お金の話だけですよ。
そういう面があるんですね。そのことを考えてみた場合、
この割り込みっていうのがすごく大事だったりするわけなんですよ。
今思えば一番売れた本はまさに割り込まれたような感じで、
無理やり出させられたような、そう言ってしまうと向こうに大変失礼なんであれなんですけど、
でもやっぱり感覚的にはすごく忙しいところに必ずしも乗り切りになっているわけじゃない本を
こいつから強引にでも出させようっていうような、ある種の出版社サイドのパワーを感じたんですね。
先送りの本、黄色の本ですね、あれが出た時は。
どうしても私は自分のある意味、当時は特に計画的なものに固執していた面もあるんで、
だけど固執したって無理だったかっていうのも当時ものすごい感じさせられたんですね。
忙しくなればなるほど、それなりに売れたり話題になったりすればするほど、
反自動的に巻き込まれていくことって、巻き込み力みたいな本もあったと思うんだけど、
ちょっといい加減なタイトルなんで気にしないでください。
要するに巻き込まれていく、その時に巻き込んでくる方の方が力を持っているわけですから、
とことん逆らっても別に自分の人生を切り開けていけるわけではないんですね。
例えば出版社対私とかって、全然私の方が力があるわけじゃないじゃないですか。
ここを逆らって強引に自主独立の精神だけでやっていくと、全然売れなくなるという結果しかないと思うんですよ。
でもなかなかそうはならないんですね。
関わっている人が多ければ多いほど、気がつけば巻き込まれているみたいなケースもあるし、
それにすごい逆らいたいみたいな気持ちは、15、6歳の頃の私ならあったかもしれないです。
思春期ですから。
そういう反抗的な気持ちでも振り起こさない限り、
あの時期に一つ一つ、当時断る力というのが、すごく勝山和夫さんがベストセラーになったんですけど、
そんなに断れるもんじゃないなって思った記憶もあるんですよ。
そのくらい売れてくると、次から次へと来るんですね。
一つ一つに対して不良少年じゃあるまいし、全部肉ってかかるっていうのはおかしいじゃないですか。
そういう気持ちもないしね。
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そうするとうまく持ってかれるんですよね。
それまで会ったこともないような編集さんっていらっしゃって、うまいんですね。
そういう売れてるというか、売れそうだというのに目をつけたら、
絞り出してでも持っていくみたいな。
しかもこっちが書かせたいというものを、
それこそ潜在意識ってああいう時に使えると思うんですけど、
無意識ではないんですよ。
気づいてないわけじゃないから。
でも縫うように縫うように絡んできて、
気がつくと一冊書かされているみたいな。
書いたって感じはほとんどしなくて、
気がつくと一冊が上がってて、
気がつくと本が並んでて、
持っていく人ってやっぱりいらっしゃるんですよね。
いろんな人に出会いました、あの頃に。
目まぐるしい世界って感じがしました。
あれは全部タスクシュートを私でも当時つけてたから、
これは全部割り込みなんですよ。
割り込み、割り込み、割り込みっていう形で
仕事がつながっていくんですね。
これを全部振り捨てるということに、
何の意味があるんだろうって思うんですよ。
そんなに自分の大計画って、
なんか中二病っぽくなるじゃないですか。
秘密基地を作って、そこで一生懸命書くみたいな。
そういう計画って、
全く大人の世界でやることではないって感じがするんですね。
当時の感覚として、
大人ってこうやって生きてるんだろうなっていう感じがしたんですよ。
それまでの自分の生き方って、
すごい思春期っぽいなって感じがしたんですね。
だからなんだなって思ったんですよ。
だからこう自分のプランというもので
いくんだっていうのが、
ある意味感覚的にはフィットするんだなと。
ただ、この中で私がやっぱり悩んだのは、
つまりこれはどっちがいいのか分かんないなと。
QOLというもので測ってしまったら、
やっぱりお金って出てくるじゃないですか。
健康もお金で今はだいぶ買うし、
環境とかもお金で買うし、
時間もお金で買いますよね。
QOLって話をするんだったら、
お金儲けるってとってもいいことだって話になるじゃないですか。
QOLって話をするんだったら、
絶対これはあの当時に関して言えばですね、
割り込まれれば割り込まれるほどベターだったわけですよ。
だからQOLの測り方って実に主観的だってことなんですね。
割り込みすなわち悪です。
全部自分の主体的に決めるのがQOLを高めるんですって話をするんですよ。
主体的に決めるのがQOLを高めるんですって話をするなら、
あの頃は最悪ですよね。
僕の人生の中で。
だからそれに比べると、
いつ一番良かったかって言ったら大学時代ですよ。
お金全くなかったあの時代。
私は昼間から酒飲んで、
どっかの居酒屋で友達とずっと喋ってましたけど、
あれが最高だってことになりますよね。
だって主体的でしたからね。
一切他からの何の依頼も僕に来なかった時代ですから。
だからベストなんですよね。
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何を持ってQOLがいいって話をし始めると、
こういうことになっていく感じが、
当時私はそのことをよく考えたんです。
結局こうやって行き、
みんなこの話をした場合には、
どこに連れて行かれるのかって話をされてくるんですね。
当時は特に流行ってたんですね。
どこに行く、行き着くのか。
それがはっきりしないとダメだと。
北極星みたいな話があったんですけど、
私は北極星っていう費用は非常に苦手で、
いや北極星に行けないじゃないかって思うわけですね。
北極にだって行けるかどうか疑わしいもんだし、
今時北極なんか行けないですよね。
危なっかしくって。
いろんな意味でですね、
行き着くって言うけれど、
これ完全に巻き込まれてるものを全部断って、
自分がどっかに行き着こうとしたら、
多分行き着けないだろうし。
だからといって、
ひたすら依頼に応えていくというこのライフの中で、
どこかに行き着けるのを事前に割り出せるわけがない。
多分だって、
個々の編集さんは何の関係もないわけですから、
私をいろんなところに行き着かせようとしていても、
一人の人の思惑通りにはならないわけですよね。
つまりそれはランダムなものに近いと思うんですよ。
で、ずっとそうやって考えてきて、
一つ答えが出たのがですね、
依頼に即応するというのは、
タスクシュートに近いんだっていう感じを得たんですよ。
何であれ、その道がどうであれ、
つまり直線的に進むっていう言い方をした場合、
そこにはゴールがあることになるんだけれども、
そのゴールは脳内で考えたもんだから、
嘘、間違うんですよね。
何度もこの話はしてますけれども、
そういう僕が巻き込まれのど真ん中の中で、
あの地震が起きたんですよ、東北の。
その後はもうピンボールですよね、本当に。
直線も何もあったもんじゃないです。
だってほとんどの人は忘れてしまってますけど、
このあれが起きる前にみんなが描いている直線とは
何の関係もない世界がその後にボンと出現してしまって、
今はウクライナですよ。
またボンと出現してしまって、その前にコロナで、
今も終わってないけど、
これがですね、私たちはこういうのを全部忘れるからこそ
直線が描けるんですよね。
こういうのを全部覚えていたら
直線が描けていないことはすぐ分かるんだけれども、
こういうのを全部忘れる限り、
これからこういうプランを立てるっていうのは何か
ひどく理にかなったことのように思うんですよ。
自分の病気とか、自分の患者とか、
自分の体力が変化すること、
自分の肉体が変化することとか、
人間関係が変化すること、
関わっている人の立場が変化すること、
例えば私がすっごくある編集さんにお世話になったんだけど、
その編集さんは出会った時からすでに定年間近だったから、
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こういうことすら十分考慮に入れないところが甘いんですけどね。
いなくなっちゃうんですよね。
そういうことでも起こるじゃないですか。
例えばそんなに年取ってなかったって、
いなくなる、その編集を辞めるって方、
私はすっごく長い付き合いのあった編集さんが
編集そのものを辞めたっていうこともありましたし、
つい最近でも私の辞められなくなる小さな習慣、
あれは10判かかりそうになって、
かかっていて次の作品が出るみたいな話にまで持ってってたんですよ。
あったんですね。
それ書いてる最中に編集さんいらっしゃらなくなったりもするんですよ。
それは別に年寄りとかじゃないですからね。
そういうふうに僕らが書く青写真があるものは脳内で書いているんで、
そうじゃない唯一のものって何だろうと思ったときに、
私は手元にいたスクシュートの記録はそうじゃない唯一のものだと思ったんですね。
一つには過去ログなので、
これはもう過去のものだから青写真とかではないですよね。
もう一つは記録している末最中、
私はこれが大事だといつも言っていますけれども、
つまりこの記録している末最中のことは未来のこととは関係ないんで、
関係あるように一気に思うんだけど実は関係ないんですよ。
特に依頼に答えているときは関係ないんですね。
依頼は相手の脳内から持ってこられたものですし、
自分もそういうものに頼って生きているよなっていうことを
やっぱりスクシュートをつけていると知ることになるんですね。
例えば記録つけないですけど朝早く起きて、
当時早く起きてたんですよ。
絶対必要になるものはまず水なんですね。
この水を飲んだって記録どうしようかってのをいつも考えてたんです。
どうかのじゅんさんがやる気クエストの中で
それの記録を取っているシーンも書かれてますけど、
私これだなって思うんですよ。
その水どこから手に入れたって話なんですよ。
人がくれるものでしょう、これは。
自分じゃ用意できないはずですよ。
そういう問題ってあるじゃないですか。
都城国のところで泥水じゃない水を子供に飲ませたいみたいな話ってあるじゃないですか。
朝起きて水をどこそこにいって、
どこそこって言っても自分の家の中でスイッチ一つで出てくるんですよ。
そこまでじゃないですけどね。
あるいはペットボトルで出てくるんですよ。
あるんですよ。
あるってことが大事ですよね。
これはとっても受動的な行動だなって思うんですよ。
喉が渇いてるって言ったって肉体の要求ですよね。
私自身の能動的なプランによるものじゃないんですよ。
喉は乾かされている間違い。
そしてそれを人からもらった水を飲んでこれを癒す。
全然私の主体性ってどこにもこの中になくて、
で、いつもこれの連続なんですよね。
タスクシュートの記録をつけてるとか。
全部じゃないんですよ。
大半は特に大事なことは決まってこうなっている。
水を飲むだろう、食事をするだろう。
24:00
大事じゃないですか。
食事自分で作ってはいるけれども、
魚とか殺して取ってきたのかというとそんなことはないですよね。
醤油とか自分で作ったのかというとそんなこともないですよね。
主体的なところはほとんどないですよ。
そもそも私のお腹を空かせたのは誰だって話なんですけど、
私じゃないですよね。
もし私だったら都合の悪いときお腹空かないようにします。
私じゃないんですよ。
お腹を空かせたのは。
肉体がイコールじゃないというのがグッドバイオスですけど、
私は自分の本体が自分の肉体だと思ったことは一回もないような気がします。
いつも自分の本体としては、
自分の主体の中心というのは肉体そのものという感じがします。
肉体そのものだったら、
結構困りますよね。
私自身というのの観念なんてないわけだから。
髪とか切っちゃいますし、
爪も切っちゃいますし、
歯とかも削ってしまうし、
そもそも身体を構成しているものって食べ物ばっかりじゃないですか。
肉体イコール私ならば私は食べ物だって感じがします。
それぐらい身体と自分というのはイコールじゃないから、
結局これは私はタスクシュートではそう記録しているんだけど、
食事だ、水だ、
水は記録していませんけどね、
トイレだ、
は全部身体からの要求ということにしているんですよ。
そうすると主体としての行動って実は僕の記録の上ではゼロなんですね。
だからもうこれは考慮に入れるのをやめているんです、今は。
ずっとゼロが続くものに考慮してもしょうがないと思うんですね。
一番しかも私がこの話は、
セミナーでもしたいと思っているんですが、
最近気づいたんですけどね、
身体の産が割り込みと呼ばず急な依頼と呼び、
依頼には即応するという話をされていたとき、
私は即応が難しいって思ったんですよ。
まず物理的に難しいということを考えましたし、
即応するというのがひどく損臭いという、
この漢字が私の脳内に余ってくるから不思議だなと、
損得で人生測れないというのは確信めいたところがあるんですけれども、
一つにはね、私は子供の頃病気がちだったんですね。
病気は損じゃないですか。
ところが病気しているときに一番望むことは何かというと、
当然楽になることなんですよね、辛いから。
あのときの楽になった感じの幸福感と、
どこか旅行に行っておいしいものを食べた幸福感に勝るんですよ、私の実感では。
だから損得というものを客観的に測ることは無意味だと思うんですよね。
あのときの楽になるというものは、
病気なままなんだから、大して得になっていないからあまり意味はないなんて、
そんな風には思えないですよ。
多くの人はワクチンの注射を打っただけでも、
27:00
痛み止めを飲んだり、あんなもんではないですから。
症候熱とかにかかると、本当にあんなもんでは済まないですから。
身体的な苦痛ってでかいんですよ。
楽になれればなんでもいいって思うし、
楽になれるときの安堵感って絶大になるんですよね。
ああいうときに思うんですよ。
人生ってのは損と、損したことがない。
得失で測るのは無意味だって感じがするんですね。
客観的には、私は症候熱で出てるんだから、全然得してないんだけど、
あのときの安堵感が手に入るならば、
ハワイ旅行なんていらんですよ。
そういうぐらい主観ではですね、
客観的に何にも現れてこない主観的な、
安堵感があって、
客観的に何にも現れてこない主観的な求めるものってありますから、
そういうのも私、小さい頃は多かった人間なんで、
やっぱりどうしても損と得で測るっていうのが、
実感としてピンとこないんですよね。
そういうふうに要求というものに応えていく。
結局病気で楽になりたいというのは要求ですからね。
本当のところってのは難しいんですけれども、
要求に応えようと自分がしているから頑張るわけですから、
食事なんてのはもう全く要求な感じが僕の感じとしてはします。
私が要求しているというよりは、肉体に要求されていると。
これを放置していくと、
大変困ったことが起きるという信号が絶え間なく発せられて、
鬱陶しいみたいな空腹感ってそういうものを感じるんですよ。
主体的にやっていることがもしあるとすると、
入浴かな、あれだけは身体から明瞭な要求がないのにやっている感じがしますね。
本当にわずかなんですよね。
主体的にやっていることとして3発かな。
嫌いじゃないんで私は多分。
だからこういう時間を節約したいとは全く思わないですよね。
こういう時間すら節約してしまったら、
本当に僕の人生は他者からの要求、
僕は自分の肉体を他者と見出しているので、
他者からの要求が全部を占めちゃう。
睡眠ってのは本当そうじゃないですか。
寝たくもない時間に睡魔が襲ってくるじゃないですか。
運転中とかひどいですよね。
この時ほど身体の要求が他者名で感じることはないんですけれども。
私が一番感じたのは娘がまだ幼かった頃なんですね。
娘が運動さなかった頃、私は膝に置きながら物を書いていたんですよ。
絶え間なく娘がいろいろやってくると。
キーボードを触ったりね。
文字を一文字打ったりすると相手押し。
文字を一文字打ったりすると相手押しって感じだったんですよ。
30:00
あれがリアルタイム。
リアルタイムログっていうのは大橋製造さんがブログに書かれていたことがあるんで、
私タスクシュートはリアルタイムログっていう風に書いたことがあったんですけれども、
実はピンときてないっていうかピンとくる良い言葉だと思ってたんだけど、
本当のところを書けているものがあるってずっと強く意識していて、
タイムに比重が強すぎると思うんですよね。
今ここっていうじゃないですか。
ここが大事だと思うんですよ。
今も大事ですけれども。
リアルタイムだと今だけになってしまうんですよ。
Now and hereなんですよね。
Nowだけになっちゃうんですよ。
Hereが欲しいんですよね。
僕は今ここログと呼んでるんだけど、
今ここなんですよ。
娘といるからここなんですよ。
娘といるから原稿が進まないのもここなんですよ。
娘といるから原稿が進まないのもここなんですよ。
今なんだけどここなんですよ。
ここがすごい大事なんですよね。
私は時空という意味ではどっちもイリュージョンかなと思ってるんだけど、
空間の方がまだしもずっと現実に近いと思うんですね。
時間なんて全然イリュージョンだと思うんですよ。
だって地球の裏側は違う時刻じゃないですか。
空間が違うからなんですけど。
時間が絶対感を持っているのっていうのは本当に嘘っぱじでニュートンですよね。
絶対正式系とか。
絶対正式系ってすっごくおかしいじゃないですか。
でも絶対正式系ってものがないと時間というものが一斉に同じ動きを示すってことはできないんですよね。
これはできないからアインシュタインが正しかったんだけど、
時間というのは多分関連なんだとは思うんですね。
どっちみち。
頭の中で考え出している部分はもう100%そうですよね。
まだしも未来が来るってのは来るかもしれませんけど、
頭の中で描いている未来は来ませんから。
気もしないものなので、要するに青い写真ですよね。
でもここってのはある感じがまだしもすごい強いじゃないですか。
娘がここにいるから原稿が進まないんですよ。
この時に僕らはまとまった時間という妄想を抱くんですね。
平気でやるんだけれども、
でも当時の方が私は本の著作量が圧倒的に多いんですよ、今より。
この娘が抱っこしながら書いているという、
人が聞くと必ず違和感を持たれるらしいんですけど、
それじゃ書けないと。
自分だけの集中できる時間がある程度まとまって必要だと。
私ね、それを聞いているために真実に反しているという部分をどうするんだろうっていうのを考えるんですよ。
私の娘の相手をそうやってしているというのがそもそも違和感があるというのもわからないではないですけど、
それはイメージの問題ですよね。
リアルログっていうのはタイムじゃなくて、
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リアルログっていうのはそういう時に私が娘の写真を撮ったりするのは、
いわばリアルログだと思ったけれども、
リアルな中でやっていることだから意味があるんですよ。
まとまった時間があれば書けるっていうのは青写真じゃないですか。
私はあの時期が一番かけていたんですね。
どうやって書いていたとかではないんですよ。
多分記憶している限り娘と二人でいるとウトウトしたり、
遊んだりしているじゃないですか。
でも娘は寝落ちしますよね。
その時書くんですよ。一気に。
そうやって書いたのが、
あの時の先送りの本だし、iPhone情報制律なんですよ。
一番売れてた時期ですよね。
だから一番仕事してました。
今は娘が学校引くからまとまった時間はいくらでもありますよね。
あの時の10%も書いていません。
これが僕はまとまった時間の正体だと思うんですよ。
つまりそれは幻想だと思うんですよね。
実際にどういう時間がどのくらい必要なのかっていうのは
記録すれば出せるんですけれども、
そんなことはあんまり仕事を進める上では関係なくて、
娘が横にいる方が進むっていうことは実感としてはないですよ。
全くない。
でも実際には進んだんですよね。
どうやってって聞かれるんだけど、
それは多分僕はダメだと思うんですよね。
どうやってっていうのは、
衛星写真を見ているようなものであって、
どうやってっていうのは、
家の中で起こっている出来事なんですよ。
衛星写真には映りっ子ないんですよね。
解像度がなさすぎる。
解像度がなさすぎるんです。
世界地図でポーランドの街を歩くみたいな話がありましたけど、
哲学者が言ってましたけど、
そんな感じですよね、どうやってっていうのは。
そのようなものは通常の記録に残ったり、
それを説明したりはできなくて、
やっぱり実際にそれをするってことしかできないんじゃないかと思うんです。
少し言うとそこに近接していく感じがあるんですよね。
迫っていく感じがあります。
だから実際にそこでやっていること、
その時には撮れないですよ。
横でビデオで撮っておいてもダメです。
分かんないですから、何が起きているのか。
外で見てても絶対分かんないことが何かあるんですよ。
そういうのがすごく何かを押し進める感じがするんだけれども、
それを記録に仮に撮っておいても、
それを見返すにはどう量の時間が必要になるじゃないですか。
早送りしたら全然ダメだと思うんですよね。
だからリアルなんですよ、それ自体は。
Now and Hereなんですよ。
今ここで起きていること。
それ自体にタスク集で僕は一番接触してきている感じはあるんですよね。
でもその時に一番大事なのは、
これを記録に残そうという意識なんですよ。
それが起こっているってことですね。
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よく言うじゃないですか。
記録を取れませんとか。
そんなことはないはずなんですよね。
取れなくてもいいんですよ。
取ろうとしていれば。
何となくその時間では無理だという風に過ごしてしまわなければ、
もっともっと細かく見ていけば、
娘が寝落ちする瞬間があるんですよ。
その時に欠ける自分もいるんですよ、そこに。
これが依頼に応えるってことだと思うんですね。
即応するっていう意味だと。
娘が要求すればすぐに応じるし、
依頼が来たらすぐに書くんですよ。
大変だとかストイックだっていうのは、
イメージなんですね。
衛生写真なんですよ、そういうことは。
僕らはそうは感じないでやってるはずじゃないですか。
肉体が喉が渇いたときは、
即座に水を飲むじゃないですか。
あの感触でできるんだと思うんですね。
できるんですよ。
私娘が泣いたら即座にあやしました。
後であやすんじゃ意味ないですよね。
NがそこにあったらすぐにNSを出すんですよ。
この漢字ってのはそこにですね、
面倒くさいとか割り込みが入ったという漢字を抱くとすればですね、
視点が遠いんですよね。
だから記録から落ちるんですよ、そういうものが。
もっと視点を近づけてみれば、
今ここで起きていることをただ記録に残すだけ。
この言い回しが通らないんですよ。
今ここで起きていることをただ記録に残すだけって言っても、
面倒くさいですとか忘れますっていう話が出るんですよ。
覚えておく必要はないんですよ。
今ここで起きていることをただ記録に残すだけですから。
娘が今ここで要求したことをただやってあげるだけなんですよ。
それが手間だとか疲れてるとかいうのが入る余地があるっていう漢字を抱かないんですよね。
トイレに駆け込むときにそんなこと考えないじゃないですか。
それと全く同じなんですよ。
娘が寝落ちした瞬間にパッとなぜか目が覚めて物を書くときも同じなんですよ。
トイレに駆け込むようにやるんですね。
タックさんという方と対談本を作った時に、
佐々木さんはこの例をよく出されるって言ってたんですけど、
それはその切迫感を伝えたいんですよ。
食事もこれがあると思うんだけど、
今の日本の方はそこまで飢餓感ないじゃないですか。
食事がうわーみたいになって駆け込んでいってすぐに食べるって言うほど飢えていたら
それはちょっとやばいと思うんです。
トイレはあり得ると僕は思うんです。
まだ今の日本の人でも。
あのように本が書けますって、僕は書いてたって書けますって言いたいんですよ。
てか伝えたいんですね。
あのように仕事ができますと。
その時にモチベーションだの?やる気だの?
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上司がどうだの?作手だの?っていうのは
すっごく僕には全然関係ない話がされているように聞こえるので、
そういうことはあるかもしれません。
でもトイレに駆け込む時そんなこと考えないじゃないですか。
これこうやって急いでいって何の毒があるんだろうなんて思わないんですよね。
要求されていることが切実に実感されているのであれば、
Nがあったら即座にNSを出すんですよ。
例えば間違ってても。
娘がやって欲しいことをあやして欲しいことじゃないかもしれないんですよ。
無いだからといってね。
でもあやすんですよ。そこに疑問のうちはないんですね。あまり。
で、そう考えていった時にNSが間違ってたとしても現実は問題なく機能する。
そういうのが現実に対する信頼感ってものであって、
ここに不審を挟むというのが致命的だなって思うんですね。