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おはようございます。キクセラピーです。
2月12日、日曜日、19時34分の収録なので、
しかもこれはですね、水曜日に多分配信される予定なんですよね。
あのー、もはや冒頭は、えー、なんて言いますか、
近況報告的になっておりますけど、近況報告キャストですけれども、
もともとそうでしたけどね、ここから無駄話を省いて、
これをやろうという気になかなかならないんですよね。
最近40分だろうと、60分以上がさすがに、
なんとなくですけど良くないかなと思って、
40分にしているんですけど、目安としてね、
悪いは30分と。
多分コンパクトにまとめようと思えば、
25分以内にまとまると思うんですけれども、
あんまりやっぱりそうする気になれないと言いますか、
そんな感じで、大体こう、40分くらいかなという風に思っております。
あのあれですよね、私はやらないんですけど、
倍速で聞くという方には、大体20分くらいになるのかなという風に思います。
最近喋る速度も、乗ってきて変わってくるときはまた別として、
わりと狙ってゆっくりめに喋っておりますので、
20分ってところかなという感じですね、倍速にした場合ね。
内容としては、頑張れば15分にまとまる内容なんではないでしょうか。
そんな気がしております。
それで、何かCMをと思っているんですけれども、
引き続きですね、何が引き続きなんだろう、
引き続きではないですね、
23日の倉園さんとのトークを引き続き募集中。
これからSNS等でももう少し告知していこうかなと思っているんだけれども、
極力面白い話にしたいと思っています。
話自体はですね、そんなに毎回つまらない話にはなっていないと思うんですよ。
あとは、どのくらい即席でとは言わないまでも役に立つかということになってくると思うんだけれども、
役には立つことは立つと思うんですよ。
ただ、この倉園さんとやっている活動といい、
私が最近メインで、私が一番集中的にやっている活動、
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今日はそれについて少し話すんですが、
その活動といいですね。
こういうものが欲しい、それはこれですという形を取れてないんですよね。
最終的には、例えば先送りとかもそうなんだけど、
最終的には先送りという問題を解決していくことは、
私はできると思うんですよね。
今私の手持ちの材料を持って。
そういうことが言えるようになったのも40代の後半なんで、
つまりここ数年、私49ですからね。
まだというのか、もうというのか。
30代の頃は様々なテクニックを考えては、あるいは読んでは、
こねくり回して提出するという方法というか、
やり方でやってきたんですけど、
それの方がある意味即席の役には立ったかもしれないです。
ですが、結局先送りという問題って、
人間に意思力というものがあるならば意思なんですよ。
つまり意識的に避けているか、意思を持ってやるかのいずれかになる話であって、
どうしてもできないんですとか、どうしてもめんどくさいんですって言ったって、
やろうと思えばというか、やらないと死ぬとかだったらやるんですよね。
やらないと死ぬというのが意思力かというと非常に何とも言えないんだけど、
人間が100%機械でないならば、たぶんやっぱりそれは意思力なんでしょうね。
それで、グラゾノさんとのトークも先送りの話ではないんですが、
とはいえですね、会社に行くのが例えば嫌だと言った時に、
そこには人間関係といったものが当然あると思うから、
私が今回もメインで言うのはですね、
その場の会社の雰囲気なり場の雰囲気が良くないといった時に、
あるいは家庭の雰囲気が良くないといった時に、
それでも自分がグッドバイウスでいるってこれ意思なんですよね、結局は。
最後は意思なんだなっていう瞬間が訪れるんですよ。
ここで奥さんに何か言われるとかあるじゃないですか。
上司でもいいんだけど。
ここで自分の気分と相手の気分を黒くしてでもやり合いたいという、
その気持ちっていうものがあった時に、
いろんなやっぱりですね、当日はその話を必ずしますが、
いろんな迷いが出ます。
悩みじゃない、迷いが出るんですよ。
その時に例えば言いなりになったり我慢したりしてはいけないんじゃないかという、
そういうことをするのは良くないんじゃないかという社会的な声とかもきっと頭をよぎるんですよね。
あるいは我慢をすると単純に体に悪いんじゃないかとか、
お腹に悪いんじゃないかという知識なのか常識なのかわかりませんけれども、
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そういったものが必ず頭をよぎるはずなんですね。
その時にどっちが自分の選択する道なのかという。
道としか言いようがないですよね。
それが人工的じゃないところにこの迷いはあるわけですよ。
これがゲームだったらね、アドベンチャーゲームとかなら絶対に答えはあるはずなんだけど、
なぜならば答えを用意している人がいるから。
けれども自然だから相手は答えは用意されていないはずなんですよね。
ここで答えを言うことができるのではないか、
言ってくる人がいるとしてもその人が正解を持っているわけではないんですよ。
だから我々は自由意志をそこで発揮するしかないんですよね。
昔僕はこのイメージを実存主義ということは物々しいですけどね、
暗黒の宇宙に新しいサイコロを振るみたいな、そういうイメージを持っていたんですね。
こんなにギョギョしいものじゃないんだけど、
でも確かに答えがないものにどっちかにかけるんだから、
やっぱりそれはですね、たとえどれほどデータを積み重ねるとか、
AIを駆使するといったってそこに最終的な迷いはあってですね、
やっぱりどっちかにかけることにはなるはずなんですよね。
これをちょっと前にギャンブルというふうに表現したら、
倉園さんがギャンブルというのはもっと過酷なものだという話をされていてですね、
それは絶対そうだんだと思うんですよね。
僕は本当の意味でギャンブルというものを知らないんですよ。
人工的なギャンブルの過酷さというのは知らない。
私は自然を相手にする方しか本気でやったことはないんですよね。
本当のところこのパチンコで負けたらやばいと思ってパチンコやったことなんか一回もないから、
僕はあれなんですよね、
ネバダ州にいたから、ネバダ州立大学というのに最終的に移ったから、
ネバダ州ってギャンブルの州なんですよ。
あそこは飛行場からどこかカジノだらけで、
リノっていう町で、ラスベガスじゃないんですよ、ネバダ州の州とはね。
ネバダ州で一番でかい都市はもちろんラスベガスなんだけど、州とはリノって言うんですね。
リノでネバダ州立大学に行ってたんですけど、それはすごいんですよね。
右も左もカジノっていう世界なんですよ、本当に。
車を走らせてると、本当にですね、オープンカーですごいギャルっていうのを、
すごいどういう季節であろうとも水着を着たすごいお姉ちゃんが乗っている車がどんどん抜いていくっていう、
そういう光景の中で勉強してたというね、すごいところだったんですけど、
ああいうギャンブルというのは僕は本当の意味ではまった、見たことがないんですね。
やっておいたほうが良かったのかなと思ったりすることもあったんですけど、
倉園さんのお話を語っていると、やっぱり自分じゃそもそもはまれないんじゃないかな、
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これはと思うことも多かった、そういうことですが、
まあ、賭けなんですよね。自然に向かって賭けるみたいなところあります。
あるんで、だから自由なんじゃないかと僕は思うんですね。
答えが分かってるんだったら自由じゃないと思うんですよ、どう考えても。
答えがどこかにあるんだったら、それに沿っていくか間違うかどっちかしか選べないじゃないですか。
どっちが答えかは分からないから自由だと思うんですよね。
というわけで、雰囲気が悪くなった時に怒るのか怒らないのか、観点を変えるのか変えないのか、
様々あるんですけれども、そういった話を23日にして、
なるべく、なろうことなら常に平安を失わずに機嫌よく過ごす方法というのは変ですか、
でも方法でもあるような気がします。そういった話をしたいかなと思っています。
本当に追い詰められた時みたいな、時にでもなんとかできる。
追い詰められてない時ならですね、私ももう十分やれるようになったんですね。
実はこれ自体が一つのシーンも、追い詰められてなくたって私は勝手なイリュージョンを作り出しては勝手に追い詰められてたんですよ。
今もある意味それのありうなんですけどね。
そんなかなりいろんなことを認識した上でなお聞くことを聞くっていうのが23日の趣旨だと思ってください。
でももっといろんな面白い話もきっと出ると思っています。
今日のお話なんですけど、さっきちらっとしゃべったじゃないですか。
そしてこういろいろしゃべってるし全部忘れるんですよ。
先送りめいた話なんだけれども、
今日お話ししたいのは、つまりまず私たちは自由だということ。
そして先送りをするというのは一つの自由であるということ。
つまり先送りをするのは自由ですよということですよ。
ここを最初から度外視してしまうと、この問題はやっぱり解決しにくくなると思うんですね。
今日は百チャレ編です。
百チャレ編とか言って普通に誰でもお聞きいただけるんですね。
ある意味これは百チャレの皆様に向けてますよというメッセージであって、
百チャレの人じゃないと聞けませんよという意味ではありません。
大まかに私の最近観点には2つありましてですね。
1つはまずプランを絶対作らないということを言いたいですね。
先送り問題で悩むならば、例えばタスクシュートでもですね。
むしろポンポンやれるやつはリストに乗っけとけばいいんです。
でもやりにくいやれないつい先送りしちゃうものはリストから外してしまう。
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なぜかというと絶対やることしかリストに載せないという原則の話もあるんですけど、
それはそれとしてですね、構えちゃうからなんですよ。
これを今日こそやるぞっていうのって絶対にそれをリストに載せた上にスターとかつけるじゃないですか。
フラグとか赤くしてみたり、そしてこれを目立たせてさあこれをやるんだって風にやるじゃないですか。
あれがいけないんですよ。
やりもしないうちから構えちゃダメなんだと思うんですね。
どうしてかっていうと、それはつまりイリュージョンを作るからなんですよ。
そのタスクにまつわる。
そのタスクはただやればいいものなんです。
ただやればいいものをこういう心構えでいこうとか、この時には1時間を確保しようとか、コーヒーを飲んで元気になっておこうとか、
モチベーションを高めておくためにその前に少し小さな休憩を取ろうとか、
こういうことをやるからなぜかやれなくなるんですよ、ターゲットとするタスクが。
これは全く僕は逆だと思うんです。
いきなりやるのがベスト。
どうしてかっていうとですね、いきなりやることによって目の前に現実を置いてそれについて考えることができるからなんですね。
つまりこの先送りにおいて2つあるって言っておきながら、もう1つだけで話が終わっちゃいそうな気もするんだけど、
とにかく1つ目を話しますと、先送りにおいて一番やるべきことはですね、
あの間違った思考の使い方を極力廃することなんです。
あの間違った思考の使い方というのはですね、つまり頭で考えるってことです。
頭で考えちゃダメなんですよ。
これはね、精神分析の美音っていう人がいるんですね、対象関係論者の1人。
若かりし頃は教師だったそうで、
なんかこうちょっと未成年の女性といい仲になろうとしてしくじって学校なんかいられなくなってるな、
そういう経歴の持ち主さんみたいなんですけど、でもなんか中年になってからはすごくモテるようになったみたいな、
ちょっと若い頃にはなんかなんていうかね、そういうことをやらかすタイプの、
多分めっちゃ気まじめだったんじゃないかと僕なんか思っちゃうんですけど、
美音という人がですね、
あれですよ、
Kとかっていう記号を持ち出すんですけど、
要するに彼は対象関係論の中でも私はすごく重要なポイントだと思う、
ニードっていうのとよく似てるんですけど、
言ってることはウィニコットでも美音でもクラインでもだいたい似てるんですけどね、
中空に漂っているものみたいなイメージがあるんですよ。
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例えば赤ちゃんが泣いているっていうのは、まだ問題というものが提示されてないんですね。
泣いてるというのは問題未満なんですね。
中空に漂ってるんですよ。
これに対して泣いている、なんかあるのかと考え始めるのがお母さん。
で、赤ちゃんは暑すぎるのかもしれない、この部屋暑いな確かにって考えてるのがお母さん。
赤ちゃんは暑いとは言ってない。
暑いという言葉の意味もわからないし、
自分がどういう状態にあって不愉快なのかもわからない。
わかってもそれを言えない。
これが大事なんですね。
中空に問題が漂ってる。
で、問題というものはまだどこにもないんですよ。
お母さんがそれを捉えることによって問題になるんですね。
つまり問題を作り出すところからすでにお母さんがやらなきゃいけないんだけど、
それはお母さんの脳内にはないってことなんです。脳外にあるんですよ。
この形を取ることによって私たちは先送りという問題にはまり込まないんです。
ないはずなんですよ。
つまり将棋指しみたいでないといけないって感じなんです。
将棋指しちょっと違うかな?
でも将棋指し近いと思うんですよね。
野球選手とかがいいと思うんですよね、やっぱりね。
野球選手というのは7回にこういうシーンが訪れるみたいなことを脳内に思い浮かべながら野球やってないと思うんですよ、絶対。
目の前の状況と格闘していると思うんですね。
この目の前の状況と格闘し続ける限り先送りって絶対起こらないんですよ。
ピッチャーがちょっとしんどいから今ボール投げるの先送りにしたいなとか多分絶対思うことはないと思うんですね。
投げたピッチャーの球が来た時、これ見逃そうってすることはありますよ、バッターは。
でもこの球を打つのしんどいからちょっと先送りしようとかは思わないんですよ。
やっぱ打とうとするんですよね。
つまりその時、課題は自分の目の前に置かれてるんですよ。
このボールをどう打つかって話であって、
架空のボールをピッチャーが投げた軌道を頭の中で思い描いてそれをホームランするというイリュージョンとかは多分バッターは持たないと思うんですよね。
僕が野球やってた時、絶対そういうことを考えた記憶がないんですよ。
あるいはそれこそスキーの話でもいいんだけど、
モーグルする時、コブ斜面滑る時あるじゃないですか。
コブ斜面を見るんですよ。
ここをどう滑るかってことを考えるのであって、
コブ斜面のイメージを脳内に作って、
こここういう風にシュプール描けば綺麗に滑れるなみたいなのを脳内だけで完結させることって絶対ないんですよ。
と思うんですよね、私の考えでは。
こういう風である限り先送りってしないんですよ。
このコブちょっと先送ろうみたいに。
絶対そういう風には考えない。
この形を取るべきだと思うんですね。
やっぱりお母さんは多分赤ちゃんが泣いているにもかかわらず、
その課題を先送るってことはできないと思うんです。
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課題はもう提示されちゃってるんですよね。
課題未満みたいな素材を目の前にある現実を素材として、
そこに関わって、現実に関わって、
自分の問題にしてさらにその問題を解決するところまで全部やる。
これがタスクに対する私は関わり方だと思うんです。
だから頭の中で何かを仕掛けるとか仕掛けとかを作っちゃダメだと思うんですよ。
アイディアとかでタスクを実行するとかそういうことではないと思うんですね。
だからリストを書いてこれを何時ぐらいにこれに取り組もう。
それもうすでにイリュージョンじゃないですか。
これを脳内で考えることを我々は思考と呼ぶんですが、
ここをビオンはすごく言ってるんだけど、それは間違ってるみたいなんですよね。
思考ってのは頭の外にあるものについて考えることだっていう感じなんですよ、彼は。
これをKとかそういうですね、なんかよくわかんないんだけどあるんですよね。
記号化するのが彼は好きなんですよね。
そういうことなんです。
とにかく具体的に具体的にいきましょう。
だからそれだからなんですね。
私はもうすっかりやめたのはマインドマップを描くとかアウトラインを作るとかをやらないんですよ。
これをやるということはつまり現実じゃないものを使って思考を進行させて、
そこで一つの結論が出るっていう過程があると思うんですよね。
そういうアウトラインなりマインドマップなりというものがある種の何かを生成してくれて、
それを思考の代わりにするっていうことになるんだけど、
それだったら現実を直接見に行ったほうがいいと思うんですね。
文章だったら文章でまず書くんですよ。
まず書くことによってその書いた文章について考えることができます。
そして考えた結果、その文章について考えた結果また文章が出てきて、
つまりそれは脳内でやらないってことなんですね。
必ず現実と格闘する形を使ってなるべく思考というものを前に進めていく。
この形をとったほうが、この形をとることによって先送りという問題はありえなくなる感じがするんです。
今が忙しいために、今すぐその問題には取り掛かれませんということはあると思うんですけど、
その場合、いつぐらいにこれに取り掛かろうと決めちゃダメだと思うんですよね。
その問題、今取り掛かれないからリストなり何なりに、これが私の今のタスク習得のありようなんだけど、
リストなり何なりに要するに予約待ちさせておくわけですね。
でもその人が何時ごろに呼ばれますとかは絶対答えないわけです。
それは私が順々に今のような形で現実と格闘して、現実と格闘してやっていく中で、
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いずれその順番がやってきた時に黙ってそれに取り組むということであって、
これは後に回す、それ患者さん明日来てくださいみたいな話ですけど、
そういうことは許されないということですね。
この繰り返しにしておく限り、タスク習得を使っていて先送り問題で悩むということは絶対ないと僕は思っています。
あくまでもあれば予約待ちの人数がどんどん増えているだけであって、
最後まで必ず対応しなければいけない。そうじゃない人は並んでないってことですよ。
だから最近、今日もそういう話を少し出たんですけど、バッファーとか休憩時間というのは先に作っておかないんですね、自分は。
別にそれを作っちゃいけないって話じゃないですよ。
ただ先送りになっているようなタスクがあるならば、それについてはリストに載っけないほうがいいと思うんですね。
そうじゃなくて、やることができるときがやってきたら、いきなりそいつをリストに載せて、いきなりそれを再生させてしまう。
そうじゃないんだったら、その人はリストに載っけないほうがいいんじゃないかっていう気すらします。
私はだいたいそういうやり方に最近切り替えています。
そういうのって忘れませんからね。忘れようがないような重要なタスクと。そういう意味ですね。
もう一つ、ちょっと違う言葉で捉えられているというか、認識されていることもあるみたいなんですけど、
ツイッターに今実験的に、この話は後日またしますけれども、
倉園さんが書き上げ塾という本を書く塾の中で、ワークとして出された幸せの瞬間を書き出すっていう、幸せだと感じたときの一瞬の描写をするみたいな感じなんですね。
これは私、非常によく似たことをずいぶん昔にしつこくやっていた時代がありまして、
2000本と11年ぐらいまで遡るかもしれないんですけど、ちょっと正確には思い出せないんで、だから後でもう一回取り上げるって言ってるんですけど、
大橋さんが定性的な記録と定量的な記録っていう表現で扱われてた件なんですよ、私の中ではね。
倉園さんのそのワークとは全然、全く独立している話なんだけど、私の中ではこの2つがほぼ合流しちゃっていて、つまり定性的な記録なんですよ。
定性的というのはつまり、突然何かのタスクをやっている最中に現れる、メモしておきたい、
私はこれをスナップショットって言ってるんですよね。どうしてかというと、写真に収めておきたい光景を見た時に人は写真を撮るじゃないですか。
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あれとよく似てるからなんですね。
このことをしたいと思うから、タスクマというツールには、タスクシュート4iPhoneですけど、
タスク実行中にその名称をダブルタップするとメモを取れるっていう、非常に隠れコマンドみたいなのが多くあるんですよね。
ちなみに、タスク実行中にタスクのチェックリストの下のタブの方を押すとカメラが起動するみたいになってて、
撮った写真をTwitterに投稿できるっていう、そういうのがあるんで、私はだからこの幸せの瞬間というタグをつけて、スナップショットのような描写をTwitterに投稿してるんですね。
タスクマの思い出なんですよ、これは。
今タスクマ使ってないんで、違うやり方してますけど、タスクマをいずれ使うのが再開した時には、タスクマでこれをやろうと思ってるんですね。
大事なのは、まずどんなタスクを実行しているかということと、その幸せの記録は全然相関関係を持ちにくいところがあるんです。
持つケースもありますよ。
でも文章を書いていて不意に幸せな瞬間が訪れたということと、その文章を書いているタスクをやっていたということがあまり関連しない。
つまり文章を書くというのは定量的な記録なんですよね、タスクシュートの中では。
20時に文章を書き始めて、20時30分まで書きました。
これ定量的ですよね。客観的で数値化できます。量化できるとか、そういう話です。
主観ではないということですね。
主観の中にもそういう事実はあるでしょうけれども、その時どんなことを感じたかとか、その時どういう気持ちになったのかということはこの記録には残ってこないですよね。
これを埋めるためにタスクマではタスク名をタップするとメモれるという機能がついているわけですよ。
私はその中でこのタスクを実行していてよかったなと思うことをメモしていこうと思ったんです。
私がこれをやりだしたのは、タスクマがちょうどかやすん、とみ、さやかさんにお願いしてまで用意してもらったというか、
彼女は最初からそういうのを用意していたんだけど、2015年ぐらいの話になると思います。
これを私は盛んにやっていた時期がありまして、1日100メモぐらいつけていたんですよ、最大の時。
100リストぐらい、100メモぐらい作れた時につくづく思ったことがあるんですね。
全然、これが大橋さんがおっしゃっていた定量的定性的な意味だと思うんですけど、
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全然タスク、実行しているタスクの内容とメモの内容は不一致であるということなんです。
これ、倉園さんもむしろこの点を違う言い方ですごく強調されていて、
例えば大好きなことをやっているにしても、例えば物を描きになりたくてしょうがないという人がいたとして、
その人が晴れて物を描きになっても、物を描いている最中、物を描いている時間が幸せだなんていうふうにはならないっていう話をされていて、
もっと幸せというのは一瞬一瞬の名乗しがたいものというのかな、
名称を持っていない一瞬として実感される、そういうふうにおっしゃっていて、
これは全くその通りだったと僕は思うんですよ。
何ならば、この例だとむしろ逆かな。
例えばすごく車の運転が好きだからといって、ドライブしている最中ずっと幸せっていうことってなかなかないじゃないですか。
結構カッタルカッタリするじゃないですか。
こういう話だと好きなことをやっているんだけど、その時間がずっと幸せなわけじゃありませんっていう不平が時々飛んだりするんですけど、
それはそうに決まっているわけですよね。
私の中にはこれいくつか例外はあります。
例えば私にとってスキーというのは例外中の例外で、どんな瞬間も楽しいんですよ、私にとってはね。
それでも寒いときにリフトに乗っている瞬間だけは縮めたいなとは思いますね。
でもスキーはですね、倉野さんのポッドキャストの中でおっしゃっていたんですけど、
こういうものは飽きるって言うんですけど、僕は飽きるってことがないんですよ、あれは。
一日中滑っている。
でもこういう人間は確かに少ないです。
早朝スキーとかやるんですよ。
暗いうちからやるとかね、やっちゃうんですよね。
で、滑っているどの瞬間も嫌だというふうに一瞬も感じたことが僕はないんですよ。
なんだけど、だから僕これ職業にすればよかったなと、このポッドキャストに時々言ってるんですけどね。
多分これ職業にしたら幸せだったとは思いますね。
ただ、稼げないんですよね、これは。
私がこんなにやたら好きで、一日中やってて1ヶ月以上こもってた時期があったんだけど、
そこまで好きでもプロには絶対なれるっていう、なれないぞっていう気はするんですよ。
そういうものなんですよね、ああいうのって。
全くレベルが違うなと。
こういうのはね、こういうところまでやるとむしろ嫌になるぐらい思い知りますね。
上村愛子さんとかテレビで見てても、もう完璧に天才だわっていう感じが。
でも彼女はメダル取れませんでしたしね。
嫌なんですよね、こういう話ってしてても。
本当にもうね、残念だなって思います。
体の作りからして違うなっていうのを見ただけでわかります。
わかるようになっちゃうんですよ。
何にも別に幸せじゃないですね、それは。
30:01
そんなことを知るぐらいなら好きやってるほうがよっぽどいいです。
話それてるんですけど、つまりですね、そういう一部例外はあるんだけど、
例えば私も物を描いてるっていうのはダメなんですよ。
そういうレベルに入れない。
物を描いてる40分間ずっと幸せかと言うと、そんなことは全然なかったし、
今みたいに原稿の依頼来ないと、
すげえ原稿の依頼来てほしいとかは思わないんですよ。
お金が困るとか本書きたくなった時には、
依頼来てほしいなとは思うんでしょうけれども、
別に1日中本書かなくても、
それはそれでいいなって思ってしまえるぐらいなんですよね。
今回横手に秋田県に行ってつくづく感じたんですけど、
抜け国の景色見ると好きしたくなるんですけれども、
物を描いてる時はここまでいかないなって感じはしますね。
あと私は絶対にこれだけは飽きないっていうのがもう一つあったんだけど忘れたんで、
それはいいとして、つまり好きを職業にするっていうのは難しいことなんですよね。
なぜならば、さっき言った定性的なものと定量的なものが不一致だから、
40分間物を描いてる間中楽しいとか幸せだってことは起こらないので、
私車の運転なんか全然好きじゃないんで、
ドライブ中はほぼどんな瞬間もあんまり楽しいとは感じないです。
その割にいっぱい運転したりする時間帯ってあるんで、
むしろはっきり言って苦痛だったりします。
でもそういう時でも今いいなっていう瞬間ってあります。
運転中はちょっとツイットできたりもしないし、
メモれないんですごい危ないですからね、
あれなんですけれどもそういう瞬間って確かにあります。
あるんだけどそれは運転と無関係ではないけれど、
運転中ずっととか運転以外では得られないとかそういうことではないんですよね。
だから定性的なものと定量的なものは一致してきてくれない。
関連性が強いのはさっきも言った通りあります。
例えば食事中の食べ物の美味しさは、
食事という時間の長さ、全域には渡らないですけれども、
瞬間瞬間に渡ってくるって感じ。
だから倉園さんが五感って言った通り、知覚なんですよね。
知覚は瞬間的なものじゃないですか。
完全に瞬間ではないんだけれども、
数秒という単位ですよね。
食事は30分とか分でいう単位ですよね。
つまり定量的なものには一定の帯状の時間って、
倉園さんがおっしゃる帯があるんだけど、
定性的な幸せなとかいうのは、
例えば逆にものすごい嫌な思いをしたとかは、
基本的には瞬間的な、視覚によるものだと思うんですよ。
これはつまり関係なく現れてしまうんですよね。
33:03
逆に全然関係なく現れるというのが、
例えば睡眠中のある夢の瞬間とかね。
これ睡眠と全く無関係ではないんですよね。
寝てなければ夢は見られないから。
でも寝てれば特定のこの夢を必ず見るとか、
寝ててはこういう夢は見ないとか言ったことはないじゃないですか。
ものすごくバラエティーに富んでますよね。
そして基本的には寝てるのはまさに帯状ですけど、
7時間寝る、悪夢を見るっていう時に、
この7時間寝るということが健康的だったとか快適だったということと、
悪夢を見て嫌な思いをしたということは両立してしまいますよね。
両方ともある。
つまり定量的なものと定性的なものというのは、
なんか独立まではいかないけども、
非常に弱い相関関係にあるんだなと思うんですね。
だから何らかの職業に就くとか、
好きなことをいっぱいしているということと、
イコール幸せという話にはならないんですよね。
これは残念だと見るかどう見るかっていう話とはまたちょっと違うと思うんだけど、
少なくとも一致しないというのは確かだと思うんですね。
で、これがどうして先送りの話で出てくるかというとですね、
一致しないということは先送りしてはダメだという結論に僕はなるんですよ。
これはGood Vibesをはるか前に、
もう本当にタスクマよりさらに前に、
まだこういう定量定性的な、
メモるということがほとんどできなかった時代に、
僕がすごく考えたことの一つだったんですよ。
でもまあ似たような話を最近いっぱいしてるんだけれども、
思い出すと起源の一番最初の方まで遡ると、
Excel自体のタスク手動に遡るんですよ。
私が、大橋さんもそうなんだけど、
最初タスクの感想を書くということで、
タスク後にコメントを出すという機能をExcelに追加していたんですよ。
で、私はExcelにわざわざスティッキみたいな付箋を貼れるんですよね。
そこにタスクの感想を付箋に貼るということをやっていた時代がありまして、
これをね、誰だったかね、
橘さんだったかな、立体的で面白いっていう、
つまりExcelっていうのはX軸とY軸の2次元しかないと思ってたのに、
この上にスティッキを貼るという3次元を追加したことを立体的とおっしゃった方がいて、
そういう観点もあるかと思ったんですけれども、
いずれにしても僕はそういうことをやっていた時代があって、
その時に痛感したことがあるんです。
この時の感想はタスクのやりたさとは何の関係なかったということなんですよ。
さっきも言った通り、
多分私は好きさえやれば絶対幸せになれるから、
この相関関係が常にゼロだとは思わないんですけれども、
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しかし、何何をしている時の感想、
例えばこれからやるタスクはやりたいタスクだとしますね。
でもそれをやっている時の感想は最悪な気分が襲ってきたということは起こっちゃうんですよ。
そのタスクの内容とはあまり関係なく起こるんですよ、そういうことは。
なぜならば何が起きるかわからないじゃないですか。
つまりやりたいことをやっているから気分が良くなるとか、
やりたくないことをやっていると気分が悪くなるという法則は見出せないなということを
私はエクセル版のタスクシュートをやっている時にめちゃくちゃ痛感したんですね。
だから先送りをするって意味ないなと思ったんです。
先送りをしたい時は私たちは決まって嫌な気分になるのを恐れているんですよ。
このタスクに手を出したばっかりに嫌な気分になると。
ですが、ものすごく好きな子とデートをしたらさぞ良い気分になるだろうってみんな思ってデートを始めて、
めちゃくちゃ喧嘩して最悪の気分になったりするじゃないですか。
そういうことは起こるでしょ。
今までそんな経験一度もありませんなんて人はいないと私は思うんですよ。
つまりこれからやることがこういう気分に私をするだろうという予測は、
ものすごくいい加減だということなんですね。
私はそれをExcel版のタスクシュートで図らずも痛感することになったんです。
全然タスクに関する気分の上げ下げというものの予測、
必ずしちゃってるんだけどそれはと、
実際に私がそうなっている気分というものの関係性というのに法則性が見出せないということがわかったんです。
これはね、どうにもならないんですよ。
これはずっとやりたかったタスクだと言ってやり始めるじゃないですか。
今思い出したんですけど、いきなり腹が痛くなる。
でもそれはそのタスクを実行したことの間には何の関係もないんですよ。
多分昨日食べた牡蠣とかが悪かったんですよ。
そういうことがあったんです。
そう思い出した。
あのね、まだ浅川に住んでた頃なんですけど、
大157になって、
なんか本当にこうやったと思って、
何か休憩時間に漫画家なんかみたいなものすごい腹が痛くなって、
本当はあれはね、恐ろしい体験でした。
それは生の鶏肉をちょっと食べちゃったということと関係があったんですけどね。
本当にだったんですけど、別にそれは漫画を読んだからじゃないじゃないですか。
ただ、それをやると気分が良くなるだろうという私の予測は
完璧に裏切られていたというのは間違いないんですよ。
で、先送りしたタスクをやる。
先送りしたいようなタスクをやると気分が悪くなるだろうと思うから
僕らはそれを先送るんだけど、
それをやって気分がめちゃくちゃ良くなるということは
そのタスクとは必ずしも関係なく起きるんですよ。
だから気分が悪くなるからこのタスクをやらないでおこうというのは
全然論理的じゃない判断なんですね。
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めちゃくちゃいい加減な判断なんです。
でもこれが結構僕らは頻繁にやってるんですよ。
しかもこの判断はすごく正しいと思い込んでやっているんですね。
なので、僕はこれを瞬時レビューと呼んでたんですよね。
GTDの終時レビューに引っ掛けて
瞬時のレビューだから。
今の瞬間に何かを感じたことを記載するから
瞬時レビューと呼んだんです。
今リアルログっていう言い方をして
リアルログなんとかっていう言い方にしたいなと思ってるんですけど
リアルログっていう言い方をしてるんですけれども
つまりタスクショートのログでメモを取ることを指しているんですね。
タスクマのメモは標準機能でこれが付いています。
写真を撮れるというのがそういう意味なんですよ。
今この瞬間が幸せだというのを切り取るっていう感じなんですね。
そしてそれは多分ですがどんな人でもそうなるんですが
タスクそのものとの関連性がないことが少なくないんです。
その発見をするとですね
自然我々は先送りということをですね
不意地でよく考えてみると
しなくなっていくんじゃないかと思っているんです。
最初に言ったのと合わせてこれが2つ目なんですね。
最初に言ったのはつまり
同じことなんですけどね結局ね
いきなりタスクはやるに限るということです。
タスクについてあれこれ考えるということほど
無駄なことはないってことなんですね。
それについての予測が外れるから
ましてそれを頭の中で思考している限り
ただのイリュージョンなので
それによる予測の精度というものは
はっきり言ってめちゃくちゃ低いと思った方がいいと思うんですよね。
多分僕ら7割ぐらい当たってるとでも思ってるんですけど
とんでもないことですよ。
7割なんてことは絶対ないと思います。
私の経験では。
ほとんどの方は私が知る限り
ほとんどの方は
こういう言い方は申し上げないかもしれないんですけど
タスクのログというものが
まだまだ大まかです。
私より明らかに精度が高いなっていう方は
数名いらっしゃると思うんですけど
その方の意見は多分ですね
私と変わらないと思います。
タスクの
いつやるか、やるとどうなるか
どんな気分になるか、何が起こるかの
予測精度は全然高くないはずです。
最大限見積もっても
5割を増えることは絶対ないと思うので
私は予測するだけ無駄だと思うんですよね。
だからこそ
先送らないタスク
先送らないための重要なタスクを
どこか最適な場所に置くっていうのは
やめたほうがいいと思うんです。
だいたいその予測が外れているから
先送りするんじゃないですか。
2つ目が
同じことですけれども
一瞬一瞬の
これは大橋さんの言葉ね
定性的な記録は
定量的な記録との関連性が
相関関係が
42:01
決して低くはないと
言わざるを得ない。
私たちはたぶん
気分を良くするためにあるタスクを選び
気分を悪くしたくないから
あのタスクを避けるんだけど
この判断が嘘だってことです。
定性的な記録
グラゾンさんのおっしゃるところの
瞬間の
幸せの一瞬みたいなやつね。
幸せの知覚とか
視覚で捉えた幸せとか
多くの場合、ビジュアルが多いと思いますが
味覚で捉えた幸せ
多いですね。美味しいってやつですよね。
甘いとかね。
酸っぱいもあるんですけどね。
これを入れてみると
分かります。
そのタスクの
幸せ度というような
なんとなくタスクに色付いてたりするでしょう。
幸せなタスクだとか
嘘っ端だとか
特に私は大157の事件で
それを忘れられなくなったんですよ。
どんなタスクをやってても
あの時期は
とにかくつらいんですよね。
そういうことってあります。
なので
タスクと
そのタスクが
故障してくれているかに見える
幸せ度というのは何の関係もないので
それを理由に
タスクを避けても
無駄だということなんですね。
それを理由に
タスクを避けて
幸せそうなタスクを入れて
そして幸せになれないという
結末を
私たちは多分しょっちゅう経験している。
それをただ
私はExcelで
目に見える形で発見できたから
たまたまそういうことを
避けるようになった
ということですね。