読書会告知とアダルト・チルドレンの概念についての考察
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えー、日付がどこか頭から飛んでますね。
もちろん5月で、22日です。5月22日の7時48分です。月曜日ですね。
なんかこう、いい感じの気候になって、この状態がずっと続くといいなとやっぱり自分なんかは思っちゃうタイプですが、
あの、まあ割と短いんですよね。まず梅雨が来て。
最近梅雨もなんかあれですよね、ちょっと昔とはニュアンスが違って、来るタイミングも違ったりしてびっくりさせられるんですが、
あの、すでにもう夏みたいですしね、ある意味。
そんな感じで、ちょっと梅雨が来るんだろうなーぐらいには思っているんですけど。
で、梅雨の話はいいとして、
あ、読書会をやりまして、一応ですね、いつもほど入りがないぞっていうわけではなくて大変ありがたかったんですが、
これをちょっとしばらくは少なくとも、このメンバーぐらいなら続けていけるなと思ったので、来月もやります。
6月の17日に、キンキン、もう1ヶ月切ってますから、急いで告知をさせていただきますので、よろしければチェックしてみてやってください。
テーマはまだもちろん全然決めてないんですけど、
ドッコンジョーガエルの娘もありかなと、あそこの最後の方にカウンセラーさんが登場するんですけど、まるでノウタサヨコさんみたいなんですよ。
なんじゃないのかなってずっと思いながら読んでたんですよね。
私、ノウタさんという方はすごく気にかかっていると言いますか、もちろんもうすごい有名な方ですから、
意識にはずっと入れてあるんですけど、ほとんどここでは言及してないですよね。
私はアダルト・チルドレンという概念の必然性というものがもう1つまだよく分かってない気がするんですよ。
何を意味しているのかは分かるつもりでいるんですけれども、実際にその概念は必須だったんだろうかみたいな。
ただ、この番組でもクラソノさんのコインという言葉を僕はご紹介しましたが、要するに言葉をコインするんですよね。
それはすごく非常に大事なことなので、アダルト・チルドレンというのは素晴らしい言葉だと思うんですが、
僕の中ではこの言葉がなくても、分析用語で全部まかなえることは確実な気がするんだけどそうじゃないのかなみたいな、
そういうところがあるんですよね。
すでに専門的な話で恐縮なんですが、マイケル・バリントが仲井沙夫さんの役等で有名ですが、
一時愛と言ったりしているのはこれは必須だったかなと思っているんですよ。
一時愛と一時なるシズムを分けたかったに違いないと僕は思うんですが、
アダルト・チルドレンとなってくるとそれはどうだったんだろう、必然だったんだろうかということで悩みに悩みまして、
比較的な信田さんの本格的なやつとかを読んでみても、どうしても分からない部分があるわけですね。
だからあんまり僕の中ではぴったり来ていない。
ぴったり来ていない。
そもそも私はアダルト・チルドレンが自分に当てはまらないということもありまして、
そういう意味でも扱いにくいということがあるんですよね。
もちろん一部はね、どんな概念もそうだと思うんですけど、
よほど特殊なのでない限り全く理解できんみたいなことってないんですけど、
アダルト・チルドレンくらいだったら、これだったらジゾイド・デンの方が自分ははっきり分かるなっていうのがあります。
それがやっぱり大きいんですよね。扱ってこなかった理由にはあるわけですよ。
でもあそこに出てきたということは非常に興味深い。
フィクション要素のあるコミックについて
もちろんあれが信田さんだと書いてあったとしても、
そのまんま額面通り受け止めていいものかどうかはまた別の問題だと思うんですよね。
そこまで懐疑的になることないだろうって思われると思うんですけども、
何しろ漫画というのは例え自伝ですと言われていても、
そこにフィクション要素って絶対あるわけじゃないですか。
だからもちろんそれは自伝的小説でも同じですけど、
特にコミックの場合はですね、あると僕は思うんですよ。
それはいいことだとむしろ思うんですね。
やっぱりエンターテインメント要素みたいなのがあるので。
だから有名な、例えばそこに河合先生のカウンセリング受けましただったら、
フィクションに決まってるわけだと思うんですけど、
でもそういうのもアリだと思うんですよね。
コミックだったら自伝的なものですと言いつつ、
その方が理解が進む上に面白いというのであれば、
そういう選択は絶対僕はアリだと思うので。
思うのでむしろ、あれは野太さんなんだろうかみたいな悩みというのは、
そうだと言われていたとしても続く悩みなわけですよ。
で、それを扱うということになるとですね、
あの本は実はこう、何て言うんですか、
時系列が非常に入り組んだ本で、
分かりやすいんですが、決して分かりやすくはないところが色々僕はあると思うんですね。
でも是非いつか紹介していきたいと思っておりますので、
読書会でもしかしたらこれを使うかもしれない。
ただもう一つ僕はですね、読書会でわざわざコミック使う必要があるのかっていうのもちょっと悩みとしてあるんですね。
まあでもコミックは絶対扱うんですけどね。
前回も扱ったし。
ただコミックって読めばわかるんですよね。
わざわざレクチャーなりみんなで考えようみたいなことをしなくてもいいような気もするんだけど、
別の意味で言うと、精神分析の本なんかと違って読めばわかるってすごい大事だと思うし、
やっぱり読んでわからん本をまず読んでから考えるっていうことになってくると時間が必要になってきますよね。
それに対してコミックは読めばわかるから、
そこのところでいろんな説明をするのを一気に省ける。
読書会の開催場所決定とオンライン開催の意義
ここは書いている人が偉いわけですけどね。
そういうところがありますので、
ちょっとどっちにしようかなと思っているというぐらいですけど、
6月17日にやります。
場所はですね、場所もだいたい決めてありまして、
湯楽町でやろうと思っておりますので、
もしよろしければリアルで、結構書いてるんですけど、
会場もそんなに来たらきっと気分が残念にはならないんじゃないかと思っています。
ただ湯楽は2枠です、会場はね。
会場については大枠を取って誰もいないとか、自分だけとかキャンセルするとかに懲りたので、
なるべくオンラインの方が多いのは大前提という感じでやっていきたいと思っています。
お値段は3,000円プラス税なので、そんなにすごい厳しい値段だみたいなことはないと思うので、
これもよろしければチェックしていただくといいかなと思います。
とりあえずお知らせはそのぐらいで、
今日のテーマは、
今日はグッドバイブス編をお送りしたいと思っているんですけど、
これは昨日ですね、
グッドバイブスファクトリーのグループセッションがありました。
これはもう私は聞き役に近いとしゃべりもしたんだけど、
倉園さんのお話を拝聴するといった時間になっちゃっていますね。
それでなかなかすごくディープになっていくんですよ、毎回。
私が聞いている感じではですね、
最初はそれほどの悩みではないという感じから始まるんだけど、
いろんな方が研究していく時にだんだんディープになっていくというのが大体のパターンなんですが、
これもですね、今1ヶ月ぐらいは、確か1ヶ月ぐらいだったと思うんですよね、
無料体験ができるので、無料体験でなくても2,000円なので1月、
ぜひちょっと一度体験してみられるといいんじゃないかと。
このグループセッションだけ考えても2,000円なら僕はペイすると思うんですよね。
そこで出てきた話の中で、いろんな話が出てきていたんですけれども、
要は私がその時思ったのはですね、
僕のような人間の立場に立たされてしまった場合、
私このセミナーみたいなのもいつかやりたいと思ってるんですけど、
要するに人前で話すとか、レクチャーしなきゃならないとか、
レクチャーまで行かなくても社内プレゼンをするとかですね。
私、昔、いくつか本書き散らかしておりますから、
編集さんをいろんな方がいらっしゃいまして、面白い方がいらっしゃってですね、
素晴らしさの申し訳ない企画がなかなか私通せなくて、
これは一般論なんですよ、その人が言うのは。
僕の企画が通せないって話を僕と打ち合わせてるんだからするべきなんだよと。
一般論をされてきて、企画の通すコツを教えてもらいたいみたいな。
いや、僕それ分かんないしって思ったんですよね。
僕は会社に勤めたことがそもそもほぼないし、
しかも出版社ってほとんど行ったことすらないんですよ。
社内プレゼンや授業の苦手性について
時々ですね、出版社に行ってインタビューを受けるとか取材されるとかのために
出版社のブースみたいなところに通されてですね、
そこで喋るということはあったんですよね。
でもあれは出版社に行ったというよりは、
出版社のブースに入っただけで会社のいろんな人と喋ったことがないんですよ。
だから私はその企画会議というものも、
倉園さんなんかさぞ詳しいと思うんですけど、
僕は知らないし、見たことも実際体験したこともなくてですね、
企画会議とはどういうふうに進行し、
どういうふうに通せば通るのかっていうのも分かんないんですよ。
イメージも漠然、イメージもほぼないね、私には。
だからその時すごい面白かったのがですね、
かなり長いことを企画会議とはどういうもので、
その時に僕は学ぶことができたんですよね。
つまりどうやったら通せるのかみたいなことを
2人で一生懸命考えるっていうですね、不思議な打ち合わせが、
割と長くしかもそういうことをやって、
結局通ったことは通ったんですけど、
それは僕のレクチャーとかそういうこととは関係なかったと思うんですよ、今でも。
ただその時に、そっか、こういうのが大変苦手だと、
でもこれ大変苦手なままこの仕事を続けるのはきついんじゃないかなとは思ったんですけどね、
という方がいらっしゃるんだから、
そういう話をするのもありなんだなと思いまして、
思ったんですね。
で、その後でですね、その後というか、
昨日なんかもそうでしたけど、
ちょいちょい時間が経ってきて、
苦手だとは言わないまでも、
例えば授業をするなりした時に、
視線が痛いとかね、
あるいは後ですごく自分の発表内容に、
これはまあ社内プレゼンみたいな話なんですけど、
余計なことを言って落ち込むとか、
特に研修講師の方がそれを訴えられていらっしゃいますね。
研修は厳しいのは、
まず外部の人間として招聘されているわけですね。
で、社内研修とかに行って、
僕も外部招聘の社内研修って、
非常にお金がいいもんですから行くんだけど、
断るという選択はほぼないんだけど、
いや厳しかったですね。
みんな寝てたりしてるし、
途中で出て行っちゃう人がいたりもするし、
この研修は厳しいんです。
途中で出て行くという人は仕事があるから出て行くのであって、
全然気にする必要はないんだけど、
やっぱりこれはね、やってみて分かったんですよ。
これが気になるものだということがですね。
昔々、本当に昔、
予備校の時代かな、
途中で出て行くのがすごい傷つくんだっていう、
予備校の講師の先生がいて、
笑いを取るために言ってたんで、
私も単なるジョークみたいに、
思ってたんですけど、
ああそういうものなんだなっていうのをちょっと、
自分が喋る立場になってみて、
しかもどんどん出て行くっていうね、
社内研修中どんどん出て行くっていう、
不思議な状況に出くわしたこともあるんですよ。
あとこれは厳しくはないし、
大変だなとも思わなかったんですけど、
群馬県の方に行って、
あるじゃないですか、
群馬県に行けるみたいな時も、
すごい場違いなことを自分で喋ってるんだろうなっていうことを知って、
ただそれは受けたんで良かったんですけど、
どういうことかというと、
絶対一人一人ともスマホで、
スケジュールなんか決してしないであろう、
一生しないであろう人たちの前で、
タスク修道の話をしてたと。
これは呼んだ人のマッチングの問題だと僕は思うんですけれども、
そういうケースっていうのも、
タスク修道の話は、
どんな風に喋っても受けることは難しいっていうか、
原則として受けないみたいな、
いや、受けないじゃなくて、受け入れられることはないなっていうね。
なんかもう、
例えば反スマホ団体の前で、
表情の読み方について
スケジューリングの話をするみたいな、
そういうのは厳しいじゃないですか。厳しい以前じゃないですか。
でもそういうところって面白くて、
そこそこそういう状態になってるぞ、
そういうのをネタにして話して、
受けを狙っていけば十分盛り上がるか、
むしろ盛り上げやすいということも、
分かんないですよ、ものすごくアンチテーゼンの人たちの集まりで、
最初から怒り一遍倒だった場合は無理かもしれないなと思うんですけど、
概ねですね、いや間違いなところに来ちゃいました、
みたいなことを言いながら、
いかにこのタスク修道っていうものが特殊なものかというのを
開地にしていくとですね、意外と受けはするんですよ。
使ってはもらえないと思うんですけどね。
そういうのを咄嗟に僕は割とやってきたので、
そういうところはかえってですね、
面白がられていいんですよ。
群馬県の時とか本当は、いろんなおじいさんがですね、
めちゃくちゃいろんな話をしてくれて、
非常に良かったんですよね。
ただそれは、マッチングのミスであることは確実なんですよ。
何か呼んだ人は違うことをイメージしてると思うんですよね、
タスク管理とかについて。
で、私が行ってみて、
おかしいと思ったりしたわけですよ。
なんかね、いつものライフハック系の講演とは
全く雰囲気が全く違うんですよね。
例えば、講師席にお寿司が置いてあるとかね、
そういうことないわけですよ、ライフハックだと。
しかもそのお寿司は明らかにすごい、
僕が滅多に食べることはなさそうだなっていうレベルの
お寿司だったりするんですよ。
ちょっと考えにくいじゃないですか。
本当あれは不思議だなと思ってやってたんですけれども、
それが一番大きな問題なんです。
つまり、このGood Vibes編で何の話をしてるかというとですね、
評価が気になるわけじゃないですか。
結局そういう時の笑いが取れる取れないもん。
そうなんですけど、そんなのは
多摩津な問題で、
そこで結局、気にする気にしないが
最大の問題になるんですよね。
これもよく講師経験の人のあるあるなんですけど、
気になる気になる気になるのが
厳しい顔をしている人ほど
評価が厳しいとは絶対に言えないんですよね。
私、これは放送に体験して
非常に驚いたんですが、
めっちゃ怖そうな人が
おじさんとかがいるんですよ。
腕組みしてですね、怒りに満ちてるんですよ。
もうなんかね、怒りに満ちることの話は
俺してないなっていう。
だから怒りに満ちている感じなんですよ。
それで、私は気が弱いので
評価の難しさとアンケート
もはやそういう時はですね、
休み時間に行って話しちゃうんですよね。
そういう人のところに行って、
どうですか、今日みたいな、
これは虚勢じゃないんだけど、虚勢を張った感じで。
そうするとですね、厳しい表情の方が
いやもう素晴らしいですとかって言うんですよ。
びっくりするじゃないですか。
僕はこの経験がですね、少なくとも10回くらいはあって、
毎度10回目とかには
そういう可能性を想定しながら聞きに行ったんですけど、
やっぱりびっくりはしますよね。
顔の表情と言ってることが、僕も人のことは言えないと思うんですけど、
マッチしてないんですよね。全然マッチしてない。
でもだいたいですね、そういう方は別に嘘をついてるわけではない。
だいたい嘘つきそうな感じの雰囲気ではないんですけど、
アンケートとかを見てもだいたいもう
一番その方の方が良かったりするんですね。
でも私は人の表情を読むというのは
間違った行為だと
それはたまたまの体験じゃない感じがするんですよね。
大橋さんとかもよく似たようなことをおっしゃってて、
私そういう話を講師経験が多い人には
必ず耳にするんですね。
だから人の表情を読むってのは
本当ナンセンスだなっていうのを
まず普通にですね。
別にグッタバイオスとか関係なく
そうなんだと。
それまでの私が知っていた表情の読み方というのは
全部が全部間違ってるってわけじゃないんだろうけれども
少なくとも講師として出るとか
人前で喋るとか言った時に
考えちゃいけないことなんだなというのを
思ったんですよね。だってどう見ても
怒ってるようにしか見れないんで最初からね。
でも考えてみると最初からだということは
その人はそういう表情をする人なんだぐらいな感じに
思ったんですよね。
この話にしかも追加あってですね。
めちゃくちゃマイルドでどう考えても
この人は私を高く評価してくれてるだろうという人は
結構実は要注意だったりするんですよ。
これは要注意しても無駄なんですけどね。
原則的にその人はもう
それこそ内面と外面が違うぐらいに
思っていたほうがいいので
正面にものすごくにこやかで
講師をエンカレッジしてくれてですね。
ニコニコして
何かここっていうところには必ずうなずいてくれるっていう
絶対に素晴らしい評価だと思うじゃないですか。
でも良くて普通みたいなアンケートだったりするんですよ。
そういう人がね。
内容は2とかで
時間の長さだけ3普通みたいになってて
すっげえ厳しいわけですよ。時間の長さだって
5でもいいようなもんなんだけど
時間の長さは3普通ぐらいになってて
2、2、3、1、2みたいな5段階でね。
判断の限界と公式
首がもげそうなくらいうなずいてたりするんですよ。
だから逆もあるってことですね。
こっちがどうみてもこの人は
大丈夫だ納得してくれているっていう人が
そうだとは限んないわけですね。
この辺を加味して考えると
要は
公式をやっている人は
顔の表情を
自分が判断できる能力があると思ったら
多分ダメだろうということです。
僕はないなと思います。
自分にはね。多分全然ないという感じがします。
最初の頃のその経験でも
基本ないんだなという風に。
環境と私
ただトータルでね。トータルで
今日はだいたいいい感じだったとか
トータルで考えると
少なくとも最高だったという感じではなかったな
みたいなのは分かるようになります。
それはただものすごい漠然としていて
個々の人がどう思っているかとはほぼ何の関係もない
そういうことはあります。
でも昨日のお話も
全くそうだったんですけど
昨日は僕の用語ではなく
環境と私の話だったんですけどね。
僕の用語で今日はお話したいんですが
つまりこれはね
環境と私っていうことだと思うんですよ。
これはもう昨日のお話で
質問された方との関係では全然なく
私自身で考えてみて
つくづく思うことなんですよ。
私が人前でしゃべるということは
人と含めて
空間は環境なんですよ。
要するにこのポッドキャストにおなじみの
環境としての母親ですね。
ウィニコットの用語です。
環境としての母親ってのは
環境だってことなんですよ。
特に講師をするような部屋ってのは
多分自然物ってほとんどないと思うんですね。
屋外でやっているというケースもあるかもしれませんが
僕はほぼ屋内だったから屋根がありますね。
屋根があるわけじゃないわけですね。屋根があるわけですね。
屋根というのは環境としての母親なんですよ。
僕の目を通せば。だって僕から見れば
やっぱり屋根って上にあるじゃないですか。
上空から見れば下にあるけど
僕から見れば上にあるんですよ。
そしてやっぱり屋根というのは
雨露しのいでくれますし
少なくとも雨降ってきても大丈夫だし
今だったら夏か、熱中症になるのも
防いでくれるわけですよ。
さっきからクドクドとくだらんことを言っていると
思われるかもしれませんが、環境としての母親ってのは
そういう意味だと僕は思うんですよね。
それは確かに物理的な環境ではありますよ。
もちろん屋根は空想のものではない。
だけれども、同時に私にとってはやっぱり
ありがたいなって感じを抱かせるようなものでもあるわけですよ。
それは私の主観を通すからですよね。
たぶん、そこの下を
変な話ですけど
その屋根の下に雲とかが張っていた場合
私と同じような主観を抱くはずはないんですよ。
いや、雨露しのげてありがたいなとか思わないわけじゃないですか。
その同じ機能は持っていますよ。
雲だって雨に乗りたくはないだろうから。
でも、そうは感じないですよね。
そう感じることは永遠にないですよね、雲にしてみれば。
私にとっての環境としての母親というのは
そこにいる人もそうだし
そこにいる人は特にそうだし
机とかもそうだわけですよ。
公園台はもちろんプロジェクターも。
人工物はおよそそうですね。
私の利便を図ってくれているわけだから
特に私は講師として行っている場合
水とか置いてくれているケースもいっぱいあるわけじゃないですか。
さっきのように私は公園中は出せませんでした。
あ、寿司を置いてくれるケースまであるわけですよ。
だからそれは全く私のためにやってくれているわけですね。
これをウィニコットが使用できるようになるという言い方をしていて
先日も言いましたけれども
使用できないと
その人は引きこもるという言い方もするんですけれども
いずれにしても環境というものが完備されている。
完備ってよく言うじゃないですか。
環境が完備されているわけですよ。
アメニティみたいなものですよね。
私たちはその完備されていないところに敏感なんですよ。
私はある種の心理状態にある人は
デリケートであるとか感受性が鋭いという話をされるじゃないですか。
それはその通りだと思うんですけど
それはその人の能力でもあるし個性でもありますが
能力でもあるし個性でもあるんですよ。
何かに気づくんだから。
気づきやすい。
または私が気づけないようなもの。
気づくわけだから。
だけれども同時にそれは環境の不全というものに対して
ストレスを受けやすいという意味でもあるんですよ。
ここら辺が昨日のお話の中での僕が考えていたことなんですね。
環境の不備というものがあるとき
我々は気づくんですね。
だから環境としての母親というものは
環境であってくれないといけないというふうに思うわけです。
なぜ思うかというと
環境の不備によるストレス
これが対になる言葉なんですけど
対象になってしまう。
というかその前に環境が不備があった。
例えば何でもいいんですけど
雨漏りはダメだな。
そんな経験ないから。
パソコンとプロジェクターがつながりませんとか
あるじゃないですか。
あると思った。
線をつないでも映ってくれないとか
外部モニターの認識されないとかあるわけですよ。
最近なくなってきたかな。
HDMIのケーブルがないとか。
これも環境の不備ですよ。
ここに気づきやすいというのは能力ですよね。
だってHDMIというものを知りませんという人は
気づきようがないですから
これに気づくというのは能力なんですよ。
同時にしかし気づきやすい人ほど
ストレスを受けやすいですよね。
つながらないということに
映そうと思わなければ
つながらないということに
結局気づかないままということもあります。
何の話をしているかというと
ここに評価の厳しそうな顔というものも
環境の不備として
私たちは認識し得るということなんです。
おそらくよく似た感じを抱くと思います。
すごく困ったと思えばですね。
HDMIのケーブルがないと
今日はもうスライドが映せなくて
公演できないんだよってなった時と
ものすごい怖そうなおじさんの顔を見た時は
私たちが受けるストレスは
酷似していると僕は思うんですよね。
酷似していると思うというところで
納得いかれていないかな。
結論
立ってみるとそういう感じを受けるんですよ。
なんかもうやべえみたいな感じ。
似てないって僕は言いたいわけですよ。
本来HDMIのケーブルがそこにないとか
つないでも映らないということと
怖いおじさんの顔がありますということは
全然違う出来事だと言いたいんですよ、私は。
でも私のストレスというものを通してみると
これの内容がそっくりになるということは
映らないとかHDMIのケーブルがないとか
おじさんの顔とかは全部僕の外部にあるわけですね。
そしてその2つは全然違う事象ですね。
肩やケーブルがない、肩や怖い顔している。
全然違うじゃないですか。外部にあるんですよ。
外部にある間はそれはただの環境なんですよ。
だけど私がそれを似たものだと感じているということは
それはその中の一部の出来事は
内部の話になっちゃったわけですよね。
どっちも私にとっては同じようなストレスだというのは
環境としての母親がうびだからなんですね。
これは私の内部の問題であって
外部にそういうのはないんですよ。
ここが僕はウィニコットがすっごく強調した点だと思うんですね。
で、その内部に入ってきたから
私のストレスという共通点が浮かび上がってくるわけじゃないですか。
この時の私のストレス感というか恐怖感といいますか
とにかくダメだ、やばいという気持ちが非常に
私が生まれた時、生まれた頃に
普通に恐らく思い起こさせているんでしょう。
というのが精神分析なんです。
つまり、私が環境としての母親にすっかり依存しきっていた頃
ゼロ歳ですね。ゼロ歳でいいと思う。
ゼロ歳10日とかゼロ歳1ヶ月とかね。
すっかり依存しきっています。
まだ自分というものが何だかもわからず世界と一体になっていて
しかもその世界はお母さんだと思うんですね。
自分というものが何だかもわからず
世界と一体になっていて
しかもその世界はお母さんだと思っています。
世界はお母さんじゃないんだけど
お母さんと接触している時間が長いんで
世界はお母さんだと思っていますと。
お母さんというものと自分というものが
はっきり別れるという意識が全然なくて
べったりくっついていて
境界線も曖昧ですと。
言った時に、この環境としてのお母さんが
いや、外に遊びに行っちゃって
あなたのことを忘れてしまいました。
大問題じゃないですか。
これ大問題じゃないんですよ。
別にそんなことがありあってもいいわけですよ。
よくないのかもしれないけど
例えば私がですね
4歳の頃には現にそういうことがあったわけで
別に母遊びに行ったわけじゃないんだけどね
どっか用事があって行ったわけですよ。
多分買い物とか。
で、子供はそれがわからないので
お母さんの事情なんてわからないので
つまり環境の場合に事情ってないから
そうですよね。
HDMIのケーブルがない時に
取り乱す公園の方もいらっしゃると思うんですよ。
なぜないんだ。
ないのには事情があるわけじゃないですか。
場合によってはただ用意するのを忘れたということも
あるかもしれないじゃないですか。
それはダメかもしれないけども
でも用意するのを忘れるということはあり得ることですよね。
たまたま赤ちゃんが
すごくその時一緒にいてほしいんだけど
そんなこと母親は気づかないので
どっか遊びに
遊びにはいかない。
買い物に行ってしまったということが起こるわけですよね。
でもそれは母親の事情ですよね。
この時に要するに母親という
なんつーんですかね
母親という人は環境じゃなくて人になっちゃうわけですね。
で、私たちは不備の時にそのことによく気づくんですよ。
環境が私の面倒を見てくれない時に
よく気づくんですよ。
環境が私たちに手を回す余裕がない時に
それに気づくんですね。
昔は不備が多かったと思うんですよ。
今は減ってきています。
でも
準備をいっぱいしていれば
不備ではないとは言えないんですよ。
例えば過保護とか過干渉って言うじゃないですか。
介入が過剰になるという不備もあるわけですよ。
だから私はお寿司の場合は
ペットボトルがある場合は
ここ、環境は大事なんですけど
気づきにくいほどいいわけですよ。
これジェンダーとか作趣味の話になってくると
気づきにくいほどダメだろって言われるんで
ここですごく話が逆転しやすいなっていうのを
僕はいつも意識させられるんだけど
気づかないほど環境はいいわけですよ。
で、気づくということは
環境に気づかないほど
気づくということは
そこに不備感が少しあるから気づくんだと思うんですよね。
気づきやすいと思うんです。
不備が全くなくても気づくんだけど
気づきにくいんですよ。
不備があればあるほど気づきやすい。
これはさっきのケーブルがない問題みたいなやつですよね。
ケーブルがないときだと気づくんですよ。
あった場合、あって当たり前な感じがするから
気づきにくいんですよね。
ケーブルなんかがあるかないか結構気にしてるから
あっても気づくけど
椅子とかはあって当然だから
あるぞっていうことにすごい気づかないじゃないですか。
でも一切椅子がなくて
しかも座って聞く講座だった場合
すごい気づくと思うんですよ。
異常な感じがすると思うんですよね。
これがつまり環境の不備といった形
いった表現で示されている事態です。
だから単位のない話ではあるんですね。
環境の不備だよっていうことに我々は気づきやすいと。
でもそれに気づくのは
私たちの内部の問題だからなんですよ。
単なる環境じゃなくて
環境としての母親だからこそ
子供はそれに過敏になるわけですよ。
環境の不備と内部のストレス
母親いなくなると
事実上自分はいなくなるも同然なので
そういう絶滅の恐怖とかいったりするんだけど
そういう恐怖に怯えるわけですよね。
その恐怖を
かすかですよ
連想してしまうので
ケーブルがないとか
おじさんが怖いとかいうのが
それを思い出して
俺絶滅するんじゃないだろうかという危惧にとらわれて
とても恐ろしくなるので
とても不愉快なんですよ。
で、ケーブルがないのは
まあ事情があると言いました。
お母さんが買い物に行くのも
もちろん買い物に行くんだから事情がありますよね。
それと同じで
おじさんが怖い顔をしているのも
おじさんにしていれば
ちょっとこれは失礼かもしれないけど
おじさんの事情なんですよ。
いや、俺こういう顔しかできないからみたいな。
しょうがないじゃないですか。
私だってこういう顔しかできないわけですよ。
私がしているような顔ですよね。
みんなそうなんですよ。
だから、まず
そういうことが
分かってくるということがですね
結局、自立って話になっていくんだけど
分かってこないと生きていけなくていいよね
っていうことなんですね。
環境には不備があるよね。
そういうことなんですよ。
だからグッドイナフマザーって言うわけですね。
環境と事情
環境はパーフェクトではないと。
甘美って書くんだけど
環境はパーフェクトじゃない。
なぜなら
あなたのためだけに
環境が整備されているわけじゃないので
で、そのことに
生後10日とか1ヶ月とか
1ヶ月で
4歳児とかだと傷つくんですが
傷つくんですよ。
それがトラウマっていうものの
累積のトラウマになるっていう言い方を
ウェニコットあったりはするんだと思ったんですけどね。
とにかくトラウマになるんだけど
大きくなったら
それはトラウマにならなくていいはずのことじゃないですか。
だってそれは環境側には
実は事情があるわけですよ。
環境整備してるのは人だから。
だから先ほど言ったように
人工物って言ったんですよ。
屋根は雨漏りって名前で
僕は経験ないですが
研修施設の雨漏りっていうのはないですよ
っていうことですが
それは雨漏りだってするかもしれないんですよ。
作ったものなんて屋根ってのはね
完璧な屋根とかっていうのはないんで
だからやっぱり
暑すぎるとか
スキム風が入るとか
最近はあんまりないですけどね。
そういうのも
いずれにしても
あとあれですね
ちょっと空気が匂うとかあるわけじゃないですか。
そこに例えば
空気清浄機が置いてあるんだけど
作動しませんとかね。
そういうことがあるわけです。
つまりグッドイナフだということなんですよ。
そういう不備はあるけれど
それは仕方ないというか
不備があってこそ
環境としての過保限なんです。
なぜなら人間には事情があるからです。
ですが傷はつくんですよね。
子どもの場合。
そして大人でもそこにショックを受けた時には
子どもの時の傷つきを連想してしまって
とても嫌な気分になります。
その時に私たちは
いつも同じなんだけど
私たちは環境としての母親を求めているんですね。
求めていなければ
いなくなって傷ついたり
絶滅の危惧なんて抱くはずがないですよね。
いてもいなくても
全然自分やっていけますというのであれば
絶滅の恐怖とかに囚われるわけがないわけですよ。
だからここは切実だということなんですよ。
赤ちゃんにとってはそれは切実ですよ。
たとえお母さんが1時間いないだけでも切実なわけですね。
だけれども
そうだからといって本当は絶滅はしないし
死ぬこともないんですよ。
私なんか死んでないから
つまり母親の環境は
完備ではなかったに違いないんですが
だからといって死んだりはしてないわけですよね。
だからやってこれていると。
そこに特に不備が起こったとき
私たちは超自我モードと
この番組でおなじみの状態に入ると僕は思うんですね。
これは必ずしもどっかでミニコットが言ってるんじゃないだろうかと思って
今探しているんだけども
そのものづまりがなかなか出てこないんですよ。
彼は超自我的な概念をあんまり振りかざしてないというか
そういう人なんで
ということもあると思うんですよ。
ただ僕はその傷つきっていうものを考えたときには
必ずこの問題が起きてる気がするなという気がするんですよ。
だってほらHDMIのケーブルがありますって書いてあって
ないと絶対怒り出す人っているわけじゃないですか。
この怒りですよ。
超自我というのはやっぱり怒りというものがすごく連想されるので
この環境の不備には怒りを
赤ちゃんがお母さんのおっぱいが何か不備で
私が思い描いている通りのというか
私が望む通りのというか
私が求めている通りのおっぱいじゃないからと言って
泣き喚くのとこれは同じだって思うんですよ。
連想させるものだから。
環境が完備されてなければいけないのに
されてないじゃないかって怒っているときの心理状態は
この赤ちゃんにとっての
私このままじゃ生きていけないからって言っているのと
多分等しいそういうものを連想させて
おそらく被る部分の多い情緒的な恐怖
そういったものなんだろうと。
評価と恐怖の心理状態
それとよく告示しているのが評価のさっきの話なんですよ。
怖いおじさんの顔とかなんですよ。
多分。
赤ちゃんにしてみればニコニコしているままがいい。
例えばそういう感じ。
いつでもニコニコしていてください。
でもお母さんはそうはいかないじゃないですか。
行く人もいるかもしれないけど
やっぱり四六時中ずっと何があろうとニコニコっていうわけには
なかなかいかないと思うんですよね。
やっぱり事情があるわけですよね。
おじさんも怖い顔をしているのには事情がある。
だけれども後援者の方は環境を求めている心理状態が
強ければ強いほど
環境としての母親
みんなこう聞いている人はみんなニコニコして
みんな首もげそうなくらい頷きまくってくださいよっていうのが
求めているところなのかもしれない。
そうするとそこにむすっとした人がいる場合
その人が内心どう思っていようと
どれほど高く評価していようと
やっぱり後援者は泣いちゃうわけですよ。
赤ちゃんなんて。
環境としての母親が環境として振る舞ってくれないわけですね。
人になっちゃってるってのはそういう意味なんです。
環境になってない環境には不備があって
それに対して何でもすっとしてるんだっていう人はいないと
僕は思うんだけど
なんでここにHDMIのケーブルないんですかっていう
そういう心理状態とおそらく同じような状態になると思うんですね。
だから介入というものが怒りに感じられるっていうのは
そういう意味だと思うんです。
介入っていうのは
例えばここがちょっと先生そこのところ分かりにくいんですけど
っていうのに深く傷つくみたいなね
ぐさっとくるっていうことはあり得るってことなんですよ。
それはちょうどお母さんが幼児に対して
本当はそういうつもりはないのかもしれないんだけど
例えば図工の絵とかでよくこういう話出るんですよね。
出るっていうかこういう話読むんですよ。
それこそさっきのアダルト・チルドレンみたいな本でよく出てくるんですよね。
あなたこの空の色ちょっとおかしいんじゃないみたいな
そういうことを言うと子供の時すごく傷ついたみたいなことになるわけじゃないですか。
お母さんとしてはいやだって人としてね
一つがつまり普通に事情が彼女にはあって
いや空の色っていうのはもう真っ青じゃなきゃ嫌なのみたいな
そういう事情が普通にあるのかもしれないじゃないですか。
別に絵描きとかじゃないわけだ。
教育者でもないし専門家じゃないからってことなんだけど
だけど子供はもうすごく傷ついたみたいな
そういうことばっかりお母さんは言ってくるみたいな
こういうことをですね
公演中にその人は思い出してるかもしれないですよ。
意識はしてないと思うんだけど
先生その説明ちょっとわかりにくいんですかっていうのが
さっきのお母さんのその空の色を指摘されたみたいに
あなた環境だと思ってたのに人だったんだみたいな
そっと血の事情を振りかざしちゃうんだみたいな
そういう恐怖と怒りに包み込まれていくんですね。
深刻な場合はね
HDMIここになかったらもう公演できませんよみたいな
私そういうところでの公演はもう無理ですから
とか言って帰っちゃう人もいるかもしれません。
いるかわかんないですけどね。
見たわけじゃないんで。
でもそういうことをおっしゃる方だっているかもしれないじゃないですか。
その時の心理状態は昔々もしかするとですね
もっとひどいケースで
空の色をちゃんと好みの青で描かなかったら
親父がぶっ飛ばしたとかそういうね
これも環境の不備なわけですよ。
褒めてくれてもいいはずなのに
全く違うものが返ってくる。
しかも大体環境の不備が起こっている時は
両者が怒るというケースを持っているわけですね。
お母さんの方だって
いや私だって忙しいんだからあなたの世話ばっかりしてられないのよって
言うじゃないですか。
そういうことって言うでしょ。
これは環境を当てにしていた子供の側からするものすごく
え?って感じのセリフですよね。
いやだってお母さんって私の環境なんじゃないの?みたいな。
それはさっきも言った通り
ジェンダー問題ってありますけど
これはお父さんだって同じだということです。
子供は環境として周りを使用したいと思っているというか
それが当然だと思っているのがある意味健全なんですよ。
これを一時アルシシズムとか一時愛と言っていて
この一時とついている殻には本能だから
これは満たされないとダメなんだよっていう
そういうニュアンスがあるわけですね。
一時愛というのは。
だから第一次、私たちが生まれ持ったものとして愛を求めている存在
これを一時愛って言うんですよね。
バリエットが。
そこにそうじゃないものが返ってきたのでは
両者の怒りがそこにドーンとやってきて
環境に穴が開いちゃうわけですね。
いいおっぱい吸いたいんですというとき出ませんみたいに
出ないのはしょうがないんだけど
だから出ないっていうのがある意味
怒られているみたい。
恐らく赤ちゃんには感じられる。
怒られているでは済まないですよね。
存在が否定されているみたいに感じる。
それがもう少し大きくなると
お母さんこの96点取ってきたからって
愛を求めるわけですよ。一時愛でね。
そうするとなぜ100点じゃなくて4点足りないのみたいになると
怒られてるって感じがしますよね。
それに対して子供の側は非常に理不尽な目になったので
怒りたくなりますよね。
こういう風に環境が
環境としての母親が不全を起こしたときに
私たちはすごくお互いが超自我的になって
相手をこう相手に
端的に言って酷い目に合わせたくなると
そういうことが起こるんだろうと。
これがケーブルがないというときにも
環境への求め
恐らくほぼ全く同じような心理状態になるんだろうと。
これは昨日倉園さんに
そういうときにどう考えるかって話をいただいて
私が考えたことなんですけど
だから私たちはここで多分多くの人が飛躍を感じるんですが
環境になろうって話になるんですよ。
環境としての母親になりましょうねって話なんですけど
つまり僕らは環境としての母親を求めているわけじゃないですか。
赤ちゃんが求めるのはごく当然、それは本能だから。
4歳児がやっぱり求めてしまう。
場合によってはもう50歳の赤ちゃんが
人前で講演をするっていう方までそれを求めていくと。
どれほどこれは激しく求められているものなんだろうって考えるわけですね。
HDMIのケーブル
HDMIのケーブルないのかっていうことが
そういうものを見たわけじゃないんで今架空の話してるんだけど
あるいはむすっとしたおじさんはにこやかであってほしいとか
無理な要求ですよね。
そうまでして
環境としての母親というものを渇望している私たちは
実は環境としての母親になれるんですよというか
なってるんですよっていう話を
昨日倉園さんはしていたと私は思ったんですね。
もうちょっと違う文脈で違う言葉遣いで違う話なんですけど
それはファクトリーに入って体験してほしいと私は思ってるんですね。
無料さんって無料体験できるんで。
環境としての母親に私がなれるというのは
例えばですけれどもHDMIのケーブルがないんだったら
こっちのUSBを使ってやれば自分が環境としての母親として
おころびをですね。
酔うならばおころびをすべくこうやって
酔うならばおころびをすべくことができるわけですよ。
仮に有線がなければ無線にするという
それこそ技術を飽きしてもいいわけですし知識か
それすらなければスライドなしでしゃべってもいいわけじゃないです。
こうすることによって自分が求めていた環境としての母親を
自分で別の形で環境として振る舞うということができるんです。
環境の側にもあることができるということですね。
私はこれが無敵だというのは本当だと思うんですよ。
僕は環境って無敵だと思うんですよ。
敵がいるのはある意味環境対私になってしまった時の私の側なんですよ。
こういう時は非常に母親に包まれている子供を客観的に見たら無力じゃないですか。
つまりそういうことが形になってしまったら
私たちはすごく自分に対して頼りないなという印象を抱くのは当然だと思うんですよ。
ちょっと厳しいおじさんに厳しい顔をされただけでももう怯むみたいな。
でもそのおじさんに一番必要なものを提供するというのは私ですよね。
だから子をつけてくれるわけですから。
つまりそのおじさんにとっては私は環境に慣れているわけじゃないですか。
このことに目線がシフトすれば環境の不備というのは何ら問題じゃなくなっていくんです。
環境の不備というものをケアできるというか、環境として振る舞えば
環境の不備と恐怖
それももうすでに私にとっては不備ではなくなるから不備そのものがなくなっていくという
そういう視点を移すんですね。
多分それがメニコットの文脈でいう自立っていうことなんですよ。
環境として自分だけが振る舞えるって話ではないんですよ。
そこには他のものがあってそれらと一緒になって自分は環境になれるんだけれども
そういう状態でないところってないじゃないですか。
私が何の助けも借りられない条件って非常に珍しいと思うんですね。
宇宙飛行士で月にでも行けばそういう条件に近いところに行っちゃうんですけど
そういうところは自分だけが振る舞えるって話ではないんですよ。
普通に生きている状態ではほとんどの場合、環境の側に回ろうと思ったらですね
自分の助けになるものはそこにいっぱいあると思うんですよ。
だから環境としての母親になれますという体験を
その渇望している瞬間に逆転させることができるということに気づけば
自分がどんなに危険な状態にあるかを気づいていない人はいないと思うんですね。
その渇望している瞬間に逆転させることができるということに気づけばですね
人前で話すなどということはなんてことではなくなる。
それはだから環境の不備というのが恐怖の原因だったわけだから
そこに手当てをする、僕はそれを自由って思うんですけどね。
その環境の不備をほころびをつくろう自由が自分にあるという感じを抱いているんですけれども
自由と環境
そういう感じになればですね、自分は環境としての母親になれるので
それがとても欲しかったという、それが手に入らない恐怖というものは
全く縁がないものにできる、こういうお話だったかなと
昨日のお話はグッドバイブス編でした。